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03/31/2006

プロ編集者さんたちは、本が好き好きパワーも全開

3月30日(木)
午後から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

夕方、ライティング講座の八木先生から電話。あわてた口調で、てっきり4月に予定していた講義の都合が悪くなったのかしら、とこちらもあわてたんだけど、そうではなかった。

「あの、私の出講日って、4月2日だったかしら?」
「あ、4月22日の予定なんですけど?」
「あーよかった! 2日じゃないわよね!」
「ええ」
「そうよね。だって、4月2日って、日曜だもんね。なんかおかしいなあと思ったの。でも、なんか急に不安になっちゃって!」
「あの、先生、22日の予定は……?」
「あ、それは、大丈夫よ。あーあ、安心しちゃった。2日って、もう予定あるし、すごーく不安になっちゃってえ。事務所じゃなくて、別の所に届いてたから、書類を確認するのも遅くなっちゃって、ごめんなさいね」
「えっ。あれ、事務所に送ったつもりだったんですが、住所間違えてましたか? すみません!」
「それは、いいの。でも、安心したわー。じゃあね!」

というわけで、ただ日付を間違っておられただけのようで、ご出講は問題ないらしい。ちょっとホッとする。八木先生は、編集プロダクションを主宰したり、ラジオやテレビ番組のブレーンや構成をやったり、フリーライターとして活躍されている女性で、かなりのベテランなのだが、どこか妙におちゃめなところがある方なのだった。

といっても、八木先生の事務所は、スタッフとして優秀なライターさんを数人かかえているし、経営者としても才能もあるんだろうけど、講師としてお会いする限り、とてもチャーミングな印象の人である。
ご本人いわく「ミーハーな性格」なのだそうで、新聞社からフリーライターになったはずだけど、最近もラジオドラマに挑戦したり、イベントをやったりと、身軽というか、ホントに好奇心が旺盛である。授業が終わってから、生徒さんたちとお茶を飲みに行ったりしても、なんだか、どこかきゃぴきゃぴした感じで話をしている人である。何にでも好奇心があるらしく、話題も豊富。ラジオ収録の見学にも、わりと気軽に連れて行ってくれたりするので、生徒さんたちの人気も高い。うちは、昨年度、文章教室を開講できなかったので、私自身も2年ぶりなのだが、講義がとても楽しみ。

とにかく八木先生の講義を受けた生徒さんたちは、「私もがんばろうっていう気になりました」という感想がけっこう多い。「なんだか元気になった気がします」という人もいる。そんな感じなので、先生には文章教室の初回の講義を頼むことが多い。今回も、ライティング講座は、4月15日は「入学説明会」だけなので、22日の第1回レクチャー講義は、八木先生の予定なのである。

小説講座の方は、ミステリだのホラーだのなんだかんだあっても、すべて小説なんだけど、文章教室では文章一般を広く扱うので、どうしても範囲が広くなる。私は、「幕の内講座」とか「懐石料理」などと説明しているのだが、毎週、新聞記者とか、ライターとか、編集者とか、各分野のプロがやってきて、インタビューをやってみたり、雑誌記事を書いたり、企画書を作ったりと、毎週違う講義を受ける。たった2時間ほどの講義なので、ちょっとした「お試し」なのだが、いろいろ受講できるのが特徴で、いろんなジャンルに挑戦したい初心者向けには適している。

実際、「編集者」と呼ばれているような職業の人でも、出版社によって、だいぶ仕事の内容が違う。雑誌関係が多い編集プロダクションと単行本を中心でやっているフリーの編集者では、仕事のスタイルがかなり違う。私自身、もともとコピーライターなので(フリーになってからは、たまに雑誌ライターのようなこともやっているが)他のライターの先生たちの話を聞くのはいつも楽しみだし、実際、業種が違っても、なにかしら自分の仕事の参考にもなるのだった。

とにかく初心者向けだし、「プロで通用するレベルまで実力をつけてもらわないといけない」という厳しさがないから、文章教室の先生たちはけっこう優しい。講師の方たちは、仕事的にもかなりベテランの人が多いが、私が一番うれしいと思っているのは、「元気をくれる」ような人ばかりだということ。

実際には、出版業界も、広告業界も、放送関係も、けっこう厳しい現状があるのだが、先生たちは、そんな中でも「自分の仕事が好き!」な人ばかりである。私は、いつも、こういう仕事で「成功する」ような人は、もともと仕事が好きなんだろうなと思う。

どんな仕事でも、「うまくいっているから」「成功したから」、それから好きになるものではなくて、たぶん「好きな仕事だから、一生懸命になる、だから成功する」もんなんだろう。関西で、こういう仕事をしていると、なかなか「一発あてて、大もうけする」なんてことはほとんどないし、けっこう厳しい時期もみんな経験しているのだろうけど、やっぱり好きな人だけが仕事を続けていられる。

ライティング講座の先生たちは、とにかく自分の仕事が好きな人ばかりで、そういう人たちの話を聞くと、こっちもいつの間にか、「がんばらなくちゃ」「私もやろう」という気になってしまう。

