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12/31/2006

小説とは関係のない休日(いよいよ年末)

12月30日(土)
小説講座の事務所は、1月8日まで、冬期休暇です。

そろそろ年末らしく、大掃除に買い物。毎年、大掃除ができなくても、どうしても「おせち」を作りたい私は、食材の買い出しに走る。予算は5千円ほどだから、たいした物は入れないのだけど。やたらチマチマと品数が多いのが好きなのである。

夕方、疲れ果てて、ちょっと寝てしまう。テレビの番組録画もすっかり忘れてたので、途中から「チャングムの総集編」と「有頂天ホテル」、時々お笑いという感じで、切り替えつつ見る。そのまま深夜も映画など見て(リチャード・ギアがけっこう好き)、めずらしく2時まで起きている。

12/30/2006

小説とは関係のない休日(生徒からの受賞連絡)

12月29日(金)
小説講座の事務所は、1月8日まで、冬期休暇です。

今週、専攻科のMさんから連絡あり。
「日本児童文学者協会主催 長編児童文学新人賞」の佳作に入賞したそうな。めでたい。

Mさんはけっこう忙しい仕事をしながら、ずっと小説を書き続けていた生徒さんで、専攻科もたしか5年目。ようやくのデビューで、私もかなり嬉しい。たしか長編作品ということは、たぶん9月に読ませてもらった修道士か何かの作品である。たしか娘さんが成人したくらいなので、それなりの年齢の女性なのだが、作品は少年ぽい雰囲気の小説が多く、ファンタジーとか冒険小説のような作品が多い。仕事に創作に忙しい毎日だろうに、スゴイなあ。うちの生徒さんたちって、ほとんどみんな社会人なんだけど、やっぱエライよ。

この作品、どうもその時、丁稚どんに「これって、児童小説じゃないの?」と言われて、この賞に応募することを思いついたらしい。長年、なかなか受賞しなかった人が応募先を変えた途端、すぐに受賞するという例って、けっこうあるんだなあ。何にせよ、めでたい。この調子だと、来年は、何人か確実にデビューできそうだなあ。年末年始だけど、きっと今頃、生徒の皆さんは作品執筆にがんばってるんだろうなあ。

とにかく年末のぎりぎりのメデタイ連絡。わーい。来年もがんばろー。

12/29/2006

小説とは関係のない休日(たまには忘年会も)

12月28日(木)
小説講座の事務所は、1月8日まで、冬期休暇です。

昨日まで仕事でバタバタしていたので、今日から本格的にお休み。といっても、「まだ年賀状が!」 むろん大掃除どころか、平常復帰さえできてない我が家。今頃、年賀状を買いに行く私って……。まあ、昨年は喪中だったので、まだ買えるだけいいのかも。

夕方、中学時代の友人とナンバで待ち合わせ。中学の時の「生徒会」仲間の忘年会である。北海道で某製薬会社の課長サンをやっているSくんは「生徒会長」で、某商工会議所で働くKくんが「副会長」。私は「書記」である。Kくんは、私の自宅からわずか1キロの所に住んでいるのだが、年に一度、Sくんが帰省する機会にしか会わない。あまり近くに住んでいると、とくに会う理由がない限り会わない。まあ、一番よくしゃべるのがSくんで、Kくんが「ツッコミ役」だから、私はただの「笑い役」だしな。

Sくんが「すき焼きが食べたい」というのを、私が反対して、結局「しゃぶしゃぶ」に行く。(ちなみに、北海道には「ラムしゃぶ」というのがあるらしい)
小学校の時から「口から先に生まれた」と先生に呼ばれてたほどの口達者で、超社交的なSクンは、なにせ友達が多いため、帰省しているあいだ中、毎日アポがあるらしい。忘年会に新年会、連日、連チャン(さぞかし日頃はその特技を活かして、医者相手に優秀な営業ぶりを発揮していることであろう)
「オマエ、また連日、飲み会?」
「一件だけなのは、今日だけやな。今日はオマエらだけや」
「今日って、おまえ、さっき飛行機で着いたばかりなんやろ? 昼まで札幌におったくせに」
あいかわらず元気な男である。

そんなわけで、今年も3人でアホな話して、ゲラゲラ笑って(そういや中学の時も生徒会室で、連日ただアホな話して笑ってたような気もするが)深夜解散。また来年。

12/28/2006

年内、最終出勤

12月27日(水)
小説講座の事務所は、12月22日〜1月8日まで、冬期休暇です。

休暇中なのだが、またまた出勤。といっても、明日から事務所のある「大阪NPOプラザ」そのものが全館休館になり、シャッターが降りて、完全に閉鎖状態になるので、やりたくても仕事はできないのだった。

というわけで、本日は、朝の9時からバタバタとお仕事。資料に追われて、書類の山もかたづかず。昨日に続き、夕方、またOさん来館。結局、9時半過ぎまで残業。大掃除もままならないけど、人がほとんどいなくなった大阪NPOプラザを後にする。

12/27/2006

大阪市立図書館は、年内は今日までです

12月26日(火)
小説講座の事務所は、12月22日〜1月8日まで、冬期休暇です。

休暇中なのだが、むろん仕事はかたづいていないので、せっせと出勤。できれば残業したいところなのだが、他館からの取り寄せした図書が届いているので、自宅近くの図書館の閉館時間に間に合うべくあわてて帰宅。7時前ギリギリに駅に着く。貸出手続きをしたのが、6時58分。大阪市立の図書館は、今日まで。なにせ年末年始は、図書館も閉まってしまうのだが、この本はどうしても借りておきたかったのだった。ギリギリセーフ。この年末年始、わずか1週間で何十冊も読みたい本があり、むろん読めるわけがないのだが、それでもこれだけは読まなくちゃね。

12/26/2006

小説とは関係のない休日(メリークリスマス)

12月25日(月)
小説講座の事務所は、12月22日〜1月8日まで、冬期休暇です。

バタバタしたクリスマスイブだけど、ちゃんとサンタクロースも深夜に来たらしい。世の中のサンタクロースの皆さん、ご苦労様。朝から子供たちは大騒ぎ。息子は、5年生までしっかりサンタを信じていたようなのだが、さすがに昨年からは妹たちの手前、何も言わずに黙っている。もらえるものがもらればよろしい。ところが、よく見れば小3の娘たちも、微妙に「もらえるものがもらえるから」という態度。男の子と違って、女の子はなかなかしっかりしている。

しかし、サンタはあくまでもサンタであるので、うちはママからも、パパからのプレゼントも、それはそれで別にあるのであった。世の中のサンタクロースの皆さん、本当にご苦労様。

12/25/2006

小説とは関係のない休日(クリスマスイブに熊野詣)

12月24日(日)
小説講座の事務所は、12月22日〜1月8日まで、冬期休暇です。

勝浦旅行中。
息子は、朝5時に起きて、またもや2度も温泉に行く。よほど「洞窟温泉」が気にいったらしい。しかし、たった1泊で「8回」も温泉に入る元気は、私にはないぞ(と言いつつ、結局、5回入ったが)

朝食を食べてから、もう一度ゆっくり温泉につかり、それから駅前に。荷物を預けて、20分ほどバスに乗って「那智山」へ。「那智の滝」前の停留所で降りて、滝あたりでうろうろ。ハイキング好きの双子の娘たちは、なぜか「滝」が好きなのだが(「箕面の滝」も好きらしい)、「三本足のカラスちゃん、めっちゃかわいい!」とお守りを購入。

昼、「梅うどん」などで昼食。裏参道から「那智山青岸渡寺」へ。いわゆる西国三十三か所めぐりの「一番札所」で、重文指定の桃山建築。こちらでは義母があれこれ祈祷など頼む。隣の「熊野那智大社」では、正月準備か、大きないのししの絵馬が飾られている。それにしても、今日はほとんど人がいないなあ。やっぱ、クリスマスイブなので、みんなそれなりのところに行くのかなあ。4時過ぎの「くろしお」で、8時に大阪の自宅に戻る。

12/24/2006

小説とは関係のない休日(南紀勝浦へ)

12月23日(土)
小説講座の事務所は、12月22日〜1月8日まで、冬期休暇です。

祝日。今月、棚ボタで「旅行券10万円分」をゲットした我が家は、温泉旅行である。
旅行券の持ち主である夫が、義母と子供たちをつれて一泊の温泉旅行にでもと言うので、「日本海でカニ! または広島でカキ!」と主張したのだが、うちの子供たちはカニには興味がないらしく、夫もカキは食べられない。となると「南紀」だな。白浜なら、夏によく行くのだが、せっかくだから、串本か勝浦はどう。

というわけで、特急「オーシャンアロー」で勝浦まで行く。勝浦は、カニでもなく、カキでもなく、マグロである。なぜか「ファミリーで勝浦なら、やっぱ、『ホテル浦島』でしょう」と実家の母に言われたので、わざわざ予約したホテルを変更。せっかくなので、うちの両親が新婚時代に行ったという「洞窟風呂」に入ることに。問い合わせてみたら、ファミリー旅行パックだと、6人家族なのにものすごく安いのであった。

この夏に、かなりいいホテルに泊まったのだが、高齢者の泊まり客がほとんどで、静かで感じはいいのだが、小さな子供連れだとそういうホテルは親の方はかえって気を使って、全然くつろげない。ファミリーならファミリー向けの方がやはりラク。私は、南紀の風景が好きなので、オーシャンアローに乗れるだけで充分楽しいんだが。

はたして子供たちは、港から「カメ」の船が迎えにくるだけで、大はしゃぎ。海の上の温泉なのであった。迷路みたいなホテルで、6つも温泉があった。波が打ちよせる洞窟温泉が気にいったらしく、子供たちは大喜びである。息子は、着いた途端、あちこち走り回って、たった半日で6つの風呂を制覇。彼は、よほどはしゃいで体力があまっているらしく、山頂風呂まで、四百以上ある階段をエスカレーターも使わず、その横の階段を走り上がって行ったらしい。ありあまった体力を消耗させるのがそんなに楽しいのか。やはりアホである。いや、それともダイエットをしなくちゃいけない体重で、ついエスカレーターを使ってしまう私がアホなのか。これで料理がうまくないなら、温泉でダイエットも可能かもしれないけど、まあ、まず無理である。

12/23/2006

バタバタとしつつ、事務

12月22日(金)
朝から小説講座の事務所。

来客あれこれ。午後、専攻科のNくん来館。Nくんの短編シリーズ「ほがらか4」が完成したので、一度目を通してほしいとのこと。例によって、人の意見を聞きながら何度も書き直すスタイルのNくん。それにしても、前作「ほがらか3」の作品指導をうけたのはつい先週。えらい早いペースである。といっても、短編だし、まだ「第一稿」らしく、かなり薄いけど。

本人の希望では、これまで書いた4編の短編をつなげて、250枚ほどの長編にしてコンテストに応募したいそうだ。ドタバタギャグ小説。たぶん可能だろう。けど、それだと全体を通して、何らかの「流れ」が欲しいところだしなあ。てことは、4作目だけじゃなくて、これまでの3作もちょっと手直ししないといけないだろうなあ。

で、私が思いついた2〜3のアイデアを言っていたら、急に、
「あっ、そうか! うんうん、わかった!」
とニヤニヤ、一人で納得。急にソワソワとしだす。たぶん自分の頭の中に、何か「こういうふうに書いてみたい」というアイデアが思い浮かんだのだろう。
「なんか浮かんだ?」
「うんうん、ばっちり」
ということで、さっさと帰って行った。何を思いついたのか知らないけど、たぶん何か思いついたんだろう。がんばれNくん。

