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11/30/2006

素朴な疑問、今年も七五三

11月29日(水)
昼頃から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

生徒募集もとっくに終わったのに、あいかわらずなんか忙しい。なかなかヒマにならないな、なんでかな、と思っていたが、よく考えたら、「基礎レッスン講座」が開講したり、後期から専門学校の非常勤講師の仕事も増えたりして、講義準備が増えたからなのだった。もっと早く気づけ、自分。

専門学校の講義も、去年までは、半年ずつ同じ内容の講義を別々のクラスで繰り返せばよかったのだが、今年は後期から講義内容を変えないといけない。半年分、講義準備の負担が増えたのだった。それで、資料調べが大変なのだった。なんか忙しいなあと思ったら、そのせいなのである。レクチャー講義が毎週あるから、けっこう時間をとられるのだ。

うちの小説講座は、社会人向けだから、20代から60代まで色々な世代、様々な職業の人がいるのだが、専門学校の方は、みんな18歳か19歳である。そのせいか、レポ−トなどを書かせてみると誤字脱字が多い(先生の立場としては注意しなくちゃいけないのだろうが)、内容もけっこう笑える。年齢のせいかけっこう可愛らしい。質問にも、おもしろいものがあったりする。

たとえば、先日の「ロミオとジュリエット」では、
「恋愛って、どんなものですか? 人に恋するって、私にはよくわからない」
「恋愛って、やっぱりしてみなくちゃダメなのかな?」
という質問が。
こんなのは、18歳にしか書けない感想である。スレた大人になってしまった社会人の皆さんは、もはや書けまい。どこまでマジで書いてるのかわからんが、どうもけっこうマジらしい。

あるいは、「14世紀のイタリアの人々は、こんな服装をホントに着ていたんですね。びっくり」
という感想が。(1968年のオリビア・ハッセーが出る映画のこと)
もちろん14世紀イタリアの舞台を再現しただけであるから、映画を作ったのは30年前なのだが、ヘタすると30年前も400年前もわからなかったりするかも。いや、服装はもちろん歴史的考証はされているだろうが(アカデミーの『衣装デザイン』を受賞)、それ、「現代」につくった服なのだけど。

いくらなんでも、とは思うが、もしかするとマジで「14世紀イタリアで映画を撮った」と思ってる可能性が。

けど、やっぱ、高校の世界史は、やっぱり必修であるべきだな。本人たちがちゃんと理解するかどうかは別にして、
「なんかどこかで聞いたことがあるような気がする」
ってことだけでも、大事なことかも。

しかし、こういう質問の中には、いろいろ考えさせられるものもある。
「ロミオとジュリエットは、なぜ最後に死ぬのですか。なぜハッピーエンドじゃないんですか」
とか
「シナリオの先生に、『お話を作るときは、バッドエンドはダメ。できるだけハッピーエンドにしないさい』と言われました。それなのに、なぜこれが名作なのですか?」
とか。

「不思議の国のアリス」や「オズの魔法使い」でも、
「夢オチのつまらない話なのに、なんでこれが有名なんですか?」
と聞かれたり。いや、なかなか素朴な疑問である。

もちろん「ロミオとジュリエット」が最後にハッピーエンドだったら、たぶんそれはもう「ロミオとジュリエット」じゃないと思うし、夢オチも、「不思議の国のアリス」や「オズの魔法使い」が有名すぎるからだろうが、たぶん、これじゃ答えにならんのだろうな。

「かぐや姫はなぜ月に帰るのか?」
「浦島太郎はなぜ玉手箱を開けてしまうのか?」

いや、素朴な疑問は、たいへん結構なことである。ただ素朴なだけに、簡単に答えるのは案外、難しいんだよねえ。

そういや、うちの双子の娘たちにも小さい頃、
「なあ、ママって、なんでオンナなん?」と聞かれたことがあったなあ。

一瞬、
「ママが女じゃなきゃ、オマエら産んでねえぜ」
と思ったのだが。

しかし、どうせ彼女たちは、たぶん
「自分たちはどうやら『オンナの子』というものらしいが、そういえばママも『オンナ』みたいだな。なんでかな」
と、素朴な疑問を持ったにすぎないんだけどね。

ただ、こういう素朴な質問は、ちょっと返答に困るものでもある。
「でも、たぶん、ママも産まれた時にオチンチンがついてなかったからじゃないかな?」
と言ったら、なんとなく納得していただいたようだが。

「素朴な疑問」と言えば、今年もこの時期になると思い出すのが、例の「七五三」
(昨年も思い出したのだが)

「なあ、ママ。なんで七五三って、なんで七歳と五歳と三歳なん?」
「ええっと……それは、由来とか、歴史的な風習とかあるんやろなあ」
「なあ、なんで『七五三』っていうのに、753歳と違うん?」
「えっ、753歳?」
「七五三、やったら、753歳やろ?」
「そ、そんな歳の人間、おる?」
「うーん、おらんかなあ」
「そんな長生きの人って、おらんと思うけど?」
「そうかなあ。でも、ほら、人間じゃなくて、恐竜とか?」
「恐竜?」
「うん。恐竜とかやったら、753歳とか、おると思うねん」
「……そ、それはどうかな。たぶん恐竜もそんなに長生きせえへんと思うけど?」
「ふーん。でも、ボク、七五三やったら、やっぱり753歳やと思うねんけどなあ。なんで、七五三ってゆうのに、753歳と違うんかなあ」

というわけで、私は、毎年、この時期になると
「753歳の恐竜が、神社で七五三の晴れ姿を着ているところ」
を想像してしまう。いや、753歳の人間が七五三に混じっている方がおもしろいか。

いや「素朴な疑問」は、楽しいなあ。

こんな中1の息子は、いまも毎日なにかしら「疑問」を持っているようで、なかなか楽しそうである。ついさっきも、
「なあなあ。どんな球でも打てる無敵のロボット打者と、どんな打者も打ち取れる無敵のロボット投手が闘ったら、ママは一体どうなると思う?」
と聞いてきた。

「それって、『矛盾』の話?」(たしか国語で、故事成語を習っている)
「ボク、どうなるか、朝からずっと真剣に考えてたんやけどなあ」
「あんた、もしかして、よっぽどヒマやな」
「でも、やっとわかってんで。教えたろか!」
「なに?」
「答え、『バットが折れる』っ!」

そんなこと、ホンマに真剣に考えとったんか〜(彼ならやりかねないが)
(でも、その展開は、少年マンガの王道かも)

けど、たしか今テスト中。もうちょっと考えることあるやろ。勉強、まじめにせえよ。

11/29/2006

中身が大事

11月28日(火)
午前中、図書館。午後から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

あいかわらず雑用いろいろ。苦手な経理事務もかなりたまっているが、なかなか手がつけられず。丁稚どんは、専攻科の作品の印刷など。

小説講座は、10月から入学した10期生の作品集。今のところ、まだ簡単な作文とか5枚くらいの課題しかないので、まだよくわからないが、今年は、昨年にくらべれば、文章力はまずまず。提出率もいい。提出率なんかは、クラスの雰囲気なども多少影響するみたいで、提出のいいクラスはほぼ全員提出するようになるが、悪いクラスだと半数以下になるみたいだ。社会人向けの週1回だけ、たった2時間のクラスなので、専門学校ほどはクラスの雰囲気につられてしまうということはないが、それでも多少の影響はあるんだろうな。今年のクラスは、雰囲気もなかなかよさそうだし(まだ2回しか講義がないから、ホントはよくわからんけど)、このままぜひがんばってほしいなあ。

ただ文章力というのは、入学して半年もたてば、誰でもそれなりにうまくはなるので、あまりアテにならない。入学までにある程度たくさん書いてきたような人は、もちろん最初はかなりうまいのだけど、半年もたてば、文章力の差だけではさほど目立たなくなる。むしろ、なぜか書き慣れた人ほど、凡庸なアイデアを書く体質があるようで、パッとしなくなる傾向があるみたい。なぜなのかはよく知らないけど。もしかすると大量に文章を書く人は、よく吟味しない傾向があるのかなあ。パッと思いついて書いてしまうのかな。

たしかに書き慣れてない人は、なんでも書けるものを実際に書いてみるという方が大事だから、あれこれ吟味せずにとにかく書いてみることが大事だし、とにかくカタチになれば楽しいと思うので、あまり事前に考え過ぎないことが重要なのだが、ある程度、書き慣れてきたら、ネタを吟味したり、オリジナリティを出してみたり、あれこれ工夫してみるのも大事なんではないか、と。もちろん小手先のテクニックでチマチマと工夫するのではなく、真剣に何が面白いか考えて工夫してね。

思うに、注意すべきなのは、「講師や他の生徒さんにうまい作品だと思われたい」ということなのでは。もちろん「うまい」のはいいことなのが、「うまい」と「おもしろい」は違う。「うまいと思われたい」というよりは、「おもしろい」に集中している方がいい作品ができるような気がするので、あまり「うまく書こう」と思わない方がいい。その作品の何がおもしろいかがわかっていれば、作戦(プロットなど)や具体的な方法(文章表現)も自然に見つかるみたいなので、そこんところに集中した方がいいのが書けるかもしれないよん。


11/28/2006

小説とは関係のない休日(一日中くたくた)

11月27日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

夜10時すぎに帰宅。けっこうクタクタ。

11/27/2006

小説とは関係のない休日(ダイアモンドシティ・リーファ)

11月26日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

日曜だが、あいにくの雨模様。

自宅近くの今福鶴見に「ダイアモンドシティ・リーファ」がオープン。昨日、帰りに立ち寄ってみたけど、160の専門店にジャスコ。でかい。ただし、残念ながらシネコンはない。そりゃ、30分も地下鉄に乗れば、ミナミにも出れるけど、もしも映画館が徒歩圏にあればすごく嬉しいのになあ。

本日も雨の中、父親につれられて双子の娘たちは徒歩でおでかけ。昨日のオープン日にも行ったらしいのに。ただし、彼女たちのお目当ては、まだファッション関係のショップではなくて、オープン記念で配布してる「ユニクロ風船」なのであった。

11/26/2006

休講日ですが、課外実習です

11月25日(土)
小説講座も文章教室も、休講日。本日は、課外実習です。

午後から梅田で待ち合わせて、映画館へ。午前中の授業の片づけで5分ほど長引き、1時15分に映画館に到着するのは無理かな、と思ったのだが、なんとかギリギリ13:16に到着。13時35分の上映開始には、余裕で間に合った。課外実習ということだし、結局、生徒さんは一人だけ参加だったので、こちらで映画代も支払うことに。

映画を見てから、近くのカフェに移動して、ようやく「取材実習」を開始。この映画館の「美人支配人」へのインタビューは、「基礎レッスン講座」の唯一の男性Kさん。ものすごく緊張していたようだが、無事に終了(この支配人は、Oさんの友人で、もともとライターさんだったので、生徒さんの取材には協力的なのであった)

Kさんは、
「実際に取材してみて、ものすごくいい経験だった。すごく勉強になった」
とのことで、とりあえず、来週、インタビュー原稿を作成してみることに。

夕方、Oさんと夕食をとって帰宅。

11/25/2006

今日もあれこれ雑用色々

11月24日(金)
朝から小説講座の事務所。昼頃に外出。銀行など。夕方まで事務作業。

明日の土曜は、取材に行くため、今日のうちにかたづけなくてはいけない事務で大忙し。取材そのものは、ただのつきそいだけだから、気楽なものだけど。

11/24/2006

小説とは関係のない休日(終日、自宅で読書)

11月23日(木)
小説講座の事務所は、日曜、月曜、祝日お休みです。

せっかく祝日だが、ほとんど自宅で過ごす。中2の息子は、定期テスト直前。むろん勉強などしないが、さすがに家族で遊びにいくのは遠慮する。京都の博物館の『始皇帝と彩色兵馬俑展』の展覧会チケットをもらっていたのだが、夫がものすごく京都に行きたがったので、双子の娘を連れていってもらう。

小3の双子は、月に2〜3回、土曜日ごとに父親に「美術館」に連れていってもらっている。別に「英才教育」というわけではなく、美術教師でもある夫が「自分が見たい展覧会」があれこれあって、必然的にそうなってしまうだけである。なにせうちは、毎週土曜、母親が終日仕事で不在だから(小説講座の講義は毎週土曜)

だから双子の娘たちは、赤ん坊の頃から頻繁に美術館通いである。美術館に行くのは好きらしい。ただし、彼女たちは「美術」が好きなわけではなくて、たんに「アイスクリーム」が好きなだけなのだが。どうも「美術鑑賞のあとは、アイスクリームまたはパフェ」というのがお約束らしい。日頃、子供たちをアイスクリームやらパフェを食べに連れていくというのはまずしないが、おかげで双子の頭には「美術鑑賞=アイスクリーム」というのが完全にインプットされたらしい。
「よし、今日は、京都まで『兵馬俑』を見に行くぞ!」
と父親に言われた途端、
「じゃ、今日は、チェコパフェ!」
「わたし、イチゴ!」
と、すぐに返事を返す双子。日頃の父娘の情景が思わず目に浮かぶ。私がいない土曜日は、毎週、そうなのね。

おかげでカエルの子はカエルというか、すでに「現代美術」のうんちくまで知っているらしい。しかし、日本で人気があるのは「印象派」までだぞ。そんなものは、たぶん学校でも自慢にならんだろうよ。

というわけで、静かな自宅に残った私。息子は、一応、試験前ということで自分の部屋にこもり(何をやっているかは知らんが)、私はたまった山積みの本を少しかたづける。小説なら、通勤電車の中でもいつでもどこでも楽しく読めるが、専門書はちゃんと時間を作らないと無理だからなあ。いろいろ調べものをしながら読むことになるから、まとまった時間がないと読めない。小説なら、一日で数作読むのも軽いんだが。

11/23/2006

小説志望と好奇心

11月22日(水)
朝から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

今週末の土曜は、文章教室(基礎レッスン講座)の課外実習で、映画館の女性支配人のインタビューに行く予定。このクラスの担当者のOさんの企画で、わざわざ知り合いの美人支配人にアポをとってくれたのである。すごく珍しい企画なので、文章教室には大変ありがたい機会だ。いい企画だなあ。

ところが、生徒さんはたまたまアレコレ都合が悪いらしく、実際に取材に行けるのはたった一人だけである。もったいないけど、今回は課外実習だし、参加は自由なんでやむを得ない。でも、どうも今回取材できる人はとても忙しい人なので、こういう機会がいつとれるとは限らないから、たった一人でもなんとかインタビューできるなら、まだよかった。まあ、本来、インタビューなんて、一人でやるもんだしね。

でも、もったいないことは確か。もったいないが、このクラスは、もともと人数も少ないし、小説志望者が多いから、予想はしてたのである。実は、小説志望の生徒さんは、必ずしもフットワークが軽くない。とくに初心者なら、なおさらである。しかも、このクラスは遠方在住者が多いから、都合はつけにくいだろうし、取材なんか面倒くさがるんじゃないかなと思ってたのである。

