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09/30/2006

あしたは、小説講座の修了式です

9月29日(金)
朝から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

夕方まで、いろいろ事務作業。明日は、小説講座の修了式なんで、修了証の用意など。
ちょっと残業。とにかく忙しい。

09/29/2006

ちょっとウツ気味

9月28日(木)
朝から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

一日コツコツと事務作業。朝からウツ気味の気分なので、あまりはかどらず。

小説家志望の生徒さんには、ちょっとウツ気分になりやすい体質の人がけっこういたりする。作家さんの中にも、いるのかもしれない。小説を書くためにあれこれ考え込むせいか、それとももともと考え込むタイプだから小説を書くようになったのかは、わからない。小説講座で話している限りは、みんな明るい人ばかりなのだが、ずっとそうとも思えないし。

で、小説を書くわけではない私の場合。今回のウツ気分の理由は、たぶん、いつもの肩こりである。

十数年前の交通事故でムチウチになって以来、天気によって首の周囲がとても痛む。雨の日がひどく、気圧が大きく変わると確実になる。天候に関わらず、パソコンなどで長時間かかりきりになると、肩こりがひどくなることがある。これもダメである。こうなると、翌朝には確実にウツ気分。

で、今朝、目覚めるとウツ状態だったのである。おそらくこのところ、目を使う作業が多かったので、眼精疲労から肩こりになって、ムチウチがまた来たらしい。

目の疲れとか、天候や体調で、カンタンに精神状態が落ち込むというのは情けない気もするんだけど。

こうして先に「やや落ち込んだ精神状態」になってから、実際にはあとから小さな「何か」があって、さらに「落ち込む原因」になる。私の場合、必ずしも「落ち込む理由」がはっきりしているわけではないのだが、日頃ならほとんど気にならないような、たわいもない他人の発言であることも多い。後から考えてみれば、それほど落ち込むほどの発言じゃなかったりするのだが、もともと気分がウツ状態なので、ちょっとした言葉でもズバリと突き刺さるらしい。難儀じゃの。

とにかく今朝は、目が覚めたら首のあたりがパンパンに痛くて、頭もズキズキ。それでも6時には子供たちを起こして、弁当を作ってやり、何とか学校へ送り出さないといけない。もちろん体調が悪いものだから、何もかもうまくいかない。フラフラになりながら、なんとか登校時間。ところが、学校へ持っていく水筒に入れるお茶がほんの少し足りない(学校では、水道水を直接飲むのを一応、禁止されているから、毎日、家から水筒をもっていかないとダメなのである)
2.5リットルのやかんで、前日の夜に沸かして冷やしておいたはずだが、3人分にはちょっと少なかったのである。

「もう! ママ! お茶はちゃんと沸かしといてって、ゆうたやろ!」
双子の娘たちはそう叫びながら、赤いランドセルを背負って出て行き、長男が中学へと出かける。と、とたんに玄関先にへたりこんで、ボロボロと流れ落ちる涙。
お茶がちょっと足りないくらいなら、日頃なら
「アホか! お茶なんか足らんかったら、そのへんの蛇口、くわえとかんかい。水道水を飲んでも死なんわい!」
と、元気よく怒鳴り返すはずの私が(なにせ「大阪のオカン」である)なぜかポロポロ。

頭のすみでは
「ウツってのは、脳内の分泌物の量が足りなくて、気分が落ち込むんだよなあ」
なんて、冷静に考えたりしているのだが、涙がとまらない。ウツ状態の時は、他人にちょっとしたことを言われてもすぐに落ち込むんだよね。もはや立ち上がる元気がないので、ぐったり布団にもぐりこむ。

幸い、症状は軽いようで、1時間くらいでもちなおす。なんとか洗濯物を干して、事務所へ出勤。肩が痛むのは、すぐには治らないから、今日いっぱいは要注意である。

夜には、ちょっと元気。どうも食事さえあれば、元気になる。やっぱ、食い気だよな。

09/28/2006

人気プロ作家は、誇大広告ではありません

9月27日(水)
午後から小説講座の事務所。広告関係の打合せ、一件。夕方まで事務作業。

午前中、所用を済ませてから、梅田の大型書店をうろうろ。講師の著書などをいくつか購入。うちの講座は、二十人近いプロ作家の講師がいるので、いつも誰かしら新刊を出す。講師の先生たちの本が出ているのを見るのは、とってもうれしい。平積みになっているともっとうれしい。うれしいが出版が重なると、月によってはそれなりに出費。小さな事務所なので、マスコミ関係者などに配布する時以外は、書籍購入費がほとんどない。講師の本も、全部、私費なのである。

このところ忙しくて、3週間ぶりなので、講師の本以外にも欲しい本が多すぎてちょっと目がくらむ。でも、あらかじめ用心のため、サイフを減らしておいたから大丈夫。と思っていたら、レジに「ピタパカードが使えます」。ううう。なんと危険な。

ピタパとは、関西の地下鉄や私鉄が使えるポストペイカードのことで、JR西日本との提携もしてるから、これさえあれば、私鉄も地下鉄もJRも乗れる。便利である。私は地下鉄利用者だから、たいてい持ち歩いている。書店では絶対にクレジットカードを使わない主義なのだが(制限なく買いまくる怖れあり)、あやうく誘惑に負けるところだった。

「待て待て。新刊なんだから、あとでネットでも買えるじゃないか」
などと、あらゆる手段で自分自身を説得し、なんとか思いとどまる。おそるべきピタパ。クレジットカード機能があるので、サイフに入れていたのだが、今度からは、本屋に行くときは定期入れに移しておかないといけないなあ。

しばらくぶりに書店に行くと、ちょっと「飢餓状態」になっているから、なるべく落ち着かないとエライことになる。主婦が、お腹がすいている状態でスーパーマーケットに行くと、ついやたらお菓子とか買い込んでしまうんだとか。それにちょっと似た状態。そういう場合は、店に行く前にアメ玉を口に入れておくとちょっと空腹感がおさまるので、むやみに余計なものを買わずに済むらしい。ってことは、書店に行く前には、何をしておくといいのかな。アマゾンでかるく注文しとくとか?

午後、事務所にもどって、広告関係の打合せ。今回は、めずらしく新聞。まあ、ダメだと思うが、念のため一日だけ。大きく宣伝するにはかなりお金を使うから、うちの小説講座は、もともとあまり宣伝はしてない。どっちかっつーと、ここ数年、ほとんど口コミに近いような入学者が多いのだ。「ネットでたまたま見かけた」とか「友達に聞いた」とか。すごく地味な宣伝なのである。そんなもんだから、この講座に入学できたアナタはすごーくラッキーである。たぶん前世からの深い縁(!?)があったのであろう。

ま、どのみち、うちみたいな小さな講座は、新聞広告などをやったとしても、さほど何度も出せないので、あまり効果がないのである。だいたい新聞社は、たいていカルチャーセンターなどをやっていて、すでに「小説講座」などがあるし、それに新聞の生徒募集広告は、高齢者の問い合せが多く、しかもどういうわけか圧倒的に「私小説」の志望者が多いのだった。
「小説なら何を書かれてもいいんですが、講師は『エンターテインメントノベル講座』で、SFとか、ミステリとか、ファンタジーとか、時代小説とか、いわゆる娯楽小説の方が中心なんですが」
と説明すると、
「あ、そうなの。私、そういうの、ぜんぜん興味ないわ。ねえ、他にいい学校を知らない?」
と言われることが多かったりして、結果的にせっせと「大阪文学学校」を紹介したりしないといけないからなあ。いや、他校を宣伝するのはいいんだけど。みんな体質にあったところに通えばいいんだからさ。

それでも、今回ちょっとめずらしく新聞に小さな生徒募集広告を出すことになったのだが、今日、初対面の担当者と話をしていたら、
「『人気プロ作家による小説講座』ということなんですが、もしかしてこの『人気』という表現がひっかかるかもしれません。人気と言われても、どれだけ人気かわかりませんから、誇大広告になるかもしれませんし。ですから、もしかするとここは『現役プロ作家』に変えさせてもらうかもしれませんよ」
などと言われた。

はじめての代理店なので、こっちも、加減がちょっとわからない。
「ダメなら『現役』でも何でもいいですけど、なるべく『人気』プロ作家ということで」
と、頼んでおく。

でも、ホント「人気プロ作家」なんだけどな。だって、さっき本屋でもいっぱい並んでたしさあ。

今回、わずか一日だけのたった2行の新聞広告なので、見られる確率はかなり少ないから、正直、広告の反応はほとんど期待してない。でも、それでも、うちの講師の先生たちが「人気作家」なのはホント事実なんだもーん。だって、みんな商業作家で、しかもエンターテインメント系なんだぞ。これで人気がなかったら、毎度毎度、本屋には並びませんよ。

いや、ホント。うちの講師の先生たちの著書って、おもしろい本ばっかりなんですよ。一度、読んでみてくださいよー。……などと、初対面の広告担当者にまで、やたらと宣伝しまくる私。

ま、先生たちは、あれでけっこうシャイだったりするので、
「いや、人気プロ作家って言われても、そんなの恥ずかしいし」
なんて、少し困った顔をするかもしれないけど。

でも、ホントおもしろい本ばかりなんだけどな。

09/27/2006

作家さんとランチ、作品集の整理、短編チェック、小説講座の平和な一日

9月26日(火)
朝から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

昼、ちょうど東京から帰省中の芦辺先生が、西長堀の「大阪市立中央図書館」に寄るというので、事務所近くでランチ。いろいろ話。ミステリの某論争などの話題も。

2時過ぎに事務所に戻り、丁稚どんと事務作業。作品集のかたづけなど。この一年間で「9期」と「小説専攻科」を合わせると、百数十編の作品が提出されており、その全部を作品指導してもらったわけである。書きも書いたりだけど、これを指導してくれた講師の先生たちにも大感謝である。うちの講師はプロ作家ばかりだから、みんな忙しいし、本業の合間にやってもらわないといけないので、講師として作品指導をしてもらうのも、けっこう大変なはずなのである。生徒さんは、そこんところ、よーく感謝してね。作品名を見ながら、それにしても、この一年、みんな成長したなあ、と。つくづく。

4時頃に専攻科のNくん来館、先週チェックした作品の修正原稿を持参。せっかくなので丁稚どんにも読んでもらって、意見を言ってもらう。すると再度、大幅書き直しになりそうなNくん。ヘンなキャラを何人も出すようなギャグ小説はやはり大変である。いくら変人キャラでも、この人物ならこうするという法則というか、行動原理というか、何かしら性格はあるわけだが、書き手は、そんな変人ではなく普通の人間だから、それぞれをずっと奇妙な行動をさせ続けるのは至難の技。

いろいろ意見をもらって、矛盾点も見えてきたようで、
「あー、やっぱ、これって、プロット細かく立てないとダメかなあ」とNくん。彼は、いきなり書くタイプで、日頃から細かいプロットを作らず、修正を重ねる作り方をするのだが、ギャグのためには、いろいろ「しかけ」とか、細かい伏線も必要なのである。今度ばかりはそうも言ってられないらしい。
「難しいなあ。ちゃんと考えないとなあ」
と真剣な顔。路線は、勘違いシチュエーションのラブコメに変更。

ふと、彼がプロットを作る気になったのは初めてではないか、と思ったんだが、本人は気がつかないみたい。ま、専攻科の次回締切は、11月だから完成するのはだいぶ先になるだろうが、この作品を完成したら、たぶん相当な実力がつくんだろうなあ。がんばって、みんなを笑い転げさせようね。

5時に荷物引き取り。来客多し。夕方、小森先生に送付してもらったビデオを見ようとするが、あまりの眠さに、夕食のかたづけをして、10時過ぎにはダウン。わたしゃ毎朝5時半起きなので、10時でも深夜。

09/26/2006

小説とは関係のない休日(死体の花嫁)

9月25日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜、祝日お休みです。

事務所は休みなのだが、私は、年に数回あるかないかの忙しさ。一日せっせと働く(考えてみれば、さほど金にならない仕事だが、ま、それはいいんだけど)
頭を使う作業が多くて、けっこう疲れる。最近、一日の半分くらいはぼんやりとしてるもんだから、脳ミソにすっかり怠け癖がついたらしい。一日中こき使うとクタクタ。

そんな忙しい中、昼頃、ケータイに電話あり。
「いろいろ相談があるんで、よければ今日どう?」というある知人からのお誘い。だが、あいにく日がめちゃくちゃ悪い。普段なら、どんな相談ごとでも、お安いご用なのだが、今日だけは、明日までにやらなきゃいけないせっぱつまった仕事がある。昼メシを食うヒマもなく、夜、寝れるかどうかわからん。とっちらかっている。今日だけはとてもとても無理。
「急ぎの相談じゃなければ、後日にして。今日はめちゃくちゃ忙しいの。ちょっと余裕ないわ」
と断る。
すると、すぐわかってくれるかと思ったら、「えー、今日なんとかならないの?」と、ちょっと不満げな声。
「いや、ホンマに今日だけは忙しくてダメ」と断って、ちょっと悪いかなと一応、「一体なんの相談?」と聞いたら、
「いや、来年の春、結婚することになって、披露宴とか……」

はあ、来年? 
そんな数ヶ月も先の話、このクソ忙しいのにつきあいきれるかあ〜。そんなもん後日にせえ、後日。

だいたい、そういうもんは、生涯の伴侶とか、親兄弟と話し合って決めるもんじゃないのか。ほら、結婚式は、人生最初の共同事業だってゆうもんね。あ、あれはウエディングケーキの入刀だっけ。とにかくノロケ話にしても、一度も見たこともない相手だと私は面白くもないし、酒の肴にもならんから、また日を改めて聞くぜい。
と、きっぱり断って、後日に約束。

電話を切ってから、あとでちょっとだけ反省。
ま、この歳になれば、他人の結婚式など、私にとってはモノ珍しくもなんともないのだが、本人にとっては、やっぱ、一生に一度のことなのだしなあ(むろん二度、三度する人もいるだろうが)。ま、とりあえずおめでとう。今日はスマン。しかし、ただのノロケなのかもしれんが、半年も先なら、今から心配すんなよ。舞い上がっちゃってんだろうが、どうせ先はもっと長いんだぞ。

ところで、私の周囲の友人には、未婚の人がかなり多い。そういう世代なのかもしれない。まあ、正直、結婚したからといって、それで幸福になるのかというと、それは必ずしも限らないわけで、ずっと独身でもけっこう楽しそうだし。すでに別れちゃった夫婦も多いので、ムリに結婚にこだわらなくてもよさそうだしね。だいたいは何とかうまくいくみたいだけど、結婚したらみんな確実にハッピーになるんだったら、既婚者の自殺なんかもいないハズかもしんないもんな。でも、自殺で一番多いのが「中年男性」らしいけど、けっこう既婚だったりするらしいしさ。冷えた家庭ってわけじゃないだろうけど、家庭が重荷になることもあるし。

だけど、やっぱり結婚するなら幸せになってほしい。うん。祝、結婚。

そんなこんなで、夜、やっと仕事を片づける。クタクタなのだが、寝る前に、疲れた頭を休めるためのDVD鑑賞。で、本日は、ひそかに結婚祝いをかねて『コープスブライド』である。

いや、何度見てもええ話やなあ。
『ナイト・メア・ビフォア・クリスマス』もいいけど、パペットアニメゆえの奇妙で優雅な幻の世界。音楽もかなり気に入っていて、骨たちがジャズで踊るシーンもいいけど、死体の花嫁がピアノを弾くシーンがせつなくて一番好き。キャラデザインにはたぶん好き嫌いがあるだろうけど、このシーンだけでも見る価値ありよね。

しかし、今、あらためて気がついたが、この作品にも、アンハッピーな結婚がしっかり描かれているのであった。むろん本人には内緒なのだが、やっぱ「結婚祝い」に見るような映画ではなかったかもな。(いやそれは最初からわかってたが)

でも、縁起が悪いとかじゃなくて、ほら、こういうことだよね。「結婚すれば、自動的に幸福になれる」のではなくて、きっと「幸福」って、周囲の助けを借りたり、ときには戦ったりして、二人で少しずつ作り上げていくものなのよ。自分も成長したりして。うんうん。ほら、やっぱ、エエ話やな。

09/25/2006

小説とは関係のある休日(小説ばかりの一日)

9月24日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜、祝日はお休みです。

終日、家族は外出。私は一人で自宅にこもって、せっせと某小説コンテストの下読み(うちの主催のものではありません。どこのコンテストのかは内緒)。
休日は、あまりメールチェックをしないのだが、終日、一人で自宅にいたので、生徒さんからのメールを読んだりする。

ところで、今、「エンターテインメントノベル講座」の生徒募集をやっているのだが、同時に「小説専攻科」も募集中なのである。専攻科は、卒業生対象にした作品指導中心のクラスなのだが、今年もAクラス(プロデビューコース)とBクラス(実力養成コース)の2クラス制になっている。

さて、この専攻科のAクラス(プロデビューコース)。このクラスでは、提出された作品のうち、レベル的に低すぎるとか、あきらかにどうかな、というものは、私個人の責任で「書き直しを命ず」ことになっているんだけど、事実上、昨年はあまり書き直しをお願いしていない。でも、今年はちょっとチェックレベルをあげる予定なので、かなりの数がひっかかる怖れあり。なにせ講師指導の前に「門前払い」ということになるので、今まではどうかなと思うやつでも、ちょっと片目をつぶって講師に指導をお願いしてたのだけど、そのせいか、なんだか緊張感がなくなったような気がするのだ。プロデビューをめざすなら、もうちょっとプロ意識を持ってもらいたいので、やっぱりこれは厳しくおこうと思い直したのである。だから、Aクラスの人は、ちゃんとしたもんじゃないと、提出しちゃダメだぞ〜。だって、プロクラスだもん。

Bクラス(実力養成コース)は、まだそういうレベルじゃないので、真面目に書かれてたらいいですよ。

さて、どういうものがダメかというと、まず「誤字脱字が多いもの」だよね。まあ、これはBクラスでも同じだけど、ここは常識の範囲。もちろん表現上のミスが多いものも困る。視点の混乱とか。それから、気になって読めないくらいに内容に矛盾があるもの。少しくらいはいいけど「ツッコミどころ満載」なんかは困るからやめてね。また、どう考えても、だらだら長過ぎてだるいもの。とくに長編。昨年の状況から言うと、とにかく100枚以上の長編は要注意。50枚なら50枚、100枚ならその倍以上の指導の労力がかかるわけので、100枚なら50枚短編の倍以上の面白さとレベルを要求します。あとは、本人自身が「どっちかよくわからない」ということを書いてあるもの。自分で決めないと仕方ないことを講師に聞くんじゃないんだぞ。

あと、「その人の実力から考えたら、当然もうちょっと書けるはずなのに」というもの。初心者クラスなら今できる範囲でいいんだけど、プロクラスなら、中途半端な状態で人に読んでもらうのはやめようね。去年はこれが多かった。というわけで、不安な人は早めに提出しましょう。締切日に提出したものは、2週間以内に返答します。第1回の締切日は、11月14日ですが、9月に提出されてもかまいませんので。

今年度は、プロデビュー3人という目標が達成できんかった。まあ、確かにちょっと色々あったのだけど、来年は絶対プロデビューしろ〜。デビューできる人はグズグズ言わず、すみやかにデビューしろ〜。早くプロになって戦ってくれ。よろしくね。

またまた「小説の視点」の問題と映像を伝えること

またまた「小説の視点」の話。
(またまたややこしい話なので、「日記」とは別にします。興味のない人はとばしてね)

先日、「視点」の話を書いたので、ある生徒さんから、このようなメールが来た。

「A男とB子が食事をして、A男が先にレストランを出た。残されたB子がため息をついた(主人公はA男)」という場面を、映画や芝居なら表現できるのに、小説ではできないのなら、そこに不自由さを感じます。

……場面は違うけど、似たような質問を別の生徒さんからもメールもらった。実は、このような質問なら、毎年のように誰かしら、聞いてくる生徒さんがいるので、どうも共通の疑問かもしれないなあ。

で、私の意見を書いておきます。
(例によって、私自身は、作家でも編集者でも何でもないので、これが、講師の意見ではなく、ただの個人的な意見だということも忘れずにね)

まず、この件を考える前に、まず最初に「小説と映像とはかなり違う媒体なので、当然、表現の仕方もかなり違う」ということを認識しておく必要があると思うのね。

おそらく、小説を書く生徒さんが一番最初に起こす誤解は、
「自分が頭に浮かんだ映像をそのまま文章化すれば、読み手の頭にも同じような映像が浮かぶ」
ということではないかと思います。もちろん書き手の頭にその話のシーンなり、「映像」が浮かぶことは非常に重要で、それがきちんとできるなら、それは大変いいことなんだけど(実は、それができてない人が多い。自分ではわかっているつもりでも、案外すみずみまで「見えている」人はきわめて少ない)、それを「ただとにかく言語化する」だけで、読み手に伝わるかというと、それはないわけです。

