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06/30/2006

他人に興味のない人々

6月29日(木)
午前中、小説講座の事務所。午後から外出。

木曜日は、プラごみの日。生ゴミは、週2回だけど、どうしてこんなにゴミが出るのかな。5人家族だから、高齢家族も多いこの地区ではかなり目立つ。なるべく出さないようにしているはずなんだがな。

専門学校で、新聞を使った実習をやるので、自宅の古新聞を整理する。新聞からアイデアを探すという実習なので、たくさん必要なのだった。この実習をやってみると、マンガコースの学生たちの中は「新聞なんか読んだことがないから、よくわからない」「どの記事にも何が書いているかわからない」という人がけっこういる。たぶん2〜3割くらいは、マジで新聞を読んだことがないようだ。

まあ、毎日、新聞を読む人にはピンと来ないだろうけど、新聞を読んだことがない人には、このように授業でムリヤリ読ませても、新聞の読み方がさっぱりわからない。どうやらほとんど読んだことがないので、まず段組みの読み方がわからない。上から下へ、読めないのである。もちろん見出しと小見出しを選んで、うまく目で追うのもできない。新聞は「要約」されているので、よく使われる漢字などがあるのだが、その意味がわからない。それで気がついたのだが、ただ単に「読む」だけでも、あれはあれで、けっこう技術がいるものらしい。

毎日、読んでいる人ならそれくらいの「訓練」ができているのだが、なにせ生まれてからほとんど読んだことがない人だとそれはできないのである。「毎日、新聞を読む」というのは、今ではかなり限られた層らしい。ただ、読み方の問題はできなくてもいいとは思っている。一番困るのは「わからない」よりも、「何にも興味がない」という方で、かろうじて読めるのはスポーツ欄くらい。スポーツにも興味のない人さえけっこういる。

小説講座と違って、マンガコースでは、8割くらいが「ファンタジーが書きたい!」という人ばかり。なので、「現実にはまったく興味がない」らしい。ただ、たしかに趣味で書くならそれでもいいんだろうけど、プロ志望なら「新聞もまるきり読めない」(読まないと読めないとは違うが、この場合、読めないのである)というのは、たぶんかなり不利ではある。

さすがに自分たちも不安に思うらしいので、あとで「先生、やっぱり新聞は毎日読まないといけないんですよね」とか、言ってきたりする。でも、「読まなくちゃいけない」理由はとくにない。私は、そもそも「……じゃなくちゃいけない」というのは、あまりないと思っているので、別に新聞を読まなくてもいいと思うのである。ただ、プロになるには、たぶん「不利」だろうなあ、とは思う。「やらなきゃいけない」というよりは、たぶん損得の問題だ。読まないのはソンだろうとは思うんだがな。ファンタジーでも、新聞は便利だと思うがな。政治欄だろうが、経済欄だろうが、世界設定が違うわけだから、もしかすると、ぜーんぶそのまんま書いても、面白いネタになると思うんで、むしろファンタジーの方が「新聞はアイデアの宝庫」かもしれないじゃん。経済欄に「画期的な新製品が発売された」とあれば、それは魔法のアイテムかもしれないし、ファンタジー世界だって、どこかに反政府組織とかテロリストがいて、攻撃をしかけてくるかもしんないでしょ。政治欄だって、家庭欄だって、関係なくはない。魔法使いやトロルたちの世界にも、政権争いだの、家庭内のごたごたなどがあったりするかもしんないじゃん。もちろん宇宙人にも、受験勉強があるかもしれないし。

まあ、新聞が実際にネタになるか、ならないか、という問題はさておき、一番の問題は、その本人が「世の中のことに、あまり関心がない」という点である。世間のことに興味をもたない人が書く作品は、どこかそういう根本的な原因があって、そういった作品には世間の人は興味をもたない。作者本人が「世間に興味がない」ので、世間の人がそれを読んでもやっぱり興味がもちにくい。一見、同じように「ファンタジー世界」を描いているように見えても、そういう共有する感覚がないからである。作品の側に、何かしら「拒絶するような感覚」がどこかに見え隠れして、結果的に「何が面白いかわからない」ことが多い。

たとえファンタジーみたいな魔法世界だろうが、SFの異次元だろうが、読者は、ロボットやモンスターではなくてやっぱり人間だもんな。そりゃ、現実設定じゃなくて、わざわざ異世界の話を好む人はそれなりの好みがあるので、妙にリアルなネタが入っているのもイヤなのだが、一方それはそれで、どういった話だろうが、それが現実感覚とまったく切り離されたものだと言い切ることもできないわけだし。

そもそも作者と読者が「世界観」を「共感」するというのは、どういうことなんだろうな。ある世界を表現するのに、文章を使うにしろ、マンガに描くにしろ、たぶんそれぞれが「現実的な感覚」から「転用された感覚」を共有しているのじゃないかと思うのだが、違うのかな。小説やら、映画やら、マンガなんぞ、どうせウソっぱちの世界なのに、なぜか私たちはそれを読んで、主人公の悩みや苦しみに心を痛めたり、泣いたり怒ったり、笑ったり。ウソっぱちな世界にも関わらず、ずっと真面目につきあったりするのである。少なくとも読んでいる間だけは、ウソがウソに見えないという魔法は、作者がおこす奇跡なんだけど、その魔法にもちょっとはタネがある。たぶんそのむこうに何か「ホント」があると感じるのは、「ウソだけど、ホント」だからで、きっと現実感覚がそこにあるんだろうな、という気がする。プロ志望なら、最初にまず獲得すべきなのは、技術よりもシンパシーかもしれないのにね(もちろん文章技術や作画技術とは切り離せないもんなんだろうけど)

ま、とくに若い世代だから、まだ関心ないのかもしれないけど、愛だとか、友情だとか、驚きだとか、おかしさだとか、笑いだとか、恐怖だとか、不安感とか、孤独感とか。そういうのは、たぶんきっと自分だけじゃなくて、みんなあるはずだと思うんだよね。国際面とか、社会面とか、そういうのは人に対する興味とか、好奇心の問題じゃないのかなあ。だから、通じるものがあるはずだと思うんだが。

小説やマンガや映画など、何かそういう表現の世界でプロ志望なんだったら、自分以外の人に興味をもつというのは、それこそ、最初に一番必要な「基本的な能力」なんじゃないかと思うのよね。だいたい「他人にも世間にもほとんど興味がない」というのは、根本的なコミュニケーション能力に欠ける人が多い。まあ、小説家志望やマンガ家志望というのは、たいてい外交的なタイプじゃない場合が多いから、人づきあいが苦手という人もけっこういるし、口べただとか、人前に出るのを好まない人も多い。でも、それにしたって、他人に興味がない、というのとはまた違う。作品を作って他人に読んでもらうってのも、それこそ「コミュニケーション技術」そのものなんだし。やっぱ、「人間への信頼感」とか「共感性」は必要だよな。

ま、新聞なんかムリに読まなくてもいいけど、ちょっとでいいから、世間のことや他人にも興味をもっていただきたいという気がする。若い人の中には、どうも自分のコトばかりに関心があって、まるで一日中、ずっと鏡を見ている魔女みたいに、自分の作品に閉じこもろうとする人がまれにいて、ちょっと残念になる。彼らが他人に興味をもつのは「私が一番キレイ」という時にだけ。当然ホメてもらうだけに他人が必要なのであって、それ以外には、他人を必要とはしない。たぶん何かしら「臆病」だからそうなるのだろうけど、私なんかはそれを見ると「ああ、もったいないなあ」と思う。作品のどこかに「人間不信」とか、「どうせわかってもらう気はない」というのがにじみ出ている。そりゃコツコツ一人で書いていたら、「わかってほしい、でも、どうせムリ」なんて思っちゃうかもしんないけど、それはそれ。作者があきらめちゃいけないのである。あきらめたら終わりだわさ。

いくら「愛されたい」と思っても、他人に興味をもたない人が愛される確率はかなり低くなる。なぜなら、人というのはまず自分が「愛されている」「理解されている」と思えば、それから相手を理解する習性があるからで、つまり世間に認められたかったら、まずは作者から。ただし、注意するのは、いきなり「見返り」を要求しないことである。いきなりすぐ「見返り」を求めるような愛は、ホントの愛とは言えないんだから。

06/29/2006

調べもの不漁、書店は豊作

6月28日(水)
午前中、小説講座の事務所。午後から外出。

午後から、図書館。少し調べもの。ただし、あまり収穫なし。調子の悪い時は、悪いものだなあ。ツキがあるとかないとか、気にするのは、漁師や興行関係者だけじゃないのよね。古本屋めぐりではないのだが、「調べモノ」にも大漁の日と不漁の日があるのだった。後日しきりなおし。

帰宅途中、書店に寄る。こちらは「獲物」が多すぎて、タマ(持ち金)がぜんぜん足りない。しかし、自転車だったので、限界ぎりぎりまで買う。紙幣を全部使う。え、カード? 私は、本屋ではカードでは一切支払わないことにしてます。ええ、危険すぎますから。


06/28/2006

今週末の専攻科は、大量の長編作品指導

6月27日(火)
午後から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

1時から丁稚どん、3時から文章教室のOさんが来館して、せっせと事務作業。といっても、印刷機は一台だけなので、印刷だけは、おもに丁稚どんが専攻科の大量の作品を相手に、汗をふきふき大奮闘。先日6月24日に講義があったばかりだが、7月1日も続けて講義があり、今度は長編作品。さすがに枚数が多いから、講師の堀先生のサイトで日記を見て、冷や汗がタラタラ。申し訳ないのだが、これがまた、堀先生以外に頼めそうにないような作品が多くて、かなり悩んだ末にお願いしてしまった。専攻科のいつものおなじみメンバーばかり。堀先生は、生徒さんたちの特性も大変よくわかっていて、指導も丁寧だから、ついお願いしてしまうのである。しかし、一度も千枚は、いくらなんでも多いですよね。かなり反省しております。ああ、冷や汗。

専攻科に関しては、現在のところ、星組(プロ志望クラス)は枚数無制限なので、長編がけっこうたくさん集まる。今年の専攻科は、みんな300枚、400枚、500枚、長編がバリバリ提出されているのである。去年までとエライ違いである。まあ、こんだけみなバリバリ書いていたら、誰か一人と言わず、数人はデビューしてくれそうである。遠慮はいらないから、いっそ全員一斉にでもいいのだよ。ほんでもって、私はそれが充分ありえることだと、ホンキで思ってんだけど。そして、きっとあの中華屋は、後世には「作家のトキワ荘」と呼ばれるのである。これが「トキワ荘化計画」である。どうだ、すごいだろう(実現すれば)

けど、担当者としては、みんな目に見えてうまくなってくれるので、たいへん嬉しい。多少、スケジュール調整が面倒だけど、堀先生をはじめ、たくさんの先生がこうしてかなり協力してくださるので、おかげさまで長編指導もできるわけで、たいへん有り難い。あいかわらず、ブログでも生徒さんへボヤいてることもあるけど、基本的には愛のムチ、というか、期待があるだけで、実際には(今はとくに)いい生徒さんばかりだし、講師にも恵まれていて、ありがたい限りである。経営はキビしいけど、それは文句を言っても仕方ないかも。今のところ、今年はかろうじて、私の人件費も捻出できてるし、次回の生徒募集までは確実。ご心配なく。

10月の生徒募集のための日程調整などを開始。ライティング講座は、春の生徒募集は、土曜昼の開講だが、秋募集は、平日夜コースの予定。まだ曜日が決まらない(たぶん火曜か水曜の夜)。教室調整も早くしないと。

06/27/2006

小説とは関係のない休日(DVDを見るヒマも)

6月26日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

事務所は休日だが、あいかわらず終日お仕事。朝から外出。夜、10時半帰宅。
近所のレンタルビデオ屋で、DVDが半額だったので、めずらしく4本をレンタル。でも、これだけ忙しいと一週間で見られるのかかなりあやしい。本は、ある程度、細切れの時間でも読めるんだけど、映画は、まとまった時間がないとなあ。考えたら、本って、ホント便利な媒体だな。

06/26/2006

賞金稼ぎとプロ作家志望

6月25日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

先日、飲み会で生徒さんと話していて、ちょっと気になることがいくつかあったので、それをちょっと。公募についての話。基本的に、生徒さんが小説のコンテストに応募するのは、腕試しにもなるし、応募自体はタダでできるので、大変いいことだと思っているのだが、小さな賞をいくらたくさん受賞したからと言って、プロ作家になれるとは限らない。プロデビューができる新人賞もたくさんあるが、たとえば地方の自治体などがやっている小さな賞だとか、企業が宣伝広報の一環として実施しているような賞は、直接的に出版を伴わないことがほとんどだから、こういうのは、プロ作家デビューにはならないのである。もちろん、こういう小さな賞でも、腕試しにはなるし、おこづかい稼ぎもできる。だから、「初心者」だったら、こういう賞に応募することを推奨しているのは事実である。小説講座の生徒さんも、レベルはいろいろだから、こういう小さな賞で自信をつけた方がいいタイプもいるし、こづかい稼ぎになるのもある。締切があるので、まずは一作二作と書くクセをつけたり、賞金が動機付けにもなる。だから、できるなら色々応募した方がいいのである。

ただ、こういう賞は、たいてい自治体や企業の「広報活動」のために実施されているものなので、いわゆる出版社が実施している新人コンテストとは、基本的にはまったく違う。実は、小さな賞なら、毎年、あちこちで全国では百以上もある。目的はたいてい「広報活動」だから、できるだけ受賞者もたくさん出ている。多い賞だと佳作だけで数十人もの人が受賞する賞だってあるのである。しかも、自治体や企業にとっては、たとえ多少つまらなくても、心温まる話だとか、無難な表現の作品を受賞させる傾向がある。つまり意地悪な言い方をすると、面白い作品よりは、どっちかというと、見た目にキレイなものが入賞しやすいものなのである。だから、無難でそれなりのレベルがあれば、かなり受賞しやすいと思った方がいい。反対に、めちゃくちゃ面白かったりしても、むしろダメだったりするのである。適当に整っているもの。無難なものが求められる場合が多い。面白いもの? もちろんそれにこしたことはないが、主催者はそんなものはさほど望んでいないかもしれない。

公募マニアと呼ばれる人の中には、こうした賞を中心に活躍する人がいて、インターネットをのぞいてみると、こうした人が自分のサイトで受賞の数を誇っていたりする。ちょっとネットをのぞくだけでも、かなりの数の人がいる。地方の自治体や企業から見れば、こうした公募ファンがいるおかげで、そこそこ応募総数も増えて、作品のレベルもあがるわけで、有り難い存在である。

だけど、こうした賞にたくさん受賞をできていれば、いつかプロになれるか、というと、必ずしもそうでもない、と私は思う。

理由は簡単で、まず最初に「シロウト向けの小さな賞の作品など、プロの編集者は、まずほとんど読むヒマがない」のである。いくらたくさん受賞したからと言って、たいていはあまり関心をもたれない。まともな出版社の編集者というのは、けっこう忙しいのである。数人の作家を担当しているし、それだけでかなり忙しい。自分が関係する作家の著書をチェックするだけでも大変だし、出版をともなう新人賞だって毎年いくつもある。それだけの数の新人作家が毎年後から後からデビューしているので、それだけでもいっぱいである。

だから、いくら小さな賞に応募して、受賞歴がいっぱいあっても、それだけで作家になれるか、というのはちょっとわからない。考えてみればわかると思うが、「奥さま料理コンテスト」に受賞したからといって、プロのレストラン経営者の目にとまって、「ぜひあなたに、うちの店のシェフをまかしたい」などと言われるなんてことは、まあ、まず起こらないし、起こるとしてもたぶんかなりまれである。というか、まずほとんどないと思う。主婦がつくる料理とプロのシェフ作る料理は、やっぱりどこか違う。もちろん料理コンテストで腕試しをして、料理研究家になったりする主婦もいなくはないが、どっちかというと料理教室の運営能力だとか、なにかしら別の要素も大きいはずだ。そこそこ食べておいしい料理と、お金がとれる料理(商品)とは、どこかしら違う。

だから、たぶんプロの編集者だったら、たくさん小さな賞をとったからと言っても、それが即、プロ作家で通用するとは考えないはずである。

ところで、うちの生徒さんの例を見る限り、こうした小さな賞に応募するのは、初心者の頃はいいが、ある程度たったら、むしろ辞めた方がいいと考えている。できれば1個2個、受賞した時点でやめて、出版をともなうような出版社が実施する新人賞にしぼった方がいい。とくにプロ志望の生徒さんの場合は、である。プロ志望じゃないのなら、別にいいけど。

理由としては、まず最初に言ったように、こうした小さな賞は、いくつ受賞しようが、編集者の目にとまることは少ない。大手出版社の優秀な編集者は、めちゃくちゃ忙しい。サイトで小説を発表したって、編集者の目にとまるというのは、あまり考えられない。絶対にないとは言えないが、確率的にはかなり低い。もし、コンタクトがあるとすれば、自費出版系の出版社の編集者(営業)くらいかもしれない。

また、こういっちゃなんだが、こうした公募で受賞を続けたり、サイトで小説を発表しているうちに、よくない傾向にハマる人がけっこういるのである。なんか独特の傾向があるように思う。まず短い作品はうまいが、長い作品はうまくない。そして、文章がうまいが、内容が無難で面白みがなくなるのである。そして、なんというか、「面白い」
というよりは、「ほら、うまいでしょう」とわかるような書き方になっていく。実をいうと、生徒さんの中には、技術的にうまくなるに従って、作品があまり面白くなくなるタイプの人がいるのだが、そういうのとこういう人は似ているようで、なんだか微妙に違っている。なんというかわからないが、こういうタイプは、それよりもツライ。なんだか「これぐらい書いておけばいいでしょう」みたいな内容になっていくのである。