しかし、作者の頭の中にあるものは、とにかく文字に書いてもらわねばわからぬ。一人でソワソワ帰る姿を見送りながら、なんだか、ふと妙な感覚を覚えたりする。小説を書かない私にはそれが何なのかわからないのだけど。

12/22/2006

大阪府立中央図書館へ

12月21日(木)
終日、図書館につき、小説講座の事務所には入れず。

あれこれ用事があって、調べものに行くヒマがあまりない私。しかし、年末年始は、図書館がお休みになるので、早めに行っとかないとね。

というわけで、本日は、終日、事務所をお休みして「府立中央図書館」へ。
事務所には、地下鉄通勤をしているので(土曜日で、講義の荷物が多い日などは自転車だけど)、「市立中央図書館」がある「西長堀」は地下鉄でたったの2駅。定期券の通勤途中だし、駅から徒歩1分と近い。また、自宅の近くの駅にも地域図書館があり、本の取り寄せもインターネット予約でできるから、わざわざちょっと交通の不便な場所にある「大阪府立図書館」まで行く必要はあまりないのだが、私はけっこうこの図書館が好きなのだった。なにせ静かだし、わりと空いてるし。3階には屋上庭園があるし。隣に東大阪市役所やカルフールがあるので、昼食も便利だし。うちからだと、自転車で20〜30分だし、丸一日過ごしてもあまり窮屈でないのがいい。

図書館でサッと調べものをしたいだけなら、半日くらいで済むけど、一日たっぷり時間がとれる場合は、座る場所もポイント。とくに冬の図書館は、暖房や空調が微妙に影響するから、それが快適かどうかが重要なのだが、府立中央図書館は、冬も夏もわりと快適なので、どこに座っても「しまった!」ということがないのがいい。図書館によっては、暖房が暑すぎたり、すきま風が入る席があったりするから。

まあ、この図書館は交通の便が悪いので、皆あまり行く機会はないでしょうが、図書館はせいぜい利用した方がいいよん。そりゃ、忙しい社会人で、時間をやりくりしてせっせと小説を書いている人ばかりなので、たぶん行きたくても行く時間がない人がいっぱいいるだろうけど、ま、なにせタダだしね。

また、必要な本を全部買えたらいいんだけど、買いたくても買えない本もいっぱいあるし。手持ちの資料だけでやりくりするクセがつくにはまだ早い(笑)

6時半頃までねばって、帰宅。本日の「収穫」はほどほど。午前中はよかったけど、午後からは今イチ。
それにしても、書店や古本屋や図書館は、まるで狩猟みたく、ねばっても収穫がある日とない日があるなあ。「運」というか、「縁」というか。

それにしてもパソコンの調子が悪い。うーむ。新しいのそろそろ買わないとなあ。

12/21/2006

そろそろ年末なのに

12月20日(水)
午後から小説講座の事務所。

うちの事務所がある「大阪NPOプラザ」も、なんだか年末っぽい感じになってきた。創作サポートセンターは、一応、12月23日から冬休みの予定。と言っても、仕事がかたづかないので、27日までは働いているだろうけど。ただ、28日からは「大阪NPOプラザ」が全館閉鎖になるので、強制的に冬休みである。郵便物も、全部、局ドメです。

それにしても、デスクの上はぐちゃぐちゃ。ちゃんと冬休みができるのかしらん。

12/20/2006

小説講座の事務所も、そろそろ年末

12月19日(火)
午後から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

丁稚どんが来て、専攻科の長編作品の印刷。事務あれこれ。プロ作家さんがいっぱい来てくれたりするので、やっぱり講義日は楽しいんだけど、事務作業ってコツコツ地味なもんなのよね。

ポストをのぞいたら、専攻科の生徒作品がひとつ届いていた。専攻科の次の締切は、1月9日のはずだから、かなり早い提出である。メールも届いていたので、本日来るのはわかっていたのだけど。「早めにチェックしてください」ってことだ。「長編だから、冬休みの宿題かなあ」などと話しながら、パラパラ見てたけど、これはちょっと難問かもしれない。うーん。とりあえず、パッと見ただけだが、なんだか「えらく、とっちらかってる」感じがするなあ。なんでかな。いや、まだ、全然読んでないんだけど。

ちょっと作業時間があまったので、丁稚どんが
「郵便局で、年賀状でも買ってきましょうか? まだ用意してませんよね」と聞く。
年賀状? そうだよなあ。でも個人的には、まだ2006年が終わることに納得がいかないんだがなあ。


12/19/2006

あれこれ仕事

12月18日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

今週は、弁当づくりがないので、朝、少し遅めに起きる。本日は、6時半。
午前中から外出。10時過ぎに帰宅。

12/18/2006

雨の日曜日、隣は空き地

12月17日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜、お休みです。

午前中どんよりとした重苦しい天気。午後から、また雨。
娘たちもようやく元気になったが、風邪が治ったばかりだから、どこにも出かけられない。夫は、朝から家のあちこちを掃除していた。掃除機をかける音がする。いつもじっとしていられないマメな男である。何か音楽をかけている。たいていはクラシックで、今日はストラビンスキーである。鼻歌まじりである。どうせ終日出かけられないのだから、今日は一日中、仕事部屋にこもっていつもりの私。まあ、家事はこなさないといけないけど。

掃除機をかけ終わったらしく、聴こえてくる音楽が変わる。ウィム・メルテンの「レトロスペクティブ(回想)」らしい。
うちにあるCDは、全部、夫のものである。たいていはクラシック。弦楽が多い。前衛ダンサーで振付家もやっているので、ダンスのイメージにあった前衛音楽も多い。実際の舞台は、若い作曲家の人に曲を提供してもらっているらしいけど。

この3〜4日で、隣の家はすっかり解体工事が進み、昨日すっかり更地になってしまった。かなり荒っぽい業者らしくて、あっという間に解体して、何もかもごちゃごちゃに、バイクやクーラーまで全部ひっくるめて、トラックにぐちゃぐちゃ乗せてもって帰った。あのバイクは、隣に住んでいた娘さんがずっと乗っていた薄い緑色のミニバイクだ。当人がいなくなっても、何年も庭に置きっぱなしでサビていたのであった。

今は、寒々しい土の上に、びしゃびしゃと雨が降っている。年が明けたら、どこかの不動産業者が新しい家を建てて、売り出すそうだ。いろいろと考えたら物悲しい風景なのだけど、そんなことは新しく住む人にはぜんぜん関係ない。近所の人たちも、来年には、きっとみな忘れていることだろう。

12/17/2006

小説講座は、2006年の最終講義

12月16日(土)
昼から文章教室「基礎レッスン講座」、夕方は「第10期エンターテインメントノベル講座」「小説専攻科」

3コースとも年内最終の講義。
まずは、昼の「基礎レッスン講座」、作品合評と創作実習。
先週、時間の関係で実習ができなかったので,家で書いてきた課題を提出してもらう.

このクラスは、初心者向けのコースだが、小説希望の人が多い。今回、また一人、家で「小説」を書いてきた人がいた。課題枚数が3枚だから、小説にまとめるのはなかなか難しい。小説のようなもの、である。うーん。やっぱ、まずは作文を書いた方がいいと思うがなあ。

前にも言ったけど、小説志望の生徒さんは、なぜか「私は、小説ならいくらでも書けるけど、作文とかエッセイは苦手」という人が多いのである。もちろん「ホントのことは書きたくない」ってのは「ホント」だろうけど、もう一つ、別な理由もあって、これが一番の理由なんではないかと思うのだが。

たぶん「作文は,自分でもヘタなのがわかるが,小説はうまく書けた気になる」のである。

どうも「作文」だと「ヘタなのが自分でもわかる」らしいのに、それが「小説」だとなんだかうまく書けた気になるらしいのだ。考えようによっては、「小説」というのはそれだけ魅力的で、とにかく書けただけで嬉しいものなのかもしれない。何にしても「その気」になって、書きはじめてもらうのが一番の近道だから、それはそれで、いいことなんだけどね。
(あ、今、ふと思ったんだけど、自分の文章力に自信がない人は、一度「作文」を書いてみれば、自分の実力がどの程度か自分でもわかるのかもよ)

とにかく、まったくの初心者の場合、細かいことを気にするより、「とにかく量を書く」という方がてっとりばやい。それだけで、どんどんうまくなるから、小説だろうが、エッセイだろうが、書きたいものを書いてもらった方がいいんである。たとえて言えば、泳ぎの練習の前に、とにかく水に慣れましょう、みたいな。そりゃ溺れても死ぬことはないんだが、でも、まずは水に慣れて楽しみましょう。

夕方は、小説講座。第10期のクラスは「ホラー小説の書き方」で、専攻科は「ユーモア系」の小説3編の作品指導である。この2人の講師のほか、今日は2人の講師が遊びに来られている。ロビーには、オトコマエのプロ作家が4人も(!)
考えてみれば、よだれが出そうなウレシイ光景なのだが、今日の私はそれどころではなかった。

ああ、専攻科のNクンが来ない。

本日の作品指導は3編だが、そのうちの一つが、Nクン「ほがらか3」である。しかし、講義開始の時刻になっても連絡がとれない。彼には、今週の火曜日に確認の電話をしているのだが、それでも心配である。他の生徒さんなら、なにも心配することはないのだが、なにせ彼には前科がある。前にも「あ−、寝てた寝てた。ごめんごめん」とノンキな声で、遅れてやってきたこともある。頼むから、電話連絡くらいしてよね。

遅れるだけじゃなくて、一度すっとばしたこともある。1年目の前期指導。前期の課題は短い作品なので、一度に何人分も指導をする形式なので、一人くらい休むのは仕方ないのだが、先生の対談形式なので,2人のプロ作家にせっかく見てもらうわけである。やはり欠席するのはもったいない。

でも、社会人向けの講座だから、急な出張などで都合が悪い人もいる。その場合は連絡をくれるようにお願いしているのだ。だから連絡なしで休むって人はめずらしい。さすがみんな社会人。ところが当日、なにも連絡がなかったので、まさか休むとは思わず、「なにか事故?」と思って、心配しながらケータイに何度も電話をしたら、講義終了間際、やっとつながって、
「あれえ、今日、指導でしたっけ。今、ボク、球場にいるんですよ〜。横浜!」
と、でっかい声がした。野球試合の真っ最中。あのさ、ナイターを見に行くならそれでもいいけど、連絡くらいはしろって何度も言ったでしょ!