さて、このシーン、つまり「A男とB子が食事をして、A男が先にレストランを出た。残されたB子がため息をついた(主人公はA男)」というシーン。
(厳密には、いわゆる「主人公」がつねに視点人物とは必ずしもは限らないけど、この場合は、A男=視点人物と考える)

この「B子のため息」をどうしても書きたい、書かなければいけない、という理由は何なのか(とくに主人公でもないのに)……という問題はさておき、とにかく「どうしても必要だ」ってことにおきます。

「一視点」で書くなら、視点人物が店を出てしまったら、店に残された人のことは書けない。だけど、どうしてもそういう「映像」を伝えたい。
その場合、実は、やってやれなくはないのです。

でも、その方法の前に、ちょっと説明しておかなくてはいけないことがあるのです。

いわゆる「文章読本」などでも、よく言われていることですが、読み手というのは、ただ文章に書かれている情報だけをそのまま読んでいるのではないのです。書かれてないことも想像しながら読む。だから、文章を見て、映像がパッと浮かぶということがあるわけです。

このことは、よく文章読本でもやっているので、そこはかるく引用させてもらって、「俳句」をとりあげて、説明しましょう。
そろそろ秋だし、こういうのはどうでしょう。
「柿食えば、鐘が鳴るなり 法隆寺」
さて、どういう映像が頭に浮かびましたか? 
この俳句を読んだ途端、頭の中に「ゴーン…」なんていう鐘の音が響いたりしませんか。まあ、小説を書くなら、それくらいの感性は欲しいですね。まあ、好き嫌いはあるだろうけど。

うん。鐘は鳴ってますよね。でも、ゴォオーンとか、書いてませんよね。さらに、人によっては、夕暮れの中、「カアカア」と山に帰っていくカラスの鳴き声まで聞こえちゃったりしませんか。映像も浮かびますよね。

さて、これも有名な話なのですが、もともとこの俳句って、どうも「東大寺」で作られたものらしいんですよ。だから、最初は、こういう俳句だったわけですね。
「柿食えば 鐘が鳴るなり 東大寺」
で、これって、どうですか。東大寺。まあ、これは何だかえらい違いですよね。頭の中に「大仏の顔がどどーん」って浮かびませんか。少なくとももうカラスは飛びませんね。カラスは。代わりに大仏がどどーん。
で、たぶんそれがマズイんで、「法隆寺」に変えた。うん。そりゃあ、法隆寺の方がいいでしょ。

こういうのもあります。

「夏草や つわものどもが 夢のあと」

さて、これは、詩人で映画評論家の杉山平一先生に聞いた話ですが、この場合は、言葉の順序が問題なのです。この句も一番最後に「ゆめのあと」をもってきている。だから、読んだあとに頭の中に映像がキレイに浮かぶようになっているのですね。ほら、これも余韻がすうっと後ろにのびているでしょう。暑苦しく生い茂った夏草の影に、なんだか小さな虫なんかいたりして、寂しげにリーリーと鳴いてたりしてて。俳句の場合、五七五の最後の五文字で、ぱあっと映像が浮かぶものがしばしばありますけど、そういうのは、順序とか、細かい語尾の違いで、映像が頭に浮かぶか浮かばないかが、全然違うわけです。

つまり、こういうことなのです。文字情報ってのは、そのまんま書けば、つまり、まるでコンピュータに入力するみたいに「A」と書けば、読み手の頭に自動的にパッと「A」が浮かぶというわけではないのです。読み手は、つねに想像しながら、つまり「書かれてないこと」も含めて、それを想像しながら読みます。つまり「映像」が浮かぶというのは、こういう作用を利用するこということ。つまり、「文字情報」によって伝達するというのは、ただ書けばわかってくれるわけではないんですよね。一方で「よく伝わる文章」というのは、そこには直接書いてないことまで読み手に伝わります(「行間を読む」という表現もあるけど)

つまり、文章表現というのは、ただ言語化するのではなくて、とくに小説の文章ってのは、ただ正確に書くというよりは、読み手が想像しやすいように、つまり「刺激する」んですよ。

さて、そこで問題の「ため息」ですが、これは、例としてですが、どうしても書きたい場合、こういう方法があります。私は、本職の作家ではないので、うまくは書けませんけど。

あ、「A男」じゃ、感じが出ないから、とりあえず「一郎」にしましょう。

食事が終わって、最後のコーヒーが運ばれて来た。ようやく一郎は別れ話を切り出した。和子はうつむいたまま、ただだまって聞いていた。泣き出されたらどうしようかと思っていたのだが、彼女は自分のコーヒーカップをにらみつけていただけだった。いたたまれなくなって一郎は、そのまま席を立った。由美のことが気がかりだった。会計を済ませ、一度もふりかえることなく店を出た。今の一郎には、一人残された和子の気持ちなど、少しも考える余裕などなかった。

………うーん。これで、うまく行けば、読み手には「一郎が出て行ったあと、店の中で一人でため息をついた和子」が見えた気がするはずなんだけど、ちょっとうまく「ため息」の映像が浮かびませんね。まあ、文章の色気がないせいもありますが、一番の原因は、たぶん、「和子がこのあとどういう行動をする女性なのか」という情報がぬけているからでしょう。和子についての情報不足です。別れ話をされて、店に一人残って「ため息」をつくような女性。どんな人でしょうね。いつも振られていて、自分に自信のない女性かもしれません。あ、ため息をつくような女性なら、「カップをにらむ」よりは、「ぼんやり見つめていた」かもしれませんけど。ま、一郎に別れ話をされるのも、すでに予想がついてた感じですね。きっと別れ話を聞かされても、「ああ、やっぱり」とか、「とうとう来たわ、どうせムリだとわかってたから、仕方ないわ」なんて思って、一人でため息をつくような女性かもしれませんね。これが、自己中心的な金持ちの令嬢だったら、ため息なんてつかずに泣きわめきますからね。テーブルでうつぶして、わんわん泣くとか。

つまり、こういうことです。読み手の頭に、映像を浮かべるためには、必ずしも「そのまま書く」必要はなく、映像が浮かぶように書く。
読み手がちゃんとわかっていれば、そこが文字では直接は書いてなくても、十分にその映像は伝わるんですね。読み手がストーリーや書き手の意図がわかっていれば、必要な映像はたいていどうにかして伝わります。まあ、厳密にはもちろんそのまんまうまく伝わっているかどうかわかりませんが、そういうのは、たいてい何か方法があります。もちろん、文章表現がうまく書けば、ってことですが。

ちなみに「一視点」でも、たいてい「背中のむこう」くらいは書けるみたいですけどね。「そんなことは今のオレには知るよしもなかった」なんて表現とか、たまに書いてありますが、この部分、一視点で「オレが知らないこと」をなんで書けるんだ、ってところですが、これは「未来のオレ」が急に出てきてるんですね。つまり、この部分だけ「回想」なのね。ま、何しても、読み手が読みやすければ、別に視点くらい、ブレてても、ズレても何でもかまわんのですよ。ただ、まあ、初心者は「一視点」で書く、と思ってた方が無難だと思いますが。

さらにちなみに、こういうシーンって、テレビドラマではよくありますが、けっこうベタなシーンなので、映画ならあまり使いたがらないかもしれません。「ため息をつく」なんてのは、まあ、わかりやすいけどね。テレビドラマの映像は、かなり「説明的」なんですよね。テレビの視聴者って、あんまり集中して見ていないから、とにかくわかりやすく作るんですよね。でも、小説や映画だと、もうちょっと集中して見てくれるから、それほど安易な表現は使わないですね。小説でも、手っとり早く話を進めなくちゃいけないショートショートとか、かなり短いものとか、長い作品でもどうでもいいようなシーンで、テンポが必要な場合はやるかもしれないけど、普通は、もう何か違う表現をするだろうし。ベタな動作って、わざとらしいか、ギャグっぽく見えるんで、できるだけもっと人間らしい動作を表現した方がいい気がしますが。

で、生徒さんのご意見。
「A男とB子が食事をして、A男が先にレストランを出た。残されたB子がため息をついた(主人公はA男)」という場面を、映画や芝居なら表現できるのに、小説ではできないのなら、そこに不自由さを感じます
……ですけど。

だから、私は「視点を統一してても、小説でも表現できる」と思います。ただ、ちょっと単純な方法じゃないかもしれないけどね。あと「不自由さを感じる」ってのは、ま、書き手としてはそれはあるかもしれないとは思うけど、そこは仕方ないとは思いますよ。だって、映像をそのまま文字で伝えるーっても、情報の絶対量が違うからねえ。映画だったら、音楽も、効果音も、実際の顔の表情も見せられるし、セリフだって、声のトーンとかイントネーションとか、まあ、テーブルのうえの手の表情だとか、あれやこれや全然違うわけですよ。情報量が。だから、たしかに不自由は不自由だよね。うん。

ただ、私個人としては、だから映画の方がスゴイ、とは思わないんですよね。だって、うまい小説を読んでいて、頭に浮かんだ映像の方がよっぽどスゴイってことが多いし、これってたぶん「伝わった」と思うんだよね。書き手の頭に浮かんだヤツそのまんまではないだろうけど、とにかく「見えた」わけだし。そのうえで「視点人物」ってのは、私は、小説にとっては、ものすごい「発明」だと思うのですけどね。この効果っていうか、威力はすごいですよ。ホント。視点人物がいるだけで、ものすごく感情移入しやすいですからね。

それよりも、ずっと面白いな、って思うのが、なんで人間って、ほんと、こんな情報量が少ないのに、書いてないことまでわかっちゃったり、伝わったりするんだろう。それって不思議ですよね。

以前、専門学校で、広告コピーを教えたりする時に、よくとりあげたのが「明日があるさ」ってコピーなんだけど、これって、おもしろいですよね(まあ、広告だからビジュアルもあるんだけど)。「明日がある」てのは、まあ、あたりまえで、誰でも知っている事実なんですけどね。そこに「さ」がついただけのセリフ。
それだけで、「この人は、明日があるさ、と言わずにはいれないような、今日があったに違いない。何かがあったんだろう。失敗とか、ミスとか。で、ちょっと疲れていて、でも、明日はがんばるぞ、って、きっと気持ちを切り替えたいんだな」って。で、ほんのちょっとネクタイをゆるめたサラリーマンの「ビジュアル」。うんうん。で、わかるわかる。仕事って、そういうことあるよね、みたいな共感。(余談ですが、缶コーヒーのユーザーはほとんどベビーユーザーで、8割以上が男性。30〜40代くらいの外回りの営業マンとか肉体労働者が多い。広告は、ここらがメインターゲット)

こんな短い言葉だけで、なんだか人間って、けっこうわかりあえてしまう。これって、不思議じゃありませんか。まるで、魔法みたいですね。すべての言葉って、きっと呪文です。

そう考えたら、言葉って、ものすごく不自由じゃないよね。もしかしたら、ある意味、ものすごく自由ですよね。だからこそ小説って「自由に表現する」ために、たいていの作家は、視点を統一してるんだろうと私は思ってますけどね。

しかし、なんで、みんなそんなに「視点を統一する」のがイヤなのかあ。
ホント、けっこう根深い問題だったんだなあ。

09/24/2006

小説とは関係のない休日(PTAミュージカル観劇)

9月23日(土)祝日
小説講座の事務所は、日曜、月曜、祝日はお休みです。

よく晴れた休日。私は朝から、小学校のPTAの成人教育研修のため外出。今年は、PTA役員の成人教育担当なのである。

研修といっても、今日は「ホテルのランチバイキング」とミュージカル『マンマ・ミーア』観劇。保護者対象のPTA行事なのだが、会費補助があるので、計2000円の費用負担で済む。それでも参加希望者がすごく少ないのはちょっと不思議。
「たぶん祝日だから、子供たちを夫か実家に預けないと、出て来れないからじゃないかしら」という話なのだが、たしかに「金曜の晩から、実家に預けてきた」なんて人も多い。うーむ。なるほど世の父親というのは、これほどアテにならないものなのだな。けど、昼間の公演だから、朝9時半に集合して、夕方5時には帰宅できる。一日くらい何とかなりそうなものだけどなあ。私なんか、年中、毎週土曜は、仕事で朝から深夜まで不在なんで、ぜんぜん気がつかなかったが。

「劇団四季は、『キャッツ』以来。もしかして20年ぶりかしら。映画だって、結婚してからもう何年も見に行ってないし」なんて言う人が多かった。
「どこに行くにも、ずっと子供中心だったから、梅田に来るのも久しぶりだわあ」と言いつつ、終わったらすぐ子供たちにおみやげを買って、家路を急ぐ。

なるほど母親って、みんな、けっこう健気に生きてんだな。

09/23/2006

本屋にも図書館にも

9月22日(金)
朝から小説講座の事務所。夜8時過ぎまで、いろいろ事務作業。

電話の問い合わせ数件。雑用でバタバタ。明日は、祝日なので、事務所は休み。だから少し残業。

最近、何かと忙しくて、さすがに本を読むヒマがない。どんなに忙しくても、少しずつでも時間を見つけて、なんとしてでも読むタイプなのだが、めずらしくここ数日、ほとんどダウン。けっこう頭を使う作業が多いせいかも。

うちの講師の先生たちは、現役のプロ作家さんばかりが二十人近くいるので、毎月、誰かは確実に新刊を出す。本屋に行くと、講師のうちの誰かの新刊が山積みになっているのが目に入る。うれしい。ただ、書店の店頭の入れ替わりは激しく、とくにエンターテインメント系の小説は、ちょっとボヤボヤしていると、たちまちまた別の本が出る。「市場調査」のために、「話題作」などもなるべく読むようにしているが、かなりの量を読まないとたちまち追いつかなくなる。講師の先生に献本いただいた場合は、どんなに忙しくても当日か翌日には確実に読むようにしているのだが、献本いただかない講師の方が多いし、最近、忙しくて書店に寄るヒマもないので、気になって仕方ない。アマゾンで買えば済むことなのだが、講師の著書は、なるべく店頭で買うことにしている。
(ちなみに献本をいただいても、私の場合、それとは別に一冊購入することがほとんど。学校用と個人用である。ただ、学校用は、マスコミ関係者などに「ぜひ読んでください」とホイホイ配ってしまうことが多いので、あんまり残っていないけど。個人用にサインをもらっておかないと、たいてい生徒か誰かに取られてしまうのだ)
ああ、もう十日以上も書店に行ってない。毎日三度の飯がおいしく食えて、本屋と図書館さえあれば、それだけで「人生、9割は勝ったも同然」という私なのに。ううう。

こんなふうに毎年、9月上旬から10月上旬までは、どうにもこうにも忙しいのだが、わかっていても、どうにもこうにもならんのであった。
夜、自宅にて、某小説コンテストの下読みをする(うちが主催のものではありません)。山積みの原稿。まだまだ秋はこれからなのだった。

09/22/2006

またまた小説における視点の話

9月21日(木)
午前中、小説講座の事務所、午後から外出。

先日、ライティング講座で作品指導を受けた生徒さんから、メールが来た。
講義中、小森先生が別の人の作品をとりあげて、丁寧に「視点」について解説をしてくれて、その時は、すごくよくわかったつもりだったそうだ。が、いざ、自分の作品を見てみると、どこがブレているのか自分ではさっぱりわからないのだとか。

なるほど、小説における「視点」って、やはり難しいんだなあ。

しかし、やっぱり初心者のうちに注意された方がわかりやすいようだし、入学時までに、すでに視点がブレた作品を何作も書いていたりするような人の方があとで苦労するからなあ。一度クセがついてしまうと、どうしてもその方法に固執するので、講師の先生に注意してもらっても、「ああ、わかってますわかってます」と言うだけで、ずっと変わらなかったり。

で、またまた「視点」について、である。

私自身は作家ではないし、書評家でも編集者でもないのだから、あまり複雑なことはわからないし、アテにならないから、本当は誰か講師に頼むのが一番なのだけど、先日のブログでもやりかけたことだから、おそるおそる今回も何とか説明を試みてみる。うまくいく自信はないんだけど。

で、ちょっとヘンな文章だけど、こんな例文を考えてみた。もし、これでわかってもらえればいいんだけど。
さて、問題です。以下の文章は、「彼」と「彼女」のどちらに視点があるでしょうか。

「彼は怒り狂って、大声で叫んだ。彼女は悲しそうに目に涙を浮かべた」
「彼は怒り狂ったように大声をあげた。彼女は悲しくて泣きそうになった」

ま、実際の小説ってのは、たいへん長い散文形式をとるので、たとえもし本当にこういう文があったとしても、その前後にいくつもの文が並んでいるはずなので、これだけで判断をつけることはないはずなのだが、しいて言えば、たぶん「上の文章」は、どっちかというと「彼」に視点があり、一方、「下の文章」は、どちらかといえば「彼女」に視点がある。上の文章だと、「彼女」は、「悲しそうに見える」と、外からの視線で眺められているし、下の文章だと、「彼」の方が「怒り狂ったように」と外からの視線で見られている。

実際には、あんまり「〜ように」とか「〜様子で」とか、いちいち書くと文がうるさいので、下の場合でも、「彼は怒り狂って、大声をあげた」と書くことがあるかもしれない。ただ、それでも「泣きそうになった」のは、まだ外側からは見えないはずの内的な状態を表わしている文章っぽいので(外見にも使えるけど)、それを考えると、やはり「彼女」が視点人物になる。で、もしも彼女が視点人物でないなら、「泣きそうになった」というよりは、むしろ「泣きそうに見えた」となるかもしれない。まあ、かなり微妙なんだけど。

とにかく、その人物が「視点人物」なら、そちら側を「私」とか「オレ」などの一人称に読み替えても、あまりヘンじゃないのである。初心者の人の中には、「一人称なら一視点だけど、三人称なら視点は気にしなくてもいいから、ラクに書ける」と思っている人がいるみたいなのだが、実際には「一人称か三人称か」というのは、それほどは大きく書き方は変わらない。視点が統一されているなら、視点人物の名前なり、「彼」なりを「私」に変えても、ほぼ文章は成立する。視点人物ではない登場人物なら、外から見られているので、そこは「私」に変えるとヘンに見える。

さて、読者は、つねに視点のある側に立っている。小説は、映画やマンガと違って、読者には、実際の映像はまったく見えてない。真っ暗闇の世界である。むろん効果音もないし、「会話」があっても、声色はわからないし、イントネーションも使えないから、ラジオドラマよりもよほど情報量が少ない。だから、視点人物がはっきりしないと、誰がどこにいて、誰が何を話しているのか、どうもわかりづらい。それだけ映像やマンガに比べて、情報量が少ないのである。実際には見えない空間を、文字情報だけで、読者の頭の中に作り上げてもらわないといけないから、けっこう大変である。だから、どっちから見えているかさえはっきりしていればいいのだけど、、その視点がブレていると、世界がくっきり「見えて来ない」んである。

ただ、実際には、上記のようなかなり微妙な文章表現上の問題を含んでいるので、少しややこしい。とくに小説をすでに色々書いていて、視点なんてものを気にせずに書いてきた人は、急に「視点が統一されてなくて読みにくい」などと言われても、「そんなもの気にすると、書きにくくて仕方ない」らしい。もちろん書き始めたばかりで、「視点って何?」という生徒さんにとっても、相当ややこしいらしい。視点がブレているといっても、それは小説世界の構築上、困ったことになるだけで、日本語としての文法上の間違いではないからである。

で、どこが視点のブレかわからない場合は、三人称で書いていても、頭の中だけでいいから、その作品の視点人物を一人称に置き換えてみるといいかもしれない。一度声に出して読んでみるといいかも。ヘンな部分があれば、自分で気がつくだろうから。

小説講座の生徒さんを見る限り、「視点がめちゃくちゃブレちゃっている」という人は、視点が何かを全くわかってない場合がほとんどだから、自分自身で気をつけている人なら、だいたいはそのうち気にならなくなると思う。それよりも構成とか内容とかアイデアとかによほど大きな問題がある場合も多いから、そっちを注意した方がいいかも。ただ、気をつけているつもりなのに、しばしばブレていると注意を受けるのなら、それは視点の問題というよりは、「作品世界がちゃんと把握できてない」とか、「その登場人物の性格や人間関係が理解できていない」とか、そういう問題の方が大きかったりするから、そこらは合わせて考えてみた方がいいかもしれない。

とにかく「視点の問題」は、「実際に問題がある人」ほど、本人は問題にしないし、さほど問題がない人ほど、ちゃんと気を使っているんだけどな(あたりまえと言えばあたりまえだけど)

