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04/29/2006

みんな、好みもいろいろ

4月27日(木)
午前中、小説講座の事務所。午後から外出。

夕方、講師の先生と待ち合わせて、少し話をしてから7時半過ぎに帰宅。持ち帰りの仕事もあり。なぜかあいかわらずバタバタしてるなあ。しかし、仕事を持ち帰っても、家では家事があって、めちゃくちゃ忙しい。どのみちほとんど手つかずなんだがなあ。

専門学校での講義レポートの整理。いつもながら、教材の映像作品の感想なども、人によって全く感想が違うところが面白い。映画やマンガ、小説などの作品は、人によって、好みがかなり分かれるのが普通なんだが、ある人が「つまらない作品」だと言っても、別の人は「おもしろかった」と言ったりする。まあ、もちろん「多数決」をとれば、「かなり面白くない」とか「かなり面白い」という結果がでるのかもしれないけど、商業ベースの映画でも、ほとんどの人にウケるというのは、あまりない。人によって好みはいろいろだ。まあ、だからこそ、創作の可能性はいろいろなんだけど。

好みの違いといえば、『ナルニア国物語』は、私の周囲では評判はあまりよくないのだった。つまらないという意見も多い。まあ、原作を知らない人が多いみたいだけど。しかし、「つまらない」のはいいとしても、「あまりに子供だましで、ストーリーが安易」という意見を聞いた時、なぜだか妙な感じがした。他のファンタジーに比べると、まあ、そうなのかもしれないが、しかし、あれは「ルーシー」が中心人物なので、実際には、かなり幼い子向けなのではないかと思う。他のファンタジー大作などは、あきらかに10歳以上の年齢が対象と思われるが、こっちは、たぶん2〜3歳は対象年齢が幼いみたいだなあ。

たしかに最近、「子供向け」と見せかけて、実際には「マニアな大人向け」の「子供番組」なんてのもけっこうあるけど、結局、聞こえてくるのは、ほとんど大人の意見なんだよね。それって、どうなんかな。「母親の意見」なんてのもアテにならんが、子供の意見ってきっとだいぶ違うんだよなあ。

まあ、もともとかなり古い作品なので、原作に忠実に作ると、あーなるだろうと思うし、割とよくできていると思うが……ああいうストーリーは、たぶん最近じゃシンプルすぎるんだろうなあ。ま、原作を知らないとアレなのかもしれないなあ。とくに「水戸黄門」とか「2時間サスペンス」なんか大嫌いで、「たとえヒマつぶしにせよ、あんなもの面白がる人の気がしれない」と思っているようなタイプとか、そーゆー人には向いてないかもしれない。嫌いな人はキライかもね。原作もそうだが、映画も「適齢期」ってのがあるからなあ。

まあ、適齢期をハズして「損したなあ」ってこともあるけど、これはいくらカンを働かせたところで、「運」とか「縁」ってのがあるからなあ。

ところで、先日、NHK出版の「チャンツでノリノリ」という英語CD本をアマゾンで買った。2年前の「基礎英語1」で、息子が大好きだった英語チャンツ(英語学習のための短い曲)がまとまった本である。彼はラジオ英語を3年間聞いても、あいかわらずアルファベットがほとんど読めないのだが(もう中学生なので、そろそろヤバイ。先日、「ママ、YOURって何?」って聞かれた。大丈夫か)、とにかく毎朝15分、寝ぼけながら聞くだけは聞く。そのおかげでリスニングだけは得意らしいのだった。しかし、購入をためらうほど、ネットでの評判があまり悪いので、しばらく迷った。が、買ってみたら、基礎英語でやった曲がたくさん入っていて、息子は「あ、これ、覚えてる覚えてる」と大喜びである。

この本は、英語学習のための文章をラップなどの音楽をつけただけなので、たくさん入っているだけで、あまり色気はない。たぶん、今、幼児に英語を教えるのが流行っているから、これを幼児に聞かせている母親に評判が悪いのかもしれない。まあ、どのみち当時の「基礎英語」を聞いてなくて、いきなりコレだけをやるとシンドイんじゃないかなあ。だいたいアレは中学生向けだし、テキストも読めない幼児向けではない。うちの息子は、ハワイに行った友達がうらやましくて、自分から早起きしはじめたので、親はほとんどほったらかしだったのだが、小4でも一人でテキストを読むのはかなりシンドイ(読めない漢字が多い)

商品には、マーケティングでいうところの「ターゲット」というモンがある。もちろんターゲット以外の人が買うこともたまにあるわけだが、それは買った人の判断なので仕方ないのだった。ま、ブランドもののバッグなら、「好きで買う」人以外は、「高いから買わない」ので、あまり評判が悪くなったりしないし、100円、200円なら、安いから期待値も低いので文句もあまり言わない。そう考えてみれば、本や映画、CDなどは、ちょうど文句を言いたくなる値段なのかもしれない。「買って読んでみないと中身がわからない」ということもあるけど。まあ、つまらない映画とか見ると、お金より時間が惜しいというのはあるけど。

04/27/2006

うららかな春の朝

4月26日(水)
午前中、外出。午後から小説講座の事務所。

アホな話題。たとえば、今朝の風景。

6:02 
うららかな春の朝。トイレから叫び声が聞こえる。あれは、中1の息子である。
「うわあああ〜っ」
「どうしたん!?」
「どうしようどうしようどうしよう!」
「えっ!? なになに!?」
「ボク、おしっこ出てもた!」
「えー、中学にもなって、間に合わんかったん?」
「ちゃうちゃう! ちゃんとトイレでやった!」
「ほんなら、ええやん」
「でも、だって、今日、ほら、あれ、あれ、検尿や!」
「ああ」
「どうしよう!?」
「どうしようゆうたかて。そか、出してから思い出したんかあ。ま、まだ6時やし。また出るやろ」
「出るかなあ」
「2時間もあるやん」
「でも、出えへんかったらどうしよう。忘れたら、学校で、やらなあかんねんで。カッコ悪いやん」
「まあ、あんまりカッコよくはないな」
「しかも、ボク、保健委員やねんで!」
「え、そやったん?」
「だから、ボク、みんなより早く行って、検尿、集めなあかんねん」
「そら、保健委員が忘れたら、カッコ悪いわなあ」
「うわあ、どうしよどうしよ」
「まあ、でも、まだ2時間あるって。それより、6時からのラジオ英語聞くために起きたんちゃうの。もう始まってるで」
「えー、もう英語どころちゃうもん。そんなんどうでもええわ」

6:20
「ママ、兄ちゃんがガタガタうるさいねん。トイレの前でまた跳んでるねん」
「ああ、ほっといたってな。あの子、アホやねん」
「ほんまアホやなあ。私ら、ちゃんと忘れんと学校に出したで」
「まあ、あんたらは、そういうのは、しっかりしてるから……ほら、兄ちゃん、ええかげんにしいや。待ってても出る時にしか出えへんねんで」
「だって! なんか、落ち着けへんもん!」
「そんなもん、ある程度、ためとかな、しょうがないんちゃうの?」
「いや、ちょっとずつでも、出さな」
「そんなん無理やと思うけどなあ。なあ、先に、朝ごはん食べたら?」
「あ、そや! 今のうちに、いっぱい水、飲んどこ!」
「あ、そんなに飲まん方がええと思うけど……」

7:00
「なんかお腹痛い。さっき冷たい水飲みすぎて、お腹ごろごろする」
「ほら、やっぱり」
「あかん! おしっこじゃなくて、急にウンコ出そうや!」
「トイレ行ったら」
「あかんやろ! 今、ウンコしたら、せっかくためたおしっこ一緒に出てまうやん!」
「うーん、そら、たしかに難しい問題かもなあ。一緒やったら、採取、難しそうやもんなあ」
「どうしようどうしよう!」
「そやかて、もらすわけにいかんやろ」
「あーっ、もう我慢でけへん! しゃーない!」
「……ママ、やっぱり兄ちゃんって、ほんまアホやなあ」
「ああ、もうそれは言わんとったって」

7:15
「なあ、パパ、 あんな、兄ちゃんおしっこ採るの忘れとってん。私ら、ちゃんと忘れんと学校に出したのに、兄ちゃんってアホやな」
「え、ああ。そら、アホやな。でも、ま、ありがちありがち」
「え? パパも、子供の頃、忘れたことあるん?」
「ああ、しょっちゅうしょっちゅう」
「えー、パパも、あんなんやったん?」
「はっはっは。ほら、あれって、朝、出している途中で気がついたりすんねんなー。でも、もうそう簡単に止まらないんだなこれが。はっはっは。ま、学校で出せばええやん」
「え、パパも、あんなアホやったん?」
「いやいや。けど、パパは保健係をしている時は、忘れたりせえへんよ」
「兄ちゃん、いま、保健委員やねんって」
「そら、保健委員やったら忘れたらカッコ悪いで。だからパパは、保健委員だけは一回もしたことないねん。はっはっは」
「やっぱ、アカンやん」
「でも、大丈夫。今、パパは大人やから、『先生』は持っていかんでええねん。学校でしてええねん」
「うわ、ずるっう〜」
「はっはっはー。どーだ、すごいだろう」
「大人だけ、ずるい〜」
「おまえら、うるさい! ボク、今、ホンマに困ってんねんぞ!」

7:40
「うわああ〜、やったー! ついに出た!」
「あ、兄ちゃん、そんなトコ置かんといて、そのナフキン、弁当を包むねんから」
「やったー! やったで! あきらめんでよかったー! なあ、ボクがんばったもんなあ。やっぱ、あきらめへんかったらいいことあるなあ!」
「ふーん。そら、まあ、よかったなあ。けど、そういうのは、もうちょっと別の分野で聞きたい気するけどなあ」
「ほんま、よかったー!」
「いいから、早く朝ごはん食べてしまいなさいってば」

7:50
「兄ちゃん! トイレ早く出て! 私、入られへんやろ! ママ、兄ちゃんがまたトイレ、入らせてくれへん!」
「だって、また出るねんもん。なんか水飲みすぎたわ。いくらでも出るで」
「いいから、早よ学校行きや」
「でも、授業中、行きたくなったらいややな。カッコ悪いやん」
「一難去ってまた一難。あんたって毎日ドラマチックに生きてるなあ。ところで、みんなより早く学校行って、集めるんと違うかった?」
「あ、そやった! 早よ行かな!」
「痛い。兄ちゃん、足、ふまんといて!」
「いってきまーす!」
「あ、兄ちゃん、忘れてる忘れてる!」

そう、あいかわらず、今日もなんのことはない、うららかな春の朝であった。

04/26/2006

小説講座の事務所は今日も

4月25日(火)
午後から小説講座の事務所。欠席発送の準備など。

いろいろプリントがたまっているのだが、どのみち発送物が多いので、用意だけはして、発送は来週まで待つことに。GWに9連休をとる人もいるのかもしれないが、私はカレンダー通り。5月1日と2日も出勤予定。

相談者が1名来館。入学相談ではなく、創作相談。ゲームシナリオを書いていて、小説もやった方がいいのか迷っているというような感じの人で、どうも数回ゲームの仕事をしているらしい。まあ、小説は書いたこともなく、それほど読んでいるわけでもないらしいから、私は「そりゃ、どう考えてもゲーム」というアドバイスをしてしまう。儲かる儲からないじゃなくて、どのみち書いて金をもらうってのは大変なので、好きか嫌いかの問題である。または、やれるかやれないか。ま、小説は書きたくなったら書けばいいと思うがな。

結局、この忙しいのに、気がつくと2時間。おそるおそる机に戻り、一人でモクモクと作業をしている丁稚どんの顔を見ると、怒ってなかったのでホッとする。笑いながら「ぬれせんべい」をくれた。いや、丁稚どんはやさしいので、そんなことではまず怒らないのだが。まあ、彼女は9日まで休みなので、どうせ仕事がたまれば、あとでGW中に地獄を見るのは、私一人ということもあるけどね。

そんなわけで、気がつくと夕方。たいして仕事もはかどらず。いつも「週1回の講義しかないから、毎日ヒマでしょう」とよく言われるのだが、まあ、ブログを書くようになって、それだけはあまり言われなくなったが、こういうわけで毎日なぜか忙しいのである。ふう。

小説とは関係のない休日(ロールケーキ)

4月24日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

事務所はお休みだが、今日から専門学校の方の講義開始で、終日忙しい。非常勤講師である。一昨年は、週2コマだけだったのが、昨年4コマになり、今年は週6コマ。そのうち4コマは、月曜日にまとめてもらっているので、今日、その第1回の講義だったのである。

ここは「大阪コミュニケーションアート」という学校なのだが、マンガコースだけで一学年100人以上もいる3年制の専門学校である。人数がたくさんいるので、さすがにレベルは色々だが、少なくとも1年生は真面目で熱心である(1年生しか担当したことがないので、あとはわからんけど)。私の場合、週6コマといっても(この学校はすべての授業が2コマ単位なので、実際には3回)、全部、同じ一年生なので3クラス分、つまり週3回まるきり同じ講義をすればいいので、かなりラクである。しかも、もう3年目なので、かなり慣れたこともあるし。

実は、この授業、もともと3人の講師が順番に受け持つはずで、私はどっちかというと助っ人だったのだが、昨年、一人の先生が2年の選択科目を受け持つことになり、今年なぜかとうとう私一人になってしまったのだった。もともと他の2人の先生は、映画解説の仕事をしていたため、映像作品を上映してから解説するスタイルの教養講義である。あとの二人が「名作」とか「古典」を解説していたので、私は、アニメを上映したりして楽しくやっていたのだが(けっこうやりたい放題)今年だけは、なぜか「名作」も受け持つことになったのであった。もしかしたら大変なのかもしれないが、その先生が用意したレジュメもばっちり読ませていただいたし、大丈夫(借り物だが)いや、たぶん。

事務の方たちも、他の先生たちも、当然マンガ,アニメ好きだし、オタクにも理解のある学校で、アニメを見つつ、楽しく講義ができるのでけっこう楽しいんだが(ただし講師料は安いけど。ちなみに、小説講座の4分の1くらい)これで、けっこう大量のレジュメを作ったり、毎回、あれこれ実習をやったりするので、手間はかなりかかる。授業の最後に10分ほど時間をとって、レポートも毎週書かせているのだが、これが3クラス分、毎週100人以上。読むのもけっこう大変だ。

だが、これを読むのがけっこう楽しい。「たのしい講義でした」とか「いろいろ発見がありました」とか、お行儀のいいレポートがほとんどなのだが、ここだけの話、私は、そういうレポートはあまり面白くないので、ちょっと反抗的な意見を書いてくれるレポートを探すのが楽しい。(さほどないんだけど)

とくに、他の人が思いつかないようなところで「なぜか怒っている」ようなレポートを発見するのが面白い。こういうのは、どこかに「発見」がある。たとえば、マンガ科の生徒さんというのは、なぜかたとえ「絵がヘタ」と言われても怒らないのに、「想像力がない」と言われたら怒るらしい(むろん私が言ったわけじゃありませんよ)、というのは、レポートを見て「発見した」のである。

私は、「才能」というのもアテにしてなくて、そんなものをアレコレ気にするくらいなら、「テクニック」と「慣れ」の方がよほど重要だと思っているタイプだが、さらに、この「想像力」とか、「空想力」、「妄想力」というものも、「天性」のものだとはあまり思っていない。でも、たぶん「怒っている」生徒さんは、たぶん自分には「天性の空想力」があると思っていて、それを否定されたと思って、怒っているのである。

そりゃ、「もともと夢見がちな子供」というのはいますよ。だが、まあ、どのみち後天的な要素だし、少なくとも子供の頃は誰にでもあっただろうから、ある程度の年齢だと、それはあんまり関係ないのである。けど、どうも世間では、「空想力」というのは、「持って生まれた才能」と同じくらい、もともと生まれつきの才能のように、自然に備わったものだと考えているようで、どうやら「鍛えたり、磨いたりすれば伸びるもの」だとは思わないらしい。

「才能」もそうだけど、「空想力」も抽象的な概念である。だけど、実際に必要なのは、マンガ家志望なら、たとえば架空のモンスターの姿を描くためであったり、小説家なら、経験したことがないような体験やら事柄を書くためだったり、ある程度、限定されたものだと思う。たぶん、そういうもんだろう。ってことは、必要な「空想力」というのは、鍛えたり、磨いたりすれば、どんどん伸びそうじゃない? そりゃ、空想力というのは、科学者にも必要かもしんないし(研究とは未知のものを調べるためにやるのだから)、料理人にも必要かもしれないが(新しいメニューとは、必ず未知のレシピで作るのである)、それは体を鍛えるみたいに、鍛えられるものかもしんないじゃん。

私の担当している講義は、「アイデアテクニック」という講座タイトルなので、映像解説はするが、「映像研究」が目的ではない。けど、このアイデアテクニックというタイトルからして、しばしば「理解」されていないことがあるんじゃないのかな〜と思うことがある。だって、この「アイデア」も、まるで天からの恩恵のように、偶然に降って来るものだと信じている人がけっこういるのだった。しかし、もし本当に天から降って来るというのなら、その「テクニック」というのは、なんだろうってことになるしさあ。

世の中には、「よく考えてみれば、必ずしもそうとは言えないのに」というような「常識」というものがけっこうあって、これが小説講座の生徒さんなどでも、けっこうジャマになることがある。なぜだか皆それをかなり信じているみたいなのである。たとえば「若い人は、発想が豊かだ」というのもそれである。ちょっと考えてみればわかると思うのだが、高校生でも発想が豊かじゃないヤツはいっぱいいる。頭の固いヤツはすでにもう固いのである。小学生くらいなら別なんだろうが、中学生になれば、もう固いヤツはすっかり固くなってしまっている。私は、専門学校生を何人も見てて、ふと思ったのだが、18歳というのは、正直、そういう意味では、もう充分にオジンオバンだったりするんじゃないのかなあ。そりゃ、小学校低学年なら、まだ違うかもしれないけどさあ。

まあ、たしかにサンプルを大量に調べて、ちゃんと統計をとれば、もしかすると多少の傾向は出るのかもしれないが、それはもう「女は、嫉妬深い」のと同じくらいにアテにならないと思うんだがな。そんなもの、そもそも「嫉妬深い」という定義がはっきりされていないしさ。実際、性差よりも、個人差の方がはるかに大きいし、たとえそうだったとしても、アナタが嫉妬深いか、嫉妬深くないかには、関係ないもんな。

ところで、毎年、第1回の講義は「ロールケーキの断面図を書いてみよう」というゲームのような実習をやっている。これは実習なのだが、3段階あって、1回目は、そのまま切る(輪郭線は円で、クリームがうずまき状)、2回目は、ヨコに切る(輪郭線は長方形で、クリームがいくつかの線状に並ぶ)、3回目にも、ある「切り方」を示して、その断面図を書かせるという課題をする(この答えは、「輪郭線が楕円で、クリームが円になる」)、もちろん3番目の問題が「本題」なのだが、ふつうは、2回目まではほとんど「正解」するのだが、なぜか、3回目の課題の答えが「円」だとわからない生徒が多いらしいので、けっこう面白がる。こういう「しかけ」なのである。

この実習の時は、実際に「ロールケーキ」を教室に持ち込んで、目の前で切ってみせてやることにしている。なんでこういうアホなことをわざわざやっているかというと、これは一種の「たとえ話」なので、アイデアというのは「切り口」なんだけど、ただの切り口ではなくて、ある「驚き」とかがあるような「特別な切り口」なのだ……というのを象徴的に説明するためなのである。アイデアって、「新しい発想」だと思うんだけど、どうもそれが「ただの考え」とどう違うのかわからないらしいからである。

この実習は、けっこうウケるらしいので、毎回、恒例である。これでも「アイデアとは何か」の説明なのだ。ただこの方法だと、毎回、ロールケーキを休み時間に生徒が食べてしまうので、クラスごとに用意しなければいけないのがちと手間だが。今日は、なぜかナルトまで食べられてしまったので、ちょっとびっくりした(ナルトも用意しているのだ。ナルトは長いので効率がよい)

しかし、この課題、どういうわけか今日、あるクラスで、「2回目の課題」が4割くらい不正解だった。こういうクラスは初めてである。ふつう間違っても、せいぜい2〜3人である。なにせマンガコースなのである。ヨコに切ったら、クリームが線状にならぶことくらい、ちょっと考えれば想像がつくだろうに。うーん、いや、こういうのは想像力とも言わないのか。まあ、ちょっとびっくりした。うーん、ふとデッサンの授業担当の先生に同情してしまうなあ。

でも、「線」になっただけでも不思議がり、「円」に切れた時には、かなり「うわ、びっくりした」「えーっ」とそれなりに喜んでいた。それだけ「驚き」が大きかったのなら、それはそれで幸せだな。そもそもこの実習は、すぐ答えがわかったからと言って、それだけだけなら、実はぜんぜん面白くないのである。「考えたけどわかんなかった」「わあ、びっくりした」って人の方が面白いのだ。(ま、この実習の本来の目的は、そっち)。