そんな彼は、講義がない日にしょっちゅう間違えてやってきたりする(「お知らせ」はちゃんと印刷して全員に配っているはずなのだが、どうも全然見てないらしい)

そんな彼なので、「眠たくて寝すごしちゃった」とか、彼に限ってはそんなこと充分あるうるのだ。ぐぐう。

そんなわけで講義直前、イライラしてる私に、同じく本日指導を受ける予定のUさん(元7期生で50代、生徒さんのまとめ役)が、
「わしもケータイに電話したけど、出えへんな。ま、そのうち来よるやろ」
と言う。結局、講義がはじまり、誰もいなくなったロビーで、まるで動物園のクマのようにうろうろする私。ケータイにも出ないってどういうこと。来るなら来る、来ないなら来ないでいいけど、どうなるのかがわからん。困った。

結局、何度も電話して、やっと連絡ついたのが、6時45分頃。
「あー、今、走ってる途中です。着くのは7時頃かな」
と、ノンキな声。彼の家は市内なので、自転車なら20分ほどで着くはずである。専攻科では、今も最年少のNくん。悪びれない明るい性格がとりえだが、ええかげんにせえよ。

あれこれ余計な心配で、すっかり精神エネルギーを消耗した私。ぐったり。

そんなこんなで、余計な疲労を重ねていた私だが、おかげさまでどちらの教室でも無事講義が終了。生徒さんの評判もよろしく、講義後の飲み会、中華屋の店内も大賑わい。あとから別の作家さんも来て、作家さんの参加数も多い。生徒数が多いので、10期のテーブルに作家は2名。専攻科の方のテーブルにとわかれて、座ってもらう。

この秋から入学した10期生は、本人たちいわく「絶対、プロ志望!」らしいのだが、どういうわけか講師がいない日に限って、私に質問してくるので、
「毎回、せっかく色々なプロ作家さんが来るのだから、そういうのは直接、質問したら」
と言ってたのだが、実際にプロ作家が目の前に二人もいると緊張するのか、妙にモゾモゾしてるのが面白い。創作についての質問は、遠慮なく聞いていいよ、と言ってくれているのに、なぜか質問しにくいらしい。講師の著書も読んでいるはずなのに、聞きたいことはいっぱいありそうなのになあ。

ところで、ホラーはけっこう映画化されていたりして(角川ホラー文庫が書店でもとりわけ目立つというのもあるかもしれないけど)、ホラー関係の先生は、知名度も高く、いつも人気があるんだが、「ホラーの書き方」の講義では、たまにものすごーく嫌がる生徒さんがちらほらいる。わかりやすいレジュメを作ってくださっているのだが、「ホラーは描写が大事」というところで使われている例文(牧野修先生の小説からほんの数行だけ抜粋されている部分)を読んだだけで、気分が悪くなるという「デリケート」な生徒さんがたまにいるらしい。まあ、プロの書く文章がそれだけ「強烈」だという例でもあるのだけど。「ホラーは描写が大事」……はい、その通りです。

ま、うちの講座には「恋愛小説しか読んだことがない」という生徒さんもたまにいる。みんな案外、好き嫌いは激しい。とくにホラーというのは、好き嫌いが激しいのかな。しかし、あんまりにも「軟弱」なのもどうかと思うけど。いや、プロ志望じゃないんなら、別にいいけど。

やっぱり生徒作品でも、ホラーと官能小説は、とくに「文章力の差」が出る。どちらも「描写が大事」だからかもしれないけど。本人はがんばってるつもりかもしれないが、読んでみると「どってことない」と思ってしまう。残念ながら、生徒作品だと悲惨な結果になることも多い。

だが毎年、修了課題では、「でもしかホラー」という作品があったりする。
「あまり読んだことが無いし、とくにホラーを書きたいわけではないけど、ミステリーはトリックが思いつかないからとても無理だし、SFも苦手だし、ファンタジーは短編では難しいし、とくに書きたいものが思いつかず、とりあえずホラーを書いてみた」
という人。そういや、「話が途中でぐちゃぐちゃになってしまったからとりあえずホラーみたいな落ちにしました」という作品も毎年あるなあ。ま、面白かったら何でもいいんだけど。

にぎやかすぎて、うるさい店内。講師の先生たちは、生徒さんの質問にいろいろ丁寧に答えてくれたようで、結局、深夜12時近くまで。帰りに、まとめて会計を支払いながら、
「年内は、これで講義は終わり。よいお年を」
と、店長に言ったら、
「コレ、アゲル」
と、大きな青リンゴを1個くれる。
「ミンナ、ガンバッテルネ」

中国語なまりのある店長は、冬でも半袖。いつもぶっとい筋肉質の腕をむき出しにしてる。あのまま真冬も、原付をとばして「出前配達」に行く。なぜ、あそこまで暑がりなのかは今もナゾ。

店を出て、タクシーで梅田方面へ向かう作家さんたちとわかれて、駅まで少し走る。そういえば、みんな、どんな年越しをするのかな。


12/16/2006

子供の懇談会で、こてんぱん

12月15日(金)
私用にて休み。小説講座の事務所には入れず。

本日は、子供たちの個人懇談会。三人いるので、懇談も三回。面倒くさいが、義務教育は、子供の権利、親の義務なのである。仕事が忙しいので、同じ日にまとめてもらったのである。中1の長男は2時から中学校、小3の双子の娘は、4時から30分おきで懇談である。

そのうち重点課題は、やはり中学校のバカ息子である。娘たちは、まだ小学三年だし、毎年「友達も多く、元気よく、問題なく学校生活を過ごしています」と言われているだけだから、あんまり心配ない。クラス担任の先生と雑談しにいくような感じだ。だが、息子のはそうはいかない。成績がひどいのもあるけど、とくに問題なのは「忘れ物」なのだった。

彼は、小学校1年生以来、クラスで常に「忘れ物」でトップを独走。おびただしい忘れ物。なにせ「バカボン」なのである。だから、小学校の時から、懇談の朝はゆううつなのだ。だって、
「お母さんも、毎日きちんとランドセルの中をチェックしてあげてます? 忘れ物がないように、ちゃんとみてあげてくださいね!」
と担任に怒られるんだもの。

言い訳をさせてもらえば、いくら母親がチェックしてあげようとしても、
「ほら、明日、もっていくものは?」
「えー、明日? 何かあったんちゃうかなあ。たぶんあったと思うでえー」
「わからんへんの? れんらくちょうは? 宿題とか、持っていくもののこと、書いてあるはずやろ」
「それが、ないねんなー」
「ないねんなって、どこ? あるはずやろ?」
「それがわからんねんなー」
という感じ。まず最初から話にならないのだ。どうも「連絡帳」だの「プリント」だのをしょっちゅう学校に忘れて帰るらしい。アホである。だもんで、そもそも親も毎日何を持たせてやればいいのかわからないのだ。毎日、怒鳴りまくっても、本人はきょとんとしている。実に、ノンキな性格。あるいは、ただのアホ。

だから、母親がいちいち注意してやるにも限界があるのだった。
「この子は、楽しく毎日生きてるみたいやから、ま、それでええか」

そうよ。子供は明るく元気が一番。

とノンキに構えていたのは、低学年の頃だけ。さすがに高学年になると、やはり懇談のたび、担任の先生には、毎回、注意される。
「お母さん、ちゃんとしっかり見てあげて下さいね!」
息子がアホだと母もツライのね。

だから、息子の懇談日はゆううつである。

今までで一番怖かったのが、やはり3〜4年生の時の担任のY先生。年配の明るい感じの女性の方だったのだが、こういっちゃ何だけど、がっしりした体格にすごく短い髪型で、最初会った時、
「あれ、確か女の先生だったよね?」と思ったほど、「りりしくて男らしい」先生だったのだが、怒ると怖いので有名なのであった。
子供たちの間では、
「男の先生は、怒鳴ったら怖いけど、時間は短い。女の先生は、怒鳴ってもあんまり怖くないけど、時間が長い。Y先生は、怒ったら怖いし、しかもものすごーく長い」(とくとくと言って聞かせる主義らしい)
との評判である。教え方もたいへんうまく、人望もあって熱心ないい先生なのだが、それだけに存在感もあって、懇談の時も前に座っただけで、なんだかちょっと怖い。いや、実際、別に私が怒鳴られるわけではないのだが、なんだか怖い気が。いや、息子がこれほどまでに忘れ物が多くなければ、ちっとも怖くはないと思うのだが。

しかし、当人は平気。
「あーあ、今日は懇談や。誰かさんが、忘れ物多いから、またあの先生にママが怒られてしまうわあ」
などと嫌みを言っても、
「ほんなら、ボク、一緒について行ったろか。だってボク、平気やから。怒られても怖くないねん。だって、いっつも怒られてるやろ。だから、もう慣れてるねんな」
と言ってくれるのであった。そうなの、ありがとう。しかし、誰のせいで怒られてると思てるねん。

さて、中学校からは三者懇談である。

息子の担任は、音楽の先生。年齢は不明だが、40代後半から50代前半。これぞ音楽の先生という感じの上品な女性の先生。いつも冷静で、どんな冗談にもけっしてゲラゲラ笑ったりしない。資料をぺらぺらめくり、
「……全体的には、まあ、授業態度も真面目だし、とくに問題はないようですが、教科別に言うと……」
と、教科担任からのコメントを読み上げる。
「まず、国語ですね。……ああ、『忘れ物が多い』ようですね」
「はあ」
「それから、数学。ああ、これは『夏休みの宿題が未提出。未提出プリント多し。教科書忘れ数回』」
「未提出って」
「まあ、忘れ物でしょうね」
「ちょっと、アンタ! いいかげんにしいや」
先生の目の前なので、息子の頭をはたきとばす、なんてことはできない。
「忘れたのもあるけど、どっかいってもた。無くした」
「余計あかんやろ!」
「それから、社会……。ああ、これも『夏休みの宿題未提出』ですね」
「アンタ、夏休みの宿題、ぜんぜんやってなかったん?」
「やってんけど、もっていくん、ずっと忘れててん。ほんで、そのうちどっかいってもてん」
「アホやなあ」
「それから理科……『プリント未提出』それから『教科書は買いましたか?』」
「は?」
「どうも二学期中、理科の教科書がずっとなかったみたいですね」
「えっ? そうなんですか!? そんなこと一回も聞いてなかったけど!」
「うん。ゆうてなかった」
「それは、お母さんに言いなさい。なくしたんやったら、教科書買わないとあかんやろ」
「あー、それ大丈夫。先週、なぜか見つかってん! ホント」
「君、それ、理科の先生にちゃんと伝えときましたか?」
「あー忘れてたかも」
「ちょっと、アンタ! ええかげんにしいや。教科書がなくしてたなんて、ぜんぜん知らんかったで」
「うーん、そのうち、見つかるかなあ、思て」
「今、12月やで。9月からずっとなかったん?」
「まあ」
「ホンマ、ええかげんにしいや。ほんで、一体どこにあったん?」
「小学校ン時の、お道具箱の中」
「お道具箱? なんで、そんな中に教科書を入れてたん?」
「それが、わからんねんなー」
「わからんって、アンタ以外、そんなもん誰も触らんやろ!」
「そやねんなー」
「もう!」
「まあまあ、お母さん。それから、音楽は……『忘れ物』」
「ああ」
「体育は……あ、『忘れ物に注意』」
「うう」
「技術は……ああ、これは大丈夫みたいです」
「うん。技術は持ってくるもんがないねん」
「先生、この子、めっちゃアホなんです。どないしましょう」
「そうですね。定期テストでは、いい点とってる教科もたまにあるみたいですが。この理科なんか、中間では平均点よりも10点も上ですよね。期末は悪かったみたいだけど、ぎりぎり平均点はあります。ということは、『5』はありえないけど、『4』でもおかしくないんですね。テストの成績から見ても、せめて『3』くらいの評価はつくはずなんですが、ほら、これ、『2』がついてますよね」
「ああ」
「ってことは、考えられるのは、相当、忘れ物が多いってことですね。それで評価が下がってるんでしょう」
「はあ」
「そういえば、このあいだも提出する書類をずっと忘れてたので、とうとう彼に、家まで取りに帰ってもらったことがあったんですけど」
「はあ」
「その時も、わざわざ家まで取りに行ったのに、その書類を忘れて戻ってきましたからね」
「わざわざ取りに帰ったのに忘れたんですか?」
「どうも、途中で、忘れたみたいですねえ」
「ああもう、忘れ物は」
「相当、多いみたいですねえ。まるきり頭が悪いわけではなさそうですけど」
「小学校の時から、連絡帳すらしょっちゅう学校に忘れてくるんですよ」
「ま、中学校には連絡帳がありませんしね。本人の自覚がないと仕方ないでしょう。君、もうちょっと注意してね。中学は、内申書ってのがあるしね。わかってる?」
「はーい!」
「この人、授業態度は大変いいんですけどね」