あ、もっと「いい例文」が思いついたら、教えてくださいまし。

09/21/2006

小説家志望とギャグ小説

9月20日(水)
朝から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

2時から、生徒募集関係で打合せ。2時半にOさんたちが来て、隣のテーブルで打合せをしており、3時過ぎには専攻科Nくんが来る。めずらしく来客の多い一日である。Nくんは短編持参で、タイトルは「ほがらかvol.3」。専攻科のクラスで、おなじみの彼の連作短編シリーズ第3弾である。専攻科の場合、こうして短編を連作形式で書いたり、また、それを後で書き直して長編に仕上げるタイプの生徒さんがたまにいる。ホントは連作短編は必ずしも奨励してないのだが、これは彼にしてはめずらしいギャグ小説。日頃書いている長編ファンタジーではないのだが、これはこれで、けっこう彼の体質にもあっているような気もする。トボけたキャラが登場するのだけど、これがなかなか面白いのだ。

ただし、登場人物全員がみなボケキャラばかりなので、そこんとこが難しい。一人くらいマトモな人間がいればいいのだが、全員ボケというのはツライ。ツッコミ役が一人いるといないとで大ちがいである。こういう小説だと一人くらい「フツー」な人が登場してもらわないと色々不都合があるのに、全員ボケキャラ。こういうキャラ構成だと、文章テクニック的にはかなり高度なワザが必要とされるんである。というわけで、1時間ばかりかけて、一緒に作品を丁寧にチェックする。

ちなみに、うちの小説講座は、プロ作家の講師が二十人くらいいるし、教室での作品指導もいつも講師が担当する。だから、私自身は生徒作品についてはほとんどコメントはしないことになっているのだが、このNクンのはちょっと特別である。
(小説講座じゃなくて、初心者向けのコースのライティング講座などは、カンタンな日本語の書き方のレベルだから別)

彼は、めちゃくちゃ書き直しが多いタイプで、初稿は、かなり誤字が多い。しかも自宅が事務所から10分くらいのところにあるので、たいてい提出までに何度も見せに来るのだ。変換ミスも多く、数行おきにある。こういうのは、プロ作家である講師に指導してもらう前に、できるだけ訂正してもらわないと困るのである。なにせせっかくのプロ作家の直接指導である。講師だって、みな忙しいのに、それが「誤字チェック」に終止してしまうと、内容や構成をちゃんと指導してもらえない。これはもったいない。

どうやら彼は、何度も途中で作品を人に見せて、いちいち修正しながら作るタイプらしい。小説講座では、どっちかというと「ちゃんと完成するまで誰にも見せたくない」という人が多いので、意外とめずらしいタイプである。もともとマンガ志望だったからかもしれないけど。しかし、そのせいか、視点の混乱もおびただしいのだが。
(作家志望の人の中には、マンガを描いていた人や映画志望だった人がいるのだが、こういうタイプは頭に浮かんだ画像をそのまま描きたがるので、つい「視点」が混乱する)

そんなわけで私は、忙しいときはちょっと無理だけど、時間がとれる限り、できる範囲で事前にチェックしてあげるようにしている。基本的には、たいてい日本語のレベル(誤字とか、間違った表現とか)であるが、実は、それで済まない場合がけっこう多い。視点とか、文脈上わからないところとか。これは一行ずつ、チェックしていちいち説明するのである。

しかし、実はこのNくん、数年前、入学した頃は、それは相当にひどかった。客観的に見て、私が知っている限り、ここ数年の入学者の中でも、最低ランクぐらいであった。しかし、最近は、専攻科の作品指導でも、文章力に関しては、それほどは目立たない。ものすごい進歩なのである。つくづくエライ成長である。やはり「文章力」というのは、ある程度の「量」を書いて、適切な指導を受けていれば、必ず伸びるものらしい。あいかわらず彼は、専攻科のクラスでは最年少なのだし、もともと発想も面白いし、このままの勢いでいけば、近い将来、デビューも夢じゃないよなあ。なにせ彼の場合、翌日にはたちまち訂正して、またすぐ持ってくるのである。
(ま、いつも持ってくる前に、もちょっと自分でもチェックしろよ、という気もないではないのだが)

ところで、今回の作品は、いつもの「ファンタジー作品」よりもチェックするのがずっとラクである。いつもは「日本語の使い方」に問題があって、しかも視点が混乱してるから、誰が誰だかわからんことが多いのである。そのうえ「世界設定」もむちゃくちゃ矛盾だらけなので、それを理解するのにかなり時間がかかるのだが、今回は学園モノで、しかもギャグ小説なので、「ここの表現がちょっとヘン」というのが理論的に説明しやすい。「ここで笑わせるためには、この文章は、こう変えた方がいい」とか「ここで、このキャラクターの心理状態がわからないと困る」とかが、きわめて説明しやすいのだった。

なるほど、やはり「ギャグ小説」というのは、相当にテクニカルな文章なのだなあ、と、つくづく思う。笑わせるためには、その前にこれが書かれてないとムリだとか、ちょっと余計な言葉が書かれているともう笑えないだとか、細かい文章表現だとか、会話とか地の文のテンポだとか、それこそ微妙なテクニックが要求される。もしかすると、文章表現力を磨くのに、これほど適した文章はないかもしれない。

そう考えてみると、一度、ギャグ短編に挑戦してみる、というのは、練習作としてもかなり有効な方法なのかもしれないなあ。ま、もともとギャグ体質がないと書けないかもしれないけど。とくに「ゆるゆる」対策にはかなり効くかもしれない。どう、皆さん。

09/20/2006

小説講座に入学しようかどうしようか

9月19日(火)
午後から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

本日は、めずらしく作品集などの印刷物なし。専攻科も、9期も、ライティング講座も、9月30日で作品指導が完了するので、印刷しなくてはいけない作品がないのである。小説講座は、9月30日の作品指導後に修了式。ライティング講座だけは、10月7日に修了式。卒業シーズンであり、秋からの生徒募集シーズンでもある。

どういうわけか、小説講座には、毎年、同じ人から「資料請求」が来るってこともけっこう多い。うちは、あまりDMなどを送らない主義なので、そうなるのかもしれないが、なぜか毎年のようにずっと資料請求だけしてくる人がけっこういる。実際、入学した人の中には、「3年前から入学しようかどうしようか迷っていたのですが……」という人もチラホラいるので、入学しようかどうしようか、何年も迷う人がけっこう多いようだ。迷っている理由は人それぞれなので、私にはよくわからない。年30回ほどの講義に通えるのかな、という悩みもあるらしい。社会人はイロイロ忙しいのである。うちの生徒さんは20代〜60代まで、職業もイロイロで、男女比は、ほとんど半々くらいなので、「主婦」の人も何人かいる。案外、子持ちも多いのだが、みんな何とか毎回来ているところを見ると、みんな何とかしているんだろうな。小説を書き続けるってのは、どうしても時間がかかるものなので、家族の協力とか理解がないと続かなかったりする。みなさまの素敵なダンナさまに感謝。あ、うわさによると、毎週土曜の夕食は、もうカレーと決まっている家庭もあるみたいだけど(夕食を作ってから、教室に来ているらしい)。

ま、迷っていた人も、たいてい入学直後に「こんなことなら、もっと早く入学すればよかった」という感想になったりするみたいだが。私はちょっと商売っ気がないのかもしれないが、入学したい人が、入学したいときに、入学してくれればいいので、いつでもいいとは思うけど。

ただ、ちょっと困るのは、「来年、入学します!」という人。うちは、小さな学校なので、ほとんどが週1回か隔週、一年以下のコースばかり。非営利団体なので、営利団体みたいに「多額の借り入れ」をしてまでは、運営を継続しないことになっている。だから、たとえば今年みたいに開講決定すれば、開講したコースは、必ず最後まで保証するけど、今の時期に、翌年の開講は保証できない。早い話、「エンターテインメントノベル講座」は、今年秋の開講は決定しているが、来年やるとは限らない。まあ、今のところ、生徒募集は順調なので、そういうことはないと思うが、なんらかの事情で、もしかすると来年は開講しない可能性はある。講師も、生身の忙しいプロ作家さんたちばかりがご出講。来年の開講は保証なんかできないんで、そこんとこはご了承ください。よろしく。

さて、先週の欠席者への資料発送など、雑用色々。本当は、「修了証」の作成をする予定だったのだが、用紙が「品切れ」だったので、まだ届いてない。うちの事務所がある大阪NPOプラザには、介護関係の講座をたくさんやっている団体があり、こういった講座なら、たぶん卒業したら何か資格がもらえるのだろうと思うのだが、文章教室や小説講座の「修了証」なんぞ、なにか資格がもらえるわけでもなし、ま、何の役にも立たないのだが、半年なり一年がんばって通ったというのは、それはそれでけっこう自信がなくなった時に励みになったりする……という卒業生もいるので、それなりにご利益があるかもよ。

なんだかんだで、かなりの割合で「専攻科」などの進学する人も多いので、そんなに寂しい感じではないんだけどね。この時期、実は、2割くらいの生徒さんはすでに欠席が続いている。こういう人は、卒業する前からもう来なくなっているから。たいてい修了課題が提出できなかったら、たいていその本人は来なくなる。自分の修了課題の作品指導が終わったとたん、来なくなる人もいるし。

いつも言っているのだけど、自分の作品というのは、とくに初心者の場合、なかなか客観視ができないので、せっかく作品指導を受けても、その作品かぎりの効果しかないことが多い。でも、他人の作品は、客観的に読めるので、むしろ他人の作品指導の方が講師の色々なコメントが素直に聞ける。まあ、「反面教師」なのだが、たとえば「視点を統一した方がいいですね」というのは、市販の「小説読本」などを読んでも確かにそう書いてあるのだが、理屈はわかっていても、目の前で「視点を統一しないとこんな作品になってしまう」「なるほどこう書けばいいのか」という具体的な例を見てみないとわからない、ってこともあるのだった。ま、具体的に「次回作」をうまく書くのに役立つのは、自作の作品指導というより、「他人の作品指導を聞く」ことだったりする。だから、自分の作品指導だけを聞いて辞めてしまうのはかなりもったいないのだが、
「プロの作家さんに作品を読んでもらうのも一生に一度のことで、それなりに記念になった。小説は面倒くさいし、もういいや」
という生徒さんもいるからなあ。

夕方、丁稚どんと雑談。講師の先生にいただいたアイスクリームの金券を使って、ちょっと一休み。
ふと「プロになりたい、という人は、うちの講座にはいっぱいいるけど、もし、本気でプロデビューするとなると、これはかなり覚悟のいることだよね」という話に。
そういう意味で『プロになる』という覚悟がある人がどれくらいいるかというと、それはそれでかなり少ないかもしれない。デビューして終わりじゃないわけだから。そうなると、今の専攻科でも、本気でプロ作家になりたいという人が、はたしてどれくらいいるんかなあ、などと話をしたりする。

うちの小説講座でも、「読むのは好きだが、書くのはちょっと。小説が好きだけど、別にプロになりたいとも思わないし」とか、「あの作家さんのファンだから入学した」という人もいたりするから、全員がプロ志望というわけでもないのよね。ま、そういう人でも「そりゃできたら、作家になれたらいいな」と思っているかもしんないけど、「なんとなく、なれたらいいな」でなれる職業というのは、たぶんそうないわけである。まあ、タコ焼き屋だろうが、漁師だろうが、「なれたらいいな」ではなくて、とりあえず「なろう」と決めないとなれないんじゃないのかしらん。反対に「なる!」と決めれば、それだけで道は開けるような気がするが。少なくとも、うちの生徒さんなら、どう考えても「なるつもりなら、たぶんなれるハズ」なのである。そのための環境はあるわけだし。

そうすると、「だって、なかなかデビューできないんだもん」というボヤキを聞きそうだが、ホンマにそうかな。たとえば「最近、コンテストの一次で落ちてしまったんです」ってことを言われたのだが、それも後でよく話を聞いたら、「やっぱ、一次は通過したいよね」という話をする。ちょっと待てよ。そりゃ今までは他のコンテストで、2次通過くらいまでいってたわけだから、一次も通過できなければ落ち込むかもしれないけど、やっぱ、なんか違う気がするなあ。

だって、プロデビュークラスなんだから、「一次は通過したいな」という気持ちで応募しちゃダメなんじゃないの。そんな気持ちで書いたものなんか、たぶんロクな作品じゃないもん。応募するなら「これが私の一生に一度のデビュー作!」という気合いで応募しようよ。いや、実際、賞がとれるってことは、それが商業出版されて数千冊とか読まれるわけですよ。で、ずっとプロでやってくなら、作家にとってのデビュー作って、けっこう重要なわけですわ。いや、ホント、気持ちだけでも、まずプロになろうよ。一次通過だとか、そんなこと今さら何言ってるのよ(笑)

実際、多少書き慣れてくると、全体のレベルはあがるのに、コンテストに応募してもなかなか上位にあがらないという人がたまにいて、こうした人は、作品を見せてもらうと、たいてい場合、かなり「ゆるく」なってしまっている。まあ、原因はいろいろあるんだけど、とにかく「ゆるゆる」である。内容はともかく、文章だけ考えてもゆるい。数ページ読むだけでわかるほどゆるい。油断しまくりのコンコンチキである。これはマズイ。生徒作品だったら、指導があるので我慢して読むが、これがコンテストの下読みで、さらに長編だったら、おそらく最後まで真面目に読んでいられない。ゆるゆるはイカンぞ、ゆるゆるは。

さらに余談だが、こうした人の作品は、なぜか書き出しがめちゃくちゃマズイ傾向がある気がする。ってなことをもし本人に言ったとすると(うちの講座は、プロ作家の講師が作品指導をするので、私自身はあまり生徒作品について言わないのだが)、
「そうですかあ、書き出し部分は大事だから、何度もミスがないように書き直したのに」と言われそうな気がするのだが、どうも私が見る限り、中級レベル以上の人の中には、なぜか書き出しが悪くなる傾向がある人がいるような気がする。初心者の人は、たいてい長編なら必ずラストに近づくにしたがって悪くなっていくのだが、中級以上で、そこそこ書けるようになった人に限って、なぜか書き出しが悪いというタイプがいるのだ。「なんだかよくわからない序章」とか「それなりにカッコいいのかもしれないが、内容的にはツマラナイ風景描写が続く第一章」とか、変な書き出しを書いたりするのだった。そりゃ書き出しは重要だが、わざとらしいとってつけたような冒頭をつけるより、そのまんま話の内容に入った方がよほどいいと思うのだが、うーむ。もしかすると、肩に力が入りすぎて暴投か?  

ま、たいていの小説コンテストの下読みさんは、たぶん最初の十枚か二十枚で、
「これはちゃんと読まないといけないぞ」とか、
「こりゃ、この先ちゃんと読んでもたぶんつまらないぞ」
という判断をするだろうが(私は、長編の下読み経験はありませんので、そこらはわかりませんが)、たぶん熟練した読み手ばかりなので、それだけでも文章力、構成力、話のベクトルくらいは読み取れるのである。だから、一番困るのが「序章があるせいで、話がわかんなかった」みたいな作品。これはかなりソンである。どのみち、第一章だけがめちゃくちゃマズイということはないだろうが、だいたい市販の小説でも、そんな作品は売れっこないのだから、他の部分が悪いより、これはよほどマズイわけよ。

とにかく小説コンテストで今までずっと一次通過くらいはしてたのに、急に一次も通過しなくなったという場合があれば、これは、もしかすると「文章と構成は全体的にゆるゆる」&「肩に力が入りすぎて何が何だかもうよくわかりませんの序章or第一章」のダブルパンチかもしれない。どうせ「どうだ、うまいだろう」と言わんばかりの文章は、たとえ実際に相当うまくても、熟練した読み手にはかなり反感を買う。少なくともエンターテインメント系の小説の場合、書き手は「うまく書こう」というよりは、できるだけ「おもしろく読んでもらおう」に集中した方がうまくいくような気がする。

とくに「序章」なんてのは、凝りすぎるのはどうかと思う。ま、「序章」なんてのは、いくら長編でも必ずしもないといけないかというと、もちろんそういうわけでもなくて、料理でいえば、盛りつけで、ちょっとパセリとか、クレソンみたいな存在ではないかと。ま、そんなものはなくて盛りつけるんだったらそれもいいんだけど、やっぱりあった方がよくて、それで見栄えがいいんなら、それもいいかなー、みたいな存在ではないかと(偏見かもしれんけど)。つまりどんな形であれ、全体の印象がそれでよくなるならいいが、悪くなるなら不要なのだ。

少なくとも、その料理に似合ってないのは困るわけで、「ラーメンにクレソン飾ってもなあ」とか。いや、まあ、個人的な好みはあるかもしれませんけど、ほら、やっぱ、客商売ですからね(ま、クレソンも油で炒めると野沢菜漬けみたいでおいしいんだけどね)

「なにがなんでも私の書いたものを読んでほしい」というのはもちろんあるだろうけど、ヘンに序章や第一章だけを凝っても仕方ない。要は、「一見うまそうに見えて、食べてみたら美味しかった」であればいいのだから、私はあえて余計なことをすることはない気がするんだがなー。とにかく、もし講師に作品指導を受けたものを「わざわざ書き直したうえで応募した」のに、(専攻科はこういう人がけっこういるのだが)一次通過もしなかったってのは(これまでの他の生徒さんの作品を見る限り)、指導を受けた部分をちゃんと直せてないか、あるいは「第一章」をしくじって裏目に出たか、のどっちかかもしれないぞ。思い当たる人は、ぜひ一度、第一章をチェックしてみてくださいまし。

09/18/2006

小説とは関係のない休日(今年も、小説コンテストの季節)

9月18日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜、お休みです。

うちの事務所は、毎年、9月末に、小さな小説のコンテストを実施している。「大阪ショートショート大賞」というのが、そのコンテスト名で、「大賞」というわりに賞金は、たったの5万円。どう考えても大賞というには、やっぱり少額すぎるかなあ、と思ったのだが、そう思った頃には、すでに3年ほどやったあとだったので、今もそのまんまの名称である。

正確にいうと、最初の数年は、「大阪シナリオ学校ショートショート大賞」という名称だった。シナリオ学校から独立したので、名称が変わったのである。この10月で「創作サポートセンター」が独立して丸二年になる。応募総数は、毎年200弱くらいあり、今年もおかげさまで、もう数十編ほど応募が集まっている。賞金は少ないので、応募総数はさほど多くないのだが、堀先生と高井先生という、ちょっと目の肥えた先生たちが審査委員長のおかげで、おそらく審査レベルはけっこう高い。まあ、そのせいか、一昨年と昨年は「大賞」が出てなくて、佳作だけであるが。

そんなわけで、うちのコンテストはまだ応募中なので、どうなるかわからないのだが、実は、現在、ある別のところの小説コンテストの下読みをしている。来週までに終わらせて、さらに来週、またまた別件の小説コンテストの下読みもしなくてはいけない。けっこう忙しい。

そんなこんなで、応募作を見てて、色々思うことがけっこうある。審査中だから、言うとマズイことがあるので、カンタンなことだけを少し。

まずは、「ちゃんと名前とタイトルは書け!」である。まあ、作品だけを読むので、応募要項は後から読むので、なくても気がつかない時もあるし、もう一つのコンテストは、名前を書いた一枚目を外されてから送られてくるのでわからないのだが、タイトルがないものもある。あっても、かなりいいかげんなものもある。今回の下読みは、短編なので、とくにタイトルはけっこう重要である。ちゃんと考えて書いた方がいい。

次に「ちゃんと推敲しろ!」である。とくに手書き原稿がひどい。ワープロ原稿も誤字は多いけど、手書きはあきらかに「パッと思いついてパッと書きました」という感じのものがけっこう混じっている。年齢を見ると、高齢者の応募作にはかなり多い気がするが、若い人でもけっこうある。高齢者なら「ただのボケ対策よ、別に入賞は狙ってないわ」というかもしれないけど、やっぱり書きなぐったどうでもいいようなものをヒトサマに見せても平気というのは、やはりちょっとデリカシーがないというか、礼節に欠けるぞ。

あとは、小説コンテストなんだから、「『日記』を書いて送るな」である。「私小説」でもかまわないのだが、どうも日記としか思えないのがチラホラ混ざっている。これも以前は、高齢者ばかりだったのだが、どうもこれは「ブログ」のせいかもしれないが、ワープロ原稿なのにそういう感じのモノがある。あきらかに自分だけしかわからないことがけっこう書かれていたりするし、いわゆる日常雑記をだらだらと書いて面白いというのは、かなり難しい。もちろんブログなら別である。ただし、やっぱり「小説」は他人が読んで楽しむものだが、「日記」は基本的には自分のために書く。

あとは、「自分でもよくわからないことを書くな」。読んでもわからない内容がけっこうあるのだ。たぶん短編だからかもしれないが、こういうパターンがめちゃくちゃ目立つ。つまり、だらだらと何枚も書いているのに、いきなりプツンと終わっているパターン。あきらかに何を書こうか、自分でもよくわかってなくて、ぎりぎりラスト何行目かで「ああ、これで制限枚数だ」と思ったのか、そこで急にいきなり終わるパターン。短編というのは、結末を考えずに書きはじめると、枚数が少ないので、それでうまく終わらせるのがかなり難しい。多少書き出しがよくても、ラストが失速するパターンはめちゃくちゃ多い。実際、応募作のうち、最初からさっぱりわからんものもあるが、半数以上がむしろこのパターン。途中から急にトーンダウンし、最後まで読んで「はあ?」。おそらく限度枚数が来たので、むりやり終わらせているようだ。一番多いと言ってもいいかもしれない。前半だけがいくらよくても、後半がダメだとやっぱりダメなんで、やっぱり短編を書く時は、ラストは考えておいた方がいいと思う。

せっかくコンテストに応募しても、下読みしかその作品を読まないということが多い。たいていのコンテストの選考委員は、たいてい最終選考だけとかしか読まない。だから、下読みに過ぎなくても、コンテスト応募作は、一作一作たいせつに読んであげたい。しかし、いくらこちらが大事にして読んであげようとしても、どういうわけか書いた本人が本気で「大事に書いた」とは思えないようなものがかなり混じっている。たまにちょっといい書き出しでもラストになればボロボロとか。これは、けっこう疲労する。残念である。ホントせっかく応募するのなら、せめて下読みさんがうれしくなるような、いい作品を書いてほしいんだがなあ。

続・一日千秋シリーズ(小説講座ほか、ご協力ありがとう)

9月10日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

松山に行く予定があったのだが、台風が近づいているので断念。久しぶりの大阪ベイエリア。義母をつれて、日本最大の立体映像のIMAXシアターと大阪湾周遊のサンタマリアなど。のんびり休日。

ところで、謎が謎を呼ぶ「一日千秋」!!