悪く言うと、どこか読者をナメてかかっていくようになる。たしかに、それなりにうまい作品ではある。うまいが、つまらない。面白いか、と考えると、ちょっと違う。早い話、「この作品に金を出したいほど好きか」と聞かれると、「まあまあ、うまい作品ですけどね。でも、私なら買いませんね」という感じに仕上がってくるのである。ヘタをすると、「どうです。さあ、うまく書けてるでしょう」というなんともいえない臭いが、プンプン鼻につくようになる。

サイトや同人誌で書く人は、どこか作品が広がらずにどんどん閉じてくる傾向があるのだが、公募マニアで、小さな賞で多少受賞を重ねるような人には、なぜだかそういう傾向があるみたいである。もちろん私の個人的な感想なので、本当のところはどうなのかわからない。けど、そういう危険性はある。別にそれが悪いと言っているわけではないけど、もし小さな賞をいくつか受賞しているにもかかわらず、プロになれない人がいるとしたら、そういう状態かもしれないな、と私は思う。

公募の主催者や選考委員ではなくて、本を買う読者は、その作品が「うまいかどうか」はぜんぜん求めてない。「興味ある作品」か「面白い作品」だから買うだけである。プロの編集者も、商売で本を売っているわけだから、そのあたりは充分にわかっていると思う。だから、あちこちの公募では入賞しているのに、なかなかプロ作家になれない人が仮にいるとすれば、それは「一見うまいかもしれないが、商品としては売れそうにない」と判断されているのかもしれない。でも、もしかすると、その原因は、妙なクセがついているせいかもしれないのである。

一般の作家志望がどのように考えようが、私にはどうしようもないのだが、とにかく生徒さんに関しては、新人賞への応募は推奨するが、小さな賞に関しては、さほど推奨してない。ただし、むろん初心者の人になら「ぜひ応募しようね!」と言う。でも、専攻科で、真剣にプロ志望の生徒さんに関しては、まず言わない。小さな賞に応募する作品を書くよりも、新人賞の応募作を書くのが忙しいはずだし、たぶんそれだけで、いっぱいいっぱいだからである。

小さな賞をいくらとっても、それだけではプロデビューができないのは「世の中がおかしい」のではない。むしろあたりまえだと思う。この世に作家志望なんて、捨てるほどいる。またサイトで発表するのはいいが、「無料で読む読者」にアレコレ褒められて、それに合わせて書いているうちに、文章がアレてくることがある。実際、生徒さんの場合には、せっかくうまかった人が急激に変化してしまうことがあったので、サイトでの作品発表も諸刃の刃である。要注意。どうもサイトで多少ウケてしまうと、そのうちそれで満足してしまうらしい。で、講師の話なんかどうでもよくなってくるのである。もちろん、とくにプロ作家志望じゃないんだったら、それでもいい。好きな作品を好きな人に楽しく読んでもらっているんだろうから。いや、その方が、人生しあわせかもしんないけど。

どんな小さな賞でも、受賞するのは嬉しいことなんだから、本当はイロイロ応募するのは楽しいはずなんだけど、どういうわけか、人間というのは、何度か佳作でもとったら、味をしめてしまうらしいのである。こうしたコンテストは、出版社が主宰する新人賞などと違って、たいてい短い作品である。こうした短い作品で、そこそこ数万円とか、おこづかい稼ぎができるとわかったら、長い作品なんか書いてられないらしいのである。また、長い作品を書いたとしても、どうにもなんだかツマラナイ作品になっていく。これは不思議なのだが、ヘタに小さな賞で受賞すると、人間は必ず過去の成功法則に頼ろうとするからなのかもしれない。もちろん受賞はめでたいんだけど、それには、こういう怖さがある。自分は文章を書くのがうまいと思い込んでしまうのかもしれない。

まして、こうした人の中には、「自分はうまい作品を書けるのに、なかなかプロになれない」のは、「コネがないからだ」とか「わかってくれる編集者がいないからだ」というようになる人がいる。まあ、わかってないのが、どっちなのかは知らんけど、こういう症状が出てくると、もはや私には救い出す方法がない。たいていここまで来ると、そのうち「プロの作家でも、どうせたいした作品を書いてないのに」というようになり、講師の先生方のことも「ほとんど読んでないけど、どうせたいした作品書いてないんでしょう。そんなに有名でもないし」なんてことを言い出すようになる。そうはいっても、うちの先生たちは、みなプロ作家だし、みんな十数冊、商業出版をしているちゃんとしたプロの作家さんたちであって、一方、そういう自分自身はまだ一冊も出してないのに、である。

そして、たいてい、そういう人は、そのうち小説講座を欠席するようになる。正直、過去の卒業生の中には、二年に一人くらいの確率で、ほんの数人だけど、そういう人がいた。そういう人は、必ず来なくなるから、その後、どうなったか私は知らない。ただ、まだネットでは書いていたり、たまに公募に応募しているくらいだから、まだプロ作家にはなってないのだろう。もうプロになる気もないのかもしれないけど。

思うのだが、作家志望の人というのは、けっこう微妙である。どこか自信過剰であって、同時にどこかいつも自信がない。だから、サイトや、同人誌などで、ホメてもらうと跳び上がるほど嬉しいだろうし、まして小さな賞でも受賞なんかしたら、ホント嬉しいはずである。気持ちはよくわかるつもりである。しかし、書くことは怖いことだから、やっぱり不安には耐えていくしかないし、どうせプロになって、どんな大作家であっても、たぶん不安なのはずっと不安で、死ぬまでそれは仕方ないのである。小さな賞などで佳作などに受賞して、その成功体験にハマるというのは、うちの講座でも、しばしば見たりする。たとえ佳作でも、それなりに書ける人であるのは確かなので、そういうのは、プロ志望なのだったら、かなりもったいない話である。もちろんプロ志望じゃなきゃいいし、ハマって悪影響がなければいいとは思うが、人間というのはやっぱり弱い。そこそこの作品をちょいちょいと書いただけで、佳作なんかとって、賞金をもらえたりすると、すっかりハマってしまう。デビューをめざして新人賞にも応募するけど、それもまた「ちょいちょいと書けるもの」と思い込んでしまう。なんたって面倒だから、たぶん自分の手を汚さなくなってしまうのである。

だから、賞金稼ぎになるなら別だが、もしプロ志望なのだったら、一度か二度、受賞したら、あとはデビューをめざした方がいいんじゃないかな、と思うんだけどな。もちろん、人によるんだろうけど。賞金稼ぎが悪いわけではないと思うけど、さあて、どうなんだろうな。

06/25/2006

作家になるのは、金もうけのためか

6月24日(土)
朝から小説講座の事務所。午後から「ライティング講座」。夕方からは、専攻科。講師は、草上仁先生。

文章教室の総合コースである「ライティング講座」。本日は、文章表現のお勉強。今日は「校正」がテーマ。初心者の人では、「推敲をしなさい」と言われても「何をどうしたらいいのかわからない」という人がけっこう多い。先週は、似たような意味を表わすにも、いろんな表現の方法がある、とか、構成を見直すことを勉強し、今回は、どうやって校正をするかをカンタンに勉強する。

まあ、校正といっても、1〜2時間しかないから、どのみち詳しくはできない。でも、知っているか知らないかでは大違い。最近、文章教室や小説講座でも、メールやサイトで文章を書くのが好きになったなどが多く、こういう人の中には、辞書を一度もひいたことがない人がけっこう多い。手書きと違って、ワープロだと辞書を使わなくてもなんとなく書けてしまう。だが、その分、完全な「勘違い」をしていても気がつかない人が多いようで、漢字の間違いが多い。同音異義語なんか、最初は、ワープロの打ち間違いだろうと思っていたら、本人がそう思い込んでいたりすることもある。こういうのは、文章のレベルではなくて、「日本語の問題」なんだけど。うちの小説講座は、プロ養成なので、こういう細かい文章の書き方の授業はしないのだが、ライティング講座は、「文章教室」系の初心者クラスなので、文章を注意して読んだり、辞書を引く訓練などもするのである。

夕方は、専攻科のクラス。最近、ずっと長編が続いていたが、今日の講義は、めずらしく短編指導が中心。講師の草上仁先生には、「今回はちょっと少なめですね」と言われてしまった。専攻科にしては、やや少なめ。草上先生には、3月に9期の前期指導、23編を一度にやってもらったりしたので、それに比べればかなり少ない。短編だし、作品数が多い分、出席率もかなりいい。授業も、わかりやすく丁寧な指導で、かなり盛り上がっていた。草上先生は、いつも作品へのコメントを表にしたものを持参される。本日もA4にびっちり細かい文字で印刷されたものをコピーして配布。うちの小説講座の講師は、ほとんどの人がプロの専業作家なので、兼業されている人はかなり少ないのだが、草上先生は、会社勤めのかたわら、毎年、本もあれこれ出している。一体どこにそんなヒマがあるんだろう。すごい人である。

講義後、いつもの中華屋で、飲み会。講師を囲んで二十数人、にぎやかな専攻科である。別の講師の先生も合流してきて、ビールを飲みながら、いろいろ話す。ある一人の生徒さんとは、かなり時間をかけて、いろいろ話をする。プロ志望の生徒さんなのだが、ちょっと勘違いしているのではないかと思われることがあって、実は、私も前から時々気になることがあったのだ。

しかし、どういうわけか、こんなふうな生徒さんに限って、なぜか自分の態度のどこがそんなふうに思われるのか、本人はよくわかっていないことが多い。まあ、自覚がないから、平気でそういう発言ができるのかもしれないけど。

さて、こういう場合、どうやって説明していいのか、正直、私にはうまい解決方法が見つからない。「ああ、わかってないなあ」とは思うけど、さて、どうやって説明していいのか、いつも困る。どうにも考え方がまったく違う、なんだか、あっち側の世界の人、という感じがしたりするんだけど。

ただ一つだけ、私に言えるのは、たぶん作家さんというのは、完全に100パーセント、お金のためだけに作品を書く人はいないのである。もしかすると、きれいごとに聞こえるかもしれないが、プロの作家にとっての、プロ意識というのは、おそらく金をとるかどうか、というのは、本来ではないのである。まあ、もちろんプロだからお金はもらうわけだけど、読者を喜んでもらうことが重要なのだと思う。おそらく読んでもらう以上、ぜったいに面白かった、よかったと思ってもらいたいと考えて書いている。たぶん読者が支払った金額、その分以上に、モトをとってもらいたい。作品を買った人が「ああ、面白かった」と思ってもらうために書くのであって、基本的にはどんな手段も、どんな苦労も、そのためなら少しもいとわない人たちなのである。まあ、プロ根性というか、それがプロとしての意識なのであって、そこが一番シロウトと違うところである。まあ、そのためにどんな努力をしているか、どっちかというと見せない作家さんも多いし、まあ、仕事なんだからちょっとくらい苦労するのはあたりまえだと思っているのかもしれないけど、とにかくパッと見はわからないかもしれないけど、プロ根性のない作家さんなんて、ほとんどいないと思う。プロ志望じゃないのなら別にいいけど、もしプロ志望なら、それくらいはわかってほしい気がするんだよねえ。

もちろん兼業作家だって同じ。プロとして仕事をする以上、二足のわらじかどうかは別で、プロ意識は強くあるのである。うちの講師を見る限り、むしろ兼業作家の方が、何が何でも締切などを厳守されていたりする。生徒さんなどは、ちょっと仕事が忙しいからとすぐに言い訳をして、作品を書かなくなる人が多いのだが、サラリーマンと兼業する方がよほどプロ意識という「覚悟」がないと続かないと思う。

でも、作家志望の人の中には、どういうわけか「ただ作家になりたい」とか「金を稼ぎたい」という意思だけがやたら強い人がいて、「小説を書いて、みんなに喜んでもらいたいんだ」という気持ちがあまり感じられない人がたまにいるんだよねえ。

けど、商業出版は所詮サービス業だと思うのね。だから、まずは他人を喜ばせたり、面白がらせてナンボなんだと思うんだけどね。お金だって、誰が出すかと考えれば、そりゃ読者が払うわけだもの。お客さんは面白いものに対しては、お金はたぶん喜んで払ってくれるありがたーい存在である。商業出版は、「本代」という形で、金を払ってもらうわけなので、そういうプロ意識はあった方がいい。まあ、なくてもできるんなら問題ないけど。

さて、いろんな話をして、一応の説明はした気ではいるのだけど、はたしてどこまで理解してもらえたか、よくわからない。ただ、時々ふと思うのだけど、どうしてプロ志望と言いながら、生徒さんは読者や先輩作家に対して、どこか何かしら甘えた感じ、ナメた感じがする時がある。とくに、それなりにうまく書けるようになった生徒さんほど、なぜか要注意なのである。なんでかわかんないけど。でも、なんでかな。「志」の問題なんかな。

06/24/2006

文章はうまくなる、アホは変わらず

6月23日(金)
午後から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

「文章教室」のクラスの作品集を読む。初心者ほど上達は目に見えて早いものなのだが、わずか3ヶ月で、みなこれだけうまくなっているのはスゴイ。初心者クラスは、これがあるので楽しいなあ。ぐんぐんうまくなる。やはり人に作品を見てもらったり、多少の指導をしてもらうだけで、かなり変わるのだ。これが、上級者だと「停滞」したり、たまに「後退」しているように見えることがあるから、担当者もちょっとイライラすることもあるけど。まあ、原因がわからなかったり、わかっていてもなかなか直せなかったりする部分だったりするから仕方ないんだけど。でも、本人が一番イライラしているはずだしね。

夕方まで仕事をして、帰宅。自宅で、夕食の支度をしていると、電話が鳴る。中学校の息子の担任からである。
「教室にカバンが残っているのですが、おたくの息子さんのではないでしょうか。中を見ると、弁当箱なんかもありますし、今日は金曜日ですから、連絡させてもらいました。校門を閉めますので、急いで取りにきてください」
はあ、カバン? 目の前で、のんびりおやつを食べている息子に聞いてみる。
「カバン忘れてるって……」
「え? ……あ、あ、あああっ!」
「先生が、校門を閉めるから、今すぐ取りに来なさいって」
「じゃあ、行ってくる!」
と、あわてて自転車で走って行く息子。小学校の時には、ランドセルが空っぽとか、アホな忘れ物は、しょっちゅうだったが、まさか中学でもコレをやるとは。サブバックだけ持って帰ったらしい。しかし、来週の木曜日には、期末テストである。なんでカバンなんか忘れて帰るんかな。信じられん。

しかし、担任の先生のおかげで、4月に買ったばかりのまだ新しい弁当箱は「酸っぱい異臭」から救われたのだった。もう教科書なんかどうでもいいけど、弁当箱は大事だよな。
けど、ホンマ、ええかげんにせえよ。


06/23/2006

作家志望も、お天道様に恥ずかしいぞ

6月22日(木)
午前中、小説講座の事務所。午後から外出。

毎週、木曜日の朝は、NHK教育の「ライオンたちといんぐりっしゅ」。図書館に住むライオンの家族たちと、英語の文法を楽しくレッスンする番組である。彼らはなにせ図書館に住んでいるくらいなので、ものすごい本好きな家族なのだ。私も本好きだから、このライオンの家族が大好き。

さらに好きなのは、ピッタリパンツをはいて踊っているキャラとか、ずっと崖にぶらさがったままのキャラが面白いところ。一番好きなキャラは、「私立探偵」をやっているらしいハードボイルドの「ポテト」、ニヒルなセリフが最高。
文法の勉強にもなるし、こういうのが日本語でもあればいいのになあ。

ところで最近、周囲に「身体の調子が悪い」という人がけっこう多い。そろそろ、そういう歳なのかもしれない。私も「運動でもすれば」と言われている。そりゃ、その通りなんだけど、ヒマがない。しかし、そろそろそういう歳なのである。

ところで、「お天道様に恥ずかしい」という言葉があるのだが、身体を鍛えたり、健康管理をしなきゃいけない時にも、うちの両親などはこの言葉を使う。うちの親は、二人とも田舎育ちだから、私も子供の頃から、何かとよく聞かされていた言葉である。

用法としては、たとえば、休日に昼まで寝ていると、「こんな天気のいい日に、朝寝をしてるなんて、お天道様に恥ずかしくないの」などと使う。幼い頃から、あまりよく言われ続けていたので、身体に染みついているようで、今でも二日酔いなんかで、ちょっと遅くまで寝ていたりすると、ふとこの言葉を思い出す。陽の光を見ると、「ああ、すみません」とついつい小さな声で、太陽に向かってあやまってしまう。

同じように、子供の頃から「いくら役人が威張ろうと、商売人が儲けようと、めしを食わないで生きていける人間はいない。一番えらいのは、おまんまを汗水たらして作っているお百姓さんだ」と言われ続けている。まして、それよりもずっとエライ「お天道様」には私は逆らえないのである。

「お天道様」というのは、もちろん太陽のことである。うちの両親に言わせれば、この世の中の生き物は、すべてお天道様によって生かされている。確かに科学的に見ても、地球上のすべての生命が太陽エネルギーによって生かされているのは事実だから、その通りなのである。

しかし、毎日、新聞やテレビで流れるニュースなんかを見ていると、世の中には「悪いことでも儲けたら勝ち。だまされる方が悪い」なんていう人がいるみたいである。きっと、そういう人は、子供の頃、「悪いことをしちゃダメよ。誰にもわからなくても、お天道様が見てますよ」などという言葉を一度も聞いたことがなかったんだろうか、などと思ったりする。太陽は、年がら年中、毎日いつも世界中を照らしているはずなので、いつも見ているのである。しかし、実際には、お天道様に会える人はそういない。見えぬ人には、毎日そこにあるものがまったく見えないものだから。ま、お天道様が「良心」というものの象徴かもしれないけど、良心なんてものは、自分自身の中に育つしかないわけだしね。