「けど、生徒さんたちって、もしかすると、これが内容的にものすごく『もったいない』ことだと気づいてないんじゃないかなあ」
と、Oさんが言う。

でも、「もったいない」かもしれないが、そもそも「ほとんど取材を体験したことがない」って人にそんなことを言っても、どのみち取材の効用などは全く知らないのだから、本人たちにわかるまい。まあ、課外授業はさすがに手間がかかるので、滅多にやるつもりがないから、ほっとくことに(笑)

実は、小説志望の生徒さんは、「取材」というと、けっこう面倒くさがったり、イヤがったりする人が多い。さすがに小説講座では、「取材」という講義はないが、文章系のクラス、とくに「ライティング講座」など、小説もやれば、エッセイも、ルポも、いろいろ体験するようなコースだと、こういうことがけっこうある。小説志望者というのは、なぜかインタビューというと嫌う人が多いみたいである。とくに、初心者は嫌う。ま、小説を書くようなタイプの人は、「どっちかというと出不精」とか「けっこう人見知り」という人が多い。理由は知らんけど、

しかし、みんな「取材を嫌う」かというと、そういうわけでもない。生徒さんも何作か書いていくうちに、自分の視野がせまいのに気づくみたいで、専攻科クラスになると、何か機会を作って、必要な取材には行ったりする人が多い。そうなると、取材の仕方などに興味をもつようになる。まあ、ジャンルにもよるみたいだけど、書く内容によっては、どうしても取材みたいなことはいる。特殊な職業を使うとか、ある種の知識を必要になるとか。

エンターテインメント系の小説は、意外と情報量が必要になってくる機会が多い。娯楽小説ってのは、読む人は「気軽にかるく読める:かもしれないが、書くのは「気軽にかるく書ける」わけではないので、案外、手間がかかったりするのである。

なにせミステリだと、警察、法律、法医学関係の知識、あるいは、
「この情報は、医療関係者からもらうという設定がいいな。ということは、看護婦なんか、ちょっと登場させてみようかな」
とか
「こういうアリバイを使いたいから、こういう状況が欲しい」
となると、意外な調べモノが必要になったりするし、歴史小説なんかでも、あれこれ「文献研究」みたいなものは必要。ファンタジーなら、あまり現地研究はしないかもしれないけど、それでもやる人はやるし、だいたい一口にファンタジーと言っても、なにかしら土台があったりするわけだし、また直接的に必要がなくても、「イメージを使う」というのはあるし。

まあ、今は、インターネットがあるので、「情報」だけなら、自宅にいながらにして、いくらでも簡単に手に入る。たぶんプロの作家さんも、文献、インターネットなどで調べているんだろうなと思う。プロの作家さんたちも、たぶんもともとは「どっちかというと出不精」とか「けっこう人見知り」かもしれないし。

ただし、それでも「出不精の生徒さん」と、プロの作家さんたちとは、なんとなく違う気がする。

プロ作家なら、取材を全くしないかというと、そうでもないし。
それに、実際には「できるだけしたくないが、必要とあればする」のである。つまり、作品の質を上げるために必要ならば、案外やっていたりするのである。(プロなら、読者を喜ばせるためならそれくらい苦労はいとわない)

ところが、これが生徒さんの場合だと
「資料とか取材が必要になりそうだけど、そういう題材は、自身がない面倒くさいから書かない。あるいは、なんとかごまかす」
ということが、しばしばあったりする。

こういう時、私は、プロとアマチュアとの違い、なんてのをつい考えてしまうだけど、
「やっぱ、プロ作家になる人とそうでない人は、ここが違うのかなあ」
と思うのは、たぶん、こういう点である。

もしかすると、こういう「人」や「モノ」に対する「好奇心」の強さ、が違うのかもしれないけど。

作家さんたちは、たいてい忙しいけど、それでも文献研究はけっこうやるし
「以前から関心のある分野から題材を選んだので、こういう話なら、とくに改めて調べなくてもわかってるし、資料や本などは手元にたくさんある」
というケースもけっこう多い。

どうも気のせいか、プロ作家さんというのは、生徒さんに比べると、「関心のある分野が広い」タイプが多いような気がする。SF作家だと、もともと宇宙とか、ロボットとか、科学一般に興味があったりするタイプが多いだろうが、それ以外にも、いろんなものに興味をもちやすい体質があるようだ。どうやら、そのためにたぶん題材を選びやすくなっており、だからこそ、次々といろんな作品を書けるのかもしれない。好奇心が強いタイプの人が多い気がする。

入学してくる生徒さんの中には、たまに
「長年、大量に書き続けてきたのに、なぜかデビューできなくて」
という人がいる。こういう人の中には、作品を読ませてもらうと、なんというか、
「うーん。なんか、思いっきり閉じちゃってるなあ。きっと自分の世界だけが好きで、ホントはそれ以外のことは考えたくないんだろうなあ」
と、思うような作品があったりする。

こういう人の場合、「小説」ってのは、けっして他人に読んでもらって、他人を喜ばせたりするものじゃなくて、「ただの自分だけの世界」だったり、「あくまでも自分を認めさせるための手段」だったりするしなあ。こういう人は、自分を認めさせることには熱心でも、他人やものごとに対する関心が薄いタイプが多いからなあ。他人に対する関心というか、素朴な好奇心というか、愛情というか、それがちょっと欠けているようなタイプだと、なかなか書くものもシンドイものがある。あちこち無理があったり、独善的なので、読むのがツラかったり。
でも、もしかすると、陥りやすいワナなのかもしれないけど。

さて、一応、これは私の個人的な意見なのだけど、インタビューとか、あるいは現場に行ってみる、というのは(確かにめんどうくさいが)、けっこう大事である。取材の効用はそれなりに大きい。実際、ホントは情報だけなら、本を読むなり、インターネットで調べるなりすればいいだけなのだろうが、そこに書かれた情報は、やはり限定された情報である。

また、知っといてソンはないと思うのは、その場の「雰囲気」というものだ。こればっかりは、文献資料ではわからない。

小説ってのは、ウソ話なのだけど、そこにホントっぽさがあれば、リアリティが出る。ホントにうまいウソつきは、ウソとホントを上手に混ぜる。ホントっぽく見せるには、ホントのことをほどよくちょびっとずつ混ぜておくのが効果的なのだ。リアリティを出そうとして、ヘタにあれこれ並べ立てるとかえってボロがでて、矛盾点が目立ったりする。

インタビューとか、とくに改めてする必要はないと思う。でも、できれば何か機会があったら、自分とは違う仕事をしている人と話してみるとか、その雰囲気を知っておくのも、けっこう重要だと思う。そりゃ、今回の課外授業は、「映画館の美人支配人」だったので、それがそのまま「小説に使える」かどうかはわからんけど。

いずれにしても何作か書き続けてくると、次々とネタを仕入れないと切れてくる。

忙しい時とか、切羽詰まった時にやるのはやっぱり時間的にも体力的にも(あるいは金銭的にも)大変なので、日頃から何かの機会とかあったら、自分なりにチャンスを見つけてやっておく、というのがいいのではないかと思う。ま、好奇心はなるべく全開に。

ところで、4月から文章教室の講座を受け持ったOさんが、生徒さんたち(うちの講座は、社会人向け)と接していて、ちょっと心配になったのは、いわゆる「普通のOL」さんたちの「視野のせまさ」なのだそうだ。Oさんはもともとカメラマンだから、インタビューなどはそれこそ何百回も経験していて、いろんな業種の人に会っているだろうから、生徒さんたちの「交際範囲の狭さ」「視野のせまさ」それに伴う「発想力の弱さ」などが気になるのかもしれない。

それはそうかもしれない。私は、さすがに十年も文章講座の運営をやっているので、それにはすでに慣れているので、今はあまり気にならないけど(なにせ専門学校の生徒よりはましだし)

それで、
「たまには、業種の違う人などと会って話を聞いてみるのも大事だし、映画館の美人支配人だから、もしかすると小説志望者にも役に立つだろう」
と、わざわざ今回の課外実習を企画してくれたそうだ。けっこう優しいところがあるOさんである。から。

ただ、思うに、もし小説志望の「視野のせまさ」が問題になるとすれば、それは実生活での経験の有無というよりは、日頃、いろんなことに「好奇心」があるかないかがおそらく違う。あとは、そこに「いろんな立場の違ういろんな人物」に対する「想像力」があるかどうか、という点だろう。いろんな立場の体験は多いにこしたことがないが、直接的には関係がないかもしれない。

いわゆる普通の学校を卒業して、普通の会社員だとしても(ただいわゆる「普通」というのは案外いないものなのだが)、似たような友達しかいなかったとしても、それはそれ。要するに「世の中には、違う立場の人、いろんな考え方の人もいる」という「想像力」があるかないかの問題である。まあ、ただ、取材はそのための「気づき」のきっかけにはなるだろうけどね。

小説の空想力というのは、まったくのゼロから作り上げるというよりは、案外、なんらかの「材料」が必要な場合が多いようだが(もちろんその素材をどんな化学変化をさせているかどうかは別として)、この「好奇心をもつ」というのは、その材料の質と量に影響を及ぼす。

しかし、好奇心の強さというのは、その人の体質やら、思想やら、心境なんかにも左右されてしまう。だから、それが小説を書いたり、文章を書くうえでかなり決定的な違いを生み出すとしても、それ自体は、小説講座や文章教室で教えられるもんではないのである。

とくに小説志望の人の中でも、「作品が閉じちゃってるなあ」という人は、かなり難しい。そもそも本人にはこの「閉じちゃっているなあ」という意味がわからないだろうし。そういう場合、たとえ本人にそういうことを言ってあげたくても、結局、私としては、ただ本人が気づくのを「待つ」しかないのである。

小説を書きはじめたばかりの人は、テクニックや書き方では悩むが、そういうことで悩んだりしないし、作品自体がまだないので、あまり問題にならない。ところが短編を数本ぐらい書いて、長編2本目くらい書く頃になると、そういう落とし穴みたいなところに入り込む人はいる。その手前くらいでいくら気づく人は気づいたりするが(むろんいつまでも気づかない人もいるが)

ただ、どのみち本人が気づくまで、ほっとくしかない。結局、そこんとこは、なにせ「教育上」たいへん困難なので(まったく放棄しているわけではないけどさ)、やはり文章の指導とか構成くらいしかできぬのである。

11/22/2006

幸福な世界を破壊し、摩天楼の老人に

11月21日(火)
昼から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

本日、丁稚どんはまたもや美少年同伴。ワークルームにおしこんで、ボランティア活動にいそしんでもらう。

専攻科の生徒作品で、まだいくつか気になるものがあるのだが、修正連絡をしていいものかどうか。なかなか勇気がなくて、連絡をとれない作品がまだ残る。
それはそうと、今日も、またまた「ある人」の作品をチェック。
「え、まだですか? 公募用の原稿も書かないといけないんで、さっさと終わらせたいんですが」
と本人は言うけど、どんな事情があっても、やはり他人に見せる以上、作品には最後まで責任をもたないとね。どうみてもまだ完成作とは言えないような。なぜって、幻想的な作品ほど、文章にはこだわらないといけないものなので。いくつか穴が開いたままの布では、耽美な世界を綴ったとはいえないだろうし。

さて、美しいお話を美しい言葉で綴りたければ、まずはそのイメージを鍛える方がよろしいかと。言葉は水先案内人で、それぞれの服は着てオーラをまとっているけど、それはそのものであってそのものではない。足下ばかりに気をとられると、つまずいてしまう。イメージに集中しつつ、強く祈れば、言葉は必ずあなたの懐に降りてくる。

思っているイメージが他人に伝わらないという人に限って、その世界は曖昧のまま、見えているようで実はちゃんと見えてはいない。そのまま一人の世界でずっと遊んでいたいなら別だけど。

ふと、石ノ森章太郎の「マンガ家入門」のあとがきを思い出す。

「自分で創造した世界を破壊して、たくさんのアカの他人たちを楽しく暮らさせるための努力をしなくてはいけない王様。摩天楼の老人……」

それでもあなたは幸福ですか、と、早く死んだマンガ家は言うのだ。さらにそれなら、と。

小説も、趣味で書いている方が幸福なのに、みんなプロになんか本当になりたいんだろうか。摩天楼の老人になって、本当に幸福と言い切れる人が一体どれくらいいるのだろう。それを思って一瞬、私は、怖くて身震いをする。時々そんなふうにおそれている自分を励ましている。

ま、どのみち私が住むわけでもないんだけどね。
いや、だからこそ、余計に心配なのかもしれないけど。

11/21/2006

小説とは関係のない休日(買い物に便利)

11月20日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝、隣の家の方から、妙な声が聞こえてくる。どうやら「お祓い」の声らしい。隣の家は、ようやく取り壊しが決まったらしいので、そのためのものだろう。しっかり2時間近く、なかなか丁寧なお祓いである。あとで見たら、うちの家の前にも、白い細かい紙くずがものすごくいっぱい落ちている。雨にぬれたのか、べったりはりついて、ホウキで掃いてもとれない。ま、いいけど。どんな効き目があるのかな。

昼11時頃に、外出。夜10時過ぎに帰宅。
夜、自宅近くの地下鉄の駅に着くと、見なれない表示がある。
この近くに「ダイモンドシティ」が建設中で、それが今月25日にオープンするそうだ。そのための案内板らしい。このあたりは、住宅地なので、商業施設が多い。それなのに、また新しいのが出来るのだ。こんなにあって大丈夫なのか。他人事ながら心配だぞ。

私のうちは、1キロ圏内にすでにスーパーが6件ある(ダイエー系列のサカエ、サボイ、ライフ、玉出ほか)、そのほか2〜3キロ圏内には、巨大ショッピングセンターが3〜4か所。アウトレットのブロッサムも3キロ圏。そのうえ、ダイアモンドシティ。たぶんジャスコが入るはずだ。もしかするとここらへんって、買い物の利便性を考えたら、全国一なのかもしれないなあ。定年してからすっかりヒマな実家の母は、自転車で4キロ圏内をうろうろ買い回りしているらしいのだが、イズミヤ、関西スーパー、マンダイなど、十数件のスーパーがあるので毎日忙しいらしい(いいヒマつぶしである)。都心部とは違って、高級ブランドショップなどではなく、スーパーばかりなのは有り難いけど。たしかに大阪市鶴見区だけで10万人以上いるはずだし、しかも30代人口が多く、これがほとんどファミリー層なので、消費人口はかなり高いはずである(昨年の統計によると、30代人口だけで2万人以上)。しかし、少なくとも全国的にめずらしいほどの激戦区ではあるのだろうな。

それにしても、こっちにはたいして時間も金もないのに、そんなにいっぱいあってもなあ。

11/20/2006

小説とは関係のない休日(「バビロニアウエーブ」)

11月19日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

先週、自宅のパソコンがようやくネット開通したのだが、やはりチマチマ不都合あり。時間がかかるものだとは思うけど、使いこなすまでまだ色々ありそうである。

双子の小3の娘、姉の方が「伝染性胃腸炎」になり(学校で流行しているらしい)、昨日の土曜参観もお休みである。どうも先週の息子の体調不良も、風邪ではなく、これだったようだ。
なんだかんだで、天気も悪いので、自宅でおとなしく家事いろいろ。なにせ衣がえも完了してないし。冬物がまだ出てないんだよね。