13日のコメントに
①強く恋慕う気持ちや、今か今かと待ち焦がれる気持ち。また、そのようなときには時間が普段より長く感じられるさま。「秋」は一年を意味する。
(出典: フリー多機能辞典『ウィクショナリー(Wiktionary)』)
②千秋(せんしゅう、ちあき)とは物事の終わりを表す。用法としては、一日千秋の思い、千秋楽などに用いられる。漢詩などに見ることが出来る。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
というご意見があり、
さらに15日に、こういうメールをもらいました。

原典(詩経からの訳です)
采葛(さいかつ。さいは古い字が使われています)

葛(くず)を采(と)ろうよ
一日あわねば
三月の思い

簫(よもぎ)采ろうよ
一日あわねば
三秋の思い

艾(よもぎ)采ろうよ
一日あわねば
三歳の思い

(『中国古典文学大系15』より)

この原典からすると三月、三秋(九ヶ月)、三年というこの詩の解説書が正しいように思えますが(期間が長くなっていく方が詩としてすぐれていると思うので)、前回お知らせしましたように、大槻文彦はこの考えは間違えであると主張しています。
解説書の説は「秋は三ヶ月あり、それが三回で、九ヶ月」というものです。
また『辞源』(商務印書館、1979年北京)では三秋の意味として、
1.三季=九ヶ月
2.秋の三ヶ月(大槻文彦の説)
3.秋の三番目の月、つまり陰暦の九月
の三つをあげていますが、1の九ヶ月の意味の例としてこの詩
を引いています。
ここでは三年という意味は出てきませんが『大漢和辞典』(大修館書店1985年)では秋の意味のひとつに年をあげています。

結論として秋がどの意味なのか、素人には判断がつかないようです。もし秋=三ヶ月の意として用いたなら、春でも夏でも冬でもいいはずです。可能性とひとつとしては音の関係がありますが、その点については今度中国の方に会ったときに聞いてみます。

次に「なぜ千秋に変わったか」ですが、十種類ほど辞典を見ましたが、「一日三秋と一日千秋は意味が同じである」以上の紹介はありませんでした。ネットでは誇張であるという説がちらほらありますが、最初の文献が示されたりしていませんので推測の域を出ないようです。

ネットでは一日千秋は日本でできたとありますが、なぜか『中国語大辞典』(角川書店1994年)には一日三秋と並んで一日千秋も載っています。『辞源』にはありません。
これは逆輸入されたのでしょうか。
この点も中国の方に聞くしかないところでしょうか。

……うーむ。そうかあ。意外に、奥が深い謎だったのだなあ。

さらに9月17日分のコメントには、あらたな推理。

「一日三秋」と「一刻千秋」とが混ざって、日本では「一日千秋」がポピュラーな言葉になったと考えられないでしょうか。

……うーん。「一日千秋」と、「一日三秋」は、「まさかのただの写し間違い」という説も有力視されてたのだが、ここにきて、あらたな推理が登場。

しかし、さすがに生徒さんたち。小説講座ならではの推理力、調査能力だなあ。
(まさか「一日千秋」でこんなに「遊べる」とは思わなかったわ)
引き続き、何かあればご報告ください(今やすっかり他人まかせ)

あ、謎といえば、8月にウロウロしていた神田川の一件。(8月分のブログ参照)

あれは、椿山荘の近くにあった例の地層は、どうやら「武蔵野層」だそうです(大学の先生に聞いて、教えてもらいました)。ちょっとした疑問も、調べてみると色々面白いもんだなあ。謎は、たいてい新たな謎を呼んでくるし。


09/17/2006

文章教室も小説講座も、修了間際の作品指導

9月16日(土)
朝から小説講座の事務所。昼は、文章教室(ライティング講座)の修了課題指導。夕方は、小説講座(エンターテインメントノベル講座9期&小説専攻科)の合同講義。

「ライティング講座」は、修了課題の小説指導。こちらのコースは、文章一般を広く学べるのが特徴だから、その分、作文とか、ルポとか、企画書とか、インタビュー実習とか、いろいろな講義があるのだが、その分、小説に関する講義はかなり少ない。小説だけを勉強したい人は、たいてい「エンターテインメントノベル講座」の方に入学するからだ。ただ、この講座は年一回、秋募集しかないので、春に「ライティング講座」などに入学して、半年してから秋に編入する人も多い。そんなわけで、今回の修了課題も、小説作品もたくさん提出されている。エッセイや小説などが選択できるようになっていたのだが、小説が一番多いのだった。

初心者向けのクラスだから、過半数の生徒さんが「生まれて初めて書きました」か、それに近い作品なので、作品指導もある意味、それはそれで難しい。今回かなり悩んだ末に、エンターテインメントノベル講座の講師である小森健太朗先生にお願いすることにした。小森先生は、ご自身はミステリ作家さんだけど、書評などの経験も豊富。最近は、大学でも創作のクラスを担当されていたりして、初心者の指導も慣れている。読書範囲も広いし、なにせ外見がハンサムで年齢よりもかなり若く見えるから、なんだか優しい雰囲気なのである。こっちのクラスの生徒さんは、必ずしもプロ志望というわけではないから、「プロ作家」と聞くだけでなんだか震えあがる、みたいな生徒さんもちらほらいるのだった。

うちの講座の先生たちからしたら、ちょっと不本意かもしれないが、「健全な普通のOLさんたち」から見ると、作家さんは別世界の人だったりする。とくに専業作家さんたちは、いい歳をしてラフなTシャツ姿だったりするし、ヒゲが生えてたり、髪が伸びてたり、また坊主頭だったり、やっぱり会社員とは「なんか違う」らしい。まあ、作家に限らず、デザイナーにしろ、カメラマンにしろ、自由業だから、とくに毎日スーツなんか着ないだけなのだが、普通の会社勤めの人から見たら、それだけでかなり「珍しいもん」なのである。もちろん中身は全然そうでもないかもしれないが(いや、もしかすると中身もそうかもしれないが)、パッと見た感じが「なんか怖い、別世界の人」だったりするらしいのだ。まあ、「書店に本が並んでいるような作家さんが、自分の目の前にいるだけで、感動した」という生徒さんだっているし。

というわけで、小森先生。講師プロフィールは事前に紹介してあるのだが、レクチャー講義を受けてないので、生徒さんもみんな初対面である。こうなると、どうしても多少ビビリ気味になるみたいなんだけど(だいたいこの先生は、16歳で乱歩賞最終候補になり、東京大学大学院で哲学専攻なのである)、おかげさまでソフトな雰囲気で作品指導。緊張気味だった生徒さんたちも、たいへん面白かったわかりやすかったと、かなり喜んでいた。

先生は、2時間の講義のうち、1時間以上を小説の基本である「視点の統一」の説明にかけていた。なにせこのクラスは、作文などが中心で、小説の書き方についての講義もほとんど受けてないから、「小説には、視点というものが必要です」なんてのも、生まれて初めて聞いた話だったはず。丁寧な解説で、たいへんわかりやすい講義だった。
「まずは、最低限の日本語としての文章表現力、その次の段階としては視点。そのうえでアイデアとかストーリーの面白さがあって、最後の段階としては、また『文章力』。だた、これは文体とか、芸術としての高度な表現力の段階」と、小説創作の基本を4段階に分けて、わかりやすく説明。19世紀以降の近代文学や「視点」についてもかるく触れて、
「初心者は、まずは基本的な文章力。それから視点に気をつけてくださいね」
生徒さん一人一人の作品のいいところを褒めてくれながら、きれいに分析。見学に来ていた入学希望の人も、実習クラスへの入学希望だったらしいのだけど、「わかりやすくて、すごく感動しました」と、小説講座の方のクラスに入りたくなったとか(土曜夜は、時間的にムリみたいだけど)。私もホレなおしてしまいました。

講義後、近くのファミレスで、先生を囲んで少し歓談。最近、仕事が忙しくて、ずっと出席されてなかった生徒さんも「もう今日で最後かもしれないから」と一緒にお茶。小説に興味をもっていたので、秋からの小説講座に進学するのかなと思っていたが、来月には、地方へ転居が決まっているらしい。そういえば、二年前にも、文章教室を卒業してすぐ、イギリスに引っ越した生徒さんがいたなあ、と思い出したりする。あのクラスは、みんな仲がよくて、卒業後も集まって、よく食事会などもしてたみたいで、イギリスから一時帰国してた時も、同じクラスの人たちが集まっていたらしい。小説講座や文章教室は、週1回2時間の講義だけのつきあいだが、クラス内で仲良くなって、卒業後も一緒に飲みに行ったり、旅行をしたりしている人たちもけっこう多い。

夕方は、天満橋に移動して、小説講座の9期クラスと専攻科の合同講義。本日の講師は、青心社の社長で、編集者の青木先生。ベテランの青木先生に、こちらは全員、専攻科の作品ばかりなので、指導される側もすっかり慣れたもの。作品数が多いので、講義時間をオーバーしたけど、いつも通り、すらすらと作品指導。

どちらのクラスも、9月30日の合同講義で卒業である。ただ秋からも専攻科に継続進学する人も多い。本日も「申込書」が何枚か提出。専攻科は、作品指導が中心なので、生徒数の予想がつかないとなかなかスケジュール作成が難しい。専攻科は、学費入金は初回の講義日まででもいいので、申込書だけ早めに提出してほしいと言ったのだけど、早くも何人かの生徒さんが、専攻科の学費を全額、現金入金。
「学費は、まだいいんだけど」
「いえいえ。早く学費を払ってしまって、自分を追い込んで、次の作品を書く気合いを入れたいので」
と笑顔の生徒さんたち。はーい。秋からの一年もがんばりましょうね。

講義後、いつものように飲み会へ。遅くまで飲んだ後、会計を済ませて最後に店を出ると、「男前三人衆」が信号のところで立ち話してたので、そのまましばらく雑談。秋の気配が聞こえると、そろそろ卒業である。


09/16/2006

あせって長編を書く小説志望

9月15日(金)
午前中、外出。午後から小説講座の事務所。いろいろ雑用。

ところで、昨日の生徒さんの感想アンケートの件なのだが、ふと思ったのだが、あれって誰が書いたわからないけど、とにかく「あせって長編タイプ」の生徒さんではないだろうか。匿名アンケートなので、誰のかわからないのだが、なんだかそんな気がしたのだった。

「あせって長編タイプ」というのは、別名「思い込み長編タイプ」(私が命名しました)などと呼んでいるのだが、
「一日も早くプロ作家になりたい。だから長編を書いて、さっさとデビューしたい」
と思っているタイプの人である。あせって年に何作も長編を書き、あちこちの小説コンテストに応募するのだが、ほとんど一次通過するかしないかで、なぜ落ち続けるのかわからないという人である。たいていはまだ小説の基礎ができてないというか、まだしっかりした文章が書けないうちにとにかく長編を書きたがる傾向がある。うちの講座でも、入学直後だったら、毎年確実に1〜2割くらいはいる。

ただ、うちの生徒さんの場合、講義を数回も聞くうちに
「ああ、自分の作品には、たぶん、ここが欠けていたのだな」
とすぐ気がついて、
「そうか。今の状態で、あせって長編ばかり書いていても仕方ないな」
と思うらしいのだが、その一方で、
「でも長編じゃないと、デビューできませんよね」
と、講師のレクチャーもあまり聞かず、とにかくやたらあせって長編作品ばかりを書く人もごくたまにいる。一昨年も、「コンテストの応募する作品が忙しいから」と、入学したのに、ほとんど講義にも来なかった人がいた。年に数回しか来なかったから、何のために入学したのかちょっとわからない。自分の作品指導日にはかろうじて来ていたけど、とにかくプロデビューをあせっていた。こういう人を私は秘かに「あせって長編さん」と呼んでいるのだ。

ちなみに、うちの講座は、専攻科なら長編指導もするが、一年目のクラスでは、そういうカリキュラムにはなっていない。50枚が限度である。これは、色々考えたうえで決めた枚数で、現実問題として、入学直後にいきなり長編の作品指導をしてもいいのだが(もちろん入学前にすでに長編を書いていた人だけで、そういう人は1割くらいしかいないが)、たいていは労多くして益少なし、になってしまう可能性がある。というのは、まず入学直後は、いわゆる小説の書き方をほとんど知らずに書いているので、指導を受けてもその意味がわからない。だが、一番問題なのは、短編の作品指導なら、本人の労力が少ないので、講師のコメントも割と受け入れやすいのだが、長編指導の場合、どんな作品でも、本人はものすごい労力を投入しているので、実は、最初から「否定されるのを拒否している」ところがある。つまりこちらが苦労して長編の指導をしても、本人の反発を受けるだけ、という危険性がある。入学直後の生徒さんは、私もまだ本人の性格や傾向、指向性などをちゃんと把握していないので、うまくフォローもできないしね。

短編だと、講師から指導してもらっても、
「ああ、そうか、そこが失敗しちゃったなあ」と、本人もきちんと聞けるのだが、何ヶ月もの労力がかかっている長編の場合、そこが難しいものなのである。だから「いきなり長編の指導をしてください」といわれても、本人の性格の問題もあるが、たいていの場合は、かなり困難な作業である。専攻科では長編指導もするから、こちらはできないわけではないのだけど、色々な「受け手側の問題」がある。だから、入学直後に長編指導を希望される人には毎年いるのだが、まず、とにかく作品を持ってきてもらって、たいていは
「あらかじめ私が読ませてもらってから、どの先生にみてもらうか決めたいと思いますが、どの先生に見てもらいたいんですか?」
と聞く。そういう色々な理由で、入学直後の長編指導はたいけん危険性が高いから、せめてどの先生に指導してもらいたいのか、希望だけは聞く。うちの講座は、プロ作家の講師が何人もいるし、もしその生徒さんがとくにファンで非常に尊敬している先生がいれば、当然その講師の著書を全部読んでいるくらいはしているので、その「信頼感」で「指導効果」が高くなるはずだからである。
で、「指導をしてくれるのなら、誰でもいいんです」
「いや、うちの講座は、講師がたくさんいるので、その作品にあわせて、指導講師を決めているので、誰でもいいってのはないので、誰に見てもらいたいか、自分でも考えてみて」
「いや、わかんないんです。とにかく読んでほしいだけで」
「じゃあ、私が読んで、レベルがそれなりにあれば、誰かに指導をしてもらうことにするけど」と、まず1ヶ月くらい預かるパターンが多い。ちなみに、入学して1〜2ヶ月は忙しいので、私自身が長編を読む暇がないのだが(たいてい一枚目の数行目からひっかかるような表現がある場合が多くて、いちいち意味が分からない部分があるので、実際、読むのに時間がかかるのである)、毎週、いろんな講師の話を聞くうちに、たいてい本人が真っ青な顔をして、
「やっぱり前に提出した作品、返してください」
と言ってくる。毎週、プロ作家の先生が「私はこういうところに気をつけて書いてます」みたいな話をしてくれるので、たいていの人は、それを数回聞くだけで、「ヤバイ、私の作品は全然できてないぞ」と本人が思って、「書き直します」と言い出す。まあ、とにかく「まず短編指導で様子を見る」のである。

こういう人は、たいていまず文章に問題があるか、いきなり視点に問題があるか、どっちかである。構成もできてないものが多いが、まず「文章」が「そりゃ、これならコンテストに何度応募しても落選するだろうなあ」と思うような作品である場合が多い。といって、じゃあ、それならその文章、構成を直したら何とかなるか、というと、これはかなり時間がかかる。さらにそのアイデアやストーリー、内容は面白いかというと、これはこれで難しかったりする。とにかく「あせって長編」の人の作品は、全体がアラっぽい傾向がある。ただ、とくに「文章」である。エンターテインメント作品は、純文学と違って、どちらかというとストーリー重視で、文体など文章表現にはそれほど強くは重視しないかもしれないけど、それでも小説だし、いくらなんでも最低限というのはある。文芸なんだから、「芸」を見せるわけで、あまり稚拙なものは誰も見てくれないのである。ところが、「あせって長編さん」は、そこんとこはあまり気を使わない傾向があるらしい。

たいていの場合、こういう作品は、本筋に関係のないシーンが延々と続いたり、どういう意味があるのかわからないエピソードがいっぱい含まれていることが多い。「とにかく長編だ」と思い込むあまり、枚数を稼ごうとして、わざと余計なシーンを延々と書くのかもしれないが、本人とよく話をしてみると「どこが本筋で、どこが不要なのかがわからない」という人がほとんどである。それぞれのエピソードというのは、本来、有機的にストーリーに絡んできて欲しいもので、読んでいる方は「なんのために書かれているのかわからないシーン」が続くと退屈なんである。それも、それなりに面白ければいいかもしれないけど、「なんじゃ、このシーンは?」と我慢して読んでも、結局全然おもしろくもなくて、イライラがたまる。たいていの読者は、「はたしてどうなる?」というストーリーが好きである。

で、そういった余計なシーンをはぶくと、ほとんど短編ぐらいしか残らなかったりする。こういう人は、たいてい「50枚の作品」が書けない。なんでかというと、「とにかく長編を書いて、早くデビューしたい」と思い込んでるので、まず短編は書く気がしないし、たいていは一度も書いたこともない。またこうやって長編ばかりを何作か書いていたりするので、「読者のことも考えずにとにかく書きたいことを思いついたままに書く」クセがついているので、50枚という枚数に納めることができない。どのシーンが不要かどうかなんてわからないし、どのシーンも自分が好きで書いたものなのだから削ることができない。どのシーンも自分が一度書いたものは絶対に削りたくないという人はけっこういる。 

ただ正直、こういう人こそ、50枚くらいの短編を一度は書いてみた方がいいのになあ、と思うことが多い。短編も、30枚くらいなら一つのアイデアである程度は書けるのだけど、50枚を超えるとそれなりに全体を支える構成のようなものが必要になるし、そういう意味では50枚くらいが一番そういう訓練、長編を書くまえの段階にはいい枚数ではないかと思う。もちろん短編ばかり書いていて、プロデビューを、というのは難しい。が、いくらムリをして長編をあちこちに応募しても、一次にもなかなかひっかからない、というのは、やはり何か問題があるんだろうと思う。小説コンテストの下読みも、それほど全員がバカではないはずなのだから、たぶん本人に問題があるんだろう。とすれば、文章力にせよ、構成力にせよ、もしかすると50枚くらいの短編を何度か書いて、編集者などに見てもらった方が、よほど上達の近道なのではないかと思う。

50枚くらいの短編が書けるからと言って、長編が書けるとか限らないじゃないか、とは言われるのだけど、実際、もしきっちり50枚くらいの作品が書ける人だと、長編作品でもそれほど苦労しないみたいである。あわてて長編を何作も書いて、コンテストで何度も落選すると、やはり時間と労力がもったいないし、だいたい精神的な消耗が激しい。まあ、最終選考に残るとか、2次選考とか、それなりの成績があればいいのだが、たいていの場合は、先に本人がまいってしまう。あるいは、メゲずに何作も書いていたとしても、それは悪いクセがついたままなので、よく小説コンテストなんかでお目にかかるような「これじゃあ、何作応募してきても一生ムリかもなあ」みたいな作品ばかりができる危険性もある。