ところで、「本当は、百姓が一番エライ」と言って育てられたせいだろうが、私はどうも作家とか、画家とか、俳優とか、音楽家、学者、政治家なんてものは(つまりサービス業)、結局は「お百姓さんたちのおかげで生かされているだけ」というイメージを強くもっている。ところが、若い学生さんたちと話していると、どこかで「クリエイティブな仕事はカッコイイからやりたいけど、私には才能がないから、どうせ肉体労働ぐらいしかできないんで」なんてことを言ったりする。

そりゃ、「クリエイティブな仕事がしたい」というのはいいが、「どうせ肉体労働しか」という中には、ちょっと引っかかるものがある。具体的に、実家の農家を継ぐことも含まれているみたいなので、ちょっとどうかと思う。農業に比べれば、クリエイティブな職業の方がカッコイイかもしれないが、肉体労働だって重要な仕事なのである。クリエイティブな職業だって言っても、結局サービス業でしかないし、百姓に比べれば、ま、どうせみんなただの旅役者みたいなものである。一見、楽しそうにピーヒャラピーヒャラ歌っているように見えるから、カッコイイみたいに見えるかもしれないけど、芸人は、お百姓さんを幸せにするためのものでしかない。だから、ウケなければ、みんなオマンマが食えない。たしかに気楽だが、不安定な商売で、ある意味、下賎な商売と言えなくはないのである。

私自身は、ずっとコピーライターをしていたのだが、広告屋なんてものも同じだ。どんなカッコイイテレビCMだって、商品が売れなかったらぜんぜん意味がない。(普通は、広告がヒットするとたいてい売れるものだが、ごくまれに広告が成功してもあまり売上につながらないことがある)
エライのは、クライアントであるメーカーだったり、そういう製造業の人々だったりするのである。

たしかに商品がよくても、広告が悪いと売れないのだが、それにしても、もともと売れるはずのものをちゃんと売れるようにするだけで、いくら広告がうまくても、商品がよくないと売れないのである。

デザイナーにしても、コピーライターにしても、クリエイティブな仕事なんか、みんな「芸人」みたいなものだから、一番エライのは、メーカーなら工場で働く現場の人だと思っているし、同じように、漁師さんとか、お百姓さん、そういう人がエライのではないかと思っている。

たまに「作家志望」の人から、メールや電話で問い合わせや相談を受けることがあるのだが、ちょっと驚くのは「作家になったら、エラくなれる」と思っていたり、「今の仕事なんかくだらない、作家をして世の中を見返したい」なんてことをホンキで言う人がけっこういる。なんだか、ちょっと違う気がする。まあ、自分の体質に合う合わないというのはあるだろうし、キライな仕事をしているのかもしれないけど、工場勤務や会社の経理係が「くだらない仕事」だとは私はちっとも思わない。そりゃ、作家の方が目立つし、注目されやすいことは確かだけど、それは「作家がエライから」というわけではないはずである。

もしも、仮に、作家という職業が、ちょっぴりでも地位が高いとか、世間から注目されることがあるとすれば(それでも特別に名誉な職業だとは私は思わないが)、もしそういう認識が世間にあるとすれば、それはたぶん「その作品が多くの人を喜ばしたり、なぐさめたり、励ましたりできる」という事実があるからだと思う。「多くの人」がいなければ、尊敬もされないはずで、別に「作家だからエライ」わけでもなんでもないと思う。

ただ作家志望の人の中には、本当は「人生の一発逆転」が目的で、「小説を書くなんて面倒なので、できれば書かずに作家になれればいいのだが、何か方法ありませんか」という『相談』をする人がいる。エラくなるのが本当の目的なんだろうなとは思う。まあ、ちょっと違う気はするけど。
(ちなみに、ホントにそういう問い合わせ電話はさほどめずらしくないが、そういう人は問い合わせだけで、けっして入学はしてこないから、生徒ではいない)

でも、作家志望なら、毎日、お天道様に感謝したらどうかな、と思ったりする。たぶんプロの作家さんにも、とくに専業作家さんなんかは、夜型の人が多いだろうけど、きっとそういう人でも、昼頃、目が覚めて、ふと「今頃、どこかで労働したりしている人がいるのだろうな」、と思ったりはするに違いない。そして、そんな時、たぶん作家なら、そんな時、汗水たらして働いている人たちをバカにしたりはしていないと思う。だって、読者だもの。お客さまだもの。

しかし、長編を書くなんてのは、けっこう体力のいる仕事である。だが、この身体も、お天道様から預かって、多くの生命を殺して食べて、それで生かされているのだから、健康管理も「やりたい」とか「興味ない」というんじゃなくて、これはもう義務みたいなものなのである。とくにプロ作家志望なんだったら、暴飲暴食、睡眠不足に気をつけよう。デビューするのはゴールではなく、ただのスタートなのだから、十冊、二十冊、この先書き続けていくための体力は維持しなくちゃね。お天道様に恥ずかしいのよ。と、いつも言っているのに、なぜか小説講座には、健康診断も受けたことがないし、医者にも行かないような人がけっこう多い。なぜかしら。

06/22/2006

人間観察、なんでも社会勉強

6月21日(水)
終日、外出。小説講座の事務所には入れず。

午前中、外出。午後から小学校の参観。終わってから、自宅に戻り、いろいろ仕事。参観後、PTAの委員会の会合があったのだが、なんだかんだと理由をつけて欠席。今年もまたPTAの委員になっているのだが、昨年で懲りたので、今年はなるべく出席はしないようにしている。昨年とは、違う委員会なのだが、用心にこしたことはない。

PTAを真面目にやっている人には悪いが、どうも昨年のイメージが悪くて、今年はあまり真剣に手伝う気になれない。なにせ昨年は、完全に「仲良しサークル」化している委員会で、しきっている女性(委員長)を中心としたピラミッド組織だったのだ。いや、彼女たちも、おそらく真面目にPTA活動をしているのは確かなのだが、何かと言うと些細なことで何度も会合を作るし、しかもいつもおしゃべりがやたら長いのである。また会合とは別に、どうも中心となる女性たちの自宅にも、しょっちゅう集まっているらしい。さらに忘年会に新年会。忘年会なんか、PTA委員会でやっているとは別にまた居酒屋に集まっている。本当にPTA活動なんだか、ただの仲良しグループなんだかわからない。

結局、最後の方は顔を出さなかったので、おかげさまで強制的に、今年は委員長の意向で、別の委員会に変えさせられたのだが、正直かなり有り難かった。けど、あの印象が強烈なのだ。だいたい昨年は、まだ真面目に手伝う気があったので、学校の会議室に集まるときだけは、なるべく顔を出すようにしていたんだが、そこでもお菓子を食べながら、みんな子連れでだらだらしゃべっていただけである。そりゃ、ちょっとずつでも仕事をするにはしていたし、仲がいいにこしたことはないのだろうけど、どうもこういう女性の集団は苦手だなあ。

しかし、PTA活動を熱心にする主婦というのは、みな、こういう人なのかな。そりゃ、私だって、主婦なんだけど、仕事で男社会で働いている時期が長かったので、こういうのは苦手なのである。もちろんお茶を飲みながらだらだらおしゃべりがキライなんじゃない。それはそれで、けっこう好きである。でも、それなんだったら、PTAの会議室でやらなくてもよさそうなものである。けど、彼女たちは、いつもこんなふうに言っていた。
「本当に、みな手伝ってくれないわね。ちゃんとやってるのは、ホント私たちだけなんだから」
しかし、ごちゃごちゃとやたら時間をつぶすようなPTAに入りたがるような人はあんまりいないだろうけど。だいたい会合の集合時間も、たいてい4時だからなあ。最初は、
「働いていても大丈夫よ。みんな仕事持ってるんだから」
なんて言ってくれていたのだが、実際には、みな一日数時間のパートなので、時間的にはかなり余裕があるみたいなのである。うーん、やっぱりPTAは、ヒマな人しかできんのか。

でも、実際には、
「ホント、みんな手伝ってくれないもんね。ちょっとくらい役得があってもいいわよねえ」
と、PTAの予算で購入したデジカメとか(ほとんど私物化)、PTAの予算で購入したジュースなどを飲みながら、だらだらお菓子食べて、2時間なんかアッという間。

しかし、主婦というのも、なかなかツライ。小学校の参観などに行くと、どういうわけか、教室をのぞくこともなく、廊下でずっとしゃべっている人たちがいて、ついつい聞きたくなくても聞こえてくるのだが、やっぱり主婦のおつきあいというのも大変みたいである。女性の中には、相手が嫌いなタイプの人間でも「仲よく親しいおつきあい」をできる人がけっこういる。うちの実家の母も、ずっと友だちづきあいをしている人が引っ越したりして、寂しがってるかと思ったら、「本当は前々からキライだったの、だからせいせいしたわ」なんて言ったりして、びっくりしたことがある。嫌いならそれほど親しくつきあう必要はないだろうと思うが、それが女の関係というものらしい。ややこしいぞ。

私は、高校も共学だったし、大学でも社会人になってからも、男性社会で過ごす時間の方が長いので、こうした女性社会というのは、どうも苦手。しかし、まあ、たまに観察するくらいなら、社会勉強かもしれないけど。

そういや、作家の先生が言ってたけど、どんな体験でも、「これをネタに一作書けるな」と思えば、なんでも貴重な体験なんだそうだ。ああ、作家って、便利な職業だな。うらやましい。今年度、3月まであと数ヶ月。今年は、別の委員会で、今のところ、あまり会合もしないようだが、なんだか悩み多きPTA委員活動である。

06/21/2006

そろそろ秋の生徒募集かな

6月20日(火)
午後から小説講座の事務所。

専攻科の作品集の印刷。丁稚どんも忙しい。忙しいのだが、10月からの第10期の生徒募集の資料も作らないといけない。7月上旬から、秋募集が開始なのである。あ、ショートショートのコンテストも、7月から募集開始なのだ。忙しいなあ。

そんなわけで、ごちゃごちゃと簡単な会議などをしてたら、時間があっと言う間にたってしまい、結局、大量の資料を読めなくなってしまった。明日は、私用で休暇をとるつもりなので、やむなくテイクアウト。ちゃんと働きますです。はい。

今はまだ募集期ではないので、資料請求の数は少なめ。問い合わせもチラホラ。
メールでは「一度も小説を書いたことがありませんが、大丈夫ですか」という質問があり。まあ、相手がどういう人かはわからないので、正直、ホントはわからんのだけど、とりあえず「これまでに入学された人は、たいてい書けるようになるようです」と答えておく。

実際、今年の9期生も、前期課題は全員提出したし、例年、ほとんどの生徒さんが前期課題くらいは完成させることができるようだ。ただ、まあ、そりゃ人によってレベルは色々なんだけど、実際、小説も書くだけなら、ホント「水泳」と同じで、誰でもそれなりに練習すれば、それなりは書けるのである。それなりに教えてもらえば、うまくもなる。ただ、もちろん、さらに大会に出て入賞したり、オリンピックに出たりするには、また別のレベルが必要になるかもしれないけど。

ただ「これはひどいなあ」と思うような作品を書くような人でも、一年もすれば、たいてい追いついてくる。初心者ほどうまくなるのは早い。急激にうまくなる。ある程度いろいろ書いていたような人ほど、入学してはじめて自分の実力を客観視するので、しばらく自信喪失したりする時期があったりするみたいで、実際にはかなりうまくなっていても、本人にはわかりにくいみたいである。一年くらいすると追いつかれてくるので、あせったりするしね。

しかし、プロになる気がある人も、とくにプロになりたいわけではない人も、小説が書けるようになるのは楽しいだろうし、だいたい小説家志望というのは、あまりリスクがない。必要なものと言えば、原稿用紙とペンだけで、せいぜいパソコンがあれば済む。趣味としても、たぶんかなり金のかからない趣味である。一方、シナリオライターなどは、どうしても今は東京集中だし、連ドラや映画なんかは書き直しも多い。打ち合わせもあるし、たいてい平日の昼間なので、会社員との二足のわらじが難しい。しかも完全な受注生産なので、注文がなくなったら終わり。けっこう人脈やコネが必要な業界なのである。つまり、もしアナタが社会人で、これからプロをめざすとしたら、シナリオライターの方がリスクが高いのである。二足のわらじは難しいうえに、関西圏に住んでいると、かなり可能性は低いから、引っ越しを伴う。当然ながら、賞をとって、シナリオライターになったとしても、仕事がなければ、収入はない。週に何本「連ドラ」が放送されているかは、考えれば誰にでもわかると思うが、その数を同業者と競争するわけだ。それにくらべれば、小説は、マイペースで書けるもんなあ。

社会人を続けながらプロをめざせるし、プロになっても、専業になるか、「二足のわらじ」か、というのは割と自由に選べるし、たとえプロになれなかったとしても、それはそれでほとんど何のリスクもないのである。
(まあ、だからこそ世間では作家志望という人間が多いらしいが)

というわけなので、「才能もないし、作家になるのはあきらめた方がいいのでしょうか」という質問には、「あきらめる理由なんか、とくにない」のである。けど、もしかすると、あきらめたりできるのなら、やっぱりあきらめた方がいいのかな。やっぱ、カタギじゃないかもしんないもんな。客商売は、水商売だもんなあ。

06/20/2006

小説とは関係のない休日(キャラクターあれこれ)

6月19日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

先日、専門学校の教室で、また、「ストーリーは大事」という話をしたら、ある生徒さんが
「キャラクターの方が大事なんじゃないんですか。先生は、ストーリーが大事だって言うけど、他の先生は、キャラクターが大事だと言ってました。一体どっちなんですか」
なんていう人がいた。これって、どういうことなんだろう。先日も、似たような質問があったばかりだし。なぜじゃ。何か原因があるのかな。マンガ原作の先生にも、ちょっと聞いてみよう。

ま、専門学校の方は、なにせマンガコースなので、もろにキャラ命な人がけっこういる。で、それだけで頭ガチガチな人もいたりする(なぜかたいてい女子が多いような気がするが)、好きなキャラクター(たいてい猫耳の少年か、美少年の魔術師とか)を描くのに夢中で、お話なんかどうでもいいし、全然考えたくもない、という人がけっこうな割合でいたりする(なにせみんな十代だから仕方ないの〜)

作品も、「好きなキャラさえ書ければ、ホントはお話なんかどうでもいいんだけど、いくらなんでもそれでは作品にならないんで、一応は考えてみました」的なストーリで、私は、これを密かに「でもしかストーリー」と呼んでいる。同人誌とかにはよく書いてあるようなもんらしいのだが、とってつけたようなストーリーなのである。もちろん、こういう書き方も、絶対ナシというわけではないから、別にいいんだけど、ただ、これだと肝心のキャラが面白くないとどうやっても面白くないのは仕方ないのである。まあ、本人が楽しく書けるんだったら、とりあえずそれでいいのかもしんないけど、とにかく肝心のそのキャラが……なんつーか、やたら細かい設定はついている割には、どっかでみたような、よくあるキャラだったりして。

それにしても、キャラクターとストーリーって、そんなもん、ホント「どっちが大事?」と聞かれても仕方ない気がするんだけどねえ。どっちも大事としか言いようがないんじゃないのかな。違うんかなあ。

だいたい「キャラクターがまったくないストーリー」というものもちょっと考えられない。キャラクターにしても、たいていストーリーなしでは、キャラ立ちしないんじゃないの。ほら、細かい設定があるとしたら、それって全部バックストーリーをともなう場合がほとんどでしょう。だから「どっちが大事?」っていうのは、ほら、まるで今、私の目の前にあるコーヒーカップ、このカップの「取っ手」と「底」とどっちが大事ですか、と言われるようなもんじゃありませんかね。そんなもの、たぶん「どっちも大事」だろうしなあ。わたしゃ、取っ手のないコーヒーカップも、底のないコーヒーカップも好きじゃありませんが、世間では、どっちが大事なんでしょう。(ま、コップだから、取っ手がなくても使えるかもしんないけど、それって、もはや「湯のみ」なのでは)

たぶんストーリーとかキャラクターというのは、ある作品のある一面を示しているだけだと思うんだけどなあ。つまりコップが丸いか(上から見れば円)、それとも四角いか(コップを横から見れば、長方形ないしは台形のシルエットになる)ということなんである。だから、どっちが大事かなんて考えても、仕方ないんじゃないのかなあ。そりゃ、たしかに「キャラ立ち」とかあるんだろうし、「オタク萌えやすいキャラ」とかあるだろうけど。やっぱ、ストーリーもそれなりによかないとダメなんじゃないのな。まあ、しかし、猫耳少年とか、美形エルフとか、今さら「萌えよ!」と言われても、どうなんかなあ。これでもハマる人っているのかな。オタクの道は、オタクにしかわからんというから、私には判断つかんけどなあ。

猫耳とか、トラウマのある高校生とか、冷血な美形とか、みなしごのやんちゃな少年とか、なぜか似たキャラが多いので、私には、見分けがつかんのだがなあ。まあ、たまにすごいキャラもいるけど。自分のオリジナルキャラがいる人は、プロットとか書いてもらう練習をすると、「これだけの枚数では、ちゃんと書けません!」という人がいる。