そりゃ、「うずまき」だと思っていたクリームが「円」になったからと言って、それがどうしたと言われても困るのだが、それが「面白い」と思うような感性さえあれば、きっと大丈夫なんじゃないのかな、と思ったりする。

ただ、他の生徒と違って『マトモな授業』を期待しているらしい生徒は、こういう実習をさせると、なんのこっちゃわからないようで、たいていクラスに1名くらいは、めちゃくちゃ怒っている生徒がいる。

だが、私は、けっこう性格が悪いらしいので、こういうレポートを読むのが一番好きである。

04/24/2006

小説とは関係のない休日(地域図書館)

4月23日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

昼から自然史博物館に行くつもりだったのだが、体調がやや不安なので(また肩こりと頭痛)、泣く泣くあきらめる。リニューアルされてから展示されているという「クジラの全身骨格」も、まだ見てないのに無念である。
(と、息子に言ったら、「そんなん、ロンドンの博物館でも、見たはずやろ」と言われた。彼とは別の時期にイギリスに行ったので忘れていたが、なんだかナマイキだぞおまえ)

午前中、家事をかたづけて図書館へ。午後からは、子供たちが全員、近くの緑地に遊びに行ったので、パソコンに向かったり、また図書館へ行ったり、買い物したり、ぼちぼちと休日。

この図書館は、私のうちから歩いて10分ほどの距離にあり、たいてい週1〜2回は行く。自転車で行けば5分ほど、地下鉄の駅からも直結で、夕方7時まで、仕事が早く終われば、寄ることもできる。大阪市立の図書館なので、市立全域の図書館からは取り寄せできて、しかも2〜3日でつくし、予約システム(オムリス)を使えば、自宅のパソコンからもあらかじめ予約できて、到着のお知らせがメールで届く。便利このうえない。(ただし、オムリスは、大阪市立の数十館なので、大阪府立の図書館は、別のシステムになっている)

さらにビデオやCDの貸し出しもあり、これが全部無料である。小説講座や文章教室の生徒さんには、たまに「図書館を利用したことがない」という人がいるが、これはかなりもったいないような気がする。そりゃ、もちろん本を購入することも大事である。というのは、たまに、逆に「図書館だけを利用して、本を買ったことがない」という人もいるのだが、こういう人は、なぜか読者としてはいいが、書き手としてはちょっと伸びないことが多い。理由はわからないが、そういう傾向がある。まあ、たぶん「金を出してもいいから読みたい」というような行為がない人には、「金を出してもいいから読ませて」というような文章が書けないのかもしれない。とにかくアマチュアではいいが、プロには向かない可能性がある。もしかすると「買いたくなるような文章」ってのが何かがわからないのかも。

そういや、「インターネットでは色々書いている」という人も、そういう傾向があるのかもしれないなあ。なにせ「新聞も本も買わないけど、書くのは好き」という人がいるが、まあ、人は「金を出しても読みたいほどの価値のあるもの」しか買わないのである。まあ、お金さえ稼ごうとしなければ、ネットもいい発表媒体だし、図書館もタダなんだから、できればどんどん利用したらいいと思うけどね。

ただ、実際には、図書館で借りた本というのは、買った本とちょっと違うのである。私なんかは、そもそも図書館で借りる本と買う本とは、違うカテゴリーだと思っている。たとえば、図書館で借りた本でも、「あ、しまった。これは買って読むべき本だ」とわかれば、そのまま読まずに、わざわざ買ったりするのである。まあ、講師の著書なんかは、手元に置いておきたいので、最初から本屋で買うし、絶版でも、古本屋を探しまわるぐらいなので、よほどのことがない限り、図書館で読むことは少ない(でも、たまに検索なんかしてみるけどね。オムリスだと、どれくらい貸し出し中かわかるのである)

でも、だいたい図書館にすべての本があるわけではないし、ある特定のジャンルの本となると、揃ってない場合も多い。まあ、たとえ国会図書館でも、調べものにはいいが、貸し出してくれるわけではないし、私自身は、図書館を利用する、というのと、本を買う、というのとはまったく別の行為だという気がしている。

しかし、とにかく私は、どうも「自宅から10分以内」に図書館がないと落ち着かないタチである。図書館の規模は、たとえ小さくてもいいから、10分以内にないと何だか落ち着かないのである。独身時代に一人暮らしをしていた時に住んでいたアパートも、車で10分のところに図書館があったので、そこに決めたくらいである(当時は、毎日、自動車通勤をしていたので、歩いて10分でなくても、車で10分なら充分だったのだ)

そういえば、以前、知り合いのモノ書きの人が、ちょっと郊外に素敵な家を建てたのだが、
「すっかり注文通りにできたし、本当にいい家で満足だ。ただ、一つだけ不満なのが、歩いて行けるところに本屋が一件もないことだ」
と笑っていたのを思い出す。
「でも、今は、本くらいネットで買えるから便利でしょう?」
と私が言ったら、
「それは確かに便利なんだけど、でも、やっぱり違うねえ。以前は、目的の本がなくても、本屋をぶらぶらしてたら、なんか新しい出会いみたいなのがあったからね。ネットは効率はたしかにいいんだけど、なんか寂しい感じがして。日頃、自宅にこもっている職業だからね。たまに町に出て本屋に行くと、やっぱり何だかほっとするもんねえ」
と言うのだった。
本好きというのは、なんだかそういうところがある。とくに買うための本がなくても、本屋をうろうろしたりしたいものである。

たぶん、独身の人なら、今なら近くにコンビニがあるとか、ファミレスとか、スーパーとか、そういう店があると安心するでしょう。私の場合は、図書館と緑地(あるいは山か海、または大きめの公園)である。とくに図書館は、できるだけ10分以内にないとダメである。なぜ10分かというと、それくらいなら、ちょっとした時間でパッといける距離だからで、どんなに忙しくても、散歩のついでに図書館に予約した本をとりに行けるし、子供たちに自分のカードを渡して、「ちょっと借りてきて」とお願いしてもいいくらいの距離なのである。つまり、歩いて10分以内なら、かなり「自宅の書庫」に近い使い方ができる。そこがいいのである。あれだけ膨大な本を自宅に置けるわけがない。だいたい私は、貸し出しだけで週に十冊以上は借りている。しかも、うちの家族は、全員、同じくらい借りている。息子なんかは、暇さえあれば、どうも毎日、図書館にいるらしいので(まあ、彼が読んでいるのは『ドラえもん』とか手塚治虫だが)、あれを全部買うというのは、まあ、無理である。

ちなみに、ある日、家にある図書館のマークが入った本があまりに多いので(お一人様8冊まで貸し出し可能。うちは5人家族である)、ちょっと計算してみたら、何万円にもなっていた。これが毎週だから、まあ、家族分を足すと、月に二、三十万はかかることは間違いないのだった。むろんそんな余裕はうちにはないわけで、全部買うのならこんなには読めないのである。いやいや、金の問題じゃない。そんなの、どこに寝ればいいんだろう。

私はどうも「蔵書」が必要以上にたくさんあるというのは、ちょっと落ち着かないタチである。ジャマだというよりも、落ち着かないのである。どういうことかというと、本は、もしほんの一人だけがただ一回だけ読むために出来ているとしたら、かなり丈夫にできている。実際には、一冊あれば、一人と言わず、何人もの人が読めてしまう。一人が一回だけしか読まないのはあまりに「もったいない」のである。「積ん読」といって、本を買ってしまって読まずに置いておく人がいて、まあ、私なんかもあまりに忙しいとなかなか読み切れないのに、どうしても買える時に買ってしまう(最近の本は、生鮮食品)から、たまにまだ読んでない本がたまることもあるが、そんな時は、めちゃくちゃ落ち着かない。一回だけ読んだだけでもダメである。なんか、まだ自分の本になってないような気がする。せめて2〜3回は読まないと。だいたい5回くらい読むと、ちょっと安心してきて、もったいなくないような気がする。

私は、まるで「養子をもらう」かのように、家に招き入れた本を扱わないと気が済まないらしい。まあ、私は本にカバーをかけたりするタイプではないし、読めてナンボなので、ボロボロになっている古本でもまったく気にしないタチだが、新刊書であれ、古本であれ、複数回読まないと、何かとてつもなく悪いことをしているような気がする。だって、本というのは、誰かの本棚でホコリをかぶっている状態ではなくて、たとえば、図書館にあれば、みんなが読めるのだ。

数万にのぼるコレクションを集めていたという絵画の有名なコレクターの話を聞いたことがある。その人は、絶対に誰にも見せない主義なので、ずっと倉庫にしまっていたのだそうだ。まあ、その人が大事にしまっていてくれたから、その人の死後、今日の私たちがやっと見ることができたのだが、しかし、誰にも見られない絵画というのは、やっぱり「不幸」な絵画だと思う。きっと絵画というのは、誰かに見られるためにあるものだ(だいたい見たって減るもんじゃないし)。だから、本だって読まれるためにあるので、所有されるためにあるものではないだろう。まあ、ただ本の場合、幸いなのは、複製がたくさんある(というか、絵画と違って、本というもの自体が複製なのだが)から、ただ死蔵してたって、まだ許されるかもしれないけど。

いや、プロなら、「買ってもらわなくては意味がない、図書館で読まれても仕方ない」という意見もありそうだし、そういう面もあるだろうが、少なくともそれが小説家なら、それはやっぱり「芸能」なんじゃないかなと思う。「おもしろい」なら「欲しい」、まあ、やっぱり買うだろうしね。

余談だけど、有名な読書家とか作家さんが亡くなって、その蔵書が失われてしまう、ということがよくあるのだが、そういう話を聞くたびに、私は、家族ではなく、その「故人」に対して、ちょっと腹をたててしまう。本というのは、その人にとっては、「養子」のようなものだが、家族には「他人」なのだ。本人にとっては貴重なコレクションかもしれないが、家族にとっては、何万も残せば、迷惑なだけである。一度、責任をもって引き取った「養子」なのだから、本人が自分の死後、どうするかまでも責任をもつべきだと思うけどな。寄贈するとか。古本屋でも信頼できる人に頼んでおくとか(ふさわしい人の手に渡るようにしてくれるだろう)

つまり、早い話が、私が買う本は「何度も何度も読むつもり」の本に限るのである。(それでも、ま、こういう商売をしていると、いやでも毎月、数十冊単位で蔵書は増えていくが)
なにせ「養子」なのである。だから、たくさんの「責任」は持てないのである。ああ、あるいは「恋人」なのかもしれない。読書というのは、性行為に似ているから(そうか?)
とにかく、たくさんの人間と出会うのはいいんだけど、どのみち深い関係をもつのは限られた人だけである。

またまた余談だが、大阪は、あまり専門図書館がたくさんない。今は、なにもかもが、東京一極集中している時代なので、専門図書館の多くは(というかほとんどが)、東京にある。だから、私も、東京へ行くと、バタバタと忙しいのに、図書館へ行ったりすることもある。ただ、こういうのも、テーマによりけりで、たとえば、私は最近「寝屋川」をテーマに歴史などを調べたりしているのだが、こういうのは(あたりまえだが)、東京の図書館にはほとんどないのである。また、図書館は、市民からの献本も受け付けているところも多く、たまに「自費出版本」なども混じっている。先日、徳庵に住んでいた人(薬局の主人らしい)の「自費出版本」を何気なく読んでいたら、幼い頃、古川(寝屋川の支流)で泳いだことなどが細かく書かれていた。こういうのは「ただの思い出」として書かれているのだが、けっこう貴重なのである。また地元にしかない「ミニコミ紙」なども置いていたりする。地方図書館の郷土コーナーはあなどれない。(たまに、旅行に行って地方図書館をのぞいたりすると、みんな予算に不自由しているだろうに、けっこうがんばっているのである)
うちの近所の図書館でさえ、近くの小学校や中学校などの記念誌(創立80年史とか)がかなり揃っている。なかなか壮観である。郷土史なんかだと、これがけっこう面白いのである。

こういうのは、たとえ国会図書館に行っても、おそらく手に入らない。だから、「国会図書館に行きさえすれば、全部わかるだろう」と思うのは、ある意味、「インターネットを使えば、何もかもわかるだろう」と思うのと、ちょっと近いものがある。どちらにも、長所、短所というのがあるので、それを理解して利用するしかないのである。

そういうわけで、歩いて10分ほど、ちょっと散歩で行けるほどの距離に「図書館」があるというのは、私にとっては、非常に安心である(というか、死活問題であるのだが)。ちょっと興味を持ったら、パソコンの本を読んだり、地下鉄の歴史に驚いたり、イタリア料理の作り方を調べたり、雑草の名前を知ったり、小説も、ぜんぜん知らない作家で、まったく興味がないジャンルでも、とりあえず読むだけは読んでみようかなと思ったり。結局、あるジャンルに関して知りたかったら、やっぱりインターネットよりも早いし、確実だし、便利である。図書館の棚の間をブラブラ歩いて、パラパラと気になった本をめくるだけでも、私は充分楽しいのである。もちろん地域図書館だから、子供たちがバタバタ走り回ってるけど、それも楽しい。まあ、大型図書館は、静かなのがいいけど、こういう図書館はバタバタしているのがまたいいのである。絵本のコーナーもあって、時々、自分の子供たちに、紙芝居を読んであげたりできる。すると、知らない子供が遠慮がちに近寄ってきて、一緒に並んで「おはなし」を聞いて笑ったり、驚いたりする。ソファに座り込んでいるおじいさんがいて、その熱心に読んでいる本のタイトルをのぞき込んでみたり、また「総合学習」の勉強をしている小学生のグループがいたり。ふむふむ、最近の総合学習のテーマは、こんなのが出るのか、などと思ったり。

たくさんの本と、たくさんの本を読む人がいるので、図書館には、けっこう小さな楽しみが落ちているのだ。

04/23/2006

小説講座の合同講義は、大盛況

4月22日(土)
朝から小説講座の事務所。午後からの文章教室は、八木純子先生。夕方、9期(合同講座)は、田中啓文先生。

先週に続き、今週も、昼食抜き。うーん、文章教室の授業がはじまった途端、毎週土曜日は、昼食を食べるタイミングがまだわからん。お手伝いスタッフのM子嬢は、12時頃、バナナを食べていた。それって、いいアイデアかも。

さて、バタバタと準備をしている間に、13時からの「文章教室」の第1回講義が開始。本日の講師は、八木先生。業界紙の記者からフリーライター、現在は、「編集分室」というプロダクションを主宰しながら、テレビやラジオ番組の構成などもされている。わりと明るい性格の方で、本日はおもに企画書の話。といっても、ビジネス向けだけじゃなくて、イベントや出版の企画書など、いわゆる基礎的なことを簡単に楽しく解説。入門者向けのわかりやすい内容なので、皆さんも理解できたかな。講義後、隣の「すかいらーく」で、1時間半ほど先生を囲んで雑談。

5時に事務所を飛び出して、自転車で山のような荷物を運んで、エル大阪へ移動。夕方は、小説講座。講師は、田中啓文先生。数年ぶりの講義なので、どうせ専攻科からの見学希望も多いだろうからと、大教室をとったのだが、なにせ60人ほどの大教室。うちの講座は、どのクラス20人前後という少人数なので、いつもは多くても30人ほどの部屋。かなり大きく見えるのだが、あっという間に席がうまってしまった。うーん、やっぱ、田中先生、大人気。先生は「小さな教室で」と希望されていたかもしれませんけど、なにせ数年ぶりなので仕方ないのだった。毎年、講義していただければ、十数人ずつなんですけどねえ。

結局、イスが足りないほどの参加人数。教室のうしろで見学されたプロ作家さん3人の分を確保すると、イス数はぴったりギリギリ。私だけ、イスがなし(笑)、ホンマちょうどやったわ。生徒さんの感想も色々だけど、「感動した」「おもしろかった」と大好評。しばしば笑いもあり、すごく熱気あふれる教室でした。

さて、講義後、またまた例の中華屋さんへ。遠慮して帰宅された生徒さんもかなり多かったのだが、それでも専攻科と9期生あわせて二十数名。私は、東京から来られた浅暮三文先生たちとお話。プロ作家さんたちは、「『取材も不要、資料も気にしない。とにかく面白ければいい』というのは、一見、簡単なようで、よくよく考えてみれば、ある意味、逆にかなりオソロシイ注文かもね」という話。たしかに「雰囲気さえ書けてればオーケー」と言っても、じゃあ、それがどうすれば書けるかってのは、生徒さんには全くわからなかったりするわね。

ただ、こういうのは、わかる生徒さんには伝わるわけで、少なくとも自分で苦闘されてる人はわかるし、先生の著書を何冊か読んだりしていたら、少なくとも何を言ってくれているのかはわかる。うちの講座は、いろんな先生が十数人講義されるわけだから、こういう先生もいてくれれば嬉しいし、とにかく私は「ボクは気にせんと書いてます」と言ってくださるのは、愛を感じます。愛。(きゃ〜)

「でも、あの人(田中先生のこと)、あれで絶対すごく膨大な資料を読んでるわけだし、生徒さんがホントに『あ、なんだ、ホントに資料なんかぜんぜん要らないんだな』と思ったら、マズくない? 生徒さんだと、ほんとに、どうしようもないかもしれないでしょ?」と聞かれたのですが(まあ、それはなくはないけど)、でも、初心者なら、「ともかく書いてみようかな」という気になってくれただけでもいいわけだし、すでにたくさん作品を書いている生徒さんなら、やはり資料調べとか、時代考証などは、もうとことんやっている人も多いので、その意味で「おもろかったら気にせんでええんや!」と「解放された」んなら、それは大変な貴重だと思う。

とにかく、私はすっかり田中先生にホレ直してしまったのですが、あとで一緒に帰った藤野恵美先生にも、「やっぱり田中先生、ステキですよね。最高!」と言われてました〜(帰宅したら、生徒さんからも感動したというメールが。男からもホレられる田中先生)

ま、こんなことを書くと、先生は、「あれはウソ、全部ウソ、信用したらアカン」と言うかもしれへんけど。

さて、飲み会でも、いろんな先生から色々楽しいお話を聞けて感謝。でも、異能作家が集まったので、やはり時空がどこかひずんでいたのか、あっという間に、またまた終電ぎりぎり、11時半。

帰りしな、生徒さんから「大盛況ですね。儲かってますね」と言われたのだが、そりゃ、入場料をとっているわけじゃなし、専攻科は学費も低いんで、どのコースも赤字ギリギリ(というか、プロデビュークラスは、完全に赤字)。どうせ大盛況でも、私が儲かるわけじゃないんですがね。でも、まーいいのいいの。私も、面白かったらええんです。

けど、まー、でもこんだけ生徒さんがおるんやから、みんなバンバンとデビューしてくれてええねんで。ホンマ。

危険なタンス

4月21日(金)
午前中、小説講座の事務所。午後から外出。

ちょっと告白。
先日、映画館に『ナルニア国物語』を見に行った。私は、『ハリーポッター』も、『ロード・オブ・ザ・リング』も、「ああ、CGがきれいだな〜」と思いながら見たので、今回も「どんなCGかな」くらいで、さほど期待せずに行ったんだけど。まあ、もともと子供の頃、読んだ原作は好きだったから、「あんまりヘンな映画になってたらイヤだなあ」とは思っていたけどね。

そしたら、驚いたことに。タンスを見た途端、あれっとなったわけ。それは、ほら、タンスですよ。タンス。
ルーシーが、タンスの中のコートをふと抜けた途端、あれれ。自分の意志に関係なく、ぼろぼろっと涙が。
「???」
あれれ? なんで? 今、全然、泣くようなシーンじゃないんだけど?
と、思ったんで、ちょっと自分でもびっくりしてしまって。
だって、なにせまだ映画はじまったばっかりだしね。

で、街灯を見た途端、ふらーっと妙な感じに。

そのあとはかなり落ち着いて見てたんだけど、最後の方のシーンで、またタンスを見た途端、ぽろぽろ涙が。(あ、思い出したら、また涙がにじんできたぞ)

「それって、泣くようなシーンか?」と言われると、もちろん、そういうわけじゃないんだけど、どうもタンスを見た途端、涙のスイッチが入るみたいなんだけども。

で、ちょっと自分でもよくわかんないので、映画が終わってから考えてみたんだけど、やっぱりタンスみたいなのよね。原因は、タンス。どうやら、タンスに泣かされたらしい。(だから、どういう映画か、もう私はまったく判断つかないですわ)