夕方、講師の先生と待ち合わせていたので、久しぶりにバスに乗っておでかけ。ずっと探していた堀先生の『バビロニアウエーブ』をゆずってもらって大喜び。ラストのあの壮大なイメージがかなり好き。むろん読んではいるのだが、まだ持ってなかったのだ。わーい嬉しい(古本屋でけっこう高く売っている)

帰りもバスに乗って帰宅。銀橋(桜宮橋)のところを通りかかる。並んでいるのは、新・桜宮橋。もうすぐ開通するはずだが、はて、いつだったろう。そういや地下鉄「今里線」は来月開通。

11/19/2006

ありふれた土曜、文章教室と小説講座のある日常

11月18日(日)
朝から外出。午後から文章教室(「基礎レッスン講座」)、夕方は、小説講座(10期エンターテインメントノベル講座)

「基礎レッスン講座」は、第2回目の講義。天候悪く、今日は出席率が悪いのだが、出席者が少ない分、一人一人にじっくりできるのが有り難い。原稿用紙2枚の作品、一人あたりゆっくり30分〜40分ほどかけて作品合評、色々コメントなど。とくに三人分を丁寧に。生徒さんたちは、まだけっして文章がうまいわけではないが、とにかく一生懸命書いている作品だし、書きたいことも割とはっきりしている。こういう作品は、一度書き直せばぐんとよくなるし、それによって本人の文章力もすぐに上がるので、はたで見ている私の方もなんだか楽しい。

ところで、生徒さんの中には、入学するなり「とにかく文章テクニックを覚えたい」とか、あるいは「文章力さえ教えてくれればいい」という人がたまにいる。それはそれでいいのだが(文章講座だけではなく、専門学校のマンガコースでも同じように「絵さえうまくなれば」という人がけっこういるので、似たようなものかな)、中には、文章技術を習得することばかりに気をとられて、「何を書くか」ということをさっぱり忘れているみたいに見える人がいる。なんだか妙なことだと思う。

文章には、「何を書くか」という問題と「どう書くのか」という問題がある、と考える。もちろんそれらは別々に考えることもできるにはできる。しかし、実際には「何を書くか」と「どう書くのか」を完全に切り離して実行するなんてことはそもそも不可能である。

これは、料理にたとえればわかりやすい。たとえば「包丁で、これをこうやって半月切り、これはこうやってみじん切り」などというふうに、もしかして技術だけを一つずつ教えることはできるかもしれない。けど、実際には、どういう時にどういう理由でそれを使うかというのを知らないと意味がない。それぞれの食材の切り方などは、たとえば具体的なメニューとか、食材の状態などで決まるわけで、それはあわせて一つ一つ覚えていくしかないのである。つまり、ある技術を学ぶということは、単純にその方法だけを学ぶのではない。それがそういう場面でどう使えばいいかも知らないとあまり意味がない。

ただ、料理の作り方といっても、中華料理とフランス料理じゃ、道具も方法もかなり違う。ちょっとかじるくらい、あるいは「家庭料理」に役立たせる程度なら、広く浅く学んでそこそこ作れればいいんだろうけど、もしプロをめざすとなれば、ありとあらゆる技術を身につけるというのは無理である。

さらにプロの料理人ともなれば、食材にも気を使わなくてはいけないわけで、つねに新鮮なネタを確保するというのも、料理人の技術のうち。食材が新鮮かどうか見分けるのもプロの仕事。どうしても新鮮なネタが手に入らない時は、料理方法を工夫してそれなりの食材でもなんとかお客さんを楽しませるのもプロ。ま、つまり技術も重要なんだけど、いろいろ同時に学ばなくちゃいけないことも多い。

だもんで、具体的なメニューなどをアレコレ作ってみながら、覚えるのが一番てっとり早いというわけなのである。「テクニックだけ」を知ったとしても、それはそのまま身につけるわけにいかないしね。ま、うちの小説講座では、様々なジャンルのプロの先生たちがあれこれ色々なことを話してくれるけど、結局は、自分の作品をあれこれ作ってみて、そのうえで必要な技術でない限り、どっちみち身につかないのである。文章技術には、いろんな方法が無数にあるものだし、どのみち全部の方法をすべて知る、なんてのはたぶん無理である。そういう必要もないと思うし。

だから、とにかく「こんな料理が作ってみたい!」という意欲にまさるものはない。目的がわかっていれば、自分に必要なものは何か、自分で考えようになるし。

ただ、生徒さんの中には、自分が何が書きたいかよくわからない、という人もけっこういる。私が見る限り、書いた文章を見れば、たいてい何らかの傾向は見つかるものなのだが、どうも自分ではわからなくなっているらしい。ま、こういう場合、他人に教えてもらってもそれはダメだから、私がお手伝いすることはできないもんなのだけど。その時期が来ないとわからないのである。それも書き続けることによってしか見つけられないことが多いんだけどね。

書き言葉というのは、ホント難しい。思ったことを思った通りにしっくり伝わった、という実感を得られることは、それほど多くはない(ただ、本当は話し言葉も、実はそういうものだと思うんだけどね)、まして慣れてない時はやはりうまくいかない。でも、努力すればけっこう報われるもんなんである。いや、ホント。

夕方から、10期の前期ガイダンス。毎回、このガイダンスで、原稿用紙の書き方など簡単な注意事項は説明することにしている。今年はめずらしく出席率もいい。ま、いくら口で説明しても、自由課題の提出が少ない人は、半年後の前期課題の時でもやっぱりできなかったりするけど。頭で理解してても、実際にできるかどうかはまた別らしいからなあ。今のところ、去年よりはやや書き慣れた人が多いという印象があるクラスだけど、まだわからない。ま、書き慣れているか、書き慣れてないか、は、案外うちの講座では、差がついたとしてもせいぜい前期課題のときくらいまでで、修了課題の頃にはかなり追いついたりするもんだから、それほど問題ではないのだが。文章力だけなら、真面目にやれば、一年ぐらいでかなり追いついてしまう。ただ、やっぱり注意されないと自分ではわからないこともあるけど。

ガイダンスのあとは、毎年恒例の「キャラクターシート」によるグループ実習。とはいっても、たったの20分ほどしか時間がなかったので、ちょっと試しにやってみた、ってくらい。この実習は、ホントはあとで発表するのがメインなんだけど、それはできず。いろいろ印象が違うあたりを聞きくらべるところが面白いもんなんだけど、そこまでできんかった。ま、この講座は、プロ作家によるレクチャーが中心で、あとは作品指導もあるから、どのみち教室実習などはほとんどやれない。この実習もほとんど遊びみたいなもんだから、最後までちゃんとできなくても別にいいんだけどね。

3人分のキャラクターを任意に組み合わせるという実習なのだが、ホントはあとで各グループに発表してもらう。これを聞きくらべるのが面白い。一見うまくいく組み合わせの方が、聞いてる人には案外つまらなかったり、印象に残らなかったりして、かなり無理がある組み合わせの方が他人が聞くとおもしろい。また、3人とも地味なキャラだと印象に残らないが、かなり変わったキャラが3人のうち2人・3人いると、それぞれの行動パターンが覚えられないので、この場合も、他人がその状態を理解しにくい。つまり、できれば3人のうち1人だけが突出しているか、あるいは、ほとほどにパターンが違うという組み合わせが他人が聞いていて一番わかりやすく、面白く聞こえる。キャラクターの魅力も、意外と単独の問題ではなくて、周囲の人間との組み合わせ次第だったりする。

てな感じで、実習をちょっぴりやってから、講義後いつもの中華屋さんへ。今日は、とくに講師がいない日なので、参加者は少なめだが、どうやら早くも一組、漫才コンビ(?)結成したらしい(仮に、美女人妻コンビと呼んでおくが)。このコンビに、かわいそうにライティング講座から編入したYくんがすっかり餌食になっている。彼は、半年のライティング講座の間、ナナメにかまえた雰囲気で、ずっとすました顔をしていたクセに、小説講座に進学した途端、「ブラックなオタク笑いのツボ」をしっかりこの二人につかまれてしまったらしい。無惨なほど、ゲラゲラ笑わされている。うちの講座はどうしても毎年、ディープにオタクな生徒さんが多いから、どのみちこの中でオタクの血を隠すのはほぼ不可能である。しかし、この半年の彼を知っているだけに、カミングアウトしてからあっという間の陥落ぶりが面白い。クールなはずの彼が、そないに「ゲラ」だったとは。オタク体質にはうすうす気づいてはいたけど、ふーん、そこがツボだったのかあ。
ライティング講座から同じように進学してきたMさんも一緒に驚く。
「でも、きっと彼もようやく本当の居場所を見つけたんですよね。よかったよかった」
私もとりあえず祝福を。しかし、人妻コンビにもてあそばれて、あまりにも苦しそうに笑い転げているYくん。ホントによかったのかどうかは、天のみぞ知るのである。

11/18/2006

ジュリエットの親よりも

11月17日(金)
朝から小説講座の事務所。夜9時半頃まであれこれ残業。

専門学校の方でも非常勤講師をやっているので、今週は「ロミオとジュリエット」をとりあげている。シェイクスピア作品で、ちょっとした講義で、それなりに軽く解説できるのが、この作品くらいしかないからという選択だが。ま、ほとんどの学生がちゃんとしたストーリーを知らないから、これも「一般教養」というヤツである。

さて、この作品。もちろん見る人によっては、「単純な若いバカップルが不運に巻き込まれて死ぬだけの話」なのだが、幸福から不幸へ急転直下のスピーディさ(なにせ一目惚れから結婚、追放、脱出計画が失敗して死ぬまでたった5日間)、登場人物の印象的な(かなり妙な)セリフ、典型的な思い違いとすれ違い。仮死の薬による脱走計画というヘンな計画にその失敗。もうほとんど喜劇としか思えないほどのバカバカしい話だが、それでもさすがシェイクスピア。やはり見るたびに、いろいろ発見はあるのであった。で、今年も、あることに気がついた。

「ロミオとジュリエット」は、いろいろ翻案などされているのだが、映画で有名なのが、1968年制作の作品(オリビア・ハッセーがジュリエットのヤツ)と1996年制作のもの(ディカプリオがロミオのヤツ)。私は、授業で解説するために、両方とも数十回見ていて、今週だけでも5〜6回は通して見たのだが、今年は私、なぜか「ジュリエットの父」が、妙に目につく。登場するシーンが多いわけではないから、今までぜんぜん気にもしてなかったのに、今年はなぜか気になるのである。

ちなみに、1996年の方のジュリエットの父は「ただのわからずやのヤクザなオヤジ」に見えるので、どっちかというと1968年版の父親の方が面白い。どうも新しい方の作品は、脇役の登場人物はかなり類型化したわかりやすいキャラにする意図があったようで、父親の心境はあまり見えてこない。だから、パリスとの結婚を急ごうとする父親にどうしても不合理なものを感じるのだけど、1968年の方は、原作にあるセリフがけっこう残っているので、そのせいか「ジュリエットの父」があわれに見えてきた。うーむ。去年まで原作読んでもあんまり気にならなかったのになあ。

これって、あの「シェイクスピアは、大人になってみるとまた味わいが違う」というやつなのかも。やっぱり、人間の愚かさを描かせれば世界一ってか。なるほど、そういう味わいがあったのか。

私は、大学もとくに英文科でもなかったので、シェイクスピアをちゃんと学んだわけではないし、実は「ロミオとジュリエット」でも、もともと涙を流すタイプでもない。性格的にはかなり涙もろいタイプで、映画館ではちょっと悲しそうな音楽がかかっただけでもちゃんと泣けるタイプなのだが、どうも残念ながらこのストーリーは私の泣きツボではないらしいのである(音楽は泣けるけど)。

だから「ロミオとジュリエット」のよさがわからない、って気持ちもあったりするのである。
「あれれ。なんだ、けっこうおもしろい話じゃないか。なるほど、みんながしつこく上演するだけの価値はやっぱあるのかもしれないな」
と思うようになったのは、かなり最近になってからで、演出の違いが楽しめるようになったのもここ数年である。

ところで、「ジュリエットの父」なのだけど、よく見ると、これがなかなか面白い父親で、これまでただの頑固おやじだと思っていたのだが、むしろ「ただの親バカ」だったみたいである。

この人は、最初、パリスからジュリエットの結婚を頼まれても
「いや、うちの娘はまだ若いから、あと2年は待ってもらわないと」
などと断っていたはずなのに、いとこのティボルトが殺された途端、急に
「今週、結婚することに決めてきたぞ!」
などと言い出す人物である。ストーリー上、このためにジュリエットが追いつめられるのだが、しかし、考えてみれば、これは彼にとっては無理もないことなのである。

どうもあんまり娘が大泣きしているので、「やっぱり今週、結婚式を急いでやってもらいたい」などとパリスに頼んじゃったりするわけで、実は、どうやら彼は「ただの親バカ」らしい。このシーン、ジュリエットに感情移入して見ていると、この「いきなりなオヤジ」がただの気まぐれな頑固おやじ、わからず屋のオッサンに見えてしまうんだけど、ちょっとばかり父親の立場で考えてみれば、これも無理もないところもある。

つまり
「あまりにも娘が大切な親バカなので、かわいい娘が大泣きしているのがどうにも見ていられず、ハンサムで性格もいい金持ちのパリスに頼んで、せっかく承諾をもらって結婚式を早めてもらおうとした。で、てっきり娘にも喜んでもらえると思っていたのに、なぜか娘は、まったく理由もないはずなのに理不尽にも『そんなこと、ぜったいイヤ』などと言う。だから、ついついキレちゃった」
……なのであろう。なにせ、彼は、何も知らないのである。いやはや、かわいそうに。

何も知らない彼は「ワシはこんなに娘のことを思っているのに、なんで娘はわかってくれないんだ」と思っているだろう。それなのに、娘に死なれてしまう(しかも結果的には、二度死ぬ)。なんとかわいそうなオヤジであろう。

一方、その娘は、本当は、兄妹のように仲良かったイトコが殺されて死んだことよりも、男が追放になって会えなくなる方が悲しい、のである。

なにしろ、この娘。たった一回出会っただけの男と翌日には勝手に秘密結婚をして、その直後に男が人殺しをやった(しかも自分のイトコ)のを知っていて、その夜には自分の部屋にひっぱり込み、その彼がちょうどさっき朝帰りしたばかり、という娘である。どう考えても、むちゃくちゃな娘である。なにせお嬢様育ちのうえに、まだ13歳だから仕方ないけど(今なら中学2年生)

実際、彼は、「他の子供はみな育たなかった(どうもジュリエットには、妹や弟がいたがみんな死んだらしい)、今の私には、大切なこの一人娘の結婚が一番の気がかり」なのである。だから、決して単純な思いつきではなく、結婚をいそぐのは、娘のためを思っての行動なのである。うーむ。親の心、子知らず。子の心、親知らず。こう考えてみれば、どこでもありそうな親子げんかなのだなあ。