てなわけで、やはり中学校でも、散々な懇談だった。

ひとつだけ、よかったことは、いくら子供に忘れ物が多くても、もはや「お母さんがよくよく注意して、きちんとみてあげてくださいね!」とは怒られなくて済むらしいことなのだった。中学校では、もはや母親は怒られないものらしい。ホッとした。だとすれば、これからは懇談のたびに、ゆううつになったりしなくて済むぞ(成績が悪いくらいはどうでもいいのである)

4時から、小学校へ行く。双子のクラス担任には、どちらも「とくに問題なし」と言われ、雑談をして帰る。しかし、なぜか手のかからない子、と、なぜか手のかかる子、というのは、いるものだなあ。

12/15/2006

時には文字ではなく,数字を読んでみたり

12月14日(木)
午前中、小説講座の事務所。午後から帰宅。

統計データなどを見るのがけっこう好きだ。なんとなく「数字」というものをながめるのが好きらしい。人口統計なども、なかなか見飽きない。昔、イトコの男の子が「時刻表マニア」で、時刻表さえあれば一日中飽きない、と言っていたが、いろんな統計データを見ているのもそんな感覚かもしれない。もちろん広告業をやっていると、こういうデータを役に立てることもあったのだが、とくに何の役に立つことがなくても、なんだか面白い。

平成17年、日本の人口は127,757,000人。人口増加率、平均1.1%。ただし都道府県別に見ると、1.1%以上の増加率を示す県はあまりない。10県もない。都市への人口集中というヤツですな。

首都圏の人口増加率は、ここ5年ほどますます高い。人口増加率が高いのは、埼玉、千葉、東京、神奈川である。この4つの県をあわせると,すでに3400万人いることになる。てことは、つまり日本の人口の4分の一が、首都圏にわけだ。その他に増加率が平均以上あるのは,愛知,滋賀、沖縄くらい。兵庫、大阪はほぼ横ばい。その他の県、ほとんどの地域でマイナス。とくに秋田、山形、島根、徳島あたりは減少率が高い。

人口密度は、もちろん北海道が最低なのだが、東京の人口密度は,1キロ平方メートルに5750人。ちょっと笑えるような数字。全国平均では、1キロ平方メートルに340人。この数字に一番近いのは、滋賀、広島、佐賀である。

統計年度はちょっと違うのだが、都道府県別ではなく,都市別の50キロ圏内の統計というのもある.東京圏は、3115万人、大阪1636万人、名古屋圏885万人。

まあ,都市部への人口集中は,世界的な傾向らしい。国際データを見たら、もっと面白いデータがあった。海外の都市名がずらっと並んでいる。都市ごとの増加率。やっぱ、インドはすごいな。

人口統計だけじゃなく,いろんなデータも好きだ。数字が好きなのかな。気象データ、経済データなどなど。それにしても、人口統計は、ながめていたら、時々、妙な気分になる。私は子供の頃、世界は,ずっと冷戦状態だった。いつかきっと最終戦争が起こって、人類は滅びるのだと思っていた(なにせ「ノストラダムスの大予言」世代)だから、一番怖いのは「核戦争」だ。

でも、実際には、そんなにわかりやすくないものなのかもしれないなあ。

12/14/2006

双子のダブル発熱

12月13日(水)
午前中、小説講座の事務所。昼前に帰宅。

事務所に着いた途端、電話あり。小三の双子の娘(妹の方)が発熱。学校に迎えに来てほしいとのことで、すぐに戻らねばならない。がっくり。ま、今日はとくに急ぎの仕事はないし、自宅に持ち帰ればいいだけなのだが、今週は金曜日も休む予定だから(子供たちの懇談会があるので)、もし明日まで熱が下がらなければ、ちょっとやっかいだなあ。子持ちはツライ。

電車を乗り継ぎ、雨の中、小学校へ迎えに行く。ちょうど昼食時で、白いエプロンに白いマスクをつけた可愛い「給食当番さん」たちが食器などを運んでいる。

ところで最近の学校給食は、メニューが豪華。献立には、あれこれ教育的配慮もされていて、おそろしくレベルが高い。さすがプロ。子供が学校からもらってくる「給食だより」というプリントにも、いろいろ面白いことが書かれてある。そんな「食育」ブームもあるのだが、一方で、朝ごはんを食べない子供も年々多くなっている。まあ、親自身の生活が不規則で、早寝早起きができないし、朝ご飯も作らない家が多いらしいからなあ。給食も、娘のクラスでも、「きらい」「まずい」といっていつも食べない子供がかなりいるらしい。そんな子供が家で何を食べているかというとポテトチップスとか、ラーメン、ハンバーガーなんだそうだ。そっちの方がよほどマズシイ食生活だがなあ。なるほど「味覚」は、「教育」である。まるで子猫の頃から同じキャットフードしか食べない猫のようだわね。つまり「刷り込み」である。これじゃファーストフード産業が儲かるはずだなあ。ふーん。食事って、「教育」の問題なのだなあ。

そう言えば、うちの祖父は、「その人の『教養』は、食事の時に一番よくわかる」と言っていた。確かに、いくらブランド物でおしゃれしても、こういうところに教養の差というのは出るのかもしれない。しかし、教養のあるなし、というよりは、生活を楽しめるかどうか、なんだよな。あ、そうか。そういうのを「教養」というのか。

娘が言うには、好き嫌いが多い子は、クラスでアレルギー体質で食べられない子を「うらやましがっている」んだとか。しかし、好き嫌いと、アレルギーじゃ、だいぶ違うがなあ。息子の友人には、小麦粉アレルギーの子がいるのだが、これはなかなか壮絶である。給食は無理で、ずっと一人だけ弁当だったらしいし、ケーキももちろん食べられない。こういうのをうらやましがるというのは、「体育が嫌いだから、車いすに乗っている子がうらやましい」ってのと同じだが。ある意味、こんな失礼な話はないと思うけどなあ。うん、でも大人でもいるよね、そういう人。

しかし、今日の給食、熱で食欲のない娘は一口も食べられず。ちなみに、今日は「ちらしずし、かきたまじる、かぼちゃのしょうゆバター焼き」だそうで。

家に帰って、体温を測ってみたら38.4度。風邪らしい。そのままパジャマに着替えさせて寝かせる。夕方、双子の姉が帰宅。しばらく元気に遊んでいたが、夕食前になって、突然「なんだか体がだるい」というので、測ってみたら38.7度。さっきまで元気だったのに、急な発熱だ。夫が帰ってから病院へ連れて行く。双子のダブル風邪。やれやれ。

12/13/2006

華麗なる文体、体験から得る教訓

12月12日(火)
朝から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

昼から丁稚どんが来て、専攻科の作品印刷。
ところで、丁稚どんは、専攻科の生徒さんでもあるのだが、この前の提出した作品には、私がつい「ダメ出し」をしてしまったので、現在、書き直し中なのだった。ちなみに、専攻科の作品にヘタにチェックをすると、書き直しに時間がかかるらしい。みんな一月の締切にも間に合わないかもと言っている。皆さん、私もなるべくチェックしたくないので、充分、自分で吟味してから提出しませう。

さて、この作品。とくにストーリーに問題があるわけではなく、誤字も脱字もとくにない作品なのだが、問題はたぶん文章っていうか、文体。なにせ本人が「耽美な雰囲気を書いたつもり」だというので、それなら描写とか文体がかなり大事なはず。だったら、もっとねばって丁寧に書くべきだと主張したわけである。

しかし実は私、たとえ一言でも何か言ったからには、生徒さんがその作品を完成するまで、どこまでも心中する覚悟なのだが、なぜか生徒さんというのは、わりと軽く「あ、もういいです。あれは、ちょっと書いてみただけだから」とすぐあきらめてしまう。だが、あいにく私は「あきらめを知らぬ者」なのだ。一度書いた作品をそんなにすぐあきらめる方がおかしいのだぞ。ねばるべき時はねばるのだ〜。

ま、それもあるので、普段なら生徒作品にとやかく言うのは避けていたりするのだけど、丁稚どんの作品は特別。

すると、今日、
「実は、こういう作品が下敷きで、こういう雰囲気で、こんな内容が書きたかったんです」
と見せてもらったのが、泉鏡花の作品であった。「どれどれ」と読ませてもらったのだけど、たしかに内容というか、ストーリー展開はよく似ていた。これくらい似てたら、というくらいだが、となると、問題はやっぱり文体かもね。

と思って、パラパラ読んでみたら、あたりまえかもしれないけど、文章がまったく印象が違う。細かく見たら、もっと違うのだろうが、一番違うのは「きらびやかさ」なのだった。どうもこの作品、やたら色がついているものが出てくるのだ。とにかくイメージがカラフルだ。それも、まず緑色が出てきたら、赤色が出てきて、その次は、青、銀、黒。あきらかに「補色対比」というか、ただ並べるのではなく、わざわざ隣あわせの色が必ずくっきり対比する組み合わせである。金色に、赤と黒。とにかく一つの文章にわざわざ対比するように、なるべく同時にくっきり並べて描写してある。だから、なんだこれはと思うくらいカラフルだ。

そこに注意して読んでみたら、対比させているのは色だけじゃない。たとえば「かぐわしい香り」というのを書くのに、わざわざ「硫黄の匂いかと思ったら、なんと花のようないい香りだった」みたいなことを書いてある。ふつうに考えたら、硫黄の匂いと花の香りを間違える人がいるもんかい。どうやらそれくらい、いちいちくっきり対比させる必要があると思っているらしいのだ。それもほんの数行おきである。色とりどり。これでもかこれでもか、と、かぶせまくり。まさに絢爛豪華なこと。さすが泉鏡花。

というわけで、あらためて、丁稚どんの作品をみたら、文章にあんまり色が出てこない。
「いや、ちゃんと書いてますよ」
というのだけど、やっぱりどうみても少ない。しかも、色の対比がほとんどない。せっかく藍色の中に赤色をイメージしたんだったら、やっぱ、そういうのはすぐ横に書いてないとダメみたいだぞ。読み手って、みんなそんなに記憶力はいい方じゃないからな。せっかく対比する色が、「原稿用紙五枚分」も先に書いてあるというのは、やっぱ、遠過ぎるみたいだぞ。五枚に一回しか色の対比がないというのも、かなり少ないわね。鏡花なら、五行に一回だから。だから、せめて原稿用紙一枚に一回は欲しいかもよ。いや、微妙なグラデーションじゃダメだろう。くっきり「補色対比」がポイント。それが、もしかして耽美の秘訣?