で、思い出してみたのだが、私はかなり原作には幸福な出会い方をしたみたいだなあ。そういや、確か9歳か10歳だったと思うのだけど、ほら、本って、読むの、適齢期ってのがあるでしょう。たとえば、私が今、ハリーポッターを読んでも、うちの12歳の息子ほどは、たぶん感情移入はしてないような気がするのよね。ほら、あれ、やっぱり主人公、男の子だし。そういや、10歳の頃、読んだ「路傍の石」。あれは、やっぱり早すぎたようで、あんなに面白くなかったのに、中学生頃に読むと「ああ、こういう話だったのかあ」って感じで。やっぱり、読む適齢期とか、読むタイミングというのがあったりするわけで。

街灯を見た途端、一瞬、「あ、帰ってきた」って感じがした。
たぶん帰ったんですよ。一瞬。9歳に。

なるほど、きっと人間というのは、何歳になっても、体の中に子供の自分が何枚も重なっているわけなんだろうなあ。まるで、ラッキョみたいなもんですな。

どうもタンスがキーになっているみたいだなあ。
そういや、私が、子供の頃に好きだったのが、『スケートをはいた馬』というお話。あれもタンスだよねえ。
その話で、コンラート君という少年がスケートをはいた馬(大学も出た知性派だが、サーカスでの勤務経験もあり)と一緒に「なんよう」の勉強に出かけるというお話で、あれもタンスを通り抜けるのだ。わりとナンセンスな話なので好きだったよなあ。

それには、たしか「赤道」の話があったのだ。「なんよう」につながる「赤道」は、鉄でできたせまい道のようなもので(もちろん赤く塗られている)、海の上をずっと伸びているので、馬たちはその上を歩いて行くのだけど、海の波があたったりするので、さびやすいからいつも誰かがぞうきんで磨かないといけないのだった(大変だ)。さすがにその歳でも(たしか小学2〜3年生)、まさか「そんな赤道がある」とは思わなかったのだが。ただ、今でも、たとえば船で「赤道通過」したら、そんな道があったらいいなと思いながら、思わず波の向こうに探してしまうのだろうけど。

とにかく、何が起こるかわからないから、タンスって危険。

04/21/2006

小説講座の事務所は、3年度目

4月20日(木)
午前中、外出。午後から小説講座の事務所。

あいかわらず、コツコツと事務作業。メール数件。ピークは越えたとは言え、さすがにちょいとくたびれてきたのか、今週は能率があがらない。しかし、GWまでに片付けないといけないしなあ。来週からは、専門学校の講義もあるしなあ。そういや、家庭訪問や授業参観もあるんだよなあ。ふう。

さて、文章教室も無事、なんとか開講。独立して丸1年半。早くも決算上は、3期目に突入。(3月決算です。1年目は、半年しかないけどね)やれやれ、めでたいことです。

さて、ここに来て、昨年1年分の給料をようやく自分あてに振り込むことに。「今頃、一年分まとめて?」と思われるかもしれないが、なにしろ、何が何でも「無借金経営」「安定経営」ということなのだが、資金もない。というわけで、創設年度と2年目はかなり覚悟していたのだが、何とか支給できることになったんですな。実際、初年度、月額5万円の給料で半年しのぎまして(早い話が30万)、2期目の昨年はそれっきりずっと無給だったわけです。

でも、ようやく秋までの資金繰りのメドがたちましたんで、すっぱりさっぱり一年分まとめていただけることに。わーいわーい。ま、2期目もとても人サマに言えるような金額じゃありませんけども(笑)
(もちろんバイトさんたちには、きちんと支払っておりますのでご心配なく)

とにかく、小さな学校なので、開講する講座は、「確実に最後まで実施できるだけの運営費」をキープすることになっております。ですんで、つまり秋までの資金は確保できたってことですね。ま、普通だと、運転資金というものがあるもんなんですが、うちの場合、なかなか他からの資金調達ができませんので。

ま、学費も前払いなのですが、募集広告費や教室代などはもっと前払い。ちなみに、広告費はかなり削ってますが、それでも数十万かかりますんでね。

3期目に突入ですが、一応、独立時に作った「事業計画書」にほぼ近い状態で、順調と言えるのかな。もっとも大阪シナリオ学校で運営されてた頃から「エンターテインメントノベル講座」は、「今期は開講できるけど、来期はわからん」という状態で毎年続いてるんで、慣れてますけどね。ま、なんだかんだでも、今年の秋で10期生募集ですからね〜。事実上、8期生というのが開講してないので、実際には9年目ですけど。

ま、年に一回の募集だし、「今年、受講しないと、来年受けられるかどうかわからない」というのは、毎年だしなあ。とりあえず今年の生徒募集はできそうです。ま、今年は開講できますが、あいかわらず、来年の開講は保証できませんけどね。もし入学されるならお早めにね。

04/20/2006

小説家のお仕事、小説講座のお仕事

4月19日(水)
午前中、外出。午後から小説講座の事務所。

昼頃、エル大阪にて、今週末の教室代の入金。今週は、田中啓文先生の講義なのだが、専攻科の見学希望者が多いようなので、7階の大教室に変更してしまったからである。いつもとちょっと違う教室なんだけど、生徒の皆さん間違えないようにね。9期の講義も後期カリキュラムになってきたので、レクチャー講義も残り少なめ。「文章教室」の方からも、何人かは聴講を希望されているみたい。場所も時間も離れているので、わざわざ来ても2〜3人だろうけど。3回ほど「合同講義」を予定しているので、その第1回目。今度の土曜日は「文章教室」の講師は、八木純子先生。

さて、うちの講座は、十数人の講師が入れ替わりで担当することになっているので、ほとんどの講師は年に1〜2回ご出講されるだけである(講師同士が仲がいいので、ふらっと遊びに来られることがけっこう多いので、お会いする回数はもう少しあるけど)。だから、聞きそこねると、来年までは聞けないので、みな必死なのだった。さらに昨年の堺三保先生のように、カリキュラムに載ってないような特別ゲスト講師になると(そういえば、今回の田中先生の講義も、もともとのカリキュラムには載っていないのだが)、ヘタすると一生、聞きそこねるわけだし、あとで後悔してもどうしようもない。まあ、とにかく大教室に変更したので、遠慮なくどうぞ。

(堺先生にも、また何か機会があれば、ご出講を頼んではみますけど、なにせ国内にいるかどうかもわからないくらいの方なので。そういや、先日、先生のブログに「ちょっとロスに行ってきます」というような話がありましたね。ちょっとロス! うーんカッコイイな。ちょっとロス! 私もいつかやってみたいぞ!。ま、今は「ちょっと京橋(もちろん大阪の)」で限界だが)

さて、作品指導が中心の専攻科は、同じ講師も何度かご出講するのだけど、それでも多い人で年に5回ほど。なにせうちの講師は、現役のプロ作家さんたちなので、みな忙しい。「講師はヒット作、生徒はデビュー作」というのが私の願望だから(講座の宣伝になるかもしれないもんね)、なるべく執筆のジャマはしないように、遠慮がちにご出講をお願いするのである。だから、多くても年に5回程度にしている。実際、小説講座だけでも、本科と専攻科あわせると年に50回以上あるのだが、こうして20人近い講師がいるから、なんとかスケジュール調整がついているのだった。

でも、うちの小説講座は、生徒さんも大学生から社会人、主婦、定年後の方など色々だから、先生もいろいろな世代やタイプの違った人がいた方がいいようだ。実際、作家さんもいろいろで、ほとんど苦労せず学生デビューした人から、あちこちの公募に応募し続けて苦労してプロになった人、プロへの過程もいろいろ。またうちの講師は専業プロ作家が多いのだけど、会社員との「二足のわらじ」をされている人もいる。実は、講義で話される内容もかなりバラバラで、自分が使っている小説創作のノウハウを話されることが多いので、場合によっては、講師によっては、正反対のことを言うことも多い。たとえば、プロットを細かく決めて書くタイプの作家さんがいるかと思えば、プロットは細かく決めないで、とにかく何も決めずにむちゃくちゃ長く書いてしまってから、削って削って仕上げるという作家さんもいる。プロットを決めるといっても、表を作成している人とか、カード式の人とか、ノートで整理している人とか、かなりバラバラである。

私は、市販の「小説作法」の本などもかなり大量に読んだのだが、どうもあれに書いているのは、基本というか、野球で言うと「まず最初に、バットはこういうふうに持ちましょう」などという程度である。つまり、作家さんたち各自のノウハウというのは、また別のところにあるみたいである。

だから、「文章の書き方」を指導しているわりには、文章だけの指導(つまり「通信講座」)というのは、今のところ、計画していないし、あまりやりたくない。なぜなら文字によるコミュニケーションというのは、かなり限定されたもので、情報量も低いと思っているからである。いやあ、文章で書いてあるモンなんか信用しちゃダメっすよ(おいおい)
ま、今のところやる自信がないからなのだ。通信講座をやると「ややこしい生徒さん」もいっぱいいて、私が「全員を心から愛する自信がない」せいもあるけど。ま、直に会えば「愛」も芽生えるんだけど、通信だとなにせ本人と会わないからなー。(あ、でもスクーリングと組み合わせれば、不可能でもないのかな)

いや、とにかく文章というモノを真剣に考えれば考えるほど、「ナマの人間に会う」というのは、すごく大事だと思うんだけどなあ。

つまり「ナマの作家さんにいっぱい会えて、直接、小説についての話が聞ける」という小説講座なのだが、私が一番、生徒さんに知ってほしいことは、もしかすると先生たちが話す小説創作の話という内容よりも(もちろんそれも大事だけど)、むしろ生の作家そのまんまを見てもらいたいのかもしれない。ナマの人間というか、職業としてのプロ作家そのままを。

私も、この小説講座の担当になるまでは、「作家」という人種を会ったことがなかった。だが、それまでにもただ画家やタレント、デザイナーなどは会ったことがあり、作家も似たようなものだと思っていて、今でもさほど「ヘンな職業」だという認識は持っていない。(私は、もともと「作家になりたい」と思ったことがほとんどないので、作家という職業にさほど極端にあこがれがないせいかもしれないけど)

たしかに専業作家になれば「自由業」なので、堅気の「会社員」から見れば、ヤクザな商売かもしれないが、そういう商売と言えば、他にもたくさんあるのである。私の認識で言えば、作家なんぞにくらべれば、プロ野球選手の方がよほどだし、収入の不安定さでいうと、バレエダンサーやオペラ歌手の方がけっこうアレだ。
(私が認識する一番アレな「職業」と言えば、「探検家」ないしは「冒険家」である。まだ「カーレーサー」や「プロボクサー」の方がよほど堅気に見えるんだがそのあたりどうでしょう)

つまり作家は、「特別だが、そう特別でもない職業」なのである。どういうことかというと、たとえば「医者」というのは、もちろん特別な職業なのだが、かといって、めちゃくちゃ特別かというと、そう特別でもない。所詮、人間のやることなのである。作家もその程度に「特別だが、そう特別でもない職業」である。(そりゃ医者に比べると「食える率」はかなり低いと思うけど)

だから、私が、生徒さんに見てもらいたいのは、そういうプロの仕事人としての「ナマの作家さん」だったりする。生徒さんから見ると、プロ作家さんたちは一見かっこよさそうに見えるが(なにせ生徒さんは、あこがれの作家でもあるので、どうしてもそう見えたりするのである)、実際には「汗だくの仕事人」である。というか、ほとんど「満身創痍」である。ただ、その血まみれのままで、ふつうに話をしてくれれば、わかる人にはわかる。たぶんわかる。こういう話をすると、先生たちがどう思うかわからないのだけど、私はそう信じている。
(ま、むろん、わかんない生徒さんもいるだろうが、そういう人はどのみち作家には向いていない体質なので、それはそれでいいのである)

いや、たぶん先生たちもそれを信じてくれていると思う。そうでなければ、ご多忙中、都合をつけてわざわざ話してくれたりしないだろうし(なにせうちの講師料はかなり低いし、いわゆる有償ボランティア)

なんにしても、小説講座や文章教室の準備は、講師や生徒さんとお会いできるのが楽しみで、ワクワクするから、私はほとんどデートの準備みたいな感じで、いくら忙しくても平気。へへへ。けど、問題なのは、小説講座とは関係のない「専門学校」の非常勤講師の仕事の方で、あっちだけは自分で講師をやらないといけないので、そういう意味では楽しみがない……くすんくすん。新学期。まだ来週の講義の準備をしてないわ。頭が痛い。ああ、そろそろ小森先生にたすけてもらわねば。(最近、アニメ情報をすっかり小森先生に頼っているのである)

04/19/2006

文章教室の悩み、ボキャブラリーが足りない!

4月18日(火)
午後から小説講座の事務所。欠席発送など色々。

「文章教室」の生徒指導用のアンケートなどを整理。「今、悩んでいるところ」の項目を見ると、「ボキャブラリーがない」「小説のアイデアやシーンは思いつくのだが、どう文章に書けばいいのかわからない」と書いている人がいた。

小説講座でも文章教室でも、入学時、その人のレベルや実績などを知るために、必ずアンケートをとるのだが、毎年、一人くらいは同じようなことが書いてある。
「ボキャブラリーが足りない」
毎年、誰か最低でも一人は同じことを書くし、個人面談をしても似たようなことをいう人がいるので、考えてみれば、けっこうスタンダードな悩みなのかもしれないな。

しかし、この「ボキャブラリー」って一体何なのかな。もしかすると、語彙数のことを言ってるのかな。まあ、もし「語彙数」なら、これは結論だけを先に言うと、そりゃたくさんあった方がいいが、実は、あまりなくても何とかなるのである。

というのは、まあ、英会話などを習ったことがあればわかるかもしれないけど、日頃使う言葉というのは、案外かなり限られているし、もしあなたが生まれてからずっと日本語圏に生活しているとなると、まあ、たいていはそこそこカバーできていると考えた方がいい。そりゃ、日頃あまり使わない言葉もいっぱいあるけど、それは無限に近いほどの数があり、全部マスターするのはどのみち無理である。まあ、ヒマな時に国語辞典でもパラパラめくれば、おもしろい表現もいっぱい載っているのだが、結局、学者や研究者になりたいなら別だが、書く方をやりたいなら、最低必要なものだけあれば、たいていは何とかなるのである。

だいたい日頃あまり使わない表現というのは、どのみち使いにくかったりするのだ。たとえば「元も子もなくなる」くらいならまだ使うけど、「烏有に帰す」とか、日頃はまったく使わないっすよ。まあ、特殊な文体ならまた別だけど。

そりゃ、たしかに、「こりゃ、ホントに語彙が少なすぎるんだろうな」という人もまれにいる。でも、「ボキャブラリーがない」という悩みをもっている人のうち、たぶんせいぜい1割程度である。つまり、ほとんどの人は、実は、ボキャブラリーではなく、別の問題を抱えているんじゃないのかな、と、私は思っている。

で、ヒントになるのが、「シーンは思いつくのだが、文章が思いつかない」という悩み。
これって、はたして本当なのかしら。

たしかに人には、「画像的記憶」という記憶パターンもあって、言語化はできないけど、映像で記憶される場合もある。うちの夫なんかは、もともと絵描きで、ダンサーでもあるので、「画像」としての記憶力はかなりはっきりしているようだが、どうも口では説明するのは苦手である。(まあ、言葉で表現できるくらいなら、そもそも踊ったりしないと思うが)

生徒さんも、生まれた頃からテレビが家にある世代が多い。だから、「映像的な発想」というのはあると思うのだが、それでも、何だかちょっと違うような気がするのよね。

というのは、「書きたくてもどう書いていいかわからない」という生徒さんに、「どんなシーンか」を口で説明してもらうと(こういう人は、文章化するより、口で説明してみる方がまだラク)、ちょっと気がつくことがあるのだ。

こういう生徒さんは、「頭の中では、ちゃんとわかってて見えているつもり」でも、どうも実は、かなり曖昧で、きちんと見えているわけではないらしいのである。
「まず、ある人が家にいると、いきなり怪物が襲ってくるんですよね」
「うんうん。おもしろそうな話ね。で、どんな?」
「え、どんなって?」
「だから、怪物」
「ええっと、とにかく気持ち悪いんですよ」
「へえ、どんな感じ?」
「だから、そこがうまく表現できないんですけどね。とにかくすごく気持ち悪い感じで」
「でかい? 小さい?」
「え?」
「だから、その怪物の大きさ」
「え、そんな大きさとか、関係ないでしょう?」
「いや、とにかくさ、どんな怪物かと思って」
「やっぱ、大きいんじゃあないですかね。すごく」
「うんうん、じゃ、どうやって家に入ってきたの? 窓から?」
「えっ、……ええっと、ああ、そう、きっと窓からですよ。そりゃ」
「どんなふうに窓から入ってくるの?」
「ええっと、たぶん……」
「マンションみたいな部屋? 戸建てだっけ?」
「そんなことわかりませんよ。そんなこと関係あるんですか? そんなことことまで書かないといけないんですか?」
「いや、そりゃいちいち書かなくてもいいけど。どんな窓なのかなと思って。で、その人って、男? 女?」
「そんなことまだ考えてませんよ」
「でも、やっぱり一人で部屋にいるわけよね」
「そりゃ、もちろん」
「で、怪物が窓から入ってくるわけよね。窓から入るんだったら、でっかいと言っても、むちゃくちゃでかくないよね。だいたい人間くらいかな」
「大きさなんか、わかりませんよ」
「作者がわかんなかったら、ほら、読者も困るけど」
「そんなことまで、イチイチ考えないといけないんですか? 面倒くさいなあ」

そりゃ、別にイチイチ考えなくてもいいんだけどさ。本人が「頭の中でシーンはできてるのに、文章化できない」というから、本当に「映像では完成してる」のか知りたくて、聞いてみただけである。

もちろん文章は、必ずしも「映像的な発想」とか、そういうもんばっかりではなく、本来、映像化できないようなものを文章表現するところに面白みがあったりするのだが(まあ、そこんところはわかったうえでの話なのだが)、「映像的には思いつくが、文章化ができないだけ」と思っている人の多く(たぶん8割くらい)は、実は、文章技術の問題ではなくて、「実際には、まだ頭の中でちゃんと見えてないのに、本人は見えていると錯覚している」のが原因ではないかと思う。もしホントに頭の中でできてるんなら、観察すればいいだけだもの。

こうなると、語彙とか、文章技術とかの前に、まず必要なのは、もしかすると想像力だったり、空想力だったりするわけで(私は、こういうのを『脳みその筋肉』と呼んでいるのだが)、つまりそれは「ボキャブラリーの問題」ではないんじゃないのかな。この場合、たぶん足りないのは、ボキャブラリーじゃなくて、想像力よ。

ちなみに、架空の話ではないようなエッセイでも、たまに多少似たような現象があったりする。たとえば「電車の中で、小さな女の子が男にからまれていた」という話があり、「もしかして女の子って、女子高生? OL?」とか聞くと、「えっ、どんな子だったかなあ。なにせあんまり覚えてなくて」「でも、今のこの文章だと、少なくとも最初はどうも小学生みたいに読めるんだけど」「いや、小学生ではなかったですね。もっと年齢は上でした」「じゃあ、ここは『小さな女の子』というより、たぶん『背の低い女性』なのよね? じゃ、そう書いたらどうですか?」「ああ、そうですね。でも、そういや、どんな子だったかな。なにせ数年前の話だから」「これ、実体験なんですよね?」「ええ、そうですけど、あれ、忘れちゃったなあ」とか、ね。(ちなみに年配の男性だと、OLなどでも、「女の子」と呼ぶ人がいるのである)

まあ、文章の場合は、映像的に書く人ばかりでもないし、「(頭の中で)見えてなければ書けない」ってわけではないのだが、少なくとも、映像的に書くタイプなら、文章に必要な程度に見えている必要はある。だから、こういうのは『文章力』ではなく、たとえばエッセイだと「観察力」だとか、小説だと「想像力」とか「妄想力」の不足、などと考えた方がぴったりくるのではないかと思うんだけどな。

ただ、これも文章を書いていくうちに、たぶん鍛えられると思うけどね。「なんとなく曖昧なこと」は、言葉では説明できないものなのだった。それがホントは大事なものだったりするかもしれないけど。ただ、言葉にするというのは、とりあえずはっきりさせるということなのだ。まるで、ふわふわしている鳥の羽を、ピンでぴたりと壁に止めるみたいに、言葉はどんなふわふわしたイメージでも、ピッとそこに止めるのである。そりゃ不自由かもしれないが、とりあえず絵を描いたり、映像を作ったり、踊ったりするんじゃなきゃ、人に伝えるのは、「言葉」ほど頼りになるものはないもんね。