それにしても、ジュリエットじゃなくて、その両親につい同情するようになってしまった自分がちょっとアレである。でも、そんな歳なのかもしれないなあ、と思ったら、ふとジュリエットの母は、私よりもずっと年下だということに気がついた。ショック。

なにせジュリエットは、「あと2週間くらいで14歳の誕生日がくるはずの13歳」なのだが(結局、5日後には死ぬので、13歳のままなのだわね)、その母は「私があなたを生んだのも、今のあなたと同じ歳だったのよ」と、つまり、せいぜい28歳くらいってことなのである。うーむ。なぜか今までぜんぜん気づかんかったけど。

ま、とにかく私も、そういう歳だ、ということなのかなあ。

それにしても、かわいそうなのがパリス。せっかく性格もよくて、美男子なのに、結婚式の当日に花嫁に死なれ、しかも原作では、墓場にやってきたロミオにむだに殺されてしまう。相当に不幸な人である(映画では、どちらもこの場面がカットされているので、死なずに済んでいるけど)。彼は、死ぬ前に「ジュリエットと一緒に埋めてくれ」と言い残すのだが、きっと死後も、この人の願いはたぶんかなえられないことでしょう。この話で、間違いなく一番かわいそうなのがこの人。


11/17/2006

ファンタジー世界におけるテレビと食事メニュー

11月16日(木)
午後から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

このところ、かなり遅くまで事務所にいるのだが、さっぱり仕事が片づかない。山積みの生徒作品を前に、今日もどうしたものかと頭を抱えている。

夕方近く、専攻科のNくんが来館。彼は、今回「ほがらか3」という短編を提出しているのだが、これはすでに5、6回も作品チェックをして、そのたびに書き直している(たぶん第7稿くらい)。とにかく人にいろいろ相談しながら書きたいタイプの人で、相談しているうちに何かしらアイデアがわいてくるらしい。書き直してきて、もってくるたびに面白くなっていくのは確かである。

ただし、最初持ってくる時は、ほとんど「あらすじだけを書いた」みたいな文章のところもあるし、誤字も多い。あきらかに未完成原稿である。それを人に相談しながら、だんだん完成させていくやり方がこの生徒さんにはやりやすいらしい。まあ、そんなわけで、事務所に家が近いので、時々、自転車でふらっとやってくる。

「けど、こんなに面白いアイデアがこれだけ思いつくんだったら、なんでそれを最初から書いてないの?」
「それができればいいんだけど、どうも人に話したり、見てもらったりして、何かしないと思いつかないみたいで」
という。小説講座では、こういうタイプは案外めずらしい。たいていの生徒さんは、未完成の作品を人に見られたりするのは嫌がるもんだけどね。

「あれ。あの作品なら、12月の講師指導をお願いすることになってるけど?」
「いや、そうじゃなくて、このあいだ預けた作品のコメントをもらいに来たんだけど」

そこで、はたと思い出した。そういえば、また別の作品も預かってたんだった。しかし、あれは、どうコメントしていいかわからない。何が書きたいのかさっぱりわからん作品だもん。それぞれがどう絡んでいるのかわからないエピソードが延々と続くファンタジー作品で、登場人物もめちゃくちゃ多くて、そのどれが主役だかわからない(視点人物もわからない。たぶん決まってないだろうが)

そもそも全体のストーリーらしきものがあまりないので、何が書きたいのかがわからない。こういう作品は、さすがにコメントしようがないので、急に聞かれても困るがな。生徒さんの書くファンタジー作品では、設定だけ思いついて書いたというのがこのパターンである(このタイプの作品を私はひそかに「設定ファンタジー」と呼んでいる)。こういうのは、ストーリーらしいものは、たいていほとんどない。せめて主人公が決まっていればいいのだが、それも誰かわからん。それぞれのキャラクターもバラバラで、性格もよくわからないし。

「狙いがわかる作品なら、コメントしようがあるんだけど、あれは何も言えないヤツでしょう。今の状態だと、何が書きたいのかあれじゃさっぱりわからへんもん。せめて、何の話かわかればいいんだけど、そもそもアレ何が書きたかったの」
「いや、ちょっと書いてみただけやから」
「とにかくあれじゃ、全体のストーリーもよーわからんよ。さすがにコメントもしようがないよあれは」
「やっぱ、ダメかな」
「ダメってことないけど、どうしたいのかが私にはわからんから、アドバイスもしようがないやん」
「オレ、やっぱ、ファンタジーは向いてないのかなあ」
「どうかなあ。ギャグならあれだけバンバンと新しいアイデアが出てくるところを見ると、やっぱ、シリアスなファンタジーよりは、ギャグに向いてるのかも。でも、ギャグなファンタジーもあるしさ」
「かっこいいファンタジーに、あこがれてんだけどなあ」
「本人の理想と適性には、けっこうズレがあったりするもんだけどね」
「やっぱ、ギャグの方が、書いてても自分でも実感あるしなあ」
「まあ、この作品はストーリーだけじゃなくて、この世界設定がようわからんからなあ。だって、この設定、かなりむちゃくちゃやで」

実は、これは剣も魔法もドラゴンもいるバリバリのハイファンタジー世界なのだが、疲れた戦士がドラゴンレースをして家に帰ったら、トートツに「テレビ」があったりする世界なのである。わけがわからん。

たしかコレは、前に作品指導も受けたのだが、その時も先生に
「ファンタジー世界に、テレビはないんじゃないの?」
とツッコまれてた、アノ作品である。ふつうのファンタジー世界には、テレビはないよね。テレビがあるということは、テレビ局とかもあって、当然、電気とかある世界なのかってことになるわけだし。

で、もしかしてこの魔法使いとかドラゴンが現れる村には、実は、電信柱とかあったりするのかよ。でもって、関西電気保安協会のオジサンたちが(テレビCM放映中)、電線の保守作業をやってて、時々電線にできたドラゴンの巣を取り除いたりするのか。んな、阿呆な。

しかし、彼は、講義後の飲み会でも
「えー、やっぱ、テレビがあったらヘンかなあ。そういう世界やねんけどなあ」
と、まだ納得いかない様子だったので、
「そういう世界って、どういう世界やねん」
と、その場にいた他の生徒さんたちが一斉にツッコんだことがある。こういう伝説の持ち主がこのNくん。やっぱ、シリアスなヒーローファンタジーよりは、ギャグ向きなのでは……。

ギャグならともかく、シリアスなファンタジーの戦士が何の説明もなくいきなり「テレビ」なんか見ちゃいけないぞ。時代小説なら、侍がいきなり「コップ」で水を飲むようなことだよね。湯呑みか、茶碗か、なんか知らんけど、とりあえず江戸時代の侍が「コップ」で水を飲んだらダメやん。そんなん世界観がむちゃくちゃである。

もし魔法使いや戦士が、家に帰って「タコ焼き」とか「チョコレートドーナツ」を食べたりしたら、どんなシリアスなカッコよかったお話でも、その一瞬でいっぺんに台無しになる。たぶん間違いない。そんなもんトートツに出てきたら、
「うええっ!? この世界に、なんでそんなモンがあるの!?」
と、絶対びっくりすると思う。もちろんギャグならいいのよギャグなら。

ちなみに、うちの小説講座では、ファンタジー世界における戦士(または魔術師)の生活問題では、「ポタージュ境界」あるいは「ポタージュ・ライン」というモノが知られている。

バリバリのファンタジー世界で、魔法使いや剣士の皆さんが食べるメニューとして、
「ポタージュスープは、アウトかセーフか」
という、あの「ポタージュ問題」である。

現在、伝統あるうちの小説講座では、
一応、「ソフトなファンタジー世界だったら、ポタージュはあるいはギリギリセーフかもしれないが、ポタージュスープならちょっとヤバイ。コーンポタージュスープなら、もうほとんどダメ。でも、できれば戦士や魔法使いの皆さんは、野菜スープなどを食べさせておくべし」
という見解が出ている(公式見解?)

そりゃ、もちろん作品によるし、人によっても意見の分かれるところで、「ポタージュもダメ」という人もいたり、「(何か架空の)ヤイカ芋をすりつぶして作った野菜スープ」じゃないとダメという「原理主義」もいたり、あるいは「ヤイカ芋のポタージュなら、オーケー」という人もいる。

だいたい「コーンポタージュスープ」だとアウトだが、「ポタージュ風のスープ」ならギリギリセーフの人が多い。どうやら「ポタージュ」が境界線ラインで、そのあたりで人によって意見が分かれるところらしいのである。

そんなわけで、ファンタジー世界の食事としては、「ポタージュ」がギリギリ境界ラインということになり、この境界ラインを「エンターテインメントノベル講座」では、「ポタージュ・ライン」と呼んでいる(私だけかもしれないが)

詳しく知りたい生徒さんは、ファンタジー創作法の教科書「第3章 ファンタジー描写の方法」の「食事シーンの書き方」を参照のこと(笑)

……てなことを思い出したのは、ちょうど専攻科の他の人の作品に「じゃがいものポタージュ」があったから。

ファンタジーに限らず、世界描写というのは、けっこう微妙。ま、ストーリーが面白ければ、たいていどんなもんでも何とかなるんだけど。もっとも一切、食事をしないという手もあるし。余計なことを書くなら、何も書かない方がまし。いや、ヤバけりゃ削れば済むという意見も。それにしても、その肝心のストーリーが弱いと目もあてられぬ……。

11/16/2006

生徒さんの小説作品に一喜一憂

11月15日(水)
午後から小説講座の事務所。

あいかわらず、地味な事務作業。

昨日、締切った専攻科の生徒作品を2つに分け、作品指導講義のスケジュールを検討。本人に連絡して、書き直してもらう分は、その修正期間のスケジュールを考えないと。

今回、さすがに誤字とかタイプミスはほとんどなくて、書き直しをお願いするつもりなのは、どちらかというとレベルの高い作品の方だけである。書きなれてない生徒さんは今の状態が精一杯なので、もしお願いしたとしてもコレ以上直せないかもしれない。それに私にもちょっと説明するのが難しいから、こういうのは講師に直接お願いするしかないなあ、と思ったり。

でも完成度が高い場合は、できることならもっと上のレベルで講師指導を受けた方がいいと思うので、やっぱり単純なミスは直しておいた方がいいと思う。しかし、うまい作品ほどたった一行が余計なのが致命傷だったり、ほんの少し説明不足なだけで、その些細なことのせいで全体が命取りになるというのは、どこか不思議な気もする。長編でも、そういうほんの一行でまったく違って見えてくるものだ。まあ、ちょっとしたことで全体の印象が決まるような部分なら、どうせならちょっと直しておいた方がいいように思う。事前に加えておくとか削っておくだけだ。それほど手間ではない。講師の先生たちもその方が指導しがいがあるだろうし。しかし、生徒さんにそれを説明するのは、ものすごく大変である。ちょっと一言、ではたぶん済まないからで、ほんの一行、矛盾しているところを説明するのは、意外にかなり時間がかかる。もしかすると、一人あたり数時間ずつだ。とても全員にひとつひとつ説明する時間がない。

で、結果的に今回「書き直し」連絡をとる予定は、3〜4人に。なぜかうまい人ばかりだけど、まあ、仕方ない。

生徒作品、とくに長編作品を読むのがツライ理由のひとつは、「牽引力になってくれるもの」がかなり弱いか、あるいはほとんどないからだ。早い話、どうにも興味をもてないので、読むのがツライ。もうひとつは、読んでも読んでも、どういう話になるのか、なかなかわからないということである。
(もちろん最後まで読んでも、どういう話なのかわからんこともあるけど)

まるで、目をつぶったまま、目的地を言ってくれない道案内に手を引かれてついて歩いていっているような感じである。なんだか、ずっと不安である。

生徒作品を読みながら、「ねえ、どっちに行くの? どんなところへ行くつもりなの?」と思って読んでいるのだが、何十枚読んでもなかなかわからないというのはけっこう多い。
「ねえ、何かそっちには面白いものがあるの? どんな面白いものがあるの? ちょっとくらい教えて。頼むからヒントくらいちょうだい」
などと、一人でブツブツ言いながら読むのだが、生徒作品はその点ではものすごくケチである。この話がどう面白いのか、ぜんぜん教えてくれないのである。だから忍耐してずっと不安なままで読み続けなければいけない。

「とにかく私の後についてきて」
と頼まれても、「あと十分くらい歩けば、こんな面白いものがあるから」と言われればいいが、何も言われず、そのあとに何があるかもわからない。となれば、なかなか平穏な気持ちではいられない。
長編で、まあ、真ん中あたりだと、ちょっとダレるようなシーンがあっても我慢するのだが、前半50枚を我慢しろ、というのはかなりツライ。

けど、これは、とくにその作者が「いじわるだから」ってなことではゼッタイないわけで、生徒作品だと、まあ、仕方ないことではある。生徒さんは、プロ作家さんの講義も受けているし、エンターテインメント小説には何か面白い発端がある方が望ましいということも十分わかっている。じゃあ、なぜそれなのにそういうことがあまり書いてないかというと、これはたぶん想像だけど、どうもやっぱり「ちょっとくらいいいだろう。甘えている」のではないだろうか。一行ずつ、ちょっとぐらいちょっとぐらい、が重なるものなのかも。

退屈なシーンを延々と書いても「ま、ちょっとくらいいいだろう」とか「ま、たぶん読んでくれるだろう」とどこかで期待しているような気がする。一行一行に「ちゃんと読んでもらえているだろうか」とか「イメージが伝わってるだろうか」とか「飽きずに読んでもらえているだろうか」とか、そういう緊張感があまりないからである。あたりまえと言えばあたりまえだが、プロ作家の先生たちの書く文章を読むと、そこらへんはかなり慎重というか、ぬかりがないというか、無駄な一行は案外ほとんどなかったりする。でも、生徒さんは「書きたい」方がどうしても一番優先になって、読む人の身になって考える余裕がないから、それが例えばストーリーにほとんど関係のないエピソードとかであっても、
「でも、せっかく考えたんだし、思いついたからもったいない。全部書いちゃえ」
みたいなシーンもけっこう多い。それがどんどん積み重ねられていく。

まあ、私は仕事だから、生徒作品くらい最後まで読むには読むんだけど「ああ、もうちょっとくらい、頼むから親切に書いてほしいなあ」とお願いしながら読む。書く人が一行余分に書いたら、読む人は一行余分に読まなくちゃいけないわけである。パソコンの普及で、書く労力はラクになったらしく、生徒作品はやたら長くなる傾向にある。

ところで、私が「読むのがツライなあ」という話をすると、丁稚どんなどは、
「そうですか? 私はけっこう面白いと思いますけどね」
と、いつも言う。この人は性格がやさしいので、作者をかばう気持ちがあるのだろう(私も、そのまま本人に直接言うつもりじゃなくて、つい口に出ちゃうだけである)

