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05/30/2006

小説とは関係のない休日(アホ息子は中間テスト前)

5月28日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

天気のいい日曜日なのに、午後から2時間ほどお仕事。専門学校の体験授業。
中1の息子は、明後日から中間テストの予定。

夕方、帰宅。家で勉強しているはずの息子だけが不在。双子の娘たちに「お兄ちゃんは?」と聞く。
「知らん。お昼ごはん食べてから夕方まで、ずっとパパと虫とりに行ってたから。今帰ったばっかりやねん」
「どこ行ったんやろ。兄ちゃん、ずっと少しも勉強してなかったから、せめて今日だけは昼からちょっとは勉強しいや、ってゆうて出かけたのに」
「勉強せんと、遊びに行ったんとちゃう?」
「あさってから中間テストやで。ぜんぜん勉強してへんのに」

結局、暗くなってからやっと帰ってきた息子。やはり昼食後、勉強もせずに、ずっと外で遊んでたらしい。
さすが、アホ息子である。しかし、他の教科はともかく、小学校の復習問題も出る「数学」がヤバイ。彼は、まだ分数や小数も、わからない。3月から解いている「小学校の算数ドリル」だってまだ半分もできてない。うーん。塾も行ってないし、平日も宿題すらしてないのだ。はじめての定期テストで、学校からは「くれぐれも勉強をさせてください」とキツく言われている。なのに、ぜんぜん勉強してない。平日、ぜんぜん勉強してないのだから、定期テスト前にも一切勉強しない……なんてクセがつくと、さすがにマズイ気がする。かなりキツク叱る。

周囲には「そんなに勉強勉強と叱らないでもいいんじゃないの」と言われているのだが、それはやっぱりムリだよなあ。義母も「勉強なんかできなくてもいいじゃないの」とよく言うのだが、あの人の息子たち(つまり夫や義弟)は、成績はすごくよかったらしいなあ。ホントに成績が悪い、という状態が、どういう状態なのか、わからんのかもしれないなあ。たぶん20点とか、30点というテストって、見たことがないんじゃないのかなあ。そりゃ、いくらなんでもアホすぎるのはマズイんじゃないの。娘たちも、小3にもなって、まだ「12ひく5」がわからんし。

というわけで、はじめての定期テストでせめておそろしい点数をとらないように、小学校用の算数ドリルを10ページやるまでは夕食抜き。わざわざ父親には、うるさい双子を連れて近くのレストランへ行ってもらう。
「レストラン? オレが連れて行くの? うーん、なんか高くつくな」とブツブツ言う父親。彼は、なぜか息子にはほとんど無関心で、双子の娘にだけしか関心を示さない。息子の成績が悪いのも「勉強しないのは、自分の責任」とまったくの放任主義。それどころかジャマなだけである。

さすがに母親にキツク怒られて、涙を浮かべながら勉強をはじめる息子。終わるまでは口もきくな、と命じる。それから4時間。飽きっぽい息子にしては、自己最高記録。泣きながらお勉強(でも、ドリルはもちろんあまり進まないのだが)
さすがに可哀想になって、もらいもののインスタントラーメンがあったので、それを作ってやる(うちでは滅多にラーメンを買わないのだが、そのせいか、彼にとってはインスタントラーメンが一番のごちそう)

ラーメンを見て、とたんにニコニコ機嫌を直す息子。もう10時半。
「わーい! お腹すいた!」
「はい、どうぞ」
「やった! ラーメンや! がんばった! ボクいっぱい勉強した!」
「ほんまアンタにしたら、よくがんばった方やけど、なにせそれまで全然してへんかったからなあ」
「がんばった! ボクってエライ! ラーメンも食べられる! ヤッタ!」
「でも、これは夕食ぬきになったからやで。そんで作ったんやで」
「うん。でもボク、ラーメン好きからこの方が嬉しい。たまには夕食ぬきでもええなあ」
「ノンキやなあ。で、これで少しは算数、わかるようになったの?」
「うん。めっちゃ、わかるようになったで!」
「ホンマかなあ。何がわかるようになったん?」
「うん。いろいろわかったで。ほら、このドリル、文章題がいっぱいあるやろ? それに南町と北町ってのが出てくるねんけどな」
「南町?」
「うん。どっかの地名やねんけど、そのまちに何人住んでますか、とか、問題に出てくるねん。でも、この南町ってのが出てきたら、なぜか答えだしたら、ぜったい北町よりも人口が多いねん」
「……ええっと、それ、たまたまやろ?」
「でも、ぜったいに南町の数が多いねん。でな、ボク思うねんけど、このドリル作った人って、ぜったい南町に住んでたと思うねん」
「え? そんなん、なんでわかるん?」
「だって、南町がぜったい大きいみたいに書いてあるもん。この人、ぜったい南町が好きやと思うで」
「そうかなあ。そんなん、ただの文章題やろ」
「あとな、リンゴとミカンが出てきたら、たいていリンゴの方が多いねん。だからボクわかったで。このドリル作った人は、ぜったいリンゴの方が好きねん」
「……ええっと、それって偶然と違うの?」
「いや、でも絶対やで。だから、ボク集中していっぱいやったから、いろいろわかってん」
「色々わかったって、もしかしてそれのこと?」
「うん。このドリル作った人、やっぱり変わってるわ。ボクな、ずっと問題文ばっかり気になっててんけど、色々わかったからよかったわ」
「あのな、アンタがいつも文章題が苦手なのは、そんなことばっかり気にしてるからやろ」
「うん。まあ、そうやけど、これで色々わかったからええねん」
「……いや、それで、肝心の、ほら、数学はわかったん?」
「わかったわかった」
「そうじゃなくて、ほら、問題の解き方とか」
「あ、それはあんまりわからんねんけど。でも別にいいやん」
「ええっ。いや、よくないよ。そのために勉強してたのと違うの? 定期テストで悪い点とったらどうするの!?」
「ええねんええねん。ま、これで零点だけはないと思うし」
「零点? いや、もうちょっと欲があった方がよくない?」
「ええねんええねん。ボクは、欲を出しすぎたらあかんタイプやねん」
ニコニコうれしそうにインスタントラーメンを食べながら、「うんうんボクがんばったよな。こんな遅くまでやったもんなあ」という息子(毎朝6時起きなので、夜の11時は、彼にとっては深夜)

そして、すぐ横で母親が、息子につきあって、ずっと夕食をたべずに待ってやっていたことにも、まったく気づかず、うれしそうに大好きなインスタントラーメンを食べて、「あー食った食った」とさっさと寝たのだった。
なんというか、アホな子をもつとホント大変だなあ。

05/28/2006

ミステリ作家、創作ノート、塩辛の夕べ

5月27日(土)
朝から小説講座の事務所。ライティング講座も昼の講義はなく、夕方、第9期合同授業。講師は、芦辺拓先生。

2時半頃より、天満橋へ。ジュンク堂で、芦辺先生と待ち合わせ。書店で約束すると、だいたい遅れてくるパターンの芦辺先生(どうせ私が飽きずに待っているだろうから)。久しぶりだし、どうかなーと思っていたら、やはり30分遅れて来られる。ほぼぴったし予想通り。

ここ数年、すっかり「大阪を捨てて」東京にお住まいを移されている芦辺先生だが(ちなみに、ご本人は「大阪に捨てられた」と言っているそうだけど、大阪は人間ではないので、自分の意志で人を捨てたり拾ったりしませんからね。ただ大阪はそれなりの大都市なので「来る者はこばまず去る者追わず」ではあるだろうけど)
待ち合わせはもう何十回目なので、すっかり慣れているのだった。

「ごめんごめん」と言いながら登場。しかし、そのまま「あ、ごめん。ちょっと待っててね」とスタスタ歩いていく先生。メモを片手に、なにやら本を大量に買い込んでいる。うーむ、やっぱりあいかわらずだなあ。

さて、その後、近くの喫茶店で、今日の講義の打ち合わせ。しかし、その間も微妙にそわそわ。どうもさっき買った本が気になって仕方ない様子。まるでおもちゃを買ってもらった子供のように、さっき買った本を今すぐ開けて見たくて仕方ないらしい。実は、この先生は本を持っているといつもこの調子。どうもせっかちな性格なので、待てないらしいのだった。

どうにか我慢(?)されているようで、1時間ほど色々話をし、授業開始30分前。私は準備があるので、先に教室に向かうことに。
「でも先生は、まだ早いですから、ここで10分ほどゆっくりしてくださいね。あとで教室に来ていただければいいですから」と席を離れる私。でも、どうも聞き流している先生。なんだかちょっと悪い予感。まだ欲しかった本があるみたいだったし、まさか今から書店にまた戻る気じゃないよね。書店は京阪ビルの7階。エレベータで行くとすると待ち時間を含めて片道5〜6分。教室までは、急いでも10分ちょっとかかる。ジュンク堂の店内は広いし、走って行って、本棚から本を選んで……となると、どんなに急いでも、40〜45分かかるよね。もし書店に買いに戻られると授業開始には間に合わないんだけど。

今日は、ライティング講座からの参加者も十人くらいいるので、きっかり定時にはみな真面目に座って待っているハズなんだけどなあ。でも、心配通り、開始時刻にまだ来ない先生。なにせ何かに夢中になると、すっかり周囲のことを忘れてしまう御性格だからなあ。9期生もみな真面目なんで、みんな黙ってじっと座って待っていて、時々チラチラ心配そうにこちらを見る。その雰囲気にいたたまれないので、ロビーを一人うろうろしはじめる私。10分で済めばいんだけどなあ。他の講師の先生たちは、たいていきっちり定時か、せいぜい2〜3分遅れで講義を始められる方ばかりなので、遅れるのはかなりめずらしいからである。私一人ならいくら待たされても慣れてるからいいのだが、三十数人の生徒さんをお待たせするとけっこう心苦しい。ああ、しまった。あの時、教室の前まで先生を引っぱってくるのだった。あれだけ喫茶店でそわそわしてたのだから、目を離せば、すぐ本屋にとんでいってしまうのは、わかっていたのになあ。あの時間から計算すると、どんなに急いでも10分以上遅刻なんだけど。

はたして、ぴったり予想通り。まあ、本屋に行っていたかどうか聞いてないのですが、たぶん……。
やっぱ甘かったなあ。ご本人は、ぜんぜん悪気はないんですけどね。
でも、こういっちゃなんですが、やっぱ、うちの講師の中で「一番ユニークな先生」というウワサは、やむを得ないかも……。まあ、専攻科の生徒さんたちは「さすがは、天才タイプですね」ともうすっかり慣れてるんだけど、9期生はびっくりしたんじゃないのかなあ。しかし、もう少しどうにかなりませんかしら。

「ごめんごめん」とようやく授業開始。でも、人の倍くらいの早口なので、中身は濃いのだった。(これでも東京に引っ越されてから、少し遅くなったくらい。おそらく東京人にはあの早口の大阪弁は聞き取れないのでは)
前半は、ミステリについて。後半は、鮎川先生の「赤い密室」をとりあげて、伏線やトリックなどの解説。

今年の9期生は、あいにくミステリ志望者がほとんどいないので、かなりレベルを下げて話をしてくださったみたい。その分、生徒さんにはずいぶんわかりやすかったようだけど。なにせ博覧強記で知られる芦辺先生。かなりかみくだいて説明してもらわないと、まだまだ初心者の生徒さんにはわからない。それなのに、去年は「あ、あとは読んでもらえばわかるから」とすぐに説明するのを辞めてしまったので、めずらしく私が授業中に口を出したことがあり、そのせいか、今日は「あ、ここは説明しとかないと、また怒られるんだよね……」と何度も繰り返す先生。ははは、お願いしますよ。その通りです。

講義後、生徒の熱心な質問も色々。ミステリのトリックや資料の調べ方など。結局、20分くらい延長して、授業終了。

その後、いつもの中華屋へ。色々と生徒さんからの質問に気軽に答えてくれる先生。しかし、よく見たら、また何度も自分のカバンの中をのぞきこんでおられる。やっぱりさっき買った本が気になって仕方ないらしく、どうも早く帰って読みたいらしい。なにせミステリ志望者が誰もいないしなあ。長編の締切もせまっているみたいだし。でも、わざわざ東京から芦辺先生が戻ってきているので、別の講師の先生が後で店をのぞきに来られるとの連絡が。そのお約束があるので、仕方なく残っている(結局そのおかげで、11時半過ぎまで残っていたけど)

しかし、つくづく「書店で待ち合わせる」のはよくないみたいだなあ。今後は絶対やめておこう。そういや、今頃になって思い出したが、そういや以前、同じところで、1時間待った覚えが(笑)

ビールを飲みながら、芦辺先生の創作用ノートを生徒さんに見せてもらう。これは、執筆中の長編ミステリのアイデアがいろいろ書き込まれているノートで、人間関係の図とか、犯行時刻らしい数字とか、いろいろなメモが書かれている。どうやら、次回作か、次々作みたいな内容も見える。しょっちゅうブレーンストーミングの相手をしてた私は、もう何度も見慣れてるものなのだが、生徒さんたちが見るのははじめて。ノートに興味津々である。

ところで、このノート。今書いている小説のトリックとか、内容とか、かなりそのまんまメモしてあったりするのだが、いつも先生は平気で誰にでも見せてくれる。でも、どうせメモ書きなので、ノートだけを見ても、他人には何が何だかさっぱりわからないのだった。なにせ「奔放なトリック、緻密な構成」で有名な芦辺先生である。私も、ブレストのたびに「今書いているのは、これこれ、こういうトリックで、こういう人物とこういう人物がね……」と色々話を聞くが、結局、全部すっかり話を聞いていても、それでも全体はわからない。なにせ長編の場合、全体の構成が複雑なので、断片だけを何度聞いても、実際、作品になってみないとよくわからないのだ。

だいたいトリックも1個だけじゃなく、たいてい何個も使うし、それぞれ「発見時はこう見えるけど、警察の捜査でこう見えて、実はそれは違っていて、ホントはこう……」などという2段階も3段階にもなっているようなかなりややこしいものだったりする。しかも、途中で何度も構成を変更されたりするもんだから、何度聞いてもどうせよくわからない。

たいてい私の場合、事前にトリックは聞いてしまっているのだが、それでも実際に完成されてからのものを読ませてもらうと、
「ふーん、あのトリックはこう使ったのか。こういう順番で書いたのかあ。ああ、あそこはこういう解決にしたのか」などと驚いたりする。

これはこれで、別の楽しみがあるので別にいい。ちなみに、あちこちにブレスト相手がいる芦辺先生だが、私の場合、もともと純正のミステリファンというわけではないので、ネタばれになっても怒らないから、ネタばれブレストの相手にちょうどよかったらしい。

さて、ノートを見ると、今、書いている作品のメモが一番多いんだけど、次回作や次々作などの資料も貼ってある、この先生は、どうも「仕込み」がかなり長いタイプの作家さんらしく(短編や中編はそうでもないみたいだけど)長編は、長いものだと構想二十年以上、短くてもたいてい五年くらい前からどうもネタをこね続けているらしい。だから、当然、今後書く予定のネタも、何本も用意して、ずっと「ああでもないこうでもない」と考えているようだ。そりゃトリックメーカーの異名をとっているくらいだから、ネタなど大量に持っているのだろうが、それにしても構想時間がかなり長い方じゃないかと思う。漬け物で言えば、「深漬けタイプ」ですね。

そういや、私が知る限り、生徒さんでは、こういうタイプの人は少ないな。シロウトほど「ただの思いつき」をパッと作品に書けるものなので(初心者なので、短編やショートショートが多いから、むろん即席浅漬けの傾向にはなるのだが)何年も前から、ネタを何本も仕込んでいるという人はあまり見たことない。この先生の場合、とくに調べモノを大量に必要とするので、どうしてもそうなるのかもしれないけど。

もしかすると、いくつかのネタを常に用意しておき、そのネタをちゃんと作品となるように、発酵させたり、寝かせたり、育てたり、というのは、ある程度、書き慣れないとできないものなのかも。

とにかく初心者の場合、まず何作か書いてもらわないとうまくならないので、思いつきだろうが、何だろうが、私はいいと思っているのだけど、こんだけ仕込みが長いとなると、やっぱ、どこか味が違うんだろうなあ。浅漬け、深漬け、即席漬け。おいしければ、どっちでも好きだけどね。

深夜、自転車でゆっくりと帰宅。家に着くとちょうど12時。「おいしい塩辛」(今日もらった)を少しつまんで、テレビを見て寝るのである。

雑用、私用、実験、空き缶のサビ水

5月26日(金)
終日、外出。小説講座の事務所には入れず。

義母が入院したので、午後から病院へ。
事務所へ寄る時間もなく、そのまま病院近くのファミレスでお仕事。雑念多くて、あまりはかどらず。

帰宅すると、玄関前に空き缶があり、赤茶けた水がたまっていた。うちのせまい庭の片隅には、ペットボトルや空き缶などがいつも無数に散らかっているのだが、むろん私のせいではなくて、小3の双子の娘たちのせいである。本人たちは、「ままごと」ではなくて、「じっけん」だと主張している。たしかに以前は、植木鉢のうえに板を二枚わたして、コンロらしいものをつくっていたのだが、最近はそれを使っていないもんなあ。けど「ままごと」でも「実験」でも、どっちでもいいけど、そろそろ暖かくなってきたので、水をためるのはやめてほしいんだが。この赤い水はなんだ。何の実験なんだ。空き缶の赤サビじゃないのかな。ボウフラがわいたらどうすんだ。

容疑者の双子の娘たちは、祖父母の家に行っているらしく留守なので、中1の長男に聞く。
「あの玄関先にある水、捨ててもいい?」
「ああ、あれ? ボクは知らんよ。どうせまた実験やろ」
「なんの実験。そろそろあったかいから、ボウフラ発生したら困るねんで」
「ああ、でも、あいつらのことやから、そうなったらなったで『ボウフラの観察するねん』って、言い出すかもしれへん」
「えっ、困るわ。やっぱり今のうちにあの水、捨てとこ」
「いや、ほっといても大丈夫やで。あいつら、どうせ毎日いじくってるねん。ボウフラがわくまで待たれへんわ」
「そうなん? あれ、空き缶の赤サビの色やろ?」
「ああ、あれは、わざわざサビ水を貯めて、濃縮してるみたいやで」
「サビ水の濃縮? そんなもん、何に使うの?」
「知らん。でも、わからんから、実験なんちゃうの」