さて、家に帰っても、新学期で、何かしらバタバタする毎日。
新学期といえば、うちの小学校では、必ずあるのが「検尿」と「ぎょう虫検査」。

今朝も、寝ぼけ顔で起きてきた小学3年の双子の娘たち。
「ほらほら、検査! 早くお尻だしなさい!」というと、「え? あ! そうや! 検査や」とパジャマをめくろうとして、「あ、ママ、ぎょう虫って痛い?」という。
「ペタとするだけやもん、痛くないよ。ほら、去年もやったでしょ」
「えー、でもなんか怖いな」
「ぜんぜん怖くないよ。すぐ終わるよ」
「うーん、じゃあ、私、あとからやってもらうから、アンタ先に」
「いやや、私があとでやってもらうから、アンタが先に」
「いやや、アンタが先に」
「もう! どっちからでもいいから、早くして! 朝は忙しいんやから!」
「だから、アンタ先に」
「えー、そんなんいやや」
「いいかげんにしなさい!」
「わかった、じゃあ、こうしよ。いっぺんにしてもらお」
「うん、そうしよ。いっぺんにしたらええねん」
と、並んでズボンをおろし、仲よく尻をめくる双子。床に手をついた姿勢でお尻を並べて、(ちなみに、関西では、こういう姿勢を「モーンする」という赤ちゃん語で呼ぶ)
「はい、ママ、絶対いっぺんにしてね!」
「ええっ!? いっぺん? ママは一人しかおらんのよ。そんなん、同時にできるわけないやろ」
「ほら、両手で!」
「そんなんムリ!」
「じゃあイヤ!」と、そのままの格好で逃げていく二つのお尻を
「イヤじゃないやろ! 学校に出さなあかんねんやろ!」と追いかける母親。

……そんなこんなで、新学期は忙しいのだった。

04/18/2006

小説とは関係のない休日(出席番号)

4月17日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

新学期。3人の子供がいる私は、ここしばらく毎日、何かしら学校へ提出する書類を書かねばならないのだった。PTA会費の申し込み、家庭訪問の連絡…etc.さて、3人のクラス番号は覚えたのだが(中1の長男は4組、双子の娘は、2組と4組)、さすがに出席番号まではうろ覚えである。で、出席番号だけは、イチイチ子供たちを呼んで、確認する。
「ええっと、アンタ、何番だっけ?」
「え、また忘れたん? ボク、17番!」
「ああ、そうそう。そうやったな」
「なあなあ、ボク、17番やってんけど、男子だけやったら、7番」
「男子だけって、そんなん何に使うの」
「いや、要らんねんけどさ、すごいやろ」
「え、どこが?」
「だから、17番と7番。ほら、ちょうど10番違いやん」
「うーん、そうかなあ。それって、すごい?」
「なんかすごいやん」
「そうかなあ。たまたまやろ」
「な、な、兄ちゃん、私、私、11番!」
「ああ、今、アンタの書類じゃないから、アンタは言わんでええよ。どうせわからんようなるから」
「おお、11番か、オマエも、素数や!」
「え、素数って何?」
「だから、17と11は、素数やねん」
「え、素数って、エラいの?」
「うん、素数やで、すごいやん」
「なー、兄ちゃん、私は? 私は? 私、15番やねん」
「15か、15は、素数とちゃうな」
「えー、なんで、二人とも素数やのに、私だけ違うのん!!」
「だって、15やからな」
「えー、ずるい!」
「そんなんゆうたかて、15やろ。オマエだけ素数と違うわ」
「わー、かわいそー、素数とちゃうねんて。一人だけ15やから、アンタ、仲間はずれやで」
「えー、なんで私だけ違うの」
「だって、17と11は、素数や。15は、違うわ」
「うわ〜ん、ママ、兄ちゃんたちがいじわる言うー」
「もお、うるさいなあ。書類書いてるのに。ケンカするなら、あっち行ってやってよね。だいたいアンタら、まだ小3やのに、素数って何か知ってるのん」
「知らんけど、兄ちゃんがゆうた!」
「知らんねんやったら、そんなもん、どうでもええやん」
「でも、私だけ仲間はずれやってゆうねんもん」
「だから、そんなん、ほっといたらええやん」
「だって、イヤやもん〜。うわ〜ん」
「ほら、兄ちゃん、しょうもないことゆうてまた泣かしたやろ」
「そんなんゆうても、15は素数とちゃうからな」
「うわああ〜ん。私だけ15番やあ。仲間はずれやあ」
「もお、学校に出す大事な書類を書いてるのに、まわりでケンカされたら気が散るやろ。だいたい素数って何やの。15でも別にええやないの。15かて、素数じゃないけど、ほら、倍数やろー。な、兄ちゃんなんとかしてよ」
「あ、そうそう。3と5の倍数やな」
「え、兄ちゃん、倍数って何。それって、エライ?」
「エライエライ、まー、でも倍数やったら、12の方がエライけどな」
「12の方がええのん?」
「うん。15は、3と5だけやけど、12は、2も3も4も6も、倍数やからなあ」
「そうなん?」
「うん、オマエ、15番やろ。15は、3と5だけや、おしかったな」
「ふーん。そうか、おしかったんや」
「うん。おしかったな。でも、15やから、まあまあやで」
「そうか、15番って、まあまあなんや」

まあまあ、も、クソも何も、当然、素数も倍数も、なんのことかわからない8歳の娘だが、とにかく倍数やったおしかったと言われて、なんだか嬉しいらしかった。やはりアホである。
しかし、どうでもいいが、頼むから、そういうしょうもないことで、毎日ケンカしないで欲しいなあ。それにしても、数学の成績はおそろしく悪い息子なのに、素数とか、そういう話ばかり好むのはどういうことだ。この前も、「自然数」という言葉を見ただけで、「なあ、なあ、自然数やで。自然数、知ってる? 自然数!」となぜか興奮していた。何が面白いのかわからんけど、もしかして「銀河系」とか、「中性子」みたいな響きを感じたのだろうか。

「無限って知ってる? 無限って無限やぞ。うひゃひゃひゃ」
実に、少年とはアホなものなのだな(うちの子だけかもしれないが)

ハムスターが脱走して大騒ぎにはなるわ(半日後、運動靴の中から発見された)、窓ガラスは割るわ、で、新学期の母親は、毎日、何かしら忙しいのだった。出席番号なんかどうでもええやろ。ええかげんにせえよ。

04/17/2006

さほど小説とは関係のない休日(民家集落博物館)

4月16日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝から天気はパッとせず。まだ桜も残っているのだが、体調悪く、午前中は図書館などで過ごす。昼食後、 ヒマな中1の息子を誘って、二人で、ふらりと服部緑地の「日本民家集落博物館」へ。

なんのために来たかというと、一応、「時代小説を書きたい」という生徒さんのためである。ここは、交通の便もいいので、来たことがある人も多いだろうが、日本各地の代表的な民家を移築復元した野外博物館である。17〜19世紀(つまり江戸時代)に建てられた民家などがそのままある。今日は、天気がやや悪いせいか、ほとんど人がいない(この中は有料。入館料大人500円)、いろりに火をいれている「飛騨白川の民家」の近くには、少し桜が残っており、なかなか風情もあるのだった。

ところで、生徒さんの時代小説を読んでいて、ちょっと気がついたことがある……という話をしたのだが、昨日の飲み会では誰も質問してくれなかったので(笑)、ここで少し。

私の気のせいかもしれないが、生徒さんの書く作品は、プロの小説と比べて、なぜかモノ足りない感じがちょっとする。もちろん「時代モノ」でも、ほとんど魔法使いみたいな忍者とか、陰陽師が出るような伝奇ものとか、波瀾万丈の歴史ロマンとか、そういう作品ではなくて、どっちかというと、いわゆる世話物というか、そういうタイプの作品である(伝奇モノと歴史モノは別)。で、もちろん文章力の問題もあるんだけど、なにかどこかちょっと別の感覚なので、なんだか変だなあと思っていたのだが、最近「もしかすると、こういう問題ではないのだろうか」と思うことがある。で、その理由をいくつか思いついたのだが、そのうち一つは「描写」の問題で、こっちのキーワードは、「刀」「くらし」「いのち」である。

刀に関しては、前も言ったのだが、時代小説ではけっこう重要な問題だと思うのに、案外、生徒さんはいいかげんである。以前、劇団関係の人の話で(たしかわかぎえふさんだったと思うけど)こういう話を聞いた。ある世代までの人間は、チャンバラ映画などを見て、たいていみんな子供の頃よくチャンバラごっこをしていたのだが、ある世代からは(特撮世代くらいかもしれない)子供の頃にほとんどチャンバラごっこをしたことがない。だから、役者も、刀をどうもっていいかわからず、構え方から説明しないとわからない。たとえごっこ遊びでもしていたら、芝居でも多少練習すれば、それなりにカッコよく芝居として見せることもできるのだが、まったく遊んでない世代はなかなか「それらしく見せる」ことができない。ちょっと練習に時間がかかるのだそうだ。

チャンパラ遊び、おそるべし。実際、ある年代以上の人は、チャンバラごっこで育っている。なるほど、遊びでも、どうやったらカッコよく見えるとか、どうやったらそれっぽく見えるとか、刀のかまえぐらいは、真剣に考えるもんな。どうやら小説も、そういうところがあるのかもしれない。日本刀については、ヘタすると読者よりも、知識に乏しいのではないかという人もけっこういるのだ。私なんか、さほど知識はない方だけど、刀が出てくると途端にどうも不自然な描写になったりするのがすごく気になる。まあ、時代小説でも武士がほとんど出て来ない作品もあるのだけど、武士が出てくるんなら、たとえ使わなくても、多少、日頃から腰に刀を差している感覚みたいなものもある。多少の知識というか、チャンバラごっこの感覚、やったことがあるように見せるウソつき感覚は必要かもしれないぞ。小説家というのは、たとえ運転免許がなくても、カーチェイスも書ける人種なのだが、どうせなら多少の運転経験があった方が多少はラクである。ピストルなどは、射撃経験のある人の方が少ないけど、運転経験くらいはある読者も多いのだ。うそだとバレない程度に書くには、せめて助手席に乗るくらいはしておいた方がいいよね。チャンバラもしかり。

時代小説だと、どうもプロ作家の人は、そこはさらっとうまい具合に避けるか、ちゃんとわかっているかどっちで、とくに時代小説家となると、一見さらっと書いていても、かなり「わかっている感」がするのだが、気のせいだろうか。想像力で書いている部分はかなりあるだろうが、それでもリアリティはあるので、少しくらいの実体験があるみたいである。つまり運転できなくても、助手席に乗るくらいの体験はありそうである。その程度の「感覚」は必要かもしれない。あまりにも不自然なのは、余計に説得力もいるしなあ(正直、実際の剣術でも、ホントは案外、妙なかまえもあったりするらしいんだけど)。

まあ、もちろん小説家というのは、空想力だけで遠い宇宙にも行けるし、海底にも潜る。恋愛経験がなくても、熱愛は書けるし、殺人だって書ける。でも、案外、読者が体験したことがあるような「身近な感覚」を完全に想像力だけでカバーするのは、かなりキツイ。前も言ったけど、日本刀くらいならただ持つだけなら、そのへんの道場などをのぞけば、少しは体験させてもらえるはずなので、一度、触ってみるくらいやってみる方がいいかもしれないよ。

また作品にもよるけど、生徒さんの中には、せっかく女剣士を主人公にしたファンタジーなのに、一度も剣を抜かないまま終わるというもったいない作品もあり、ようやく怪物を目の前にしても、なぜかほんの一瞬で終わってしまうってこともある。「いやあ、アクションシーンを書くのは苦手なので」と言うのなら、わざわざ「剣士」の設定にしないようにしようね。商人とか農民とか芸能人とかにしてはどうかしら。だって、アクションシーンを期待した読者がずっこけるもの。いや、そりゃ、ギャグ小説ならいいんだけどさ。

もう一つのキーワードは、「くらし」。これも伝奇モノじゃなくて、「日本刀」も嫌いな生徒さんなどは、商人とか農民とかを主人公に書く場合がけっこうあると思う。ちゃんとリアルな話になると、今度は、生活感覚が問題になってくる。まあ、小説だから、小説の中のリアリティでかまわないので、いくらでも大嘘でかまわないのだが、いくらなんでも変な農家の構造とか、変な生活習慣というのは、それだけでせっかく作った雰囲気が見事にいっぺんにふっとぶ。せっかくなので、空気というか、雰囲気を保つのは、やっぱり大事なのよね。もちろん、あんまり時代考証ばかりやってもどうかと思うが、どうせならやっぱり大きなポカはしない方がいいのである。わかっててウソをつくのはいいけど、意識しないでアホなミスやると絶対バレる。とくに生活感のミスは、時代小説ファンはわりと見逃さないのだった。

とくに作者が、都会育ちの若い世代だと、いわゆる農村の様子とか、民家を本当にまったく知らなかったりするので、ちょっと思いつかないようなとんでもない描写をする危険性がある。おそらく読者はいちいち「間違ってます」とは言ってくれないだろうから、ただの「つまらないヘタな小説」にしか見えないと思うが、とにかく、ごまかせる程度の知識は要る。とくに田舎育ちの年配の読者というのは、なかなかごまかせない(現在は、都会育ちの人がかなり多いが、ある程度の年代までは「田舎育ち」が多いのである)。田舎だと、江戸時代の家なんかも残っているんで、それくらい日常感覚だったりする。

そういう読者に太刀打ちするには、大量の読書量もあった方がいいし、もちろん映画もたくさん見た方がいいのだが、たまにほんのちょっとでいいから、体験してみるというのも悪くはないのである。百聞は一見にしかずである。捕り物帖とか、とにかくストーリーテリングがうまくて、ヘンなところに気がつかないほど話に魅力があれば、多少ミスも見逃してもらえると思うけど、不自然すぎればペケである(あ、3つめの「いのち」は、話が長くなるのでパス)

というわけで、今日、私がわざわざ「日本民家集落博物館」に何をしにいったかというと、民家の土間にほんの数秒ほどただ座ってみるためだけに行ったのだった。簡易疑似体験である。それでふと天井を見ながら思ったのだが、時代小説家は(故人を含む)、たぶんこういう家で育ったか、あるいは、どこかで日本刀を持ってみたことがあるか、の、どっちかなのかもしれないな。少なくとも、あの先生とあの先生とあの先生は、絶対そうだよな。ま、小説は大ウソだが、うまくごまかすにも、ある程度の真実はいるしな。

ところで、ここの十津川村の民家の壁には、「水害」の話が展示されていた。たしか司馬先生のエッセイだったかに、ある北海道出身の人がいて、その人の名字が「…谷」とあるのを「や」と呼び間違えていたら、実は「たに」と言うらしいので(「たに」と呼ぶのは関西で、東北などはたいてい「や」らしい)、先生が「めずらしいですね」と言ったら、「先祖が十津川出身で」と言ったそうだ。「水害ですか?」「ええ」という会話をしたという話だったと思うが、何にしても、こりゃ教養がないとできない会話のやりとりだな。

で、その話を思い出して、息子に「水害で、廃村になった村の家らしいよ」と話したら、「ふーん。なんだか、ここ、ダムで沈んだ村のおうちとか(白川郷の家のことである)、かわいそうなおうちが多いよね」と言う。

かわいそうな家? 
でも、ここにある家は、たいてい江戸時代に建てられて、つい50年くらい前まで実際にずっと使われていた家なのだ。ダムに沈んだ家は、他にもたくさんあったはずで、そうでなくても日本全国で壊された民家はたくさんある。考えようによっては、ここにあるのは、みな「幸福な家」と言えなくもないのだった。いや、「家」にとって、何が幸福か不幸なのかは、どのみち人間様にはわかんないけどさあ。

帰宅後、急に体調悪く、そのまま寝床へ。首が痛くて、ひどい頭痛。肩の痛みはほとんど激痛。いつもの気圧変化であろうか。「気圧計」みたいな身体だわ。春はつらいわ。

文章教室いよいよ開講

4月15日(土)
朝から小説講座の事務所。午後から「文章教室<ライティング講座>」の『入学説明会』で、夕方は、小説専攻科の作品指導講義。

朝から、文房具を購入したり、印刷物を追加したり、バタバタと事務作業。13時からは、文章教室の「入学説明会」で大忙し。こちらの講座の「第1回講義」は、来週の22日から。「入学式」がないので、代わりに「説明会」を実施。今期は、第1回ということで、追加講義もいろいろ予定している。生徒数も少ないし、生徒さんから見たら、わりとオトクかもしれない。男女比も半々で、これもちょっとめずらしい(これまでの初心者向けの文章教室は、女性が多かったから)。

作品指導用のアンケートを集める。ほぼ全員初心者なのだが、実際には、すでに小説作品を何作か書いていたような人も混じっていて、エンターテインメントノベル講座への編入希望者も多いようだ。割引額は未定だが、おそらく4万近く割引がある。文章教室でも、小説の作品指導も受けられるので、秋の開講までの半年分の受講料と考えたら、かなり安上がりかも。

うちの小説講座の方は、一応「初心者からプロ作家志望まで」ということにはなっていて、毎年3割くらいは初心者なのだが(今年はめずらしく5割くらい)、どうしても「プロ作家養成」というカリキュラムなので、初心者というよりは、中級者以上に向いている。どうも「まったくの初心者」だと、実際には、ちょっと内容がわかりにくいらしい。「文章教室」からの編入生は、とりあえず書くクセができているので、途中で挫折した人が一人もいない。編入制度も、うまく利用すれば、かなり有効だと思う。まあ、小説講座を途中で挫折するタイプは、案外、「自分では、なぜか根拠もなく、なぜか中級以上だと思い込んでいる初心者」だったりするからなあ。一応、入学時のアンケートでは、「初心者」かどうかは、自己申告なんだけどね。

ちなみに、それなりの小説コンテストで(色々あるけど、大手出版社がやっているような大きな賞)一次、二次選考通過してれば、それなりの実力があると思いますんで、それくらいが中級レベルです。

夕方から、小説専攻科の講義のため、天満橋へ移動。本日の講師は、青木治道先生。

講義中、教室を抜け出して、7階でやっていた「大阪シナリオ学校」の入学式へ。現在、こちらの事務局は、スタッフ2名だけになっており、準備や受付ぐらいは手伝えるかな、と考えていたのだが、手早く準備もされていたようで、とくにお手伝いすることもなし。校長先生の杉山平一先生のお姿も。演芸台本科の高見先生、大池先生も、早めに来られていて、少しお話をする。ここの演芸のコースは、関西在住の放送作家や演芸作家がたくさん出講されている老舗コースで、このお二人は第1期生(30年くらい前)。高見先生は『アタック25』のほか、上方漫才まつりとかの番組構成もされてるし、大池先生は、『生活笑百科』などの構成や漫才作家として活躍されている。その他にも『探偵ナイトスクープ』の桑原先生や吉本新喜劇の村上太先生、女性の放送作家としては草分け的な存在の湯川真理子先生など、多彩な卒業生がいっぱいいる。意外なところでは、児童書の「講談社青い鳥文庫」の「若おかみシリーズ」で大人気の令丈ヒロ子先生も、ここの演芸コースに通っていたことがあり、またこの秋から朝の連続ドラマのシナリオを担当する長川先生も、実は、脚本コースではなくて、たしか演芸コースの出身なのだ。脚本だと、小松江里子さんとか尾崎将也先生とか。小さな学校だけど、大阪の放送業界ではかなり有名な学校なのよね。

入学式がはじまるのを見届けてから、また教室へ。本日の作品は、長編2編と短編1編。正直、3編とも、いつもの作者たちの実力から考えたら、それほど出来がいいとは言いづらい作品。この生徒さんたちはもともとかなり書けるタイプの人で、とくに長編2編は、本来ならもうちょっとやりようがあっただろうと思うんだけど、ちょっとしっくりこないような妙な作品。全体の構成や登場人物の行動なども、何だかちょいと妙な感じ。もともときちんと書けば書ける生徒さんたちだけに、なんだか惜しいなあ。ただ、この長編は、書き直せば何とかなるはずなので、ぜひ書き直してほしいな。生徒さんの中には、案外、せっかくの作品を手直ししないでほっとく人がいるんだけど、まあ、手直ししてコンテストに応募するとか、もったいないから直した方がいいと思うけど。

ところで、今回の作品のうち、長編1本は400枚ほどの作品だったのだが、
「アイデアもいいし、後半もかなり面白いけど、前半が冗長。この内容ならば、普通に考えたら、200枚くらいの作品になるはず。ただ、新人の作品としては、正直、200枚くらいというのはかなり中途半端なので、さらに削って100枚くらいにするか、まあ、これなら何か足して、400枚くらいにしたら」
と言われていた。それで、ちょっと気がついたんだけど、私が見る限り、生徒さんの書く作品というのは、とくに百枚以上の長編に関しては、そのうち全体の半数くらいが「冗長」な感じである。