まあ、どうも丁稚どんは、作品をナナメ読みするクセがあるらしく、けっこう微妙なニュアンスとか、登場人物の性格的な行動や言動の矛盾とか、そういうのは、あまり気にならないようだ。たぶん極端な「ストーリー読み」なのかもしれない。もちろんエンターテインメント系の小説は、どっちかというと、ストーリーを楽しむのが普通の読書スタイルだろうと思う。もちろん小説だから、細かい文章表現とか、人間心理の表現の機微とかを表現しているものなのだが、まあ、やはりストーリーとか設定とか、そういう部分を楽しむ要素が大きい。極端に言えば(必ずしもそうでもないけど、極端に言えば、である)エンターテインメント系の小説では、どちらかというと「文学的」な、あるいは詩的な文章表現よりは、ストーリー優先で、美的な表現よりは「わかりやすさ」を優先するような文章を多用する場合が多い。それにしても、丁稚どんも、本来、耽美な文章を好む割には、案外、生徒作品には極端に寛容なところが面白い。

しかし、一行一行の文章は、表現の積み重ねだしなあ。だいたい一般の読者というのは、別に「ナナメ読み」するわけではなくて、ふつう一行一行読むわけだしね。芸術は、細部に神が宿る。ええ、紙に神。

とりあえず、気になるものだけを連絡。全部、チェックするとこっちがくたばってしまう。それにしても、もうちょっと自分でも見返してから提出してほしいぞ。

 

11/15/2006

専攻科の作品を読んで、ちょっとクラクラ

11月14日(火)
午後から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

本日は、専攻科の作品締切日。朝からやや体調が悪いが、とりあえず出勤。どうにも頭痛がひどいのは、気温の変化が激しいせいなのかしら。

丁稚どんと集まった作品を整理。いくつかは印刷にまわす。早めに提出してくれて、書き直してもらっている作品については、とりあえず印刷を優先。それ以外の作品で、土曜日に提出された分は、すでに目を通しているのだが、残りの分をあわせて、かるく流し読んでみる。

すると、作品を読んでいるうちに一瞬、ちょっと打ちのめされたような気分になって、しばらくめまいのようにクラクラする。専攻科の作品に、「あまりいい方じゃないショック」を受けたせいだが、別段、特定の作品についてそう思ったわけではなくて、全体的な印象を見て、そう感じただけである。それが何かがしばらく自分でもわからないので、もう一度、全体を見返してみるのだが、なかなかモヤモヤとしたよくわからない気分である。

しばらく考えて、やっと思い当たったのが、これらの作品が「ヘタ」だからショックを受けたのではなくて、かなりウマイ作品だからだということ。これは、先週の基礎レッスン講座で受けた印象に似ている。きっと専攻科の生徒さんが陥りやすい、なんつーかワナみたいなものだ。まあ、それは私が勝手にそうだと思っているに過ぎないのだが。

どうもある程度うまくなった人の中には、なぜか作品がどんどん甘くなっていく人がいる。甘いというか、ゆるいというか。文章がうまくなったのに、なぜか面白くなくて、どうにもゆるいのである。原因はよくわからないが、一度こういう傾向になると、しばらくその状態が続く。どういう理由なのかはわからないが、こういう人はけっこう多い。もしかすると本人は七転八倒しているのかもしれないけど、とにかく作品はゆるゆるである。どうもプロ志望に関していえば、これはどうも困った状態なようである。

これがどういう原因なのか、ちょっとわからない。書きなれてくると、さほど書きたいことがなくてもすらすらと書けてしまうようになるからなのだろうか。よくわからん。

ただ、印象でいうと、プロの作家さんだと、その人にもし100くらいの力があったとして、作品を書く時には、まるまる100とか、ちょっとがんばって105くらいとか、ちょっと忙しいから、95くらいで勘弁してね、とか、それくらいの熱意というか、仕上がり具合を感じるんだけど、生徒さんで、ちょっと書きなれてくると、どういうわけか70から80に実力があがったのに、なぜか熱意が下がっていく感じがする。まあ、なんといって説明していいのかわからんけど。そういう作品が何作かあると、私としてはやはりちょっとショックではある。ヘタなりに精一杯、ってのは別にショックを受けないんだけどね。

「ま、この程度、書けてればいいだろう」とか
「このくらいうまく書けば、ホメてもらえるだろう」とか、
なんかどこかそんな感じがする。
「どうしてもっともっとホンキで書いてくれないんだろう」という悲しさである。もちろん本人は精一杯がんばったつもりだろうと思うけど。

専攻科の生徒さんでも、ある程度のレベルになると、
「こんなもんも書いてみました的な習作」というか、「この程度でええんとちゃう的な作品」を提出されて、それが妙にうまかったりしても、なぜだかわからないが、読んでいる方がなんだかバカにされた気がするのはなぜかしら。別に作者本人に悪気はないのはわかっているのだが。

しかし、「こんなもん書いてみました」でも、実験作とか意欲作ならいいんだけど、なんというか、習作というか、練習作のような作品。さらさら書いてみましたけど、どうしても思い入れが感じられないもの。こういうものパッと書いて、講師指導に提出してしまうのは、ある意味、ちょっと困ったことなんじゃないかと思ってしまうがどうなんだろう。それなりにうまいから余計ハラが立つのかもしんない。いや、腹が立つというよりは、なんつーか、ツライというか、悲しい感じがするんだけど。もっとホンキ出してくれ。いや、まだできるハズなのになあ。ふと、プロ根性ってことなどを考えたりする。

悩むだけ悩んで、これ以上は自分では書けません、というのなら、別にどうとも思わないのだけど。もっとギリギリまで考えて書くわけにいかないのかなあ。いや、締切の問題じゃないと思うんだけどな。

今日は、頭痛がするほど体調が悪いせいかもしれない。

11/14/2006

小説とは関係のない休日(おお、ロミオ)

11月13日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

小説講座の運営の仕事のほかに、専門学校の非常勤講師という仕事もしているのだが、こちらの方では、発想法だとか、ストーリー分析だとか、映像作品解説だとか、どちらかというと教養的な授業を担当している。授業準備はそれなりに大変だけど、気分的には楽しい仕事である。

後期の授業になって、最近はほとんどが映画などの作品解説。一年間で常識的に必要な作品(一応、名作)を広く網羅するのが目標なのだが、これがなかなか大変。まあ、個人的にも勉強になるからいいけど。

そんなわけで、本日の作品は『ロミオとジュリエット』。ちなみに専門学校の学生さんのうち、まず9割はストーリーを知らない。ちょっと意外かもしれないが、いくらタイトルが有名でも、ちゃんとしたストーリーを知らないというのは案外よくあるものなのである。

ただ、さすがにタイトルも知らない人はいないようだ。バルコニーのシーンぐらいはどこかのパロディとかコントで見て知っている。ただし、去年もこの作品を教材をとりあげたのだが、案外「悲劇」だとことも知らない人が多くて、かなりの数の生徒さんが
「あれえ、両方とも死んじゃうんですか?」
「ええっ、ハッピーエンドだったと思ってたのに!」
といったりしたので、これには去年ちょっと驚いたけど。だって、「仮死の薬」とか、全体のストーリーを知らなくても、せめて「悲劇」ってことくらいは知ってると思ってたんだもん。

まあ、作品を解説するといっても、あいかわらずシェークスピアに詳しいわけではないから、そこはかなり適当なんだけど。今回、解説した映像教材は、1968年の『ロミオとジュリエット』(オリビア・ハッセーがジュリエットのヤツ)、1961年の『ウエストサイド物語』、ほんでもって『ディカプリオのロミオとジュリエット』。よく比べてみると面白く、何度見てもいろいろと発見あり。「思い違い」とか「すれ違い」の描き方とか解釈の違いとか。面白い(だから、みんなやりたがるのかな〜)。それにしても、ディカプリオは、どうにも人によってものすごく好き嫌いが分かれるみたいだなあ。やっぱ顔かな。

それにしても(わからんとこも多いが)教材にしやすいなあ。やっぱり、だよな。

11/13/2006

小説とは関係のない休日(家にいる方がバタバタしてて)

11月12日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

昨日、朝からずっと頭痛がひどく、なんとか気力で一日もったという感じだったので、本日はなるべく無理をしないで、のんびりすることに。

とは言え、三人の子持ちの主婦なので、家に一日いる方が余計疲れる。午前中は家事いろいろ。午後から近くの図書館など。

このところ自宅では、私の仕事部屋のパソコンが使えない状態が続いていて、リビングのパソコンを使っていたのだが、本日めでたく家庭内LANが開通して、私の仕事場でもネット接続が可能になった。めでたい。これでようやく自宅でもネット接続ができるわ。しかし、家にいると、とにかく忙しくて、なかなかネット接続するヒマもないんだが。

朝ドラ「芋たこなんきん」だが、あれは作家だけど、三人の子供たちに追われている私とだいたい似たような生活をしている。いや、あっちは4人の子供+舅姑+小姑だから、まだ私の方がよほどましか。けど、いつも他人事じゃあないなあと思って見てしまうなあ。

11/12/2006

小説講座の授業開始

11月11日(土)
朝から外出。昼頃より、小説講座の事務所。
午後、文章教室「基礎レッスン講座」の第1回講義。夕方は、「第10期エンターテインメントノベル講座」の講義。講師は、草上仁先生。「第7期小説専攻科」は、ガイダンス。

「基礎レッスン講座」は、生徒数は7名。もともと7〜10名ほどの少人数制を予定していたので、とりあえず、適正人数。ただ想定外だったのが、10期生の受講者は一人もいないこと。代わりに専攻生が4名もいる。もちろん同時受講は大幅割引があるのだけど、ちょっと意外。

「エンターテインメントノベル講座」では、プロ作家の講師陣のレクチャー講義と作品指導がメインなので、授業内にはほとんど実習時間がない(提出する作品は、全部、各自が「宿題」として書く)、生徒さんの中には「教室実習がもっといっぱいあった方がいい」という人もまれにいるので、実習だけのコースを安い金額で受講できるようにしたのだった。結果的には「10期」との同時受講者はいなくて、一般入学生、卒業生と「専攻科」だけなんだけど。

しかし、専攻科の生徒さんたちも、教室内で、コツコツ原稿用紙に向かうのは久しぶりのようで、微妙な緊張感があって、なかなか面白い。1日目の課題なので、まだそれほど難しい課題ではないのだが、各自の書きクセみたいなものもわかって、なるほど、思いのほか興味深かった。すでに小説作品は見慣れている人もいるのだが、小説作品を見るよりも、作文を書いてもらった方が文章のクセのようなものがはっきりわかるというのも不思議だけど。個人的にはちょっとした発見。長所も短所も、なんだかわかりやすい。なんでだろうな。たまたまかもしれないけど。この教室には電源もあるので、パソコン持ち込みも可なのだが、しばらく手書きでやるのも面白いかも。全体的なレベルは高い。これは期待できそう。

しかし、中でも一番面白かったのが、Kくんの作品。今日の課題は2つとも、原稿用紙2枚程度の作文なのだが、はっきりと目にとまったのが彼の作品で、正直、ちょっとビックリである。このKくんは、この半年でライティング講座と小説講座を両方とも同時受講して、今は専攻科に進学しているのだが、半年くらい前に比べると、文章力そのものがものすごく上達しているようだ。今だから言えるが、入学した頃は、たぶんクラス内では文章力自体は決してうまい方ではなかった。どっちかというと、アイデアはいいけど、文章力にちょっと問題があったタイプ。でも、これを見る限り、去年までに比べて全然違うのだ。うーん。この半年、受講しただけのことはあるなあ。この調子でいけば、半年後にはすっかりみんなを追い抜くかもしれない。

一番いいのは、ネタをちゃんと真剣に考えてることと、ちゃんと何が伝えたいかをまじめに考えて、そこになりふり構わずカッコつけずに集中できることなのかもなあ。文章がほどほどにうまい人ってのは、それなりにパッと書けるのだが、案外、どうでもいいようなこと、たいして内容のないことを平気でさらさらと書くのである。メールとか、ブログとかやっている人に、そういう傾向があるのかもしれないんだけど。そりゃブログは長く書いても、誰も怒らない(だからここでも怒れまい……)

文章がそれなりうまいと、それなりにサラサラ読めるし、それなりの面白さはあるのだが、残念なことにそれはそれなりである。不思議なのだが、それなりに文章がうまい人に限って、「とくに内容がない」ってのを平気で書く傾向があるなあ。これって、どういうんだろう。多少書きなれてくると、なぜかとくに言いたいことがなくても、それなりに書けてしまうからかな。しかし、そうなると読む方は「読みやすいが退屈」なもので、個性的だとかも感じにくい、情熱も感じられない。こういうのは、井戸端会議ならこれでもいいんだけど、作品としてはやっぱり面白みがない。

しかし、プロをめざす人の場合、
「うーん、それなりにうまいけど、商品価値としてはどうかなあ」
と思ってしまうものを平気で書けてしまうのは、「もしかすると命とりではないか」という気もする。一般に「プロ作家志望」だとか「エッセイスト志望」の人の作品を見ると、それなりに文章はうまいのに、「内容的にはうまくまとまってるけど、ひどくありふれた話だなあ」というのがけっこうあり、こればむしろ反対に「文章はヘタだが、内容はおもしろい」というものより、かなり扱いに困るのである。なにせ、文章などは後で他人でも直せるが「文章はうまいが、内容がない」という場合、これはどうしようもなくなる。読む側としては、文章は多少ヘンでも、内容が面白い方がいい。ホント、文章は、直せば済むんだし。

ブログやら、メールならそれでもいいのだが、もしプロとして「文章」をお金にするつもりだったら、やっぱ、それだけでは困るもんな。

まあ、このクラスも、まだ始まったばかり。この半年で、生徒さんたちがどれくらい伸びるのか、ちょっと楽しみではある。でも、たぶんこの半年で、相当な書く力はつくだろう。それはたぶん確実。

夕方は、天満橋に移動して、小説講座の2クラス。10期のクラスは、第1回講義で講師は、草上仁先生で「短編小説の書き方」。毎年、生徒さんが「ものすごくわかりやすくて、よかった!」「これからいろいろ書こうという気になりました」と評判もいいので、このところ、年数十回ある講義の第1回目をお願いしている。短編というのが、最初らしくていいし。

今日は、第1回目の講義ということで、生徒さんも緊張していたようだけど「すごくよかった」という感想が多く、いいスタートになったようだ。今年のクラスの生徒さんたちも、なかなか個性的。課題の提出作品は自由参加だけど、提出率もいい。一見して、書きなれた感じのものも多くて、昨年より文章レベルは高いようだ。これは、期待できそう。ただ、どうもとくに面白いエピソードがない、みたいなのはあるなあ。一生懸命に書いたヘタな文章は、むしろ面白く読めるのだが、これまた文章がうまい人ほど、とくに思い入れがないようなネタを書く傾向があるみたいなんだよな。うーん、なんでかな。これってどういう傾向なのだろうなあ。まあ、今は、小説講座に入学した直後なので「これが書きたい」というよりは、「うまいと思われたい」というのが先に立つのかもしれない。