それでも毎年「あせって長編」という人が何人かは入学して来るし、たぶん世間ではもっと多いんだろうなあ、と思う。私は、プロ作家になりたくてなれない、という人はツライだろうから、なりたい人はなれればいいと思っている。けど、「誰も読みたくないようなつまらない作品」を書いてしまうのは、本人にとっても、その作品にとっても不幸で、労力、紙資源のムダである。そりゃあ、よほどマズイ料理でも、めちゃくちゃ腹が減っていればウマイかもしれないし、栄養失調気味の人が食べれば、とりあえず消化さえすれば栄養になるかもしれないが、「小説」の場合、なかなかそういうわけにいかないのである。とりあえず、商業出版が前提だと「商品化」できないと困るし。

また、一方で、もしプロデビューをしたとしても、まったく「短編」が書けないというのはちょっとプロ作家としては苦しいのではないかと思う。もし仕事で短編の依頼が来て、それを断ってしまうというのは、新人作家の立場では難しい。「短編は苦手だよ」というプロの人もいるけど、そうは言ってもたいていプロだから全く書けないわけではない。それなりには書く。

本気でプロ作家になりたいのなら、とにかくデビューさえすればいい、というのは、ちょっと違うような気がする。デビューは大事だろうが、小説コンテストは、受賞後だって大変なのである。大学入試や資格試験は受かりさえすれば何とかなるかもしれないけど、プロなら小説は一人で書いていくもんだもの。実力がなければ、あせったって仕方ない。デビューさえすれば、何とかなる、とは、限らないんで。

まあ、入学生はコレからだし、在校生は、もうすぐみんな卒業だけど、専攻科に進学する人も、心機一転がんばってほしいなあ、の9月。

09/15/2006

続・小説講座のアンケート(わかったようで、わからなかったり)

9月14日(木)
午前中、小説講座の事務所。午後から外出。

先日、講座の生徒さんから「感想アンケート」を集めた話をして、ほとんどが「大変よかった」という結果だったと言ったのだけど、実は、メッセージ欄には、こういう意見もあるのだった。
「プロットの作り方がわからない。この講座ではそこが聞けなかったから残念だ」

これを見て、「あれっ?」と思ったのは、私だけではないと思うのだけど、どうだろうか。これは少しヘンな意見ではないかしらん。だって、この一年の講座で、「プロットの作り方」の話が聞けなかったというのは、ちょっと妙である。たしかに、ここの小説講座は、二十人くらいのプロ作家の講師が順番に出講される講義と教室内での実習と作品指導を組み合わせた形式なので、同じ講師がずっと担当されるわけではない。だから、順序よくきちんと教科書通りに一から教えてくれるわけではないので、大事なポイントでもたまたまヌケる可能性はあるにはある。

たとえば、ミステリ作家の講師が数人いるのだけど、「あえてミステリそのものの話(ミステリの歴史とか本格ミステリの構造だとか)を避けて話をする」という先生がけっこういる。プロ作家ばかりなので、パーティで顔を合わすこともあるし、たいてい顔見知りだったりするし、同じ業界だから、お互いの書いている作品の傾向なども多少知っている。だから、たとえばミステリだったら、「だって、そのあたりの話なら、どうせ芦辺先生が話すでしょう」などと小森健太朗先生とか、黒崎緑先生が言ったりするのである。で、生徒さんも、ファンタジーとかホラーとか恋愛小説、時代小説だとか、全員がミステリ志望というわけじゃないので(ミステリ志望は多いが、それでも2割くらい)、あえてミステリには特定せずに「小説の書き方」のコツとか、の話をされる。

すると、芦辺先生が「毎年、同じ話ばかりで、もうミステリの話も飽きたから、別の話をしようかな」と言ったりすると、私としては、ちょっと困るのである。
「先生は、毎年、同じ話なのでもう飽きたのかもしれませんけど、生徒さんは毎年ちがう人が入学してくるんです。本格ミステリの話は、エンターテインメント小説の構造を理解するうえで、けっこう基本となる部分が多いので、どうしても話をしていただきたいんです」
「まあ、全員がミステリ志望ってわけじゃないし。ミステリ志望なら、どうせわかってることだし」
「いえ、そうじゃなくて、『アイデア』をどう活かすか、とか、伏線の張り方とか、プロットの作り方とか、本格ミステリの作品を使って説明された方が、小説の構造とかが誰にでもわかりやすいので、どうしても説明してもらわないと困るんです」
と、あえてお願いしているくらいである。広い意味でのトリックも、ミステリに限らないんですから、他のジャンルを書く人も、絶対、役に立つんですからね。

うちの講師の先生は、他の講師の講義もどんなものか、けっこう知っていたりする人が多いし(講師同士で遊びに来たりすることも多いから)、もし知らなくても、クラス担当の私が一年間ずっとつきっきりで教室にも出ているので、生徒さんの理解度とか、ニーズとかを見て、不足してそうな内容は、わざわざ講師に少し頼み込んだりして、これでも多少、内容を調節していたりするのである。今年度も、児童小説志望の人がいたので、わざわざ最初は予定してなかった児童小説の講義をカリキュラムに追加したりしていたのだし。

で、「プロットの作り方」である。
たしかに、考えてみれば、私は、十数人の講師の先生たちに「プロットの作り方について、ぜひ話をしてください」なんてことを言ったことはほとんどない。誰にも頼んだことはないかもしれない。でも、そんなことはむしろかなりの先生が、話の途中でしばしば触れるようなところだから、あまり気にしたことがなかったのである。

実は、プロ作家の先生たちの中には、ご自分の書いた作品の作り方を例にあげて、具体的に詳しく説明してくれる方も何人かいる。もちろん雑誌や単行本として、どれも商業出版されたものなので、生徒さんも読むことができるものだ。
「こういう発想が最初にあって、こうすれば作品化できると思って、こういう資料を調べたり、登場人物をこのように設定して、書き出しをこのように工夫したりして、こうやって作っていきました」
なんて、具体的な話をしてくれる先生が何人かいる。

プロットの作り方については、そうした先生の話を聞く限り、個人的なノウハウの部分がかなりあるような気がする。だから、市販の「小説の書き方」などの本でも、かなりいろんな方法とか工夫が書かれていたりする。個人的なノウハウだから、それが全員にぴったり当てはまるものではないかもしれないけど、もともとこうした、小説読本を読んでもわからないような具体的な話が聞けるとこにナマの講義の価値がある、と私は思っている。「小説読本」なら、入学した直後にとりあえず十冊くらい紹介してあるのだが、
「せっかくプロ作家のナマの講義が聞けるのだから、できれば『小説読本』を読めば済むような話は、あらかじめ読んでおいて、そのうえで話を聞くようにしてください。質問だって、いろいろできるのだから」
と注意してある。巷に「小説読本」は山のようにあるのだから、それを買って読めばいいだけである。それで済むなら、わざわざ小説講座に通う必要がないもん。

だいたいプロ作家の先生たちは、何も考えずにみんなサラサラと書いているわけではない。みんな色々あれこれ試行錯誤しながら、かなり苦労している。一方で、ヘタな小説を書く人ほど「真っ当な苦労をせずに書く」のである。正直、いつも不思議に思うくらい、生徒さんは「適当に書いちゃった」りするんである。だから、私は、プロ作家の先生たちが、そのまま満身創痍の状態で話をしてくれただけでいい、とさえ思うときがある。それだけで、わかる人にはわかるのではないかと思ったりする。だから、ある意味、手っ取り早いハウツーだけを期待されても困るわけで、そんなものがあるのなら、世間の小説読本にもすでに載っているだろうし、小説講座に通う必要はないのである。

だいたい小学校や中学校ではないわけだし、
「はーい、みんなよく聞いてね。今から先生がプロットについて説明しますよー。ここんとこ重要なので、赤線で囲んで覚えてね」
なんてことを、うちの講師の先生たちがイチイチ言うはずがないんである。「プロットの作り方」についてなら、しばしば講義の中で話題として出てくるので、むしろかなりの先生が触れた話題とも言えるかもしれない。それを「一年間、ぜんぜん聞いてない」というアンケートの意見って、どういうことなんかなあ。もしかして、欠席が多い人なんかなあ。

うーむ。そうか、プロットかあ。でも、やっぱ、何かしら、聞いてるハズなんだがなあ。何を聞いてたんだろうなあ。

実際、小説講座の生徒さんのレベルがいろいろなので、理解度にはかなり差がある。初心者だという生徒さんたちに聞くと、講義は楽しくても、やはり多少は授業についていくのが、けっこう大変らしい。何が大変かというと、作品創作の方ではなく(こっちはかなりペースがゆるい)、むしろ読書量が足りないので、それらの本をあわてて買って読んだりするのが大変らしいのである。講義を聞いても、先生の話の中にあたりまえのように出てくる作品名、たとえばファンタジーの代表作だとか、ミステリの有名な作品だとか、どうもそれなりに読書量がないと、そういう「常識」みたいな作品名がわからないらしいのである。で、内容が理解できないことがあるらしい。

実際、よく「そちらの小説講座に入学したいのですが、初心者なので、レベルがついていけるかどうかわからないんですが」という相談を受けるのだけど、講義の理解度についてなら、たいていの場合、どっちかというと作品を書いたことがあるかないかよりは、その人の「読書量」による。

ちなみに、小説講座に入学するような人は、たいてい入学前は「読書量なら誰にも負けないつもりです」なんて言うことが多くて、そういって入学してくるのだが、実は、世間の平均値よりは、あきらかに小説講座の生徒の平均値はもともとかなり高い。で、さらに講師の読書量になると、生徒さんに比べると圧倒的に高いのである。そりゃ、プロ作家さんたちは、「いやあ、仕事の締切に追われて、最近、忙しくて、なかなか本が読めないんで」なんて言っているのだが、それでももともと圧倒的に読書量が多いんである。

もちろん先生たちは、講義内容も一年目のクラスなら、できるだけ初心者でもわかるように説明してくれるのだが、それでも話の内容がわからない人はやはりいる。あとで、質問などしてくれればいいのだけど、小説を書こうというようなタイプの人は、けっこう自意識が強いもので、わからないことがあっても、その場で言わない傾向の人がいるのである。案外、飲み会でもその作家さんのファンなのに隣に座りたがらなかったり、
「ねえねえ、先生に『あの作品のアイデアは、どうやって思いついたんですか』って聞いてくださいよ」
「え〜、なんで私が聞くのよ。アンタが直接、そこにいる先生に聞いたらいいじゃない」
「そ、そんなことできませんよ。恥ずかしい」
「なんで恥ずかしいのよ」
「そんな、直接なんて、おそれおおい」
「ええーっ。そんな、おそれおおいって、今は、一緒に飲んでるんだから、そのくらいの質問、気軽に答えてくれるわよ」
「いいから、代わりに聞いてくださいよぅ〜」
「アンタ、先生の著書は全部読んだって言ってたやろ。だったら、自分で聞けば?」
「いいんです。いいんです。今日お目にかかれただけでいいんです。だから、ね、お願いしますってば」
などと、いい歳をした大人(生徒はほとんどが社会人である)が「おいおい何を言ってるんだか」みたいな会話もけっこうめずらしくはない。

(一方、その講師の著書を読んだこともないような生徒さんの方が、全然「おそれおおく」ないらしいので、案外、ズケズケと質問したりすることもあるけど。先生たちは「わざわざ飲み会も参加してくれている」ので、創作についての質問をしても、イヤがる人はいないのにね)

そんなわけで、一年間、講義を聞いても、全員が消化できたわけではないことは、毎年のことなのでわかっているのだった。まあ、私自身もそうだったし、そもそも毎回の講義で、2時間びっちり話すというのは、いわゆる小説読本の情報量と比較しても、厳密に文字数だけ考えても、かなり情報量が多い。だから、うちの専攻科では、自分のクラスの講義がない日は、翌年の一年目のクラスの講義見学も、何度でも無制限でできるようにしてある。これはお得な制度。実は、まったく同じ講義をする先生は、半数くらいなので、翌年には違う内容を話す先生も多いし、また全く同じ講義をしてても、受け取り側のレベルがあがると、どうやら全く違って聞こえるらしいので、これはこれでけっこう面白いもんなのだった。まあ、専攻科の講義数もかなり回数があるし(本科は年35回だが、専攻科も20回くらいある)、同時間にあるので、自分のクラスの講義がある日は見学できないので、必ずしも全部は聞けないんだけど。

というわけで、プロットの話が聞けなかったという生徒さんは、誰だかわかんないけど、もしよければ、専攻科に進学して、ぜひもう一度、講義を聞き直していただければいいのではないかと思うんだがなあ。しかし、わざわざ自作の「プロット表」まで見せてくれた先生もいたというのに、何を聞いてたんだろうなあ、この人は。

09/14/2006

小説講座の10期生、修了間際の9期生

9月13日(水)
朝から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

あいかわらず地味な事務作業。今日は、小説講座(「第10期エンターテインメントノベル講座」)への入学願書一件あり。

うちは、非営利団体なのだが、多額の助成金とか寄付金があるわけでもないので、講座を続けていくためには、もちろん生徒が入学してきてくれないと運営がなりたたない。秋からの生徒募集は3コースあるのだが、開講が決まっているのは、この「エンターテインメントノベル講座」と「基礎レッスンコース」。最小開講人数は、どのコースも7名だが、それを下回ると完全に赤字なので(実際には、13人以下で不採算なのだが)、10月11日の締切日までに人数が揃わないと開講できないのである。

ただ、今年の小説講座は、文章教室からの編入希望が数名いるみたいなので、実際には、ほぼ開講決定。『基礎レッスンコース』も、実質的にはたった1名でも開講するコースなので、事実上は開講決定(このコースは、かなり特別な実習講座なので、教室内で課題をやるだけだから、実質的に講師がほとんどいない。年に数回の作品指導の時だけである。だから、採算ラインがかなり低いのだ。他のコースとの同時受講なら半額以下なので、入学後に実習の補完として受講する人も多いから、まず開講する)。
ただし、『火曜ライティング講座』の開講はまだ未定。

ちなみに、秋募集の「文章教室」(ライティング講座)は、もともと開講することが少ない。小説講座の「エンターテインメントノベル講座」が年に1回しか開講しないから、そちらのコースを選ぶ人が多いのだ。まあ、「エンターテインメントノベル講座」は、プロ作家が二十人くらい出講しているコースはめずらしいらしいし、今年は東京からや名古屋からも通学生がいたほどで、どこでもない講座だから、やっぱり貴重である。ちなみに、東京からは深夜バスがあるけど、名古屋の人は新幹線通学なので、こっちの方が交通費が高額だというウワサもある。あと一人、東京からの通学生がいたのだが、開講時に引っ越してきたから、今は大阪在住。とにかく今年は、そのせいで、滋賀、和歌山からの通学は「遠距離通学」とは言われない(新幹線で帰る名古屋の人の方が、いつも和歌山の人より遅くまで、作家さんたちと飲んでいるし)

さて、9期生は、そろそろ卒業が近いので、「修了証」と「皆勤賞」(たいていマグカップです)の準備もする時期である。小説講座は、誘惑の多い土曜日の夜に、年30回以上も講義があるので、さすがに「皆勤賞」の人は毎年少ないのだが、今年はそれでも5人ほどいる。名古屋からの通学生も、皆勤。職業もバラバラで、年齢も十代から六十代までと幅が広いのだが、みんな家庭や仕事と両立させながら、よくがんばったなあ。もちろんプロ志望の場合、これからデビューまでの道もけっこう大変なのだが、この一年だいぶ成長したことと思うし(実際、最初の頃の短編を見たら、自分でもわかると思うが)、専攻科に進む人も、そのまま卒業する人も色々といい思い出になったと思うので、これからもがんばってね。
そうか……16日と30日、あとたった2回の講義なのだなあ。

09/13/2006

小説講座も、いろいろありまして

9月12日(火)
午後から小説講座の事務所。資料請求者への入学案内の発送など。

事務所に着くなり、先に来ていた丁稚どんが「例のアレ、またありましたよ」と一言。うーむ。これは、ちょっとややこしい事態なのかもしれない(これじゃ、なんのこっちゃわからないでしょうが、ブログでもとても書けないようなことなので、知りたい人は直接私に聞いてください)。

ヒントをいうと、また「困ったちゃん」かもしれない、ということなのである。もちろんこの場合、うちの生徒ではありません。小説講座にちゃんと学費を出して入学してくるような生徒さんは、「自分の作品は完璧だ」と勘違いしている人なんて、まずいないし、当然ながら、人から話を聞こうという謙虚な姿勢もある。つまり、ま、ちゃんと常識がある人ばかりである。そりゃ、専攻科なんか、一見バラバラな世代(20代〜60代)、ありとあらゆる職業(会社員、OL、教師、編集者、獣医、僧侶……)がいるが、みな性格のいい人ばかりである。
(飲み会で、映画やアニメの話で白熱するような「変人」ならいっぱいいるが、それくらいならここでは変人とは言わないのである)

だが、一般の「小説を書く人」の中には、たぶん、あきらかに「妙な人」がいる。こんな小さな講座でさえ、こういう商売をしていると、そういう人に遭遇することはけっこうあったりする。いや、ブログにも書けないこともけっこうある。妙な電話の問い合せがあったり。

これだけ世間に「妙な人」が多いとしたら、たぶん有名出版社なんかは、もっと色んな人々から、いろんな「すばらしい作品」を送りつけられりしてるんだろうなあ、と思う。うちみたいな小さな講座でさえ、これだけ接点があるんだから。ま、私はかなり慣れてしまったので、けっこう平気になってしまったけど。

そう言えば、こんなこともあったなあ。だいぶ前、あれはまだ「創作サポートセンター」が独立する前のこと。シナリオ学校の事務所にいた時の話だが、自費出版したという「作品」を持ってきて、「ぜひ読んでください」という人が来たこともある。正直、1ページ目を見てわかるほど、あきらかにヘタクソな作品なのだが、生徒になるかもしれないお客様かもしれないので、あまり粗略に扱えないので困る。

というか、どうせこういう人は、わざわざ学費を払って入学しないから、余計に扱いに困る。たいていの場合、こういう人は「自分の作品はよくできているのに、なぜか誰も認めてくれない」と思っている。思いっきり勘違いしている。だから、むろんヘタに否定的なことも言えないし、かといって、もちろんホメることもできない。実際、ほとんどの場合、こういう人の作品をちょっとでも読むのは、かなり時間のムダである。以前、私は、親切に読んであげて、簡単なところだけをちょっとアドバイスしてあげたら(日本語が間違っていたのだ)、反対に怒鳴られたことがある。「ぜひ意見を聞きたい」というから、言ったのに〜。だから、今は、とくに小説コンテストの下読みでもない限り、一般の人の作品なんか、よほど頼まれてもまず読まない。読みたくない。だいたい生徒さんの作品だけで、年に百数十編あるのだもの。生徒でもない人の作品を読むヒマなんかないです。

ところで、うちの小説講座は、一クラス20人前後の小さな学校なので、よく「商売気がない」とか言われる。まあ、東京や名古屋からの通学生がいるくらいだし、なにせ講師はみんな人気プロ作家。プロ作家デビューも出ているし、それなりの価値はあると思っているのだが、今の運営状況では、やっぱり少人数が精一杯だと思うんだよね。生徒作品は、みんな全作品、丁寧に指導するわけだし、とりあえず人数が増えて、もし何かの間違いで、ややこしい「妙な人」が入学してきたら困るもの。

おかげさまで、生徒に関しては、そういうややこしい人はまずいない。「ちゃんと学費を払わなくてはいけないので、そういう人は入学して来ないんだろう」と思っている。ただ最近、もしかすると「実際に商業出版をしているような『プロ作家』の講師がいっぱいいる」のがイヤなのかもしれないと思ったりもする。

なぜかというと「自費出版ですが、それなりにいい本を出してまして」(誰がそれを「いい本」と決めたのかはなぜか不明)とか
「すでにインターネットで作品を発表してて、これでもけっこう人気があるんですよ」(ネット小説をいくつか見る限り、これほどアテにならない評価もないと思うが)とか
「エッセイコンテストでは、何度か入選になったこともあるんですよ」(たとえエッセイが書けたからと言って、書いたことがない小説も書けるかどうかはわからないハズなのだが)
などなど、
『自分はエライんだ。だから特待生になってやってもいいぞ』系の問い合せがたまにあるのだが(いやホント、マジでいきなり「特待生なら入学してやってもいいんだけど」と言う人はいるのよ)、私が「うちには、プロの講師がたくさんいますので……」という話をしはじめると、なぜか急に話をそらせて、電話を切りたがるのである。

もしかすると、傍若無人に自慢していても、「実は、自分の書いたものは、もしかすると面白くないのかもしれない」と薄々気づいているのかもしれないな。で、それを認めたくないので、「プロ作家には近寄りたくない」のかもしれない。だって、プライドが傷つくかもしれないからだ。もし、そうだとしたら、なかなか複雑な心理である。

さて、今は生徒募集期。10月からどんな生徒さんが入学してくるかまだわからないけど、今から楽しみ。
「求ム、フツーに小説が好きな人」

09/12/2006

小説とは関係のない休日(秋は炊き込みご飯だよ)

9月11日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝から外出。事務所は休みだが、午後からは専門学校での非常勤講師のお仕事あり。10時帰宅。疲れた。何をする体力もない。と言いつつ、明日の弁当のために「炊き込みご飯」をセットする。昨日は「カニめし」、今日は「ひじきご飯」。毎年、秋を感じると、やたら「炊き込みご飯」ばかり作りたがる私なのだった。(「松茸」の予定はないが)

09/11/2006

のんびり休日(小説専攻科の来年)

9月10日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

昨日の講義終了後、来年度の「専攻科の募集要項」を配布したのだが、早くも「申込書」が5通。9期生が2名で、専攻科の継続生は3名である。締切は10月だから、だいぶ先なのだが、早めに申込書だけでも提出してくれると事務的には助かる。

さて、来年の専攻科は、一年間、13回〜25回の講義で(作品指導講義につき、作品数により変動。今年は、全22回)、学費は、年20,000円〜57,000円。どだ。儲け度外視の非営利団体だからできるこの学費(ただし、赤字負担ができる運営状態でもないので、これ以上は、お安くできませんが)。いや、創作サポートセンターには感謝しなくていいから、安い講師料で丁寧な指導をしてくれる講師陣に感謝をしましょう。

さらに、Aクラス(プロデビューコース)なら、提出本数、枚数上限なし。うちの講座の場合、何人もの講師がいるので、交互に指導してくれると言っても、これだけの量を指導するのは大変なのだが、それでも何でもとにかくまた来年もやるのだ。
(それだけに、なにがなんでもプロデビューしてもらわないと困るのよ。わかる?)