だから何の実験? 
ああ、けど、わざわざ濃縮してるんやったら、あの水も、むやみに捨てたら怒るんやろなあ。うーん、ややこしいなあ、「実験」って。ただの「ままごと」の方が、よっぽどわかりやすくてよかったなあ。それにしても、家の中も、空き箱やらペットボトルの切り刻んだのやら、なんかゴミだらけ。これもなんかの実験なんでしょうか。

というわけで、我が家がいつもこんな散らかっているのは、主婦の私がなまけているだけではありません。いやホント。

05/26/2006

家庭訪問、緊急入院、金属探知機

5月25日(木)
午前中、小説講座の事務所。午後から外出。

先週、先生の都合で、娘(双子の妹の方)の家庭訪問が延期になり、今日の6時半の予定だったのだが、すっかり忘れかけていた。が、たまたま6時半ぴったりに帰宅する。家の前に、ちょうど担任の先生が立っていてびっくり。まあ、もともと6時半には帰れると返事してたのだからあたりまえだが、ぎりぎりぴったりセーフだった。あーよかった。

夕食後、電話あり。義母がまた緊急入院。心臓ではなく、今度は、消化器系。詳細がわからず、帰宅途中の夫のケータイにメールして、途中下車してもらう。

深夜、テレビを見ていたら、給食のパンに針が入っていたというニュースをやっていた。
また陰湿なイタズラかあ、と思っていたら、
「……パンは、すべて出荷時に金属探知機をつかってチェックしているため、何者かが故意に針を混入した恐れがあるとして、調査を進めています」
んんん? 金属探知機? それって普通? 
そう言えば聞いたことがある気もするけど、やっぱりちょっとだけ驚いた。

失敗いっぱい、夢いっぱい

5月24日(水)
午後から小説講座の事務所。

午前中、ごたごた雑用あり。ゆっくりランチをとって、午後から事務所へ。事務スタッフのOさんが来館。2時間ほど話をしてから、ライティング講座の作品集を印刷。先週、丁稚どんに「両面印刷」のページ組の方法を聞いて、メモをとったそうなのだが、やっぱり慣れてないので、どうやら間違ったらしい。

この作品集は、30枚ほどの原稿を2段組みに縮小コピーして版下を作り、それを両面印刷して、真ん中で折って製本するタイプ。「表紙」は、すぐ隣に「裏(表4)」を並べて印刷しなくてはならない。その調子で、両面印刷をする。専攻科の作品集もこの方法で印刷するのだが、これはページの組み合わせがちょっとややこしいから、慣れてない人は必ず一度は失敗する。いつもは丁稚どんに印刷してもらっているので、最近、私も滅多にやらないのだが、たまにやるとしばしば失敗する。途中で来客があったり、電話がかかってきたら、もうダメである。16ページ、24ページくらいまでなら、なんとか感覚的にわかるが、数十ページになると混乱してしまう。

というわけで、片面を印刷したところで、右左が逆。このままでは、真ん中で折って中とじはできないから、切り取ってから、そのままホッチキス製本することにする。Oさんは申し訳なさそうに何度も謝っていたけど、たいてい誰でも一度や二度は(あるいはもっと)失敗するから、仕方ないのよね。ま、前向きな明るい性格のOさんだし、少しぐらい失敗した方がちゃんと覚えられると思うし。

ところで、モノゴトには、失敗しながら覚えた方が早い、というものも、けっこうたくさんある。スポーツなんかもそうだし、仕事でもそうだ。そういや、スポーツにはまったく自信がない私だが、大学生の時、スキーの合宿に行った時のこと。同じように最初まったくできなかった友人が、ほぼ二日で滑れるようになったので、びっくりしたことがある。初日、この人は、ころぶ回数が私よりもずっと多かったのだが、なぜか私と違って、転ぶのがほとんど怖くないらしいのである。転んでもなぜかゲラゲラ笑っている。「痛くないの?」と聞いたら、「痛いよ。でも面白いから」と3倍くらい余分にこけていた。で、翌日にもまたバタバタ転んでは起き上がり、最終日の5日目にはすっかり楽しそうに滑っていた。とにかく失敗をおそれないタイプは強いんだよねえ。

専門学校などで生徒さんを見ていても思うんだけど、やっぱり失敗を必要以上に怖れない人ほど覚えが早い気はする。たくさん失敗すれば、確実に経験値はあがのだ。しかし一方で、「絶対に失敗したくない」タイプってのもけっこういて、実習でも、必ず「正解」を出したがるタイプもいるようだ。まあ、とは言っても、専門学校の授業では、「このアイデアを使って、何かストーリーを考えてみよう」みたいなカンタンな実習ばかりだから、そもそも正解というのがない。なのに、なぜか「正解」を求めたがるらしい。どうもどことなく「無難」な解答を探ろうとする人がいるのだった。

そりゃ、ただの授業なんで、「無難」でも悪いわけではないんだけど、どうせだったら自分も楽しく考えられる方がいいだろうに、どうも今イチ楽しそうではない。本人も真面目に考えているのだろうが、「これぐらい書いておけば、とりあえず『正解』だろう」としぶしぶ書いているだけで、けっして面白がって作っているわけではないのだ。うーん、なんだかなあ。

それよりは、課題なんか、楽しんで自由にやってもらっていいんだけどね。私はいつも「まずは質より量」と言っているので、めちゃくちゃバカバカしくても、とにかく何か書いてあれば、授業では高得点なんだし(むろん専門学校の授業で、高得点を出せばプロになれる、なんて保証はもちろん全然ないんで)、まあ、どうも真面目な人ほど、今イチ盛り上がらない。まあ、なぜか「こうすればホメられるだろう」と見えるようなことを書く。まあ、それにしたって、単位試験もある授業だから仕方ないところなのだろうが、とにかく失敗するのがイヤ、という雰囲気が感じられて、結果的にこういう課題作品を読む私もツマラナイ。

これはたぶん高校までの教育方法が影響しているんだろうなあと私は思っている。高校生までの教育は、基礎教養だから、先生があらかじめ用意した「正解を当てるゲーム」みたいなものなのだ。短期間に多くの知識などを会得するには、もちろん非常に効率のいい方法なのだが、この方法に慣れると、とかく受け身で「教えられたことだけやっていればいい」となりがちである。そのおかげかもしれないけど、、専門学校に入学しても、とくに1年生はたいへん受け身で「正解を用意していないこと」はしたがらない。正解がなくて、自由にやっていい、って方が楽しいんじゃないのかなあ、と思うんだけど、そうではないようだ。

美術講師の夫も、「高校生も、絵でも『自由』にやっていいよ、って言われてると、かえって困る。だって、彼らにはやりたいことなんかないから」と言っていた。
「やりたいことがないの?」
「ないというか、今まで考えたことがないから、わからんだけや。『今日は、好きなモノを描いていい』って言うと、途端にみんな何も描けなくなる。これを描きなさい、って言われた方が落ちつくんだよね。真面目な生徒ほど模写とか、モザイクの色塗りとか、真面目にコツコツやる方が好む傾向があるよ。そういう課題の方が、これだけやったって達成感もあるからな」
「好きにしていい、って方がイヤだなんて、なんか、ちょっと変かも」
「慣れてないから、急に『自由に』って言われると、かえって不安になるんじゃないかな」
「ふーん、なんでかなあ」
「たぶん、遊び慣れてないんじゃないかな。本当は、美術って、遊びなんだけどね。つまり遊びを真剣にやるってことなんだけど、そういう発想はないみたいね」
「え、遊び慣れてないの?」
「だからそれを毎日教えてるわけ」
「そっか。それで、毎日、女子高生と遊んでるのね(彼の勤務校は、8:2くらいで女子多し)」
「それが仕事」
「えらい楽しそうな仕事で、よろしいでんなあ」
「せやで、真剣に遊ぶのも大変なんやで。今日も一日クタクタよ。なにせ今日もずっとムカデやったしさあ」
「はあ、ムカデ?」
「来週、体育祭」
「それって、もしかしてムカデ競争?」
「そう。クラス対抗でね。これがけっこう盛り上がって大変。担任の先生としても掛け声かけんとあかんねん」
「たかが体育祭やろ」
「何を言う。うちの学校、たかが体育祭に命かけてるヤツ、いっぱいおるねんぞ。応援合戦の準備かって、3月のうちから毎日ずっと朝から練習してんねんで」
「真面目というか、なんというか」
「ホンマ青春かけとるんよ」
「はあ。えらい楽しそうな学校で、よろしいわなあ」
「真剣に遊ぶのも大変、大変。ああ、今日はもうクタクタ」

しかし、「ムカデで、クタクタ」って言われても、ちょっと何だかなあ。いや、たしかに仕事なんだろうけどさ。けどいくら「疲れた疲れた」と言われても、なんか妙に釈然としないような気も。だって、ムカデやで、ムカデ。なんだかねえ。

ところで、たしかに小説講座でも、とくに前期課題などでは、「何かテーマとかあった方が、作品を書きやすいんですが」って人もいる。まあ、ショートショートや短編は、そういう方法もありだけど、長編じゃそうはいかない。自分が書きたいものは、自分で見つけないといけない。ふと、そこが何かわからなくなる人がたまにいるのかもしれない。そんなふうに本当は自分は何が書きたいのかがわからなくなる人がいるのかなあ。

そういうタイプの人は、どうやら「無意識に『正解』を探してしまう」ような性格の人が多い気がする。頭では「こんなものには正解はない」と思っているはずなのに、よく話してみると、どこかで何か正解を探しているみたいなのである。こういうタイプは、専門学校生では、高校の時に優等生だった人に多く、社会人向けの小説講座でも、なぜだか公務員だとか、大手企業勤務の会社員などが多いような気がする(偏見かもしれんが)。きっと子供の頃から、先生に言われたことはきちんとやる性格なんじゃないかなあ。小説のテクニックや色んなノウハウに対しても、そんな感じである。それを「使う」というよりは、どこかで「それを信じたい」という感じがチラホラする。学校の勉強じゃあるまいし、万能の法則や、万能のハウツーはないはずなのだが、心の底でなぜか探している。そんな雰囲気である。

もしかすると、「正解がない」というのが、ちょっと怖いのかもしれない。正解があればそれでいいのだが、「正解がない」ってことはホントはすごく困るのだ。どこまで言ってもそれが正解じゃかもしれないから、結局、どこまで言っても安心できないのだ。しかし、美術にしても、小説にしても、おそらくそれらを乗り越えたところに、個性みたいなものがあるんだろうから、どっちみち「一般向けハウツー」だけでは勝負できないのである。たぶん「独自のハウツー」を色々編み出すしかないわけで、それがどうやって成功するかというと、それは失敗を怖れずに「思い切ってアレコレやってみる」しかないんじゃないかなあ。

正解を探すタイプは、どうしても「やりたいことがわからなくなる」傾向があるようだ。でも、それはホントにわからないのではなくて、実は本人は「やりたいこと」は持っている場合がある。専門学校でも、授業が終わってから「本当はこういうのを描きたかったんですが……」という話をしだすことがけっこうよくある。
「そっちのアイデアの方が、おもしろいんと違うかなあ。なんでそれ描けへんかったの?」
と聞くと、たいてい
「なんだかまとめきれなくて」とか
「どう描いていいかわからなくて」とか
「そんなもん、作品にしてもいいかどうかわからなかったので」などと言う。

しかし、シロウトは「テキトーに思いついて書けた」ものなんかで、他人を感動させるのはかなり大変。作者が「ま、こんなもんでええやろ」と書いたものは、たいてい読者にはあまり面白くない。テキトーにすれば、絶対バレてしまう。技術的なレベルが低ければ、なおさら。となれば、失敗してもいいから、ホントに書きたかったものを書いた方がいいような気がするんだけどなあ。

よく話す「たとえ話」だが、ある会社に100人受けて、90人が採用される就職試験があったとしたら、こういう場合は、「面接で失敗しない」という戦略が有効である。マイナス評価を受けずに、目立たなければ合格する可能性が高い。しかし、もし100人受けて、せいぜい1人だけ採用される試験だったとしたら、この場合、当然、戦略は別になる。つまり、この場合、どんなにマイナス評価を受けないようにしても、それだけではダメなのだ。こういう場合、おそらく印象に残らないような人は全員、落とされてしまう。つまり、たいていの小説コンテストの場合、(とくに出版をともなう大きな新人賞の場合)ほとんどこのパターンだから、「それなりによくできた無難な作品」が、必ずしも受賞作になれるわけじゃないと思う。

自由だからこそ、方法は無限にある。だからこそ、ちょっと恐ろしい。そりゃ無限は怖い。なにせ終わりがない。でも、自由である。とにかく自由。進めなければ、裏道からまわっていくことも可能。だからチャンスがある。そのためには、自分のやりたいこと、個性とか、やっぱ自分で考えないと仕方ないよ。

けど、「え、そんなことでも作品にしていいんですか?」と言っている19歳の若者たちを見ていると、なんだか小説講座の社会人たちも、もしかしたら、つい失敗しないようにして、正解を出そうとしてるんじゃないかと思う時がある。本当はどこかに「自分がやりたいこと」を何か隠してるんじゃないのかな。本当は、何かがあって、でもそれは作品にしちゃいけない。作品には書けないと勝手に思い込んでいて、何か無難な題材とかテーマとか、とりあえず適当にそういうのを書いてるんじゃないのかな。なんて、生徒さんの作品を見ると、時々思ったりする。

05/25/2006

昼は雑用、夜は『文章探偵』

5月23日(火)
午後から小説講座の事務所。

ワークステーションの印刷機がずっと使用中で、専攻科の作品集の印刷は進まず。でも、手持ちぶさたの丁稚どんがこまごまとした雑用などを片づけてくれて、だいぶすっきり。

事務所に、草上仁先生から新刊の献本が届く。講師の先生たちから献本をいただくこともあるが(たいてい私個人が購入してしまうのだが)草上先生からは初めてだ。
「あれ、めずらしいな。あっ、そう言えば!」と見てみたら、やはり『文章探偵』だった。小説講座を舞台にしたミステリー。主人公は、小説講座の講師。小説講座の担当者は「島崎さん」なのだ。5月には出版されると講義に来られた時に、草上先生に聞いていたのだが、それがこれかあ。早く家に帰って読みたいけど、なにせ仕事がたまっていて、いろいろ書類もテイクアウト状態である。今日、明日は無理かもなあ。

帰宅後、結局、仕事をほりだして読むことに。最初のシーンは、小説講座の講師の先生が、匿名で提出された生徒作品をいろいろ分析し、作者を当てていくシーン。作中の「文章コメント」がかなり面白い。草上先生は、SF短編で有名でミステリは相当めずらしいんだけど、やはりテクニシャンなのだなあ。とにかく小説講座の生徒さんには、絶対オススメ。しっかり本格ミステリなんだけど、ミステリが苦手な人でも、これなら教室シーンだけでもかなり楽しめますぜ。これは、必読。

しかし、この「小説講座」。本には書いてあるけど、きっとうちの小説講座がモデルじゃないと思う(笑)
だって、うちの小説講座なら、タイトルだけでみんな誰が書いたかのかわかるんだもん。いくら匿名の提出作品でも、タイトルと3行も読めば、もうみんな誰がそれを書いたかすぐわかるから。これじゃ、いくら講師が優秀でも、せっかくの推理を披露しようがない。うーん、うちの生徒さんはとにかく個性があるというか、わかりやすいというか。なんだかんだで、「小説講座」の生徒さんたちには、いろんな意味で、ゼッタイ必読ですよ〜。

小説とは関係のない休日(カーネーションも枯れかけ)

5月22日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

事務所はお休みなのだが、月曜日は、朝から夕方まで大忙し。専門学校の非常勤講師を終えて、帰宅したのは10時半で、げろげろのクタクタ。お腹をすかせて、遅い夕食。テーブルの上の花瓶には、先週、息子にもらった赤いカーネションが枯れかけていた。早めに寝るのである。

小説とは関係のない休日(肉筆浮世絵、レトロ建築、南京町、異人館)

5月21日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

ピッカピカのいい天気。うちでは、「とにかく晴れなら、5月は元気よく外で遊ばなきゃ」という方針。(真夏や真冬はそれほどでもないあたりが軟派だが)。確かに、これだけ晴れていれば、家にいる方が「お天道様に恥ずかしい」くらいである。とくに「せっかくの休日、何が何でもアウトドア」主義の長男は、昨日、学校の『一泊移住』(キャンプ)から帰ったばかりなのに、「どっか行こどっか行こ」とうるさい。

しかし、私が行きたいのは「神戸市立美術館」、あいにくアウトドアではない。で、私だけ一人別行動。子供たちは父親に連れられて、須磨へ海釣りに行くことに。三宮まで一緒に行く。

釣り竿を持った子供たちに手を振って別れて、三宮で阪神電車を降りる。駅を南に出て、旧居留地の方へ。「神戸市立美術館」は、レトロ建築が多い旧居留地の中にあって、ここの建物もレトロである。さて、この『ボストン美術館所蔵 肉筆浮世絵展 江戸の誘惑』は、なにせ内容が内容だけに、たぶん混んでいるだろうなあ、と覚悟していたら、やはり入場制限。でも15分も待たずに中に入った。会場がややせまい。

ちなみに、関西の展覧会は、どんなに休日に混んでいても、東京のことを思えば、かなり空いている。私は、何度かこっちで見逃して、わざわざ同じ展覧会を東京で見たことが何回かあるのだが、たいていものすごく後悔する。なにせ東京は、平日でもかなり混む。休日は、ほとんどあきらめモード。多少、会期が長くても、人口比に比例しているわけではないのである。