これは、だいぶ前になるけど、ある生徒さんが提出した作品が「いくらなんでも、あまりに冗長な感じ」がしたころがある。私は、小説講座では、どの生徒作品についても、コメントさえ言わないことが多いのだが(私が作品を添削するのは、文章教室の生徒さんだけ)、もしかしたら、書いてから一度も見直しをしていないのかもしれないと思って、「締切までまだ時間があるし、一度、ご自分で校正し直してみたら?」とつい言ったことがある。すると、「自分では、もう何度も見直ししています!」と怒られたのだった。(文章レベルで見ても、明らかな間違いが何カ所もあったし、本人が見直ししたと言っても、どれほどしたかわからないと思うけど)

さて、冗長な感じの作品を書く人の中には、まれに自分の作品を極端に削りたがらない人がいる。まあ、お金を出して小説講座に通うような人は、他人の意見もそれなりに参考にはされるので、さほどガンコな人はいないのだが、世間では「書いたら絶対にほとんど直さない」人はたくさんいる。そういう方は、自分の作品は、見直しても、せいぜいちょっと直すくらいらしい。不必要なシーンを大きく削るなんてしないのだ。

そういえば、以前、在籍していた生徒さんは、すご早さで長編を書くプロ並みの「早書きさん」だったのだが、内容は私が見る限り、正直かなり冗長であった。文章はかなりうまいし、それなりに書けるのだが、300枚くらいの長編でも、最後まで読んで「うーん、これが短編なら、おもしろいんだろうけどなあ」という感じがする。最初の50枚くらいを読んでも、主人公が何をしたいのか、どんな話なのかまださっぱりわからないくらい冗長なストーリー展開なので、さすがにエンターテインメント系としてはちょっとツライのである。この人は、「公募に応募する作品を書くのに忙しいので、あまり講義にも出られない」らしいので、結局、講義を聞いた回数もあまりなかったのだが、今もちゃんとがんばっているのかなあ。なにせプロ志望だし、真面目な人なので、思い詰めるタイプらしかったが。けど、あせって何作も書いて、コンテストに応募するよりは、一度、自分の作品を客観的に見た方がいいと思うんだけどなあ。

ところで、作品が「冗長」になる理由は、いくつかあるようで、それぞれの作品を見ないと何とも言えない。ただ、ひとつのタイプとしては、まず読書量が少ないか、あるいはまだ長編をほとんど書いたことがないので、いわゆる作品の長さ感覚というか、ペース配分がまだつかない人がいる。これは、たぶんプロが書く50枚の作品とか100枚の作品とか、その構成なりアイデアなりを見れば何となくわかるはずで、定期的に作品指導などを受けていれば、そのうち何とかなるようである(長編を数本書く必要があるかもしんないけど)

ただ一方、ストーリーよりは、情景描写とか心理描写をじっくりやりたいという人もいて、それゆえに冗長になるタイプの人がごくまれにいる。こういう人は、おそらく作品指導を受けても、ちょっと直りにくいのではないかと思う。というのは、うちの講師の先生は、どの作品に対しても、基本的に「商業出版をめざすなら、こう書いた方がいいのでは」というコメントを言うし、基本的に「エンターテインメント系なら」という前提で話をする。ところが、心理描写とか、情景描写をどうしてもしっかりきちんと書きたい人というのは、必ずしも「読者」へのサービスというわけではなくて、「わかっているけど、どうしても書きたいのだ」という場合がある。そこらあたりがちょっと難しい。

まあ、娯楽小説とは言っても、まったく書きたくないものを書くような作者はいないので、商業作家でも自分の書きたいものを書いているとは思うけど、他人に読ませるからには、やっぱりそこはテクニックが必要なんだろうなあ、と思う。ちなみに、純文学系は、エンターテインメント系よりはやや文章表現や感覚で勝負するような面があるから、その分、文章的な技法だけを見れば、すごい作品がいっぱいある。もちろんエンターテインメント系でも文章技術はかなり重要なのだが、ストーリーの方を重視するし、「わかりやすく読みやすい」ことを基準にしているので、うちの講座でも、文章表現に関してはそれほど細かく指導はしていない。しかし、エンターテインメント系でも、やっぱり文章表現はかなり重要である(もちろん講師の先生たちも、ストーリーとかアイデアを中心に話をされているけど、そこまで指導する時間がないだけだろうけど)。

ところで、うまく説明しようとすると長くなるので、また興味があれば、講義の後の飲み会でも質問していただければいいのだが、エンターテインメントでも、いわゆる純文学っぽい作品になってしまったり、細かい情景描写をしっかりやりたいような人は(これはたぶんだが)、文章をところどころ立たせれば、多少「冗長」でも、読者はもつのではないかと私は思う。この「文章を立たせる」という言い方は、もしかすると小説創作では使わないのかもしんない。もしかすると、広告コピーにしか使わないのかもしれないけど、うまいキャッチコピーというのはたいてい「ピッと立つように書く」のである。わかりにくいかもしれないが、ほら、たとえば、「これは」というようないい俳句を見たりしたら、たとえ17文字でも、アッというか、ぱっと広がるでしょ。ほら、小説でも、プロの作品だと、そこだけちょっと周囲から浮いて見えるような「立ってるところ」があるじゃないですか。そういう文章があれば、いいんじゃないかしらん。

で、さて、このピッと立たせるのは、実は、思っている以上に「技術」の問題なのである。もちろん、かなり感覚とかセンスの問題もあるのだが、それでもやっぱり技術の問題なのである。広告コピーなんぞは、よく感覚とかセンスが大事でしょう、と言われるのが(それも多少はあるだろうけど)、実際には、この立たせる技術の問題の方がよほど重要なのである。広告コピーでも、ネタとかキモの部分を見つけたり、選んだりするのはセンスの問題ではあるが、それを文章として「立たせる」のはほぼ技術だと思う(どういう技術かというのは、また長くなるので飲み会で)

すっかり夜更けになり、ワイワイと地下鉄で帰宅。駅の階段をあがると、暗い雨上がりの道路に、桜の花びらがいくつもひっついていた。残り桜である。

今日も、地味な事務作業。

4月14日(金)
午後から小説講座の事務所。文章教室の準備など。

午前中、大丸ミュージアム心斎橋の「ラウル・デュフィ展」へ。デュフィは、これまであまり好きな画家だという印象がなかったのだが、今回は、半分ほどはファブリックデザインの展示があり、こっちが大変よかった。絵画はやっぱりあまり今イチぴんとこないのだが、ファブリックは今見てもめちゃくちゃカッコイイぞ。

デパートはぶらぶら歩くだけで、最近の流行やらマーケティングの勉強になるのだが、さすがにちょっと忙しいので、美術展を見てすぐ移動。今日も一日、事務所で、いろいろ事務作業。

04/14/2006

弁当づくりも、小説づくりも

4月13日(木)
午前中、外出。午後から小説講座の事務所。

文章教室の「開講準備」に忙しい毎日だが、世間では新学期。うちの子供たちも、それぞれ新しい教室、新しい担任、新しいクラスメートである。

長男も中学生になり、弁当作りもはじまった。小学校は給食なのだが、中学生はお弁当。

で、私の弁当づくりも3日目。今のところ、さほど面倒でもない。そのうち面倒になるかもしれないけど。
もともと毎朝朝6時には、息子たちを起こしているし、自分の分の弁当はよく作っていたので、量が増えただけである。むしろ春休みや夏休みに、毎日「子供たち3人分の弁当(昼食)」を作っていたことを考えたらラクなものだ(働く母親はこういう手間があるのよねん)。ついでに夫の弁当に作ってみる。結婚して十数年、高校に勤める夫には、弁当を作ったのは滅多にない。ほとんど「学食」である。なにせ300円ちょっとで食べられるんだから、それで充分なのだった。しかし、どうせ息子に作るんだからと、ついでに作る。「新学期」の教師は何かと忙しいそうで、学食へ行く時間がとれないらしい。しかし、息子の弁当は、作りがいがあるのに、夫の弁当は、どこか作りがいがないのはなぜじゃ。これが「新婚さん」なら、ダンナの弁当作りも楽しいのかなあ。

あ、今ふと考えたのだが、4歳年下の双子の娘たちが高校を卒業するまで、あと10年弁当作り続けないといけないのかしらん。主婦って大変だなあ(いやいや、先のことは考えんとこ)

ところで、弁当づくりは、小説づくりにも、どこか似ている気がする。ま、何をしても、「文章を書く」ことに結びつけて考えてしまうのは、職業病みたいなものだけど。

弁当といえば、以前、友人から、こんな話を聞いたことがある。新婚で、まだダンナさんの弁当づくりになれてない彼女、「弁当づくりにお金がかかって仕方ない」というのだ。「お金がかかる」といっても、たかが弁当である。そんなにかからんだろうと思っていたら、「毎日、弁当だけで800円くらい。ヘタすると千円くらいかかる」らしいのだった。

そりゃ、デパ地下に行けば、もっと高額の弁当などいくらでもあるが、毎日食べるわけだし、「千円くらいの弁当」は、庶民感覚だとけっこういいお値段である(うちなんか、千円あれば、家族5人分の夕食が作れてしまう)。そりゃ、食材も凝れば、金額の上限はないんだけど、新婚さんとは言え、ちょっとリッチ、がんばりすぎじゃないかなあ、と思って、よくよく聞いたら、彼女の作る弁当というのは「オール冷凍食品」なのだった。

私は、日頃、冷凍食品をそれほど使う方ではないので、はたしてそんなに金がかかるものかどうかわからんのだけど、とにかく彼女は、オール冷凍食品で千円くらいかかるらしい(もしかすると、ごはんもチンしているのかもしれないけど)

しかし、今までなんとなく、「冷凍食品でお弁当」といえば、「あら、もう一品なにか欲しいわね」と思った時に、一品か二品くらい使うだけだろうと思っていたので、ちょいとビックリした。そりゃ、オール冷凍食品でも作れるんだろうけど。生活習慣というのは、みな違うもんだけどねえ。

たしかに最近の冷凍食品は進化してるし、だいぶ美味しくはなっているものもあるが、あんまり毎日続けるってのはどうなのかなあ。「一応、卵焼きだけは自分で作っている」らしいのだが、「料理が苦手で、それでも40〜50分くらいかかるのよ」と言っていた。「ねえ、どうやったら、手早く、安く、おいしい弁当が作れるのかしら」というのだが、うーん。私は、それでどうやったら40分もかかるのかがさっぱりわからないんだけども。

ま、これは新婚の頃なので、さすがに今はたくましい主婦になっているはずだが、この時は、「野菜も高いし、料理にお金がかかって仕方ないわ。キュウリが1本200円もしたのよ」などと言ったりしていたので、当時は、相当お金はかかっていたはずである。

昨日、スーパーに寄ったら、キュウリは3本98円で安売りされていた。そろそろ夏の兆しである(真夏なら5本で百円ほど)。賢明な主婦の皆さんなら、たぶんお気づきだろうが、彼女がキュウリを1本200円で買ったのは、真冬である。しかも、1月上旬。こういう時期は、たまたま、これくらいの値段になることもある。とくに正月明けは、物流がいつもと違うので、生鮮食品などの値段も変わる。モノによっては高騰することもある。だいたいキュウリの旬は、夏である。旬じゃない野菜を買えば、ある程度は高いのはあたりまえなのだった。

「あら、知らなかったわ」というのだが、キュウリの旬なら、たしか小学2年生くらいで習うはずので、誰でも知っているはずである。まあ、彼女は、子供の頃にほとんど「お手伝い」をしなかったそうで、高校生の時に、サラダにいれるレタスを買ってくる「おつかい」を頼まれて、「くれぐれもキャベツと間違えないようにね」と言われたのに、白菜を買ってきたという伝説があるツワモノなのだが。世間の母親は、もう少し子供に「お手伝い」をさせるべきだなあ。

さて、たとえ冬でも、わざわざ値段が高い野菜を選ばずとも、他にも安い野菜もある。真冬だと、まれに全部の野菜の値段が高騰することもあるのだが、たいていは、安い野菜もあるのだ。買うものを選べばいいのである。

「トマトやキュウリは夏野菜で、冬にあるのは、ハウスものだから高いのよ。旬の野菜を選べば? 安いし、おいしいし、栄養価も高いし」
「冬に旬の野菜なんてあったっけ?」
「大根とか、白菜とか…」
「大根なんて! そんな毎日おでんばっかりできないもの」
「おでん?」
「だって、大根ならおでんでしょう?」

うーむ。なにせ料理に慣れてないので仕方ないのだが、どうやら「大根」というと、「おでん」しか思いつかないらしい。そうなのか? 大根というのは「おでん」だけのものなのか? じゃあ、「ブリ大根」はどうなるんでえ。 え、ブリ大根って知らないの?

聞けば「白菜なら鍋料理だけしか使わない」そうで、かなり料理のバリエーションが限られている。作れるものがかなり限られているのだ。サラダも「キュウリなしでは作れない」んだそうで、だから1本200円のを買ったらしい。まあ、キュウリのないサラダなんて、というこだわりもわかる。けど、200円かあ。まあ、いいけど。

ちなみにサラダなら、大根でも作れる。大根というのは、成分はほとんど水ばかりという、あまり栄養価は期待できない野菜だが、バリエーションは楽しめるので、煮物や浅漬けにもできるし、うちではシチューやキムチなども作るし、カレースパイスとヨーグルトで大根カレーにするのもおいしいのよ(しょうゆを塗ってフライパンで焼いてもけっこういける)

余談だが、キュウリというのは、漢方的でいうと「身体を冷やす野菜」なので、あまり冬に食べるのはオススメしない。とくに冷え性の女性は、できれば避けた方がいいのだった。風邪をひきやすい人とか、肩こりの人も、冬はよした方がいいぞ。もちろん火を通せばいいので、キュウリ炒めなどの中華料理にし、ショウガやニンニクなどと一緒に食べればいいかもしれないけど。(大根も生で食べると身体を冷やす作用がある)

で、思ったのだが、やっぱり料理、あるいは弁当づくりと「文章」あるいは「小説づくり」は似ているところがあるんじゃないのかなあ。

つまり、まず「材料」選びである。

料理なら食材だが、小説なら題材。これは、たぶんやっぱり「旬」のものがいいのである。旬のものじゃなくても使えることは使えるが、旬のものに較べれば、栄養価も低いし、おいしくないし、手間がかかる。ただ、手に入りやすいからいいと言っても、冷凍食品じゃ、ちょっとよくない。というのは、誰でも安易に手に入りすぎる。みんな似たような味になりがちだし、毎日続けるわけにもいかない。

だから、何が今「旬」なのか、というのは、少し勉強しておく必要がある。できるだけ旬の野菜を使おうと思えば、天候や流通にも注意しないといけない。
それから、調理方法ね。

これは、まず料理方法のバリエーションを持っておく。食べたことがないものを作るのは基本的にはムリ。とにかく食べておかないと作れない。味がわかんないものね。和食や中華料理、ベトナム料理、イタリア料理を作り分けられるには、「教養」がいるのだ。ただ、組み合わせの問題だから、たとえばカレーしか作れなくても、材料を替えるとか、あるいは、市販のカレールウじゃなくて、シチューにするとか。バリエーションを増やしていくことができる。

で、最後に盛りつけ。弁当なら、見た目おいしそうに詰め込む。

小説でもたぶん同じで、旬の野菜(栄養価が高い、安くて手に入りやすい)などおいしい材料を選び、調理法を選び、ちゃんとおいしそうに盛りつけられるといんだよね。ほんでもって、おいしい作品のできあがり。

何にしても、自分一人で作っているよりは、人に食べてもらうといいですよん。

04/13/2006

小説創作講座は、一般の人向けではないのでして

4月12日(水)
午前中、外出。昼から小説講座の事務所。

昼過ぎ、田中啓文先生からお電話。わざわざご出講のご確認をいただき、かなりあわててしまった。どうやら以前送ったメールが届いてなかったらしく、ひええ、冷や汗っっ、である。でも、来週のご予定は大丈夫だそうで、ホッと胸をなでおろす。なにせ数年ぶりのご出講で、専攻科の生徒さんからも受講希望が多いのだ。ファンの多い田中啓文先生。映画化された『水霊』も、もうすぐ公開予定だし。

さて、今回は、いつもの教室だと座席が足りなかったら困るので、専攻科の皆さんのために、わざわざ大きめの教室に変更したので、気をつかわなくても大丈夫。ホントは、せっかくの教室変更なので、一般や卒業生からの見学も受付けられるように「公開講座」扱いにしようかと思ったのだけど、なにせ今、小説のクラスの在校生だけでも50人以上はいる。希望者が殺到しても困るし、在校生以外には非公開(例によって、プロ作家さんと編集者は別だけど)ということで。とくに期待していた卒業生の皆さん、ごめんなさいね。

卒業生にもファンがいるみたいだし、また「公開講座があれば、東京から駆けつける」という一般の人もいるらしいのだが、残念ながら今年の春は、公開講座は実施しないので、よろしくご勘弁を。

ちなみに、たまに「公開講座はいつやっているのか」という問い合せをいただくこともあるのだが、年に1〜2回しかやっていない。プロ作家志望の人ならいいだろうけど、さほど一般の人向けではないし、見学者を対応しきれないのである。だいたい、なにせ創作講座だし、面白い話を期待しているような人には、理解しにくいかもしれない。いわゆるホテルなどでやっているような「作家さんの講演会」とも違うので、そういう「おしゃれな軽いトーク」を期待されても困るし。もちろん作家さんの宣伝にもなることもあるので、公開するのもいいのだが、そういう場合、最初からかなり注意して講義タイトルも決めないといけないしね。

(昨年の「公開講座」山本弘先生と芦辺拓先生の「対談」では、両先生が「かなり手加減したつもり」らしいのだが、うちの在校生ですら、半数以上が「理解できないほどのハイレベル」だったとか。いや予想はしてたけど……)

ただ「公開講座」にすると、近畿圏内の全図書館と書店、数百カ所に案内チラシを送っている。そのせいか、講師の著書が注目されるという現象が多少おきるようで、昨年も、大阪市内の図書館の検索システム「オムリス」を観察していたら、気のせいか、芦辺先生の著書の「予約件数」がけっこう増えていた。(でも、書店の売上げ部数が増えたかどうかまではわかんないけど)

とにかく田中先生の講義は、1期生か2期生しか聞いてないはずだが、「すごくいい講義だった」「創作の参考になった」という意見が多かった。こういう「創作に役立ついい講義」は、一般の人にはちょっとばかり難しいのだ。そういや、卒業生でも、あの時の先生の話が印象に残っている、っていう生徒さんが、けっこういたもんなあ。

さて、午後から、また相談者(男性)が来館。なぜか、今年は、若い男性が多いなあ。気のせいかしら。「文章教室」って、もともと女性の生徒さんが多かったのだけどな。比較的、主婦やOLなどが多いクラスなので、多い時は8〜9割。たしか男性はかなり少なかった気がするんだけど、今のところ入学者も男女比で半々。

ま、小説講座の方は、どのクラスも、男女比がほぼ半々なので、そんなものかもしれないけど、なんだかいつもと違う。ま、今年の「文章教室」は第1期だし、開講してみないと、どんなクラスになるのかよくわかんないや。

あいかわらず文章教室の開講準備中

4月11日(火)
朝から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

本日も「文章教室」の開講準備など。受講申込は本日締切なのだが、入学説明会が4月15日(土)にあるので、当日に申込される人も多いようで、まだ人数がはっきりしないけど。

さて、小説講座と違って、こちらのクラスは「配布資料」もかなり多い。市販の書籍を使ったテキストなども使用する予定なのだが、さすがに人数が確定しないと購入できないので、こっちの配布は、5月の「実習」の日になりそう。

どうも小説志望者が多いらしいので、カリキュラムには載っていないが、さらに講師を追加依頼することにする。小説講座との「合同講座」も少し増やす予定だけど、時間帯が違うので、できるだけ合同ではなく、「文章教室」のみにご出講いただけそうな作家さんや編集者などを何人か探している(交渉中)。実は、文章教室でしか受講できないような「小説の講義」もすでに1〜2回かあるのだが、もっとたくさんあっていいかなあ。聴講はできないので、たぶん「小説講座」の生徒さんがうらやましがるだろうけど。

もともと大阪シナリオ学校で開講していた頃は、<エンターテインメントノベル講座>は大人向けの娯楽小説なので、同じ「小説」でも、大人向けじゃない童話や児童小説などは<クリエイトルーム>で扱っていた。もちろん絵本やマンガ原作もである。文章一般の「総合コース」なので、実際、かなり自由度も高く、小説、エッセイ、ドキュメンタリー、編集、童話、児童小説、作詞、俳句、シナリオなど、カバーする範囲がめちゃくちゃ広かったのだった。「文章一般」を広く学ぶ、ということなのだが、まあ、「早い話が何でもあり」である。とにかく、この「ごちゃまぜ感」が面白いので、カリキュラムも生徒さんの要望を入れて、どんどん変えていきたいなあ。とくに今回は、かなり少人数だし、開講してからもいろいろ追加講義をする予定。ま、多少「赤字覚悟」だけど、記念すべき「第1期」なので、これはやむを得ない。ちょっと楽しみ。