と、かなりええかげんな話をしてたら、
「私はただ美しいなあ、と読んでただけなんで、こういうふうに分析して読んだことがないんですよ」
と言われてしまう。
「そうかなあ。でも、こんなふうに書きたいと思ったら、その作家の文章とどこが違うか、自分の文章と並べて、比べてみたら何かわかるかもしれへんやろ?」
と言ったら、
「でも、自分の文章って、客観視できないもんでしょう」
と言うのだった。いや、それはそうかもしれないけどね。

丁稚どんは、さらに
「だって、たとえ自分の行動でも、客観的に見れないもんでしょう。先日もこんなことがあって……」と反論する。だが、このエピソードがなんだかちょっとヘン。
だって、「人間はどうしても客観的になれない」というエピソードかと思ったら、それがちょっと違う。だって、
「先日、つい主観的な行動をとってしまった。あとで考えたら変だった……」
という話なのだ。

これって、よく考えたら「客観的になれない」というエピソードではないんだよね。
正確にいうと、
「一度、主観的になってしまって、つい妙な行動をとったけど、あとから客観的に自分の行動を考えてみたら、実はこうだった」
という話だ。だって、あとから考えたら変だった、ってのは、客観的になって考えたってことだもん。ってことは、つまり、
「後から考えれば、自分の行動を客観的に見れる」
というエピソードなんじゃないか。このエピソードは、実はこう読むべきなんだよワトソンくん。

で、「それって、『人間は、絶対に客観的になれないものだ』というよりは、『人間は、その場では無理かもしれないけど、あとから考えれば客観的になれる』って教訓?」
と言ったら、
「ええ? あれれ。そんなつもりはなかったのだけど、でも、そういえば、そういうことになるのかな?」
と、驚く丁稚どん。いや、それはそうなのよ。つまり、結論としては「あとでちゃんと考えれば、自分の作品でも『客観視』は可能」ということやね。

しかし、そういや、丁稚どんはもともと「ネガティブ発想」が得意な人だからなあ。
ヒドイ時は何を聞いても「どうせ私なんか」という話になっていくので、
「そんなふうに、私ってどうせダメだとか、どうせ無理とか、そういうことばかり言っていると、そのうち本当にダメになってしまうよー」
と注意したら、
「そうなんですよ。だから、私って、ダメなんですよ」
と言った、というあの伝説の持ち主。おいおい、ちゃんと人の話を聞け〜。
……と、トボケた人なのである。

でも、同じことを見たり聞いたり、体験したりしても、まったく逆の教訓を得るってことはあると思うけど。

だから、泉鏡花も、家にもって帰って熟読してね。まったく違う教訓を得るかもしれないわ。また教えてね。

12/12/2006

小説は、しっかり考えて書きましょう

12月11日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

先日(12/4)のブログで、田中啓文先生の「大阪人」の連載は「エッセイか小説か」と書いたら、ご本人からコメントをいただいたのであった。わーい。
(やっぱり小説なんだそうで)
ふと「一生懸命にウソをつく」という言葉に、なんだか少しジンと感じるところもあり。

ところで、私は、生徒さんなどに「どうすれば、文章がうまくなりますか?」と聞かれることがよくある。こういう生徒さんの質問には、たいてい本心は違うところにあることが多いから、ちょっと考えてしまうことも多いんだけど。
ま、あまり知らない人だと「一般論」である。

でも、内心、これが一番の「答え」かなあと思っているのは、
「ちゃんとよく考えて書けば、誰でもうまくなるよ」
ということだったりする。

しかし、この答えで納得いただける人は少ない。そりゃ、自分でも「わかりにくいかな」と思うので、そうは言わないけど。でも、これはホンキでそう思っているので、一応まじめな答えのつもりなのよね。

でも、こんなことを言うと、たぶん
「いや、もちろん、ちゃんと考えて書いてますよ」
と言われてしまうだろうなあ。

でも、そう言ってしまいたくなるくらい、世間の一般の人というのは(とくに「モノ書き商売」じゃない人、という意味だけど)「あまり考えずに文章を書く」らしい。少なくともそうみたいに見えるんである。

私が、「どうも世間の人は、あまり深く考えずに文章を書くらしいぞ」と思ったのは、コピーライターになってすぐの頃。当時は、コピーライター事務所のアシスタントをやっていたのだが、広告コピーのことはよくわかってなかった。当時、事務所の社長は、かなり高いコピー料ももらっていたのだが、そんなことがなぜできるのかが、よくわからない。なんで誰でも書けるようなたった数十文字くらいに、何十万も金を払う人がいるのだろう。キャッチコピーだけなら十数字どころか、ほんの数文字である。日本語くらい誰でもかけるのに。なぜそんなものに高いお金を払う人がいるというのが、素直に不思議であった。

で、社長に聞いてみたら、
「ああ、それは簡単。人が、思いつきそうで思いつけないことを書ければ、金になるんだ」
と言われた。
「でも、どうやったら、人が思いつかないことを思いつくんです?」
「そりゃあ、考えるんだよ」
「考える?」
「うん。考える。でも、注意しなきゃいけないことは、自分が思いつくことは、たいてい誰でも思いつく。実は、人間ってみんなけっこう同じことを思いつくもんなんだけど、そういうのはあたりまえだけど、それだけじゃまだお金にならない。だってそれはみんな思いつくことだから。だから、そういうのは最初に捨ててしまって、もっと他にないか考える」
「でも、それって、考えるだけで出てくるんですか?」
「あ、それは大丈夫。普通の人は、ひとつのことをずっと考え続けられないみたいだから。一つの文章をずっと考え続けるのって、実はしんどくて面倒くさいもんだから、ほとんどの人がやれないみたいなんだ。だから、大丈夫」
「しんどいんですか?」
「うん。オレも時々いやになるけど。ホントえらい商売やってるなあ、辞めようかな、って毎回思ったりするもんな」
「コツとか、ないんですか?」
「それはない。コツとか、たぶんないよ。強いて言えば、一回だけ考えてみるんじゃなくて、今日がダメなら、明日も明後日もあきらめずにずーっと考え続けるってことくらいかな。もちろん寝てる時もね。でも、あきらめずに考えて、夢に見るくらいがんばってアレコレ苦しんでたら、たいてい何か出てくると思うよ」
「そういうもんなんですか?」
「そういうもんだよ。ほら、この広告全体に一体いくらかかってると思う? この商品を開発するのに、どんだけ金と時間がかかってると思う? そういう中で『広告はこれでいきましょう』って言おうと思ったら、結局、骨を削って書くしかないんだよなあ」

その「骨を削って書く」というのは、その人の実感だろうけど。

もし、生徒さんに「一生懸命、考えて書いて下さい」と言ったとしたら、たいていの生徒さんは、こういうだろう。
「そりゃ一生懸命、考えて書いてますよ」って。

でも、なんか違う気がする。だって、よく考えたな、という作品はそれほど多くはないもん。うーん。何が違うんだろう。

たぶん生徒さんの「一生懸命」ってのは、どこか「思い込み」というか、そういう感じがあるからなあ。すぐ「これでいいや」とか、「これしかない。他には考えてないけど」と思い込む、とか。そういうところがあるんじゃないかな。でも、たぶん「考える」ってのは、本当は違うもんじゃないかなあ。なんというか、どこか一つに決めて、とにかくそれだと思い込むというよりは、
「もっと何かいいものはないか、もっとよくするにはどうすればいいか、常に、あらゆる可能性を検討してみる」
ということなんではないかしらね。そりゃ、あれこれ全部検討しつくしたら、
「まあ、他にもあるかもしれないけど、とりあえずコレしかない」
と思うだろうけど、それは、最初から「コレしかない」と思い込んでいるのとかなり違う。

しかも。
この「もっと何かないか」というのは、たぶん無限にずっと続くわけでしょう。この「無限に続く」ってのは、なかなか怖いもんである。そりゃ、ここらへんまで来たらいいかな、というのはあるだろうけど、やっぱり大変は大変だ。怖い怖い。そりゃ、骨も痛むかもしれないわよな。

そう言えば、だから作家さんはどこか「そんなふう」に見えるのかなあ。ああ、みんな、大変な商売をめざしてるんだよなあ。大変だな。

けど、考えて考えて考え続ければ、そのうちゼッタイ何か出てくる、というのは、ある意味、「才能は要らない、ただ努力だけだ」というのに、なんだか似てる気も。だって、誰でも「やればいい」だけだから。

え、楽天家? いや、そんなもんでしょ。

12/11/2006

小説とは関係のない休日(法事)

12月10日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝から、法事のため外出。終日バタバタ。亡き義父の三回忌。夕方、一度帰宅してから、郵便局の休日窓口へ。急ぎの郵便物を速達で送付して、義母の家へ。

12/10/2006

雨の日、今年もまたあの教室実習

12月9日(土)
昼から小説講座の事務所。夕方から「第10期エンターテインメントノベル講座」の講義。

夕方、資料を持って、雨の中、教室のある天満橋へと向かう。

本日の講義は、講師によるレクチャーではなくて、映像教材を使った「教室実習」のみ。簡単な「起承転結」の説明を10分か15分だけやって、そのあと「換骨奪胎」をやってみる、というもの。「ビデオ」を見て、ストーリーの骨格を抜き出し、それをまったくそのまま使って、別のシチュエーションでやってみるというスタイル。これは、もともと専門学校の講義でやっていた実習教材なのだけど、試しに昨年、小説講座でやってもらったら、案外、評判がよかったので、今年もこっちでもまたやってみることにしたのだった。

しかし、もともと「発想法」の授業で使ってた実習課題だから、「これをやれば、小説を書くのがうまくなる」なんてことはない。どっちかというと、頭の体操というか、「遊び」みたいなもの。「ストーリーには、骨格とか流れのようなものがある」と言われてもよくわからない、という人には向いているらしい。「なんとなく分かった気がする」のだそうだ。また、今まで一度も「完結した話を考えたことがない」という人にはうれしい実習らしい。もともとあるストーリーの「筋」だけをとってくるわけだから、完結しない心配はないから。
ま、オリジナルメニューを考える前に、まずは練習用の献立を作ってみるという感じかな。

ところで、この換骨奪胎。あとで実習シートを見せてもらうと、なぜか半数くらいの人は、ちゃんとできていない。あらかじめ決められた「骨組み」を使ってみるという実習だから、そのまんま使うのがミソだが、案外、そのままになっていない。まあ、結果はわかっている話なので、確かにつまらない。だから、それがイヤなので、わざとハズすのだろうと思っていたのだが、どうやら案外そうでもないらしい。あとで聞いたら、本人もハズすつもりはないのに、大きくハズれる人が多いらしいのである。

あまりに大きく外れたら、この実習はあまり面白みがないし、意味がないのだが、どうも原因を考えてみたら、けっこうな割合で、もともとのストーリーを理解してないらしい。で、本人は「ハズれてること」に気づかないか、あるいは気づいても自分ではどうしようもないらしい。

つまり、ずっと「骨格はわかっているけど、ベタだからそのまま使いたくないので、わざと外しているのだろう」と思っていたのだが、どうも「わざと」ではないらしいのである。それにしても、なぜか専門学校の漫画家志望の学生さんよりも、小説講座の生徒さんの方が出来は悪いのはなぜなのかな。

ところで、作品指導の講義などでは、講師の先生が、
「このシーンは、削った方がいい。どうも要らないんじゃないかな」
とか
「200枚もちょっと長すぎるよ。もう一度、ちゃんと整理してみたら?」
と言ったりすることがある。

ところが、「50枚の短編なら、これくらいの話になるはずだろう」というのは、初心者の生徒さんには一番わかりにくいらしい。プロ作家の先生たちは、ある程度、自分の経験から「なんとなくこういう話なら、これくらい。こういう展開だったら、だいたい何枚くらい」という見当をつけているようだが、生徒さんにはこれがほとんどできない。
「これくらいのネタなら、登場人物もこれくらいで、だいたい何枚くらいかな」というのは、けっこう難しいらしい。まあ、献立にあわせて調理方法を考えるみたいなもんだろうけど、かなり知識と経験がいるもんらしいのである。もちろん、どんなネタでも料理方法によって、仕上がり具合が違うだろうから、何枚くらい、というのには、かなり幅はあるのは確かだけど。