しかし、肉筆浮世絵が数十点。けっこうスゴイ。これだけの肉筆を見たのは初めてだし、何度も息をのむほどで、私はかなり感動した。葛飾北斎、菱川師宣などの貴重な肉筆に、石燕の「百鬼夜行」もあり。5月28日までなので、見てない人はぜひぜひ。どうやら6月から名古屋、10月から東京で開催予定らしいから、見逃した人もぜひ。ただ、点数もかなり多いし、精緻な筆使いで細かい描写が多いので、混んでいて絵に近づけないとよく見えないだろうな。東京だと休日は難しいかも。

美術館を出て、旧居留地のおしゃれなレトロ建築などを見ながら、ブラブラ散歩。15番館のカフェも満席。38番館へ行く。ここは神戸大丸で、1階はアフタヌーンティのお店になっている(昭和初期のヴォーリズ建築)。ここで、ティー用温度計など小物をいくつか購入。それから南京町(中華街)へ。ニラまん、中華ちまきなどを立ち食いして、それから元町駅の方へ。また、少し買い物などしてから、どこへ行こうか考える。夕方、梅田で子供たちと待ち合わせしているのだが、まだ3時間ほどある。しかし、須磨に行くのを断ったのだから、メリケンパークとか海の方に行くのもなんだし。で、とりあえず北に。神戸のすぐ北は山なのだが、2〜3時間ではさほど登れないしねえ。とりあえず「北野公房のまち」へ。ここも、昭和初期のレトロ建築で、旧北野小学校。レトロな小学校の教室に、いろんなお店が入っている。ここの2階で、ヒヨコの形をした月餅に、まるで修学旅行生みたく、「きゃあ、かわいい」と一目惚れして、お買い上げ。さらに、異人館のあたりをぶらぶらして、「うろこの家」の裏にある「港みはらし台」まで坂をあがる。神戸の街を見下ろしながら、ふと時計を見たら、もう5時半。あらら、5時52分発の特急に間に合わないわ。仕方ないから次の特急にするか。どうせ次の電車でもギリギリ間に合うんだから、と思いつつ、勢いよく坂道をトットと走って、三宮駅まで駆け下りて行ったら、あっという間に駅に到着。余裕で間に合ってしまった。あらら、こんなに近かったのね。けっこうな坂だから、上りと下りで、えらい時間差。

途中の甲子園で、「トラキチさん」たちがわらわら乗ってくる。朝の電車も、そういえば虎だらけだったわね。ってことは、私が神戸をブラブラしている同じ時間だけ、この人たちはずっと甲子園でぴょんぴょん応援してたわけだ。すぐ近くの席に座った若いトラ夫婦が「どう見ても、新生児」としか見えないような首のすわらない赤ん坊を抱えていて、さすがにちょっとビビる。ママは、ピンクのしましまハッピ。六甲おろしが子守唄。「あなたはどうして阪神ファンに?」「さあ。気がついたら、子供の頃からずっと阪神ファンでしたからね」というのが、正しい大阪ネイティブの阪神ファンである。英才教育です。

早めに梅田に着いたので、阪神デパートの屋上庭園でちょっと時間つぶし。村上ファンドのおかげで、何かと話題の阪神だけど、村上デパートになることだけはないだろうな。そんなもん、たぶん誰も来んから、株価暴落だもんなあ。村上さんも自分が経営する気はないんだろうし、誰かに高く勝ってもらわなきゃ意味がないが、さあ、どうなる。

7時に子供たちと合流して、夕食を食べてから帰宅。いろいろ買い物したけど、一番高かったのは、美術展の図録2,200円でした。

05/24/2006

ライティング講座も、9期も、専攻科もにぎやかです

5月20日(土)
朝から小説講座の事務所。午前中、授業の準備など。昼から文章教室(ライティング講座)、夕方は「第9期」と「専攻科」の講義。

13時からの「ライティング講座」、講師は、フリーライターの山木檀先生。「インタビューの方法」というテーマの講義で、生徒さんたちは二人一組で、簡単なインタビューの実習など。15時に講義が終わってから、いつものように大阪NPOプラザのすぐ隣にある「すかいらーく」でコーヒーなど。講師にいろいろ質問。このクラスは初心者が多いけど、自由課題の提出率もすごく高い。熱心さでは一番かもね。しかし、そんな中で「入学説明会」から3回連続で欠席されている男性が一名いる。今日で3回目の授業なのだから、まだ一度も授業を受けてないってことなんだよなあ。もちろん課題も一度も提出されてない。もう一人の女性も、2回連続で欠席されている。うーん。どうしたのかなあ。あまり欠席されると心配になる。ってか、それ以外の人は、ほぼ皆勤で、課題も全提出なんだけどな。

どのクラスにも、こんな感じで「入学していきなり欠席」という人がたまにいる。今年の9期生も、たった3回しか授業を受けてない生徒さんが一人いたしなあ。うちは社会人向けの教室なので、主婦やら会社員やら定年後の人やら、生徒さんもいろいろなのだが、なぜだか「大学生」は続かない傾向があるのだった。去年の生徒さんも、2月には辞めてしまったもんなあ。一昨年も大学生は2〜3回来ただけで、なぜか辞めてしまった。同じ年頃でも、フリーターの人は熱心だし、皆勤賞ペースなんだけどなあ。まあ、フリーターは親の仕送りもないし、けっこう貧乏なんで、せっかく稼いで払った学費がもったいない、のかもしれないけど。大学生は、バイトやサークル、デートに就職活動でアレコレ忙しい。小説なんか書くよりも、もっと楽しいことがいっぱいあるもんね。でも、一番の原因は、大学生のペースに合わないせいかも。うちは、10月開講だから「わーい学祭だ、年末テストだ、春休みだ」と楽しい大学生活をおくっている間に、すぐ数ヶ月。「小説を書く」なんて、地味で孤独な作業。ふと気がつくと、やるのがイヤになるかもね。

夕方は、天満橋に移動。雨なので、今日は電車である。JR東西線の「大阪天満宮」で降りて、商店街を南へ歩く。ライティング講座の生徒さんが「ジュンク堂天満橋店」に寄るというので、エル大阪の前までご一緒。

9期の講師は、青木治道先生。青心社社長で、編集者の青木先生、うちの小説講座は、ほとんどがプロ作家なので、編集者の講師は、この先生だけ。「出版社が求めるプロ作家」がテーマで、講義も、他の講師の先生とはちょっと違った雰囲気。出版業界ならではの話やら、編集者が求めるエンターテインメント小説のポイントなどをいろいろと。

専攻科は、小森健太朗先生。今日は、ミステリー作品(あるいはミステリー風の作品)が4編。作品指導である。実は、長編、長編、中編、短編と4編あわせると枚数もかなり多い。ふつう作品指導の講師依頼は、「これこれこういう人のこういう作品なので、よろしくお願いします」と打診してからお願いすることが多いのだが、小森先生のようなお優しい先生には、つい甘えてしまう。つまり、内容や枚数を言わず、日程だけあえば、いきなり「よろしくお願いします」と作品を送ってしまっているのだった。(同じく、堀先生や青木先生、五代先生にも、かなり無理をお願いしている。すみませんすみません)

今回、かなり無理な枚数なのを承知で、頼んでしまった(というか毎回ムリをお願いしているよーな気もするけど)。さすがの小森先生も、お会いした途端、いつものようなさわやかな笑顔で、「今回、ちょっと多いみたいですけどね」と言われる。「はい。すいませんすいません」と平謝り。「いや、ボクはいいんですけど、2時間の講義で指導するのが大変ですからね」とおっしゃるので、「4編とも、どうしても小森先生に頼みたい作品だったので」とあせる私。「まあ、それは内容を読めば、わかりましたけど」と苦笑い。そしてサクサクと切れ味さわやかに、いつもの論理的でわかりやすい指導。気がつくと、さっくり2時間で講義が終わっていた。

講義後は、いつもの中華屋にて飲み会。9期も専攻科もけっこうな参加で、数十人でワイワイお店を占領。9期のテーブルでは、いきなり原稿を目を通してもらいたがった生徒が数人いて、なかなかビールが飲めない青木先生。先週の堀先生の講義で、原稿用紙1〜2枚程度の課題があり、それを青木先生にも見せたがったようだ。青木先生は、いきなり原稿を手渡されて驚きながらも、笑いながら軽くコメントをされる。飲み会では、先生に「よろしければ、読んでもらえますか」と頼むのはいいけど、できるだけビールに口をつける前にしようね。そして、原稿用紙5枚以下の短いものだけに。というわけで、講師さえよければ別にいいんだけど、ご苦労様でした。

にぎやかな専攻科の方のテーブルを見ると、小森先生の周辺に集まって何やら盛り上がっている連中。ふと「ミラーマン」がどうのこうの、という話が聞こえてきたので、私は、テーブルの反対側の生徒さんのところへ。こういうマニアな話題にむやみに近づくと、私まで抜け出せなくなる恐れが(なにせ小森先生と私は同じ年代なのだった)くわばらくわばら。

で、作品指導にあたっていた生徒さんたちと話していたら、
「どうして先生たちって、生徒さんの作品を読んだだけで、こういうふうにすれば面白くなるよ、って、パッとすぐにわかるんでしょうか。言われてみれば、確かにその通りで、そうか、そうすれば面白くなるぞ、って思うんですけどね。でも、どうして先生たちは、そういうアイデアがパッパッパと次から次に出てくるんだろう。そりゃ、執筆経験の違いもあるでしょうけど、読書量の違いですかねえ。今日の小森先生もそうだけど、本当にプロの先生たちって、つくづくスゴイなあ、って思いますよ」などと言う。

確かにプロの先生たちはスゴイと思うけど、原因と言われても、執筆量と読書量の違いしか、思いあたることがない。でも何かあるのかもしれないなあ。ただし、シロウトの作品というのは、失敗するパターンみたいなものがあって、それがなぜかみんなけっこう共通なので、コンテストの下読みとか、作品指導とかをしていると、そういうカンみたいなものはイヤでも働くんだろうなあ。

けど、そう言えば、最近、専攻科の「長編レポート」を読ませてもらっていて気がついたんだけど、なぜか生徒さんも「コメントのレベル」が毎回あがっているんだけどなあ。長編レポートを毎回提出するようになったのは、今年2月からなのだが、みな、あきらかにコメントの「精度」があがってきている。うーん、これはどういうことなんだろう。どうやら「作品を読み解く力」みたいなものも、数ヶ月単位でアップするのかも。とくに、プロ志望クラスは、ここ数ヶ月、集中して大量に執筆したり、レポートを提出したりしているもんなあ。とにかく最近のレポートを見たら、みんな簡潔かつ的確なコメントに変わってきている。たったの3ヶ月なのに、これは不思議。前からわかっていたのに書いてなかったのか、それとも「読み解く技術」が向上したのか。とにかくこういう能力も、訓練次第で上達するんじゃないのかなあ。まあ、評論家になるわけではないし、分析能力が高ければ書けるという問題でもないのだが、アイデアの豊富さとか構成技術とか、きちんと認識できるのにこしたことがないだろうし。武器は、ないよりあった方がいい。

ところで、専攻科の今月の提出作品については、まだ作品集も配布されてないので、タイトルしか発表されていないのだが、「タイトルだけで、誰の作品か、ほとんどわかる」という人がいた。そう言われてみれば、タイトルだけでも個性がいろいろ見えて、タイトルだけで誰の作品かわかるものも多い。
「ほら、『LUST』は、あなたの作品でしょ」
「わあ、なんでわかったの?」
「なんかわかるわよ。そんな感じだったし」
「私もけっこうわかるわよ。『魔術師補リンカ』なんて、もう誰の作品かすぐわかるし」
「そうそう」
「『母鎮魂(まざこん)武士道』も、これは絶対一人しかいないな、って、すぐわかった」
「うんうん」
「Hちゃんのは、『あざらしのおみやまいり』か『おっぺさん』か迷ったんだけどね」
「あ、私もそう思ったんだけど、『あざらし』は、Hちゃんじゃなくて、Kさんの作品なんでしょ」
「そうなの。Kさんは、必ずしも毎回作品を提出してるわけじゃないから、そこ忘れてたのよね」
「そうそう」
「じゃあ、オレのはどれかわかる? 前回はわかりやすかったかもしれないけど、今回はいつもと違う感じのタイトルにしたんだけどね」
「わざといつもと違う感じにしたの? じゃあ、わかった! ズバリ、『みゆき』でしょう!」
「わあ、当たり! なんでわかったんや!?」
「えっ、それホントなの? それは意外」
「あら、カンタンよ。こうなると、あとは消去法だしね。『みゆき』もつけそうだもん」
「えー、オレはそれわからんかったなあ。そう言えば、前回のタイトルって何だっけ?」
「ほら、『豚と血のブルース』」
「ああ、あの時は、私も見た途端、誰のかすぐわかったわ」
「うんうん」
「えっ、オレのって、そんなにすぐわかる?」
「いや、あれは誰でもわかるって!」「まあ、それは他のタイトルに比べると一番わかりやすいわなあ」「そうそう」「だって、そんなタイトル、他の人は絶対つけへんもん」「まあ、他にはおらんね」「だいたい、そういう内容を書かへんもんなあ」「私は、けっこういいタイトルだと思うけど」「うん、少なくともタイトルは面白そうだよね。まだ読んでないけど」「でも、ああいうタイトルのセンスは他の人にはないよね」「うんうん」……「そ、そうかあ」

そう言われてみれば、やはりうちの専攻科は、個性派ぞろいなのかも。しかし、タイトル見ただけで誰の作品かすぐわかるってのも……うーん、これって、いいことなんか、悪いことなんか、ちょっとわかんないぞ。

結局、11時過ぎまで飲んでいて、帰宅したのは12時。ちょうど『チャングム』が終わる頃で、新たな希望を見いだしているところ。そう、とにかく希望を見失わないことが大事なのよね。

孫にうかれて、楽しい残業

5月19日(金)
午前中から小説講座の事務所。9時半まで残業。

今日までの提出書類がたくさんあるので、朝から忙しい。結局、経理関係の書類は、後日提出にさせてもらう。それでも残業をしたいのだが、家にはピヨピヨとお腹をすかせた3匹のヒヨコ(もとい子豚)がいる。誰かがエサ(もとい夕食)を食わせないといけないのだが、さてさて。

昼過ぎ、義妹からメール。今朝、赤ちゃんが生まれたらしい。弟夫婦にとっては、第一子。私にとっては、おいっこで、実家の母にとっては、6番目の孫の誕生である。ってことは、今、母の機嫌はかなりいいはず。しめしめ。さっそく実家に電話して、「おめでとう」のついでに、うちの子供たちの世話をお願いします。案の定、母は機嫌よく引き受けてくれたので、しっかり9時半まで残業する。

どちらかというと、もともとワーカホリックな方なので、いつまででも仕事をしていたいタチなのだが、子持ちは残業もままならない。ただ、子供を生まなければ、完全に「仕事人間」になっていたことは間違いないが。

玉川駅近くで夕食をとり、11時頃、帰宅。

05/19/2006

ゆるい小説、ゆるくない小説

5月18日(木)
終日、外出。小説講座の事務所には入れず。

19日に大阪NPOプラザに「事業報告書」などの書類を提出しなくてはならないのに、まったく手つかず。うーん。ヤバイ。がんばれ自分。

先日の「生徒さんの小説は、どこか『ゆるい』」といった「ゆるい」発言問題について(あ、とくに問題にはなってないと思うが)。

専攻科のある生徒さんから来たメールで、「あ、なるほど」と思ったご意見あり。
「書き慣れてくると、無意識のうちに、しんどい展開を避けて話を作っており、書きやすいパターンができてきて、こなれてうまく見えるが、真摯さがなくなるのかも」……ということらしい。

で、それを見て、ちょっと思い出したのが、前にも言ったが、ある講師の先生の話。

「何回か作品を書いていると、そのうち、こうすれば書けると思うようになる。けど、たとえば、これぐらいの円を描いて書くべきところを、シロウトのうちはそれよりもつい小さく描いてしまう。もし書けなかったら困るから、その円より大きく描くのが怖いのだけど、本当は、意識的にわざとはみ出すぐらいに大きな円を描くつもりで、作品を作る方がいい」
というような話。(酒の席で、たしか芦辺先生だったんじゃないかと思いますが)

たしか、その時に、ある生徒さんが
「でも、大きな円を描こうとして、ちゃんともどれなかったら困るから、怖くないですか?」
と質問されたのだった。

「そりゃあ、大きな円を描こうとすると、たしかに怖い。でも、デビューしたいなら、意識的に、戻って来れないかもしれないと本人が思うくらいに、大きな円を書くくくらいが、むしろちょうどいいかもしれない」
「でも、戻って来れないような大きな円で、ホントに戻って来れなかったらどうするんですか?」
「ああ、それはね。戻って来るんです」
「え?」
「だから、無理矢理どんなことをしても、必ず戻って来るんです。とにかく大きな円を描いて。そりゃ、しんどいですけどね。どんなことしても、戻って来なきゃ行けないんです」
「はあ」

その生徒さんがわかったのかどうだかわかんないけど、そばでその話を聞いていた私は、なんとなく「ああ、なるほどなあ」と思ったりしたのだった。

オリジナリティの高い作品を書こうとすると、どうやっても自分ではちょっとムリとか、怖いから避けたいと思うようなことが起きるらしい。でも、プロの作家なら、そこは決してあきらめたりしないのである。なにがあっても、どんなことをしても、ギリギリで「戻ってくる」らしい。

あ、また、もう一つ思い出したぞ。

うちの小説講座では、ユーモア小説がたまに提出されるが、その作品指導の時、講師の先生が、
「あ、ここんとこ、もっと工夫すれば、けっこう笑えるようになるのに、もったいないですね」
「ここも、もっとエスカレートさせれば、もっと笑えるのに、もったいないなあ」
「ああ、ここも、もったいないなあ」などと、
「もったいない」と連発したのだった。