ただ、今年は、Aクラスは、あんまりにもヒドイやつは、「チェック」して、書き直しをお願いするかも。とにかく、そのまま商業誌で通用するくらいのレベルにしてから提出してね。

なにせ今年の専攻科、書きも書いたり、一年間で作品指導したのが、全90編。そのうち長編が30編以上。(9期の作品を足せば、全部で130編ほど。書く方も書く方だけど、読む方も読む方だが)
昨年は、とにかく「量を書く」のがテーマだったので、これはこれでいいのだが、今年は、「質」だぞ〜。

で、今のところ、Aクラス4名、Bクラス1名。募集を開始したところだし、毎年、専攻科は入学式ぎりぎりまで悩んでいる人もいたりして、最終的に何名くらいになるのかは、まだわからない。ただ、いつのまにかあきらめて消えるんじゃなくて、全員「デビューして卒業」してほしいんだがな。いや、ホンキでそう思ってるんだけどね。

09/10/2006

小説講座も、今年度残りわずか

9月9日(土)
朝から小説講座の事務所。午後からライティング講座、夕方は、小説講座(9期&専攻科合同講義)。

昨日、遅くまで作業したくせに、今日も朝からバタバタ事務作業(やっぱ、要領が悪いだけかも)
ライティング講座の修了課題の作品集印刷など。

文章教室(ライティング講座)も、そろそろ一年総まとめ。うちの生徒さんは、どのクラスも9月末に卒業。このクラスだけは、10月7日まで講義があるんだけど、卒業後、自分一人でも勉強を続けていけるように、いろんな文章の勉強法など。ただ、また秋からの小説講座に進学する人も多いみたい。文章教室からの継続進学だと、かなり大幅な学費割引があるので、毎年、進学率はそこそこある。今の専攻科にもけっこういるかな。

夕方は、小説講座。9期と専攻科の合同クラス。講師は、五代ゆう先生。ここのところ、一日二十枚とかいう、とんでもないノルマがあったみたいな五代先生。お忙しい時に、作品指導をお願いしたみたいで、申し訳なかったのだけど、「一応、一段落はしたから大丈夫よ」と笑顔の先生。ちょっとホッとする。今日も、ファンタジーを中心に、短編、中編、短めの長編など、あいかわらずけっこうな作品数なのだった。

今日の生徒作品は、全体的にはあまり出来がよくない感じ。例の「あえて複数視点にしてみました」という作品もあり。やはり
「短編にしては、登場人物が多すぎ。主人公もちゃんと決めて、ちゃんと描写するべきところを書いておく方がいい」
と言われてました。
ところが、
「いやあ、締切に間に合わせるために、ちょっと無理しちゃいました〜」
と、まったくメゲてない本人。思わず「それは、違う!」と、心の中でツッコミを入れてしまった私。だって、締切に間に合ってないも〜ん。今回、唯一、締切後に送ってきた作品なのだこれは。ちなみに、この人は毎回、締切ギリギリ、そのうえ完成度も高めるためにギリギリならともかく、締切前になってようやく書き始めた感が満載。何か間違ってるぞ〜。ちょっとは反省しなさい。(と、毎回書いている気がするが、このブログはたぶん読んでない彼。私のぼやきに気づいた仲間が少しは注意してくれてるみたいなのだが、むろん反省したという風情はない)

「でも、みんな、どうしてちゃんと『描写』をしないのかしら。ホント不思議ですね」と先生。

うーん、なんででしょうね。それは私も知りたいことなんだけど。

たぶんファンタジーとか、時代モノとかを書く人の中には、いわゆる群像劇で、主人公が誰かわからず、もちろん視点人物もいない、いわゆる「あらすじ文体」を書く人が多いからかもしれない。たぶん作者にその世界が「見えてない」から、「描写」もしないのである。

そういう人は、やたら設定ばかり凝って、登場人物も多く、ストーリーにどう関係するのかよくわからないイベントも盛りだくさん。つまり、それらを書くのに忙しい。だから、たぶん「描写なんかいちいち書くのが面倒くさい」のだ。

しかし、不思議なのは、こういう人の書いた作品は、世界設定にもなぜか矛盾が起きていること。「あんなにやたら細かい設定だらけで、ストーリーに関係ないような設定もいっぱいあるのに、どうしてこんなところがガラガラに抜けているの?」と不思議になるような、油断しまくりの世界設定。

これは、どうもたいてい行き当たりばったりに書いているかららしい。こういう人はたいていプロットなんか面倒だから作らないのである。ファンタジー設定だと、どうにでも設定できるから、科学や文化レベル、その世界の経済、国際情勢や、軍隊などの制度(徴兵、傭兵か)などなど、いろいろ設定しなくてはいけないことがけっこうある。そのため、ちゃんと不自然なところがないように、それなりにきっちり設定をしておかないといけないのだが、「設定が大好き。ホント言うと、ストーリーさえもどうでもいい(いや、どうでもよくないのだろうが、そう見えてしまうくらい)」な生徒さんに限って、どういうわけか「抜けだらけの世界設定」をする。面白すぎである。

教室内でも、他の生徒さんがそれにすぐ気がつくのに、作者本人だけが気がつかないのだ。なんでなのか、それはわからんが。

ま、たぶん、たいていの読み手というのは、ちゃんと頭の中で世界を構築して、確認しつつ、なるべく感情移入をして読んであげようとするからだろう。
「感情移入」、これこそ小説を読むために、読者にとって必要なエネルギー。
つまり読者は、ちゃんとその世界を見ている。で、あたりまえの常識は持っている。だから、その世界に矛盾があれば、それなりに気がつく。まあ、軽いミスくらいなら、大目にみてくれるが、何度も変なところが出てくるのはマズイ。ところが、「おもいつき」のレベルで、いきあたりばったりにあまり考えずにパッと書いている書き手は、そこんとこ、あんまり検討してないのよね。たぶん。

とにかく、「書きたいことだけをあわてて書いて、とりあえずちゃんと見直すこともなく提出した」ってのは、来年からは、少なくとも「専攻科」ではやめようね。初心者なら仕方ないが、専攻科ではダメだぞー。短編ならともかく、中編、長編だと読む方がツライからな。来年からは、あんまりヒドイのは、さすがに「書き直し」を命ずるぞ。とくにAクラス(ま、本人もわかってるだろうが)

また、Nくんも、典型的なファンタジー作品で、「この世界に、テレビがあるのはちょっと……。科学レベルがわからないので、作品世界にちゃんと統一感を持たせましょう」と、先生に注意されていた。

ふと後ろの席にいた私を振りかえり、
「去年も、同じことを言われてたのに、またやってもうた。まさか一年たってまた同じこと、言われるとは思わなかったわ。ヘヘヘ」
と照れ笑い。

それは、確かファンタジー世界だと思っていたら、ラストにいきなりロボットが出てきたあの長編のことね。思いつきを書くんでも何でもいいけど、「あとでおかしいところがないか、人に見せる前に、自分でちゃんと読み返さなきゃダメよ」

こう言っちゃなんだけど、「視点を統一した方がいいんじゃない?」とか「プロットもできるだけちゃんと作っておいた方がいいんじゃない?」とか「世界設定は、なるべくちゃんと整理しておく方がいいんじゃない」とか、みんな「善意」で忠告してるんで、別にイヂワルじゃないと思うし、どの先生だって同じこと言うんだから、やっぱ、それは直した方がよくない? いや、なぜ直さないんだ〜。ま、いつも同じところを注意されるのは彼に限らないけど。生徒さんは「いや、直そうとしても直らないんですよ〜」とか言うし、そういう面もあるかもしれないけど、私から見たら、「やっぱり直さずに何とかなりませんかね」てな感じに見えるがなあ。

そりゃ、「うん、じゃあ、それも個性だから、直さなくてもいいよ」と言ってあげたい気もするけど、それもまた無責任だしねえ。プロになりたいかどうかの問題でもあるしさ。書きたいもの書きたいから同人誌ってのを全面否定してるわけじゃないのだから。でも、やっぱ、なかなかうまくいかないんだったら、直すところは直した方がいいような気がするんだけどなー。いや、こだわるなら、別のところでこだわろうよ。それでも「視点の統一」だとか「プロットを作る」とかは、なぜかやりたがらない人が多い気がするがなあ。うーん、なんでかな。

(「視点を統一しないで、多視点で、プロットも一切作らずに、思いつきを書きっぱなし」ってのは、デビューをめざすシロウトとしては、やっぱ技術的には難しい気がするがなあ。どうなんかなあ。どうも自分の力を過信しすぎてる気がするけど)

講義後、先生と一緒にいつもの中華屋へ。人数が多いので、専攻科と9期は別テーブル。専攻科では、某ライトノベルの話とか、いろいろ盛り上がっていたらしい。9期は、卒業が近いので、みんなで合宿でもするそうな。

かなり遅くまであれこれ話して飲んだ割には、今日は割りカンが安い。この店は安いので、たらふく食って、たらふく飲んでも、一人1500円は越えないのだが、今日は1200円。勘定を済ませると、あいかわらず半袖シャツの店長が(なぜかこの人は真冬でも半袖。筋肉でパンパンになったところがいつも香港映画みたいな感じだと思うのですがどうよ)、
「ミンナ、イツ、デビュー、スルノ?」と聞く。
「もうすぐよ。みんな、もうすぐデビューするの」と答える私。
「フーン、ソシタラ、ホンヲ カウネ」と店長。
「コレ、アゲルネ」と、グレープフルーツをもらった。めちゃくちゃ大きな黄色いグレープフルーツである。
ま、この店の「トキワ荘化」も近い。たぶん。

09/09/2006

小説&文章講座のアンケート、深まる謎

9月8日(金)
朝から小説講座の事務所。9時半まで、残業。疲れた〜。

年度末なので、生徒さんから感想アンケート(匿名)を回収。ほぼ全員、「大変よかった」「まあよかった」というご意見である。メッセージ欄には、いろいろな感想あり。
「いろいろな先生の貴重な話が聞けて大変よかった」
「仲間とも出会えて楽しい一年だった」
「あきらかに以前よりはわかってきた気がする」
「悩んでいたことが解決した」
「視野が広がった」
「文章に関わる用語とか、知らなかったことをたくさん知った」
「今まで読まなかったジャンルの小説を読むようになり、いろんな書き方がわかってきた」
「文章を審査、編集する側からのシビアな視点がわかってきた」
「講師の先生たちがプロばかりなので、学べることが多い」
「一年間ありがとうございました。色々なことを教えていただき、たくさんの人との交流がもててよかった」
などなど。

中には
「あまり焦らなくなった(道は充分に遠いことを思い知って、早期のデビューをあきらめただけという言い方もできるが……」
とか
「最後は、自分次第だということも改めて思いました。いかに強い意志をもって、面白いものを書き続けるんだと、やり続けるかどうか、なのかなあ、と思います」
なども。

「飲み会が面白かった(なんか飲み会来ない人はとてつもない損をしてる気がする)」
なんてのもあり。

ま、残りの講義があと3回しかない時期なので、この時期だと、不満がある人はすでに来なくなっているだけ、という考え方もできるかもしれないけど。実は、この時期になると、生徒数は2〜3割減になっている。理由は、今年は、病欠とか仕事の都合(土曜出勤)が多いみたいだが、本当のところはわからない。ま、昨年みたいに理由も告げずにいきなり入学直後に2〜3人来なくなった年もあるけど。たいてい前期(半年)は、ほぼ全員在籍しているものなのだが、後期になると、修了作品を提出できなかった人は、そのまま辞めてしまうことが多い。小説を書くというのは、コツコツ地味な作業で、けっこう面倒くさいものなので、必ずしも全員が続けられるわけではないのだった。また、自分の修了課題の作品指導が終わったら、さっさと講義に来なくなる人もいるし。理由はわからないけど。

そんなこんなで、最終アンケート。講師への感謝の言葉など、ちょっと泣けてくるよな文面もあり。

ところで、先日、疑問だった「一日千秋」のナゾ。
「一日千秋:中国では一日三秋。大槻文彦の「大言海」によれば、三秋とは孟秋(七月)、仲秋(八月)、季秋(九月)のことだそうです」
とのメールをいただいた。

てことは、中国では「待ちかねて、一日が3ヶ月に感じる」ってことなのかあ。じゃあ、なんで日本では千年なんだろう? そりゃあ、感覚的には、たぶん3ヶ月の方がピンと来るよねえ。だって、一日が千年に感じるなんて、やっぱ、ヘンだもんねえ。三ヶ月ならわかるけど。千年なんて、そんな長い時間がたった気がするなんて、絶対に人間の感覚じゃないよねえ。だって、そんな長い寿命ないもん。仙人とか龍とか妖精とか妖怪とかなら、「うんうん千年ね」なんてな感覚があるかもしれないけど、マトモな人間じゃないよな。しかし、なんで中国で三ヶ月だったのに、日本で千年になったんだろう。実に、4千倍。いくらなんでも増え過ぎ。

しかも、あいかわらず「なんで秋?」かは解明されないのだった。うーむ。調べてみると、まずます謎がふくらむ、というのは、パターンなのだが、引き続き、謎の解明を求む! 調査ご協力を。

09/08/2006

だって、娯楽小説の講座だもん

9月7日(木)
終日、外出。小説講座の事務所には入れず。

ここの小説講座は、「エンターテインメントノベル講座」という名称なので、一応、エンターテインメント系の小説講座である。わざわざ「エンターテインメントノベル講座」という名前になっているので、たまに「エンターテインメントノベルって何ですか?」と聞かれることも多い。まあ、深く考えるとややこしいので、
「娯楽小説です」
という、ある意味、わかったようなわからんような返事をすることが多いのだが、幸いなことに、たいていの人は、
「ああ、なるほど。娯楽小説ですか」
と、なぜかけっこうあっさり納得してくれるので、たいへん助かっている。
ただ、中には、こだわる人もいて、(だいたいモノを書こうという人は、言葉とかにこだわるタチの人が多いんだからムリもないが)
「娯楽小説って、何ですか?」
と、質問をする人もいる。考えようによっては、これもまた、その真義を深く考えると、とてつもなくややこしいような質問である。そもそも「娯楽」って、何なのだ。うーむ、難しい。

しかし、ま、その質問も、電話での入学問い合わせだったりするので、そんなところで、深遠な意味を聞きたい人はいないわけだから、
「はい、SFとか、ミステリとか、ファンタジーとか、時代小説とか、ユーモア小説とか、まあ、いわゆる商業出版されているような大衆向けの小説のことですね」
と、私は答える。これで、ほとんどの人に納得してもらえる。ありがたい。とりあえず「例」を提示したので、あとは各自の判断にまかせるのである。

ただ、電話を切ったあとで、時々、私はちょっと考える。(私もモノ書きなので、ごちゃごちゃと考えるのが好きなのである)
「娯楽って、一体なんなのだ?」

まあ、私は日頃から、「あれって何」という好奇心だけで生きているところがあるので、これも趣味である。たとえ答えがわからなくても、いつもそういうものを発見するのが大好きなのだ。疑問をたくさん見つけたら、今日も楽しいという気がするからな。ナゾが解けるのはいつだって快感だし。

余談だが、今朝は、子供部屋の壁に貼ってあった「役立つ四文字熟語」(朝日小学生新聞のおまけ)に、「一日千秋」とあったのをふと発見して、ちょっと疑問。意味は、「待ちこがれて、一日が千年のように長く感じられること」である。うーむ。千年か。じゃあ、なんで「一日千年」ではなくて、「秋」なんだろう。そりゃ「秋」の方がたしかにしっくりする気もするけど、うーん、なんでかな。(「春」じゃ変だよなあ。でも、冬なら?)やっぱ、知ってるつもりで、知らないってことって、けっこういっぱいあるなあ。というわけで、まだ「なぜ千秋なのか」は判明していない。(誰か知ってる?)

で、「娯楽小説」である。

いろいろ思うことはあるのだが、ただ子育てをしててつくづく思ったのだが、人間というのは、どういうわけか、本質的に「物語」が好きなのである。幼い子供の「おままごと」やら「ブーブー」やらに対する態度だとか、「おはなし」に対する純粋な好奇心だとか。言葉を身につけるか、つけないかというくらいのうちに、ほとんど同時に楽しみを見つける。

ところで「物語」の系譜は、神話や伝説から続くと言われている。神話学なんてのにはあまり詳しくないんだけど、神話や伝説には大きく分けると二つの系譜があり、ひとつは、ものごとの起源に関するもの、もう一つは、ある特定の場所に対するもの、だという説があるそうだ。とすれば、たぶん太古の人間が「生きるために身につけた本能のようなもの」の一つなのかもしれない。あの山のあそこは危ないから近寄ってはならない、とか、この食べ物はこういう理由があるから食べてはいけない、だとか。人は、それらを意味づけて理解し、体系づけて記憶する。

本能のようなものなんだったら、食べることと同じで、なんでそんなことが楽しいのか、嬉しいのか、と言われても答えに困るくらい、それが面白いのはあたりまえなんである。「食べる」のと同じで、食べること自体が苦痛な人はあまりいない。ただもちろん、いや私は好き嫌いがけっこうあるとか、いやそんなものは食べ慣れてないから受け付けないとか、そういうくらいはあるだろうけど。

てなわけで、「どうして『娯楽小説』なんですか?」 ……という質問には、
「だって面白いから」
としか、実は、答えられないのだが……。
でも、これじゃ、やっぱ、答えにはなってないのかな。

09/07/2006

作家志望を笑ってはいけない

9月6日(水)
午後から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

文章教室や小説講座の生徒さんの中には、たまに「書こう書こうとは思っているのだけど、書きたいものが見つからない」という話をする人がいる。そういや、一ヶ月に一度くらいは誰かから聞くから、案外、よくある悩みなのかもしれない。私としては、正直、「書きたいものがなければ、ムリに書かなくてもいいんじゃ?」と思うところなのだけど、なにせせっかく講座に学費を払って入学した人たちなのである。ホントに「書きたいものがない」わけではないのだ。

場合によっては、「本当は書きたいものがないわけではないのだが、どううまく書いていいかわからない」だとか、「書きたいものがあるが、どうもこれは今の自分の手に負えないらしいし(たぶんテーマが難しいとか、長編になりそうだとか)、かといって、他に書きたいものがない」だとか、はたまた「書いてはみたが、どうせうまく書けないから最近ちょっとやる気が出ない」とか、まあ、そういう意味合いだったりする。まるきり書きたくない人は、そもそも学費を払って入学なんかして来ないだろうから。

そんなわけだから、たいていの場合、「ホントに書きたいものが全然ないの?」と聞いたら、「いや、実は、コレコレこういう話を考えてたんだけど、実際、書いてみたら全然おもしろくならなくって……」とか、なにかしら、考えていることを話してくれる場合が多い。すると、話を聞いてみたら、案外、いいアイデアだったり、ほんのちょっと工夫すれば使えそうなアイデアだったりする。まあ、そういうのは、今は書けなくてもちょっと時間を置いたら書けたりするから、あんまり心配いらないもんなのだが(本当のところ、本人が何を悩んでいるのか私にはよくわからないのだけど)、だいたいにおいて、モノを書こうなどということを考えるような人は、ごちゃごちゃ考え込んでしまうタイプが多いので、こういうのもよくある風景なんである。