たとえば、フリー編集者の原章先生は、講義のたびに、いつもすごく嬉しそうに、本への「愛」を語ってくださるのだった。なにせご本人が、「ボクの『ノロケ話』を聞いてくれてありがとう」などとおっしゃるのだけど、ホントにいつもご自分の本作りを説明するたびに、少しポッと頬を染めながら、とてもうれしそうに話される(ちなみに、こういっちゃなんですが、けっこういい歳をしたオッサンです)

そんな姿を見ると、私は、いつも「本当に『本』というものがお好きなんだなあ」と感心してしまう。原先生は、すでに百冊以上の本作りをされている超ベテラン編集者なのだが、先生にとっては、本作りというのは、「愛しい恋人(執筆者)と一緒に、子供を作るようなもの」なのだそうで、まさに『愛の結晶』らしいのである。先生は、企画からずっと関わるスタイルの編集者で、ご自分が編集された「本」への愛情はものすごいのだった。まさに「我が子」である。

そういえば、以前、『別冊太陽 神楽』の編集をされた直後に、本作りのエピソードをお聞きしたら、「あの写真、よく撮れてたでしょう!」とか「本当はあれもあれも載せたかったんだけど」とか、本に載せられなかった膨大な知識を語られたのを聞いたことがあった。ちょっと驚いた。仕上がった本に載っているのは、実は、ほんの一部なのだった。うーん。好きな仕事だから、それほど情熱を注げるのだろうけど、ものすごいエネルギーだよねえ。いつもニコニコと穏やかな先生なのに、どこにそんなパワーがあるのかなあ。

こんなふうに、いつも先生たちから、「本が好き好きパワー」とか、「元気きゃぴきゃぴパワー」とかがいっぱいもらえるので、私も、新しい講座がはじまるのが、かなり楽しみなのだった。

03/30/2006

文章の書き方とおしゃれのコツ

3月29日(水)
朝から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

あいかわらず、コツコツ資料作りなど。年度末で事務関係も忙しいのだが、教材作りもけっこう時間がかかる。先日、第9期の授業で配布した「間違い探し」なんかも、一見くだらない実習教材なのだが、あれを作るのに何時間もかかっていたことがあるのよね。まあ、アホらしいけど。

ちなみに、これは、文章を読んで、日本語の間違いを探すというお遊びの実習なのだが、1000字くらいの文章に60カ所以上の間違いを入れたもの。カンタンなものもあるので、小学生でも20個くらいは見つけられるのだが、わざと難問も多く入れているので、辞書なしで全部正解できる人は、ほとんどいない。(プロの校正者なら全問可能だろうけど)

「おや? ここ、ちょっと違うかな」と思うようなものが多いのだが、「どこがどう間違っているのか」が思いつかないので、普通どうしても辞書がいる。

つまり、これは「やっぱり辞書を使わなくちゃね!」という「教訓」を体で覚えてもらうための教材なのだ。先週の授業では、時間がなくて、「宿題」にしてしまったけど、宿題にすると、やる人はやるし、やらない人はやらない。うちの小説講座の生徒さんは、いろいろなレベルの人がいるんだけど、「自分はできるつもり」の人ほど、初歩的なミスがかなり多いのだった。こういう人は、宿題にしても、やらないだろうなあ。後期課題さえ、ちゃんとしてくれるんだったら、まあ、いいけど。ふう。

最近は、パソコンで執筆する人が増えて、辞書を使わない人が増えている。ワープロを使えば、とりあえず変換はしてくれるので、手書きと違って、「漢字が思い出せない」ということがないせいかもしれない。生徒さんでも、辞書をまったく使ったことがない人もいるし、中には「そもそも辞書なんか持ってない」という人もいる。

で、よくあるのが、誤字脱字が多くて、ワープロの変換ミスかなあと思ってたら、「正解だと思い込んでいた」なんていう人である。こういう人は、よっぽど手取り足取り、添削しないと、なかなか直らない。しかし、まあ、初心者向けの<ライティング講座>ならともかく、とくに小説講座は、プロ作家養成なのだし、いまさら「国語」の勉強からやり直しというわけにはいかない。あまりヒドイとさすがに困るの。たしかに前期課題では、高井先生が「赤ペン」を入れてくれるのだけど、受験勉強の通信講座じゃあるまいし、「わーい! 『赤ペン』で真っ赤になって返ってきたぞ!」って、喜んでいたらホントはかなり困るわけである。

ただ、これまでの生徒さんを見ていると、「ちょっと迷ったら、辞書をひいてみる」という、ほんのちょっとしたクセがつくだけで、間違いなどはすぐに目立たなくなる。でも、一方で「辞書なんか持ってない」という人は、どんなに細かく添削されても、なかなか直らないのだ。

たぶん「いくら添削されても、いつまでたっても直らない」という人は、
「どうせ講師がチェックしてくれるだろう」とか
「講師がチェックしなかったから、これでもいいだろう」などと
ちょっとどこか依存する習慣になっているのかもしれない。だから、自分ではあまりチェックせず、適当なところで仕上げてしまうクセがついてしまうのかな。