もっと作品指導の時間がたっぷりあれば、たぶんもっと「もったいなかった」かもしれないけど。
で、もしかすると、これも「ゆるい」かどうかの違いかも。

「もっともっと」が別れ道。

とすれば、プロとしての到達ラインを低く見積もっているのではなくて、無意識に、自分の限界点を低く見積もってるせいかな。これはムリと妥協するのがえらく早すぎるのかも。作者が安全なとこで書いたものは、あんまり面白くないのかも。いやはや、しんどい商売ですね。まあ、どんな仕事も一流になろうとすれば、そんなもんなのかもしんないけどさ。

でも、私には、生徒さんが書く作品とプロの小説が、なぜまったく違ってみえるのか、その一番の原因が何か、まだよくわからないけどなあ。

05/18/2006

泣いたり、笑ったり、怒ったり

5月17日(水)
午前中、小説講座の事務所。午後から外出。

諸事情にて、身動きがとれない。ある人のせいで、長時間ムダに過ごす。仕事がたまっているから、気持ちは焦るが、まあ、仕方ないものは仕方ない。たまには、こういう日もあるということで、あきらめてノンビリ過ごす。こういう時、焦ったりイライラすると、実際それで失った時間以上に、効率が悪くなる。スポーツの試合などでも、ミスなどの後の方が大事で、ピンチに対応する力というのも、ほとんどコレだ。私だって、まだまだ大人ではないのだが、精神面のコントロールが必要なくらいはわかっている。経験上、こうした精神的なコントロールができるかどうかは、ほとんど健康状態による。私の場合、睡眠と食事さえ、きちんととれていて、血圧が下がりすぎず、とくに頭痛や腹痛などなければ、たいていのことは乗り越えられる。

私は、あちこち自転車で走り回ったりしているので、「いつも、元気ですね」とよく言われる。が、実際、さほど体力に自信はない。なにせ、ぜんそくの持病はあるし、親ゆずりの極端な低血圧、ムチウチ、偏頭痛などなど。けど、どれも深刻な病気ではないし、もっとすごい持病をもっている人はいくらでもいる。それに、この歳になれば、病気とつきあうのにも慣れているので、それくらいどってことない。

小さい頃も、妹の方がぜんそくもかなり深刻だったので、私はたいしたことがないと思っていた。ただし、妹がしょっちゅう発作を起こすものだから、両親は「健康管理」にはかなりうるさかった気がする。規則正しい生活をしているか、寝起きはすっきりするか、食事はきちんと決まった時間にとれているか、栄養はかたよっていないか、排便はきちんと出ているか……。そのせいか、今でもイライラしたり、怒りっぽかったり、やたら涙もろかったりする時は、まず精神状態よりは、自分の体調の方を疑う。よほどのことがない限り、目の前にあるそのきっかけとなった「原因」に関心を示すのは、もっとずっとあとである。たとえば「あの人の言い方、なんかイライラするなあ」と感じたら、「そういや、私、最近カルシウムとビタミン、不足してるかもなあ」などという具合である。

妹は、小学生の頃、ひどい時には週に数回、発作がおこしていた。そういう時は、夜もほとんど眠れないし、食事も、食べられるものを何とか、という感じだった。ぜんそくの発作というのは、突然起こる。緊急事態みたいものなのである。親にしてみれば、そういう娘を一人抱えていれば、もう一人の娘まで発作を起こすのは極力避けたいだろう。まあ、妹に比べれば、かなり軽いし、実際に発作が起きるのは、ほんの年に数回だったのだが。

ところで、ぜんそく、というのは、妙な病気だと思う。私の場合、「気管支ぜんそく」というヤツなのだが、これは「発作」さえなければ、普段は普通の状態なのである。まあ、周囲にぜんそく持ちの人がいない場合、「発作が起きる」と言われても、どんな状態になるのかわからないだろうけど、簡単に言えば、マラソンのゴールの後みたいな状態になるんである。たくさん走った後、立ち止まっても、まだ息が苦しくて、ハアハア言うでしょう。あんな感じである。気管支が収縮して、呼吸が困難になる。発作は、突然起きることが多いが、前兆がある場合もある。息ができないから、本人はもちろん苦しいのだが、ヒイヒイハアハアとなるので、はためにもかなり苦しそうに見える。

そういえば、妹の場合、一度、学校で発作が起きて、救急車が呼ばれてしまったことがある。本当は救急車を呼ぶほどではなかったそうなのだが、「発作」を見たことがない国語の教師があわてて呼んだらしい。たしか、彼女が中学の頃のことだった。妹の場合、深夜に発作が起きる場合がほとんどだったのだが、たまに教室で発作が起きることがあった。ただ、気管支ぜんそくの発作では、「気管支拡張剤」という薬を使うことがあり、妹の場合も、かなりの確率でこの薬が効いた。妹が使っていたのは、ふつうの吸引剤(口に加えて、小さなプロペラを回して小さなカプセルの中の薬を吸うタイプのもの)で、たまに効かないこともあるが、うまく効けば、ほんの数分で発作がおさまる。妹は、たいてい学校のカバンにこの薬を入れて、いつも持ち歩いていたのだが、その発作が起きた時、別の教室にいて、たまたまカバンが手元になかったらしいのである。誰かにカバンから薬をとってきてもらいたかったそうで、必死でそれを話そうとしたらしいのだが、あんまり息が苦しいからうまく伝わらなかったらしい。もちろん担任や保健の先生は、ぜんそくのことは知っていたのだが、その時間、たまたま二人とも不在だったそうだ。それで、救急車騒動。どうやら、あわてものの新任の若い女の先生だったらしい。

「薬さえあれば、あれくらいの発作、すぐおさまったのに。ホンマ、かっこ悪かったわあ。『大丈夫、大丈夫』って、一生懸命言ってるのに、ぜんぜん聞こえなかったみたいで、救急車なんか呼ぶねんもん」
妹の場合、昼間にいきなり発作が起きるのは、年に数回程度なので、よほどこの教師も運が悪かったのだろう。結局、救急車が到達する前に、なんとか友達に薬をとってきてもらって発作がおさまったそうで、乗らずに済んだらしいが。
(ちなみに、同じクラスの友達も、小学校からの付き合いだから発作を見慣れていたので、「あのクスリ、どこ? 今日持ってる? カバンに入ってる? 持って来てあげようか?」と聞いてくれたそうである。そう聞いてくれれば、本人は口がきけなくても、ウンウンと首を振ればいいだけなのだった。しかし、よほどあわてものの教師だったらしい。あとで皆に笑われて、この先生は、「もう大丈夫。今度いつ発作が起きてもあわてないからね」と妹に言ったそうだが、本人はあとで「そう言われても、そんなしょっちゅう発作は起こしたくないんだけどねえ」と笑っていた。この先生は、ペコちゃんというあだ名だった。あのペコちゃんに似てたらしい)

まあ、そういう感じなので、発作が起きても、このクスリさえうまく効けば、ほんの数分でおさまる。クスリが効かないこともあるのだが(副作用もあり、心臓に負担がかかるらしいので、連続しては使えない)、効く時は、劇的にすっとおさまる。私も、このクスリを使ったことがあるが、クスリを吸った途端にすっと空気が肺に入って来て、気管支が開くのがわかる。あまりヒドイ発作だと、もうぜんぜん効かないこともあるが、効けば、あまりの別世界に来たくらいに変わるので驚く。

ところで、ぜんそくの発作が起きている状態の時、かなり妙な感覚を感じることがある。もちろん息がたいへん苦しいので、それどころではないのだが、ちょっと感覚が変になるのである。私だけなのかと思ったら、どうやら妹も同じだそうで、そう言われてみれば、思いあたることがあるという。何人か、ぜんそく持ちの人に聞いてみたら、けっこうみな同じ体験をしているみたいなのだが、「発作」の真っ最中は、どうもちょっと「感覚」が変わるのである。かなり微妙なのだが、視覚とか味覚、聴覚など、五感はやや衰えるのである。で、喜怒哀楽の感情がかなり増幅される。まあ、ぜんそくじゃなくても、かなりひどい風邪なんかひいて寝込んでいると、ほんのちょっと優しくされたり、ほんのちょっと冷たくされたりしただけで、なんだかいつもと違って、涙もろくなったり、不安になったりすることがあるでしょう。ぜんそくの発作だと、高熱はないのだが、ああいう感じになるのである。体力はないのでイライラはしないが(体が弱ると、怒りより怯えの感情の方が強くなる)、妄想なども増幅しやすいし、他人に対しても疑り深くなったりする。

私の経験では、ほんのちょっとお茶をこぼしてしまい、拭いてくれた母が、なにげなく「あら、ダメね、こぼしてるわ」などと言っただけで、ぽろぽろと泣けて来たことがある。母にしたら、いつもの口調だったのだが、発作がある時にそう言われると、なぜかその瞬間、「ダメね」という言葉が大きく胸に刺さり、情けなくなったり、イライラしたり、泣けてきたりする。あとで冷静に考えてみれば、自分の感情なのに不思議なのだが、そういう心理状態になるらしいのである。

似たような感覚は、交通事故の直後、ムチウチが一番ひどかった時にも感じたことがある。女性なら、生理中や出産(いわゆるマタニティブルー)で、自分の感覚や感情がいつもとはまるで変わってしまうのを体験した人もいるだろう。つまり、人間の心理状態、あるいは感情は、論理的で表層的な認識(自分が頭でわかっているもの)とはまた別に、ほんのちょっとのホルモンの違いやあるいは痛みや苦しみなど、肉体的な要因でもかなり左右されるものなのである。

コピーライターをやっているとどうしても意識するのだが、人間は、感情がある生き物である。「論理」を組み立てる場合にも、たいていの場合、実は必ず論理よりは、先に「感情」があって、それからそれを認めるためにあとから論理を組みあげる。どうやら、何か論理的に考えようとする場合でも、先に結論があり、それを証明するためだけに論理を組む。そういう意味では、人間は感情に支配されて生きているし、その感情は、かなり色々なものに、つまりほんのちょっとのホルモンバランスの違いによっても、大きく左右されることだってある。

ただ、それは脅威でもなんでもないわけで、人間がコンピュータとは違う「感情」があるということだから、いいことなのである。自分自身の感情とも、あるいは他人の感情とも、それは認めてつきあっていくしかない。自分の感情をコントロールしたり、相手の感情をおもいやったり、というのは、まず、それを認めるか認めないかということなのではないかと思う。それは、何も自分の感情をすべてを抑えこむとか、あるいは、自分の感情に相手をムリヤリ従わせるということではないわけで、たぶん自然にあるべきカタチをちゃんと素直に見るかどうかということだけだ。なにせ自分も相手も、体も感情ももともと神聖なものなんだし、そこにあるのだから。

さて、まあ、何が言いたいかというと、つまり、頭で考えすぎてはいけないのだ。そういうタイプの人は、要注意である。それは、かえって自分がコントロールできない「感情」に支配されてしまうから。たとえば、職場にイヤな上司がいたとしても、こちらが正常な状態ならば、何かしら対応の方法を見いだすことができるはずなのだが(無視する、はぐらかす、なだめる、おだてる、いろんな手段で戦う、転職先を探す)、頭だけで考えていると、感情のコントロールが効かなくなって、ついに対応不能になって、パニック状態になり、追いつめられたようになる。つまり「できるだけ論理的に対応する」ためには、まずは自分の感情の状態を確認しておかないといけない。カッとなったり、イライラしたり、落ち込んだり、というのは、必ずしも、表面的に見えている事実(たとえば、イヤな上司とか、失恋とか)によるものだけではない。自分でもあとで落ち着いてよく考えてみればわかるが、実は、本当の原因ではなく、たまたま本人がそう思い込んではいるだけである。

たしかに、イヤミな上司の一言かもしれないし、コンテストの落選かもしれないが、実は、それは単なるきっかけみたいなもので、本当の理由ではない。たぶん本当の理由は、何か別のところにある。それは、自分の内部にあって、自分が切実に望んでいるが、何らかの理由でかなえられない何かなのかもしれない。ひょっとすると、実際にかなわない望みかもしれないが、たぶん自分ではそれを認めたくないので、無理に意識の下に抑え込んで、忘れようとしてしまっている。

しかし、そういうものは、ちゃんと認めさえすれば、結構なんとかなるものである。ひとつには、それは自分ではなぜかかなわない望みと思っているのだが、案外カンタンにかなうようなことが多いからである。望みそのものを自分では認めてなかったわけだし、どうせ無理とあまり思い込んでいるので、ただ気がつかないだけである。もうひとつは、やっぱりそのままではどうしても実現できない場合だが(会いたい人が死んでしまったとか)、これでも人間とは便利なもので、どんなに切実な望みでも、たいていは代替案でも満足できるのである。ただし、この「代替案」は、頭で考えてはいけない。たぶん頭で考えたら、思いつかない。おそらく変なのだ。ある人が失恋してどうしても気持ちにおさまりがつかなかったのだが、ウサギを飼いだしたら落ち着いたことがある。別の知人は、化粧品(香水)を変えたのがきっかけで立ち直った。本人は自覚してなかったようだが、たぶん前者は、手触りと抱きごこちで、たぶん後者は、臭いである。そんなバカな、と思うかもしれないが、結局は感情の問題なんだから、そういうものなのである。

さて、なんでこんな話をわざわざ延々としてるかというと、それは、これを読んでいるかもしれないその人のために、もしかすると今こういう状態ではないかと、余計な心配を私がしているからで、「お、ひょっとして、それは自分のことか?」と思った人(それはアナタ)が読んでくれればいいなあ、と、ふと思ったから。

泣いたり、笑ったり、怒ったり。
ま、小説に色々ある以上、小説を書く人にも、色々あるものなのよね。

05/17/2006

その話、どこが面白い

5月16日(火)
午後から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

事務スタッフの丁稚どんと一緒に、ちまちまごちゃごちゃと事務作業。9期クラス配布用の「赤い密室」の講義資料などの準備。文章教室からの見学者もけっこうあるみたいだけど、教室変更しないといけないかなあ。

夕方、専攻科の生徒作品について、先日、ブログで「ゆるい」という話をしたのについて、少し話題になる。
で、私がまた「講師の先生たちには、よく見えているのに、作者本人がわからないのはどうしてか」
という疑問を話したら、丁稚どんは、
「講師の先生たちは、ほら、すでにもっと山の上の方まで行っているけど、生徒さんはまだそこまで登ってない。途中だからわからないんですよ」
と言う。
「でも、なんかヘンだよ。だいたい、うちの小説講座なんか、先生も生徒も、みんなバラバラに別々の山に登ってるわけなんだし」
「いや、まあ、それはそうでしょうけど」
「まだそこまで到達してないから、わかんないっていうんなら、それなら周囲もわかんないはずじゃない? でも、先生はわかってるわけだし、私だって先生たちが言わんとするところはわかる気がするもの。まあ、やれるやれないは別だけど」
「だから、ほら、オカメハチモク(傍目八目)ってやつですよ。たぶん本人だけはわからないんです」
うーん。そうなんかなあ。それは、なんか違う気がするけどなあ。

ところで、昨日、専門学校で「実習」をしていて、またいくつか発見があった。
昨日の実習は、いわゆる換骨奪胎みたいなやつで、今年はめずらしく第9期のクラスでもやってみたヤツである。いつも専門学校でやる十数種類の実習のひとつ。私は、アイデアテクニックという授業で、いろんな実習をやっているのだが、コレ以外は、どっちかというと、アイデアを膨らませるみたいな拡散的なものが多い。だから、帰納法的な手法はこれだけである。でも、マンガ科一年生の最初の課題は、「とにかく作品を完成させること」だったりする。

どうも小説講座と違って、マンガ科の生徒さんたちにとっては、たとえベタな話でもいいから、とにかく完結させるのが一番大変らしい。というわけらしいので、まず最初はコレをやることにしている。これなら話の骨格はすでにできているので、ベタな話になっちゃう危険はあるが、とりあえず完結できない心配がないからだ。まあ、だいたい骨格がはっきりしたベタベタな話の方が、かえって伏線とかキレイにはいりやすいもんだと思うんだが。

ただ、こういう方法だと、「ある骨格」にむりやり話を押し込まないといけないので、あらすじを書くだけとは言え、確かにつまらないと言えばつまらない実習なのだった。けど、作品がいつも途中までしかできない人、完結させられない人は、その原因のほとんどが「拡散しすぎ」だったりするわけで、だいたいマンガとか小説とか書こうという若者は、どうせ想像力なんか、いくらでもあるはずから、もともと拡散する方向は得意なのである。だから、やっぱり拡散して、作品が完結しない人が多い。まあ、確かに、大人の生徒さんだと、一度、収束させることを覚えてしまうと、かえってこわがってしまって、妙に世界を小さくして、なかなか広げない人がいるが、若者の場合は、多少、収束させる練習をした方がいいみたいである。どうも一度くらいは、完結する感覚みたいなものがないとわからないみたいだし、まあ、何にしても、これは「なにかお話を考えて、あらすじを書いてみよう」という遊びに近いもんなんで、気軽にやってもらえばいいのである。ただ、やってもできない人が案外けっこう多い。そこがおもしろい。

この実習は、ある短いビデオ作品を見て、その骨格を解読し、それをそのまま使って、別の舞台に移して、まったく別の作品を作るというものなのだが、先日、第9期の教室でやってみたところ、これが小説講座の生徒さんも案外ほとんどできない、というのがわかって、これはちょっと意外だった。何ができないかというと、別の舞台に移した時に、なぜだか、急に「起承転結」にならないらしいのである。あらら、不思議。