小説講座ではほどんどいないが、専門学校のマンガコースではけっこういる。ただ、マンガコースだと、あんまりにもオリジナルキャラにこだわりすぎる人は、まず作品があがらない。マンガでは一人で最後まで書ける枚数が限られているので、短編じゃないと最後まで書けないのだ。あんまりオリジナルキャラにこだわると、短編で書かれても「これはほんの一部」だとか言い出す。こうなると他人が読んでもあまり面白くない。作者がいくらキャラにこだわっても、読者にとってはそんなことどうでもよかったりするのである。読者が細かい設定やキャラクターに興味をもつのは、「はたしてどうなるか」知りたいからで、基本的にはストーリーへの興味の範囲内でしか、設定には興味をもたないのだ。

たまに意味がわからないことが書いてあって、生徒さんに「なんで、この主人公、こういう行動をするの?」と聞いたら、「子どもの頃に両親を殺されているんですよ」と言ったりする。単発作品じゃないのである。ま、個人的な意見だけど、もしプロ志望なんだったら、あなたがキャラにこだわるタイプなら、あまりにも好きなキャラは最初は描かない方がいいかも。そういうキャラは、とりあえずこっち(どっちかわからんけど)にとっておいて、実際にプロとしてデビューしてから、雑誌の長期連載の仕事なんかをとって、それからしっかりバリバリ描いたらどうかしら。で、コンテスト応募用の短編は、とりあえず別のキャラで描く方がいい。その方がデビューできる確率が上がると思うがなあ。

コーヒーカップを買うのに、どれがいいか、店頭で選ぶけど、その時、手に取ってみたり、持ち具合とか、重さだとか、色だとか、形だとか、容量だとか、陶器の焼き具合だとか、口をつけた時のカーブの感触を想像してみるとか、私たちは、そういうものを考えて買う。もちろん全体の雰囲気というか、総合評価なのだが、あるいは衝動買いだったり、「あ、これってステキ!」というカンみたいなもんなんだろうけど、やっぱりたぶんどこかで、個々の「分析」も合わせてしている。こういう絵柄はイヤだな、とか。

キャラクターだとかストーリーだとか、そういう個別の要素は、ある一面だけかもしれないけど、総合的に判断する時、ぜんぜん意識されてないものでもないはずである。小説だったら、タイトルとか、書き出しの雰囲気とか、そういう感じ。プロの作家さんやマンガ家にとっては、作品は商品だから、「どうすればウケるか(売れるか)」を考えてない人などいない。キャラさえよければ売れるのか? いや、売れるなら何でもいいかもしれないけど。

しかし、一番の問題は、そういう生徒さんがこだわっているキャラがはたして本当に面白いキャラなのかどうか、ということだったりするのだ。(なにせ今さら猫耳だけではのう……)「オリジナリティ」があるかどうかってのもたまには客観的に考えておいた方がいいかもしれない。一般の読者だって、マンガや小説、映画や演劇など、たくさん見ているものである。たぶん、だいたいの基準のようなものがある。自分だけが面白いと思っていても、一般の読者がそう思ってくれなきゃ仕方ないもんなあ。

06/19/2006

小説とは関係のない休日(図書館、庭の野菜)

6月18日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

せっかくのいい天気の休日だが、近所の図書館が明日から10日ほど休館になるので、数時間を調べものなどで過ごす。ある事情により、「寝屋川の古地理の変遷」について調べていたのだが、どうにも、大阪平野の東側というのは、まるで歴史の勉強みたいである。なるほど時代小説家の大家である司馬遼太郎先生が、ずっと東大阪に住んでいたのは、ある意味、当然だったのかなあ。このあたりは、古事記からずっと歴史が続いていて、資料の概略をつかむだけでも大変。しかし、最近のボーリング調査や物性探査の技術革新のおかげか、古地理復元にも新しい技術や学説がどんどん加わっていて、ちょっとややこしい。工学関係とか、考古学関係の資料とか、あちこち分野がとんでいて、なかなか大変である。半日費やしても、ちょっとしか進まない。ま、それなりに色々見つけたけど。

面白い本を見つけたと言えば、「東海自然歩道」の本を見つけた。北摂の山などで「東海自然歩道」という標識をよく見ていたのだが、一体なんなのか、実はずっと知らなかったのである。これは、どうやら東京〜大阪1343キロという長大な自然歩道らしい。最近、定年後の熟年夫婦が「東海道」を歩いたりして楽しんでいるようだが、インターネットで調べたら、この「東海自然歩道」も踏破した人がいるようだ。しかし、整備された街道である「東海道」に比べると、その何倍もの距離である。むろん山道が多いのだが、百名山よりずっと地味である。でも、近畿圏に関してだけ言うと、けっこう旧街道沿いなので、ファミリーハイキング向けだったりするのだがな。あ、ちょっと余談ですが、東海道には五十七次という考え方があるけど、踏破する人はたいていは五十三次説をとるのだった。ちなみに、残りの4次は、京街道です。どうも枚方宿の江戸期の文献には、東海道枚方宿と書いてあるそうで、まあ、当時の認識は、そっちだったんじゃないかなと思うんだけど。ただやっぱり長いですからね。ちょっとでも短い方をとりたいだろうから、江戸から見て、近い五十三次をとるのかしら。広重も、現代人も、なぜかお江戸に住む人は、京都に憧れがあるからなあ。

今日は、遠出をしなかったので、久しぶりにゆっくり家事をかたづける。玄関先にあるプランターの野菜も大きくなってきた。トマトやナスも、けっこう大きい。今年はゴーヤも植えてみたし。先月、収穫したジャガイモも、けっこう大きかったし。スーパーで買った芋をそのまま植えたので、かなり心配していたのだが、けっこう穫れた。うちの子供たちは、果物などの種を見ると、とりあえず何でも植えてみるタチなので、ハムスターのエサに買ってきたヒマワリも、何個か植えられている。朝顔は、今年は3種類ほど苗を買ってきて、つるを伸ばしている。最近は、小学校でも、低学年の教材でキュウリやナスを育てているようだ。私が子供の頃は、朝顔やヒマワリ、ホウセンカ、ヘチマなどで、野菜はなかった気がするけどなあ。

最近は、「食育」という言葉が使われているらしいのだが、食べ物に対する知識教育が見直されている。「給食だより」などを見ていると、食生活や睡眠時間がむちゃくちゃな子供がやはりかなり多いらしい。いくらなんでも、確かにこれは問題だろう、と思うほど、ひどい例があるそうだ。大人を見ていれば、そういう家庭は多いのは想像がつくし、親がそうなら、子供もつられてそうなるのは当然だろうしな。

秋田の某事件のニュースを見ていてふと思ったのだが、やっぱり料理を作らないというか、食べることを大事にしないのは、どうかなあと思ったのだった。食べることを大事にしない人は、ちょっと理解しにくい。女親に限らず、男親でも同じだけど。料理がうまいかどうか、とかは別にして、食べることを大事にしていない人間は、どこか精神的に不健康なのかもしれないなとも思う。やっぱりキレやすいとか、気分屋だったりとか。私は、家事に関しては、男女平等主義者なので、自分のメシの支度くらい、生活の基本じゃないのかなあ、と考えている。まあ、仕事が忙しい時はあるし、ずっと外食だってできるんだろうが、なんつーか、「愛」がない生活だよなあ。

そういう人って、きっと食べることだけじゃなくて、生活を楽しむという気がないのかもしれないけど。たぶん自分の人生も大事にできないんじゃないのかな。自分を大事にしない人は、やっぱり他人も大事にしない。たとえ勉強ができても、仕事ができても、そんな人生ってどうなんかなあ。

まあ、仕事が忙しくてなかなか食べるヒマがないとか、色々あるだろうけど、やっぱり食べることは大事だよね。男の人だって、仕事しかできないような男より「日頃は忙しいけど、たまの休日にはちょくちょく料理くらい作りますよ」という男の方が、今はモテるのだ。ま、たいていの場合、そういう男の方が仕事もできたりするんだけど。

でも、こういう習慣は、きっと子供のうちについてしまうんだろうなあ。まあ、食生活ほど、その人の性格や生活が表れるものはないと思うが、食べるのを楽しめるようになるのは、教育でも最も重要な部分なのかもしれないなあ。人生で大切なことは、全部、子供の頃に学ぶのである。先生が「ちゃんとした生活習慣を身につけましょう」と言っていたことは、やっぱり大事だったのだわね。ただ、私だって、子供を育ててなければ、それほど規則正しい生活はしてなかったかもしれないけど。(子供がいる家庭では、大人は見本を示さないといけないと思うので、どうしても模範的な生活をしようとするのである)

ということは、私にとっての人生の先生は、案外、自分の子供たちなのかな。

06/18/2006

教室実習と後期ガイダンス

6月17日(土)
朝から小説講座の事務所。
午後から文章教室<ライティング講座>、夕方は、第9期の「後期ガイダンス」など。

今日のライティング講座は、教室実習だ。30分で、原稿用紙2枚の作品を書く。小説講座は、中級から上級レベルという設定なので、授業中に原稿用紙に向かう機会はほとんどないのだが、文章系のコースは初心者クラスなので、教室内で書く実習がけっこうある。実際に、小説を書きたいとか、文章がうまくなりたい人の中には、なぜか家で一人で机に向かってもなかなか書き出せないという人がけっこういる。授業中にムリヤリ書かせるというのも、それなりに有効なのだ。授業中に書けるようになれば、卒業してからも割とカンタンに自分一人でも書けるようになるらしい。なんか、人間というのは、締切とか、目標があるとか、何か無理矢理やるようなことがないと、なかなか書かないものなのかな。

この「30分で原稿用紙2枚」というのは、作文の勉強にはちょうどいい量である。最初は難しいらしいが、すぐにかなりうまくなる。授業中にやってもらうと、最初は原稿用紙1枚半くらい書くのがやっとという人が多い。初心者向けの文章教室では、「何か書きたい書きたいとずっと思っていたけど、実際に書くのは学校の時の作文以来で、数十年ぶりなんです」なんていう社会人も混じっている。書くので精一杯だから、構成とか、細かいことを考える余裕もないので、内容的にもまとまってない場合が多いのだ。

しかし、この実習を5回くらいやると、実は、たいていの人はそこそこ書けるようになる。まあ、それなりの指導を受ければ、誰でもある程度の文章を書くのはできるのである。うちの講座は、週1回の講義なので、5回ほどやるには、一ヶ月以上かかるのだが、それくらいあれば、そこそこの文章が誰でも書けるようになる。まあ、経験上、そうなのである。構成もそこそこできるようになるし、文章もかなりうまく書けるようになる。といっても、私の知っているのは、文章教室に入学するような生徒さんについてだけである。学費を出してちゃんと学ぼうと考えるような人だから、もともとやる気も素質もあるのかもしれない。

ただ、公民館などの講習や専門学校で、1〜2回するだけでも、けっこうそれなりの効果がある。たぶん誰でも練習さえすれば文章くらいはうまくなるし、あるポイントさえ押さえれば、だいぶ違うのである。もちろんすぐにうまくなると言っても、それは作文程度なので、小説を書くとなると、また別の問題があるだろうが、とりあえず作文なら、30分を何回かすれば、とりあえず書けるようになる。

そりゃもちろん文章力というのは、上には上があるのだけど、もし30分で2枚書ければ、時速4枚である。自分自身で、「あ、1時間くらいヒマがあるから、うまくいけば4枚くらいなら書けるな」という感覚があれば、自宅でも「ちょっと書いてみようかな」という気になる。とにかく初心者の場合、書く量に比例してうまくなる。でも、「ちょっと書いてみようかな」というような書く習慣みたいなものがあれば、うまくなるのは早いのだ。まあ、指導を受けるのはムリかもしれないけど、30分だけ集中するのは案外、誰でも効果があるみたいなので、ぜひキッチンタイマーかを使って一度お試しくださいまし。

もちろん「これさえやればうまくなる」というよりは、まあ、基礎体力づくり、みたいなもんだけど。テニスの試合に出るのが目標だが、その前に基礎体力がない人に、とりあえずラリーができるとか、それくらいの体力づくり、基礎練習みたいなもんです。

さて、夕方は、小説講座。第9期は、後期指導のガイダンス、教室実習と個人面談である。修了課題で、印刷形式などに問題があった人には、その場で説明する。ただ「再提出」の人のうち、1名は本日欠席している。この人の作品は、太ゴシック体で印刷されていて、かなり読みにくいのだった。今年の9期生は、広い意味の青春小説だとか、恋愛小説なのかな、というようなちょっと狙いがわかりにくい作品がけっこうある。昨年の生徒は、ミステリ作品が多かったのだが、なぜか今年は一本もないのだった。どうしてこんなに毎年、傾向がはっきり違うんだろうなあ。でも、まあ、SFが多いクラスとか、ホラーが多いクラスとかあるけど、たいていバラバラである。

初心者の多いクラスは、狙いがややわかりにくい作品が多い傾向があるので、このあたりは予想通り。エンターテインメント系の小説だと、狙いがわかりやすい作品の方がいいのかもしれないけど、その辺は仕方ない。ただ、初心者の場合、こういっちゃなんだが、本当に「ホラーなんだか、ミステリなんだか、はたまた恋愛小説なのか、さっぱりわからない」という作品がけっこうある。こういうのは、読んでいて、ちょっと困る。よくあるパターンだと、前半はミステリで、後半はホラーとか。本人いわく、「最初は、ミステリのつもりだったのに、どうにも収集がつかなくなって、終わらなくなってしまって、締切直前に途中からホラーに書き直した」とか。そういうことはけっこうめずらしくないのだった。また、どうにも関係なさそうな会話シーンが延々と続いて、一体どういう話なんだろうと首をかしげている間に作品が終わってしまって、一体何が書きたかった悩む作品だとか。「何度読んでも、よーわからん」という作品もあったりする。

さて、こうした作品の場合、本人に確認をしても、作者自身が自分が何が書きたいか、迷っている場合も多いし。

まあ、今回は、あまりにもヒドイのはなかったんで、ホッとする。とりあえず本人の希望を聞いて、面談ができなかった欠席者はとりあえず後回しに。

講義後、生徒さんたちと飲み会。そこで、生徒さんに「来年度(この秋)からの専攻科」についてちょっと聞かれる。専攻科の生徒募集案はまだ何も考えられてない。第10期の募集要項が、来月上旬には決まるはずなので、それから発表予定。そろそろ秋の準備なのである。

06/17/2006

そろそろ小説講座の作品指導

6月16日(金)
午後から小説講座の事務所。

何かと雑用が多く、第9期の修了作品を下読みするヒマもなし。
今年は初心者が多いので、どの作品をどの講師に指導依頼すればいいのか決めにくい。ほかの小説講座では、講師一人だけというところが多いらしいが、うちの講座は複数講師がいるので、作品や作者にあわせて、講師を決めている。講師側にも「こういう作品なら」という希望も多少あるわけだし、何よりスケジュール調整の問題があるから、必ずしも希望優先ではないのだが、本人希望も聞いたりして指導講師を決めている。ただし、本科ではあまり講師希望が出されることは少ない。専攻科と違って、どの先生がどういう指導をするのかがわかってないし、希望があったとしても、「あまりキビしそうではなくて、やさしそうな先生がいいです」というようなぼんやりとした希望が多い。

作品指導は、講師との信頼関係がないと困るので、できれば、その先生の著書をたくさん読んでいて、好きな作家であった方がいいのだが(なにせ自分の作品を読んでもらうんだし)、必ずしもそうでないといけないというわけでもない。書いているものと好みが一致するわけではないし、先生によっては、ご自身の著書と守備範囲がズレている場合もある。たとえばある先生などは、書かれているのは主にハードSFと呼ばれるジャンルが多いのだが、ものすごい読書家でもあって、SFはもちろん、ミステリ、ファンタジー、ホラー、時代小説、歴史小説、恋愛小説……とほとんどすべてのジャンルに対して、ものすごく詳しい。つまり守備範囲ついては、かなり広い。そういえば、うちの卒業生で、「官能小説」を出版している人がいるのだが(覆面作家ですので、公開してませんが)、その著書も買って読まれたとか。好奇心も豊富だから、見識も深いのかもしれない。だから、作品指導にも、豊富な知識が生かされているのだった。実際、SFに限らず、いろんな作品を指導してもらっているのだが、生徒さんの評判もかなり高いのだった。

ところで、生徒さんでも、好きな著者やジャンルを聞くと「何でも読みますよ」という人はけっこういるのだが、これは、生徒さんの場合、よくよく話を聞くと、必ずしも「何でも」ではなかったりする。案外、「何でも読んでいる」とは限らない。むしろ「ミステリぐらいしか、読んでないんです」という人の方が、「いろいろ読んでいる」場合だってある。「何でも読む」というのは、案外、「どんなものでも、さほど読んでない」というだけのことがある。まあ、「よく本を読む」というのは、主観的なものなので、そういうものなんである。

なにせ世間では、「本は好きで、かなり読む方です」という「趣味は読書」という人でさえ、たいてい月に1〜2冊だったりするのだ。まあ、世間では、月1冊でも「読書好き」かもしれないが、うちの小説講座ではその程度では読んでいるうちに入らないから、月に1冊なら、「ほとんど読んでない」か「あまり読んでない」のである。