でも、この「適当に仕上げる」クセがつくと、大量には書けるのだが、上達スピードは遅い、ということになりかねない。もちろん、何度も何度も添削すると、そのうち「それなり」にはなるが、あまり回数が多いと、「なんだか優等生的で面白みに欠ける」ようになってしまうことがある。

とにかく、辞書くらい自分でひくクセをつけないとなかなか難しい。というのは、それが言葉に対するセンスが磨かれるかになるわけで、辞書をもたない人は、その分だけ無神経でいられるからだろう。

例えてみたら、「鏡」を使わないで、化粧とかおしゃれをしようとするようなもんだ。そういや、以前、ファッション関係の仕事をしている人にインタビューをしたことがあるのだが、
「おしゃれになる秘訣」を聞いてみたら、
「一番いいのは、大きな鏡を用意すること」なんだそうだ。
それも小さい鏡じゃダメで、全身が映るような大きなものが必要なんだって。

そういう面では、文章も、おしゃれも、ちょっと似たところがある。

まず「鏡」をもって、自分自身をチェックする。それからできるだけ人に見てもらう。人に注目されたり、人前に立つ機会が多いほど、当然自分でもできるだけ気をつけるようになるから、その分だけ、人より早くうまくなる。ただ、自分自身を自分でチェックできない人は、いくら人前に出る機会を得ても、何がおかしいんだとか、いつまでたっても気がつかない。いくら他人から注意されても、自分自身でわかってなきゃ、また同じことを繰り返してしまうもんね。

ところで、うちの文章教室や小説講座には、「自由課題」と言って、作品集だけ作って配布するだけの課題がある。これは、指導課題ではないので、ただ配布するだけで、添削指導をしないのだが、なぜか文章がよくなっていく人がいる。細かい指導は一切ないのに、なぜか勝手にうまくなる。

これはなぜかというと、たぶん「他人に読まれるのだ」という緊張感があって、自分の作品を自分でチェックするようになるからである。人に見られるのをちゃんと意識してれば、辞書くらいは使うようになるし、誤字や脱字などもかなり減る。

おしゃれも、文章も、自分を冷静に「客観視」できるかどうか、というのがポイントなのかもしれないなあ。

さて、専攻科の作品も読まねばならんし、そんなこんなで忙しいけど、今日は、気晴らしに一人で「優雅なランチ」をとったので、ご機嫌である。

最近どうも知らず知らずストレスがたまっていたようで、肩こり、頭痛もひどかったのである。こういう時は、優雅なランチで、ぷちリラックス。ここの事務所は、駅から10分ほど離れているのだが、阪神電車「野田」、地下鉄千日前「野田阪神」「玉川」、JR東西線「海老江」、JR環状線の「野田」の5駅アクセス。そのうち、JR環状線の「野田」が一番近いのだが、この駅前に個室式の和食のお店がある。平日は、日替わりランチが980円。おしゃれな個室で、優雅にランチ。水曜、木曜だとレディースサービスもあり、和菓子がつく。料理もおいしいし、コーヒーつきで、980円ならお得ではないかと思いますね。まあ、土日は日替わりメニューはないのだが、千円ちょっとのメニュー。あいにく小説講座の教室は、天満橋なので、ご利用は難しいかと思いますが。文章教室の生徒さんなら、授業前に気の合う仲間でおしゃれなランチもいいかも。

私は、日頃はお弁当が多いので、たまの贅沢ですけどね。男性なら、飲み屋でちょっと一杯がストレス解消かもしれませんが、私の場合、一人で優雅なランチがストレス解消法。ちょっとおしゃれなレストランなどでも、ランチなら安いし。

というわけで、ストレスは、食べて寝て一発解消。

あれ、私って、ダイエット中なんだったっけ?

03/29/2006

小説志望には、ややこしい人もいて

3月28日(火)
午後から小説講座の事務所。

丁稚どんが来て、専攻科の作品印刷の続き。かなり量はあるけど、どのみち5月以降の実施予定だから、それほど急ぐものではない。急ぐのは、4月開始の「ライティング講座」の資料作りなど。なにせ第1期生なので、全部まるきり用意しなくてはいけない。まあ、今年はたぶん生徒数も少ないだろうから、いざ講義がはじまれば、案外ゆっくりできるかもしれない。生徒数が少ないと経営的には儲からないのだが、教える方も教えられる方もラクである。定員は25名だが、初心者ばかりなら、十数人くらいが一番いい人数。それくらいだと先生も、生徒さんたちの顔を覚えられる。生徒自身もお得。

資料請求はけっこうあるが、小説講座<エンターテインメントノベル講座>への問い合せがほとんどで、文章教室の方は少ない。これは、毎年のことなので慣れているんだけど、ちょっと気の毒な気もする。なにせ小説講座の生徒募集は、秋しかないから。今からだと、半年以上先の話になる。ま、小説講座の生徒さんは、「何年も前から入ろうとは思っていたんですけど……」と、なぜか入学を決心するまでに何年もかかる人が多いから、どのみち入学するとしても、何年後だかわかんないけど。