具体的に言うと、「ある共同体(ビデオでは村)に属していた主人公(犬)が、ある失敗をして追放されるが(ビデオでは誤って警報を鳴らす)、外に出たことによって共同体の危機を知り(堤防が決壊しかけている)、再び戻って来て、みんなを救う(ビデオでは、自己犠牲的な方法で知らせる)」というストーリーである。いろいろやってみたけど、やっぱりコレが一番応用がきくパターンで、ラクだった。なにせ、これならどうやっても、シンプルにもりあがるようになっているので、そのまま使えば、ホントに誰でもそれなりに盛り上がるはずなのだ。が、どういうわけか、作ってもらったストーリーが人によっては、なぜか盛りあがりがなくて、盛り下がるのである。本人は、そのまま使ったつもりでも、肝心のところがどうも違っていて、なんだかフラットである。先日の9期でも、後日、わざわざ実習の課題を家でやり直して、ワープロで打ちなおして持って来てくれた人がいて(ずばりそれはTくんです)、そのやる気はすごく評価してるのだが、これも、やはりもともとの「骨格」からはズレている。どうせ遊びだから、別にズレるのはいいんだが、もっとも大事な部分がないから、お話としては盛り上がらないし、このままだとどうも変なのである。まあ、本人に説明するのに時間がかかるかもしれないんだが、とにかくコレだとなんか違うんだよね。

専門学校の生徒なんかは、一クラスに35人とか45人くらいいるので、全員の作品をチェックするのはたいへんなのだが、たとえば、昨日、ある生徒さんの作品も、それなりにレベルは高いのに、なぜだか盛り上がらない感じがする。
「竜使いの少女が、ある村にやってくる。その村には、危険なドラゴンの卵が宝物と間違えられていたのだが、誰も信じてもらえず追い出されてしまう。その後、やはり村はドラゴンに襲われるが、少女がドラゴンをなだめて村を救う」

うんうん。もちろんストーリーはこれでもいいし、これくらいなら、誰でもすぐに思いつくのだが、これだと、まだ面白くないのである。一見できてるようで、ちょっとだけ違う気がするのね。もしホントにこのままだったら、たぶん盛り上がらないだろうから、である。理由は、いくつかある。まず、これだと、この少女は、もともと村に属していた人物ではなくなってしまっている。だから、このままだと危険をおかしてまで、どうしても村を救わなければいけない切実な動機がまだない。もう一つは、読者には、最初から少女が「強力な竜使い」だとわかっているので、いくら村がドラゴンに教われても、あんまりピンチだと感じられない。これでは盛り上がらん可能性がある。

つまり、「わー、ドラゴンの卵だー、村が襲われたー、竜使いがいた、よかったー」と、そういうことですね。
そりゃ、どうしてもそうしたいなら、これでもいいんだけど、これだと起承転結を考えたら、元の骨格よりは、かなり弱くなっちゃったわけだよねえ。私は、マンガでも小説でも、どんなストーリーでも描きようだとも思っているから、これくらいでもいいし、描きようでは盛り上がるかもしれんけど、やっぱり、なんだかソンだわよね。また「竜使い」がドラゴンをなだめる方法も、「心の中で話しかける声」なんだそうだ。マンガなのに、なぜわざわざ心の声なんだろうな。まあいいけど、なんかそれも、ちょっともったいない気もするんだがなあ。どこを見せ場にするつもりなんかなあ。はたして、これで盛り上がるんかな。ちょっと自信ねえぞ。

たとえば「その能力ゆえに村から追放された」とかだったら、切実な動機とか、一度追放された村へ救いに戻ることへの「葛藤」なども、あらかじめ準備されているのだが、そこが変わってしまっているのである。まあ、旅の者にしてしまったのだったら、「やさしくしてくれた宿のおばあさんがいたから」とか、「能力が封じられてしまったぞどうしよう」などと、他の要素で盛り上がりはそれなりに作ればいいのだが。

とにかく、つまり「追放された者がなぜまた戻るのか」「たった一人でどうやって救うのか」などと、あらかじめ用意されている「アイデアを考えるべきツボ」を全部使っていないわけだよね。つまり、実習課題では、わざわざアイデアなしに作れないようにしてあるのに、そこに気づかずに全部トバしているのだよね。マンガなら、16枚から30枚。どうする短編。

しかし、こういうポイントの方がホントは大事だろうし、それがないなら、そもそも「お話にならない」はずである。私は、おはなしって、「はたしてどうなる!?」ってのが、少しは必要だと思っていたんだが。え、違うの。

で、今日、なんとなくわかったのだが、たいていの生徒さんは、どうやら、そこがわからないらしい。お話は、ただの、なんとはない「エピソードの羅列」だと思っているらしいぞ。うーん。でも、ただそれだと面白くないんじゃないのかなあ。起承転結ってのは、案外むずかしいもんなんだなあ。

まあ、骨格を使う、なんて実習をしてもらうのは、この一回だけなのだが、どんな別のパターンを使った場合でも、なぜだか生徒さんというのは、わざわざ「盛り上がるための仕掛け」の部分をガリガリ削って、わざとストーリーを平べったくしたがるみたいである。不思議だなあ。なんで、わざわざそんなもったいないことするのかなあ。もしかして、やっぱり、そこが盛り上がっているのに気がつかないのかな。または、ただベタに見えるので、恥ずかしい、とか。あるいは、つまんないから、やりたくないのかもしれないなあ。しかし、ベタなストーリーがつまんないんなら、それ以上の話を考えてくれればいいんだけどなあ。けど、なぜか本人はちゃんとやったつもりで、なぜだかできてないんだが、こりゃ、どういうことなんだろうなあ。課題が難しすぎるのかなあ。そんなことないと思うけどなあ。

もちろん、そりゃベタをそのままやれとは言わんが、盛り上がり部分を削る、というのは、その代わりに「どこを面白いと思わせるのか」をあらたに考えなきゃいけないんだぞ。もちろん「どう面白くするか」という問題を考える必要もあるんだぞう。なぜわざわざ削るんだ。かえって面倒じゃないか。もしかしたら、こういうタイプの人は、どうやら「どこが面白い」のかが、実はわかってないのかもしれないけどなあ。

そんなら、今度から、「それってホントに面白い? お金出して読みたいくらいに、ホントに面白い? どこがどう面白いの」と聞くことにしようかな。私が言い続けていれば、少しはちゃんと考えてくれるようになるかもしんないもんね。まあ、嫌みに聞こえるから、どうせ言えないんだろうけど。

小説とは関係のない休日(ハムスターと少年)

5月15日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝から外出。午後から専門学校のお仕事。帰宅は10時で、またまたクタクタ。
玄関を開けたら、すぐ目の前に、一糸まとわぬ素っ裸の息子が。あー、びっくりした。どうやら風呂あがりで、そのまま服も着ないで、ハムスターが気になって、ずっとのぞいていたらしい。
「服くらい着たら?」
「あ、忘れてた」
うーむ。やっぱり、コイツ。ただのアホかもしれない。

小説とは関係のない休日(薔薇が最多)

5月14日(日)
小説講座の事務所は、日曜月曜お休みです。

午前中、家事をかたづけ、またまた重箱に料理を詰め込んで、近くの鶴見緑地へ。5月も中旬になり、花も満開である。緑地の中に、長蛇の列を見つける。花らんまんだか、なんだか「水の館」でのバラ会議がらみのイベントがあるらしい。それにしても長蛇の列。ディズニーランドじゃあるまいし、みんなそんなにバラが好きなのかしら?

のんびり昼食後、子供たちを勝手に遊ばせて、私は一人でぼちぼち散策。風車の近くで、公園局の人たちによる「緑化相談」をやっている。イベントの一環で、バラ園もすごい人だかり。のぞいてみると、あちこち新しく表示がされたりして、株数もかなり増えている。もともとこのバラ園も、1990年の「花博会場」がもとになっているのだが、その頃に比べると品種も少なく、かなり入れ替わっていたのだった。しかし、イベントのおかげで、通常の4〜5倍ほど、新しく植えてある。ちなみに、中之島公園やひらかたパークなど、バラ園は各地にあるだろうけど、ここのバラ園はなかなかシンプルな作りで、コンパクトなのがいいのである。

オールドローズ、モダンローズもきれいに並べて、新しく植えた分は、開花期をそろえてあるのか、一部の遅咲きをのぞけば、そろえるだけそろって満開。なかなかきれいである。私は、どちらかというとバラでもオールドローズとか、一重とかが好きで、むしろ人気のある大輪(ハイブリット・ティー系)のは苦手な方なのだけど、これだけ並べば、なかなか見事。まあ、バラなんか数百種もあるわけで、ここにあるのはほんの一部なんだろうが。

それにしても、ふと考えてみたら、こういうものを長い年月をかけて、開発する人間の情熱というのはどういうんだろうなあ。そういや、この緑地には、犬を散歩させている人がかなり多いのだが、いろんな犬を見るたびに、毎回、「人間って、どうしてこんなに色々な形の犬を作ったんだろうなあ」といつも関心してしまう。それだけつきあいも長くて、もしかしたら変異性も高いんだろうが、チワワとセントバーナードなんぞ、同じ「犬」だと思わなければ、絶対に別の種族に見えるもんな。それに比べれば、バラなんかは系列にも寄るけど、かなり違っているようでも、微妙な違い。だいたいバラに見えるかもなあ。開発されはじめたのがそれほど古い話ではないみたいだから、当然なんだろうけど。

図書館などに寄り、夕方、義母の家で夕食。

今夜、小説講座は雨である

5月13日(土)
朝から小説講座の事務所。昼は、大阪NPOプラザで「文章教室」。夕方からは、小説講座の9期クラス。講師は、堀晃先生。

あいかわらず朝から大忙し。文章教室は、講師なしの実習日だが、予定を変更して、カンタンな作品講評会。あとで実習もやるつもりだったのだが、なかなか時間配分が難しい。

講義が終わってから、事務スタッフのOさん、生徒さん2名と一緒に、隣の「すかいらーく」へ。一人の生徒さんが「書いたときの心境とか、書いた順番とか、ズバリ言い当てられたのでびっくりしました」などとおっしゃる。「でも、だって、そういうふうに書いてあったもの。見たまんまだもの」と言うと、「まあ、そりゃ言われてみれば、それはそうなんですけど」と苦笑いされる。いや、実際、見たそのまんまである。ホント、初心者の人の作文は、わかりやすいのだ。たとえば「あっ、もうあと5行しかない。原稿用紙2枚以内だから、なんとか終わらせないと!」という感じでムリヤリ結論をつけた、というのとか。丸見えである。
その他にも、書いている途中で自分でも訳が分からなくなってきて、とりあえず「見た目にいいフレーズ」が途中で思いついたから、それを無理矢理こじつけた、とか。本人はあまりわからないのかもしれないが、他人が読んでみると、やたらわかりやすいのである。しかも、はじめて文章を書く人は、ほとんど推敲しない(あるいはできない。あるいは推敲が何かわからない)ことが多いから、全部、すっかりわかりやすく残っている。まさにみた「そのまんま」だったりする。ただ一回でも他人から言われてみれば、自分でも気づくので、少し客観的に見るようになるけど。

夕方、第9期エンターテインメントノベル講座の講義。堀先生の「SFの書き方」は、わかりやすいと人気も高い。私も毎回楽しみなのだが、授業開始直前、ある生徒さんからケータイに欠席連絡。何気なく聞いていたら、体調不良で当分(あるいは今後ずっと)、出席は無理かもという内容。生徒さんたちとはあまり一人一人と話せるわけではないが、毎週毎週会っているわけだし、後期になるころにはかなり仲よくもなっているから、こちらも大きなダメージ。人ごとながら、かなり心配である。しかも、実は一昨日、同じクラスの別の人から、かなり似た理由で欠席連絡のメールがあったのだ。滅多にないことが立て続けに起きるなんてなあ。ふう。ため息をつきながら教室に戻る。週1回の講座だし、ほとんどが社会人。生徒さんたちのプライベートはあまり知らないのだが、かなりショック。たぶんご本人が一番ツライのだろうが、「講師は恋人、生徒は我が子」なので、私も、なかなかにツライ。おそらく修了課題も、書けるかどうかもわからないだろうけど、作品だけでも送ってくれれば、なんとか講師にお願いできると思うのだけどなあ。「そちらも健康に気をつけてくださいね」などと言われると、ちょっとホロっとなりそうだ。(しかし、そういえば、私も3月の健康診断の再検査をまだ受けてないが)

講義後、いつものように中華屋へ行き、生徒さんたちと飲んで帰宅。雨の中を駅に向かい(今日は、雨なので自転車ではなく、京阪〜地下鉄である)最終近くの電車で、ほろ酔い加減の人たちに囲まれながら、自宅へ帰る。

ふと、生徒さんたちを思い出す。いつかやろう、ヒマになったらやろう、などというよりは、やりたいことは今やるべし。人生なんか短いわけで、やりたいことからやればいい。小説だって、とくに書きたくないなら、書かなくていいんだし、急いで他のことをやった方がいい。でも、やらずにいられないのなら、たとえ忙しかろうが、苦しかろうが、むちゃくちゃだろうが、何だろうが書くのがよろしいのである。書きたいなら、仕方ないのである。もしかして、それは生きた証を残そうとしているのかもしれないし、一番大事なこともかもしれないのだもの。

ただ作家になりたいから書くなんて、なんてバカげたことだろう。
講師の先生たちは、よく笑ってこう言う。
「そりゃ、作家なんて、しんどい商売だから、あきらめられるならあきらめられた方が幸せかもしれないしね」
それから、「ボクなんか、どうしても、あきらめられなかっただけで」という言い訳顔をする。

書くことは面倒くさくて、地味な作業である。だから小説講座だって、どうにもやめられなかった人だけが残ればよいと思っているから、私は、退学するという生徒さんを引き止めるなんてことはほとんどしない。でも、書きたいと思っているのに、書けないのはツライ。
私だって、読むのを楽しみにしていたのになあ。

文章教室、第1回の課題作品

5月12日(金)
朝から小説講座の事務所。バタバタと雑用。

文章教室(「ライティング講座」)の第1回課題の添削。作品コメントをまとめて、プリントにする。一日作業である。小説講座では、作品指導は、すべてプロ作家の先生たちにお願いしているので、いつも私はオブザーバーなのだが、この文章教室では、別である。最後の修了課題は講師の先生たちが担当するのは同じなんだが、なにせ初心者ばかり。とくに今回からは、私が全提出作品を丁寧に添削することにしている。小説講座では、ただのオブザーバーだが、文章教室では、なんだかお産婆さんみたいである。

しかし、これが思いのほか、かなり時間をとられる。生徒数は14名しかいないのだが(しかも、いきなり未提出の人がいるのだが)、コメントをワープロでまとめるだけで、ほとんど1日がかり。小説講座と違って、ほぼ全員が初心者だからというせいもある。また、小説と違って、作文だからでもある。内容が微妙にデリケートなテーマだったりするし、第1回目というのは指導される側が緊張するもんだからなあ。

『課題』に関しては、小説講座では、今たいてい(9割以上)の生徒さんの提出作品がワープロになっているが、文章教室のクラスだと過半数が手書き。この先、どうなるかわからないが、今はほとんど手書きである。2〜3人ほど書き慣れている感じの人はいるが、ホントに初心者という感じの手書き原稿が多い。こういうタイプの人の作品を読むのは、何が書きたいのかわからなかったりするので、けっこう面倒だが、それはそれで私は好きである。とりあえず一生懸命さは伝わる。文章がたどたどしくても、なぜかダイレクトに伝わる気がする。文章そのものというよりは、行間というあたりかもしれない。ああ、人間って不思議。たとえむちゃくちゃでも、書いていれば何かしら「わかる」ってのは、言葉の不思議というよりは、人間のコミュニケーション能力ゆえの奇跡かも。

けど、たぶんこれが小説だと、なかなかこうはいかない。「夢中で書いたから読んで」と言われても、小説ってのは、基本的にみんな虚構、早い話が大ウソだから、ある程度はうまく書いてもらわないと、他人の妄想など理解できないわけで、あまりひどい場合、「日本語記号がただ並んでいるだけ」みたいに見えてくる時もある。本をよく読んだりする人ならわかるだろうが、ふつう文章ってのは、なぜだか平面ではなくて、ちょっと立体的に見えている。小説でも、文字がちょっと飛び出したり、へっこんだりしているように見えるというのがわかるだろうが、あまりヘタな人の文章を読むと、それが意味をなさないので、「ただの記号の羅列」に見えてくる。いくら生徒作品でも、これくらい理解不能になるのは、「小説作品」だけで、「作文」だとわからないことはない。

ただし、「だから、小説の方が書くのが難しいのだな」とすぐに思うのは、実は間違いで、これはたぶん単に「前提」が違うからである。技術そのものはホントは関係ない。作文やエッセイなどは、基本的に「事実」として書くわけだから、ある意味、基本的には「そのまんま書けばいい」のである。とは言っても、「そうか、そのまんま書けばいいのか」と思われて、ただ「そのまんま」だとちょっと違うのである。基本的には、そのまんまだか、「そのまんま」らしく生かして書くわけで、これが、わからない人にはややこしいらしい。また誤解されると困るからちゃんと説明しておくと、つまり料理にたとえると、魚の刺身とか、塩焼きとかいう感じ。刺身なんかは、料理の工程はどう考えてもややこしくない。切って並べるだけだが、それを考えたら、切って、すしめしに乗せただけの「すし屋」なんかは、包丁さえ使えれば誰でもすぐできそうかというと、もちろん、そういうわけでもないわけですね。早い話、そういうもんなんですわかる?