専攻科のクラスは2クラスあるが、今日は合同授業。本日はとくに講義はないのだけど、前半がガイダンスで、後半はジャンル別情報交換会。専攻科のクラスは、毎年、継続生と新入生がごちゃまぜになるのだが、ほっとくと卒業年度別のグループになってしまうのが困りもの。卒業生ばかりなので、一年間いっしょに学んだ「同期」がやっぱり仲良くなってしまうのだが、別に仲良しサークルのつもりでやっているわけではない。もちろん仲がいいのはいいことだが、プロ志望の人のためのクラスなので、いいライバル、お互いの刺激にならないと意味がないと思うのよね。

で、どうせ作家志望の生徒さんは、どのみち孤独にたえて執筆をしなくてはいけないんだけど、情報が閉鎖的だと余計に自己閉塞的になるから、情報交換くらいは頻繁にやった方がいいのである。そのためには、やっぱりミステリ志望はミステリ志望とか、同期というよりは、方向性が近いとか、そういう人と時々多少しゃべった方が刺激があっていいみたい。

しかし、10期とあわせると3クラス。終わってからいつもの中華屋に行ったら、人数が多すぎて、ぎゅうぎゅうづめ。まあ、なんにしても、にぎやかで今年も楽しみである。みんながんばろ〜。

11/11/2006

いよいよ明日から講義開始

11月10日(金)
朝から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

「エンターテインメントノベル講座」も「小説専攻科」も「基礎レッスン講座」も、ぜーんぶ明日が第1回の講義。10月末、11月に開講というのは、季節はずれという気もしなくもないけど、小説講座は、この年1回秋募集だけ。今年も無事に開講できたので、とりあえずホッとする。

生徒数は、昨年と同じくらい。営利団体ではないので、とくに儲ける必要もないわけだから、このほぼ平年並みというのが一番、気楽だったりするんだけどね。

明日の準備で、ちまちまと事務作業。

ちなみに今年度、個人的に私が一番楽しみにして、力を入れてるのが「基礎レッスン講座」。教室実習メインの講座だけど、担当のOさんとも相談して、色々な面白い作戦を準備中。私は専門学校で、ライティングを教えていたことがあるので(今も、非常勤講師はしているのだが、現在のクラスは、発想法とか映像分析なので、ライティングは教えていない)そのときのカリキュラムとか。ただ、どうも私は自分の作った仕事とか、教材とかをちゃんと保存してなくて、みつからない資料がけっこう多い。ちょっと反省。どうせ教材は古くなるので、また作ればいいだけだけど。

そういや、十数年も広告の仕事をしていたのに、そういう「作品」も、ほとんど残してないからなあ。まあ、残すほどの作品でもないけどね。

11/10/2006

終日、図書館

11月9日(木)
終日、外出。小説講座の事務所には入れず。

終日、図書館。調べモノ&資料づくり等。
疲れた。

11/09/2006

生徒作品を読むのも、ヒト仕事

11月8日(水)
朝から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

仕事柄、生徒作品を読むことが多いんだけど、いつも実感させられるのは「シロウトの書く小説って、やっぱ、どうしてこんなに読みにくいのかなあ」ということ。ま、あたりまえと言えばあたりまえなんだろうけど、なんだかやっぱり不思議である。

プロの作品と比べれば、やっぱり不思議である。もちろん初心者の場合、文章表現力そのものに問題がある場合がほとんどなので、首をかしげるまでもない気もするのだが。

どんなジャンルでも、うまい人がやると、あまりにラクラクとやってるので、誰でもできそうなことみたいに見えたりすることがある。料理人がフライパンでオムレツを作ったり、サーカスで自転車に乗りながら皿回しをやったり。まあ、こういうのは、やってみろと言われるとできないのがわかりやすいんだけど、文章はちょっと本人に「できないってことがわからない」もののようで、何も気にしない人ほどラクラクと書けてしまう。むろん読む方としては、プロが書く文章はサクサクとわかりやすいが、シロウトが書くものは理解するのが難しい。

それなりにうまくなった生徒さんの作品でも、やっぱり内容を理解するために相当な労力を使う。短編ならまだいいのだが、長編作品では苦労を覚悟する。専攻科の締切前は、ちょっと覚悟がいる。もちろん楽しみな部分もあるんだけど、まずは、読むまでにかなり苦労するので。

しかし生徒作品だから、だいぶマシである。一般公募のコンテストの下読みなどをすると、もっとひどい作品が山のようにあるから。ただし、生徒さんと違って、見ず知らずの人の作品だから、ダメなものはダメと評価すればいいだけなので、その点はラクだけど。

しかし、この「読みにくさ」というのは、その生徒さんの段階によって、理由はいろいろだ。初心者の場合、まず「日本語表現そのものがおかしい」というものが多い。誤字とか、漢字の間違いが多いとか、主語と述語がちゃんと対応してなくて、誰の行動だか発言だかわからないとか、指示語が示している「ソレ」が何かわからないとか。まあ、日本語というか、国語レベルの問題である。文章がくどくて、重複表現が多すぎるってのもあるな。

けど、この場合は、たいてい「日頃ほとんど文章を書いてない」「あまり量を書いてない」というのが原因なので、量を書いてもらえば、ほとんどすぐよくなる。人によって、どれくらい書けば直るかは違うけど、たいていある程度書けば目立たなくはなる。つまり、ちょっと自分でも気をつけてもらえば、たいていすぐかなり直るのである(むろん人によってはかなり時間がかかる人もいるけど。ただ生徒さんの場合、ひどければ注意もするし、だいたいは量さえ書けば目立たなくなる)

実際には、電子辞書などを買ってもらうだけでけっこう直る。ちょっと辞書を使うクセがつく、というよりは、ちょっと気をつけるだけで、不思議なくらいすぐに直るのである。だから、これはそれほど心配ない。小説講座に入学してくる生徒さんでは、こういうタイプは少ないが、それでもクラスに何人かはいる。でも、わりとすぐ直るし、わりに変化が顕著なので、本人もものすごく実感できるらしく、書くのが楽しくなったり、やる気が出るらしいので、むしろ最初はそれくらい、あった方がいいくらいある。

次によくあるのが、
「日本語としては読めるけど、内容的に、何が書きたいのかがわからない」
というもので、これはかなり多い。というか、コンテストの下読みをしていると、どうも一番多いのがコレである。生徒作品でもよくありがち。本人に聞いてみると、たいてい「実は、自分でもよくわからない」というのがほとんどである。どうも、よくわからないことをよくわからないままに書くというのは、けっこうあるものらしい。しかし、書き手がわからずに書いたものを読み手がわかるはずはない。それはちょっと無理である。
(まあ、それが芸風になってれば別だが、それはたぶんかなり難しい芸風)

これの対処法は、本人がわからんのだから私にもわからんのだけど、とにかく「わからなかったら、わかるまでもっと考えてから書く」か、あるいは「わからなくても、自分なりに覚悟を決めてとりあえず書く」か、しかないんじゃないかなあ。まあ、どっちかである。どっちにしても、こればっかりは、作者の問題だから私にはどうしようもないんだけど。

さらに次によくあるパターンは、
「日本語としては読めるし、何が書きたいかもわかる。だが、あまりにありふれたよくある話なので、今さらなぜ本人がわざわざこれを書きたいのかがちょっとよくわからない」
というパターン。

あまりに凡庸な話だったりするからなんだけど、「わからない」ところが、なんだかちょっと違うのである。それなりにけっこううまく書けてたりするんだけど、なぜこういうものを書いてみたいのかが伝わってこない作品。

けっこうあるのが、生徒さんの場合、ちょっと書いてみましたというような「練習作」だったというパターン。ただの練習作なら、作品指導をするのもやりにくいので、別に提出しなくていいんだけどね(笑)

本人は、一度書いてみたかっただけなのかもしれないけど、その作品をコンテストに応募したり、わざわざ作品指導を受けるような必要はないような気はするんだよね。ただ、どうもうちの生徒さんに限っていうと、こういう作品を提出してくる時というのは、その人の創作がやや煮詰まっている傾向に入っている状態が多いようである。スランプというか。

生徒さんの場合、何作品か書いてみて、プロ作家に作品指導を受けているうちに、それまで持っていた自信とかが持てなくなる時期がある。
「小説講座に入学する前は、すらすら書けてたのに」
なんて人がけっこういるのである。講座だとどうしても読み手を意識しないではいられないので、以前のように、何も考えずスラスラそんなに書けないのである。同じクラスの周囲の生徒さんたちもそれなりにうまい作品を書くように見えて、方向性がよくわからなくなってきたりする時期がある。

で、急に今までとは違った傾向の作品とか、めちゃくちゃベタな話を提出してきたりする時は、そういう時期だったりすることがあって、けっこう要注意である。けど、こういう段階というのは、あるレベルになるとたぶん誰でもあるかもしれないので、それを乗り越えてこそ書き続けられたりするもんだろうから、いつか通るべき段階なのかもしれないけど。

作品で言えば、その他にも、
「日本語にも問題はない。内容もわかるし、狙いもわかる。けど、あまりに凝り過ぎてむしろわかりにくい」
というパターンで、読みにくいものもある。専攻科のクラスでは、こういう作品がけっこう多い。
とくに目立つのが長編の「書き出し」の部分で、不思議なくらいマズイことがけっこうある。

だいたい2パターンあって、まず意味不明な不可解な序章がひっついているパターン。不可解というか、たぶん本人は「かっこいい序章」のつもりなのだと思うんだけど、凝りすぎてわからない(しかも、ちょっと退屈するくらい長いことが多い)けっこう思わせぶりなのだが、イマイチどうかっこいいのかわからない。まあ、やっぱり凝り過ぎである。気持ちはわからいでもないけど。

似たようなケースとしては、オープニングで何のためのシーンがよくわからないエピソードが延々と続く作品。登場人物紹介のつもりだと思うのだが、かなり退屈シーンが続く。そのあとの部分を読めばわかるのだが、むろん本筋のストーリーとはほとんど関係がないエピソードである。こういう場合は、その「第1章」とかがまるまる本筋と関係のない場合が多いから、トバして読んだ方がよくわかったりするのだが。ちなみに、面白いことに、これがなぜかびっくりするくらい「ベタなオープニング」が多いんだけど、これはなんでなんだろう。

たとえば学園モノだったら
「あーん、もうお母さんたら、ちゃんと起こしてくれないんだから、また学校に遅刻しちゃうわ〜」と女子高生がバタバタ走って、学校へ行く……とか。

なぜか驚くほど「定番」すぎるオープニングが多い。まあ、お約束ではあるので、ギャグでは面白いけど、どうやら別にギャグではないらしく、ちょっと不思議である。

これは想像だけど、これってアニメとか、テレビドラマの影響かもしんないなあ。ただ、アニメで不自然じゃなくても、小説だと「だるい」シーンというのはけっこうあって、たぶん本人の頭の中には「映像」があるんじゃないかしら。たぶんそれが伝わってこないだけじゃないかな。ライトノベル系の場合、もしかすると、アニメの第1回を想定している可能性がけっこうあるんじゃないかあ〜と想像したりするんだけど。もちろんアニメ化をねらう前に、小説として面白くないとね。

そりゃ、レンタルビデオ屋でも、最近は「サスペンス」「SF」「ラブロマンス」などの分類のほかに、「ディズニー」などの横に「ライトノベル」(ライトノベル原作のアニメ)の棚なんてのがあったりするけどね。

けど、小説というのはやっぱり「文字情報」しかないので、「思いついたことをただだらだら書けば、そのまま頭の中の映像がきっちり伝わる」わけではないのよね。もちろんアニメみたいなストーリーでもかまわないのだが、そのままじゃまだ映像がないことだけは忘れないようにね。文字で書く場合は、それなりの工夫がいるのよね。

もちろんどんなシーンでも、工夫次第で面白くなるものだけど、本筋に関係がなくて、ベタなシーンを延々と読むのはけっこうツライし、だるい。生徒作品の場合、とくに長編小説では、最初の30〜40枚がコレというのが割と多い。かなりの確率で、たぶん作者本人は、「キャラクターの人物紹介」のつもりだと思うけど。ただ下手すると300枚くらいの長編で、全編たくさんのキャラの人物紹介で終わるというパターンもなくはないが。

しかし、実際には、専攻科クラスの生徒作品では、そういうわかりやすいミスじゃなくて、「どうも細かい文章表現がひっかかる」ってのがけっこう多いかなあ。日本語としては間違いではないが、「文章の流れとしては、ちょっとおかしい」という表現がチマチマ含まれている。何カ所か重なってくると、よくわかんなくなるのである。

プロの作品だと、ひっかかりなく全体にスムーズに流れているので気にならないけど、シロウトの作品だと、数行おきにチクチク「え、どういうことだろう」「あれ?」とひっかかりがある部分が重なったりする。

日本語表現が少しくらい未熟でもストーリーさえ面白ければ……みたいなものは、とくにエンターテインメント系なので多少ある。でも、最低限ヒトサマに読んでもらうだけの表現力はいるし、不適切な表現というのは、混乱するのは確かで、どうにもツジツマが合ってなくて気になる、ってのはけっこう多い。ま、小説はウソ話で、もともと架空の話なので、ツジツマが合わないというのは別にいいのだが、「あれっ?」というのが何度もあると、内容とかストーリー把握が困難である。

作者がわかっているつもりでも、案外、ちゃんと考えてなかったりすることとか。
(ストーリーを語るのに必死なので、キャラクターの性格的に無理があるとか、その場にいない人物とか、なにかしら矛盾があってもけっこう気がつかないことがけっこうある)

たいてい「書き手」として「書きたい」ことに集中していて、あまり「読み手」を意識しない場合におこりがちである。それが結果的に矛盾として文章にでてくるようだ。ただし、ひとつひとつは、案外、微妙なミス、だったりする。ただし、積み重なるとツラくなってくるものなのよね。

ところで、これも最近、気がついたことだが、こういう「微妙なミス」とか「文章表現上の甘さ」みたいなものは、どうも「読みとばす」クセがある人に多いみたいな気がする。あまり細かい文章に気をつけないのは、ナナメ読みがクセになっているせいかもしれない。

もちろん小説を書く場合、「多読」は大変望ましいことで、プロ作家さんたちも皆、たいてい多読だし、どう考えても、少ないよりは多い方がいいに決まっているので、そこんとこは誤解のないように。

でも、多読の人の中には「つねに」「いつも」読みとばすという傾向のある人がいて、それが原因かどうかはわからないが、そういう多読するタイプに「書く文章が甘い」というか、「雑な文章」を書く人がけっこういる。そりゃあ、読み手ならストーリーを把握するだけなら「ナナメ読み」でも読めるからではないかと思うし、別にナナメ読みしようが、どうしようが全然かまわないのだが、書き手となった場合は、すべての人がナナメ読みするわけではないのだし、とりあえず、普通のスピードで読むと想定してた方がいいように思うけどな〜。

というわけで、在校生の皆さま。
大量の生徒作品を読まなくちゃいけない私のためにも、なるべくできる範囲で読みやすく、できれば面白くて読むのが楽しい作品をぜひ。

11/08/2006

火曜日は、小説作品の印刷日

11月7日(火)
午後から小説講座の事務所。夕方までアレコレ事務作業。

うちの事務所では、日曜、月曜の休日があけて、丁稚どんが出勤してくれる火曜日が、作品等の印刷日である。だが、次の専攻科の作品提出日は、来週14日。開講したばかりの10期生は、まだ作品提出がないから、今日はめずらしくとくに急ぐ印刷物がない。印刷物が多いと当然、事務はバタバタするのだけど、今週一週間だけは印刷物はないのだ。来週からはまた印刷物の山ができるハズだが、今のうちに細かい雑用をしておこう。