ま、実際、文章教室の方も、今のところ、申込者のほとんどが「小説に興味がある人」みたいで、もしかしたら、「卒業してから『編入制度』を利用するつもりなのかな」という感じの人が多い。うちの「小説講座」には、毎年(多いときは過半数くらい)、「文章教室」からの編入生がけっこういる。今の第9期生は、春に文章教室を開講しなかったクラスなので、たまたま一人も編入生がいないのだが、たいていは半分から3分の1は、編入生である。というのも、小説講座は、ずっと秋しか開講して来なかったからで、半年間、春開講の文章教室を受講してから、編入で秋の開講を待つ人もけっこういるのだ。今の専攻科でも、たぶん半数から3分の1くらいがそうである。文章教室だと、小説以外のルポや取材、編集の方法なども教えているので、「とにかく小説しか書きたくない」と決めている人なら面倒だし、わざわざ編入する必要なんかないけど、小説講座では、文章そのものの基礎などはほとんどやらないから、編入生の方がラクな部分もある。

といっても、編入制度も、なにせまだその詳細が決まってないので、なんとも言えない。たいてい3〜4万くらいの割引があるので、それはあると思うけど。文章教室の学費は安いので、編入を利用すると、相対的にかなりお安くなる。それもあって、一種のお試しコースみたいに受講される人が多い。しかし、そういう人の中で、最初は「小説を書くつもり」で「文章教室」に入学して来ても、「私が本当に書きたいものは、実は、小説じゃなくて、エッセイだったのね」という人もいる。「小説を書きたいけど、書いたことがない」という場合、フィクションとノンフィクションの違いがわからなかったりする。こういう人は、早めに気がついたおかげで、わざわざ小説講座に入学せずに済んだわけだから、やっぱりお得である。(文章教室は半年間、小説講座は一年間なので、学費もその分高い)

たまに「フィクションとノンフィクションの違いがわからない、なんてことがあるの?」という疑問をもつ人がけっこういるけど、これは実際にいる。というか、たぶん本当はかなり難しい問題なんだろう。先日、専攻科に提出された課題でも、また同じようなことを考えてしまった。場合によっては、かなり高度な問題も含んでいたりする。

小説講座に入学してくる生徒さんの中には、「ノンフィクションとして書くべきなんじゃないかな」と思うような題材を「小説」として書いてしまうという人がいる。自分が体験した事件だとか経験を、なぜだか「小説」にしてしまう人がいて「もったいないなあ」と思うことがある。実体験なのだったら、「ノンフィクションとして書けばいいのに」と私は思うのだが、なぜだか、小説として書いてしまう。実際の事件を元に小説を書くのはいいのだが、小説は「ウソの世界」ってのが前提である。どんな事件でも書こうと思えば書ける。小説なら、どんな凶悪犯罪に巻き込まれても、さほどめずらしくもない。虚構という前提でうまく書くのは、また別の技術である。

もちろん私小説みたいなものもあるけど、あれはあれで、事実をそのまんま全部書いているわけではなくて、事実をもとに「小説化」して昇華した形で書いている。いくら事実に近くても、まるきりただの事実とは言えない。

どうも「フィクションとノンフィクションの違いがわからない」というより、「とにかく小説じゃないとダメ」という人がいるよな気がして、時々ちょっと考えてしまう。もしかすると、一般には、こう思われているのかもしれないと思うことがある。つまり「モノ書き」と呼ばれる職業には、目に見えぬ階級のようなものがあって、その中では「作家」が一番エライと思われているのだ(ちなみに、作家の中では、文学者と呼ばれるような人が一番エライ。娯楽小説家なんてのは、たぶん身分が低い)だから、もしかして「ノンフィクションだと書きにくい」んじゃなくて、ただ「カッコ悪いからイヤ」なんじゃないのかなあ。

そういや、フリーライターやコピーライターの中にも、なぜだか新聞記者とか、作家にコンプレックスを感じているタイプがいる(そういう人は、たぶんどこかで「挫折」して新聞記者や作家になるのをあきらめたんじゃないかな。ライター稼業は、もしかするとデモシカなのだな。デモシカだと、ライターとしても、たぶん一流、二流になるのは厳しいだろうけど)

そういう人には、共通点があって、なぜだか「ホントは作家になりたかった」と言うわりに、短編をほんの数編書いたきりだったりする。こういう人は、私が文章講座とか小説講座の運営などをしていると聞くと、「文章の書き方なんか、教えてもらう人の気が知れないな」なんてことを言う(たぶん何かコンプレックスがあるんだろうけど)。私はそういう話を聞くたびに「ほんなら、さっさと書いたらどう?」といつも思う。問合せの電話でも、たまにヘンな電話があると、たいていは「実は、何もまだ書いてない」らしい人。そういう人ほど、なぜだか妙にエラそうなのよね。