とは言え、小説と似たところもなくはない。もちろん日本語の基礎みたいなところは一緒だし。あと、初心者で陥りがちなポイントもよく似ている。ちなみに、とくに作文の場合、生徒さんの書く文章が「読んでもわからない。理解できない」、という場合、これはたいてい「作者自身がわからない」からだと思っている。作者にわからんものを、読者がわかるはずがないのだが、けっこう多い(こればかりは、小説でも同じである)

いや、実際、とくに生徒さんというのは、自分でもわからないようなことを平気で(平気じゃなくて、苦しまぎれかもしれないけど)、けっこう書くのである。こういうのは、文章のうまいへたではないのだった(文章が下手だと「わかりにくい」かもしれないが、まったく「わからない」わけではないのである)

作文の場合、わからないパターンは、大きく分けると2パターン。割と多いのは、一行ずつ考えながら書くタイプの人で、その思考の痕跡がだいたい全部残っているような作品である。清書などはせず、ほとんど推敲しないタイプの人なので、論理がうねうねと曲がってくる。きっと本人も考えながら書いているので、実はわけがわからないで書いているのだろうが、こういうのは読んでいても、やはり何が書きたかったのかさっぱりわからない。こういう場合、全体を見ると「どっちやねん!」とつっこみたくなるくらい、矛盾したことを平気で並べて書いたりする。たとえば「女性は自立するべきだ」と書かれたすぐあとに、「女性は自立するべきでない」というのが並列に書かれていたりして、「うーん。どっちやねん」とツッコミつつ読まないといけないのである。本人にわからないもんは、読者にもわからない。まあ、書いた本人は、それなりにわかったところもあるだろうから、こういうのは、一度書いてから、自分で読み返して、整理しなおせばいいだけだと思うのだが、まれに推敲なんか絶対したくない、という人がいる。一度書いたものは、もう二度と自分でも見たくないという人さえたまにいる。さっきまで「自分」の一部だったのに、外に出した途端、見たくないものと言えば、髪の毛、爪、ツバ、鼻水、排泄物である。もしそうなら、そんなものは人に見せないで、ちり紙にはさんで、そっと捨てましょう。

ひとつは、案外、初心者に多いのだが、定例文がきれいに並んでいるだけで、何を伝えたいのかわからないパターン。こういう作文は、一見まとまっているが、作者が本当は何が言いたかったのかがよくわからない。たとえば、小学生の遠足だと「……とっても楽しかったです。また行きたいです」みたいな一文でしめくくることが多いわけだが、こういうのは、これを書かないと文章が「終わらない」し、たしかにウソではないわけだが、大人の作文で、これに近い表現をずっと羅列されるとわからなくなる。たとえば、「人生にとって、勇気とはなくてはならないものである」とか、それはそうなんだけど、たいていは作者自身、ホンキでよく考えたわけではなく、まあ、決まり文句である。作文では、いわゆる「キレイごとを書いちゃいました系」とか「青年の主張系」と呼ばれるタイプ。こういうのは、けっこう多いので仕方ないのだが、初心者はどう書いていいかわからないので、ついやってしまう。きっと本人には、こういう表現をしたい「何か」がきっとどこかに別にあったのだろうが、ホントは何を言いたいのかわからない。本人も、「人間とは、悩むものだ」などと書いて、わかったようなわからないような気になるので、おそらくどこかにあった「もともと書きたかったこと」がまたどこかへ消えてしまうのだった。もし完全に消えて忘れられていると、作者本人が思い出せないこともあるので、こっちの方が「やや難儀」である。

しかし、なにせ初心者だから、2作、3作目には驚くほど、めちゃくちゃ変身する。書くことは、書きさえすればかなりうまくなる。他人に見せれば、なおさらである。そういう意味では、やっぱり第一作目を読むのはとても楽しいのだった。


このままアホで、好きなこと

5月11日(木)
朝から外出。終日、小説講座の事務局には入れず。

バタバタと終日外出。なんだか忙しい。
夕方、長男が入部した「柔道部」の「クラブ保護者会」があり、中学校へ行く。「とくに中1生の保護者は、できるだけ参加してください」とのことなので、仕事帰りにあわてて駆けつけたのだが、参加されている保護者は50〜60人くらい。なかなか多い。部員は3年まであわせて70人もいるんだそうで、思った以上に、けっこう大きなクラブである。この学校は、一学年8クラス。大阪の市立中学では、最も大きい方なので、どのクラブもかなり部員数が多いらしい。

それにしても、顧問の先生も、相当に熱心である。5月の練習スケジュール表を見たら、練習日と対外試合あわせて、5月の31日間のうち、なんと25日ある。土日も、ほとんど対外試合などで埋まっている。息子は「消去法」で選んだと言っていたので、どうせ練習もせいぜい週3回くらいだろう思っていたもんだから、最初、ちょっと驚いた。「できるだけ週1回は、休みをいれるようにしています」なんだそうだが、5月の30日31日は、中間テストなのである。それなのに、25日。さすがにテスト前1週間は、1〜2時間しかないみたいだが、ほとんど毎日。もちろん試験日も練習日がある。どうやら6月4日が大会らしい。全国大会出場をかけた大事な大会で、仕方ないそうだが、それにしてもえらく熱心なクラブである。もちろん、どうせうちの息子は、試験前でも勉強なんかこれっぽっちもするわけがないから、クラブ練習があっても別にかまわないんだが、あのきゃしゃな身体で大丈夫か、などと思う。

それにしても、つい夫のことを考えてしまう。高校教師でもある彼だが、ずっと土日出勤をしているのを見るのはせいぜい数ヶ月に一度である。本人いわく、「仕事は何が何でも、むりやり平日に片付ける」んだそうだが、それにしても「学校の先生って、ラクな商売だよねえ。最近の会社員は、平日11時まで働いても、土日出勤だよ」というと、「いや、これが運動系のクラブ顧問なら、たぶん毎週休日出勤だよ」と笑っていた。美術教師は、美術部の顧問が定番で、運動系はまわってこないらしい。芸大受験指導のためのデッサン指導もあるから、「受験前はそれなりに大変」だそうだが、「家でもできるから、休日はクラブ活動なし」という方針なんだそうで、運動部の顧問よりは相当ラクなんだろうな。

ところで、このクラブ、2人の顧問の先生たちは、入学式で見かけた時から、一目で「これはぜーったい柔道部の顧問! 間違いない!」と思うような、絵に描いたような、「見るからに柔道部の顧問」なのである。どこかさわやかな、ほんわかしたムードもあるので(見た目よりは)怖くはないが、やはり「子供たちに柔道を教えたくて教師になった。そのために人生賭けてます」的な熱心さはチラホラ。なにせこの2人の先生。そのうち一人は、体育教師だそうだが、身長180センチ以上(もしかすると190近くあるかもしれない)、体重も推定150キロくらい。「この体格で、もし柔道をやってないのなら、もう相撲しかない」と思うような体型で、私は、入学式の時、早速ひそかに心の中で「ジャンボ教師」という呼び名をつけた。もう一人の先生も、この「ジャンボ教師」と並んで座っているからこそ、まだ小さく見えるが、「絶対、柔道!」としか見えないタイプである。(あ、こちらなら、もしかしてラグビーならアリかも)

とにかく顧問の先生が二人並んで座っている姿を見ただけでも、「なかなかスゴい光景だな」と思って、ちょっとばかり息子が心配になる。どうも今は、全国大会出場をめざしているそうで、個人戦で大阪でベスト4に残っているような先輩がゴロゴロいるらしい。うーむ。アイツ、この先、無事か? 

ただ、今のところ、息子は、「毎日、全身、めちゃくちゃ痛いでえ。けっこう大変やでえ。アハアハ!」と、筋肉痛と打ち身でボロボロながら、それを自慢みたいに言い、毎日ニコニコ笑っている。根性があるというよりは、どうもただのアホみたいである。たぶんアホさゆえに「何のためにこんなことをするのだろう。しんどいじゃないか」などと、まだ思わないようである。考えてみれば、こういうアホさ加減は、それなりの才能である。とくに体育会系のクラブでは、もっとも大事な才能かもしれない。『アホ』は、才能の一つである。

ちなみに、小説講座だって、あまり頭がよすぎると「何のためにこんな地味で面倒な執筆をしなくてはいけないのか」などと、妙にモノゴコロがついてしまうのでよろしくない。むしろ「適当にアホ」なくらいがいいのである。そういう人の方が、いくら最初はヘタクソでも、
「わーい、小説が書けるようになった。みんなに読んでもらえた。わーい、楽しいなあ。もっともっとたくさんの人に読んでもらいたいなあ。え、プロだとお金までもらえちゃうの? わーい、すごいや。絶対なろうっと」と、けっこう生き残るのである。作家をめざすのも、やっぱり継続が大事なので、ただ単純に考えられる人の方が、実は、かなり有利なのである。
(あ、いや。あの、その、もちろんプロ作家さんたちが、みんなそういうアホだというわけでは)

「でも、みんな体大きいから、ボクなんか、一番体小さいから、押さえ込まれたらもう絶対ムリやねん」
「やっぱり一番小さいの?」
「うん! ボク、まだ体重35キロしかないねん。50キロ以下って、男子では2人しかおらんねんけど、もう一人かて、45キロやねん!」
「2番目の人とでさえ、10キロも違うんか……」
「で、ボク一番小さいから、ヘタな1年生でも簡単に投げられるやろ。だから、みんなボクと組みたがるねん。ボク、大人気で、練習中、少しも休むヒマないねん。めっちゃ忙しいねん。毎日大変やで」
と、これまた嬉しそうに言う。やっぱり、ただのアホかもしれない。

こんな息子が「柔道部」とは。親も意外だったのだが、友達も意外だったそうで、みんなからも「なんかの間違いやろ」と言われてるそうだ。だが、本人は、今のところ楽しそうである。まあ、熱心と言っても、なにせ部員の4分の3が女子。顧問の先生も、どこかさっぱりしたところもあり、そんなに熱血バリバリでもなさそうである。例年、退部者もあまりいないんだそうで、「強い人はより強く、そうでない人はそれなりに」という方針なんだそうだ。まあ、いつまで続くかしらんが、とりあえず楽しそうなら別にいいけどね。顧問の先生たちも、心底から「柔道が大好き」と言った様子で、毎日、練習をしてくれているらしい。それで本人も好きで楽しいなら、言うことないわけで。

「2年生、3年生は、むちゃ強いねん。3年の男子なんか、めっちゃ大きくて、筋肉ついてて、腹なんかみんな割れてるねん!」と嬉しそうに言う息子。彼は、小さい頃はよく女の子に間違えられたタイプなのだが、あいかわらずきゃしゃで、色白である(あ、柔道部だから、どうせ日焼けはしないのか)。この息子が、3年生になったら、「腹が割れたり」するんだろうか。いくらなんでもそれは無理みたいだがなあ。

帰宅して、父親に報告してやると、「だから美術部にしとけばいいのに」とまたブツブツ言っていた。「まあ、そのうち辞めるやろ。そんなら、美術か音楽か囲碁将棋」(まだあきらめてないらしい)
ふーん。自分の息子が柔道部に入るのがそんなにイヤなんかな。どうせ自分も、おそらく中学の時は、きゃしゃな少年だったんだろうに。いやもしかして、それだからこそ余計に何だか信用できないのかも。父親てのもホント複雑だな。いや、なかなか面白いなあ。

05/14/2006

小説講座の担当は、いつもヤキモキ

5月10日(水)
午後から小説講座の事務所。

終日、専攻科の作品をひたすら読む。けっこう疲れる。しかし、みんなすごくうまくなっているなあ。
けど、うまくなっているなあと思う一方で、やっぱり、いかんいかんと思う点もあり。
難しいものである。

いくつかの作品は、とくに「うまい。けど、いかんいかん」なんだよねえ。
なんだか落ち着かず、思わず、事務所の中をクマのようにうろうろ歩く私。
「うーん。なんでそうなるんだろう。どうしようどうしよう」
いや、私には、どっちみち、どうしようもないんだけどさ。

作品を読むのも、けっこう大変。

今年の専攻科は、2クラス編制になり、プロ志望クラスの方には「最低枚数ノルマ」が導入された。そのせいで、ものすごく提出数も増えた。今まで専攻科は、「出したい人が、出したい時に、出したいだけ提出する」というスタイルだったのだが、プロ志望クラスは、締切に提出できないとクラス替え。やっぱり必死である。年600枚以上、隔月に必ず1作(長編、短編、ショートショートでも可)というノルマがどれくらいキツイかは、人それぞれだが、プロ志望クラスじゃなくて、「実力養成クラス」なら、ノルマは年に1作以上、枚数制限はむしろ上限があるだけだから、ダメならそちらのクラスに入ればいいだけである。ただ、こっちのクラスはまた極端に提出数が少ないので、単独での授業ができず、最近はほとんどプロクラスとの合同講義が多いんだけど。在籍数は同じくらいなのだが、提出される作品枚数が、合計すると何倍も違うもんで。

しかし、最低ノルマを導入して、いい面もかなりあった。まず、専攻科でも、「かなり書けるようになったかなあ」と思っていた生徒さんでも、作品指導の回数が増えてからは、もっとぐんとうまくなるスピードが早くなったみたいなのである。小説講座の入学する生徒さんのうち、初心者だと本人も驚くほど、目に見えてうまくなるのだが、中級以上のレベルの人は、相対的に上達スピードがやや遅く見えてしまう。そして、専攻科に進学する頃には、追いつかれたようになってしまうから、本人がアセったりする。つまり、専攻科に数年いた人で、もうかなり上達はしたが、何だか伸び悩んでるなあと思っていた人がちらほらいたのだが、気のせいか、今年に入って、ぐいぐいとうまくなっているようだ。ムリヤリ書くってのも、案外けっこう効果的なんだなあ。

ところで、小説講座の生徒さんは、入学してから1〜2年あたりで、目に見えて上達するのだが、なぜか自分の作品に関しては、上達したかどうか、ちょいと判断ができないらしい人が多い。まあ、仲間の作品に関しては「うまくなりましたねえ」とびっくりしていたりするのだが、自分の作品は「客観的に判断する」のが難しいらしい。だから、自分がうまくなったかどうか、というのは、どうも書いた時の「思った通りに書けた」とか、書きやすさとか、達成感とか、そういう実感で判断しているものらしい。しかし、そういうのは主観的な評価なので、必ずしも客観的な評価と合致するとは限らない。まあ、生徒さんはだいたい他人から見れば、上達しているのだが、本人にはピンと来ないらしい。

プロ作家さんの著書でも、たとえばデビュー作を改めて読んだりすると、「うーん、やっぱりヘタだなあ」と驚くことがある(まあ、ヘタと言っても、デビューはしているわけなので、それなりのレベルなのだが)。生徒さんのような、まだ初心者とか中級者くらいだと、それこそ一作ずつ見違えるほど、上達するのだが、どういうわけか、生徒さんには実感としてはそれがよくわからないらしい(まれに自分でわかる人もいるが)。

そのことがよくわかるのは、ちょっと前の作品を持って来た時。小説講座の生徒の中には、もちろんまだ一度も書いたことがない人も多いのだが、案外、「すでに独学でずっと書いていて、自分でもコンテストにずっと応募し続けたが、やっぱりうまくいかなかったので入学した」という人もけっこういる。そういう人は、入学までに何作も書いている。一年目の「エンターテインメントノベル講座」のクラスでは、それを提出する機会がないので、こういう人は専攻科に入学した頃になって、改稿して提出してくることが多い。もちろんちゃんと「改稿」されていれば、あまり問題ではないのだが、たまに「ほとんど改稿なし」で提出してくることがある。そういう作品は、見た途端、あきらかに「うまくない」わけである。小説講座に入学して1〜2年たてば、まるで別人くらいにうまくなる。ウソだと思ったら、クラスの他の人の作品を見比べてみればいい。だいぶ違うでしょう。それくらい違うのである。

つまり反対に、1年前の作品は、自分の作品でもかなりヘタくそなのである。でも、書いた本人は、書いた作品は、どれも可愛い我が子。どうも冷静に見られないらしい。もちろん、過去作の改稿だろうが、なんだろうが、私は、提出されたものは、「新作」として扱う。だが、何も知らない場合は、「うげげっ。今まで順調に上達してきたのに、うーむ、なんで急にこんなにヘタになったんだ?」と悩みのタネにしたりすることがけっこうあるノダ(やっぱり、過去作を出すときは、一声かけてもらった方がいいかもしれないわ)。

これは、きっと「自分自身がどれくらい上達したかのは、自分ではあまりわからない」現象が起きたのである。ちなみに、2〜3年前の作品を見て、自分では全く「げげっ」とは思わない人なら、ちょっと要注意である。もちろん「けっこうイケてるじゃん」と思うのはもちろんいいことなんだが、「でも、ここはやっぱりこう直した方がいいかな」くらいは、きっと思うはずだからである。(まあ、赤面して見れない人も多いんだけど。とにかく私は、ちゃんと改稿してから提出するなら別にどうでもいいのである)

というわけで、専攻科の人たち。本人がわかってない可能性もあるが、この一年でかなり上達したようだ。これは「量産」のたまものであろう。また、そのおかげで、「詰め込み過ぎ」などは目立たなくなったような気もする。だが、一方で、やっぱりそれぞれの欠点も、はっきり目立つようになってきたもんなあ。まあ、よく見えるようになったというべきか。

そんなこんなで、締切後は、いつも生徒作品を読んで、なんだか落ち着かない私なのだった。


05/11/2006

ホントにプロ作家になりたいのかなあ

5月9日(火)
午前中、外出。午後から小説講座の事務所。

今日は、専攻科の作品締切日(専攻科は、奇数月の第2火曜日が締切日なのである)。3月に比べれば、やや枚数は落ち着いて来たという感じ。00枚以上の中編はけっこうあるが、400枚以上の長編は2編だけ。そのうち一編は、いかにも旧作を棚卸しして来たという感じだし、あとは短編が多い。まあ、今年度の締切日は、あと7月だけなので、みんな次回の長編を書いていて、けっこう忙しいのかも。

2時から来客で、また2時間もつぶれたので(丁稚どんは優しいので、あいかわらずそんなことでは怒らない)ざっと見ただけで、提出作品をチェックするのはできなかったのだが、長編の一段組みの提出が増えたので、手間がかかる。丁稚どんが言うには、前回の講義で、青木先生が「二段組で印刷して、製本されると持ち運びはいいが、読みにくい」と言われたので、従来、2段組みの版下形式にした形で提出してくれていた生徒さんまで、1段組みになっているのだった。