さて、もう締切日を過ぎたので、ようやく小説講座との同時受講での割引額も決める。もともと編入割引というのがあり、「文章」から「小説」への編入だと4〜5万くらい割引があったのだった。もともと安い学費なので、けっこうでかい。ちなみに編入には制限があり、、一応、原則は3名のみなのである。ただし「定員に達しない時に限り、それ以上も受付ける」という規定があったので、実際には、多い時は10人以上編入していたのだった。(まあ、どっちみち定員に達しても編入を受付けていただろうから、あんまり規定は関係ないのだが)

ただ、今の第9期だけは、昨春に文章教室が開講してなかったので、誰も編入した人はいない。が、どうも在校生の中に「ひょっとすると同時受講をしてみたいかも」という人がいるみたいなので、「割引制度」を決定しなくちゃいけないのだった。

しかし、「文章教室」は初心者向け、「小説講座」はプロ作家養成というコンセプトなので、こっちの方が「下位」のクラスになる。だから、「逆の編入」する人は少ないだろうけどな。小説講座がはじまって8年になるが、小説から文章への編入は、もともとかなり珍しい。そう言われてみると、翻訳者を志望していた主婦の方とか、マンガ原作かシナリオライター志望の男性など何人かいた気はするけど。

どっちにしても「同時受講」になるから、よほどやる気がある人じゃないと、ちょっとキツイかも。文章教室は、毎週土曜日の昼13時〜15時だし、小説講座は土曜夜の18時からだから、やろうと思えば同時受講もできるんだけど、福島の「大阪NPOプラザ」と天満橋の「エル大阪」は、ちょいとばかり場所が離れている。JR東西線を使えば、海老江駅から大阪天満宮駅までは、電車ではわずかなのだが(たしか160円)どちらの教室も駅から10〜15分ほどあるので、移動にはなんやかんやで45分くらいかかるのだ。

そういえば、私は、何年も、毎週土曜には「文章」のクラスと「小説」のクラスを掛け持ちしてたのだが、去年、開講していないので、二年ぶりである。ま、講義を聞くだけなら意外とラクである(同時受講は、「宿題」をこなすのが大変なのだ。どのコースも週1回の講義なのだが、真面目に宿題をやるとけっこう大変)。

講義だけでいうと、聞いていてちょっと大変だなと感じる時は、たいていどっちも「小説」に関する話の時だけ。文章教室で「小説」の講義を聞いて、それから小説講座に行くとちょっと疲れるが、文章のクラスが「新聞記者」だったり、「エッセイスト」だったりすると、あんまり疲れない。考えてみれば、ちょっと不思議だな。「小説」と「その他の文章」とは、どこか使う脳ミソが違うのかな。

04/12/2006

小説家とたこ焼き屋は、どっちが稼げるか

4月10日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

お休みのはずなのだが、やっぱり休日出勤。相談者が1名来館。ライター志望の若い男性で、一応、入学相談なのだが、いろいろ業界の説明や就職相談など。

ライター志望というと、たまにいいかげんな人もいるのだが、この人は真面目な感じで、すでにいくらか情報収集もしていた。例によって、「ライターか編集者で、就職希望」と言われたりすると、「うちは、就職斡旋まではしてないので、『大阪編集教室』がオススメ」と他校を紹介してしまうところなのだが、すでにあちらにも相談にも言ったらしい。結局、入学相談というよりは、業界やライターの仕事の説明など、1時間半以上いろいろ話す。

しかし、せっかくの「ライティング講座」なので、小説志望もいいけど、ライター志望の人にも入学して欲しい気はする。けど、「ライターになりたい」という人は、どれくらいいるのだろう。どうも「作家になりたい」という人よりは、かなり少ない気がする。「ライターで食べて行くのって、かなり厳しいみたいですね」と心配されていた。

ま、そういうことを言う人は多いが(実際、そういう面もなくはないが)、ただ「職業比較」として、どれくらい難しいかと言われると、ちょっと悩む。「ラーメン屋をやっていく」のも、あれはあれでかなり大変だもんな。長時間労働だし、けっこう競合も激しいし。弁護士も、医者も、大工も、タクシー運転手も、美容師も、それなりに大変なんだよねえ。それらに較べて、格段にめちゃくちゃ難しいかと言われると、それはちょっとよくわからない。

ま、作家は、芸能分野なので、「プロ/志望者=食える確率」を考えれば、歌手、タレント、俳優、スポーツ選手、落語家、マンガ家、画家、陶芸家……と較べるべきかもしれないけど。ただ、どれくらいの人数が「ホントの志望者」と言えるかというと、ちょっとわかんないのである。実際、うちの小説講座でも「本気の本気のホントにプロ志望」となると「さあて、はたして何人いるかなあ」という感じだし。世間じゃ「めったに作品を書かないプロ志望」なんて人は、けっこういるからなあ。ホンキの志望者に限れば、確率はグンとあがるかもしんないもん。「作家志望が多い」ように見えるのは、たとえばプロ野球選手のように、年齢や客観的な評価をさほど気にしないでいられるからだろうけど、実際に、長編を何作もしつこく書いて、しかもちゃんと客観的な評価をもらって、それをきちんと活かしている、なんて人はほとんどいない(と思う)

ま、作家はともかく、「大阪でライター稼業」もけっこう大変だが、とは言っても、実際にやっている人を私は何人も知っているわけで、少なくとも不可能ではない。たぶん「オリンピックで金メダルとる」とか「大リーグで活躍する」よりは、確率的にはかなりカンタンなはずだ(と思う)

ただ、職業としては、デビューした後も、とにかく不安定なことだけは確かだから、やっぱり「よほど好きな人」にしか勧められない。好きな仕事だったら、長時間労働でも、収入が不安定でも「まあ、でも、しょうがないなあ」と多少あきらめもつく(いや、生活は苦しいかもしれんが)

まあ、さらに「現代美術作家」とか、「前衛ダンサー」とか、『食えない確率』では、作家の比ではないという仕事もあるしなあ。世界的に有名な人でも、それなりに大変。
(ちなみに「陶芸家」もかなり大変らしい。私の妹は、某デパートでずっと和食器を担当していて、今はバイヤーをしているのだが、いわく「作家はたまにアタリがあるかもしれないが、陶芸家は生きている間にはまずアタリがない」のだそうだ。いや、ほんとかどうか知りませんけど)

しかし、ダンサーなんか、どう考えても「仕事」として成り立ったらそれだけで「奇跡」みたいなもんだし、とにかくなんだかんだと苦労しても、もしも人前でずっと踊り続けていられるなら、それだけで「人生、勝ったも同然」だわよ。どうやればいいか悩むとか、他人と競走して評価を得るのに苦労するとか、いつまで「お客さま」に支持してもらえるか不安になるとか。
けど、所詮、自分の好きなことをして、しかも他人を喜ばせられるんだからなあ。
だから、それくらいの苦労はみんな当然なんだよ。わかったかい。
(実は、これは家庭をそっちのけで、ダンスの稽古に出かけてる夫に言ってるんだけど)

ラーメン屋でも、うどん屋でも、ソバ屋でも(……なぜか思いつくのが、麺類ばかりだけど)たこ焼き屋でも、お好み焼き屋でも(……結局、粉モンばかりだが)……とにかく「苦労」はするかもしれないけど、そこに「面白さ」とか「喜び」があるのもまた確かなのだった。

04/10/2006

小説とは関係のない休日(友人たちと花見)

4月9日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

海外に住む友人が、子連れで大阪に帰省中。毎年恒例で、大学の時のゼミ仲間4名で集まる(もう一人は花粉症で来れず)。毎年、同じ時期に帰省していたのだが、去年はあいにく花見シーズンじゃなかったのだった。今年は、ばっちり満開である。うちの近くの緑地で集合である。家が近い私は、今日もまた朝からはりきって料理。昨日に引き続き、またまた重箱2セットを準備。ただし、子供向けメニュー増加。大阪市内に住む別の友人は、シュークリームとレモン風味のケーキ、チョコケーキ(すべて手作り!)を持参。東京在住の友人は、飛行機でやってきて、スパークリングワインを持参。酒飲みばかりの女性たちなので、あっという間に空にする。

海外在住の友人は、昨年からイギリスからスイスに引っ越し。で、スイスみやげのお菓子もたんまり。彼女の子供たちは日本語はまったく話せないのだが、うちの子供たちと元気よく走り回り、満開の桜の下、一緒になかよく小川でタニシの捕獲。

遊んでいる子供たちをほったらかして、女性4人。話題は、ロンドンとスイスの違いや子供の教育問題など。この彼女は、大学時代に英検1級、通訳ガイド試験をとった秀才で、通訳で知り合ったドイツ人の夫と、二人の息子たちとは、基本的にドイツ語(または英語)で会話している。

通訳になるまでは留学経験もなく、ほとんど独学。大学での成績も優秀で、今も、育児の合間にメールやファックスを使って、自宅で翻訳の仕事をやっている。

昨年からは、スイスに住んでいるので、フランス語も少しは話すらしい(フランス語圏らしい)。ところで、スイスは、ドイツ語とフランス語のバイリンガルだと聞いていたのだが、ドイツに数年住んでいた彼女に言わせると、スイスで話されているドイツ語は、ドイツ本国とはかなり発音が違うんだそうだ。「方言」なのだろうが、発音がまったく違うのだそうで、ドイツ人でも聞き取れないくらい違うらしい。「文章」で書かれれば同じだそうだけど、「会話」ではしばしばメモを書いてもらわないとわからないくらいらしい。中国語でも「北京語」と「広東語」はえらい違うが、それくらい違うのかもしれないなあ。(わたしゃどっちみちわからんけど)

彼女は、夫の仕事の都合で、ドイツ、イギリス、スイスと転勤を繰り返しているので、息子たちの学校教育は英語である。日常語はドイツ語なのだが、またどこの国に転勤するかわからないので、それしか選択肢がないんだそうだ。彼女自身は日本人なので、できれば日本語も教えたかったそうだけど、母親以外とは話す機会もないし、「3か国語をそれぞれしっかり身につけるのはムリ」なんだそうで、今のところ日本語はあきらめているらしい。

彼女は中学から英語を学んで、独学で身につけたしっかり者だが、最近、流行の早期バイリンガル教育にはかなり懐疑的。相当なひどい例があるそうで、日本語もおぼつかない幼い子供に、英語やフランス語、ドイツ語などを教え込む日本人親の話をしていた。「帰国子女」の悲惨な例は、私もちょっと聞いたことがあるけど、ちゃんとした母国語をもてないのは悲劇だよなあ。

そりゃ、幼いうちから外国語をやると、多少は発音はよくなるそうだが、最近じゃ「ただの会話能力だけ」なら、たいしてキャリアにもならないし、それよりもしっかりした母国語をもっておく方がいいらしい。そう考えたら、高等教育を受けられるほどの語学力は、1〜2カ国語で精一杯かもね。会話くらいは何とかマスターできても「読み書き」の問題もあるしなあ。

ま、ずっと日本に住んでいても、英語どころか、日本語がヤバイ人もいっぱいいるしなあ。英語の語彙どころか、日本語の語彙の少ない人、けっこういるもんな。

でも、英語もドイツ語もペラペラの友人は、やっぱりカッコイイ。別の友人の娘さん(高3)も英語に興味があるそうで、彼女に「学習のコツ」を聞いていたが、「英語は、中学校からやっても充分。勉強のコツは、ちゃんと単語を覚えることと文法をしっかりやること」と言われていた。結局、コツコツ、基本が大事ってことかしら。

しかし、異国での出産や引っ越しの苦労談は、いつ聞いても私は面白いが、本人は大変そうだなあ。子連れだとただの引っ越しでも大変なのに、子供を転校させて、色んな手続きなどをこなさないといけないんだもんな。国ごとに習慣も違うだろうし、たいへんな苦労だわ。私なら絶対ヘコタレてるだろうなあ。

「でも、さすがにフランス語はほとんどムリよ。もうこれ以上、語学は頭に入らないわ」と言っていたのだが、今回、帰国する途中も、乗り継ぎの飛行機が遅れるトラブルがあったそうで、あわてて小さな子供たちの手をひっぱりながら「私は、子供連れ! あの大阪へ行く飛行機に乗るために急いでいる! そこをどいて!」と「フランス語」で叫びながら、空港を走っていたらしい(フランス語圏の人は、あまり英語が通じないんだそうだ)。うーん、たくましいなあ。

夕方まで、のんびりとおしゃべりを楽しんだ後、「じゃあ、また来年ね!」と解散。
帰宅後、バタバタと雑用など。

桜、黄砂、小説講座の事務作業

4月8日(土)
午後から小説講座の事務所。春休み中にて、小説講座の講義はお休み。

朝から、せっせと料理。重箱二セット(三段&二段)にごちそうを詰め込み、10時から花見に参加する。しかし、13時には、あわただしく事務所へ出勤。この忙しいのに、そこまでしてがんばって「花見」をする気なのが、我ながら可笑しいけど。そういや、8〜9日は、小説講座の専攻科の生徒さんたち、7期卒メンバー数名が「一泊旅行」に行っている。せっかくご一緒にと誘われたのだけど、仕事で行き損ねたのだった。

午後から、一人でせっせと事務作業(孤独で地味なお仕事…)
夕方、のんびりと寄り道しながら帰宅することにする。花見で盛り上がっている大阪の町を一人ぶらぶら歩いてみる。

街灯に照らされる桜の花。夜の闇に、桜並木がぼんやりとにじんでいる。ああ、そういや、すっかり忘れていたが、大阪の春は、「黄砂」の季節でもあるのだった。

さほど商売気のない文章教室でして

4月7日(金)
午前中、外出。午後から小説講座の事務所。

昼、お弁当を食べ、自転車でうろうろ。よく晴れて暖かく、桜も満開。このまま花見にでも行きたい気分だけど、印刷用紙などを買い込んで、せっせと事務作業。

文章教室への電話お問合せ1件。親切にも、他校の講座を案内する私。なにせシナリオライター志望(だと思う)みたいなのだった。

まあ、商売気がないのが私のいかんところなのだが、大阪にはいくつか学校があるので、自分にあった講座を選んだ方がいいのだった。とくに、文章教室とか小説講座などというのは、講師やカリキュラムとの相性もかなりある。学費が安いとか、どこでも同じだろうと考えて、自分と合わない講座に入学してしまうと、せっかくの学費をムダにする。

とくにカルチャーセンターなどは、「講師」が一人だけという場合も多いので、先生との相性もあるかもしれない。うちの講座の場合は講師が十数人いるのだが、生徒さんや講師の先生によって、相性が合う人と合わない人がいる。まあ、ここの講座みたいに、講師が多い場合は、「この先生のこの方法はしっくりわかるな」とか「あの先生はちょっと自分とは合わないな」とか、客観的に判断がつくようだが、先生が一人しかいない講座は(その分、先生にじっくり見てもらいやすいのだが)、相性とか、志向とか、クセの問題もある。せっかく入学するのだったら、とにかく一度、見学に行くとか、相談会に行くとかして、自分にあった講座を見つけて入学した方がいいのだった。そうでないと、お金もそうだが、せっかくの「書きたい」という気持ちをそがれてしまうことだってある。そうなると、金ももったいないが、才能がもったいないのである。

さらに夕方、「文章教室」への入学相談が一名来館。20年ほど前、他校に通学経験があるそうだ。女性なので、年齢の近い人が他にいるかをちょっと気にされている。40代以上の女性も数人すでに申し込みされているのだが、どちらかというと、うちの講座は誰も年齢はさほど気にしない。毎年、年齢層もバラバラだしなあ。小説講座にも、10代の学生から70代まで色々いるけど、講義後の飲み会でも、年齢よりは、「ミステリ好き」だとか「時代小説志向」だとか、「宮部みゆきファン」で一括り、っていう感じだし。

ところで、「創作サポートセンター」では、講座に入学を検討されている方のための「入学相談」と、一般向けのいわゆる「創作相談」があるのだが(これ以外に、自費出版の相談窓口も開設予定なのだが、今は、とても手が回らないのでやっていない)、私は「入学相談」に来られた方にでも、あえてとくに入学をススメたりしない方針。それこそホントに「商売気」がないみたいだが、「家でじっくり考えて、他の講座を見てから選んでくださいね」などと言ったりする。

「小説講座なら『大阪文学学校』という学校もありますよ」とか、「文章教室なら『大阪編集教室』なんてのもあるんですよ」などと言ったり。もちろんうちの講座がオススメできないわけではなく、内容には自信があるんだけど、とくにこの春開講する「ライティング講座」は、新しくリニューアル開講になるので、できれば、少人数でかなりじっくりやりたいと考えている。だから、人数を集めて開講するというのではなく、ちゃんとやる気のある「いい生徒さん」が揃ってくれる方がこちらもいいのだった。

で、例によって、私は「入学はよく考えてからで」と申し上げたのだけど、その人は「ずっと書きたい書きたいと考えて、気がついたら数年たってしまった。もう考えているよりは、とにかくやった方が早いみたいだわ」と言い、その場で「申込書」を提出されて帰宅されたのだった。

なんだか楽しそうなクラスになってきたぞ。

04/07/2006

クールで暖かい小説講座

4月6日(木)
午後から小説講座の事務所。9時半まで事務作業。

専攻科の作品を読みながら、一人で怒ったり、悲しんだり、喜んだり、けっこう忙しい。ただし、これは「小説」の内容に反応しているのではなくて、「ああ、もうちょっとうまく書かないとダメじゃない!」とか「惜しいっ! もう、アイデアはいいのになあ」とか「よしよし、前の作品よりだいぶいいじゃない」とか。小説講座の担当者は、そんなことを考えながら読むので、なにかと忙しいのだった。

ブログでもボヤいたりスネたり、グチまじりに生徒さんのことを言ったりするが、こういうのは全部、愛情ゆえのことなので、私が生徒さんを見捨てたり、あきらめたりすることはありえない。うちの講座は、通学講座なので、みんな顔をよく知った生徒さんである。仕事や家庭の都合も聞いているし、本人の人柄もよくわかっている。ただ、まあ、社会人向けの講座なので、案外、生徒さんの方が、気楽に辞めたり、すぐにあきらめたりはするけどね。それでも、私の方があきらめられなくて、ずっとブツブツ言っていたりするくらいなんである。講師の数も多いし、生徒も多い。でも、私にとっては、全員、講師は「恋人」、生徒は「我が子」。そりゃ、作品を見て、「こらっ! もうちょっとがんばらんかい!」とは思ったりするけど、それはそれ。「はえば立て、立てば歩めの親ごころ」。深い深い愛ゆえのことなのよ。ああ、愛って、いくら注いでも、あとからいくらでもあふれてくるものなのね。いやほんまに。

ところで、私は、よく「講師は直木賞! 生徒は新人賞!」あるいは「講師はヒット作、生徒はデビュー作」などと言っているのだが、一方で、なにもヒット作を書いたり、作家デビューをするだけがすべてというわけじゃないとも思っている。そりゃ価値観も書いているモノも、人それぞれだしね。

でも、いい作品を書いたら、誰かに読んでもらいたいものだろうし、できれば一人でも多くの人たちに読んでもらいたいと考えるのは自然だとも思う。ジャンルや内容によっては、ある程度、限られた読者しかいないというのは仕方ないにしても、「やっぱりヒット作とか、デビュー作を書きたい」と思うのは、誰でもあるはずだと思う。私自身は、講師にしても、生徒さんにしても、もしそのために私にできることがあれば、どんな協力だってするつもりだし、それが仕事だと思っている。(取材先探しや文献探しなども、気楽にご相談くださいまし。たまには役に立つかもよ。いや、役に立たんことも多いけど)

ただ、気になるのは、たまに「そんなガリガリやったって、何になるの」とか「そんな一生懸命にやってダメだったら、カッコ悪いよ」とか、「がんばっても、どうせムダじゃないの」なんて、そういうことを平気で言う人がやっぱりけっこういることだ。生徒さんの中にもごくたまにいるし、もちろんきっと生徒さんの周囲(職場の同僚とか、友達とか、家族とか)にもたくさんいるんだろう。

どうも世間には、「情熱的に何かに取り組んだりする人」に水をかけたり、引きずりおろしたい人がけっこういるようなのだ。

さて、先日のことだが、テレビでイチローのインタビューを見ていて、つい私が「うーん、野球少年だなあ。クールなイメージなのに、やっぱ、こんな熱いヤツだったのかあ」とつぶやいていたら、日頃、まったくテレビを見ない夫が通りかかり(彼は、テレビも見ないし、スポーツにもまったく興味がないので、もちろんWBCも知らない)、「イチロー? なんか知らんけど、ま、ホンマにクールなヤツが、アメリカまで行くわけないやん」と言って、去っていった(テレビにもスポーツにも興味のない彼が、スポーツニュースを見るわけがない。ただ、イチローが大リーグにいることだけは、かろうじて知っている)