秋になると、うちでは「ショートショート大賞」という小さなコンテストをやっていて、これで昨年までは副賞に「特待生制度」というのをあったのだが、まるで「当然、私の作品が受賞するに決まっている」みたいな人がしばしば問い合せしてきて、これがあんまりエラそうなので、この副賞はやめてしまうことにした。いや、こういう人は「どうも実際には書かないらしい」し、たとえ書いても、かなり短時間でさっさと書いたような、いいかげんな作品が多いから、どうせ大賞をとる心配も「特待生」で入ってくる心配はないとは思う。

でも、うちの生徒さんは、講座に入ろうかどうしようか悩んだ末に、学費を払っても、やっぱり勉強してみようという「特別な心がけ」のある人たちなんである。今は、同人誌やホームページで、誰でもカンタンに作品が発表できるので、「あわよくば作家」という人も増えているのだろう。けど、私は、うちの生徒さんたちが、そういういいかげんな人たちに軽く見られるのが、なんだかちょっとイヤなのよね。「特待生制度」自体は、いい制度だと思っていたんだけど、ヘンな問い合せが続いたので、ちょっとイヤになってしまった。

私は、小説って、なにもプロ志望じゃなくても、いくらでも書いていいと思う。特別な人しか書いちゃダメなもんじゃないと思っている。ホント誰でも書いていいと思うのよね。そりゃ、めずらしいと思われるかもしれない。カラオケで歌を歌ったり、草野球をやったりしても、誰も「プロになるつもり」とは言わないけど、小説を書くのが「趣味」でも、たぶん信じてもらえない。でも、誰でも書くだけなら書けちゃうもんなのだ。だいたい「ただ書くだけ」なら、草野球より練習が要らないくらいである。だからこそ「ただ書けた」からと言って、それでプロ作家を軽く見たり、プロをめざして一生懸命な人をすぐに馬鹿にしちゃったりする人は、あんまり信用できないんだわ。

さて、夜、自宅にもどると、息子が「ママ、こっち来て、見て見て」と言う。昨日、夫のおさがりのパソコン(eMac)をもらった息子は、すぐに簡易のビデオ編集ソフト(iMovie)を気に入って、いきなり父親のビデオを借りて、妹たちと「映画製作」をしたらしい。

「おおおとこだぞ〜」(意味なくテロップ)「うわあああ。にげろー」(妹たちの演技力ゼロ)「ドスンドスン」(ソフトに入ってる効果音)
1分もないような映像作品である。
「これ、作ったの?」
「うん」
「これ、このあと、どうなるの?」
「これで終わりやねん。けど、な、おもろいやろ」

おもしろい? うーん、ううう、くだらない。力が抜ける。くだらないぞお。絶対くだらない。でも、いいぞ、ガキども。くだらないけど面白い。作った本人が嬉しそうに跳ねているから、面白いのである。

ああ、大人も、これくらい単純だったらいいのにな。
将来はどうとか、才能がどうとか、書く前にやたら余計なことばかり考えないで、最初は、ただ作るのを楽しんでくれればいいのになあ。マウスをクリックして、何度も再生してゲラゲラ笑っている子供たちを前に、つい、いろいろ考えてしまう母なのだった。

休日だけど、仕事なのだ(夜の大阪には地霊がいっぱい)

3月27日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

……のはずだけど、今日は出勤。年度末、ちょいと、くたばりそうなくらい忙しい。

あまり忙しいと書くと「お手伝いしましょうか」と心配してくださる人もいるのだけど、経理処理だとか、申請書類だとか、教材作成だとかで、手伝ってもらいたくても、結局、自分でやるしかないものが多いのだ。ご親切のお気持ちだけ、有り難くちょうだいしますです。

で、朝からコツコツ、地味な事務作業。夕方、近くの市立中央図書館(地下鉄「西長堀」より徒歩30秒)に来られていた講師の先生から電話があり、駅前で待ち合わせて、しばらく雑談。終わってから、また事務所に戻ろうかと思っていたのだが、大阪NPOプラザは、毎週月曜はなぜか6時で閉館。駅前まで自転車で来たのだが、閉館時刻を過ぎたので、そのまま自宅まで乗って帰ることにする。どのみち地下鉄で帰るのも、自転車で帰るのも、同じくらいの時間なのだ。

毎週、土曜日は、自転車出勤なのだが、それ以外の曜日は、地下鉄。しかし、夕暮れの大阪の町を自転車で走るのはけっこう好き。いつ見ても、夜の町は美しい。私は、自転車だといつも「土佐堀通り」を、淀屋橋、北浜、天満橋、京橋へ走る。この道を通るたびに、大阪ってホント美しい町だなあといつも思うのだが、私が「大阪は美しい」というと「そうか?」と驚かれることも多い。ずっと大阪に住んでいる人でさえ、似たようなことをいうのだから、よほど面白みのない町だと思われているのだろうなあ。まあ、いいけど。