それにしても、「このあたりのシーンは、なんか余分だな」とか「なんでこういうエピソードが延々と続くのかな」など、生徒作品には「無駄なシーンだな」と思う部分がかなり多い。プロの小説なら、「何のために書かれているかわかんないシーンだな」と思うことはほとんど多くないから、こういうのは生徒作品だけである。

だけど、そういう生徒さんは、講師に「無駄なシーンは削ってみたら?」と言われても、案外「実はよくわからない」。せっかくプロ作家に指導してもらっているので、その場ではなんとか納得しようとしているらしいのだが、どうやら自分では「なぜ無駄なシーンと言われなくてはいけないのか」と思っているらしく、どうも意味がわかってないらしくて、表面上は納得したように見えても、実は納得しているわけではなかったりする。

だいたい生徒作品は「書きたいことを延々と書いて、一度書いたものはもったいないから、まず削らない」ことが多いので、どうしても無駄なシーンが増える傾向はあるのだが、それによりも、どうもストーリーの流れ、話の筋道、というのがわからないという人がけっこういるらしいのだった。

しかし、話の流れがどこにあるかわからんのだったら、何がハズれてるかわからんし、どこが余分で、どこが余分じゃないのか、というのもわからんはずである。
(道理で「プロットなんかまったく立てない」はずである)

書店で実際に、エンターテインメント系の小説で「ストーリーがよくわからない話」を探してみたらかなり珍しいと思うが、生徒作品ではこれは割とよくみる話だったりするんだよね。

ところで、今回の実習は
「ある集団に属していた主人公が、失敗をしてその集団から追放される。が、もといた集団の危機を知って、戻ってきてその集団を救う(できれば自己犠牲的な方法で)」
という、わかりやすくて単純なストーリー。シンプルだが、使いやすいパターンだから、「現代の男子高校の野球部」でも「惑星への移民船」でも「エジプト遺跡調査隊」でも、どこでも誰でもそれなりに「とりえず、それっぽい話」になるので、実習には使いやすい。実は、以前、堀先生が「換骨奪胎法」という授業で「稲むらの火」というのを使っておられたのだが、それに近い話を短い映像作品で探したのである。

実際に「作品」にするわけではないので、プロットというか、あらすじを考えてみるだけの実習で、専門学校では、みんな楽しそうにやる単純な実習だが、小説講座の生徒さんは苦手らしい。小説の方は、案外、まったくの初心者か、あるいは「プロをめざしてずっと書いてきた。コンテストに応募したこともあります」という人ほど、「短編をしっかり書いたことは一度もない」人が多いからかもしれないけど。そのせいか、さっぱり思いつかないか、やたら複雑な設定にして、すっかり骨格の筋から外れている人がけっこう多い。

そもそも小説とかマンガを書こうと思うような人は、どっちかというと空想好きなタイプの人だろう。なので、イメージが拡散したり、話が広がっていくってのは、誰でもたいてい得意なのである。ほっといてもそういうのはやる。だから、むしろ「換骨奪胎」みたいに「わざとワクにはめて考えてみる」という方が勉強になると思うんだが。だけど、これはやたらつまらなく見えるので、たいていの人はかなり嫌う。けど、ちょっとくらい「訓練」しとく、のも大事だと思うんだけどな。だって、小説作品ってのは、とにかくやたら収拾がつかない、ってのが圧倒的に多いもんだから。

ところで、このストーリーだと「危機がたいした危機じゃなくて弱すぎる」というパターンがかなり多い。
「これだと『危機』がぜんぜん『危機』じゃない。だから、起承転結にならないよね」
と思うのだが、そこがなかなか難しいらしい。
「だって、絶体絶命の危機だったら、解決方法が思いつかないじゃないですか?」
「いや、だから、そこを考えるっていう実習なんだってば」
だって、それくらいのインパクトがないと「話にならない」ものなのよ。そこが「起承転結」の転結で、話のミソなんだもの。でも、ぜんぜん思いつかないってことはないはずで、考えればいろいろ思いつくはず。まあ、ばっちり作品に書けるくらいかどうか別だけど。でも、それくらい頭を使わないと話にならないもんなあ。

しかし、どうして世間では、「空想力」や「発想力」ってのは、持って生まれた「才能」だと思っているんだろうなあ。まあ、そういう部分がまったくないわけではないだろうけど、私は、「空想力」「発想力」というのは、たぶんほとんどの部分が「訓練」だろうと思っているんだけどな。

だいたい「発想」というのは、何もしなくても「思いつく」ものだと思っているらしいのだが、実際には、日頃からの観察だとか、知識を貯えておくとか、思考訓練だとか、まあ、つまり天から降ってくるものではなくて、むしろ下に落ちているというか、どこかに落ちているはずのものを探すみたいな、たぶん地味でコツコツとしたものだという気がするんだけど。

とりあえず「文章力」だけじゃなくて「発想」にも日頃の訓練がいるはずだと思うんだけどね。やっぱり要ると思うがなあ。日頃からネタを探したり、あれこれ考えてるかどうか、とか。

専門学校の若い学生さんとも、よくこういう会話をするんだよなあ。
「先生。これ以上、考えても、何も思いつきませーん!」
「うそや。まだ、ぜんぜん考えてないやん」
「ちゃんと精一杯考えたんですう」
「うそや。考えたって、何を?」
「だから、その、アレコレ」
「だから、そのアレコレって何?」
「ええっと、それは……」
「ほら、全然考えてないやん」
「だって、先生。コレ以上考えるの、面倒くさいも〜ん」
「それって、日頃から頭を使う訓練してないから面倒くさいんやろ。もう頭サビついてしもてるがな」
「うん。もうダメ〜」
「でも、今、使わな、もっともっとサビるで」

だから、やっぱ、日頃の訓練なんじゃないかなあ。しかし、いくら潤滑油を入れて、なんとかサビついたアタマを動かしてもらおうとしても、本人にさっぱり動かす気がないとどうしようもないのだがなあ。


12/09/2006

健康には注意しましょう

12月8日(金)
朝から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

子供たちが通う小学校と中学校では、ノロウイルスと風邪のウイルスが猛威をふるっているらしい。しかし、どっちも集団生活だと、完全に予防するなんてのは難しい。まあ、体力をつけておくしかないかな。娘のクラスでは何人も休んでいるらしい。これだけウイルスがとびかっていると、もう予防もへったくれもないが。

隣の家の前に、見なれないピカピカの外車が止まっていた。最近、とうとう売られた空き家である。中から毛皮のコートを来た若い男性が降りてきて、
「お隣の奥さんですか? はじめまして。この家、うちで建て直して売るつもりなんですが、売れそうでしょうかね」
といきなり聞いてきた。一見、「ホストか?」と思うようなバリバリのスーツに、丁寧な営業トーク。ぴっちりの営業スマイル。いかにも「絵に描いたようなやり手の若手不動産業者」という風情なので、ちょっと引いてしまった。驚いた。30代前半くらいか。あやしすぎである。

しかし、ホントにいるんだなあ、こういう人。こんな「いかにも」みたいな人って、ドラマや映画の中だけかと思ってたんだけどなあ。

さてさて、誰が引っ越してくるのか。ちと不安。

12/08/2006

小説がわからない理由

12月7日(木)
朝から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

今さら言うのはなんだが、生徒作品を読むと時々、「うーん……何を書きたかったのかわからんなあ……」と思うことがあったりする。しばしばある。ちょっと困る。

うちの小説講座は、プロ作家ばかり十数人が作品指導を受け持ってくれていて、それぞれの先生はそれぞれの話し方で指導をしてくれるから、指導方法もかなり違うのだけど、その先生たちも、
「前もってちょっと作者に聞いておきたいのだけど、この作品は何を書きたかったのかな?」
などという質問はしばしばされたりする。
だから、
「まったくわからないこともないのだが、でも、よくわからない」ってのは、よくある話なんだろう。

私は、もう十年近く小説講座を受け持っているので、「わからない」のには、もうすっかり「慣れている」ところがあるのだが、さて、この「なぜわからないか」という理由なんだけど、これには色々原因があるらしい。大きく分けるとたぶん3つくらいある。

まず、文章力そのものに問題がある場合。これは何を書いているのか、文章があまりにまずくて、内容がさっぱりわからないというパターン。これは作品のよしあし、というよりは、「日本語能力」の問題だ。

小説コンテストの下読みなんかやると、これがかなり多い。だが、うちの小説講座の生徒作品となると、これが原因、と思うような人は、あまりいない。そりゃあ、文章力にはかなりレベルの差はあるんだけど、「何を書いているか、さっぱりわけがわからないぞ」てほどひどく文章力がない人は、ほとんどいない。まあ、なにせ学費を払って、小説講座に入学しようと思うような人たちばかりなので、それはそれなりにもともと書ける人が多いせいだろう。

それよりも多いのが、
「どうやらもともと何か書きたかったことがあったらしいのだが、書いているうちに自分でもよくわからなかくなったらしい」
というパターンなのである。これはかなり多い。私は、個人的には、「この作品、よぉわからんなあ」と思う作品のうち、半分以上はコレではないかと思っている。

しかし、この場合、そもそも作者本人が「よくわからん」のだから、読み手が「よくわからん」のは当然と言えば当然。「あたりまえ」なのである。
つまり「よくわからん」のはあまりまえだから、そういう意味では、ちゃんと「伝わっている」と言えるのだ。つまり、そういう意味では、ちゃんとよく書けていたりするのよね。

生徒さんは、このように「途中でわけがわからなくなって、どうしようもなくなった」という作品を提出してくる人はけっこう多い。まあ、学校の課題作品だから、ある程度しょうがないんだけど。とくに入学して一年目の「エンターテインメントノベル講座」のクラスは、ほぼ半数近くが、初めて小説を書くような初心者なのだから、けっこう多い。
(いや、専攻科のAクラスで、こういう作品を提出されると困るんですけどね)

こういう作品は、「どうしたいのか作者が決めてもらわないと、実際にはすごく指導しにくい」というものでもある。たとえば「道」を聞かれた時、「目的地」があるなら、道案内もできるだろう。けど、その人に「目的地」すらわかってない場合、これは道案内をしたくてもうまくできない。「短時間で効果的な道案内」というのが理想なのだが、なかなかそういうわけにいかない。

もちろん講師の先生たちは、生徒さんの「意図」を汲むのがとてもうまいから、
「うーん、よくわからないけど、たぶん本人はこうしたかったんだろうなあ」
という推量くらいはしてくれる。親切である。そうは言っても、もともと本人がどうしたいかよくわかってなかったりするもんだから、それを探って推測するのもけっこう大変である。

「最初、どういうきっかけでこの話を思いつきましたか?」
という質問をされたり。

ただし、こういうような作品は、本人が一番「わかってないことはわかっている」場合が多い。すでに本人が「しまったなあ」と思っている。でも、どうしていいかわからないので、仕方なくそのまま提出しているのだ。たぶん迷った末、決めかねて、プロの作家の先生たちに、
「これ、どうしたらいいでしょう」
と聞きたいだけなのである。
ホントは「自分で決めないと仕方ない」のだけど。