生徒さんたちと話をしたりしていると「この人は、きっと読書体験がかなり少ない方なのかな」とか「本をたくさん読んでいる人なんだろうな」と感じることがけっこうある。案外、自己申告とは正反対な感じを受ける場合も多い。これは予想なんだけど、こういうことなんじゃないかと思う。読書体験というのは、たぶん「累積読書量」のことなのである。これまでの人生で、どれくらい読んだかという、累計だ。でも、自分でも小説を書きはじめると、時間がかかるので、たいていの人はちょっと読書ペースが減るのである。とくに社会人で、他の仕事をしながら、小説を書いていたりすると、絶対的な時間がなくなる。長編執筆中はがくんと読書量が減る人がけっこう多いのである。時間がなくなるうえに、いま執筆している作品のための資料だとか、「小説じゃないもの」ばかり読んでいたりする。だから、それまでに本をたくさん読んでいる人ほど、小説講座に入学してからは「最近あまりたくさんは読めない」と感じていたりするし、もともとあまり読んでない人は、入学してから「かなり読むようになりました」なんてことを言ったりする。

小説講座に入学するような人には、本を読むのがキライという人はほとんどいないのだが(それでも入学者の中には「書くのは好きだが、読むのは苦手。本なんか、ほとんど読んだことがない」という人もごくたまにいる)、やはり生徒さんの平均値(累積読書量)と先生たちの平均値(累積読書量)には、かなり差がある。かなりはっきりとした格差である。むろん生徒さんでも読書量が多い人はいるが、あきらかに読書量不足な感じの人も多い。ただ、もちろん実際はどうかわからないんだけど。

さて、サッカーや野球をいくら「いつもテレビでよく見ている」としても、実際にプレイしたらうまいかというと、それは絶対にそうではないわけで、むしろ「テレビではあまり見ないけど、練習は大好き」という人の方がうまかったりするのである。「書く」のと「読む」のとでは、だいぶ違う。だから、小説だって、書く能力と読書量とが正比例するわけではない。たくさん読む人が書く作品が必ずしも面白いわけではなく、あまり読まない人の作品が必ずしも面白くないわけではないのだ。けど、やっぱり、よほどその人しか書けない特殊なジャンルをのぞくと、小説の場合、やっぱり読書量にはかなり比例してしまうようである。もしかすると作家になるための必要な量、必要条件みたいなものがあるのかもしれない。いや、もちろん必要充分条件ではなくて、ただの必要条件なんだけど。

でも、やっぱりサッカーや野球なんかだと、練習といっても、ずっと一人きりでコツコツやっているわけではない。個人練習することもあるだろうけど、仲間と練習したり、試合とかやったりするわけで、たいてい相手がいるわけである。相手がいれば、どうしても客観的な評価を受けることになる。ところが、小説の場合、小説講座なんかに入学しなければ、ずっと一人でコツコツ書いているわけだから、そうなると客観的な判断というよりも、ただ自分で評価基準を持つというしかないわけである。客観的な評価が受けられないと、「市販の小説に比べて、自分のものはどうか、と予想をするしかないわけである。となると、ある程度は読書量がないとどうしようもない。

自分で書いた小説が、いいか悪いかというのは、「判断がつかない」という生徒さんが多い。そりゃ、実際にはわかんないもんなんだろうけど、それでも私は、たまに「本当に本人には判断がつかないんかなあ」と思ってしまうことがある。アイデアとか、構成とか、文章力とか、キャラクターの魅力とか、自分のことなんだから、なんとなくわかってんじゃないのかな、と思っちゃうんだよね。本当はわかってんじゃないのかなあ。口ではああいってても、自分の作品、予測はついてるんじゃないのかなあ。そりゃわかってても期待があるだろうから、もしかすると認めたくないだけなのかもしんないけど。

06/16/2006

落語とジャンルと感性

6月15日(木)
午前中、小説講座の事務所。午後から外出。

広告の仕事もあり(めずらしく化粧品のコピー。『水性マニキュア』って誰か使ってる?)、バタバタと雑用で忙しい。もう一人、自分が欲しい。

専門学校の授業でとりあげる落語のネタ。どれにしようか迷ったのだが、結局、かなりの人にウケなかった。どうも専門学校の生徒さんたちは、テレビでも落語なんかまったく見たことがない人が3分の2以上いる。やっぱ、もっとわかりやすいネタがよかったかなあ。けど、以前、漫才作家の大池晶先生も、たしかどこかの専門学校で、このネタをわざわざ教材にしてたんだけどな。

などと考えたのだが、ふと思いついて、中1のうちの息子に、同じビデオを見てもらう。けっこうウケた。古典落語なので、もちろんわからない部分はあるらしいのだが「ヘンな話!」とおもしろがっている。そうか。やっぱ、頭のやわらかさの問題かもな。だって、専門学校生のレポートには、「落語はつまらないというイメージがあったが、案外面白かった」「最初はわかりにくかったが、後半はおもしろかった」というのがパラパラあったのだが、「つまらなくて数分で寝た」という人もけっこういた。あれほど数分では寝るなよと注意したのに(まだマクラである)

そういや、落語家さんが「小学生ならいいが、高校生は手遅れ」だと言っていたもんなあ。落語家さんが「芸術鑑賞」で学校に呼ばれることがあるらしいのだが、小学生なら集中して話を聞くが、高校生になるともうダメなのだそうだ。やっぱ、集中力や想像力なんて、訓練しないでいると、あっという間に老化するんじゃないのかな。小学生から見たら、18歳でもすっかりオバンオジンかもしんない。

しかし、ビデオを見せたのだが、知らないというのはけっこうすごい。
「この人、ザブトン使っていて、たしか『笑点』ってのがあったでしょう。あれに似てますね。あれも、落語なんですか?」
などと質問された。そうかそうか。「大喜利」とか「落語」とか、いや、説明するのはいいけど、別に無理に勉強しないといけないもんでもないんだよ、たぶん。

しかし、大の大人がこんな真面目に、こんなアホらしいバカバカしいお話を一生懸命してくれるのに、なぜにこれを面白いとは思わないのか、ちと不思議。まあ、こんなにお笑いブームでも、漫才もコントも見たことがない生徒もかなりいるから、人それぞれである。しかし、マンガ科コースなんだがなあ。恋愛マンガかファンタジーにしか興味ないのかな。いくらシリアスでも、最近はたいていギャグ混じってるみたいなんだけどな。真面目な生徒さんも多いのだが、驚くぐらいに偏食気味の人がけっこういる。ある作品とか、ある特定の狭い範囲のジャンルしか見てない人がかなり多いのだった。落語もギャグも、ミステリもホラーも全部ダメ。ファンタジー、それも剣と魔法の世界だけが好き、とかね。若いからまだ知らないというよりは、たぶん偏食なだけである。こういうタイプの人は、年齢に関わらず、たぶん気がつかない限り、このままずっと偏食である。ただの食わず嫌いも多いだろうが。

そういや、考えてみれば、私たちが小さい頃は、あんまりマンガ雑誌もたくさんなかったので、たくさん読みたいと思えば、少年マンガも少女マンガも、あれこれ好き嫌いなく読むしかない時代だったのだ。アニメも特撮も、それなりに全部見る。なにせビデオもない時代だし、それしかないので、偏食したくてもできなかったのだなあ。けど、やっぱ、あんまり偏食が激しいと、そりゃ「客」ならいいけど、料理人としてはハンデキャップになると思うけどな。ま、それなりに何でも楽しめる方がいい気がするんだけどなあ。

06/15/2006

修了課題指導の準備

6月8日(水)
朝から外出。某企業で、広告&コピーライティングの社内研修の講師。ちょっと長引いたので、3時頃に事務所。

あいかわらずの事務作業。第9期生の修了課題を少し読む。50枚の短編。枚数制限があるのだが、だいたい1割くらいはオーバーしても見逃している。でも、今回、85枚の作品が。いくらなんでも、これは、ちょっとオーバーしすぎ。他の生徒さんたちはみな枚数制限を守っているので、こちらとしても対応しにくい。本人もわかっていて、結局それしかないので提出したらしいが、どうしたもんだろうな。まあ、授業でとりあげるのはムリだろうけど、たしか彼に対しては、堀先生が「面白い作品を書くようなので、長いのが書いたら、ぜひ見せてください」と言っていたな。これならSF設定。文章自体はよくできているのだ。ちょっと先生に相談してみよう。

ただ、ちょっと内容を見ただけなので、何とも言えないが、コレたぶん85枚というよりは、200枚以上の長編の書き出しに見える。パラパラとナナメ読みした印象だけなので、まだ何ともいえないけど、講師指導に出したら、たぶん「これはむしろ300枚くらいの長編にした方がいい」と言われそうな内容なんじゃないのかなあ。50枚の短編というのは、どうやらかなり難しいらしくて、そういう人はけっこう多い。
とくにファンタジーとか、ゲーム風の小説を書くタイプの人は、50枚の短編っていうのが、めちゃくちゃ苦手という傾向みたいである。
「ボクは、どうしても長編しか書けないんですよ」って人、けっこう多いのだ。ジュニアノベルでデビュ−してプロになるんなら、どうせ300枚くらいが中心になるだろうから、それでもいいという考え方もあるんだろうけど。ただ講座の都合上、本科では長編指導をしないことになっているのである。
「本科でも、長編指導をしてくださいよ」
なんていう人、たしかに毎年、何人かはいるんだけどね。

ただ、現実問題として、読む側にとっては「長編はツライ」。専攻科でもツライのがあるのに、本科で提出されても、ツライ可能性大。もちろん講師だって、ツライ。印刷する手間も膨大なんだよね。専攻科でさえ、半分くらいの人が「最後まで読めなかった」なんてレポートを出す長編もあるのに、そういうのを印刷するのはちょっとツライ。印刷経費はともかく、講師が大変である。

「そりゃ、初心者だから、最初からうまく書けないのはあたりまえでしょ!」と言われるのだが、なんというか、それなら長編じゃなくてもいいと思うがなあ。長編を最後まで読ませるのは、本当に大変なんだぞ。それにヘタなだけならいいのだが、つまり、なんつーか、雑でいいかげんに書かれた長編が多いのである。正直、本科に入学して「長編を見てください」という人は、なぜか推敲もほとんどしない人がかなり多い。いや、この時期だと、どうも「推敲」というのが何かわからないらしいので、本人にも自覚がない。悪気はないのだが、ややこしい。

というわけで、長編指導となると、印刷だけで数千円以上かかるし、なんだかんだで数万円の経費。いや、お金の問題というよりは、いろんな人々の数十時間をかけて、読んでもらうわけだ。そうそう簡単に、むちゃくちゃな長編を提出されても困るもんなあ。専攻科なら、すでに作品指導も何度も受けているので、たぶんそれほどむちゃくちゃなものは提出しないはずだけどさ(たぶん)

そりゃ長編体質というのもあるのかもしれないけど、まあ、教室指導の都合上、とりあえず50枚の指導を受けてくださいね、というのが建前。けど、個人的には、もしも本気で、プロ作家としてメシを食っていくつもりがあるんだったら、どのみち短編も書けた方がいいような気がするんだけど、どうなんかな。

確かに50枚くらいの短編って、書くのが難しいかもしれないとは思うんだけど、案外、実力差が一番わかりやすいし、指導効果も高いんだぞ。数年前までは、100枚までの枚数制限だったのだが、皆いきなり100枚を書こうとするので、これは書くのが精一杯で、たいていの人は作品としてもボロボロだし、長いために指導も難しい。別に50枚でも出せるはずなのだが、生徒さんは「100枚以内」という課題になると、100枚書かねばソンだと思い込むもんな。けど、少なくとも初心者の場合、たぶん100枚よりも、50枚の短編指導の方がたぶん圧倒的に効果が高い。

まして長編なら、生徒さんのタイプによるのである。短編なら、講師のコメントを素直に聞けても、長編だとなぜか聞けないという人が、けっこういる。長編って、かけた時間の分だけ、本人にやたら自信とか思い入れがあったりするわけで、そのために色々マイナス的なことを言われると、やたら落ち込んだり、反発したりしてしまう人がいるのである。たいていの生徒さんは、「ちゃんと指導してください。正直に言ってくれたら嬉しいです」とは言うし、講師指導を受けたいから提出しているのだろうけど、ホメるだけでは済まないしなあ。

講師の先生たちは、学校の先生みたいに「こうしなさい」とは言わないし、たいてい「私ならここを直せばもう少し面白くなると思いますけど」とソフトな感じなのだが、それでも自信過剰なタイプの人は、「せっかく書いたのに、文句を言われた」と勘違いしたりするみたいである。

実は、二年に一人くらいは、怒ったか、落ち込んだかして、翌週から教室に来ない人がいる。むろん講師の責任ではなく、それまで「自分には才能がある。すぐにデビュ−できるはずだ」と思い込んでいたらしいのに、指導を受けることによって「どうやらこの先、まだまだ相当努力しなくてはプロになれないらしいぞ」と気がついてしまうみたいなのである。で、本人の「プロになりたい」という意識が空回りして、自分の気持ちに収拾がつかなくなるらしい。短編なら滅多にないはずだが、50枚の修了課題ではたまにある。けど、せっかくの指導をして勘違いされたら、講師もやりきれない。やっぱり人による。なかなか難しい。

ま、といっても、専攻科に進学する頃になれば、皆それまでに何度も他人の作品指導も見てるし、自分も何度か指導を受けているので、講師にも慣れている。どの先生がどういうタイプの作家さんだということもわかっているし、どういう立場でこういう判断をしてくれるのかもわかっているから、「なるほど」と冷静にコメントを聞けるのだが、そうでない人はちょっと難しい。

とくに熱心に指導してくれる先生が多いから、人によっては「厳しい」と受け取る危険性がある。せっかく熱心に指導して、「なんでわかってくれないんだ!」と反感をもたれたり、落ち込んだりされたら、こっちも困る。講師は、全員プロ作家なので、「商業出版をめざすとしたら、こう書いた方がいい」と言ってくれているのだが、生徒さんは「書きたくて書いた作品だから、とにかくわかってほしい」のだ。でも、講師は「わかることはわかるのだが、まあ、プロをめざすなら、これじゃあダメだろう」。やはりアマチュアとプロとの間には、深くて大きな溝があったりする。

「他人が面白く読めるか」「ウケるか」なんかじゃなくて、アマチュアの生徒さんたちは、自分が書きたいという気持ちだけでパンパンにふくれていたりするのだ。

ただ「プロ作家養成」の小説講座でも、一概にプロ志望といっても「現実に作家になるよりは、できれば夢を見ていたい」タイプもけっこういるからなあ。けど、ホントに自分の好きに書きたいタイプなのだったら、そりゃ、好きに書けばいいのだから、わざわざ小説講座に入学する必要はないと思うんだけど。入学などしなくても、ただ書くだけなら、小説など誰でも書けるんだし。

長編指導は、とにかく受ける側の体勢(耐性)、もらったコメントを生かす能力(熟練)が必要だったりする。ま、専攻科の生徒は、もう耐久力がついていて、「頑丈」になっているからいいが、初心者が多い9期は、まだまだデリケート。

その9期も、いよいよ7月からは作品指導になる。毎年、専攻科に進学する人は、4割ほど。あとの生徒さんは、プロに作品を読んでもらうのも最初で最後になる可能性がある(いや、もちろん専攻科に進学しなくても、デビューするかもしれないけど)。

そんなわけで、たくさんの講師の中から、どの作品をどの先生に指導してもらうのか、それをこれから決めなくてはいけないのだった。9期の方は、6月中に、年度末(9月)までの指導スケジュールをすべて作るのだが(7月の上旬に専攻科も最終締切があるので、最終的には7月中旬頃にすべての予定が決定する)これが一番気を使う。

それが終われば、秋からの第10期の募集が開始する。9月には卒業だ。

明るく地味に、小説印刷

6月13日(火)
朝から小説講座の事務所。

11時に野田阪神で待ち合わせて、事務所の隣のファミレスで打ち合わせ。1時から夕方まで、山のような発送作業。とくに専攻科。先週配った作品なのだが、あとで原稿修正があったのに、古い方の原稿が印刷されてしまったので、全生徒へ追加発送である。印刷代と郵送代、追加の出費。ギリギリの予算なのに、またまた痛いこと。まあ、私のミスである。

まあ、締切後に修正原稿に差し替えるのは、たまたまその日に印刷してなかった時だけなのだが、できるだけ対応したいとは思っている。が、これがけっこう面倒である。限られた時間しかないうえに、複数の人間が事務処理しているので、ミスがおきやすいのよね。もし修正版を頼む時は、何月何日「修正版」と表紙に書いてもらいたいんだけどな。ただでさえ、専攻科は、すでにどっぷりと赤字コース。あんまり人件費をさけないのに、何かとかなり手間を食う。

とにかく古い原稿の方を印刷して配布してしまったのは私のミスなのだが、「ちゃんと送りましたよ。間違わないでくださいね」などと言われると、やっぱ哀しい(どうせブログにまた書くんでしょう、とわざわざ言われたので、やっぱ、ちゃんと書いておくのだった)。だって、作品を印刷しなおして、生徒全員に発送しなくちゃいけない、と、半日つぶしてやるのはどうせ私たちなのだもん。ま、今後、締切後に修正したい場合は、本人が作品集を全員分、印刷して勝手に配布してくださいまし。私は知らんことにする。専攻科の作品印刷は、すべて丁稚どんに一任。

欠席者への発送なんかも、専攻科は作品数が多いので、手間も郵送代もかかる。それなのに先日、ずっと欠席している生徒さんが久しぶりに出席して、「ずっと授業に出てないのだから、学費の返金とかないんですかねえ」と言われ、これも冗談とわかっていても、正直かなり悲しい。教室代と講師代、郵送費に、作品印刷代。ただでさえすっかり赤字なうえに、欠席されたら、その都度、手間も郵送費もかかるだけである。教室代と講師代は、どのみち固定費だから、出席者数が少ない講義なんか、私にとってはただもったいないだけである。正直、欠席されても、こっちにとってはメリットは何もないんだけど、なんでそんなこと言うかな。まあ、生徒さんにとっては、受講してないから、学費のムダになったってことなんだろうけど、そういうこと言われてもどうしようもないんだけどなあ。なんだか急にむなしくなってきたぞ。