ところで、「書きたいものがない」というのは、実際にはないんじゃないのか、と私は思っている。まあ、見失うということは誰にでもあるが、たぶん「書きたいもの」というのは、実はたいてい誰にでもあるのだ。少なくとも小説講座や文章教室に入学するような人なら、確実にあるはずだと思っている。もし「本当にないんですよ」というのなら、きっとそれはたまたま自分自身でまだ発見してないだけかもしれない。たぶん、すでに自分の中のどこかに、きっと「ある」という気がする。

よく「誰でも一作は小説が書けるっていいますよね」なんていう人がいて(それを誰が言い出したのかが知りたいのだが、誰か教えて)、それは自分自身の人生を指しているらしいのだけど、それをいうのなら、たいていの人は、一作どころか、何十作も、書きたいものはある。一人の人間の人生が、たった一つの作品にすべて収まるはずがない。毎日、いろんな体験をし、いろんな考えが頭に浮かび、いろんな人とすれ違う。書きたいものがないという人は、あまりいない。

「文章なんか、生まれてこのかた、自分から書きたいと思ったことは一度もない」という人でさえ、たぶんどこかにあるんだろう、と思ってさえいるくらいだ。もちろん「文章なんかできるだけ書きたくない」という人はけっこういるから、そういう人は、もちろん原稿に書くという行為はこの先もずっとしないだろうが、ネタというか、アイデアというか、題材というか、「でも、もし書けるものなら、こういうのを書いてみたいんだよね」というのがまったくひとつもないという人も、またほとんどいないような気がする。

私はライターとして、インタビューをしたことがあるのだけど(たぶん数百人くらい)、どんな人でも、案外、いざ話を聞いてみると、たいてい不思議なくらいよく話す。どうも人間というのは、真剣に話を聞きさえすれば、自分の話したいことなら、ちゃんと話すものらしいのである。で、さらにおもしろいことに、「自分でも日頃あまりよく考えてなかったようなこと」まで話すのである。で、話した本人が、「そうか! なんだ、自分はこういうふうに考えていたのか。でも、すごくそれでわかったぞ!」とびっくりしていたりするのである。たぶん日頃からモヤモヤと頭にあったことが、人に話すことによって、言語化されて認識されたのかもしれない。この傾向は、知識人や有名人など、インタビュー慣れしていたり、日頃から自分の考えを言語的にまとめる習慣のあるような人より、まったくのシロウトの人の方が、よりはっきりする。

そんなわけで、かなり無口な人とか、人嫌いに近いような人とか、あるいは「私は、ホント口べたで……」というような人でも、たいていそう言いながら、1〜2時間しゃべってもまだ止まらない、なんてことがよく起きる。友人のライターたちに聞いても、たいてい同じ意見である。
「誰でも聞いてくれる人さえいれば、語りたいことがあるんじゃないのか」
というのが、ライター歴十数年の私がつくづく感じたことである。ただ、実際、みんなそういう欲求があるから、なかなか聞いてくれる人がさほどいない。
なにせ面白いのだが、いわゆるシロウトのインタビューをすると、「そう言えば、こんな話、家族にも、誰にも話したことがないのだが……」なんて話をしてくれる人が多い。自分の妻にも話したことがないような人生観とか、大事な思い出話までなぜ見ず知らずのライターに話をするのか。それは、たまたま改めて聞いてくれる人がいなかったからじゃないのかな。だって、家族だったら、けっこう恥ずかしかったりして、聞きもしないし、話したりしなかったりするからな。

ほとんどの人間は、自分自身のことや、自分の仕事や体験、あるいは意見や考えなどを「聞いてもらいたい」「誰かに知ってもらいたい」という要求は必ずある。たぶん「本能的なもの」なんだろう。となれば、生きるために必要な能力なんだろう。つまり、腹が減ったから、何か食べたい、とか、眠たい、とか、そういうようなあたりまえの欲求なのだ。だから、どんな作品であろうが、たとえ文章がうまくなかろうが、「書きたい」という気持ちを恥ずかしがることなんてないと思う。ただし、食べたいとか、寝たい、という欲望なら、自分一人でも完結するのだが、書きたいという要求は、知ってほしいという要求だから、実は、相手が必要なのである。ここが、ちょっと違う。

「誰もが自分のことを知ってもらいたがっている。だが、人のことは、自分のことほどには興味がない」

だから、作家志望を笑ってはいけない。誰だって、ある意味、書きたいものはあるのだから。書くための資格があるとするならば、「書きたい」というだけで、充分なのだ。もし作家志望を笑う人がいるとすれば、もしかすると、その人はむしろ自分はどこか書きたいものがあって、ただ欲望に正直になれないだけで、「うらやましい」だけかもしれない。あるいは、自分だけはやれば書けるなんて思っていて、「ムダな努力をしている」と根拠もない優越感に浸っているのかもしれない(不思議なのだが、どうもそういう人がいるらしいのである)。まあ、世の中には、汗をかいて努力する人とか、夢を忘れない人をなぜかバカにして、笑いたがる人もいるからなあ。

だから、自分自身の中にあるものを「人に見せるだけの価値があるかどうか」なんて、あまり疑わなくてもいいかもしれない。ただ書く前に悩んでしまうタイプの人なら、それが見せるだけの価値があるかどうかより、それをどうやって面白く見せられるか、に集中した方がいいかもしれない。もちろんアイデアのよしあし、とか、ネタのよしあしは否定はしないけど、人に見せたい、知らせたい、読んでもらいたい、というのがあれば、きっと方法は見つかるはずだ。きっと。私はそう信じてるけど。

09/06/2006

エンターテインメントの勉強法

9月5日(火)
午後から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

丁稚どんが来て、あいかわらず作品集印刷など。私は、欠席者発送いろいろ。ああ、ライティング講座の修了課題の作品集も急いで作らなくてはいけない。ぐえ、忙しい。

毎回、作業しながら、丁稚どんとおしゃべりする。息抜きである。ただ、うちの事務所があるフロアは、福祉関係だとか、かなり真面目そうなNPOが色々あって、そんな中で、私たちが大真面目にマンガとか映画の話をしているのが聞こえたりすると、もしかすると多少ひんしゅくなのかもしれないなあと思ったり。もちろんふざけてるわけではなく、『ゲド戦記』だとか、むろん大真面目で、かなり真剣な仕事の話をしているつもりだが。ただ、今日などは「耽美小説」の「からみシーン(ベットシーンが何割だとか、どうやったら耽美になるか、とか)」についての話(もちろん真剣な話)。

周囲の団体の人たちも「いつも面白そうな話をされてますよね。うらやましい」などと言ってはくれるのだが。あ、あれ、もしかして、あれはイヤミか。いやいや、「私も、けっこう小説が好きなんですよ〜」なんていう人もいるんですよ。このフロアは、他の団体があちこちで色んな変わった仕事の話をされているので、けっこうにぎやかです。

ふと『スチームボーイ』のことを思い出して、丁稚どんに「エンターテインメントをめざす人なら絶対必見!」とオススメする。実はこの作品、私は、専門学校のマンガコースでもかなり多くの生徒に勧めている。私は、評論家でもなんでもないので、この映画にコメントすることはできないのだが、ただ色んな意味で「勉強」になることは確かで、絶対に「教材」にはなる。「まだ見てない人は、ぜひレンタル屋へ!」

どういう作品かというと、たぶん傑作は傑作なんだろうと思うが、誰が見てもかなりすっきりしない部分がかなり残るのである。「おもしろかった!」と絶賛する人もけっこうたくさんいるんだけど、そういう人でも「ただし全面的に手放しじゃないけど」というコメントを言いたくなるような、そういう作品なんである。

といっても、見たことがない人には何がなんだか意味がわからないだろうけど、見ればたぶん意味がわかる。とくにマンガ家志望の生徒さんは、「画さえうまくなれば、ボクだって面白い作品が描けるのに」と思っている生徒さんがかなり多いので、これは必見である。(早い話、この作品は、画以外の文句をいう人が多いのだ。映像にはほとんど文句をいう人がいない。むしろ褒め言葉)もちろんストーリーの勉強にもなるので、小説講座の生徒さんにも、間違いなくオススメである。

こうやって書くと「もしかして、かなりよくない作品なんじゃないか」と思うかもしれないけど、断っておくと、専門学校でアンケートをとると、「たいへんおもしろかった」「まあまあおもしろかった」でたいてい9割くらいになるので、かなりいい映画なのである。つまらなかったが1〜2割。私の講義は、映像解説が多いので、他の映画も教材として紹介したりするけど、たいていの他の映画はもっと好き嫌いが分かれる。その点では、この成績はむちゃくちゃいい方なのである。むしろ断然トップの好成績である。

しかし、「めちゃくちゃ面白かった!」と評価の高い生徒さんでも、たいてい「いくつか気になるところはあったけど」と必ず言う。この作品は、そこが面白いのだけど、細かい部分で「ええ?」と思うところがいくつもある。私は、まだ十数回くらいしか見てないが、シロウト目にも、はっきりここはおかしいと思われるところがいくつもある。

ちなみに、私が一番つらいと思うのがセリフで、他はまあ見逃しても、このセリフはいくらなんでもちょっと、というのがけっこうある。たとえば、いわゆる小説やマンガなら、なるべくこういうセリフはやめようねというよな「説明ゼリフ」とか、「それは書き文字ならいいが、シナリオを発音する話し言葉だと聞き取れないよ」というのも何カ所もある。ああ、もったいない。何が原因かわからないけど、声も聞き取りにくいし、あまりにもセリフまわしが悪いのが気に触るので、私なんか、仕方なくDVDを小音量で見たりして、もう勝手にセリフを変えてアフレコしながらみたりしているぐらいである(音楽はよいので、もったいないのだが)。そうやって見たら、けっこうセリフを変えただけで、ストーリー上のいくつかある矛盾点はけっこう解決されたので、個人的には勝手にスッキリした。皆様もぜひお試しください。

ちなみに、DVDを見る時に「勝手にアフレコ」というのは、私はよくやる視聴方法である。もともと子供たちが小さい頃に何度も同じ字幕ビデオを見るから、やっていたことなのだ。なにせ子供というのは何度も同じビデオを見たがるのだが、これが字幕だったりすると、まだ就学前の子供は読めないから、読んでやらないといけないのだ。しかし、ただ字幕を読むだけだと、こっちが飽きてしまうし、だいたい何度も見るから、子供もとっくにストーリーはわかっている。だから、その場で適当にでっちあげて、いいかげんなアフレコをするのである(けっこうウケはいいのだが、やはり面倒なので、なるべく吹き替えを探すのだが)。最近は、ようやく字幕も読めるようになったようで「ママ、一緒に見てー」というのはないのだが、私は、今でも時々、眠れない深夜にテレビをつけて、だいぶ前に見た全然おもしろくなかった映画なんかやっていたら、一人でブツブツやってたりすることがある(ちょっとアブナイかもしれない)

ただ、これをやると同じ映像でもだいぶ話が変わるのでおもしろい。ホットペッパーのCMでもやっていたが、セリフが違うだけで、性格やストーリーがかなり変わる。この「勝手にアフレコ」のおかげで、私は「スチームボーイ」を自分の頭の中で勝手にセリフを変えてしまったので、おかげで、お父さんは婿養子ということになったし、親子の葛藤のポイントもできたし、戦闘目的もかなり変えてしまったし、主人公とヒロインの性格も変わったし、アフレコだけで、細かい矛盾点もなく、すっきりおもしろいエンターテインメントになったのだった。ああ、すっきり。とりあえずセリフを変えただけでだいぶ違う。ああ、勉強になるなあ(こういうことを楽しめるのも映像がしっかりしているからだと思うが)

ま、そんな「勝手にアフレコ」とかしなくても、「あ、このシーンとこのシーンは順番を変えればこんな感じになるな」と思われる箇所もいくつかあり、そういう意味では、エンターテインメントをめざす生徒さんにこんなに勉強になる教材はないと思う。ただそのためには3〜4回くらい見ないといけないし、120分越える作品だから、けっこうツライかもしれない。が、それはそれくらいの価値はあると思うぞ。(しかし、考えてみたら、やっぱ、もしかしてあの映画って、編集を変えただけで、かなりすっきりするかもしれないなー)

ま、エンターテインメントで王道をやるってのは、けっこう大変なんだよな、と思うのだった。あんだけ大量の金と労力とをかけても、ちょっとのミスが重なれば命とり。この映画も、いくらアンケートでおもしろかったが9割でも、もう一度見たい、同じ人の次の作品をまた見たい、となると、ガクンと減るのだ。くわばらくわばら。うーむ。エンターテインメントの道は険しい。みんながんばれ〜。


小説とはあまり関係のない休日(幻想に寝る)

9月4日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

事務所はお休みだが、今日から非常勤講師業が再開。4コマ連続授業。欠席者多し。

深夜、ゆっくりと芦辺先生に献本いただいた『探偵と怪人のいるホテル』(実業出版社)を読む。エッセイ一本を含む短編集。ホラーアンソロジー「異形コレクション」に掲載された短編など。掲載時にもかなり人気の高かったレトロ調の探偵モノがたっぷり。表紙も、ステキな短編集。

ふと、著者「あとがき」を見ると、「本書は私の最初のーひょっとしたら最後かもしれないー非ミステリ・ノンシリーズ短編集です」という文句があって、ちょっと驚く。この文句は帯の裏側にも書かれているのだが、ほほう、なるほど。つまり先生の「ミステリ」の定義ってのは、やっぱり「本格ミステリこそミステリ」なのだ。だって、これだと私なら充分ミステリだし(というか私の場合、探偵が出る話なら、その時点で)コレらもはっきりと「ミステリ」としか言いようがないように思うから、どこが「非ミステリ」なのかさっぱりわからないのだけど、やっぱ、はっきりと本格ミステリらしいトリックがない話じゃないと「ミステリ」じゃないのね。まあ、ジャンルの境界線上にある作品ばかりってことなのかなあ。でも、これ、けっこうみんな構成もミステリ仕立てだったりするしなあ。

そりゃ、ホラーアンソロジーに初出した短編が多いから、それはミステリじゃないだろと言えばそれはそうなんだけど、こうしてみたら、やっぱりホラーというより、なんというか、幻想小説みたいな感じがする。『疫病草子』も関西弁の怪談なんだけど(でも、これ、やっぱりミステリだと思うんだけど)、どうも同じような方言の一人語りで有名な岡山弁の某ホラー短編とか、京都弁とかがあるので、ついついくらべてしまったのだが、それを考えるとやっぱり「幻想的な味のミステリ」という気がする。だってホラーって、どこか血とか、臭気とか、粘液だとか、どっか湿気がいる気がするが(たぶん偏見)むしろ古ぼけてカラッと乾いている感じがするもの。乾いていて美しい。面白いな。そういえばホラーってのはよく体質だとかいうけど、もしかして「幻想体質」なんでしょうか。(やっぱり底までミステリ作家なんだという気も)

めくるめく夢と幻想の迷宮。私はかなり好きな世界観です。レトロがわかる世代にはオススメ。全然ミステリ慣れしてなくて『千一夜の館の殺人』では挫折しちゃった生徒さんにもぜひ。

09/04/2006

小説とは関係のない休日(目覚め)

9月3日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

日曜日の朝。布団の中で、のんびりまどろんでいると、何やらけたたましい声が聞こえてきた。我が家の3人の子供たちである。
「兄ちゃんのバカ! ウンコはちゃんと流せって、いつも言われてるやろ!」
「えー、ちゃんと流したはずやでー」
「うそや! だって、ここにあるやん!」
「しかも、兄ちゃん、もしかしてお尻ふいてないやろ!」
「それはないで。それぐらいはちゃんと……」
「だって、ほらっ、紙がないやん!」
「えー? あー、そうかあ。たしか、あの時、急に『たまごっち』が鳴って……」
「うわあ、兄ちゃん、めっちゃ汚い〜」
「ママー!! 兄ちゃんが汚いーっっ!!」
朝からうるさい。私は布団にしがみついたまま、うとうとまどろみながら、人生について、ぼんやりと考えるのであった。

まさかせっかくの日曜日にこんな声で起こされるとはおもわんかったなあ「子供というのはたいていアホや」と聞いていたし「そんなもんやろ」と思ってたけどどうもやっぱりウチの子だけ特別アホなんちゃうかなあけどこんなアホどうしようもないからいらんわってゆうたかて我が子やから仕方ないもんなあしかし3人いる子供のうちで長男が「バカボンみたいなアホ」で下の双子が「じゃりんこチエみたいなガキ(しかも双子やし)」やでってゆうのは産む前にはちょっともわからんかったからなあけどもしタイムマシンがあって私が若い頃に行って「将来アンタが産むんは、バカボンと双子のチエちゃんやで」ってゆうてもたぶん若い頃の私は「そんなマンガみたいなことぜったい信じへん」とゆうんやろなあまあだいたい将来の夫が高校ン時に「変人」で有名やったアノ男やとは思わんかったからなあ高校の同級生やけどあまりにも学校中で有名なぐらいの変人やったから将来結婚できるような人間とはとても思わんかったのに十年後になんのはずみか私が結婚してもたんやからなあ高校生の時の私やったら「将来アンタはあの男と結婚するねんで」とゆうたらめちゃくちゃショックやろうなあもしかしたら将来を悲観して自殺するかもしれへんひょっとせんでもたぶん死ぬなまあ死なへんでもグレたりやけになったりどうにしかして運命を変えなあかんと必死になるやろなあほんならあの頃好きやったのに告白でけへんかったあの人とかけっこうイイ線までいってたのにどうしても恥ずかしくて逃げてしまったあの人とか「このままやったら将来アレやで」とあのとき思ったらちゃんと自分の気持ちに正直になれて今頃うまくいっとったかもしらへんなあほんなら運命は変わっとったんやなあそしたらだいぶ違う人生やったんやなあの人けっこうエリートやったからたぶん今頃きれいな高級マンションとか住んでて娘は有名私立なんか通ってて朝なんか「おはようございますお母様」とかゆうて「あらお母様きょうは朝寝坊なんですのよねでもいつも早く起きていただいていて大変ですからたまにはわたくしが朝の用意くらいしますわもう少し休んでいてください」なんてゆうてくれるような利口なお嬢様やったりするんかなあそう考えたらあの時ちょっと違ってただけでエライ人生変わっとったんと違うかなあけどそれにしてもこんなアホな将来がやってくるなんてたぶんタイムマシンとかあったってどうやっても信じへんやろうけどなあ……

「ママ、はよ起きて! ハラ減ったやん」
「ママ! 兄ちゃん、ウンコ汚いねん!」
やっぱ、いくらなんでもこれはひどいんじゃないのかなあ。

09/03/2006

シナリオと小説、あれこれ作品指導

9月2日(土)
朝から小説講座の事務所。昼は、文章教室<ライティング講座>、講師は映像ディレクターの川口先生。夕方の小説講座は、9期の作品指導。講師は、ミステリ作家の小森健太朗先生。

今日の文章教室は、シナリオについて。スケジュール変更で、川口先生には急にご出講をお願いしたのだが、しっかりきっちりしたレジュメを用意してくれて、パソコンも持参で講義。シナリオについては、他の文章とは少し違うジャンルだし、シナリオライター志望でもないので、関心をもってくれるかなと心配してたのだが、業界話などもあって、生徒さんにはなかなか好評。

川口先生は、専門学校でも長く教えておられたので、講師としてもベテラン。ただ明日3日からしばらく撮影旅行らしいので、その前日にお願いして申し訳ないと思っていたのが、実はこの先生、それよりも「彦八まつり」の方が気がかりだったのである。「彦八まつり」は、2日と3日。関西の落語家さんが集結するお祭りである。演芸好きで、とくに落語には詳しい川口先生。講義が終わってからも、生徒さんとのお茶にもつきあってくださったのだが、5時頃、解散するとあわてて駅へ走って行く。そんなに早く行きたかったのに、わざわざ気をつかって残ってくれてたのだなあ。いい人である。

夕方は、9期のクラスの作品指導。講師は、小森先生。(先週は、美人作家特集だけど、今週は独身男性特集だぜい)。生徒作品は、5編。ミステリじゃない作品をミステリ作家の小森先生に指導してもらうのは、それは私なりの狙いがあったからこそ。

1編目の作品は、異世界もので、どちらかというとファンタジーなのかもしれないが、南米が舞台。小森先生には「マヤ」がらみの著書もあるのだ。この人の作品は、いろいろ事情があって、実は、制限枚数オーバー。9期の修了課題は、原稿用紙50枚以内の短編と決まっているのだが、どうしたことか、この生徒さん。ワープロ出力で50枚以内と勘違いしたのである。

この生徒さんは、健康上の都合に、ご家庭の事情もあって、半年以上もずっと欠席していて、在籍はしているものの、ほとんど講義を受けていない。今回、作品を提出してきたのだって、かなり驚いたくらいである。それにしても「400字詰め原稿用紙50枚以内」なのに、この作品は換算すると200枚近くあるのだった。
「なんか長いなあと思ってたけど、40度の熱にうなされながら書いたので、ホント気がつきませんでした」
初心者ならではのホントの話である。
「いや、立派です。普通、40度の熱にうなされてたら、そんなに書けませんよ」と小森先生。
私もそう思う。病弱だと聞いていたが、タフなところがないとそんなに書けないと思うわ。