専攻科の作品提出は、隔月に一度、締切があり、作品指導にまわす。うちの小説講座では、講師が二十人近くいて、作品指導をしてくれる先生も複数だから、提出された作品の内容を見て、講師を決めている。だから、生徒作品は、すべてあらかじめ事務でも読まないといけないことになっているのだが、専攻科みたいにかなり作品本数が多いクラスは、締切日直後がけっこうたいへんである。ちなみに本当は、早めに提出してくれた生徒さんも何人かいたのだが、それらはチェックして、修正をお願いしたので、今はゼロなのである。

しかし、専攻科でも何年目かの継続受講をしている生徒さんなどは、こちらも作品のクセもよくわかっているので、それほど大変ではない。うまい人の作品ほど、読むのがけっこうラクだし。ある程度、うまく書けるのがわかっている人の作品は、内容もさっと読むだけでなんとなく判断がつく。しかし、生徒作品の場合、やっぱり読みにくい作品が皆無というわけではない。文章もそうだし、内容も。実際、最初の一枚目から「???」という作品もけっこうある。そんなわけで、毎回、専攻科の提出日から2週間ぐらいは、どっぷり作品にかかってしまうので、今週はのんびりできるのを味わおうと思ったのだが、事務もたまっているので、のんびりするほどのんびりできないのだけど。

自宅のパソコンの調子が悪くて、今、新しいパソコンを調整中なのだが、なかなか時間がとれない。パソコンのシステム調整ってなんでこんなに時間がかかるんかなあ。

11/07/2006

小説とは関係のない休日(幽霊よりも縁起)

11月6日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

終日、外出。

うちの隣の空き家。どうやらどこかの不動産屋が買ったらしい。空き家になって、もう数年たつが、やっと売れたわけである。売りに出されているのは知っていたのだけど、ようやく買い手がついたのだな。すぐに家を取り壊し、新しい家を建てて分譲するのだそうだ。

うちの夫は、その不動産屋に会う機会があったらしい。
そこで、「事故物件だし、もしかして安いのかも」と一応、話をしてみたそうだ。実際には、むしろ「欲しいんだったら高く買え」という感じで、けんもほろろといった感じで話にならなかったみたいだけど。

実際には、こういう「事故物件」というのは、さっさと取りこわしてしまって、新築にしてしまえばと「もはや事故物件ではなくなる」んだそうだ。そう言われてみれば、事故物件を安く買って、新築に建て替えて売るってのが、けっこう商売になるって話はどこかで聞いたことがある。けっこう儲かる仕事なのかもしれない。

しかし、ふと思ったのだが、これが田舎の方なら、こうはいかないかもしれないなあ。土地の人は「親切」だったりするから、新しく越してきたら、誰か親切な人がこっそり「親切」に教えてくれるかもしれない(むろん本人は知りたくもないことだろうけど)。

でも、ここらは都市部。幸いなことにそこまで近所付き合いが親密ではない。つい最近、自殺があった家だろうが、そんなこと、わざわざ入居者に言うような人はいないだろう。私だって、隣に新しく越してきた人にそんな話はしないもの。たぶん間違いなく、この話題には決して触れないよね。このあたりの近所づきあいは「挨拶程度」が「常識」なのである。都会の住宅地は、それくらいの距離感が適切。むろん本人が知らないところでは、近所バアチャン連中のうわさになるのは避けられないだろうが、さすがに子供連中も口止めされてるだろうし、たぶん引っ越してきた本人たちは知らずに済むだろう。もしかすると、よほど運が悪ければ、本人の耳にもいるかもしれないけどね。

このあたりは40年ほど前からの住宅地だから、こういうケースはけっこう微妙。近所の人たちは、この家のことはよく知っている。なにせそこの娘さんが自殺したとき、パトカーやら救急車が出て大騒ぎになってたんだもの。葬式もすぐウラの公民館でやったのだが、まだ高校を卒業したばかりだったから、同級生やら何十人もやってきて、大泣きしてたし。でも、誰も言わないな、たぶん。

しかし、それよりも私が驚いたのは、うちの夫が
「ものすごく安い土地なら、買ってもいいかな」
なんて言い出したことである。
ずっと定職についてなかったので、住宅などにはほとんど興味がなかった男なのに。
まあ、そりゃ、子供も三人もいるし、このボロイ借家ではそろそろ限界だし、年齢的に見ても当然な年齢ではあるのだが。

「しかし、よりによって、幽霊屋敷とウワサのある家なのに」
「でも、オレ、幽霊なんか、ぜんぜん怖くないから」
「そりゃ、私も幽霊は、別に平気だけど……」
「もしも安いんだったら買ってもいいかな、と思っただけや。ほら、南西の角地やろ」
「いくら南西の角地でも、一応、幽霊屋敷だよ」
「幽霊って、オレ別に信じてないもん」
「まあ、私も、幽霊とか信じてるわけじゃないけどね。でも、もしも幽霊がいるとしたら、自殺した娘さんだけじゃなくて、おばあちゃんもいるかもしんないよ。だって、あのあとすぐ孫娘のあとを追うようにして、病院で死んだんだから。だから、きっと、おばあちゃんも家に帰ってきてるよね」
「でも、おばあちゃんって、いつも庭いじりしてたあの優しいおばあさんやろ」
「ま、あの二人なら、どうせ幽霊でも別に怖くない気がするけどなあ。それによく考えたら、どうせあの家って、その前からずっと幽霊屋敷だったしねえ」
「えっ? それ、どういうこと?」
「あれ、言わなかったっけ? あの家って、あのNさん一家が引っ越してくる前から、もともと幽霊屋敷だったんよ」
「えーっ? それ、知らなかった。それ、どういうこと?」
「ほら、私、子供の頃、この辺りで遊んでたでしょう。で、たしか、あの家って、だいぶ前から幽霊屋敷だったんだよ。最近思い出したんだけど」
「えっ、それって、いつ頃の話?」
「30年前くらいかなあ。このあたりの家って、たしか40年くらい前に、30軒ほどまとめて建売分譲された一帯なんだけど、たしかあの家だけ、長い間、誰も住んでなかったんだよね」
「そうなの?」
「うん。近所の呉服屋さんの持ち物だったんだけど、実際には誰も住んでなくて、年に1回か2回、着物の展示会を開くのに使ってただけ」
「へえ」
「で、ずっと留守だから、よく子供たちの間では『幽霊が出るぞ』って言われてたんだよね。ほら、子供って、そういうの、好きでしょ」
「まあ、子供って、幽霊とか、好きだからな」
「私も、子供だから、よく庭に勝手にはいり込んだりしたんだけどね。誰もいないんだけど、カーテンの隙間からロッキングチェアが見えてて、それが揺れるとかね」
「揺れる?」
「ほら、よくおばあさんがゆらゆらしてながら編み物とかするヤツ……」
「ああ、揺りいす?」
「うん。それが置いてあったんだけどね。誰もいないのに、よく揺れてるって」
「うーん。いかにも子供がしそうな話やな」
「ま、ありがちでしょ。なんだかブロック塀がやたら高くて、昼間でも暗かったから、すごく気持ち悪かったことは確かだけどね」
「ブロック塀? え、そんなもん、隣の家にあった?」
「Nさん一家が引っ越してきた時に、ブロック塀は取り壊したのよ。おばあちゃんが庭いじりが好きだから壊したみたい。日当たりが悪いでしょ。ずっと無気味だった幽霊屋敷がやっと明るくなって、よかったんだけどね」
「けど、ちょ、ちょっと待てよ。それは、知らんかった。それはちょっとイヤな話やで。ほんなら、もしかするとそこの娘さんが自殺されたから幽霊が出るようになった……んじゃなくて、もしかすると、もともと何かあったから自殺……ってことになるかもしれへんやん」
「そういえば、そういう考え方もできるんかも。でも、偶然やろ。だって、幽霊屋敷なんて、どこの町にもけっこうよくある話やん」
「でも自殺ってのは、そんなによくある話じゃないやんか」
「そうかなあ。この町内やったら、あの三ブロックほど向こうの家でも焼身自殺とか」
「えっ、それっていつ!?」
「いや、だいぶ前やで、もう30年くらい前の話。でも、そういや、あそこの家も取り壊して新しい家が建ったのになぜか、なかなか居着かないよね。あれから何度も引っ越してるわ。そういや不思議やね」
「それって、どこ?」
「ほら、あの角を曲がって、ずっと行ったところの、青い家から三軒目の」
「え、あそこって、去年、新しく建売分譲してた家やろ」
「うん。なぜかあそこだけ、あれから何度も建て直してるねん。そういや、去年も、誰か引っ越してきてたんやけど、この三か月ほど前にまた売りに出されてたみたいやわ。不動産屋のノボリが建ってたもん」
「え、引っ越してきたばっかりやのに、もう売ったん?」
「そういえば、変やな。分譲住宅のハズやのに、すぐ売るなんて。それこそ幽霊でも出るんかしらん。でも、また売れたみたいやで。だって、今は別の家族が住んでるもん。しかし、それで言えば、うちの真正面の家も、なんだかんだでずっと誰も住んでないハズなんだけど」
「え、うちの向かいの家? そういや、あの家も、今は誰も住んでなくて、どこかの会社が倉庫みたいに使ってるみたいだけど」
「うん。あの家も、普通の家族が住んでたのって、この40年間で、たった1年だけらしいのよね」
「えっ、そうなの!?」
「うん。その住んでた家族は、離婚しちゃったんで、1年で引っ越しちゃったって、それからずっと空き家で、今は倉庫代わりに使ってるでしょ」
「うーん。知らんかった。うちのすぐ近くに。何か土地に悪い『気』でも流れてるんだろうか」
「はあ。でも、うちはそういう実感ないけど?」
「もしかしたら、それって、向かいから隣にナナメに走ってるとか」
「はあ? 地脈とか?」
「いや、わからんけど」
「あ。でも、そういえば」
「何?」
「そういや、その向こうの家って、数年前に火事が」
「火事?」
「反対側のナナメ向こうの家は……と、そういや、最近たしか何かあったような」
「えっ、何?」
「いや、パトカーがきてて大騒ぎになってたけど、近所の井戸端会議に参加してないから詳しいこと知らへん。何かあったらしいことしか」
「何かって。井戸端会議ぐらいたまに参加しとけよ」
「うーん。昼間、私、働いてるからなあ」
「でも、パトカー」
「さあ。でも、どうせ泥棒とかじゃない? このへんむちゃくちゃ多いやろ。ほら、うちもやられてるし」
「うーむ」
「けど、きっと偶然偶然。そんなん、よくある話やん」
「いや、そんな、よくある話であってほしいもんじゃないけど」
「けど、これだけ住宅が密集して建ってる地域やけど、たしかにどういうわけか運の悪い家つーか、何か続く家ってのは、ホントに不思議に続くもんみたいね。土地のせいか、家のせいか、何のせいか、よくわからんけど」
「やっぱ、あるところはあると違うかな。ほら、風水とか」
「運が悪いってあるのかしら。けど、科学的なものというよりは、確率の問題なんとちゃう」
「偶然も続くと無気味やで」
「でも、幽霊とか、そんなん全然信じへんってゆうとったやん」
「幽霊は平気だけど、そういうのはアカンねん。オレ、そういうの駄目」
「そういうのって?」
「だって、縁起悪いやろ。それやったら、もともとその家そのものに何かあったかもしれへんってことになるやろ。そこに引っ越してきたから……ってことになるやん」
「うーん、そうかも」
「オレ、幽霊は信じないけど、縁起が悪いってのはイヤやねん。ほら、オレみたいに『舞台』とかやってると、縁起が悪いとかいいとか、けっこう気になるねん。なんというか、ゲンをかつぐっていうか。ツキを呼ぶこむとか、そういうの、けっこうあるねんで」
「うーん。そうなん」
「ああ、よかった。縁起悪い土地はイヤやもん。すごく安かったら、間違って買ったかもしれへんから、買えなくてよかったわ」
「どうせ、買うお金とか、持ってへんくせに」
「いや、ほんま、買えなくてよかったわ」

……「幽霊は怖くないけど、縁起悪いのはダメ」
なんか、ちょっと、よーわからん気もするけど。

11/06/2006

小説とは関係のない休日(大津線めぐり)

11月5日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

午前中、用があり、京都・山科に。昼ごろには用が済んで、大阪に戻ろうかと思ったのだが、せっかく山科まで来たので(京阪三条から地下鉄250円)、ついでに「大津線」でもブラブラしようかと思いつく。どうせ急いで帰ったら、家事や仕事が山積み。でも、休日くらい、ちょっと一人でのんびりしたい。

どんなにたまった仕事や家事が気になっても、カレンダーが赤い数字の日だけは、あせって仕事などをしない方がいい。(実際、赤い日だけはなるべく仕事をしないと家族に約束しているのだが)。だいたい私は、ほぼ週6日間、朝から晩まで家事と仕事で追いまくられている。こういうタイプの仕事を続けていると、どこからどこまでが仕事で、どこからが遊びだか、ちょっとわからないから、実はあまり休日の感覚というのはないのだが、それでもせめて週1日くらいは自分で「休日」を作らないと身が持たない。実際、忙しい時でも、週1回くらい休んだ方が、結果的に効率はいいようである。こういう時、あせってあわてて帰宅しても、どうせ家には家族がいるので、自宅では仕事はできないし。「少しずつは休める時間を自分でキープしないと、フリーランスは身が持たない」、長い目でみると、効率は悪くなるもんである。ま、私の場合、遊び過ぎという気もするが。

で、まずは、フリーキップ『湖都古都・おおつ1dayきっぷ』を500円で購入。京阪電車の大津線が1日自由に乗れる。とりあえず浜大津まで移動。京都地下鉄と連絡している路線だが、この路線は、交差点をまるで路面電車みたいに走るのが面白い。浜大津で下車したら、びわ湖花噴水や観光船ミシガンがちょっと見えたので、レストランなどが入った「浜大津アーカス」までブラブラ。休日なので、ピエロが家族連れを笑わせたりしている。さて、浜大津から南に行けば、石山寺。北へ向かえば、坂本。坂本からはケーブルがあるので、比叡山にも行けるはずだが、どうしようかなあ。ふと、大津ってどんなところだったかな、歴史なんかが気になったので、ちょっと迷った末に2駅ほど移動して、三井寺の近くの「大津市歴史博物館」に行くことに。

「大津歴史博物館」は、山沿いのちょっと高い所にあって、玄関のあたりから琵琶湖まで見渡せる。とにかく常設展示だけを見て帰ろうと思ってたのだが、「フリーパス」の割引があるので、ついでに企画展「天台を護る神々 〜山王曼荼羅の諸相〜」も見てみる。ちょうど学芸員さんの解説つきだったのだが、なかなかのハイレベルで、天台宗の知識が乏しい私にはちょっと難しい。常設展示は、近江八景が面白い。やっぱ、大津といえば、大津宮と比叡山、近江八景。