ただ、確かに、この「美しい」というのは、わかりにくいんだろうなとは思う。どんな観光地や都市でも、「ここから、こういう角度で見れば、きれい」という「ベストな風景」があるのだが、大阪では、「美しい風景」などは雑誌などであまり掲載されていない。観光案内でも、大阪と言えば、キタやミナミの繁華街や通天閣、大阪城に海遊館の写真だったりするのである。

実際、私も、友人に「今度、大阪に遊びに行くけど、どこに行けばいい?」と聞かれると、つい似たような場所を教えてしまう。けど、これは「旅行者」が「大阪らしい」ところを求めているので、仕方ない。だから教えてしまうわけで、別に「そこがいい」と思っているわけではないのである。大阪はけっこう広いので、わかりにくいし、それ以外を説明するのが面倒なのもあるけど。まあ、そんなことをするよりは、グリコの看板や食いだおれ人形を見せて、「ああ、大阪らしい」と思わせる方がずっとラク。あとは「タカラヅカ」と「文楽」と「なんばグランド」に連れていけばいい。

だいたい京都みたいに、比較的せまい範囲でわかりやすい史跡がコンパクトに並んでいるわけでもないし、奈良みたいに古いものが残っているわけでもなく(京都は、後の時代に建て直したものばかりだが、奈良はマジで古い)どうせ大阪は、そういう観光には向かない町なのである。

大阪が大都市で、しかも古いモノをぶっつぶすのが好きな土地柄だからかもしれない(ぶっつぶすのが好きというか、活動的な町なので、なかなか残せない)。

実際には、大阪にも史跡は山ほどある。けど、かなり地味である。だいたい古代から中世、近世、近代と、ずっと途切れることがなく歴史が続く土地柄なので、もしそれらが全部残っていれば、よほどすごいことになっていたろう。けど、幸い、千年、二千年とずっとぶっつぶしてきたらしい。いや、あまり残ってないくらいで、ちょうどいいのである。なにせ有史以来、ずっと栄え続けてきた町なのだからしょうがないのである。ちなみに「大阪人」は、今でも新しいモノ好きである。ま、手軽に歴史ロマンを感じたいような観光客は、京都や奈良におまかせした方がラクだし、やっぱり「過去」より「現在」の好きな町である。

けど、じゃあ、大阪にはそんなに史跡が残ってないのか、と言われると、実は困ったことに、これが意外とけっこうあちこちにあるのである。子供連れでちょっとでかけるたびに、めちゃくちゃいっぱいあるので、私なんか、いつも困っている。しかし、幸い、大阪近郊の史跡というのは、なぜだかさほど目立たないものが多い。「もしかすると、大阪の人は、歴史がある町だと知られるのがなんだか恥ずかしいのではないか」と思ってしまうくらい、看板などはたいてい地味である。地方なんかに行くと、さほどでもない史跡に、びっくりするくらいドハデな看板が立ててあるのを発見することがあるが、気のせいか、大阪だと、歴史上ではかなり重要な史跡でも、めちゃくちゃ地味だったりして、反対の意味で驚く。こういうところが「大阪らしい」のかも。

で、地味なおかげで、私も、いちいち子供たちに説明しなくても済んでいたのだが、最近、12歳の長男が、めざとく史跡の看板を読んで、「この……って、誰?」などと聞いてくる。この質問に、日本史が得意じゃない私は、閉口する。どっかにハイキングに行くたびに、ややこしい説明をしなくてはいけないのだ。ええい、面倒くさいぞ。

だいたい大阪近郊の山なんて、旧街道やら城跡やら、重層的な歴史がびっちりしみ込んでいるところばかりである。古墳も、あっちこっちにゴロゴロある。この冬も、箕面にハイキングに行き、勝尾寺まで歩いたのだが、勝尾寺だけでも「清和天皇」だの「源頼朝」だの「秀吉」だの、いちいち数百年分を説明しなくてはいけないんである。飯盛山に行っても、「楠公って誰?」「河内源氏って何?」とややこしい。ハイキング道には、やたらと史跡やら看板をたてたりしないでもらいたい。少しは、子供連れの親の身にもなってほしいものだ。

しかも、せめてどこかに時代が集中していればいいのだが、古代国家を説明したかと思えば、同じ場所で、戦国時代、近世など、すぐに数百年も変わる。子供たちには、さぞわかりにくいだろうが、親の私だってわからなくなってんだから仕方ない。いきなり「河内源氏」の家系図がさっと頭に浮かぶほど、日本史に詳しくないのである。夫も、「オレ、世界史と倫社しか、共通一次で選択してないから」と知らん顔だしなあ。

さて、事務所から自転車で帰る場合、近くの最寄り駅、JR「野田」から出発である。野田城跡の前を通り抜け(これはなぜか2カ所ある。詳細は、かんべむさし先生のホームページのコーナーで読めますよん)、中央卸売市場からライトアップされた近代的な「国立国際美術館」の前を通り抜け、中央公会堂のある中之島公園、淀屋橋から少し南へ下がって、「適塾」の前を通り、さらにエル大阪近くへ(この先の「熊野街道の起点」と書いてあるのが、いつも飲み会をやっている中華屋のある場所である)。