ま、長期欠席の届けが出てるなら、まとめて送付しているので、さほど手間はかからないのだが、とにかく欠席されても面倒なだけである。皆勤してくれた方がいいに決まっている。欠席されても私にとってもソンなだけだし手間はかかるし、うれしくもない。

本科なら「退学届」を出せば返金制度があるけど、本人都合の休学は、とくに返金制度なんかないのだった。それに後期に入ってしまっているので、たとえ退学してももう返金はない(専攻科は、年間学費が3〜6万というべらぼうな低額なので、たとえ途中退学しても、もともと返金制度がない)

ちなみに、休学制度がないのは、「来年度にも生徒募集して、絶対に開講する」という保証がないから。今年の秋、10期の生徒募集は決まってるが、現時点では、来春以降の予定はむろん未定。むろん開講したコースは最後まで受講できることは保証するけど、小さな学校なので、年単位で、赤字運営ができないので、来年度、再来年度の開講についてはわかりません。あしからず。

それにしても、来年からの専攻科のカリキュラムはどうしようかなあ。完全な2クラス別にして、学費の額も、カリキュラムも、講義も、おそらく全部別々になると思うけど、はてさて、来年、専攻科に進学する人が一体何人いるのかな。

06/13/2006

小説とは関係のない休日(たぶん休日)

6月12日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝から外出。帰宅は、夜10時半。小説講座の事務所が休みなんだが、なぜか月曜日が一番働き者。

かなり疲れているのだが、10日締切の「第9期修了課題」を何本か読む。50枚程度の短編が、二十編近くあるので、どうせ全部いっきに読むことはできない。とにかく、講師指導にこのまま出せるかどうかだけ、チェックするためにナナメ読み。あきらかに印刷をし直してもらわなければいけない原稿が2編。両方とも、ワープロ印刷上の問題なんだけど、そのうち1編は、かなり太いゴシック体。まあ、ショートショートくらいなら、印刷が読みにくくても読めるが、50枚くらいの短編になると、さすがに印刷形式によっては、最後まで読めないのだった。太ゴシック体は、印刷にはくっきり出ていいのだが、長文を読むにはツライのよね。

小説講座の生徒さんには、直接、いろいろ訂正してもらっているのだが、どういうわけかワープロ印字が悪い人がけっこういる。コンテストの応募者でも何割かの人は、ワープロ印刷の形式がマズイ。うちでやっているコンテストなんかは、たったの5枚だから、どんなに印字が悪くてもよほどでない限り読めるけど、10枚、20枚になると、もうダメである。たぶん50枚、100枚、それ以上になると、中身がいくら面白くても、たぶん読むのがかなり苦痛になる。せっかく内容が面白いのに、印刷が悪いだけで落とされたらかわいそうなんだろうが、つらいものはツライ。しかし、小説を書こう、などと思う人は、たぶん新聞も、雑誌も、単行本も、日頃からいっぱい見てるんだろうから、文字のレイアウト感覚ぐらい、自然と身につけるもんかと思っていたら、案外そうでもないのだな。日頃からいくら目にしていても、意識しなきゃ、見えてないのと同じだもんな。

疲れているので、内容までチェックするヒマはなし。

かんべ先生からメール。先週の講義で説明できなかったからと、わざわざ添付ファイルがついている。あんなに毎日忙しいのに有り難いことだなあ(自宅は古いMacなので、ファイルが開かないから、明日チェック)
さらに、原先生からもメール。こちらも、先週の講義後の懇親会で、生徒さんから質問があったという件をわざわざ調べてくださったらしい。いい先生ばかりで、みんな幸せ者。

しかし、原先生からのメール。「出雲の黄泉比良坂(よもつひらさか)の場所について」って、なんでそんな質問? いつの間にそんな話題になっていたのかなあ。しかも、なぜこんなに詳しいのかしら、原先生。やっぱ、謎。

06/12/2006

小説とは関係のない休日(水都遊覧、毛馬閘門、赤川鉄橋、本能寺)

6月11日(日)
小説講座の事務所は、日曜月曜お休みです。

午前中、家事、買物、図書館。調べものがあって、つい図書館にちょっと長居。昼食が30分ばかり遅れて、家族から一斉ブーイング。まったく主婦はつらいよ。

2時頃、自転車にて外出。大阪城近く、NHK大阪の横にある『大阪歴史博物館』へ。おめあては開館5周年記念の特別展『水都遊覧』である。昨日、見に行ったという原先生に余っていた招待券をゆずっていただいたので、300円観覧料も無料。一緒に来た息子は、中学生だから無料。ついでに自転車なので、交通費も無料。

しかし、なかなか面白い特別展。ちょうど始まった学芸員の展示解説を聞きながら、いろいろ見る。所蔵資料が中心なのだが、なかなか面白い資料がいっぱい。意外に面白かったのだが、『大砂運衣装付け』(天保2)とか、『海川諸魚掌中市鑑』(天保8)など、ちょっと変わった資料。「摂河水損村々改正絵図」なども興味深かった。天神祭関係の資料があり、『天神祭礼船渡御図』『天神祭礼図屏風』(江戸時代)などもなかなか。こういう資料をまとめて見せてくれるのはたいへん嬉しい。

4時過ぎ、近くでコーヒーを飲んでから、まだ一度も「毛馬の閘門(こうもん)」を見たことがないと息子が言うので、天満橋から大川沿いを自転車で北上。桜宮公園からサイクリングロードを走る。「毛馬の閘門」というのは、淀川と大川の合流地点にある水門(大川側)なのだが、淀川側に「毛馬こうもん」とでっかく書いてあるので、地元の人はみな「こうもん」と呼ぶのである。淀川の大堰の近く、阪急電車の千里線が淀川を渡るあたりにある。ついでに堤防を走り、地元では有名な「赤川鉄橋」へ。自転車を置いて、淀川の真ん中まで「赤川鉄橋」を歩く。城東貨物線が淀川を渡るための橋なのだが、橋自体は複線用の幅がある。城東貨物線は単線だけなので、この横に、木製の仮橋があるのだ。この木製で、幅が狭い橋の部分は、歩行者か自転車なら通行できるので、地元の人はかなり利用している。むろん車やバイクは通れないのだが、人はけっこう歩いていて、自転車も走る。木製のガタガタする橋なので、雨の日は、けっこうスリル満点。むろん淀川は広く、ふきっさらしなので、真冬はかなり寒いんだが。

けど、今日は、天気もいいし、寒くも暑くもなく、なかなか気持ちいい。わざわざ自転車を置いたのは、歩く方がじっくり淀川を観察できるからである。生活道路として使われているので、買い物帰りのママチャリ、犬を連れた老夫婦などが通り過ぎていく。歩きながら、中1の息子にいろいろ淀川について説明する。彼は、豊里大橋は自転車で走ったことがあるが、長柄橋は見たことがなかったらしい。そういや、小学校の社会見学も、この近くの柴島浄水場じゃなくて、たしか庭窪浄水場だったよな。(大阪の浄水場は3カ所で、中部と東部は、豊野浄水場からの配水)

さらに上流に移動し、城北の「わんど」で自転車を止める。息子が「沈む夕陽」をスケッチしたいというので、菅原城北大橋のそばに、二人で並んで座る。夕陽を描いている息子の横で、私は菅原城北大橋を描くことに。この橋は、たくさんのケーブルをのばした2つの柱が印象的な斜張橋で、白く優美なシルエットが美しい。淀川では比較的新しい橋である。上流側にある「豊里大橋」も斜張橋だが、こっちはちと男性的なので、余計、優雅に見えるのかもしれない(下流側にある長柄橋はアーチ橋。一部、桁橋)

私の「お散歩用リュック(小)」には、色鉛筆しか入ってないのだが、二人ともメモ帳に小さくスケッチ。ちなみに「お散歩用リュック(中)」には、水彩セットとスケッチブックが入れっぱなしになっているのだが、これも滅多に使わない。子どもたちが小さいと、おちおちノンキにスケッチなんぞできるわけがない。ただ最近は、子どもたちも大きくなって、もはや放し飼い。虫取りやら、木登り、秘密基地の制作に勝手に夢中になっていて、こっちはただ待機するようになったので、たまにスケッチくらいできるようになったけど。

とは言っても、私は、大きな遊具があると、思わず子どもに混じって遊んでしまうタイプ。だが、混んでいる休日に、大人が真剣に遊んでしまうとけっこう目立つ。他のお母さんたちは、遊具で遊ぶ子どもたちに「気をつけてね」と優雅に微笑みかけているのに、私は子どもたちに混じって、でっかいジャングルジムに飛び込んで、汗だくでドスドス、ハアハア遊んでいると「ママ、ここ危ないから落ちへんように気ぃつけや」と反対に子どもに声をかけられたりする。どうも恥ずかしい。ま、おとなしく絵でも描いている方がマシなんである。

しかし、なんだな。子どもの頃は、ドンくさいタイプで、いつも友達が登っているジャングルジムを下から見上げていたような子どもだったのだが、それが大人になって、ジャングルジムの上から、いつも他の大人を見下ろすようになるとは思わんかったなあ。あのお母さんたちは、私と違って、子どもの頃いっぱい遊んだから、今はやらなくて見てるだけでいいのかなあ。木登りとか、虫取りとか。子ども用の遊具とか、もうやりたくならないのかなあ。

夕食を食べに行ったりして、のんびり8時すぎに帰宅。家に着くと、双子の娘が玄関まで走ってきて「ママ! 信長が、ついさっき、死んだで!」と言う。またまた大河ドラマの真っ最中。なるほど、ついさっき、本能寺。

06/11/2006

本好きの編集者、小説志望もがんばってます

6月10日(土)
朝から小説講座の事務所。午後、文章教室は、編集者の原章先生。夕方は、専攻科は青木先生。9期のクラスは、かんべむさし先生。

午後の「文章教室」は、原先生の講義。原先生は、フリーランスの編集者。いつもニコニコと笑顔で大変やさしい方だけど、すでに百冊以上の書籍の作られたベテラン編集者なのだった。
前半、「編集の基礎について」の話。後半は、ご自分の体験などを交えながら、本の紹介。「大好きな本の話なら、いくらでも話しますよ」という究極の本好きの原先生。
「『我が子じまん』になるのですが、自分の扱った本の話をさせてくださいね」と嬉しそうに、企画から制作までの話をいろいろ紹介をされる。今日も、数十冊の本をカバンに詰め込んで持って来られている。原先生の本は、装丁も豪華で、ハードカバーも多いから、これを自宅から持って来られるとかなり重いと思うのだけど。あ、もしかするとやっぱ「全部、我が子」だからぜんぜん重くないのかしら。それでも、これまでに手がけた書籍は百数十冊あるだろうから、これはその中のほんの一部。

原先生は、ご自身が好きなテーマで企画をして、著者を見つけてくるので、惚れ込み方もすごい。フリーになるまでは、大阪の老舗出版社の創元社に20年ほど勤務されていたいのだけど、東洋医学からはじまって、テルミンとかサルタヒコとか、その目のつけどころがなかなか面白い方である。趣味(?)が高じたという『別冊太陽・神楽』や『出雲』『熊野』『飛鳥』など、あるいは『飛田百番』や大阪関連の色々な書籍。編集者なので、たいていの著書にはどこにも名前が出て来ないのだが、もしかすると原先生が企画編集された書籍の数々は、小説講座の生徒さんでも、知らないうちに目にしたことがある人がけっこういるのかもしれない。実際、『飛田百番』の本は、専攻科の生徒さんがたまたま読んで、すぐに小説の舞台にしたくなったとか。

今日も、その中から、わざわざお持ちいただいた本の数々が、生徒さんの関心を集めていた。やっぱり全部おもしろそうな本ばかり。私は、数年前から手がけていた「別冊太陽」シリーズのものは知っていたのだが、最近、大阪市「平野区史」を編集されたと聞いて、ちょっと驚いた。これ、ちょっとスゴイ。大阪で、こんな立派なモノ、初めて見た。すごいすごい。意外と知られてないのだが、平野区は、大阪市内では歴史がたっぷり残っている地区のひとつ。むろん古墳時代からの歴史があり、空襲で焼けていない建築物も多い。そういえば、数年前、たしか芦辺先生の取材に同行した覚えがあるなあ(大阪在住の頃、たまに声をかけて取材に同行させてくれたりしたのだった。守口の乱歩邸や和時計収集家さんなど、日頃はお会いできない人に会えるので大歓迎)

しかし、ほんとに立派なハードカバーだし、すごい写真の量。うっとりするほどキレイな本だなあ。非売品だけど(あ、もう少し簡易な製本では販売してるそうです)貴重な写真も満載。今、大阪市は、ほとんどお金が出せない状態なので、それもあってびっくりしたのだが、平野区の人々の寄付もたくさんあったそうだ。

「自分が好きなテーマで企画をしても、それを同じように面白いと思ってくれる人が、ある程度はいるはずだ。大ヒットはムリでも、そういう人が数千人いるなら、本を作る価値がある」と原先生が思えるようになったのは、高校生の時に聞いた「外骨」がきっかけなのだそうだ。当時は誰も知らないような「ただのヘンな人」だったから、こんな人に興味を持つ人は少ないんだろうな、と思っていたのだそうだが、数年後になって、他社からいろんな全集が出たりしたので、かなりビックリしたんだそうだ。でも、それがきっかけで、「自分が面白いと思ったものは、同じように面白いと思ってくれる人が、たとえ少数でもきっといるのだな」と思ったんだそうだ。それ以来、自分の感性にも自信がもてたのだとか。

せっかく「神楽」のビデオも持参いただいていたのだが、見る時間がなくなってしまった。しかし、とにかく好奇心と知識が豊富で、講義後のお話も興味深い原先生。終わってから、となりのファミレスでしばらく歓談。しばらく前から「小栗判官」の本を企画されているのだが、今のところまだ出版のメドがたってないらしい。「売れないだろう」という出版社の意向らしいのだが、そうかなあ。あの話はけっこう妙な話なんだけど(なにせ美形ヒーローが餓鬼になってしまう話)、作家さんでも好きな人が多いと思うんだけどなー。妖怪系だって流行ったわけだし、案外、売れると思うんだけどな。ホントどこかの出版社が出してくれないかしら。

たくさんの本を持った原先生。生徒さんの車があるので、とりあえずエル大阪までご一緒に移動。6時からの小説講座の9期クラスは、かんべ先生。専攻科は、青木先生。原先生と青木先生は、かなりタイプが違うけど、同じ編集者なので、少し話をされていて、専攻科の講義開始を10分ほど遅らせてもらう。いつもは定時に始めるのだけど、このところ専攻科は定時に来るのはほんの数人。

9期のクラスは、かんべ先生の講義。毎年、「質疑応答」形式。といっても、生徒さんから聞きたいこと話してもらいたいことをシートに記入してもらったものをあらかじめ集めて先生にお渡しし、それについて用意したものを丁寧にお話いただいている。今日も、実際に短編に使われたプロット表や資料などを見せてもらいながら、わかりやすい説明をしてもらった。ラジオ番組で忙しい毎日なのに、きちんと準備された内容で、これだけ丁寧にお話しいただくとホントに恐縮。

これで、9期のレクチャー講義は、あとは7月1日。眉村卓先生の講義を残すのみ。来週は、教室実習だし、7月から9月までは、いよいよ修了課題の指導講義だ。

講義後、見学の人が2名いたので、教室に残って少しばかり来年度の入学について話をする。ちなみに、今日の講義は、後期でも最後の方の授業なので、おそらく一般にはちょっとレベルが高いだろうから、あまり見学者向けではないかもしれないのだが、せっかく見学できるのなら、かんべ先生の日がいいというのがご本人たちの希望。

ところで、うちの小説講座の講義は、プロ作家の先生たちが十数人出講する形式なので、わりと個人的な創作ノウハウが中心になることが多い。いわゆる「小説の書き方」みたいな本がたくさん市販されていると思うが、そういうのを何冊かすでに読んだこともあり、さらにたとえ短くてもいいから、自分でも数作ほど書いたことがある……という中級者か上級者むけのカリキュラムになっていて、やや初心者むけではないのである。とは言っても、実際に入学される人のうち、今年だって半数近くがまったくの初心者なのだが、やはり初心者は「講義についていくのが大変」である。授業そのものは、「なるべく初心者でもわかりやすいように」と先生たちも話をしているわけだし、話自体がわからないわけではない。聞いているだけで、その場ではわかったような気にはなるのだが、本当に理解できているかというと、それは受け手側の問題がかなり影響する。プロ作家の先生たちが、小説読本などには載っていないような個人的な創作ノウハウを紹介してくれるというのは、初心者にはたぶん「わかったつもりでもホントはわからない」ことなのである。

たぶんまだ一度もプールに入ったことさえない人が、「クロールで、どうやればスピードを落とさずにきれいなターンができるか」みたいな話を聞いているようなもんである。たぶん話を聞くだけでも、リクツは理解できるので、その場ではわかったつもりにはなれる。けど、受け手のレベルによって、理解の仕方が違う。私自身、第1期の時からずっと講義を聞いているのだが、最初、それなりに内容を理解したつもりだったのに、第2期の時に聞くと、まったく同じ話でも「そうか。この話は、そういう意味で話されていたのだ!」と、今度は全然違って聞こえてきたことがあったのだ。当時、自分では「わかったつもり」になっていたのだが、全然そうじゃなかったのだ。という経験があるので、同じ話でも受け手によって、まったく違って聞こえるということは痛感している。もちろん複数講師だし、なにせ個人的な創作ノウハウなので、先生によって言うことももちろん違うのだが、それとは別に「受け手の理解レベル」の問題もあると思う。