それでふと思ったのだが、「クール」って、一体何なのかしら。

「クール」が「カッコイイ」という意味で使われるようになったのは、いつからなのか知らないけど(少なくとも日本じゃ、そんなに何十年も前からじゃない気もするんだけど)、クールって言葉は、今、どういうふうに使えばいいんだろうなあ。

ところで、最近、専門学校の生徒さんから、ちょっと面白いことを聞いた。その人は、すでにデビューをして新人漫画家として期待されている人らしいんだけど、「学校で教わった一番よかったこと」というのが「そうや、熱くなってもいいんや、ということだった」そうだ。

もちろんペンの使い方とか、技術的なこともあるそうだけど、ある講師(漫画家)の先生が、びっくりするほど「熱かった」らしい。その人いわく、「高校生までは、『情熱的』とか『熱くなる』というのは、うっとおしくて、ヤボったいことだとずっと思っていた」のだそうで、「友達も、みんなそうだったし、周囲の大人もみんな冷めてたから、熱い大人なんて、見たことがなかったので、それがちょっとした発見だった」

ちなみに、その講師の先生というのは、若くてスマートな女性の漫画家さんで、キャピキャピとした印象はあるけど、あんまり「情熱的」というイメージはない。だが、そりゃあ、さすがに漫画家というような職業の人は、自分の仕事をめちゃくちゃ好きでやっている。学生さんにも「なんでもっとがんばらないかなあ、もう!」くらいは、ポンポン言う。

漫画家さんの場合、あっけらかんと感情を表現すタイプがけっこう多いような気がするが、おおざっぱに言うと、小説家の先生は、それほど「あっけらかん」とした人はかなり少ない(気がする)。だから、もしかするとイチローみたいに、クールに見えるのかもしれない。いや、作家さんのインタビューなどを読むと、あきらかにわざわざクールに見せようとする人などもいるみたいだ。ただ、実は、作家で「熱くない」というのは、たぶん無理である。長編を書いたりするのは、かなりエネルギーがいる。で、小説を書くような人は、かなり人見知りが激しいのだが、サービス精神も強いので、めちゃくちゃ気を使って、自分を演出しているような場合も多いのではないかと思う。まあ、だいたい「小説家」というのは、ウソつきのプロ(小説はウソの世界)なのである。インタビューやエッセイなどは、あきらかな嘘ではないだろうが、どういう「言いまわし」になっているかわからないものだ。

で、うちの講師の先生たちも、なぜか講義中は、どこかクールに見えるそうで(まあ、「あこがれの作家の先生」なので、そう見えるのかもしれないけど)、小説などは、さほど苦労もせず、さらさらと書いているように見えるんだそうだ。しかし、私は、プロ作家さんが「さらさらと何の苦労もせず書いている」なんてことはあまり考えられない(いや、実際、書いているところを見たわけじゃないけど)。

ちなみに、これまで小説講座を数年見てきた私の感想としては、「プロ作家は、みんな思ったよりもずっと手間もかけて、苦労もしている。苦労もせずにさらさら書けるのは、何も考えずに書けるシロウトだけ」なのよね。

もしかすると、「クール」というのは、ただの冷めた人なのではないんだろう。何もわからない周囲から見れば、ただ冷めているように見えるかもしれないけど、それは「それだけ真剣だったから」なのかもしれないもんね。クールというのは、たぶん、やるべき時には熱くなれるような人なのかもしれないし、たとえ他人からバカにされても、たとえ努力が報われなかったとしても、それならそれで仕方ないと、自分の責任で受け止められる。それが「クール」なのかもしれない。小説を書くなんてことは、誰に強制されたわけじゃない。どうせ好きなことなんだし、どうせ一度の自分の人生だもの、「やるからにはやるんだ」ってのが、カッコ悪いことなのかしらね。

もしかしたら、クールってのはそういうもんじゃないのかなあ。

そんでもって、私は、「誰でもやればできる」というのを、まるまる真剣に、ホンマの本気で信じている(ただ、私が固く信じているのに、「やれば」ってのを「やらない」ってことはあるみたいだけど〜)そりゃ、社会人ばかりで大変だし、ペースは人それぞれだけどさ。

「どうせムダなんじゃないの」とか「がんばっても無理よ」とか、周囲にバンバン水をかけられて、困っている生徒の皆様。水をかける人にも、いろいろ事情があったりするから(自分自身に「情熱」を感じることを持ってなくて、嫉妬したり、寂しくなったりする人もいるのだ)なかなか大変だろうけど、クールで暖かい小説講座で、がんばろうね。

04/06/2006

桜、はこべ、入学式、文章教室はまだ来週

4月5日(水)
午後から小説講座の事務所。コツコツ事務作業。
あいかわらず、新しくはじまる文章教室<ライティング講座>の開講準備。せっせ、せっせ。

あいにくの雨だけど、桜は咲きそろってきた。今週は「小説講座」も休講なんだけど、教室に使っているエル大阪がある天満橋あたりの桜並木が美しい。文章教室を開講する「大阪NPOプラザ」(野田)も、玄関わきの花壇が花盛り。ここ大阪NPOプラザには、「シニア自然大学」や「園芸療法研究会」のNPOなどが入居していて、ボランティアで花壇も手入れされているのだった。

そういや、今週から、玄関の自動ドアを入ったところのテーブルに、小さな雑草がガラスビンにちょこんと活けてある。かわいい白い花。だれかが摘んで来たのだろうな。どこかの団体に雑草好きな人がいるのかなあ。この花は、たしかハコベ。

さて、午前中は、うちの長男の入学式へ。ダボダボの制服のちびっこ中学生たちが、ずらり並ぶ中学校の体育館。クラス分けが発表されて、チビでアホでノンキな息子は、同じクラスに「自分より背が低いお友だち」がいるかどうかが最大の関心事。できれば一番前になるのを避けたいらしい。しかし、パッと見たところ、彼ほど小さい生徒は少ない。

「うーん、今年はちょっとヤバイかも……」とつぶやく息子。とりあえず出席番号順に並んでいるらしいが、すぐ前の女子生徒などはめちゃくちゃ背が高い。20センチ以上差があるようだ。最近すっかり男女混合の出席簿にも慣れたけど、中学1〜2年の頃はどうにも男子が低すぎる。出席簿順に並んで、背の高い女生徒に挟まれてるのを見ると、ちょっと可哀想な気もするなあ。

ちなみに、ここの中学は、3つの小学校があわさるので1学年300人以上、8クラス。ほとんど39名というギチギチの人数で、大所帯の教室。先生も大変である。

昼食後、地下鉄で出勤。事務所でコツコツ作業。年度がわりで、大阪NPOプラザのスタッフも新人さんがちらほら。「うちは、小説講座などをやっている団体なんですよ」「へー」「今度、ここの3階で『文章教室』をやるので、一度のぞきに来てくださいね」「わー、面白そうですね」

さあて、桜はどうかしら。明日は、晴れるといいんだけどな。

04/05/2006

忙しく、あちこち出かけることもできず

4月4日(火)
午後から小説講座の事務所。夕方まで、ひたすら事務作業。丁稚どんも、印刷いろいろ。

昨日から、かんべむさし先生のラジオ番組『朝はミラクル!』(ラジオ大阪、月曜〜金曜)の開始時間が早くなったらしい(「らしい」というのは、ちょうど息子の『基礎英語』がある時間なので、うちでは聴けないから)。いつもは、7時45分にNHKからチャンネルを切り替えると、ちょうど7時52分の開始に間に合ったのだが、今日ももう始まっている。どうも番組が終わる時間は一緒みたいなので、開始時間だけ早くなったらしい。

しかし、小説講座の生徒さんは、ほとんど社会人。会社員や主婦、あるいは大学生なので、昼は家事や仕事で忙しく、夜になってから自分の作品を書く人が多い。夜ふけまで原稿を書くという「夜ふかし組」もけっこう多い。ってことは、これじゃ、ますますラジオの開始時間には間に合わないな。でも、講師のプロ作家の先生たちには、いいかもしれない。なにせ専業作家の先生たちは、けっこう寝るのが遅い人が多いらしいから。明け方になってから寝るような人が多いもんな。

あいにく私は、もうすぐ中学生になる息子のため、毎朝の弁当づくりも始まるし(今までは小学校だったので、給食だったのだ)、ますますゆっくりラジオを聴けなくなりそうだ(今も毎朝、戦争状態。ラジオはかけているのだが、洗濯物を干したりして忙しいので、ゆっくり聴いていない)
まあ、朝ゆっくりしたい、というのは、3人の子供たちが学校を卒業して、すっかり独立でもしない限り、当分、無理なんだろうなあ。ふう。

さて、今日もコツコツ事務作業。
春に開講する「文章教室」の締切も、いよいよ来週11日。だんだん近づいて来た。開講は15日で(入学説明会だけなので、実質22日からだけど)、今日も、あいかわらず書類作りにも追われているのだ。ううう、忙しい。

さて、入学願書の「興味あること」というメモ欄だけでは、よくわからないのだけど、なんとなくあいかわらず「小説志望」が多い感じ。ライター志望が少ないのは、ちょっと残念。うちの場合、「小説講座」への編入制度があるので、どうしても文章教室は「小説志望」が多いのだけど、新聞記者とか、フリーライターとか、シナリオライターとか、ある程度、色々な分野に興味がある人いてくれた方がいいんだけどな。まあ、私自身がライター出身なので、あんまり小説ばっかりだとなんだか寂しい気もするのよね。

ところで最近、小説講座では、時代小説を書くのが流行っている。で、私は、時代小説にありがちな欠陥を直すある画期的な「練習法」(?)を思いついたのだが、それが有効かどうかを検証するために、時代小説家5名の作品を読み直すという、かなり無謀な計画を立てている。去年から読み進めているのだが、なにせ数百冊。けっこう大変。しかし、こんなにかたよったジャンルばかり読むのは久しぶりで、けっこう面白い。1期の時、1年間に「ミステリ数百冊」を読んだ時以来。まあ、そうとは言っても、他のジャンルも読んでますけどね。

やってみたらわかるけど、ある作家の作品を(なるべく年代順に)集中して読み直してみると、けっこう面白いことがわかる。一度読んだやつでも、たぶん新しい発見がありますので、皆様も、ぜひ一度お試しくださいまし。あ、余談ですが、昨日、『「司馬遼太郎・街道をゆく」エッセンス&インデックス(単行本・文庫版両用総索引)』という本を読んでいて、かなり面白い発見があったのですが、もし興味ある人がいれば、よろしければ飲み会で話しますので、一声かけてくださいまし。あ、そんなこんなで、今も司馬遼太郎記念館の企画展を見に行きたいと思っているのだけど、なにせ時間がないのだった。東大阪だから近いのに〜。いや、今年の大河ドラマだし。

けど、当分は忙しいけど、この調子でやれば、4月の下旬にはなんとか時間がとれそうだなあ。旅行も行きたいんだけどな。そういや、最近なぜか「戦艦大和」の写真(もちろん例の模型)もたて続けに見せびらかされてしまっているのだが(気のせいかなぜか女性ばかりが行きたがっているような……なんだか女性の方が、取材旅行などにホイホイと気軽にでかける傾向があるような気も)、それはともかく、私の母は広島出身なので、数十年ぶりに祖父母の墓参りにも行きたいのだった。とにかくGWくらいは、のんびりしたいもんだなあ。

04/03/2006

教室実習で、生徒さんのクセをみる

4月3日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

さて、うちの小説講座や文章教室は、現役のプロ作家、プロライター十数人によるレクチャー講義が
中心なのだけど、それ以外に、年に数回「教室実習」というものをしている。実習は、私が専門学校の方でやっている課題の中から、「効果がありそうだな」と思ったいくつかを選んで実施している。専門学校は、年間20〜30くらい授業があるのだけど、小説講座や文章教室は、講師によるレクチャーが多いので、実習はかなり少ない

ただ、うちの生徒さんは、忙しい社会人も多く、レクチャー講義にしか興味のない人もいるので、「実習」の出席率はさほどよくない。まあ、実習は、人によって、すごく効果があったという人から、ただ面倒くさいだけ、という人まで、受け取り方も色々だ。面倒くさい人には、面倒くさいらしい。まあ、ムリにやる必要はないと言ってあるので、やりたい人だけやってもらえばいいんである。

ところで、先日の「間違い探し」なのだが、実は、まだ「正解例」を配布していない。で、今週の授業の時、「早く『答え』を教えてくださいよ」と誰かから言われるかなーと思っていたのだが、なぜか誰も言い出さなかったのだった(だから、誰にもあげていない。ほしい人にしかあげないもん)

ってことは、たぶん「そんなものなくても、正解できたから大丈夫」か、それとも「まったくやってない」か、どっちかである。ほ、ほ、ほー。修了課題の出来が今から楽しみだわ。

ところで、専門学校生だと、ちゃんと「宿題」をやってなかったり、締切日を守らなかったりすると、いちいちきちんと叱ってあげるのだが、ここの小説講座は、社会人向けの講座なので、締切を守らない生徒さんを叱ったりはできない。それなりに注意はするけど、年齢も色々なので、叱ったりという感じではないのである。というか、守らない人ほど「そんなん、知らん」「連絡もらってない」などとおっしゃることが多いのよね。大人ほど、ルールを守らないものなのよ。

書類は欠席されても、ちゃんと郵送してるんだけど、「そういや、何か封筒が来てた気もするけど、見てなかったわ。ごめんごめん」などと軽く言われたりする。今も、9期のアンケートを締切日過ぎてもまったく提出してない人が数名いて、私はたいへん困っているのだが、これが全員、前期課題でも、提出形式などを守ってない人ばかりで、しかし、社会人向けの講座では、こういうことはよくあることなのである(権利は主張するが、人のことは気にしない。そう、それが大人……)。

まあ、専門学校では「卒業資格」というのがあるので、単位も厳しいのだが、社会人向けの小説講座は、がんばって卒業しても「資格」なんぞ何もないもんな。

さて、小説講座でやってきる数少ない「実習」。この実習は、たいてい生徒さんの弱点というか、陥りがちな部分を「気づいてもらう」ためにやっている。なにせ回数がかなり少ないので、実習だけでは実力が伸ばすのはムリである。でも、「気づき」さえがあれば、あとで自分なりの方法で勉強することができると思っている。

ところで、実習をすると、あとで「何のためにやっているのかわからない」と文句をいう人がたまにいる(しかも、その場では何も言わずに、なぜか終わってから言う)。こういう人は、なぜか講師のレクチャー講義も、「つまらない」「興味がひかれる内容がなかった」というタイプの人である。アンケートをとると、全体的に講師への評価の高い生徒さんほど作品のレベルも高いが、講義の評価の低い人ほど作品のレベルも低い。もう一つの傾向としては、どの講師への評価も低い人は、たいてい読書量も少ない人で、講師の著書などはまず読まない人らしい。まあ、実習はやりたくなければ、やらなくてもいいんだけどね。

そういう目的でやっている「実習」なのだが、これがけっこう、私が、生徒さんのクセを理解するためには非常に役に立つのである。

たとえば、先週は、7分くらいの映像作品を見て、その「筋」を簡潔にまとめ、その骨格を使って、別のストーリーに作るというもの。いわゆる「換骨奪胎」の一種なんだけど、カンタンなゲームのようなものである。専門学校でも何度もやっているので、かれこれ数百人以上がやった課題だが、小説講座でやるのは今回が初めて。実は、この課題は、生徒さんの「あるクセ」がちょっとわかるので面白いのだ。

この課題を思いついたのは、数年前にいたある生徒さんがきっかけである。たしか小説講座の1期生か2期生だったはずだから、かれこれ8年も前のこと。うちの生徒さんは、ミステリ、SF、ファンタジーなどの志望者が多いから、どうしてもややオタクっぽい生徒さんが多くなる。そういう人は、「知識」もけっこうあって、飲み会などで話していても、映画やアニメの話で盛り上がることがけっこう多い。ところが、気がついたのだが、そういう人の中にちょっと妙な話し方をする人がいる。

たとえば、「すごくおもしろい映画があるんですよ」と話をしていて、私が「どんな映画?」と聞くと、「こんな人がいててね……」と詳しく丁寧に話してくれる。ところが、これがかなり長い間、話を聞いても、なぜかどういう映画なのか、さっぱりわからないのだ。

長々と聞いても、なんだかどんな映画なんだか、さっぱりよくわからない。「で、どこがおもしろいの?」と聞くのだが、「だから、そのあとで、こうなってこうなって……」と、またまた詳しく説明してくれる。しかし、それで肝心の「どどこが面白いの?」ということは、やっぱりわからないのだ。

たしかに「好きな分野のことを語りだしたら、どうにも止まらない」という人はけっこういる。けど、この男性の場合は、それとはなんだかちょっと違う。オープニングシーンから順番に詳しく話をしてくれるんだけど、どんな映画なんだか、どこが面白いんだかが、さっぱりわからないのだ。

でも、これは、私とこの人とが「ただ感性がちょっと合わない」だけかもしれないし、「ただの趣味の違いかな、私だけが話がわからないのかな、でも、なんだか変だな」といつも思っていたのだが、そのあと、その人の作品を見て、「あれっ、もしかして」と私は思った。なんと、その生徒さんの書く作品は、まったく同じようだったのだ。つまり、長々と細かくシーンが書かれているのだが、何が面白いんだか、わからないのである。

さて、作品に関しては、他の生徒さんや講師の先生たちも、私と同じような感想をもったようだ。それで私は「ひとつの仮説」を考えた。彼のような「やたら長いだけで、さっぱり面白くない小説」を書く人というのは、小説講座には、ごくたまにいる。そういう人に「何か面白い映画、知ってる?」とか「何か面白い本、教えて」と聞いてみる。そうすると、たいてい同じような「ちょっとわかりにくい説明をしてくれる」のではないだろうか。

というわけで、これをやってみたら、かなりの確率で、その通りなのである。これは、どういう現象なんだろう。

さて、小説講座には、いろんな人が入学してくるのだが、こういうタイプの人は、たいてい入学以前にすでに「長編」を書いた経験がある人である。こういう人の特徴としては、まず「あらすじ」を読んでも、ストーリーがよくわからない(もちろん本文を読んでもよくわからない)

ジャンルは、ファンタジーや歴史モノなどが多いみたいだけど、恋愛小説など他の分野もけっこうある。とにかく「よくわからないシーン」とか「よくわからないエピソード」などが延々と語られるのが特徴なのである。

しかし、「なにか面白い映画ありませんかね?」という質問を、もしも、他の人、たとえば講師の先生たちにしたとする。そうすると、たいていの場合、ほんの数秒で、わかりやすく説明をしてくれる。

「すごくバカバカしい映画なんだけど、差別用語とか禁止用語を連発するギャグアニメで……」とか、あるいは、
「最新のCGアニメで、前半は『七人の侍』なんだけど、後半その助っ人が役に立たないってわかってからの展開がけっこう面白いよ」とか、
「ストーリーは単純なアクション映画なんだけど、後半の展開がすごいんだよね」など、
「どんな映画で、どんなストーリーで、どこがどう面白いのか、どこが見どころか」を簡潔にわかりやすく説明してくれる。おお、なるほど、ってな感じである。

しかし、一方で、説明をしてくれても、どうも面白さが伝わって来ない人がいる。この違いは、どこにあるんだろう。

で、考えたのだが、これはたぶん原因は二つある。一つは、「判断能力」である。モノゴトを分析したり、整理したりする能力だ。で、もう一つは「コミュニケーション能力」の問題。たとえば、こういう説明をする場合、「その映画をまだ見てない人に、興味を持てるように話す能力」つまり「相手を見て、どんな映画が好きそうかを判断して、その人がわかるように説明する能力」が必要なのである。

これがないと、映画や小説などのストーリーを一言で言いあらわせることができない。つまり、これができないということは、これらの「能力」が不足しているのではないだろうか。

というわけで、最初は、専門学校で「好きな映画のどこが面白いかを簡潔にまとめる」という課題をやってみた。しかし、これは今イチわかりにくい。それよりは、いきなり映像作品を見せて、「ストーリーを簡潔にまとめてもらう」方がわかりやすいのである。その方が、その人のクセがはっきり出る。

この「要約」の部分だけでも、その人の作品傾向とかなり一致する。一文くらいで、きちんと要素をおさえて書ける人ほど、どうもやっぱり作品のレベルが高い。まあ、マンガ科の生徒さんだと「こういう要約は全くできないけど、作品は面白い」という人もいるにはいるんで、ズレることも多いけど(ナンセンスギャグ系とか。でもストーリーマンガだとかなり傾向が出る)たぶん小説講座なら、かなり一致するはずである。