さらに東へ、大阪城を横目に、京橋の高架下をくぐりぬけ(戦時中の銃弾跡あり)、旧街道を横切り、1号線近くの信号で、南行きの「杭全(くまた)」行きのバスを見送って、さらに東へ東へと、ひたすら生駒の山に向かって自転車を走らせ、こうして1時間ほどで自宅に帰りつく。

ところで、京橋発の学研都市線は、「鴫野」(しぎの)の次は、放出(はなてん)、徳庵(とくあん)、鴻池新田(こうのいけしんでん)と、なぜか「ん」のつく駅が三連チャン。そういや、「徳庵」の近くには、「中茶屋」(なかんちゃや)という地名があるが、これは江戸時代に「野崎参り」に行く人たちのための茶屋があったためらしい。

最近、小説講座の生徒さんは、なぜだか、時代小説やら歴史小説を書く人がちょっと増えている。うちの生徒さんは、東京や名古屋からの生徒さんをのぞけば、滋賀、京都、奈良、兵庫、和歌山からの通学生なので、近畿圏内の生徒さんには、歴史が身近に感じられて、書きやすいのかもしれないな。教室のあるエル大阪も、あれでなかなか面白い「場所」だったりするから、なにか「地霊」なんかがささやくのかもしんないけどね。

03/27/2006

小説とは関係のない休日(すっかり春)

3月26日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

天気がいいので、近くの緑地へお弁当を持って行く。梅には遅く、桜には早い、微妙な季節。早咲きの桜がちらほら。あんずの花が少しだけ残っており、かすかな香りをあわてて嗅ぐ。

というわけで、いつも植えられた花木に注目するのだが、今日は、雑草を愛でることにする。都会に造成された緑地だから、帰化植物が多いのだが。まだ肌寒い季節なので、シロツメグサはまだ小さめで、花はついていない。オオバコなどもまだ小さくて、タンポポもちらほら。ちなみに、大阪は全国的にクソ寒い冬だった今年でも、積雪は市内じゃせいぜい1回ほど。それも1センチもないくらい。真冬でさえタンポポは平気でちらほら咲いてるのである。

ここにあるのは、もちろんほとんどがセイヨウタンポポ。私の子供の頃は、白いタンポポ(正式名は知らないが、白いタンポポ。西日本に多いらしい)もたまにあったのだが、ここ20〜30年ほど見たことがないなあ。まだ、本格的な春ではないので、今がチャンスとばかりに小さな花を一生懸命に咲かせているのが、ナズナとホトケノザ(春の七草の方じゃなくて、紫色の花が咲くヤツ。春の七草の「ホトケノザ」は別の花のことらしい。ややこしいぞ)。雑草ならちょっとくらい引き抜いてもかまわないだろうと、20種類くらいを植物採集してみる。本格的な春になると、やれ桜だ、やれバラだとなんだか気ぜわしい気分なのだが、今は花が少ないので、のんびりしたもんである。

イヌノフグリという、私のような「乙女」には(誰が誰が)とても発音することができないような恥ずかしい名前の花もたくさんあったが(花はとっても可憐なの)、これは確か、今は絶滅危惧種だったような気がするから、きっとたぶん似たような帰化植物なんだろうな。こんな都会の緑地でも、雑草の種類はけっこう多いから、よくわからない。もともと雑草がかなり好きな方なのだが、いつまでたっても名前が覚えられない。ハルジュオンとヒメジュオンも、どっちがどっちだったか何度聞いても忘れちゃう。なにかいい図鑑がないかな。

ところで、聞いた話では、関西で「春」と言えば、「お水とり」から「通り抜け」なんだそうだ。「お水とり」は奈良なのだが、「通り抜け」は、大阪である。「造幣局」の中の桜並木を一般開放するのが「通り抜け」なのだが、ここの桜はほとんど八重だから、一番遅いのである。造幣局は、桜宮の近くにあり、ここの川沿いには数百本の桜並木がある。造幣局の「通り抜け」は、明治時代からやっているそうだが、桜宮は、江戸時代の頃から花見の名所だそうである。

つまり大阪では、「上方落語」みたいな花見を何百年もずっとやってきたわけで(いや、日本書紀の頃からあったかもしれないけど)なんだ。みんな、昔から、桜が好きなんだねえ。

まだ小さめの葉しかないクローバーの上で、赤いナナホシテントウがのんびりと日向ぼっこをしているのをつかまえた。じっと座っていると寒いので、上着なしでは弁当が食べられないのだが、もうすっかり春である。

本を読んだことがありますか

3月25日(土)
朝から小説講座の事務所。いろいろ事務作業。
夕方からは、第9期の講義。本日は、後期ガイダンス&実習。

昼から丁稚どんが来てくれて(本日は、美少年同伴)、専攻科の作品印刷。
夕方、第9期の講義は、おもに「修了課題」の作品提出や指導方法の説明など。
前期課題で、あまりに初歩的なミスが多かったので、それだけはやめてほしいと懇願。実際、提出作品の半数以上に何かしら問題があったのだ。作者名が未記載だったり、ノンブルなし、読みにくい印字など、誤字脱字。まあ、初めての作品提出だったりするから仕方ないかもしれないのだが、修了課題では、そういうレベルは講師指導の前にクリアしてほしい。あまり日本語のレベルで注意されてしまうと、作品の内容についての指導が受けられない。気をつけてね。