けど、教室見学に来られる場合、生徒募集期は、どのみち前年のクラスの後半の授業になってしまう。こればっかりは仕方ないもんな。

さて、講義後、いつものようにワイワイと飲み会。あいかわらず香港映画みたいな小さな店内に、専攻科と第9期あわせて二十人ほど。かんべ先生は帰宅され(たぶん毎朝3時過ぎには起床されているはずの先生にとっては、たとえ8時9時でもすっかり「深夜」)、青木先生だけがいつもの中華屋へ。本日、作品を提出していたのに教室には来れなかった生徒さんが、10時頃になって遅れて登場。「教室には間に合わなかったけど、せっかくなので、青木先生から直接お話を聞きたい」と駆けつけてきたらしい。もうビールをかなり飲んでしまっていたはずの青木先生だけど、せっかくだからと離れたテーブルでマンツーマンの個人指導。ご苦労様です。青木先生は仕事が忙しく、日頃、一般の人から出版社に原稿を持ち込まれても、ほとんど読む暇がないそうなのだけど、うちの生徒さんには講義外でもけっこう丁寧に対応してくださる。たいへん有り難い。11時過ぎまで、ビールを飲みながら色々話をする。

帰り際、真冬でも半袖を着ている店長が、顔見知りの専攻科の生徒さんを見つけ、「アナタ、マダ、デビューシテナイノ。イツ、デビュースルノ。ハヤク、デビューシナキャ、ダメネ!」と声をかけていた。
さて「年内に3名デビュー」の私の野望は、はたしてどうなる。そろそろ夏である。


06/10/2006

今週から来週にかけて多忙です

6月9日(金)
午後から、小説講座の事務所。

このブログを作っているココログは、けっこうメンテナンスが長い。昨日も終日メンテナンス。もともと「書く」のと「アップする」のが違うパソコンで手動で行っているせいで、アクセスする機会が週1〜2回くらいしかないのになあ。あー、今日はとてもムリ。また一週間ずれこむわ。そりゃあ書いてすぐ、アップする方法に変えるとかすればいいんだろうけど。

というわけで、次はたぶん来週の木曜日。忙しい一週間なのである。

悩める落語

6月8日(木)
午前中、小説講座の事務所。午後から外出。

専門学校の授業用に、「落語」の何を使おうか、ずっと考えている。コレと言うのが思いつかない。人気がある定番のものが無難なのだろうけど、あんまりわかりやすいのもなあ。でも、専門学校の生徒さんは、生に限らず、テレビやラジオを含めても「落語を見たことがある」人は、平均およそ3割である。だから、わかりやすいのもアレだが、わかりにくいのは絶対ムリ。しかも、若い年代の人ばかりなので、人情の機微もちょっとわからんので、そういう話はムリだし。かといって、意外と奇想天外な話もそれはそれでダメらしいのよねえ。そういやファンタジー世代なんだけど、皆そろってSFはからきしダメだもんなあ。

それにそもそもギャグが苦手な人って、意外とけっこういるんだよねえ。なにせ以前、「タイムボカン」のビデオを一部紹介したら、「なんでこんな『くだらないもの』を教材としてとりあげるんですか!?」と文句を言われたことがあるのだ。まあ、「お約束ギャグ」なので、こういうのを楽しむのには、ある程度の「教養」がいるのだった。聞いた話では、東京の人は「吉本新喜劇」を見ても笑えないらしい。まあ、あれも「お約束ギャグ」なので、一種の教養が必要らしいのだった。ギャグで笑うのも大変なのだなあ(いや、感性の許容幅の問題かも)

まあ、キャラクターがはっきりしてて(できれば老若男女)とか、でも、よく知られた噺よりは、「へえ、こんなものもあるのか」みたいなものの方がいいし……とか、いろいろ考えていて、結局、悩んだ末に、もうすっかりわけがわからなくなり、結局、自分の好きなものをとりあげることにしたのだった。ははは。あれは、たぶんウケないと思うけど。まあ、いいや。(ちなみに、死体が踊る話です)

あんな名作も、こんな名作も

6月7日(水)
午後から小説講座の事務所。

午前中、義母の病院など。午後から事務所へ。
夕方、外出。広告関係の打ち合わせなど。終日、バタバタと忙しい一日。

夜、かなり疲れ気味。最近、購入するのはいいが、ぜんぜん見る暇がないのが500円DVD。古い名作映画が安く売られているので、好きな映画やまだ見たことがないような名作を色々買い込んでしまうのだが、なかなか見る時間を作れない。どんなに仕事や家事が忙しくても、「本」なら何とかして読むんだがなあ。数分ずつでも読める「本」って便利。DVDも、ケータイで見られるようになったら、通勤電車の中でも楽しめるかもなあ。けど、やっぱ映画をあんな小さい画面で見るというのもねー。

古い名作は、画面もあまりキレイとは言えないし、テンポも遅いし、むろん特撮なんかもお粗末。ストーリー展開もたいていベタベタなのだが、やっぱりそこがいいのよね。でも、CGバリバリの最新映画とはまた違って、それはそれでストーリー作りの勉強にもなると思うんだが。たとえば100枚買っても、5万円。これはお得。

けど、今日も最後まで見る体力がないので、寝る。

06/09/2006

こっちに投げてきて

6月6日(火)
午後から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

丁稚どん、Oさんなどが来館して、ライティング講座の作品集、専攻科の長編作品の印刷作業など。印刷機はフル回転。せっせと事務作業。

作業をしながら、ぼちぼち雑談。小説講座の専攻科は、作品レベルは高いので、私もいろいろ勉強することが多い。専攻科の生徒さんの作品、とくにある一定レベル以上の作品に関しては、わからないのはやはり作者自身が迷っているからじゃないかと思うのだった。詳しいことはわからんけど、たぶんそんな気がする。

ところで、普段、生徒さんがあれこれ迷うのは、一つの作品に対して、あれもこれも全部入れようとするからではないのかなあ。というのも、よく生徒さんに「何が一番書きたいのかったの?」と聞いてみたら、それがアレもコレもソレも……と、けっこう多くを語ることが多いから。

つまり、アクションもあって、笑いもあって、友情も描いて、それなりにおしゃれな会話もあって、どんでん返しもあって、なんてことをけっこう気軽に言うのだった。ホントの欲張りかどうかわからないんだけど、軽く「今まで書かれてないミステリに挑戦してみた」「怖いだけじゃないホラーにしてみた」などとかなり気楽に言う人が多い(もちろん初心者の人ほど、気楽である)

本人が楽しんで書けるなら私もそれでいいので、それはそれでいいとは思っている。ただ、毎回そういう話を聞くと、やっぱりちょっと引っかかったりする。

だって、そりゃ「怖いだけじゃなくて、ちょっと笑えて、じんと泣けるホラー」に挑戦するのはいいんだけど、結局それは「怖くもなくて、ちょっとも笑えなくて、泣けもしないホラー」になってしまったりする。そうなる確率が高い。ほら、だって、まだ作品を書く技術が未熟だし、長編を書くのも大変なんだし。

けど、どうなんだろうなあ。なんで「怖いだけのホラー」じゃダメなんかな。怖いだけでいいんじゃないのかな。なんで、怖いだけじゃだめなんだろう。だって、ちゃんとしっかり怖がらせるだけでも、充分、たいへんだと思うもの。

そんなにいきなり二兎を追わなくてもいいんじゃないかなあ、と思ったりするのだが。
ま、書いているうちにわかるのかも、と思うし、新しいことに挑戦することもいいことだろうから、それは本人には言えないけど。

ただ、それで「なかなかうまくいかないんです」と言われると、やっぱり「そりゃそうだろうなあ」と思ってしまったりする。
「へえ、今度はホラーを書いているの?」
「いいえ、ただのホラーじゃないんですよ」
ああ、なんで「ただのホラー」じゃダメなんかなあ。

読者をびっくりさせたり、泣かせたり、笑わせたり、怖がらせたり、うっとりさせたり、興奮させたり。
エンターテインメント系の小説ってのは、かなりはっきり読者の感情をゆさぶらないといけないだろうし、しかも、それを文章だけでやらないといけないから、けっこう大変だろうなと思うのだけど、プロ作家の作品は、それが可能なのだ。プロの作品なら、たいてい不思議なほど、きれいな放物線を描いて、矢のようにまっすぐこっちに飛んで来る。必ずちゃんとこっちに向いて、投げてくる。どこを狙っているのか、ちゃんとはっきりしている。だから、矢が当たる。命中率も高い。

でも、生徒さんの文章は、時々、わからない。
たまに、あっち向いて投げてるような気がすることがある。なんだかどこか違う方向に投げてるみたいな。「こっち」が読み手で、「あっち」が書き手としたら、まるで「こっち」ではなく、「あっち」から「あっち」に投げてるみたい。いや、違う? じゃあ、そっち?

理由はよくわからないのだけど、これは、単なる文章技術の問題なんだろうか。それともまた別の問題なんだろうか。

06/06/2006

小説とは関係のない休日(マンガ原案)

6月5日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝から外出。午後から、専門学校にて非常勤講師。
講義後、一人の生徒さんが「すいませんが、プロット見てもらえますか?」と持ってきた。マンガのコースだから、もちろんマンガのプロットである。正直、私はマンガのプロットなんか見ても、全然わからない。だいたい私以外の講師は、ほぼ全員マンガ家さんなので、本来は他の先生に見せるべきである。私に作品を見せがる生徒さんは少ないはずなのだが、こうしてたまに数人は持ってくるのだった。まあ、見るくらいならお安いご用なんだけどね。ただ、たいていは、何が読んでもわからないことが多いので、実はほとんどアドバイスができない。

そんなわけで、もともと私の能力の問題もあるのだが、マンガ家志望の生徒さんの書くプロットというのは、正直、あまりよくわからないものが多い気がする。小説講座の生徒さんたちだと、さすがに「意味が全然わからないプロット」というのは、あまりお目にかからないのだが、内容がよくわからないのである。第一、見せてくれるものは、たいていセリフしか書かれてない。いわゆる「シナリオ」なら、セリフだけじゃなくて、多少の「ト書き」があってよさそうなものだが、どうせ自分で描くつもりの生徒さんは、セリフしか書きとめてくれていない。こういう場合「プロット」と言われても、よくわからないのだった。せめてサムネールにしてもらえばわかるのだが。

さらに、ただでさえセリフしかないからわかりにくいのに、よくわからないファンタジー設定がけっこう多い。

中学生や高校生の学園モノとか、いわゆる現実設定なら、それほど訳がわからないモノは少ない。恋愛モノなんかもそうだし、スポ根、アクションなどもまあまあわかりやすい。ホラーでも、少なくとも作者が何が書きたいのかくらいはわかる。で、たいてい困るのが、ファンタジー系で、いわゆる架空世界の話なのだった。こういうのは、ちと難儀。

実は、何が困るかというと、ズバリ作者がつまり何が書きたいのかがさっぱりわからないことで、その架空世界がよくわからないうえに(キャラクターの設定もやたら複雑)その世界の中で、意図のわからないただの食事シーンなんかが続く。

それは、たとえば酒場で、登場人物たちが延々と会話をしているだけだったりするのである。たまに「その世界の政情について」話していたりして、それからふいにモンスターが襲って来たりするらしいのだが、とにかくストーリーらしきものがなくて、ただシーンがつながっているだけだったりする。

こういうプロットを見せられると、正直、アドバイスしたくても、どうしていいのかよくわからない。なにせ「どこが一番何が書きたかったのか」がわからないのだった。「アドバイスを」と言われても、こういう場合は、そもそもストーリーが存在していない。ただ、ずっとシーンが続くだけである。そのシーンは何のためにあるのか、それがわからない。わからないから、アドバイスのしようがない。

だから、こういう場合、「ホントは、どこが一番描きたかったところなの?」と聞いてあげるしかないのだった。これまでの経験でいうと、こういうタイプの人は、「設定をちまちま考えるのが好きだけど、お話を考えるのは苦手」という人がけっこう多い。でも、設定だけじゃ話にならない。だから「正直、とってつけたような安易なストーリーらしきものをくっつけただけ」だったりするのである。

しかし、丁寧に話を聞いてあげれば、本来、考えていた設定の中にいろいろ描きたいものはあるらしい。だから、こういう場合でも、ゆっくり会話ができるのなら、どうすればいいか、必ず見つかる。小説講座の生徒さんは、社会人ばかりだが、専門学校生は十代ばかりである。まだ、「自分でも何が書きたいのかホントよくわからない」という人が多いのだった(ただ、専門学校のクラスは40人前後なので、一人一人とはあまり話ができないけど)

本日の生徒さんも、やはりそんな感じで、「何を書きたかったの?」と聞いたら、一生懸命に「キャラ設定」を細かく説明してくれたのだが、さて、それをどうやったら短編マンガにできるのかは、私にはよくわからない。難しいものだな。でも、だいたいこの人はまだ一年生で、これまで一度もマンガ作品を最後まで書いたことがないらしいのである。だったら、「うまくいかなくてもいいから、とにかく書いてみたら?」と言うのが私のアドバイスだったんだけど、さてどうかな。

さて、小説講座の担当をするまでは、マンガとか、小説とかを書こうと思うような人は、まず自分で何かお話を思いついて、それを書いてみたくなった人だろうと思っていた。だが、案外、違うらしい。というか、案外、「今、書きたいものはないが、何か書いてみたい」という人の方がかなり多い。まあ、ぼんやりとはあるのかもしれないけど、最初からはっきりコレを書きたいと考えている人は少ないのだった。

それがいいのか悪いのか、それはわからない。ただ、少なくとも一作書いたら、ぼんやりとくらいは何かわかると思う。一作でわからなかったら、とりあえず二作書けばいい。最初からうまく書ける人なんか少ないから、どうせ最初のうちは練習作になってしまう。だから、とにかく一作でいいから、まず仕上げてみてくれればだいぶ違うんだろうけどな。初心者は、上達のスピードが早いので、間違いなく最新作がベスト作である。今はうまくいかなくても、もがいているうちに、自分が何を書きたいかわかる。そうすれば、きっといい作品のを書けるようになるのだった。

小説とは関係のない休日(琵琶湖疎水、哲学の道、吉田山)

6月4日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

日曜の朝は、少し遅めに7時半起床。午前中、家事などを片づけてから図書館など。
昼食に夏野菜のスパゲッティを作る。食後、すごく天気がいいので、「どこか散歩に行かない?」と子供たちに声をかけてみる。
「散歩? ママ、どこ行きたいの?」
「うーんと、川かな。なんだか川沿いを歩きたい気がするから」
「え、川? じゃ、やめとく。今日は、ママ一人で行ってきて。山か海ならいいけど、川は今イチ」
「あ、そうなの?」
「あ、私も、今日は友達と遊ぶから」
「ボクも、昨日のクラブで疲れたから、今日は家でのんびり休むわ」
……というわけで、なんだかつきあいの悪い子供たちである。またまた一人でおでかけ。まあ、子供たちと一緒でない方がのんびりできるんで、それはそれで嬉しいけどね。

リュックを背負って、とりあえず京橋駅。川沿いを歩こうと思ったものの、どの川にするか決めてないのだった。しかし、あまりにも天気がいいので、木かげのない淀川は暑い。うーん、どうしようかなあ、と思いつつ、とりあえず京阪電車の京橋駅の改札に入る。(最近、JRも私鉄も地下鉄も、みんなカード精算なので、先に切符を買わなくて済むようになった。だから行き先を決めずに改札を入っても大丈夫)
あ、そうそう。琵琶湖疎水! あれなら絶対、木かげだわ。それに今頃なら、しっかり観光シーズン。夏は暑く、冬は寒い京都だもの。今の季節に、行っとかなくちゃね。
ってことで、京都へ、特急に乗る。

特急電車の中で、地図を確認。「三条駅」で降り、ぶらぶら東へ歩く。天気もよく、修学旅行生らしい中学生や高校生の姿がかなり多い。10分ほど歩いて、岡崎公園。ここには、京都国立近代美術館、京都市美術館があり(そのまま北へ行けば平安神宮)、その横に流れるのが、琵琶湖疎水なのである(近代美術館では、たしか「藤田嗣治展」をやっているはずなんだけど、7月までなので、また次の機会に)

そのまま歩いていくと京都市上下水道局の「琵琶湖疎水記念館」もある。せっかくのなので、ここもちゃんと見学。館内は静かで、ほとんど人もいない。ちょっと休憩して、インクラインや路面電車の模型を見る。ちなみに、ここは入場無料。岡崎公園には年に何度も来てるけど、私もここに入ったのは初めてなのだった。なるほど、蹴上発電所の完成が明治24年。京都電気鉄道伏見線が明治28年。個人的には、日本初の急速濾過方式だった「蹴上浄水場」(明治45)の模型がちょっとおもしろかった。数年前、日光の近くの今市浄水場で、最新型と旧型の二種類を見学したのをふと思い出す。

それから記念館を出て、インクラインをぶらぶら歩き、第1疎水と第2疎水の合流点へ。「殉職者弔魂碑」と「田邉朔郎像」(琵琶湖疎水の設計者)を見てから、そのままレンガづくりの疎水沿いを北へ。南禅寺の「水路閣」まで歩く。少し怖いくらいの高さだが、きれいな水辺にはさらさらと風が吹く。山が近くて、少し高くなっているので、木の葉の隙間から、京都の寺などがちらちら見える。けっこう涼しい。水路閣まで来ると、さわやかな半袖の制服姿の中学生が数人いて、社会の先生らしき人物に話を聞いていた。やっぱり修学旅行シーズンなのだなあ。南禅寺を迂回して、そのまま疎水分線へ。ここからは、観光客もけっこう多い。いわゆる「哲学の道」だ。なので、私もぼんやり考えごとなどしながら、銀閣寺までぶらぶら。