事務所では、こうした場合、一段組の原稿をいちいちコピーをとり、縮小して二段組みの形式にして版下を作ってから、ようやく印刷しなくてはいけないので、これでは経費もかかるし、手間がかかる。実際、400枚くらいの作品だと、版下を作るだけで1時間くらいかかるので、これではこちらがまいってしまう。印刷費はともかく、とにかく手間がかかるのは問題なんである。この1年、週1〜2回バイトで手伝ってくれている丁稚どんだが、ほとんど専攻科の作品集印刷の専従みたいなもので、ここ半年、印刷に追われて、他の作業などはまったくできない。これは、相当な「経費増」なのである。これだけで、一人当たり数千円はアップだもんなあ。うーん。どうしたもんだろうなあ。短編ならいいが、とにかく長編はかさばるし、印刷するのも何時間もかかるので、シャレにならん問題なのである。印刷フォーマットを事務局指定に統一した方がいいのかなあ。まあ、7月〜9月は、2クラス合同の授業はかなり減らして、プロ志望組だけ別にやる授業が増えた分、諸費もそっちのクラスだけは別途追加諸費が請求になる予定なんだけど。とにかく7月の締切までには、考えないとなあ。ふう。事務とは、やたら地味でやたら面倒が多い仕事なのだった。ははは。

さて、今年は、年内にプロデビュー3名、というのが私の希望である。すでに2名は、アレでアレなので、どうにかなりそうなのだが、あとの1名がどうしたものか。もちろん一人と言わず、誰でもいいから、もうてんこ盛りでデビューしてくれたらその方がいいのだが、さて、じゃあ誰がというと、はいはい、そこですがな。

毎回、20人前後が入学してくる小説講座も、どっちかというと「できればプロ」「なれたらいいなプロ志望」というのが多くて、「なにが何でもプロ志望」という人は、正直、一クラスに1〜2名というところではないかと思う。いや、実際には「プロになりたい」という人は、もう少しはいるのだが、どうもちょっと違うのではないか、と私は思うようになってきた。むろん、今まで一度も小説を書いたことがなくて、「とにかく作家になりたい」なんて人も、ごくたまにいるわけで、本人の「決心」があるかないか、というよりは、実際に「実行」するかどうかの方が大事だし、そういう意味では、別に小説を書くのには、「プロになる決心」などはあってもなくてもいいのだが、だが、どうも、そう簡単な問題でもないような気もしてきたのである。

というのは、専攻科に在籍している人で、バリバリ書いていて、本人も「早くデビューしたい」と言っており、文章力も構成力もかなりうまい作品を書く生徒さんが増えたせいだと思う。もう講師にもとくに注意する部分がないくらい、つまり、作品がかなりうまくなってきた時に、なんと言うか、ちょっと説明が難しいのだが、私は、妙にプロ作家とアマチュアとの違いを感じてしまう。生徒さんも、作品自体がまだヘタな時は、技術の問題しか目立たないのだが、うまくなってくるとそこは違いがなくなって、ある表現しにくいような問題だけが残るような気がする。とくに、今、専攻科には、いつデビューしてもおかしくないような人が数人いるので、余計にそう感じるのかもしれないけど。ある意味、本科のクラスの方が、初心者ばかりなので、まだみんなどんどんうまくなっている段階なので、気はラクである。

その問題が何かというのが、ちょっと説明しにくいし、私自身にもわかっていることではないのだが、どうもそれは「気合い」というか、それが「プロ意識」みたいなものではないかなあ、という気がしている。「アマチュアなんだから、しょうがないじゃないか」というのは、それはそうなんだけど、ただ、ずっとアマチュアでいい人はそれでいいのだが、プロ志望なんだったら、やっぱりアマチュアの段階でも、たぶんすでにプロ意識はあるものだろうと思う。けど、とにかく生徒さんの作品は、たいていの場合、全体的に(やはりなんと言っていいものやらわからないが)、「ゆるい」というか「ぬるい」のが多いのである。プロの作品には、あまり感じられないが、どうしも生徒作品を読むと「スキだらけ」という感じがするのだ。どうも、技術的な「うまいへた」だけの問題ではないような気がする。しかし、これはどうしたもんなんだろうなあ。入学したばかりでまだヘタな頃は、とにかく読みにくいから、まだ目立たないのだが、専攻科に進学する頃には、どんどんうまくなるかわりに、「ゆるい」のが目立つようになる。専攻科でも何年かたてば、確実に上達するから、ついに最後に残るのは、ここだけだ。しかし、どうしたものか。

講師の先生方に言わせれば、「ここまで来たら、もう技術の問題じゃないので、本人の意識の問題」だと言うし、まあ、実際そうなんだろうけど、今、専攻科にはこのあたりに数名かたまっているので、すぐそばで見ている私としては、どうにかならないか、とヤキモキするのである。それに個別に見れば、ひっかかっている問題は、それぞれ違うけど、究極に考えたら、それぞれ1箇所だけという感じである。にも関わらず、それになぜ本人自身がそれに気がつかないのか。こっちにはわからないから、余計にヤキモキする。

実は、こういう人は、どの講師にも毎回、指導のたびに同じような内容を言われている(講師が違うので言い方はまったく違うが、元凶は同じだから、似たようなことを言われているのである)。そのように、私には見える。ところが、どうもただ表面的な作品指導としてだけ聞こえているらしく、根本的な原因が自分自身の内部にあると思わないらしく、それで別の作品を書いても、同じことを繰り返すようなのである。

最初は「なんで、本人だけが何度言われても気がつかないのだろう?」とえらく不思議に思ったのだが、どうもよく話してみると、どうやらそれが「本人がもっとも認めたくないところ」に関わる問題で、本人自身がなるべく考えないようにしているモノらしいのだ。で、本人は、「自分では、全くわからない」という。目の前にあるのになぜ気づかないのか。これは、たしかにクセモノである。

こういう現象に気がついたのは、数年前からなのだが、ヤキモキするのは私だけで、講師の先生たちに相談しても、「うーん。でも、こうなるともう本人の問題なので、もう本人がジタバタするしかないんだよねえ。技術は教えられるけど、こればっかりは本人の問題だからねえ」と笑っている。なぜか作家さんというのは(どうやら自分でもそういう時期があったのかもしれないが)、なぜか生徒さんたちのそういう心情が「わかっている」らしい。先生たちは、読み手としても熟練しているから、「まあ、作品を読めば、なんだかわかるけどねえ」と言うのだった。

しかし、そうは言われても、私はやっぱりヤキモキしてしまう。
「でも、こればっかりはどうしてあげることもできないもんねえ。プロなんか、なれない方が幸せかもしれないしさ」と笑うプロ作家の先生たち。まあ、先生たちは、一度や二度、あるいはしょっちゅう地獄も見たことがあるんで、それくらいぜんぜん平気なんでしょうが、そういう先生たちみたいな心境には、私はとてもなれそうもないなあ。かといって、実際、乗り越える覚悟がある生徒が何人いるかというと、さあ、どうなんだろうなあ。ホントにみんなプロになんか、なりたいのかなあ。なってほしいんだけどな。

小説とは関係のない休日(夕食はトマト)

5月8日(月)
小説講座の事務所は、5月3日〜8日までお休みです。

朝からバタバタ。昼からは、非常勤講師のお仕事。終日、くたくた。
家に帰ったのは10時近くで、夕食を作る元気も、食べる元気もなし。うちでは、月曜と土曜の夜は、たいてい夫が作って子供たちに食べさせている。器用なタイプなので、料理も何でも作るが、ただし私の分は作らない。私は食べて帰るからだが、必ずしも私は外食が好きなわけではないので、月曜日などは食べたり食べなかったりである。家に食事がたまに残っていることもあるのだが、彼は、料理を多めに作るのがキライなタイプらしいので、ほとんど食べたことがない。

ちなみに、私は、実家の父もたいへん器用なタイプで(母も決して料理ベタではないと思うのだが)、手の込んだ料理や魚をさばくのとか、あるいは巻き寿司とか、おせち料理なども、よく父が作っていた。うちの弟も料理は得意で、高校生の頃からたまに自分で弁当を作ったりするくらいだった(母は、これはイヤがっていた。息子の弁当くらいは母親が作らないと恥ずかしいと思っていたらしい)。たまたま結婚した相手もそのまんまそういう男だったので、しばらく気づかなかったのだが、どうも世間では一切料理をしない男性もけっこういるらしい。これはけっこう不思議である。もともと料理なんか、どこか「工作」とか「実験」に似ているところがあるから、どっちかというとたぶん男のコの方が得意なんじゃないのかな、と思う。ファミレスなんか、高校生のバイトはたいてい男子が調理係、女子が接客係である。

ただ、私はかつてファミレスで、バイトの訓練係をしたことがあるので知っているのだが、たしかに男の子は「母親が嫌がるから、台所に立ったことがない」ような人がかなり多いのだった。だから、必ず「包丁の持ち方」からキチンと教えないといけない。ただし、これは女子でもほとんどの子が案外ちゃんとできていないんだが。おそらく母親でも、ちゃんと包丁を持ててない人がけっこういるのだろう。とにかく、たいていの高校生は、包丁がちゃんと持てないのである。しかし、たとえファミレスでも、キュウリくらいキレイにスライスできないと、調理場では使い物にならない。料理の基本は、和食だろうが、イタリアンだろうが、まずは「包丁の持ち方」である。私のキッチントレーナーだった人が教えてくれたことだが、「包丁は刃物だから、これは剣と同じ」なのだそうだ。つまり、重心のかけ方が大事なので、手の持ち方だけじゃなくて、足と腰が重要なのである。本来、包丁は、ただ手だけで切るものではないのだった。だから、もし、まだ幼い子供に、包丁の使い方を教える場合でも、ここがポイントで、必ず子供の手の大きさにあった包丁をもたせて、踏み台などを使って高さも調節し、まずちゃんとした構え方で教えないとケガをするし、ヘタな持ちクセがつくとなかなかうまくならない。

基本のかまえが大事なのは、スポーツにも似ている。そこさえできていれば、あとは経験だけである。だから、ヘタな持ち方のクセがついてしまっている女子よりは、一度も母親には教えてもらったことがないような男子の方が、かえって早くうまくなったりする。ただ、どうせレストランだと、「じゃ、とりあえず、玉葱を二十個スライスにしておいてね」というふうにやたら大量に切るから、イヤでもすぐうまくなる。そのへんの男子高校生でも、包丁使いだけなら、1ヶ月もすれば、母親よりうまくなる。経験さえ積めば、確実にうまくなるからだ。家庭の主婦は、他にもいろいろやらなくちゃいけないから、料理に使う時間は、せいぜい数時間だが、ほんとのプロだと一日10時間はやってるし(外食産業はたいてい長時間労働なのよね)

たまに「器用」というのも、まるで「生まれつき」の才能のように言う人がいるが、あれはどうやっても後天的なもんなんで、誰でも努力次第である。

ところで、うちの夫は(たぶん本人のアイデンティティとしては)、すっかり現代美術作家で、前衛ダンサー(&振付家)である。ただし、現実には、職業として世間に認められているのは、おそらく「高校教師」である(ダンスも美術も大赤字だしな)。だから、毎日、朝の8時半には仕事である。まあ、美術教師だから、忙しいといっても、「シルバーリングの見本作っていた」とか「一日中、ろくろ(陶芸)を回していた」とか「写生会のつきそいで、休日出勤」とか、そりゃあ、それなりに大変なんだろうが、聞こえようによっては、「毎日、一緒に遊んでいる」みたいで、なんだか楽しそうな気がする。「だって、遊び方を教えるのが『美術』」なのだそうで、「真剣に遊ぶのもけっこう大変」なんだそうだ。むろん彼に言わせると、私が「教材研究」として、アニメのビデオを見たり、ミステリや時代小説を読んでいるのも「仕事というより、どうも遊んでいるみたい」らしいので、どっちもどっちなのだが。

とにかく月曜日だけは、子供たちのために夕方7時に帰宅するのだが、いつもは8時頃に帰って来て、それから踊りの練習をしたり、公演で使うための音楽テープを聴いたり、とにかく彼は12時ぴったりに寝るのだが、それまでの間はずっと何かをしている。朝は7時半出勤で、そういう生活を少なくとも十数年やっているわけで、よくまあ体力があるなあとつくづく感心する。その代わりに、ほとんどの自由時間を「創作活動」に費やしているので、ぼんやりテレビを見るなどということもまずないし(週1時間あるかないか。見てたとしても『芸術劇場』とかなんだけど)、友達と飲みに行くというのも年にほんの数回。趣味と言えば、たまに寝る前に少しビデオを見るとか、音楽を聴くとか(バイオリンをやっていたことがあり、弦楽関係が多い)、せいぜい観葉植物を集めたり、庭に野菜を植えるくらいである。

ただ、やっぱり双子の娘たちが小さい頃は、もっとキツかったそうで、このまえも自分の公演歴などをまとめながら、「オレって、もしかしてエライよなあ。双子がいても、こんなにやってんもんなあ」とつぶやいていた。どんなに手先が器用でも、人生のほとんどの時間を創作活動に費やす覚悟があっても、やはり子育ては大変な労力がかかるもんらしい。ただ、彼が料理をしたり、子供を風呂に入れるのはたいてい私がいない時だし、私が家にいる時は、彼は家にいないことがほとんどである。公演前などは同じ家に住んでいても、何週間もほとんど顔をあわさなかったりするので、案外、お互いの苦労は見たことがなかったりする。夫の料理にしても、冷蔵庫をのぞいて「ああ、豚肉スライスがなくなっているから、あれを使ったんだな」とか、子供が少し食べ残した皿を見て、「ああ、今日のメニューは、野菜炒めとナスのみそ汁だったね」と思ったりするくらいで、私自身は、ほとんど食べたことがないのだった。

今日は、フライパンに少しニンニクの臭いがした。なんか炒めものなんだろうなあ。でも、食欲がないので、大きなトマトを1個食べて私は寝る。

05/10/2006

小説とは関係のない休日(連休も最終日)

5月7日(日)
小説講座は、5月3日〜8日までお休みです。

連休の最終日。朝から天気が悪く、たまった家事を片づける。子供たちは、有馬温泉の玩具博物館の売店で買った「おもちゃ」(厚紙のからくりおもちゃ)の制作。大騒ぎ。

午後からは、図書館、あちこち買い物など。

雨の中、夕方、買い物から帰って、ふと隣の家をのぞく。荒れはてた庭に、ホコリまみれになった緑色のミニバイクが、まだ置いてあるのを確かめる。隣の家は、ここ数年、ほとんど無人状態である。庭木などは、すぐ近所のおばあさん連中が見かねてたまに掃除をしているようなのだが、ほとんど剪定もされないから、やはり荒れ果てているのだった。

一昨日、その隣の家のご主人が、数年ぶりに訪ねて来た。あまりにも久しぶりだし、もともとオジサンは、顔もあまりよく覚えていない。近所の人といっても、仕事で忙しい「ご主人」は、顔さえ覚えてなかったのだ。数年前の家族で住んでいた頃でも、おそらく顔をほとんど見たことがなかった。だから覚えてないのは無理もないのだ。

私が毎日のように顔をあわせていたのは、隣の「おばあさん」と「娘さん」だけである。たしか、それ以外に「奥さん」と「おにいちゃんが2人」がいたから、全部で6人家族だったはずだが、あとの人たちは顔を覚えていない。おばあさんは、明るく社交的な人で、いつもよく庭先で草花の手入れもされていたし、近所のおばあさんたちが集まって、よく井戸端会議もしていた。うちとはベランダも隣同士だったので、洗濯物を干す時にたまに話をしたりした。どこか大きな病院の婦長さんをしていたこともあったらしい。かなり感じのいいおばあさんだった。

働き者で、三人のお孫さんの世話も、このおばあさんがされていた。というのは、その家の奥さんは、離婚したかどうかして、しばらくすると家を出ていなくなったからである。一番下の娘さんはまだ小学生だったのではないかと思う。この娘さんをたいへん可愛がっていたようで、彼女を呼ぶ声が隣の家からよく聞こえて来た。娘さんは、上のお兄ちゃんたちは歳が少し離れていたようだ。彼らが独立して家を出てしまい、ダンナさんの姿も見えなくなってからも、おばあさんと二人で住んでいた。彼女が、高校を卒業して専門学校に入った頃、おばあさんが足を悪くしてから長期入院してしまったので、友達と一緒に住むようになった。彼女が自殺したのは、その時のことである。一昨日、隣のご主人(娘さんの父親)が来られたので思い出したのだが、そういえば、その日は、何年目かの命日だったのだ。

近所のおばあさん情報網で、うちの母が聞きつけたところによると、彼女はドアノブにベルトをかけて、首を吊っていたそうだから、かなり発作的なものだったのではないかと思う。とにかく、その後、しばらくお兄さんが一人で住んでいたが、数年もしないうちに姿が見えなくなった。つまり、ここ数年、ほとんど空き家だったのである。

何年かぶりに会った隣のオジサンは、すっかり頭が白髪に覆われていた。顔はほとんど覚えていないが、こんな白髪ではなかったはずだがなあ。うちの父よりは、十歳くらい若かったはずだから、もう六十ほどなのだろう。
「ごぶさたしてしまいましたね。長い間ほったらかしていて、申し訳ありませんでしたねえ。ずいぶん気味の悪い思いもされたでしょうけれど、このたび知人に土地を買ってもらうことになりました。ようやく家を処分することにしましたのでご挨拶に」
と言うのだった。数ヶ月前に、隣の家を調べている不動産業者を見かけたので、そのうちいつかそうなるのだろうとは予期していた。驚きはしなかったのだが、「ずいぶん気味の悪い思いを」という点だけに、私はほんのちょっとだけ驚いた。

そう言われてみれば、たしかに「事故物件」というヤツだったのだが、言われるまでなぜか全く気がつかなかった。そういえば気味が悪いと思ったこともなければ、むろん気にしたこともない。言われてみれば、娘さんが首を吊ったあと、おばあさんも後を追うように病院で亡くなって、それからずっと数年間も空き家になっていたのだから、もしかしたら、この家は「幽霊屋敷」だったのかもしれない。しかし、そう言われるまでぜんぜん気がつかなかった。自殺した娘さんをよく知っていたからかもしれない。まあ、もともと幽霊などあまり怖くない体質なのかもしれない。そもそも夫などは、まったく霊感がないのが自慢な人間なので平気らしいが、私は、もし幽霊がいるのなら、会えるものなら会ってみたいとふと思った。それが知っている人なら、平気である。もし、あのおとなしそうな娘さんなら、こちらが怖がる理由は何もない。たとえ幽霊でも、会えるものならぜひ会いたい。本当に、死者に会えるならいいのに。