ただ、こういうタイプも、実はそれほど問題ではない。そりゃ、
「とりあえず提出してみよう、講師に聞いてみよう」
というのでは、いつまでたってもその人はプロにはなれないんじゃないかな、と思うけど、まあ、初心者だとありがちだし、わかる気もするし。

むしろ、それよりももっとやっかいだなあ、と思うのが、
「本人がわかってないわけではないが、読んでも何が書きたいかがわからない」
という作品。

これは、どういう作品かというと、ちょっと説明しにくい。
まあ、「とくに書くような内容はないのによく書けている作品」という不思議なタイプで、これが往々にして
「すらすら書けていて、一見、文章には問題がない」
というようなものだから、ちとややこしかったりする。

うまく言えないのだけど、印象としてはちゃんと「起承転結」になってないというか、「転」がなくて、「起承結」という感じがする作品なのである。

てか、「転」がないんだったら、「結末」と言っても、終わらない感じがするんだよね。どうもストーリーというのは、「転」があるからちゃんと終わるのだなあと思ったりするんだが、起承転結」というより、「起承」だけ、みたいな。つまり、「まだお話になってない」みたいな作品。うーん。説明が難しいんだけど、「話ははじまっているが、ずっと何も起こらないで終わる」みたいな。

あるいは、たとえは悪いかもしれないけど、見かけはいいがエビの入ってないエビ天とか、カニの入ってないカニ玉というか。調理方法に問題がなくても(そこは問題なし)、やっぱり「これは違う」と思ってしまうというか。「中身がない」というと、たぶんキツく聞こえてしまうだろうけど、なんとなく、そういう感じがつきまとう作品がある。

でも、本人への説明が難しい。というか、では「何が『中身』なのか」ということが説明しにくいし、私自身よくわかってないからかもしれない。インパクトがない? うーん。そうかも。

そんなに難しいことを求めているわけではない。
純文学系の小説だと、はっきりした「筋」というか、流れがわかりにくい作品もあるけど、エンターテインメント小説なのだから、たいてい「ストーリーの流れ」というか、起承転結というか、そういうものはある。長編なら複雑になっている場合もあるけど、骨格はしっかりある場合がほとんどだと思う(だよね?)

だから、小説の「ねらい」といっても、そんなに高尚なテーマでもない(と言い切るとちょっと問題あるかもしれないけど、まあ、娯楽小説という範囲では)

短編なら「起承転結」の「転結」のあたりにあるだろうけど、つまりホラーだったら、「これで怖がらせてやれ」とか、本格ミステリだったら、「これでひっくり返して、ビックリさせてやろう」くらいのあたりがそれ。

そう言えば、生徒作品でも「本格ミステリ」なら、書き方のレベルの差とか、トリックのレベルの差なんかはあったとしても、
「何が書きたいのかわからない」
という「わけがわからない作品」は、ほとんどない。まあ、滅多にない。どうも「本格ミステリ」ってのは、ほっといても「起承転結」になるものなのかな。

あ、いや、まったくないわけではないけど。
(本格ミステリで、トリックがない作品というのはたまにある。つまり作者が『ナゾ』として提示した『謎のレベル』がちょっと低すぎて、トリックがトリックになってないことが。でも、まあ、これは「書きたいことが全然わからない」ってことではないし)

さて、ここでちょっと困るのが、こういう作品で、けっこう文章がうまかったりすると、本人もうまく書けているとわかっているから、なかなか指導が難しい。そこで、よく聞くのが、「文章はうまいが、魅力にとぼしく、盛り上がりがない」という話だったりする。

でも、なんだか不思議だ。というか、「せっかくわざわざ時間をかけて書いたのに、なぜかこういう話になってしまう」というのが、私にはちょっと不思議なんだけど。

以前、講師の一人の先生に聞いたら、
「ああ、それは不思議じゃないよ。だってシロウトの人は、とくにネタがなくても書けるみたいだから」
と笑って言われたことがある。
「プロならネタがないと苦労して探すし、書くのに工夫するけどね」

うーん。何もないのに平気でさらさら書けるのは、プロじゃないから?

「わからない」「何もないように見える」のは、これならネタという認識レベルの差というか、温度の問題なのかな?

けど、書きたいことがないのに書けるなんてことがあるのかなあ。やっぱ、ちょっと不思議。

12/07/2006

自宅待機

12月6日(水)
体調悪く、終日、小説講座の事務所には入れず。

自宅のパソコンであれこれ仕事。クロスワードパズルの仕事は、朝なんとか完成したので午前中、メール添付で送付。一日中、パソコンの前に座ってはいたが、頭痛がひどくて、あまりはかどらず。本を読むくらいならなんとか。夕方、学校から帰ってきた息子に頼んで、また図書館に数冊借りに行ってもらう。ブログで使っているココログが木曜までメンテナンス中で、まとめてアップもできず。夕方、近くに買い物に行き、鍋の材料を買ってくる。小3の娘たちに切ってもらい、夕食準備。皿洗いもお願いする。中1の息子もあれで料理は得意な方なのだが、小3の双子の娘もなかなか役にたつ。産んどいてよかった。

12/06/2006

ようやく作品発送いたしました

12月5日(火)
午後から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

あいかわらず事務作業いろいろ。小説講座の欠席者へ、資料発送。

専攻科へは、作品集を発送。今月の16日には、田中哲弥先生の作品指導の予定である。生徒作品は、短編3編。忙しい田中先生に、今回は無理を言ってお願いする。うちの小説講座は、せっかくプロ作家の講師が二十人近くもいるので、できれば、先生にもできるだけ締切が近くない、無理のない時期に頼むようにしているのだが、今回は3本ともぜひ田中先生に指導してもらいたい作品だったので、ちょっとだけ無理をお願いする。「短編ならなんとか」ということで、引き受けてもらえたのでラッキー。とくにNくんの作品は、このちょっと特異なギャグセンスをわかってもらえるか微妙なものがあるのだが、もし本人の意図がわかってもらえるとしたらきっと田中先生でしょう(保証はないが)あとの2編はギャグではなくて、勝手に「ほろ泣き笑い系」と判断したのだが、作者本人の意図はどのあたりかなあ。

12/05/2006

エッセイと小説の仁義なき戦い

12月4日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

さて先週、文章教室で、
「小説はウソだから、いくらでもラクに書ける。でも、エッセイは自分のことだから書きたくない」
と生徒さんに言われたのだが、こういう話、小説講座ではけっこうよく聞く。

もちろん気持ちはわからなくもないのだけど、これはちょっと首をかしげる部分もある。小説はウソだが、エッセイはホントにあったことを書く、というが(それはそうかもしれないけど)、でも、本当にそれはそれだけなんだろうか。

小学校の時、学校の先生に
「作文にはウソを書いちゃいけません」
と言われたかもしれないけど、エッセイというのは、百パーセント本当のことを何も加工せずにそのまま書けというわけではないのである。だから別に、エッセイや作文だからと言って、何も自分のことを赤裸々に書けというわけではない。だいたいエッセイなら、「自分のこと」を書くのがイヤなら、「他人のこと」を書くのもアリである(むろんプライバシーは守らないといけないだろうが)

たしかにプロの作家さんでも、エッセイも面白いタイプの人と、あまりエッセイを書かないタイプの人がいるのかもしれない。でも、「エッセイなんか、絶対に書かないぞ」という作家さんは、さほど多くはないような気がするんだが、これはどうなんかな。いや、どんなにイヤでも、原稿料が入るんだったら書く? まあ、そうかもしれないけど。

とにかく小説講座の生徒さんは、「作文」「エッセイ」なら書かない、って人がけっこう多い。まあ、うちの講座には、純文学傾向というよりは、エンターテインメント系の小説を書いている人が多いせいかもしないけど。うちの講座では、毎年「自由課題」では、1〜2回だけ「作文」もあるのだが、これはものすごくイヤがる人がごくたまにいる。(自由参加の課題なので、別に書かなければいいだけなのだが)

理由を聞くと、けっこう
「だって、ウソなら書いてても楽しいけど、自分のことは書きたくない」
という話を聞くことが多いので、これはやっぱり「作文やエッセイは、ホントのことをそのまま書くものだ」という認識があるせいだろう。やっぱり「小学生の作文」(遠足の思い出とかを書かせる)のせいかもしれないなあ。

しかし、自分が体験したとか、考えていることをそのまんま書けば、それが作文になるかというと、むろんそういうわけはない。小学生の国語の教科書でも「体験や考えていることをそのまま書け」とは教えてはいないだろう。うちの小3の娘たちの教科書にも、「そのまま書け」ではなくて、ちゃんと「伝えたいことを整理して書きましょう」と書いてあるのである。

もちろんエッセイと小説というのは、たいてい文体そのものがかなり違うから、エッセイがうまいからと言って、小説もうまいとは限らない。プロの作家でも、小説はうまいけど、エッセイは今イチ、ということはあるとは思う。

でも、生徒さんに限って言えば、エッセイを書きたくない、小説ならスラスラ書ける、という人が書いた「小説作品」というのは、たいていの場合、あまりうまくない。そういう傾向はある。だから「ホントのことを書くのは苦手だけど、ウソならスラスラ書ける」というのは、ちょっと違うのではないかと思っている。

気のせいかもしれないが、「作文」を書いてもらうと、その人の「小説作品」の欠点というか、ある傾向がわかりやすく見えるような気がしている。その点では、エッセイの方が「ごまかしがきかない」から、顕著にわかるのかもしれないけど。

「ウソなら書いてても楽しいけど、自分のことは書きたくない」
という人には、たいていある思い込みがあるようだ。まず最初に、
「作文やエッセイは、体験や考えていることをそのまま書くもの」
と思い込んでいる。次に、
「自分は、作文はラクに書けないが、小説ならラクに書ける」
と。

ということから推測するに、
「ウソなら、ただそのままラクに書くだけでおもしろくなる」
と、どこかで思い込んでいるところがあるのかもしれない。

しかし、そのまま書いておもしろい、というのなら、むしろ「事実」の方が読む人にはおもしろい。つまり同じ「できごと」を書いたとしても、事実ならおもしろく読めるが、ウソならつまらない。つまり「小説」にはそれなりのインパクトというか、それなりの内容が必要なのである。でも、そこはなぜか逆の認識があるみたいだけど。

ウソをおもしろく他人に読ませるのは、ホントのことをおもしろく読ませるよりも大変だと思うんだけどね。

それにしても、エッセイはホント、小説はウソ。そう考えて、厳密に区別して書くよりは、エッセイなら「まあ、だいたいホント(まあ、8割くらいはホント)だろう」、小説は「基本的にウソだろう(でも、ホントを含むかも)」という程度に考えた方が書き手としてはラクだろうと思う。うまい「ウソつき」は、ウソにホントのことを混ぜて信じ込ませるのがうまい。小説家も、上手にウソとホントを混ぜ合わせる。ファンタジーだって、ぜーんぶ100%ウソというわけではない。ウソのことをそれらしく書くというのは、たぶんところどころホントのことがうまく混じっているのである。

さて、「自分のことを書くのはイヤ」という点だけど。

小説はとくに「登場人物の心理状態、行動を書く」から、むしろ小説ほど「結果的には、究極の『自分』の姿を描きだしてしまう」ものはないんじゃないかと思う。ってか、ある意味、全部「自分」のことだったりする。よほど類型化したキャラクターだけしか絶対に使わない、というのならともかく(これはこれで、その作品を読ませ続けるのに別の高度な技術はいるかもしんないからスゴイが、まあ、生徒作品ではたいてい無理である)それぞれの登場人物のすべてに対して、どこかに何か「自分」が出るだろうと思う。むろんちゃんと考えて、ちゃんと書いてれば、ってことだけど。案外、生徒さんは、「頭でかるく作ったキャラクター」を頭だけで動かそうとするものなので(それで読者にバレてしまったりするけど)、ぜんぜん「自分」を出さずに済むみたいだけど。

私が生徒さんたちの作品を見てて、「ああ、これがプロとアマチュアとの違いなのかなあ」と思うのも、こういう瞬間だったりするんだけどね。とにかくどうも生徒さんは、ウソとホントを混ぜあわせ方は苦手みたいである。とにかくプロの作家さんたちは、自分の作った世界を成立させるためなら、あらゆる手段をとるだろうけど、生徒さんの場合、ちゃんと考えるのが怖いのか、面倒くさいのか、小説は「あまりよく考えて書かない」という人がけっこう多い。もちろん思いついたアイデアをストーリーにまとめるので精一杯で、あとのことを考える余裕がないのかもしれないから、最初のうちはそれはそれで仕方ないけど。

ところで、ふと思ったのだけど、もし「エッセイはホント、小説はウソ」というのなら、『大阪人』に連載中の田中啓文先生の「なんやコレ?大阪」シリーズは何なのかなあ。あれって、エッセイ?