といっても、私が考えたのは高尚な哲学ではなくて、二十年ぐらい前のこと。確かこのあたりに、デートで来た覚えがあるのだが、はたしてそれが誰と来たのかがさっぱり思い出せないということ。うーん、どうしても思い出せん。高校や大学生の頃と言えば、神戸や京都がデートコースである。一度きりのデートの相手なんだろうけど、なぜか覚えていない。さわやかな初夏の京都。こんな日に、女一人でぶらぶらしてるんだから、せっかくなので「若い頃の思い出」にちょっとくらいふけりたい気もするんだが、うーん、肝心のその相手が誰だかわからんとはなあ。なんだかソンをしたような気さえする。うーん、誰だっけな。鴨川を歩いた相手なら覚えているんだけどなあ(なにせ超ハンサムのすらりとした京大生。一度だけデートしたけど性格も誠実なスポーツマン。でも残念ながら私にはもったいなすぎて気後れしてしまったのだった)

そのまま銀閣寺前まで歩いて、ふと「三色ソフトクリーム」に目がとまる。「マンゴー、ほうじ茶、抹茶」で250円。なかなかおいしゅうございました。しかし、やはり色気より食い気だな。ついでに銀閣寺前のみやげもの屋をのぞいて、せんべい、抹茶キャラメルを買う。ふと、あんまり食い物ばかりなので、ちょっと反省。あわてて、実家の母と義母のために優雅な友禅ハンカチを数枚買う。

さすがに疎水沿いに歩くのにも飽きてきたけど、もうそろそろ銀閣寺も閉まる頃。いくら山が近くても、今からちょいと登るのもムリだし、今からならせいぜい吉田山。というわけで、ぶらぶら北側から吉田山公園へ入る。小さな山だから、当然、あっという間に登頂に成功(ちゃんと山頂公園がある)、夕暮れの京都の町をながめる。大文字山も見える。夏は暑いけど、秋になったら登ってみようかな。そのまま西に歩いて、丸太町から京阪電車に乗る。ちょっと散歩のつもりで、4〜5時間ほど。涼しかったので、水筒のお茶もあまり減らず。

ところで、京阪電車の特急は、二階だて車両にテレビつき、なかなか面白い路線なのだが、これで京橋〜三条はたったの400円。大阪〜京都間といえば、阪急かJRしか利用したことがないという人もけっこういるらしいけど、京阪もなかなかよろしいのである。京阪電車で一番好きなのは、三川合流である。この三川というのは、桂川、宇治川、木津川の3つの川のことで、これが合流して、淀川になる。この三川合流のところからが淀川であり、ここからが大阪なのである。京阪だと、「淀」(京都競馬場がある)と「八幡市」(石清水八幡宮がある)のちょうど間がこの三川合流である。もちろんJRでも、阪急でも三川合流があるのだが(阪急なら「大山崎」で、JRなら「山崎」)、もちろん新幹線も同じだが、これらは桂川の西部を走っているので、京阪電車とはかなり違った風景しか見えない。京阪だけは、もともと桂川と宇治川の間を走っているのだが、合流部に入るとまず宇治川をぐるりと回って、木津川の東側に大きくまわり込む。京阪だけが、阪急やJRの対岸を走っているのだった。

昔から、このあたりの風景は、かなり好きなところである。とくに宇治川を越え、ぐるんと木津川を渡るあたりが楽しくて、京都からだと右手に視界が開けて、大山崎、むこうに天王山である。なかなか面白い風景だと思う。ずっと大阪に住んでいても、一度も京阪に乗ったことがない人がたまにいるらしいが、乗られた時にはぜひこのあたりの風景をお楽しみくださいませ。八幡市駅と淀駅のあいだです。

京橋に着いて、かるく夕食を食べてから帰宅。すっかりのんびりしすぎて、もう8時半すぎ。家に着くと、小3の娘が走ってきて、「ママ、大変やで。大変。来週、死んじゃうねんて! さっきテレビでゆうとったで! 来週死ぬねん」といきなり言う。帰るなり、えらいぶっそうな話である。
「はあ? 誰が死ぬって?」
「ほら、信長!」(どうやら「功名が辻」を見ていたらしい)
「え、ああ、大河ドラマか」
「うん。ほんで、信長って誰?」
「え? ああ、ほら、あの秀吉が『殿』って呼んでる……」
「ああ、あの顔のコワイ人? いばってる人のことやろ?」
「コワイ顔? まあ、秀吉も、一豊も、家来やからな」
「ほんで来週、信長が死ぬらしいねん。さっきテレビでゆうとった」
「ああ、そうか。そろそろ本能寺やねんなあ」
「アホやなあ。なんにも知らんくせに。信長なんか、もう死んでるねんで」
「うるさい、兄ちゃんは黙っといて! テレビなんか全然見てなかったくせに。ちゃんと来週、死ぬってゆうとったわ!」
「来週なわけないやろ。もうとっくに死んでるねんからな」
「でも、さっき、テレビでゆうとったもん!」
「あほやなあ。信長なんか何百年も前に死んでるやろ」
「ちゃうもん! さっき、ゆうとったもん。まだ死んでないもん!」
「だから、あれはテレビやろ。ホンモノは、もう死んでるねん」
「そんなことないもん。まだ生きてるもん! 兄ちゃんのバカ!」
「もおー、兄ちゃん、そういうしょうもないこと言わんとって。今、この子ら、テレビの話をしてるんやから」
「ホントやもん。まだ死んでないもん。生きてるもん。さっき千代がゆうとったもん!」
「千代かて死んでるねん。もうみんな死んでるねん」
「うわあああん。兄ちゃんのバカ! まだ死んでないもん! 来週、死ぬんやもん!」
「……なあ、兄ちゃん。そんなしょうもないことで、妹をいじめておもろいか?」
「いや、いじめてるつもりじゃないねん。でも、ほら、ほんまに、みんな死んでるんやからさ」
「だから、黙っとき。ドラマの話だけにしといて、ややこしいから」
「兄ちゃんなんか大キライ! だって、千代が千代が! うわあああん」
「はいはい。わかったわかった。じゃ来週は、楽しみに見るからね」

というわけで、どうやら来週が本能寺だそうだ。
ってことは、天王山も、もうすぐだな。

「ぶつかる」指導は第9期、編集者とびいり参加の専攻科

6月3日(土)
朝から小説講座の事務所。昼、ライティング講座の講師は、元新聞記者の近先生。夜は、小説講座の9期のクラスは、堀晃先生の実作指導。専攻科の講師は、五代ゆう先生。こちらは長編を含む作品指導。

ライティング講座は、元新聞記者の近先生。新聞記者の人は、どうも社会部か文化部か、部署によってだいぶ雰囲気が違うのだが、この近先生は、社会部出身。社会部の記者というのは、なぜか私にはちょっと「無頼」なイメージなんだけどな。

夕方は、天満橋に移動して、小説講座2クラス。第9期のクラスでは、堀先生が先日の課題(「ぶつかる」シーンを書く)について、実作指導。提出作品のそれぞれの描写について、いつもながらの適確なコメント。一人一人に丁寧で細かい指導をしていただく。専攻科では、五代先生が作品指導。「ついさっきまで打ち合わせしていたので」と編集者の人がご一緒に。このあと、別の打ち合わせがあるそうなのだが(8時からか?)とびいり参加で、教室に座ってもらって、生徒作品を一緒に作品指導のコメントをしていただく。五代先生も、いつものニコニコ明るく厳しいコメントで、4編を指導。でも、せっかく編集者の方が来られているのに、今日の専攻科の出席率はかなり低い。

講義後、堀先生や編集者の方は帰られたので、五代先生とワイワイいつもの中華屋へ。9期生も、来週が修了課題の締切日なので、ちょっと人数が少ない。しかし、来週の作品提出、大丈夫なんかな。そればっかりが心配だったりして。

でも、専攻科には、久しぶりの生徒さんの姿もあり、結局、11時半まであれこれ話をして帰宅。

大型書店と3匹の子ブタ

6月2日(金)
朝から小説講座の事務所。夕方までコツコツ事務作業。

夜、大型書店に行く用事ができて、帰宅は9時頃になる。子供たちの夕食は、実家に頼む。が、実家に迎えに行くと、「ずっとケンカしててうるさいから、もう帰した」と言われる。実家の母は、面倒になると孫の世話をしたがらない。そういう性格なので、機嫌が悪いともうダメで、アテにはなるようでならないのである。夕食だけは食べさせてもらったたようだが、3人ともそのまま着替えもせずにバタンと寝ていた。父親はダンスの練習で、今日も留守なので、子供たちだけならこんなもの。中学生になった息子も、まだアテにならない。ムリヤリ3人とも起こして、歯磨きと着替えをさせて寝かせる。どうも息子は、中間テストの成績も悪かったので、フテ寝みたいだけど。

ムラサキカタバミの夜

6月1日(木)
午前中、小説講座の事務所。午後から外出。

駅の近くの植え込みのかげに、ムラサキカタバミがたくさん咲いている。クローバーに似た緑色の三つ葉に、ピンク色の花を咲かせる雑草のアレである。もう少し小さくて、黒っぽい三つ葉に、黄色い小さな花を咲かせるのがカタバミだけど、ムラサキとつくだけで(どう見てもピンクだけど、名前はムラサキなのだ)なぜだかこちらはあまり雑草っぽくない。やはりどうも昔、観賞用にされていた外来種らしい。けっこう愛らしい姿である。

しかし、カタバミはカタバミ。花も葉も、昼は開くが、夜になると閉じている。どんなに群れて咲いていても、日が暮れてしばらくすると、全部、律儀にぴっちり花を閉じるのがなんだかおもしろい。毎晩毎晩、しっかり閉じる。戸締まり用心、火の用心。なんだか几帳面なもんである。そろって群れて咲いていて、夜になると全部、ぴっちり閉じている姿を見ると、なんだか一つ一つが人間のようにも見える。実は、私は昔、カタバミとカタビラを間違えて覚えていて、どうもそこからの連想らしい(どうやらスズメノカタビラと混同したようだ)。カタバミなら「傍食」(葉が欠けているように見えるから)と書くらしいが、カタビラなら「帷子」である。人間が身につけるものだ。

で、どうも私にはムラサキカタバミは、小さな歩兵たちの鉾に見えるらしい。夜、花も葉もぴっちり閉じている姿をみると、まるで戦闘前に、立ったまま小休憩をとっている小さな兵隊たちのようである。むろん誰と戦うつもりか知らないけれど、こんな町の片隅で、みんな一斉に戦闘態勢をとっている。とにかく毎晩毎晩、みんな真面目に、花や葉を閉じたり開いたり。明日の戦闘に備えて一斉待機。そんなわけで、毎日、その前の道路を通るたびに、私はちょっぴりクスクス笑いながら、「ご苦労様」と声をかけてみたくなったりするのだった。

06/02/2006

月末にてバタバタしてます

5月31日(水)
午前中、外出。午後から小説講座の事務所。

月末に提出しなくてはいけない書類が山のようにあるのだが、なかなか完成せず。打ち合わせ等あり、ゆっくりパソコンの前に座ってられないのが問題なのかも。
夕方、エル大阪に教室代払い込みなど。


メキシコに、ガンジス川!?

5月30日(火)
午後から小説講座の事務所。雑用いろいろ。月末にて忙しい。

夕方、帰宅して、中間テスト中の長男に「ちゃんとテスト受けられた?」と聞く。朝、まだ頭痛がすると言って、よろよろ登校していったはずの彼だが、なぜかピンピンしている。
「うん大丈夫! ほんで、テストはじまったら、なぜか頭痛もなくなってん!」
「え、すっかり治ったん?」
「うん。なぜかすっきり治ってん。どうもボク、テスト緊張しすぎて、熱出したみたいやねん」
「え、ホンマ? ってことはやっぱり風邪じゃなくて……」
「うん。風邪じゃないみたい」
「とにかく元気なったんならええけど。で、どうやったテストは?」
「うん。けっこう書けた」
「けっこう書けた? それやったら、まあまあかな」
「うん。とにかく全部なにか書いたで。まあ、何問か間違ったみたいやけど。少なくとも1個はインドやったから」
「インド?」
「うん、社会の問題で、『南アジアで、ガンジス川が流れてて、カレー料理で有名な国は?』っていう問題があってんけどな」
「えらいカンタンな問題やな。サービス問題かなあ」
「でも、ボク、まず最初に、南アジアじゃなくて、南アメリカ、って勘違いしてて」
「えっ? なんで? カタカナぐらい読めるやろ?」
「うーん。どうもボク、定期テストはじめてやから、めちゃくちゃ緊張してたみたいやねん」
「それにしたって、そんなん、どうやったら間違ったりできるん? しかも、カレーやろ? カレーって、インドやん」
「ああ、それな。ほら、カレーって辛いやん?」
「カレーやから辛いやろ。でも、辛くても何でも、もうインドしかないやん」
「ちゃうねん。辛いってことはさ。ほら、もともと南アメリカやと思ってたわけやろ」
「でも、普通、その時点でわかるんとちゃうの?」
「ま、とにかく勘違いしてて、しかも辛いってことは、それって、メキシコ料理かなあ、って」
「え? どこからメキシコ? カレーやってゆうてるやん。それやのに、なんでメキシコ? どうやったら、そういう考え方できるの? しかも、ガンジス川やろ?」
「ああ、メキシコにも、そんな川あったのかな、って」
「カレーやろ。ガンジス川やろ。それ、どう見てもインドやって。誰がどう考えてもインドやって」
「……でも、ボクはメキシコやと思ったから、きっとそんな川あるんやろなーって思って、答えの欄にメキシコって書いてん」
「……あのさあ。アンタって、もしかしたら、問題文ぜんぜん読む気ないやろ」
「そんで、テスト終わったら、『あれだけは正解したぞ』ってみんながゆうてて」
「そら、そんなん、どう考えても一番わかりやすい問題やで」
「クラスで一番アタマ悪いヤツまで、あれだけは絶対わかったってゆうてたから、ボクちょっと恥ずかしい」
「それ、かなり恥ずかしいんとちゃうかなあ」
「ま、でも、それ以外は、全部書いたから、百点やったらええねんけどなー。あっ、そっか、百点はムリなんや」
「百点って……ああ、もう。けど、ええわ。どうせ他にもいっぱい間違ってるんやろうけど、とりあえず熱さえ出さんと、最後までテスト受けられたんやったら、それでええことにするわ。百点でも零点でも別にええわ。それ以上アンタに望むのは、高望みやわ。今回ママは悟ったわ」
「でも不思議やなあ。テスト、もう半分終わったと思ったら、アタマ痛いのも、すっきり治ったもんなあ」
「ふーん。で、今日は何してたん?」
「今日? ええっと、今日、何してたっけボク? あ、また勉強せえへんかった!」
「ええねんええねん。知ってるわ。アンタの布団によだれのあとがあったのも、さっき見たから」
「あ、そうやった。ボク眠たかったから、ずーっと寝ててん。だから、ぜんぜん勉強してないねん」
「かまへんかまへん、もう。また熱出したら困るから」

しかし、アホ息子は、あいかわらず文章読解力に問題があるらしい。
けどやっぱり知恵熱だったのかもな、あれは。

小説とは関係のない休日(知恵熱!? 大ピンチ)

5月29日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝から外出。昼から専門学校にて非常勤講師。夜10時に帰宅。

家に帰ると、小3の双子の娘たちがまだ起きていた。そして、明日から中間テストの中1の息子はすでに寝ていた。
「兄ちゃん、もう寝てるの? ちゃんと明日の勉強してた?」
「ううん。ぜんぜんしてないと思う」
「ええっ、勉強せんと寝てるの?」
「うん。兄ちゃん、熱あるねん」
「え? 体調悪いの?」
「うん。頭が痛くて、熱あるって、夕方からずーっと寝てる」
「ええっ、風邪? 昨日までピンピンしてたのに?」
「パパがどうも風邪じゃないみたいやな、ってゆうてた。もしかして『知恵熱』ちゃうかって」
「ええーっ、何それ? 知恵熱う?」
「ママ、知恵熱って何? 兄ちゃん、昨日めずらしくいっぱい勉強したから熱でたの?」
「えーっ。それ、ホンマ?」
「ママ、勉強って、いっぱいしたら熱出るん?」
「いやあ、そんなこと、普通はないよ。というか、知恵熱って、もっとずっと小さい子やろ普通」
「でも、兄ちゃんって、普通じゃないやん。だから熱出るん?」
「いや、それは……どうかな。いや、そんなはずは」
「だって、兄ちゃん、昨日めずらしく、いっぱい勉強したんやろ?」
「でも、小学校の時の問題をほんの数ページしただけやで。あれで熱出したとしたら、日頃、どんだけやってないねんってことになるやん」
「でも、兄ちゃん、勉強したことないもん。アホやもん。だからきっと知恵熱になってんで」
「ええ? まあ、それはともかく、体調悪いって、明日、大丈夫かな。まさかテスト当日になって、学校休むとか言い出すんじゃないやろなあ。いや、あの子ならありうる。ああ、ホンマなんであの子だけ毎日、あんな波瀾万丈に生きてるんやろ」
「そうかあ、やっぱ、日頃から勉強せえへんからあかんねんなあ」
自分たちも成績の悪い双子も、さすがに考え深そうにしているのだった。ああ、中学に入学して、はじめての定期テスト。はたして大丈夫か。


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