空き家になった隣の庭には、ずっと緑色のミニバイクが置きっぱなしである。バイクの持ち主は、もう何年も前に、19歳で亡くなって、とっくに灰になってしまったというのに、あの日、彼女が乗っていたバイクはまだ庭に置いたままである。ほこりまみれのサビついた車体は、みかんの木の下にある。おばあさんが熱心に手入れをしていた庭木は、今ではほとんど枯れて、ただ数本残っているだけだが、みかんの木は手入れもされてないから伸び放題である。まあ、買い手がついたのなら、どのみち一緒につぶされてしまうのだろうけど。

夕方、夕食にまぜずしを作ろうとして、ご飯をまぜながら、子供たちには、明日からの学校の準備をするように言う。3人の子供たちがはしゃぐ声を聞きながら、突然、そういえば、あの家も、かつては6人家族で、こんなふうに毎日にぎやかなだったのを思い出してしまう。急にトゲがささったような、せつないような気分。そういえば、今日は連休の最終日。最後の夕方だからかもしれない。日曜日のサザエさん症候群じゃないけれど、なんだか急に「祭のあと」のような妙な気分である。

その時、子供部屋の方から、メロディ・フェアが聞こえてくる。「小さな恋のメロディ」の主題歌である。たしか子供に買ってやった『英語うたの絵じてん』という本についていたCDで、これは英語の曲が二十曲くらい入っているのだが、最後の5曲が「イエスタディ・ワンス・モア」「トップ・オブ・ザ・ワールド」「スカボロ・フェア」「メロディ・フェア」「虹のかなたに」なのだった。うーん、これは、イカンでしょう。たとえ偶然でも、こういう曲を、亡くなった少女を思い出していた時にかけてはいけないんだぞお。たまたまでもイカンでしょう。

ああ、来年のゴールデンウィークには、もうあの家はないのかもしれない。一年後には、すっかりきれいな新築の家が建っていて、誰かにぎやかな家族が住んでいるのかもしれない。
いずれにしても、あの家は、きっと、もうすぐなくなるのだろうなあ。きっと私はもう思い出さないだろう。だって今でも思い出すのは、大人になった娘さんの顔ではなくて、なぜか小さかった頃の顔だけである。赤いランドセルを背負って、学校から帰り、おばあさんの庭いじりを手伝っていた姿。なぜかそれしか思い出せなくなっている。

ふと、お酢を効かせすぎたかもと不安になって、あわててすしめしを口にする。
何だかんだをぜんぶ混ぜ込んで、笑顔の夕食。酢の量はちょうどよかったのだけれど、なぜだか雨のような味がする。ゴールデンウィークが終わった、連休の最終日。

05/08/2006

小説とは関係のない休日(郡山城跡〜法隆寺)

5月6日(土)
小説講座の事務所は、5月3日〜8日まで、お休みです。

子供たちは、それぞれ友だちと遊びに行き、夫は「ガーデニング」に忙しそう。今日も、天気はものすごくいい。こんな日に家で仕事をすると、夫にイヤミを言われるだけなので、また一人で外出することにする。

昼過ぎからの外出なので、どうせ山には登れないから、ぶらぶら歩きをすることに。連休中なので、京都や神戸は混み合うに決まっているから、奈良に行くことにする。まあ、やっぱり春だから、「斑鳩」がいいかもね。大阪から電車で30〜40分。うちからは、ほんの1時間ほどである。まず「近鉄郡山」で降りて、郡山城跡へ行く。二〜三人がスケッチをしている他、ほとんど人がいない城跡で、のんびりと家からいれてきたコーヒーを飲む。それから、JR郡山までぶらぶら歩き、金魚のおもちゃ(やっぱ金魚の町だし)などを買う。筒井順慶つながりで、「平群」に行こうかと思ったのだが、やっぱり「法隆寺」駅へ。ぶらぶら歩いて、法隆寺まで行く。着いたのは、4時過ぎ。法隆寺の前は、それなりに人は多いが、この時期、修学旅行や団体客はいないので、たかがしれている。やはり奈良はいつものんびりである。5時に閉まるので、そのまま中には入らずに夢殿の横から、法輪寺を見れるところまでぶらぶら歩く。ここまで来ると住宅も少ないので、ほととぎす、竹林、レンゲ畑。古墳と法輪寺の前まで行ってから、夕暮れの田んぼの横をぶらぶら歩いて、また駅まで戻る。

6時頃、天王寺行きの電車に乗り、8時頃、義母の家へ着く。夕食をごちそうになり、そのまま「お泊まり」する子供たちと夫を残して、一人帰宅。のんびりと読書。なんだか優雅な一日である。

05/07/2006

小説とは関係のない休日(司馬記念館、ブロッサム、ユニクロ、ゲロッパ!)

5月5日(金)
小説講座の事務所は、5月3〜8日まで、お休みです。

子供の日。連休中だが、息子は、クラブの練習である。娘たちは、近くの緑地へ虫とりに行ってしまう。昼食後、ただ一人で家に残った私はなんだかヒマだし、嫌みなほどこんなに天気もいいし、家にこもって仕事をするのもなんだしで、近くをぶらぶらサイクリングすることにする。まず、家から30分ほど南に走って、八戸ノ里の「司馬遼太郎記念館」へ。入館するのは久しぶりだが、さすがはゴールデンウィーク。けっこう来館者もいる。『功名が辻』はだいぶ前に読んでいるはずなのだが、かなり忘れており、手元にもなかったので、せっかくなので、ここで1巻を買って記念スタンプを押す。のんびり休憩してから、中央環状線を北へ戻り、ユニクロに寄って、シャツを4枚ほど買う。それから門真南の「ブロッサム」へ。おしゃれなアウトレットショップが集まっているところなのだが、こちらもけっこうな人出。ぶらぶら、あちこちのショップでアレコレ買おうかどうしようか悩んでいたら、けっこう時間がたってしまった。結局、モンベルで夏用の帽子を購入。無印良品で小物を少し買っただけ。

さて、夜、帰宅した子供たちは、近くの祖父母の家へまたお泊まりに行く。いつも喜んで一緒に行くはずなのに、なぜか小3の双子の妹だけが行かずに残って、「パパと二人で寝たいの」という。(ちなみに、うちはいつも夫婦別室)

パパの方はまんざらでもない様子だったが、実は、彼女は『ゲロッパ!』の放送を最後まで見たいだけなのであった。うちは「いつも子供は9時半には寝なきゃいけない」のだが、祖父母と違って、パパは甘いので、休日前なら11時まで見ても怒らないのである。この娘は、なぜかやたら「ドラマ」が大好きなのだ(2時間サスペンスなんかも実はかなり好きらしい。冬ソナやチャングムは見てないのだが、たぶん見たら絶対ハマるタイプである)

結局、野球の延長もあって、11時半過ぎまで一人で『ゲロッパ!』を見てた娘。
「めちゃくちゃ面白かった!」
終わるのを待ちきれなかったパパは、すっかり先に「おねんね」であった。

小説とは関係のない休日(六甲、有馬温泉)

5月4日(木)
小説講座の事務所は、日曜、月曜、祝日お休みです。

本日は、子供たちとのお約束の「六甲、有馬温泉」ツアーである。
日本のゴルフ発祥の地、かつての異人さんの別荘地は、今はおしゃれなデートスポットである。だいたい連休というのは全国どこも混むものだろうが、とくに神戸と京都は、要注意である。そりゃ、東京に比べれば、たいしたことはないのだが、人混みがスゴイのだ。

けど、六甲のロープウェイもかなり古いし、すでに「山頂駅」までのルートが廃止になっている。山頂駅から有馬温泉まではあるのだが、本数もかなり減っているし、やっぱり乗っておける時に乗っておきたいので、阪急の梅田駅で「六甲周遊パス」を購入する。阪急、バス、ケーブル、ロープウェイ、有馬温泉の入浴券つきで、大人2500円。これで、一日遊ぶことに。ゴールデンウィークで人は多いし、子供用のフリーパスはないのがちょっと面倒だが、有馬温泉では、「マス釣り」でカラアゲにしてもらって食べたり、「金の湯」にも入ったりして、わりとのんびり遊ぶ。

昔、有馬温泉は、ものすごーく「渋い」温泉街だった記憶があったのだが、あちこちかなり新しくなっていた。温泉につかってから、三宮経由で大阪に戻る。かなりのんびり遊びすぎて、帰宅は11時近く。ロープウェイに乗ったおかげで、今日はほとんど野道を歩いてないから、ハイキングという感じではないのだが、さすがに遊び疲れて、すぐに就寝。

小説とは関係のない休日(四条畷、野崎まいり)

5月3日(水)祝日
小説講座の事務所は、5月3日〜8日まで、お休みです。

野球のチケットをもらったので、息子は父親と大阪ドームへ。
私は、飯盛山ハイキングと野崎まいり。うちの双子の娘たち、妹夫婦とそこの双子の息子(甥っこ)たちと一緒。5歳の甥っ子たちは、うちの娘たちに手をひかれて、生まれてはじめての山登り。子供たちは、元気はつらつ。日頃デスクワークの多い大人たちの方は、明日の筋肉痛を怖れて、かなりゆっくりペースなのだが、子供たちはついつい走りたがるのである。まるで、4匹の子ザルである。
四条畷から四条畷神社へ。そのまま山頂へ登り、裏側へ降りてから池まで歩く。夕方は、ぐるっと野崎観音へ。この時期は、ちょうど「野崎まいり」で、出店が並んでにぎやか。子供たちはかき氷を食べ、私は「冷抹茶」。
天気もよく、のんびりした一日でした。

連休に備えて、しっかり残業

5月2日(火)
朝から小説講座の事務所。

連休に備えて、発送物など多数。終日、事務作業。
明日からの6連休のために、しっかり残業つき。専攻科、9期生へ、事務連絡を発送。
専攻科は、連休明けの9日が作品締切日だし、9期も、13日に修了課題の申し込み受付があるのだった。
大阪NPOプラザ内は、ボランティア協会の事務所引っ越しなどで、ちょっとバタバタしている。いつも作品集を作っている印刷スペース(ワークステーション)の場所が変わったり、なんだか雰囲気が変わった。

けっこうギリギリまでがんばったけど、結局、文章教室の課題の作品集の印刷までは手がつけられず。やっぱり連休明けがまた忙しそうである。

GW中ですが、仕事してます

5月1日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜、祝日お休みです。

お休みのはずだが、事務所へ出勤。バタバタと事務作業。
専攻科の「お知らせ」を作成。発送準備など。
大阪NPOプラザは、5月3〜5日まで完全休館だし、事務所は、5月3日(水)〜8日(月)まで6連休なのだった。仕事は山積みだが、とにかくお休みである。世間では、1日2日もお休みなのか、けっこう事務所も静かでけっこう仕事もはかどった。

05/06/2006

小説とは関係のない休日(星のブランコ)

4月30日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜、祝日お休みです。

天気がいいので、子供たちを連れて、「河内磐船」から歩いて、のんびりハイキング。前から行ってみたかった「星のブランコ」を見にいく。「天の川」の川沿いをのんびり歩く。「星のブランコ」は、かわいらしい名前だが、全長280メートル、高さ50メートルの「つり橋」なのだった。私が行きたいと言いだしたくせに、揺れると怖い。あんまり面白くない。そういえば、私はロープウェイも乗りたがるくせに、乗るとそれほどは面白くないのだった。けど、面白くないが、とりあえず乗りたいのだった。

どうやら自分の足で登った山ならいいが、ビルの屋上とか、つり橋とか、ロープウェイから見える景色は、どうもあまり面白くないものらしい。しかし、面白くないが、なぜか見たいのだった。

満開の山桜があったので、遊びまわる子供たちを放し飼いにして、その下でちょっと昼寝。時間があれば、交野山に行きたかったんだが、今日はのんびり。

小説とは関係のない休日(奇数は悪い)

4月29日(土)
小説講座の事務所は、日曜、月曜、祝日お休みです。

休日なので、のんびり。
中1の息子は、数学がわからない。とくに分数がわからんらしい。早い話がかなりアホなのだが、さすがにこのままだとヤバイと母親(私)は思っている。が、塾には本人が行きたがらない。で、小学生用の問題集を買ってきて、ムリヤリ毎日10分だけ、解かせることにした(うちの息子は、10分が限界)。

小学生用だし、とっくに解けるはずだが、これがなかなか大変。ちょっとずつ何とかわかるようになってきたようだが、なにせ彼に「算数」を教えるのは、私にとっても、とても難しいことなのだった。

「なあ、ママ、この問題って……おかしくない?」
「いつまでもごちゃごちゃ言わんと、少し集中して問題を解きなさい。それ、小学生の問題集なんやで」
「だって、わからんもん」
「はいはい。どこが?」
「ほら、この問題おかしいやん。『畑のニンジンを5分の4だけとって』って」
「どこがおかしいの。畑の面積の5分の4だけ、収穫したんやろ」
「でも、なんで、この人、畑のニンジン、全部とらへんの? 5分の4やろ。あと5分の1くらい、やってもた方がええやん」
「はあ?」
「それから、『その7分の4を隣の家の人にあげました』って。なんで、せっかくとったニンジン、隣の人にあげるんやろ?」
「え? まあ、お世話になってたから、とか。ほら、お礼とか」
「で、次の問題も、『トマトを3分の1、あげました』って。なんで、そんなにいちいち隣の家にあげるのん?」
「別にええやろ。それ、ただの算数の問題やねんから」
「でも、あげすぎやん。おかしいやん。何かあるんかな」
「もう。ほら、問題って、全部、同一人物とは限らへんやろ」
「あ、そうか! そうや! つまり、これ、隣の家の人なんや! だから、昨日のお礼で、お返しにトマトくれたんや! わかったわかった!」
「わかったって……あんた、算数の問題やねんで。そんなんいいから、早う問題解きなさい」
「うんうん、きっとそうや」
「どうでもいいから、早く計算しいや」
「どうでもよくないで。だって、この問題すごく気になるねんもん」
「そんなこと言ってるから、さっきから、問題ぜんぜん一問も解いてへんやろ」
「だって、気になって、それどころちゃうねんもん」
「算数の文章題なんか、いちいち気にしてたら、解かれへんやろ」
「でも、ボク、気にしやすい体質やねん」
「ただサボってるだけやろ」
「違うねん違うねん。ホンマに気になるねん」
「そんなアホなことばっかり気にしてるから、算数わからんようになるねんやろ」
「ほら、こういう問題もキライやねん。7分の3」
「7分の3? どこが?」
「ほら、奇数って、悪いやんか」
「はあ?」
「ほら、奇数って悪いやろ?」
「何が?」
「奇数って、なんか悪い感じするやん。きっと奇数って、イジワルやと思うねん」
「はあ?」
「ほら、偶数やったら、みんな2で割り切れて、『みんな仲良し』って感じするやろ」
「え? そ、そうなん?」
「だから、偶数はええけど、奇数は悪いやろ」
「いや、そんなに悪くは……ないんちゃうの? 割り切れへんかもしれへんけど」
「ボク、とくに3だけは、前からずっとキライやねん」
「3? 3って、数字の3?」
「そうやねん。一番キライやねん。一番いじわるな感じするやろ」
「でも、3って、ただの数字やで」
「ほら、3って、あやしいやろ」
「どこが、あやしいの?」
「ほら、ポカンと口開けててさ」
「くち?」
「ほら、二つも口開けて」
「え? ああ、もしかしてカタチ?」
「な? ヘンやろ?」
「そうかなあ。それにしても、そんなことばっかり考えてたら、ぜんぜん問題解けへんやろ」
「うーん。ボク、算数に向いてないかも」
「でも、やっぱ、分数くらいは、わかってた方がええと思うよ」
「うん。がんばるわ。でもさあ。なんで、世の中に奇数とか、あるんやろうなあ」
「なあ。計算なら教えてあげられるけど、そういう高尚な問題は、ママにはわからんねんで」
「うん。わかってる。でも、やっぱり3はキライやなあ。なんかキライやなあ。見ただけでイヤやねん」
「そんなん、ただの数字やん。だいたい、それやったら、5かて、口開いてるやろ?」
「5はええねん。お行儀よさそうやし」
「5はええのん?」
「ほら、8とか9とか、やさしそうなお姉さんって感じやのにな。3は、アカンよなあ」
「なあ……ってか、いいかげんに問題やりなさいよ」

このように、彼に算数を教えるのは、いつもとても大変なのである。

参観、家庭訪問、クラブ

4月28日(金)
午前中、小説講座の事務所。午後から帰宅。

午後から小学校の参観。4月から長男が中学へ進学したので、3クラスを走りまわる心配はなくなったし、双子の教室も同じフロアになったから、2クラスの参観もだいぶ楽になった。夕方は、長男のクラス担任の家庭訪問。息子は、かなり迷った末に、「柔道部」に入部。息子は体も小さく、きゃしゃなタイプなので、柔道部というのは、母親の私も意外だったが、それを聞いた父親の方はもっと困惑したらしい。

本人に聞いてみたら、「文化系のクラブは、女子ばっかりなので、なるべく運動部」「団体競技は、チームの足をひっぱりそうだから、個人競技がいい」「球技は、どうせレギュラーになれなくて、球拾いで終わりそうだからダメ」なのだそうで、どうやら消去法で決めたらしい。本人の意思なので、別にそれはいいんだけど、父親はなぜだかえらく困惑、というか、どうも狼狽しているらしい。(ちなみに父親は、中学も高校も美術部)

柔道部ってのがイヤなのかなあ。
どうも父親というのは、息子に対して、複雑な感情を持つものなのかなあ。

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