で、先週、この課題を9期のクラスでやって、どういう結果になるかなあ、と、内心めちゃくちゃ楽しみだったのだが、けっこう面白い結果が見えた気がする。うれしそうに教室内をうろうろして、課題シートをのぞき込む私。うーむ、なるほどなるほど。

まあ、小説講座でも、必ずしもストーリーがはっきりした作品を書く人ばかりでないので、これがそのまま作品のレベルに直結するわけではないけれども、やっぱり、その人の「クセ」が出るものらしい。
たとえば、「要約」がうまくできない人、これは少なくとも、ストーリーの骨格が理解できてないか、ボキャブラリーというか「言葉」の選択にやや弱くて、文章が長くなる傾向がある。また安易な設定にとびつく人とか、反対に、悩みすぎて全然書けない人とか、また「設定」は考えられるけど、ストーリーにまとめられない人とか、どこがクライマックスになるのかわからない人とか、わかっててもどう盛り上げていいかわからない人とか、はたまた、なぜか課題をやっても、用紙を提出したがらずに持って帰る人とか。

このクラスはすでに作品を見ているので、あれこれ、その人の作品などで思いあたるところがあって、かなり面白かった。やっぱり「実習」をやると、その生徒さんの引っかかってるトコとか、クセとか、ちょっとわかるので、かなり便利である。これ、専攻科の生徒さんはやったことがない実習だけど、ぜひご自分で試してみたいという人がいたら、在校生に限り、「実習用紙」をプレゼントしますので、メールにてご一報を(そんなもん要らんてか)

小説とは関係のない休日(ハムスターが怖い)

4月2日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

外は一日中、雨が降ったりやんだり。玄関のところで、退屈した子供たちがハムスターをカゴから出して「遊んであげる」と手のひらに乗せている。「ほらママ、かわいいでしょ」と見せてくるのだが、私は「こっち、連れてこないでね!」と言って、ぴしゃんとキッチンのドアを閉めた。だって、カゴから出したハムスターは気持ち悪いのだ。

「なんで? かわいいよ、ママ」
「だって、それ、ネズミだもん。見るのはいいけど、触るのは気持ち悪いの」
「ふーん。でも、かわいいよお」と双子の娘たち。「ヘンなママ」

つい数年前までは、ハムスターくらい触るのはまったく平気だったんだが、今は気持ち悪いのだ。なぜなら、2年前に「ある事件」があったからである。

あれは、そう、たしか春だったと思うが、ピカピカの1年生になった娘たちが、まだまっさらの赤いランドセルを背負っていた頃である。その日、私はたまたま自宅で原稿を書いており、「おかえり」と帰宅した娘たちを迎えることができたのだった。
すると、玄関を入るなり、「ママ! 見て見て!」と言う娘たち。見ると、何やらフサフサと毛の生えたものを大事そうに抱きかかえている。
「あら、また子猫でも拾ってきたの?」と、私は何気なくのぞきこんで「それ」を見たのだが、その瞬間、全身にさっと悪寒が走った。
というのも、それは、子猫なんかではなく、猫ほども大きなドブネズミの死体なのだった。

そりゃ、それまでにも双子たちは、しょっちゅうヘンなものを拾ってきていたが、これにはさすがの私もとび上がった。「ひゃあ、何を抱きかかえてるの!? それ、ネズミじゃないの!」
「大丈夫よ、ママ。もう死んでいるから」
「それって、死体じゃない!? ちょ、ちょっと、と、とにかく抱くのをやめて、それ、下に置きなさい!」
「ほら、かわいそうなの。もう死んでるの」
双子は、ていねいに大ネズミの死体を玄関先に置いた。でかい! しっぽ、長い。こりゃ、どうみても、ネコじゃない。ドブネズミだわ。
「どうしたのこれ!?」
「帰りに拾ったの。ね、お墓つくってあげてもいい?」
「お、お墓!?」
「うん。かわいそうだから、埋めてあげるの。うちのお庭に埋めてもいい?」
「えーっ。お庭に? ちょ、ちょっとヤメてよ。捨ててきてよ」
「えー、だって、かわいそうやもん」
「でも、そんなの、大きすぎるわよ。うちは、庭の土がないんだし、そんなの埋められないわよ。だいたいプランターの半分くらいあるじゃないの」
「でも、お墓つくってあげたいもん」
「ネズミなんか、バイキンあるかもしんないでしょ!」
「でも、かわいそうやもん」
「とにかく、落ちてたところか、公園とか持っていて埋めてきなさい! うちに埋めないで」
「えー、でも」
「ほらほら、ちょうど兄ちゃんが帰ってきたから、お兄ちゃんに手伝ってもらって捨ててきなさい」
「ただいまー。お、お、お、うおー! すっげえ! ネズミや! でっけえ! これ、どうしたん。どうしたん。拾ったんか? オマエら、すげえやん!」
「帰りしな拾ってん」
「うお、すげ! どこでどこで? わあ、これ、ホンマでっかいなあ!」
「こ、こらっ。シッポ引っぱって、振り回すのやめなさい!」
「えーっ、でも、ママ、こんなん、どこ持つの? ネズミやで、気持ち悪いやん」
「そうやねん。それやのに、この子ら、二人して、大事に抱きかかえて持ってかえって来たんよ」
「だって、かわいそうやってんもん」
「げっ! 二人で死体抱いて帰ってきたんかよ。オマエら、すげえことすんなあ」
「ねえ、兄ちゃん、これ、捨ててきてくれない?」
「え、やだよう。ボク、友だちと約束あんねんもん」
「そんなこと言わないで、ほら、公園とか持っていって、お墓つくってあげなさいよ」
「えー、面倒くさいなあ。ボク、めっちゃ急いでるねんけどなあ。ほら、バケツに入れてやるからさ。これ持って、オマエら埋めてこいよ」
「うん!」

というわけなのだが、あー、びっくりしたびっくりした。しかし、肝心なのは、このあとなのだった。それから数ヶ月たって、季節は夏。庭には、あさがお、ひまわり。トマトやピーマン、ナスなども、たくさんの実をつけていた。その夏は、いくつかのプランターに植えた野菜もうまく育ったようで、毎朝、いろいろと小さな実を収穫できたのだった。で、その日、いつものようにトマトを収穫して、キッチンで輪切りにしていると、息子がやってきて、「なあ、ママ。実は、そのトマトのことなんやねんけどな」と、ひそひそ声で言う。

「なあに?」
「実は、このまえ、ボク、庭で虫を捕まえとってんけどな」
「虫?」
「うん。だんご虫やねんけど。それで、そのトマトのプランターあってな、それをちょっと掘っててん。ほんなら、出てきてん、ほら、あれ……」
「あれって?」
「ほら、このまえのネズミ」
「えっ! あ、あれ、公園に持っていったんと違うの!?」
「そやねん。あとで聞いたら、重たいし、公園でイヤがられたらしくて、やっぱり帰ってきて、どうもトマトのとこに埋めたらしいねん」
「えー!?」
「それがさあ、もう腐ってたみたいで、いきなり首だけ出てきてん。ボク、知らんかったから、めっちゃビックリしたわ。腐ってて、めっちゃくさいし、ホンマ気持ち悪かったで」
「なんで、トマトの、なんかに」
「ほら、捨ててこいって言われたから、わざと隠してトマトのとこ、埋めたらしいねん。ほんまは、お墓用のプランターあるのになあ。でも、あいつら、深く掘らなあかんのに、浅くしか埋めへんやろ。だから、出てくるねん。でも、まさかトマトのとこから出てくると思わへんかったから、めっちゃびっくりしたで」
「あの子ら……あのあと、公園に持っていけへんかったんや」
「うん。首、でてきた」
「その首……どうしたん?」
「どうしたって……そんなん、気持ち悪いから、またおんなじとこ、埋めた」
「トマトのとこ?」
「そう。だって、どうせその下にまた胴体もあるかもしれへんやん」
「そら、そうやわ、たぶん……」
「でもママ。そのトマト、今年ようけなるなあ。なあ、ママ、ネズミって、栄養になるんかなあ」
そう言われて、私は、包丁を手にそのトマトの断面を見た。真っ赤でピカピカなトマト。みずみずしくって、種の部分がぬるっとしたおいしそうなトマト。その瞬間、私の脳裏には、半分腐ったネズミの首がくっきりと見えたのだった。

そうね。たぶんなるんじゃないの。だから、うちのトマトは、きっと栄養たっぷりね。

そして、たしかに、なぜかその夏は、トマトがよく実ったのだった。

そんなわけで、それ以来、どうもネズミが苦手になったらしくって、それで、ハムスターも怖いのである。カゴに入っていれば「かわいいわね」と思うのだが、どうも娘たちが手のひらに乗せているのを見ると気持ち悪い。

「ママ、もうカゴに入れたで。もう大丈夫。ほら、こんなにかわいいのに。ママも見るだけじゃなくて、触ってみればいいのに」
「……そうね。でも、ママは、ネズミはキライなの」
「でも、ネズミにもいろいろあるよ。ハムスターはかわいいもん」
うんうん。わかってるわ。そりゃ、かわいいとは思うわよ。でも、触るのはイヤなの。
「ママも、そのうち、遊べるといいのにね」
うんうん。まあ、そのうちね。あなたたちがいない時に、こっそり試してみるわ。

ハムスターのカゴの前に、おかっぱ頭を寄せ合って、ニコニコとよく似た笑顔を浮かべている双子たち。

そして、ふと、もしかすると私が怖いのはネズミじゃなくて、この娘たちなのかもしれないなと思ったりしたのだった。

04/02/2006

爆笑!?  楽しい小説専攻科!

4月1日(土)
午後から小説講座の事務所。夕方から、第9期の授業(教室実習)と専攻科の講義。講師は、小森健太朗先生。

午前中、エル大阪へ教室代を支払ってから、国立国際美術館へちょっと寄り道。『プーシキン美術館展』が2日までなのだった。フランス印象派・モスクワ「プーシキン」経由で、「野田」の事務所へ。

入学相談2件、といっても、どちらの人も「ライティング講座」より「小説講座」に興味があるらしい。小説にしか興味のない人が「文章教室」に入っても仕方ないので、ムリに春入学する必要はないと伝えておく。どうしても小説講座に入学したい場合、ムリに「編入」するよりは、小説講座が開講する秋まで、いくつか原稿を書いたり、本を読んでおいたりしてくれていた方がいいかもしれない。とくに読書はやっといてほしいなあ。入学までどれだけ読んでいたかでかなり違うからね。初心者でも、読書量がある程度ある人なら、すぐ書けるようになるんだけど、あまり読んでなかった人は、書くのと読むのとで忙しく、1〜2年では追いつかない。だから入学前までにたっぷり読んでおいてほしいかな。また、同人誌やネットなどで作品を書いている人の中には、書いている量は多くても、極端に読書量が乏しいような人がたまにいるようだ。しかも、「かなりせまい範囲でひどくかたよっている」傾向がある。ただの読み手としてなら、少なかろうが、かたよっていようが、まあ、別にいいんだけど、作り手側になるつもりなら、極端な「偏食」は不利だもんなあ。

といっても、本離れが進む世間では、月に1〜2冊読むような人でも「本好き」というらしい。もちろん小説講座だと、それは「あんまり読まない人」か「ほとんど読まない人」である。もちろん社会人向けの講座なので、「今は仕事が忙しくてあまり読んでないけど、十代の頃は浴びるほど読んでいました」という人もいますが、やっぱり累積読書量は高い方がいいんだよね。
(ちなみに、講師の先生いわく「そもそも蔵書が2万冊もないような人を『読書家』とは言わない」んだそうです)

とにかく「実は、小説講座に入りたいんだけど、春から「文章」のクラスに入ってから秋に編入した方がいいのか、それとも秋まで待ってから入学した方がいいのか?」という質問をよく受ける。まあ、『ライティング講座』でも、それは「小説しか書きたくないのか、それとも他の文章にも興味があるのか」というのがポイントなだけである。どういうわけか、小説を書きたいという人は、「インタビューの練習などがイヤ」という人がけっこういるらしい。けど、今、小説の専攻科にいるような生徒さんに聞いても、「インタビューの練習が思い出に残っている」とか、「意外なところで、ちょっと役にたった」とか言う人も多いので、小説を書く場合でも、案外、役に立つみたいなんだけど。小説も、取材や情報収集を一切しないでも書けるような本数、ジャンルはかなり限られている。新聞記者の講師から「取材のコツ」を聞いておくのも、そのうち何かの役にたつと思うが。ただ、ま、両方のコースに行くとなると、その分、学費もかかるしなあ。

さて、本日の専攻科は、ミステリを含む中・長編3編。講師は、小森健太朗先生。一方、第9期のクラスは、教室実習。見学者2名。講義が終わってから、いつもの中華屋で、生徒さんたちと飲み会。

9期の生徒さんたちに、「高井先生のショートショート学外無料レッスン」の話をする。ちょっと迷っている人が多いようだったが、少なくとも、飲み会に来ていた4名は、お喜びで参加希望。たぶん実際には、やりたい人がもっとたくさんいるだろうけど、先生には「本当にショートショートをやりたい人だけ。できるだけ少人数で」と言われている。今日、欠席している人で参加希望もいるので、これでも多い方だよなあ。ショートショート作品を指導してもらえる絶好の機会なのだが、なにせ講師料は一切ナシで、全部、先生のご好意なのだし、生徒全員というわけにはいかない。講義前に近くの喫茶店で集まって、1時間ほど作品指導をいただけるそうなのだが、コーヒー代プラス諸費100円だけ。先生にはかなり申し訳ないような気がするのだけど、なにせ財政難の零細「小説講座」事務所なんで、この際、ご好意に甘えることにした。

以前は、各誌のショートショートコンテストで入選者が毎月のように出ていたこともあったのだが、最近、入選しているのは、ほとんど卒業生ばかり。ここ数年、在校生は、ショートショートに挑戦する人が少ない。でも、第9期は、意欲的な人が多いみたいだから、ぜひ、がんばってね。

さて、遠方からの通学者が多い9期生が帰った後、専攻科のテーブルへ。小森先生には、別件で少し相談があったのだが、後日あらためてお会いすることに。最後に残った専攻科の生徒さんたちで異様に盛り上がったのが、例のSクンの話。どうも私のブログを読んでいる人が多かったようで、「今日、どんな図版がもらえるのかな、と、むちゃくちゃ楽しみだったんですよね」などと言っている人もいたくらいなのだが、どうやら本人だけが読んでなかったらしい。おかげで、すっかりみんなの「酒の肴」にされてしまっていたらしい。「本日のアイドル」状態である。

「あらら、そりゃ、悪いことしちゃったわ」と、私は思ったのだが、「あ! でも彼、そういや3月提出分の作品も、いくつか問題があったんだわ。そうそう、あれもちゃんと本人に確かめとかないと」などと、また別のことを思い出したのだった。そりゃ、飲み会の席で確認するのはなんだけど、それ以外で時間をとるのが難しいんだもの。

で、「あのね、Sくん、今度の作品ね…」と話しだしたら、周囲が「またかよ〜今度は何やったんだオマエ〜」とゲラゲラ。なにせ飲み始めて2時間半経過。みんなすでにできあがっている。丁稚どんもやってきて、ちゃんと真面目に注意してあげているのだが、それを見て余計ゲラゲラと笑い出す。ほぼ全員酔っぱらいである。

けど、「ええ、そうですね。わかりました」と、ちゃんと座り直して、話を聞いているSクン。
で、私が「だから、それが悪いと言ってるんじゃないんだけど、ただね…」と真面目に注意をしていると、
「いいやッ! なーんかわからんけど、 とにかくオマエが悪いッ! ぜんぜんわからんけど、オマエが悪い〜!」 といちいち茶々をいれてくる酔っぱらいのYクン(ただの「笑い上戸」のオッサンである)
「もう、アンタは黙ってなさいってば〜。関係ないでしょ!」と笑う女性たち。
「ははは。けど、この調子じゃ、今日の分のブログ、また何書かれているか、楽しみやなあ〜」と、なんやかんやで調子に乗って、さらにイジメているのがKクン(はいはい、そこまで期待されるんなら、ちゃんと書いときますわよホレ)。

そりゃ、外野のウルサイところで、注意をする私も悪いんだけどねえ。

まあ、しかし。
なんだかんだで、これでもみんなSクンのことをかなり気づかっているのだった。がんばれSクン。期待してるんだぜえ。

あーあ、それにしても、なにかと手間のかかる生徒さんたち。
そのうちみんなプロになって、これも本当の「笑い話」になるといいんだけどなあ。ふう。

夜の銀橋から、桜をながめる

3月31日(金)
朝から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

夕方、講師の方と待ち合わせて、作品の受け渡しなど。そのあと、地下鉄の駅に向かおうとして、ふと「バス停」があったことを思い出した。ここからなら、地下鉄で帰るのも、バスに乗るのも同じくらいの時間なのだった。大阪駅前から出発している市バスで、国道1号線を東に走るので、「桜宮橋(通称:銀橋)」の上を通過する。いま、桜宮の桜は、どれくらい咲いているのだろう。ひさしぶりに「バス」で帰ることにする。

バスの中から見た桜は、せいぜい1分か2分咲きという感じ。大川沿いに並ぶ桜は、美しくライトアップされていて、遠くにはこれまたライトアップされた夜の大阪城が見える。大川沿いは、桜並木が続くので有名。さらに今後は、淀川から大阪港の方まで、川沿いをすっかり「日本一の桜並木」でつないでしまう「平成の通り抜け」という大プロジェクトがあるらしい。世界中で、こんなに桜の好きな国民は他にないだろうから、もしも「日本一」なら、まちがいなく「世界一」である。なんてバカげたプロジェクト。しかし、そこがなんだか大阪人らしくて、面白いじゃない。

しかし、桜の見ごろは、一年間でせいぜい十日ほどだから、見逃すとまた一年先である。銀橋の北側から、銀橋ごしに大阪城を見るのが、このあたりのベストショット。川の東側からカメラを向ければ、ラブホテル街が背後になるので、ばっちり大阪城もきれいに写るのだ。ちなみに、天神祭でも、このあたりから見える花火はたいへん美しいんだよね。

通称、銀橋と呼ばれる桜宮橋は、昭和初期に作られた美しいアーチ橋である。大川をまたぐ1号線にある橋で、西側には造幣局、泉布館がある。片側2車線、あわせて4車線の橋なのだが、現在、すぐ北側に、また新しい橋が建設されている真っ最中。「仮称、新桜宮橋」である。この新しい橋ができれば、2つの橋で3車線ずつになるらしい。

しかし、「銀橋」は、「大阪のシンボル」みたいな橋なので、その真横に作る新しい橋も、一体どんなデザインの橋を架ければいいのか、いろいろ議論があったらしい。結局、銀橋にあわせた形のアーチ橋に決まり、今は、橋の部分がほぼ全体的に完成して、すでに道路部分の工事に入っている。

新しい橋は、戦前に作られた銀橋に比べると、かなりほっそりとした優雅なデザインで、この橋を「桜宮方面から大阪城をのぞむベストショット」の場所から眺めると、古い銀橋が透けて見えるようにデザインされている。寄り添って並ぶ二つの橋は、まるで母子のようにも、男女のようにも見える。まだ、道路部分ができてないので、工事中のフェンスに囲まれているのだけど、完成したら、きっとなかなか面白い風景だろうなあ。何年も前だが、「銀橋の横に、新しい橋を作る計画がある」と聞いた時、私は、「銀橋の真横だから、きっと金橋だよね」と笑っていたのだが(それはそれで面白かった気もするけど)、銀橋を透けて見えるのを教えてもらって、なるほど、こういうデザインなのかと、うれしくなったのだった(たしか安藤忠雄氏です)。なにせ建築年代が何十年も違うわけで、その間、土木技術もえらく進歩しているのだが、こうやって古い建築物と新しい建築物が仲よく並んでいるのを見るのは、なかなか気持ちいいものである。古い建築物を壊したり、反対に、使わないでただ保存したりするのも、それはそれで「大阪らしくない」ような気がする。きっと、新しいものとどう調和させていくのが課題なんだろうな。(ちなみに、古い建築を壊すな、保存しろと言う人は多いが、維持していく費用まで出そうという人はあまりいないらしい。なげくだけなら誰でもできるもんなあ。かくいう私も何もできんが)

白い明かりに照らされて、ピンクの蕾をいっぱいにふくらませた無数の桜の木たち。真っ暗な夜の川面に、ゆらゆら並ぶ光の影を見ながら、「ああ、もうすぐ咲くなあ。一番いい季節だよなあ」と期待をふくらませた夜の銀橋。そりゃあ、桜の名所は日本各地にあるだろうが、それでも私は、毎年、このあたりの風景を見られるだけでも、一生ずっと大阪に住んでいるってのも悪くないな、と思ってしまうのだった。

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