12/04/2006

小説とは関係のない休日(東京帰りの父子)

12月3日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝から外出。阿倍野橋から近鉄沿線、天王寺に戻って夕方までウロウロ。

夜、祖父母の家に泊まっていた娘たちが「みかん、はっさく狩り」の獲物(段ボール2個分)をもって帰宅。9時過ぎに、息子と夫が東京帰り。なんかのコンテストで夫が「準グランプリ」とやらを受賞したらしいので、週末は、その受賞式に出席していたのである。

夏休み、小3の娘たちが絵画コンクールに応募する作品を描くのに、一緒にスケッチに行った夫がついでにまとめて自分のも「一般の部」に送ったら、それがたまたま準グランプリに選ばれたらしい。まあ「小学生の部」よりは、「一般の部」の方が応募総数が少ないのだから、入賞確率は高かっただろう。棚からボタモチ的「まぐれ当選」である。

しかも、この作品、娘たちに言わせれば、
「たしかパパは、20分も真面目に描いてなかった。私らよりも後から書き始めて、先に書き終わっていたもん」
という作品らしいが。
「いや、あれは描くのに30分はかかってる。そりゃ、40分とはかかってないけど」
と、言い訳する父親。せいぜいそれぐらいの時間で、テキトーに描いたものらしい。

確かに、あとで新聞で発表されている作品を見たら、どうみても他の作品は、真面目な作風のものばかりで、ええかげんな抽象絵画風の作品は、これ一点だけである。おそらく、
「入賞作がみんな真面目すぎるなあ。ちょっと変わったのを一点ぐらい選んどこうかな」
と主催者が思って、たまたま選んだに違いない。

双子たちは、
「応募したのは、私たちやのに、パパだけずるい。絵の先生やのに。こんなヘンな絵」
と、えらく不満気である。本人も、よく考えたらコンテストなんぞに応募したりするのは、二十年ぶりだったとか。そもそも応募したことすら、忘れてたらしいが。でも、賞金は、10万円分の旅行券。

受賞式は東京で、往復新幹線、前泊ホテル代がタダ。同伴者一名可能。それで、中1の息子の東京旅行が実現というわけである。東京へは行ったことがなかった息子は、
「あんまり時間はないと思うけど、どこか行きたいとこ、ある?」
と、父親に聞かれ、
「お台場!」と即答。
「お台場?」
「うん。フジテレビがあるやろ。丸いヘンな建物があるんやろ。『こち亀』で見た!」
と言う。アニメの影響らしい。

そんなわけで、フジテレビ展望台、ついでに東京タワーに、上野公園。元気な息子につきあって、アチコチ歩き回って父親はクタクタだったようだが、初体験の新幹線の窓から撮った「富士山」の写真をうれしそうに双子たちに見せびらかす無邪気な中学生。
「オレって、もしかしたら、めっちゃ子煩悩な父親やん」
と、えらくお疲れの様子の夫。
息子が選んだおみやげは、丸い容器に入ったフジテレビのチョコレートと上野の博物館の「恐竜マグカップ」(熱いお湯を入れると色が変わって骨が見える)であった。

12/03/2006

今週も作文とか、小説講座の一日

12月2日(土)
昼から小説講座の事務所。昼、文章教室「基礎レッスン講座」、夕方から小説講座「エンターテインメントノベル講座」の講義。

「基礎レッスン講座」は、今週は全員出席。年内は、60分3コマ授業だが、1コマ目は、先週実施した課外実習(インタビュー取材)の報告など。そのあとは、前回欠席者の作品コメントなど。実習クラスのはずなのだが、先週にひきつづき、今週も皆さんが合評などを希望。実習課題の方は「宿題」でやってくることに。できるだけ教室内での実習を中心に考えていたので、「宿題」などは出さないように気をつけていたのだが、生徒さんの方はそれは別にかまわないらしい。それにしては、先週送付した欠席時の資料(作品集)も読んでなかった人が多いみたいだから、どこまで家で「宿題」をやってくるかわからないんだけど。

ところで、今回のクラスは、小説講座から同時受講している生徒さんが数人いるのだが、
「どうもエッセイというのは、書き慣れてなくて、うまく書けない」
という人がいるようだ。最初の講義なので、エッセイというより、まだ作文なんだけど。

「ウソならいくらでも書けるんだけど、自分のことは書きにくいんですよ」
とか。実は私、この点にはいろいろ反論はあるのだが、
「プロ作家になったとして、雑誌に注文を受けたと考えて、書いてみてくださいね」
と言っておく。
ま、エッセイが苦手という人はいるかもしれないけど、プロ作家になったつもりで、遊んだり、おもしろがって、いろんなことを演出して書くようにしてみるのもおもしろいと思うのよね。

プロ作家なら「雑誌」によって、エッセイでも書く内容が違うかもしれないし。前回の作文のお題は、「朝ごはん」と「カレーライス」だったのだが、これなら注文を受けた皆さんなら何を書くかな。私なら何を書くかなあ。「朝ごはん」だったら、たとえば女性誌だったとして、それが若い人向けのファッション関係メインの雑誌なら、たぶん「恋人と食べた朝ごはん(できれば失敗談)」とか、あるいは、もうちょっとおしゃれに「パディントンのB&Bで食べた朝食」とかがいいかもしれない。かなり安いB&Bだったんだけど、窓(たいていどこのホテルでも朝食はなぜか地下室らしいのだが、半地下なので窓がある)から見たロンドンの下町の朝の風景なんか、けっこういい雰囲気だったのだ。あるいは、主婦向けの雑誌だったら、「毎朝の3人の子供たちとの戦争状態の朝食」とか。爆笑系だったら、「修学旅行で食べた納豆事件」とか、あるいはビジネスマン向けなら「ビジネスホテルのモーニングサービス」なんかもいいかもしれないなあ。「東京〜大阪、深夜バスを降りての早朝グルメ」というネタなんてはどうでしょう。ほら、エッセイくらい、ちゃんと気をつけてりゃ、ネタなんてなんぼでもそこらにあるじゃん。自分のことが書きにくいなら、他人のことでもいいわけだし。

夕方からは、小説講座。
今日の講師は、毎年、生徒さんに大人気の黒崎緑先生。先生の講義は、なぜか元気が出る、すっかり励まされた、という評判で、生徒さんには人気が高い。専攻科からも5人が見学参加。あいかわらず可愛いベディちゃんファッション。今年は、自分の体験談など色々話していただく。生徒さんたちも喜んでいたみたい。

終わってからの飲み会では、先生は生徒さんに取り囲まれてしまって、ほとんど近寄れない私。テーブルのすみっこに座っていた専攻科の生徒さんたちと話をする。ふと、この専攻科の生徒さんたちは、入学して一年とか、数年がたったんだなあ、と思ったり。入学されたときのことはずっと前のことのようなので、あまり思い出さないけど、ずいぶんといろいろ変わったような気がする。作品も、本人も、やっぱり変わったんだろう。でも、たぶん本人たちは自分たちのどこが変わったのかわからないかもしれない。むろん私にもうまく説明はできないんだけど、なんだか変わった気がする。

いろいろ話し込んで、深夜帰宅。

12/02/2006

のどかな平日、そろそろ週末

12月1日(金)
朝から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

専攻科の作品発送があるので、せっせと事務作業。今週の発送予定だったが、なんだかんだで今日も問い合せメール対応などで半日つぶれ、結局、来週にすることに。ラベルを用意して、封筒には入れたのだが、発送できず。時間切れ。今回は、短編3本だけだから、10日前までに届けばいいかな。

明日の朝から、夫と息子が東京行き。ついでに双子の娘たちも祖父母の家に(なにせ土曜は終日、母親が仕事)。この週末は、めずらしく独り身なのだった。

12/01/2006

完結か、最終か

11月30日(木)
午後から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

来週、専門学校の講義で、『ブレードランナー』をとりあげるので、いろいろ資料の整理など。実は、講義中ではたった20分しか解説時間がないから、こんなに細かい資料を用意しても仕方ないのだが、万一の質問に備えて準備しておくのである。

この作品は20年たっても研究書が出版されるくらいだから、コアなファンが多いのだが、毎回悩むのは、参考ビデオとしては「完結版」を使うべきか、「最終版」を使うべきか、ということである。この作品は、少なくとも「公開時バージョン」と「完結版」と「最終版(ディレクターズカット)」と3バージョンの編集違いの作品が出てるので有名だが、なにせそれぞれ内容が違うのである。

学生さんたちは、別に「SFファン」でも「映画ファン」でもないし、講義自体も「映画論」のためのものでもないので、どっちかというと手法とか、テクニックの解説に比重をおいた解説になるのだけど、それでも、「完結版」と「最終版」のどっちを使っていいのか、毎回悩む。

実をいうと、生徒さんのウケがいいのは、「完結版」で、私もはじめてこの作品を見るような人には(たぶんほとんどの人は、この先も見ない)、まだこっちの方がとっつきやすいらしいからいいような気もするのだが、例の残酷シーンがあるのもこっちなので、「なんかわからんけど、あのシーンだけ強烈に覚えている」という人が増えるのもこっち。かといって、最終版の方が「ぜんぜんわかんないからダメ」という学生さんが多い。「完結版」には、モノローグがあるのでまだわかりやすいらしい。学生は、ほとんどSFファンじゃなくて、しかも8割が女性だ。どちらを見せるのが正解か。あんまり脱落率が高いのも何だしなあ。

あちこちのインターネットのファンサイトなどを見るかぎり、どうもコアなファンの皆さんたちは、公開時バージョンを見てるような気がする。公開時バージョンを見てたんだったら、これは何度も見てる人の「好み」だからなあ。こういう場合、最初に見せるのに、どちらがいいか、というのは悩むなあ。時間もとれないし。こうなると、やはり「公開時バージョン」があれば一番いいような気もするのだが、あいにく持ってないのである。で、あいかわらず今年もどっちにしたものか悩む。結局、去年は、「完結版」にしたのだが、今年は試しに「最終版」にしようかなあ。どうもDVDは、「最終版」しかないみたいだしなあ。どうしたもんかなあ。

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