博物館でしっかり予習をしたので、とりあえず「近江神宮前」駅まで移動して、「近江大津宮錦織遺跡」を見て、近江神宮へ。大津宮を作った天智天皇を祀っている「近江神宮」は、七五三の子供たちがいっぱい。時計博物館もあり。のんびり休憩してから、またガタゴト大津線に揺られて、坂本駅へ。すでに4時過ぎなので、比叡山に行くにも遅すぎ、日吉大社に行く時間もなし。門前町をちょっとだけぶらぶらして、ソバを食べ、「比叡のお猿さん」(子供を抱いた猿の形のもなか。けっこうリアル)をおみやげに買って、またゴトゴト電車で「京阪三条」まで移動。

観光シーズンの京都は、きっともっとすごい人混みだと思うけど、のんびり静かな秋を楽しめる大津もけっこうエエもんですな。

11/05/2006

小説講座には、入学者が一人追加

11月4日(土)
午後から小説講座の事務所。

世間では三連休。小説講座も、今日は、全クラスが休講。秋に開講したばかりのエンターテインメントノベル講座も、小説専攻科も、文章教室『基礎レッスン講座』も、今日はお休み。来週11日から、開講である。

さて、土曜日は、けっこう静かな大阪NPOプラザ。一人でコツコツ事務をしていたら、電話が鳴って、入学希望者が来館。というわけで、エンターテインメントノベル講座は、また入学者が一名追加。締切日を過ぎても、入学者がけっこうあるなあ。まあ、小説講座は、なぜか毎年、締め切ってから入学者がチラホラあるけどねえ。来週も、また別の人が見学に来たいとか。まあ、小説講座の開講は、春の生徒募集がないので、年1回だけ。秋の開講しかないので、入学するなら早い方がいいけどね。

あいかわらず、けっこう仕事量が多くて、やっぱり忙しい。事務がかたづかない。

11/04/2006

小説とは関係のない休日(休日参観も行かず)

11月3日(金)
小説講座の事務所は、日曜、月曜、祝日お休みです。

今日は祝日で、中学校の休日参観だったのだが、中1の息子は今日も体調がイマイチだとかで、学校を欠席。中学校の参観は初めてだから、母親である私は、ちと残念。前から楽しみにしていたのに。熱はないが、まだ少しめまいがするらしい。昨夜にはかなり元気そうだったのに、今朝また吐いたりしている。どうも風邪らしい。うーん、ナントカは風邪をひかんというがなあ。

参観は1時限目と2時限目。昼頃、帰宅していく中学生がうちの家の前を通っていった。息子はまだ寝ている。せっかくの休日で、なんだか不憫なことである。参観をけっこう楽しみにしてたらしい夫も、「今日は急に用事がなくなったし、かといって、でかけることもできへんし。なんだかヒマだなあ」とため息。

午後から「ホームセンター好き」の夫は、近所の巨大ショップまで一人で自転車でおでかけ。私は、家事や雑用をかたづけて、夕方、近所の図書館へ。今日は「文化の日」だから、祝日開館なのである。

11/03/2006

小説には時間がかかる、秋の味覚と食欲があれば

11月2日(木)
午後から小説講座の事務所。
夕方まで事務作業。文章教室の「基礎レッスン講座」のスケジュール確認など。実は、このクラスだけは個人のレベルにあわせて、それぞれ細かくカリキュラムが違うので、人数分だけカリキュラムがあるのだ。確実に実力がつくように、実習時間も一日まとめて3時間。創作時間もたっぷり。

小説講座の「エンターテインメントノベル講座」は、二十人近いプロ作家のレクチャー講義が受けられるのが特徴だが作品指導なども多いので、いわゆる「実習時間」はあまりない。提出作品もすべて家で「宿題」として書かないといけないのだが、うちの講座みたいに生徒さんが社会人の場合、家族にも気をつかったりするし、なかなか家では書く時間がとれず、皆けっこう苦労しているらしい。(夜中にわざわざファミレスに行く人とか。学生さんだったら、「勉強」してるフリして作品を書けるかもしれないけど)。それゆえ、なかなか作品が書けず、提出できない人もいる。だから、そのために「基礎レッスン講座」という「実習中心」の講座を作ったのだ。そのわりに期待した10期生の同時受講はいないんだけどね。

ただ、このクラスは時間が長いだけに書く時間もたっぷりある。出席さえすれば、書かざるを得ない環境になるので、家ではなかなか書けないという人には向いている。実習時間は、自分の判断で、与えられたカリキュラムをせずに、小説など自分の作品を書くのも可。グループワークもあるけど、やはり個人の実習時間が長いので、各自が臨機応変にやれる。隔週講義なので、講義がない曜日には見学会なども企画しているし、ライティング講座の担当だったOさんが、この講座を担当する。明るく楽しいOさんは、生徒さんへの対応もとても丁寧で、評判も抜群。なにかと楽しみ。

私は、一人一人の作品を落ち着いて、細かくじっくり見ることができるのは、このクラスの生徒作品だけだろうから、それが一番楽しみである。そもそも今年からは専攻科の作品を事前チェックすると言っても、なにせ40人もいるのだから、それを本人に伝えるのはたぶんムリだろう。読むのはいいけど、丁寧に説明しようとしたら、一人あたりに数時間はかかる。去年も、提出された作品を見て、よほど講師指導の前に書き直してもらおうと思ったりすることはあったのだけど、本人に説明するのが難しいので断念したこともある。

なぜそこの表現がマズいかというのは、説明するにはかなり時間がかかる。こうした細かい表現とか文章のチェックなどは、講師にもたぶんムリである。なにせ書き方の問題をちょっと説明するだけで、先日みたいに、数時間はかかるのだ。うちの小説講座は、作品は自力で書いてもらわないといけない講座である。泳ぎ方を手取り足取りやるというのではなく、いきなり海にほり込んで慣れてもらう。それはそれでそういう方針なので仕方ないのだが、専攻科にまで進学して、ずっと同じミスを繰り返しているのを見ると、いつもはできるだけ何も言わない方針でも、つい何か言ってあげたくなる。しかし、講義はもちろん、講義後の飲み会でもけっこうバタバタしてるので、なかなか説明する時間がない。Nくんみたいに平日の昼間に作品をもって事務所に来たりしてくれれば、時間もとれるんだけど、あとは先日みたいに休日を利用するしかない。

ところで昨日は、終日出かけていて、事務所に入れなかったので、今日は早めに出勤しようとしたのだが、朝から中1の長男の体調が悪い。昨日は、夕方7時からずっと寝ていたらしいし、どうかなとは思っていたんだけど。結局、午前中、仕事を休んで様子を見ることに。

今日の弁当は、息子の好きな鶏ミンチのハンバーグの予定だったのだが(肉、ネギ、卵黄。片栗粉少々を混ぜただけの簡単メニュー)、仕方ないので、夫の弁当分だけを作る。学校は、ちょうど今日から文化祭らしい。運の悪い少年である。昨日の弁当も食べてないらしい。つまり昨日の朝食からずっと何も食べてないというわけである。ちょいと心配。熱もないが、風邪だろうか。

で、そのまま10時頃まで寝ていたが、急にガバッと布団から起きていて、「腹へった!」とプリンとバナナ、コーンスープを食べる。まだまだ足りないというので、うどんをつくってやったらこれもすぐ食べる。そして「もう治った!」とニコニコ。つい2時間前まで、やっと食べたミカン半分も全部吐いたりして、ひどくぐったりしてたのに。いつのまに治ったのだ。

「ちょっと寝たら治った!」
はあ。ほんまかいな。

しかし、彼の場合、これは子供の時分からそうなのだが、風邪などひいて体調が悪いとまったく食欲がなくなって一口も食べなくなるのだが、回復するとまるでパチンとスイッチが入ったみたいに、急に元気になるのである。普通の人は、徐々に回復するものだと思うんだが、この子にはこの回復期というものがない。なぜか、いつもガバッと起きてくる。まるで安物のロボットみたいである。

そういや、彼が小さい頃、実家の母は、
「小さい子は、熱があるとぐったりしてるものだけど、熱が下がったらケロッとするものなのよ」
と言っていたが、彼はもう中学生である。それに今日はもともと発熱もない。けど、まあ、これはたぶん父親の体質が遺伝したのであろう。うちの夫も、いくら風邪で寝込んでいても、なぜかパチンとスイッチが入ったみたいに急に元気になるのである。「元気」と「病気」の中間がまったくないのである。こういうところは、父親そっくり。スイッチ体質。あ、それともまだ二人とも「ただの小さい子」なのかもしれない。じっとしてられない体質だし。

とにかくすっかり元気になったのはいいが、プリンもペロリと3個も食べ、「バナナも食べたい」というのを「朝、二度も吐いたのだから、もう少し待って、今食べたうどんを消化してから」と説得したしてたら、「あ、ママ。どうしたん。早よ、仕事、行ったら」とケロリと言われる。

「けど、やっぱ、健康は大事やなあ。やっぱ、風邪なんかひくもんと違うわ。ボク、このところ部活も勉強も忙しくて、ちょっと風邪でもひいたらええなあ、学校休めるのになあ、なんて思っとったんやけど、やっぱ、病気はしんどいわ。ホンマ、健康第一やで。あんなん考えてたから、バチあたったんかな。いや、ホンマおいしく食べられるってええなあ」

なんか急にバカバカしくなって、昼食を食べてから出勤。
夕食は、サンマなど。連日、秋の味覚満喫。

11/02/2006

小説とは関係のない天川村

11月1日(水)
終日、外出。小説講座の事務所には入れず。

本日、小説講座の事務所は、臨時休業。某企画のため、奈良県の天川村に行く。実は、仕事になるかどうかは未定だけど、一応、取材というか、ロケハンというか。
10時半に梅田で待ち合わせて、自動車に同乗させてもらい、阪神高速から奈良方面へ。天川といえば有名なのが「天河大弁財天社」。芸能関係のかくれメッカだそうだが、私は行くのははじめて。途中、黒滝の「道の駅」に寄り、「天川に行くなら、途中でこれを食べなきゃダメ」という串こんにゃくを食べる。びっくりするほど大きい。手作りコンニャクをダシで煮たものだけど、「ぜったいオススメ!」というだけあって、これはマジでおいしい。ほんのちょっとピリッと辛くて。うーむ。コンニャクってこんなに美味しかったね。ホントにこれはオススメ。

こじんまりとした道の駅、川のそばのカフェで珈琲を飲んで一服。柿の葉ずし、地酒、もろみ味噌、ごろごろ水のペットボトルなど、いきなりおみやげものを買い込んでしまう私。天川へは、ここから十数分。

明日がお祭りらしく、静かな「天河大弁財天社」。それでもパラパラと2〜3組くらいの観光客はいて、熱心に写真を撮っていたり。「ほら、何か気配を感じない?」と聞かれたのだが、もともと霊感はまったくないタイプだから、いちいち感じたりはしないのである。だが着いた途端、なぜか気分がボーッとする。理由はわからないけど。睡眠不足のまま、山道をドライブしてきたせいかもしれず、事前に一応いろいろと調べモノをしていった大峯山だの、奥駈道だの、修験道など、ややこしい知識がごちゃごちゃになっていて、頭の中でまとまらないだけかもしんないけど。

地図を持っていったので、地形などの確認。せっかくなので、お守りも一つ購入。「線香」を欲しがっていた連れが、神社の人に色々質問する。それでちょっと思いついた企画あり。「弥山」(この神社の奥院)の話が出て、「ここからなら8時間ほど」とのこと。地図を見たら、たしかに登山道もあるが。しかし、その場では思い出せなかったのだが、たしか弥山というのは、百名山の八経ヶ岳のルートでよく出てくる山名。どうも別ルートらしいけど。

神社の前にカフェがあったので、また一服。大いちょうの木を見てから、こじんまりとした村営温泉でのんびり。ほとんど「るるぶ」な小旅行である。大阪からほんの数時間なんだけど。

しかし、ずっと遊んでて、なかなか充実した一日だったけど、ちゃんとした企画を立てないとなあ。7時過ぎに梅田に戻る。

11/01/2006

読書の秋、食欲の秋

10月31日(火)
朝から、小説講座の事務所。コツコツ事務。

入学式は終わったのだけど、雑用いろいろ。欠席者への資料発送、伝票整理など。
最近になっても、資料請求がけっこう来る。小説講座の生徒募集は、年1回、秋しか行ってないから、11月11日の開講日までは受付けることにはしているが、10月下旬の資料請求はちょっとめずらしい。

先週、生徒さんから預かった80枚くらいの作品を通読。専攻科ではめずらしい「手書き原稿」の作品。初心者向けの文章教室などでは、かなり手書きが多いのだが、さすがに小説専攻科にもなると「手書き」の原稿は少ない。ただし、この人は、推敲もしっかりして3回くらい清書をするタイプなので、他の生徒さんのパソコン原稿より、構成も文章もよく考えられていて、誤字などはほとんどない。

何にしても、締切よりも早めに提出してくるのは意欲のある証拠。50代から急に小説を書きたくなって、うちの講座に入学した頃から書き始めた男性なのだが、最近すごく上達している。時代小説なのだけど、けっこう読ませる作品である。全体的にうちの生徒さんは、年齢層がバラバラなんだけど、人数的には、20代、30代の生徒さんが多い。しかし、50代〜60代の生徒さんの方が熱心かもしれないなあ。子育てとか仕事などが落ち着いて、時間的な余裕もけっこうある世代だからかもしれないけど。

ちょっと残業をして、遅めに帰宅。夕食は、朝のうちに用意していたおでん。朝つくっておいて、新聞紙とバスタオルでくるんでおいておくと、夕方には大根にもしっかり味がついておいしいのだ。うちでは、おでんと言わず、普段は関西風に「関東炊き」と呼ぶのだが、今日は「昆布と鶏スープ味」なので、これは「おでん」なのである。やっぱ「関東炊き」というには、昆布としょうゆの正統派じゃないとね。私は、「おでん」と言っても、トマトスープ味とか、コンソメ味などの「洋風おでん」とか、キムチスープとか、ミソ味とか、かなり変わった「おでん」を作ることが多いのだけど、これは「おでん」とは呼んでも、「関東炊き」とは呼ばないのである。

本日は、最近すごく安くなった大根をおいしく食べたくなったので、練り製品はチクワとゴボ天など、最小限で、たっぷりの鶏肉のほか、大根、人参、れんこん、じゃがいもなど根菜中心。ちょっと甘めの練り味噌をつけて食べる。今回は、めずらしくナスの具も。ナスは、ちょっと下ごしらえが面倒なのだが、意外とおでんの具になるのである。安くておいしい秋ナス。なんと10本150円。大きい大根も、1本98円である。あまり安くてうまいので、先週から漬け物にしたり。

それにしても、リンゴにミカンなど、果物もずいぶん安い。柿は、毎日食べまくり。ああ、ホント秋っていいなあ。

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