50枚制限の作品提出で、200枚も提出されたら、いつもなら返却して別の作品を出してもらうのだが(専攻科には枚数制限がないのだが、本クラスでは、基本的にあえて50枚をきっかり書いてもらうことにしているのだ)、この人は「ほぼ生まれてはじめて書いた小説が200枚」なのである。諸事情があって、とても書き直す時間も体力もないというのもあったのだが、一般的にこういう生徒さんは、たとえかなり締切を待っても、50枚の短編はまず書けない。なんでかというと、こういうタイプの方は、おおむね長い作品を書くのはラクだが、きちんと短くまとまったものを書くのはダメなのである。生徒さんの場合、50枚でどれくらいのものが書けるのかさっぱりわからないものだし、一般に、制限枚数をきっかり守るよりは、だらだら長く書く方がラクという人の方がむしろ多い。

また、この生徒さんの場合、「演劇経験が長かった」人でもある。

小説講座にも色んな人が入学して来るので、もともとはシナリオを書いていたり、舞台台本を書いていた人も入学して来る。毎年、たいてい一クラスに2人ぐらいはいる。こういう人は、まったく小説も何も書いたことがない人と違って、妙な傾向があって、たいてい視点とか、描写でつまづくのである。とくに映像シナリオというよりは、舞台台本の経験者の方がつまづく確率がかなり高い。そういう人は、うちの講座でも1〜2期生の頃から何人もいたから、入学時の指導用アンケートに「舞台台本を書いてました」みたいなことが書いてあったら、ちょっと気をつけるようにしているくらいである。

考えてみれば、舞台というのは「視点」というのがない。小劇団とかだとあえて主役らしい主役をつくらない群像劇とかもあるし、それに芝居というのは、映像と違って「独白」なども案外、けっこう平気で書くのである。たとえば、街灯の下に立って、
「ああ、私はどうしたらいいんだろう。どうしたら、あの人の気持ちを取り戻せるんだろう」
などと大声で一人で言い続けるのも、お芝居なら、けっこう平気(現実世界では、もしそんなことをでっかい声で叫ぶ人が路上にいたら、それはちょっとアブナイ人である)。

映像シナリオなら、感情を表現するのには「行動」や別のセリフで描写するようにするのだが、舞台というのは案外と自由度が高いのである。しかも小劇場の芝居というのは、たいてい途中退室するのが困難なので、退屈なシーンを延々とそのままやるという手段も、アリだったりするのである。多少、訳がわからなくても、面白くなくても、とにかく最後まで見てもらえるだろうという前提だから、「わざと忍耐させる」という手もアリ。

舞台のあちこちで、同時進行できるとか、まあ、いろいろ小説とは違う。というわけで、芝居の台本を書いていた人が小説を書くと、なぜか「主役が誰かわからない群像劇、視点も決まってない」という作品がかなり多いのである。もちろん全員ではないのだが、私の知る限り、かなりの確率でそうなってしまうみたいだ。それを防ぐには、まあ、とにかく最初の作品くらいは「一人称」で書いてくれると助かるのだが(少なくともその作品だけは視点の混乱が避けられるし、「小説には、視点ってものがある」ってこともわかる)、残念ながら、そういう私のアドバイスを聞いてくれる人は実はあまりいない。
(このクラスには、もう一人熱心に演劇をやってたという生徒さんがいるのだが、彼の場合は、めずらしくあまり問題がなかった)

そんなこんなで、この生徒さんへは、小森先生が「視点の統一できてないのが一番の問題点ですね」とアドバイス。他の生徒さんも、「視点」の問題あり。小森先生は、大学でも創作ゼミを担当して教えているそうで、
「大学の生徒さんでも、はじめて小説を書く人はだいたい9割くらい、視点の問題がありますから」
と話されていたが、今回の生徒さんは、ほとんどが初心者である。

私の経験上、そのうち半分くらいは、講師に指摘されたり、自分でも「なんか小説っぽくないな〜」なんて思って、まあそれほど気にならない程度にはなる。だが、最終的には1割くらい、なかなか治らない人もいる。とくに、うちの講座には、入学前に一人でずっと書いていて、あちこちのコンテストにも応募して、ずっと通過しないから入学した、っていうタイプの人がいるが、こういう人の中には、ちょっと悪いクセのようなものをついてしまっている人もいて、自分のスタイルを絶対にくずしたくない、って人もいる。
「視点? ああ、わかってるわかってる。でも、まあええやんええやん」ってな感じである。

ただ、たしかに「視点」ってのは、わからん人にはものすごーくわかりにくいものらしく、今日の小森先生の親切な説明も、一体どれくらい全員に伝わっているのかちょっと心配。専攻科ではなくて、このクラスは初心者ばかりだからなあ。ただ、やっぱり言わなきゃならないことは、たとえすぐに伝わらないかもしれなくても、やっぱり言われた方がいいものなのかもしれないし。しつこく言われ続ければ、そのうち自分自身で考えるようになるかもしれない。

あとの二人の生徒さんは、「文体に工夫を」と言われていた。これも、かなり高度なアドバイスなので、初心者に伝わるのかちょっとだけ心配。「視点」と「文体」は、初心者にはわかったようで、実はぜんぜん意味がわからないという、二大難問。小森先生がかなり根気よく説明してくれるが、「文体」が何なのかホントはわからないって生徒さん、きっといるんだろうなあ。いや、言葉の意味だけなら、視点にしても文体にしても、誰でもわかってることなんだろうけど。

最後の作品は、本人は子供向けの児童小説のつもりだが、どうみても子供向けというよりは、児童小説風の大人向けの作品みたいな短編。これも割と毎年よくあるケースで、「児童小説を書きたい」という生徒さんの多くは、たいてい今の児童小説をほとんど読んだことがない。そのため、自分が子供の頃に読んだものだけをイメージして書くのだが、こういう人の場合、一見、児童小説風だが、実際にはあまり子供は読めなさそうな小説になる。児童小説は、シロウトが見るとけっこう簡単そうに見えるらしいのだが、むしろかなり大変なのである。作者本人は大人なので、つい自分の関心や考え方や知識をそのまま書いてしまい、ちょっと児童小説にしてはヘンな作品になるのだ。キャラクターも「いかにも大人がイメージした子供」を書いてしまう。さらに、自分の子供の頃に読んだイメージで書くから、つい「なんか古いなあ」という感じの作品になってしまう。児童小説でも、今の子供たちは、今流行っている児童小説を読んで育っている。本も、十年前とか二十年前にくらべると、読まれる状況がかなり違う。だから、やはりある程度、今の子供の感覚をもってないとダメみたいである。毎年、一作くらいはこういう生徒作品があるのだが、むしろ書くのが難しいジャンルでもあったりするんだよね。

ただ、この生徒さんに限っていうと、ムリをして子供向けを書くより、大人向けの小説を書いた方が面白いのを書きそうな気がするんだけどな。

そんなわけで、5編の作品指導が終了。いつものように飲み会へ。先生にはまたもムリをお願いして、ライティング講座の作品指導を頼みこむ。ただでさえ、全コース作品がいっぱいあるうえに、9月は、乱歩賞だのパーティやイベントがあるみたいで、講師スケジュールの調整が大変。かなりギリギリいっぱい。でも、これで9月末まで何とか決定。独身でハンサムな小森先生。ライティング講座の生徒さんたちはお楽しみにね。

09/02/2006

今日から始業式です

9月1日(金)
朝から小説講座の事務所。夕方まであいかわらず地味な事務作業。

今日から、子供たちは新学期。朝から大騒ぎである。
あれほど前日から「明日は始業式やで、用意しいや」と言っていたのに、である。

夏休みの宿題? いやいや、中1の息子の場合、それ以前のレベルである。
「ママ、どうしよう。制服がないねん」
「ええっ!? 制服も用意しときや、って、わざわざ昨日、確認したやろ? ほんなら、ちゃんと用意したから大丈夫ってゆうとったやん」
「うん。ズボンはあるねん」
「夏の制服って、あとはシャツぐらいしかないやろ?」
「だから、そのシャツがないねん」
「半袖シャツなら、3枚もあるはずや」
「だから、一枚もないねん」
「なんでないん?」
「知らん」
「知らんて、そんなハズはないやろ。たしか夏休み前、少なくとも2枚は洗濯した覚えはあるで」
「でも、ぜんぜんないねん」
「ないねん、って、それじゃ学校行かれへんやろ?」
「あ、ほんまや。どうしようママ」
「もう、ええかげんにしいや」

先日も、
「アンタ、まさか夏休み中、名札とか生徒手帳、使わんから、どっか行ってもたー、とかゆえへんやろなあ」
と言ったら、
「あ! ホンマや! どっか行った!」
「げっ。あれほど、ちゃんと机の引き出しにしまっときやってゆうたやろ!」
「うわ、なくなってもた。どないしよ」
と泣きながら、3日間あちこちさんざん探したあげく、ゴミばかりがいっぱいでてきて、
(彼はいくら掃除させても、たったの1日でゴミだらけにする。「ゴミの天才」と呼ばれている)、
「やっぱりないわ」というので、一昨日とうとう買いに行ったばかりである(自分のおこづかいで買わした)。

ただ生徒手帳は、私の目の届かないスキをついて、自分でシャツごと洗濯機に一度ほりこんで、びしょびしょにして、さらにトイレにも一度落としたヤツらしいから、まあ、どのみち買っても惜しくない。もはや4月にもらったものとは思えないほど、年代モノ状態だった。だから惜しくないのだが、名札はけっこう高い。しかも名前のプレートは、注文してから一週間かかるので、今日の始業式に間に合わないのだった。

で、タンスを探してもないというので、あわててみてみると、たしかに制服のシャツがない。
しかし、その代わりに、どう考えてもタンスに入れるようなものじゃない「えらいもの」がいっぱい入っているのは、どうしてだ。うーむ。いつのまに。しかし、待て。今はそれどころじゃない。あと10分。

とにかくタンスをさがしまわって、やっと裏に押し込まれたシャツが一枚見つかった。が、なんと汚れの首輪!
げげ〜、1ヶ月半前の汚れかよ〜。
あわててアイロンのスタンバイをしてから、猛スピードで、洗面所でさっと洗って、洗濯機で2分脱水。アイロンでむりやり乾かす。ギリギリセーフで、なんとか中学校へ送り出す。

そうこうしている間に、今度は、小3の娘の声。双子の娘のうち、妹の方は几帳面で、時間割もきっちりするタイプ。前日から学校に持って行くものをちゃんと点検し、制服を靴下もティッシュもハンカチも、きっちり枕元に並べて寝る。だが、双子なのに姉の方はなぜかいいかげんな性格。
「ママ、なんかこんなプリント出てきた」
「なんで今頃。どこにあったの?」
「ええっと、机のウラ」
双子なので、まったく同じ机なのだが、姉の机の上だけがいつもぐちゃぐちゃなのだった。
「ママ、それから、私の通知簿ないねんけど」
「えっ。通知簿は、アンタら早くから渡したら絶対なくすから、今朝、3人分、台所のテーブルに出したばっかりやろ」
「うん。さっきまであった気がするねんけど」
「どっか持って行ったん?」
「カバンに入れたかなと思って、見てんけどないねん」
「子供部屋は?」
「さっきから探してるねんけどないねん」
一方、早くから用意して、優雅に玄関先でハムスターとたわむれている妹が
「そろそろ学校行く時間やで」
「あー、どうしようママ。あ、これ兄ちゃんのや。ママ、通知簿忘れていってるで」
「かまへんかまへん。兄ちゃんは、もう学校にたどり着きさえすればそれでええねん」
「それにしても、私のどこやってんやろ」
「しゃーないなあ、もう。でも、もう学校行く時間やから、とりあえず今日はなしで行き。で、今日、ママは仕事やから弁当用意しとくから、それ食べてからゆっくり探したらええわ。月曜日に持って行ったらええわ」
ほんま、よれよれの始業式の朝である。どこの家庭も夏休み明けは、似たようなものなのか? うちだけか?

実家の母に言わせると、母親の私が子供たちをしっかり見てやらないからだというのだが、うちみたいに子供が3人いると、それだけで注意しなきゃいけないことが3倍である。いや、そういう問題じゃないか。妹の方だけは、あれはラクだからな。あの子だけは時間割もきっちりやるし、いわゆる「手のかからない子」ではある。姉の方は、そもそも連絡帳を学校に忘れてきたから、何を用意していいかもわからんとか言うし。長男は、さらに何倍も手間がかかるしな。だいたい中学生にもなっている息子を、始終監視するのはムリである。

夕方、帰宅して、「通知簿、見つかった?」と娘にきく。
「うん。兄ちゃんが」
「え、兄ちゃんが探してくれたん?」
「ちゃうちゃう。兄ちゃんが学校から帰ってきてから、『あんな、あやまりたいことあるねん』ってゆうてな」
「はあ」
「『目ェつぶって。渡したいもんあるねん』ってゆうて、見たら、私の通知簿やってん」
「ええ? あっ、そうか! あの子、間違えて持って行ったんや! それで、学校に行ってカバン見てから気がついたんか」
「あ、ちゃうちゃう。先生に『あとで教室に残ってなさい』とか言われて、『君、これは小学3年生のですね』ってハイこれって返してもらったんや、って」
「ああ、アホや。最後まで気ィつかんと、そのまま出したんや」
「なんか出席番号が違うからヘンやなーっ、て、思とったらしいのになあ」
「えー、ほんなら、その時点で、普通は気ィつくやろ」
「ママ、兄ちゃんって、ほんまアホやなあ」
「うーむ。アホやアホやと思ってたけど、やっぱりアホやったなあ」
「見つかったから別にいいねんけどな。でも、なんでか私の通知簿、朝見たときより、すごくボロボロになってんねんけど。なんでやろな、ママ」
「知らんわ。そんなもん」
いやはや、新学期である。

09/01/2006

小説における視点の問題(続)

8月31日(木)
午後から小説講座の事務所。コツコツ事務作業。

先日、小説の「視点」の話を書いたら、生徒さんからメールで数件ご意見あり。
けっこう賛否両論である。

なんだかんだで、いくらか補足してた方がいいかもしれないので、もう少し書いてみる。

まず、一番言いたかったのは、こういうことなのよね。
作者が、物語の内側にいようが、外側にいようが、ホントはどっちでもいい。
たぶん大事なのは、読者を「小説の世界」に引きずり込んで、絶対に逃がさないこと。

でも、一般に、生徒さんの書く小説は、読者を物語にひっぱり込む力がおそろしく弱い。
この読者を逃がすってのは、ものすごく怖いわけですよ。だって、小説って、所詮ウソ話だもの。

でも残念ながら、生徒作品は、かなり意識して好意的に読んでも、なかなか「世界」に入り込めない。

その理由。
まず文章表現力が弱くて、何を言っているのかよくわからない。文章がだらだらやたら長い。なかなかイメージが伝わって来ない。キャラクターの性格、行動がよくわからない。情報が不足している、または過多である。書かれている内容にしばしば矛盾がある。さらにストーリー自体に牽引力があまりない……etc.

生徒さんの作品は、まだ書き慣れてないからホント仕方ないのよ。うん。だから最初のうちは、仕方ないのね。

ただ、一般の読者なら、こういう作品は、お金を出して、時間を費やして読もうとは思わない。
だから、浮気な読者のハートに何が何でも食い込まないとダメなのね。で、「視点人物」は、そこから世界を見せてくれる。案内役になってくれる。
というわけで、読者にとっては、とっても便利な存在なのよね。だから、使った方がいいんじゃないのかなって。うん、それだけ言いたかったのよ。クールな文章でもいいですよ。いや、ホント、なんでもいいんです。

あと、混同している人が多かったので、追加。「神の視点」について。
「多視点」と「神の視点」は、違う、と私自身は考えている。
だって、「神の視点」なら、神のところに視点がずっと固定されているような気がするのね。
(どこかわからないけど、たぶんずっと上の方)

だから、たとえばあちこちの登場人物の内部に入ったような描写をしてたとしても、それは神だからいい、と。だって、神はすべてを見透かすもんだから。ただし、神は常にすべてを見透かすわけですよ。そして、全能にも見えるほどの絶大な愛と知識を持ってるの。

つまり「神の視点」で書くなら、「神」に視点を固定してほしいのよね。そこにちゃんと固定して(だから、どこかは知らんけど、ずっと上の方だってば〜)
それから、圧倒的な知性は欲しいよね。あと、すべてのモノと人間に対して、鋭くてかつ純粋な観察力も。
まあ、作者自身は人間なんだから、全知全能である必要はないけど、やっぱ、どうせ書くならかなり洞察力は欲しい。

あと、こういう意見もあり。
「神の視点で書いた方がわかりやすいし、物語が面白くなる」。

うーむ、そうなん?

確かにそういう作品もあるとは思うが、生徒さんに限っていうと、それで面白くなる確率は、かなり少ないと思っている。だから、ホント絶対やるなとは言わないけど、(万に一つの可能性だろうがなんだろうが、それに賭けるのは本人の自由だ)避けた方が無難ではないかと。
実際に生徒さんの作品を見る限り、それが一度も成功例がない。実際に見る限りでは、失敗例ばかりだから、たぶん難しいんだろうと思うんだが。

どうもやっぱり、みんなの「一視点で書くのはしんどい」というのがホンネなんじゃないのかなあ。でも、ほら、それって、どの作家さんも一緒じゃない? で、視点が変わらない方がやっぱり読者はラクなんですよ。生徒さんの作品って、たいていその視点が変わったところで、「あれれっ?」って混乱するもの。こうなるとやっぱり作者の「書きやすさ」を優先して、読者の「読みやすさ」を犠牲にしてる気がするけどね。

それから。
「多視点で書く場合、一行あけをすれば、視点を切りかえてもいいんですよね」という意見あり。
(もしかすると講師の先生に注意されたのかもしれないけど)でも、それって「一行あけたら、切りかえてもいい」のではなくて、「どうしても切りかえるのなら、せめて一行あけるなりして、はっきりわからせてくれ」ということではないかと。

つまり「一行あけ」したから視点を変えてもまったく問題がないか、というと、それは全然ちがっていると思う。だって、読者にはその時点で、何のために「一行あけ」しているのかはわからないわけだから。たとえ一行あけをしたとしても、早急に、かつスムーズに視点を切りかわったのをわからせてくれないと困るわけですよね。

いわゆるプロの作家さんの小説を見る限り、そこんところは皆はっきり意識して、うまく工夫されている。見てもらえばきっとわかると思うが、たとえば、わざとキャラクターが男女になっていて、視点が変わったのがすぐにわかるようになっているとか、読者の関心を引き込んでおいて、そのまま読者の意識がその先の人物に行くようにするとか。最初の一行、せいぜい2〜3行でパッとわかるようになってるよね。

どっちにしても、視点を変えるってのは、たぶん「理由があって、それが小説のアイデアとか内容にどうしても不可欠」だからで、それは「どうしても必要があって変えないといけないから仕方ない」のではないかと。むろん他にもいろいろ条件はあると思うが、短編か長編かとか。

とりあえず、私が言いたかったのは、
「これなら一視点で書けるはずだし、おそらくそうした方が面白くなるはずだし、その方がずっとラクに成功するはずなのに、なぜわざわざ『あえて多視点で書いてみた』りするのかがわからない」
ってこと。
わざわざわかりにくくしてどうするんだ。いや、ホント、面白くなるならいいけど。視点を設定するってのは、読者を感情移入させるためには、ものすごーくカンタンで効果的な手段だと思うんだが、どうしてそんなに使いたがらないのだ。不思議じゃ〜。小説の読む面白さって、全く知らない世界を別の人間になって体験する楽しさでもあると思うんだが。

思うんだけど、ストーリーだけを読むなら「あらすじ」だけだっていいのに、なぜわざわざ小説にするのか。その方が読んでいてずっと楽しいからじゃないのか。

ま、でも、ファンタジーとか時代小説を書く生徒さんの中には、ホントはあらすじだけ書いていたい、みたいな人、けっこういるんだろうなあ。

どんなに言葉を費やしても、伝わらないってこともある。(ま、このブログなんかもそうかもしれないけどさ)ホントに伝えたいことは言葉じゃないことかもしれないけど。

でも、私は生徒さんたちが好きなので、それでも言わずにはいられないことだってあるのだ。だって言葉しか頼れるものがないし、伝わることを信じるしかないもの。それに、たとえ日記だろうが、何だろうが、たぶんどんな言葉も、きっとどこかの誰かに読ませるために生まれてきている。まして小説だぜ。あなたの世界に、私は入りたいのだ。

だからさ、やっぱ、大事にして書こうよ。

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