こういったミスは、ほとんどの場合、締切ギリギリまでやっているのが原因ではないかと私は思っている。よく生徒さんなど「プロ作家の人と生徒さんとでは、どこが違うと思いますか?」と聞かれるのだが、同じように締切ギリギリでも、プロの人と生徒さんでは意味がかなり違う。まあ、なぜか生徒さんは、作品にかける手間を惜しむ。なぜだか生徒さんは、「思いつきで書いた」だとか「いきおいで書いた」とか「推敲する時間が全然なかった」とか、そういうことを平気でおっしゃるのである。と言われても、課題が発表になってから、締切まで1〜3ヶ月くらいあるので、たかが20枚以内の前期課題なのに「時間がなかった」というのは、どう考えても、やっぱかなりヘンだと思う。けど、どういうわけか、プロじゃないシロウトの人ほど、作品に時間をかけてくれないんだよねえ。なぜだか、手間を惜しむんである。いや、もちろん手間を惜しんでいるわけではなくて、手間をどうかけていいのか、ただわからないだけかもしれないけど。

というわけで、あれこれ注意をしてたら、なぜか1時間の予定が1時間半もかかってしまった。おかげで実習をする時間がなく、あわてて15分ほど延長して、実習をする。

さて、前期の講義などのアンケートを集めたのだが、あいかわらずちょっと面白い。うちの小説講座は、講師が十数人いるのだけど、「印象に残った講義」をあげてもらうと、どういうわけか、必ずきれいにバラついた結果になる。誰か一人に集中するとか、誰も支持しないという講義がなくて、きれいにまんべんなくバラついた結果になるのである。いろんな講師がいるのだが、生徒の方もいろんな人がいる。そのせいで、いつもきれいにバラバラになるのだった。

ここの講座は、社会人向けの講座なので、現在でも、19歳の大学生から、60代の定年後の人まで、年齢層も幅広い。まあ、20代後半から30代前半という年齢が一番多いのだが、40代も50代もいる。志望するジャンルもバラバラで、ミステリを書きたい人、時代小説を書きたい人、恋愛もの、SF、ファンタジーとバラバラなのである。職業もバラバラで、人生観もいろいろ。男女比も、なぜかほぼ半分くらいだというのも、ちょっと面白い。講師の年齢もバラバラだし、だからアンケートをとっても、きれいにバラつく。

ちなみに、アンケートをとるのは、講師の人気投票のためではなくて(だから集計もしたことがない)、生徒の理解度をみるためだ。生徒さんの作品を見ても、その作品の中で失敗している部分はわかるのだが、根本的にその人の何が問題なのか、ちょっとわからないことがあるのだった。もちろん何本も作品を読めば、その人の傾向はわかるんだけど、アンケートや他の人の作品批評などを聞いていて、急にわかることがあるのだった。

しかし、アンケートの内容も、やっぱりバラバラである。けど、最近、この多様性こそが、うちの講座の長所ではないかと思うことがある。入学資格不問なのだが、これはいいことだな。私自身は、どんな人でも入学してくれるなら受け入れたいものだなあ。

ただし、一つだけ、こういう人だけは入学しないでね、というタイプがいるんだよね。
それは、本を読むのも、文章も見るのも、ものすごくキライな人である。

「え、そんな人が、そもそも文章教室や小説講座に入るわけがないやろ」
と思われるかもしれないけど、それは甘い。実際には、電話での問い合せなどでは、けっこういる。どういう人かというと、「本を読むのも、小説なんか書くのもキライ。でも、作家になりたい!」という人で、私も、なんでそんな人が作家になりたいのかわからなくて、最初の頃は、かなりとまどったりしたのだが、どうも、世間ではそれほど珍しい人種でもないらしい。肝心の「なぜ作家になりたい」のか、本人が言わないことが多いから、わからないんだけど、どうも「作家になって、世間を見返したい」とか「作家になって、人生をやり直したい」という理由があるみたい。

「もしもし、あの、私、プロ作家になりたいんですが、なれそうですか?」
「あの、そう言われても、何しろそちら様がどんな方か、まったくわかりませんので、なんとも」
「なれそうか、なれないのか知りたいんです。なれそうなら入学します」
「あの、とにかく作品くらい見せていただれば、かなり努力がいるか、すぐになれそうかは少しくらい判断つくかもしれませんが、ただ、基本的には入学された方しか、作品指導はしておりませんので……」(こう言っておかないと、いきなり長編の作品を送りつけて来るような人がいないとも限らない)
「えー、やっぱり書かないとダメですか」
「え? そりゃ、作家だから、小説は書かないとダメなんじゃないでしょうか」
「でも、私って、文章とか書くの、苦手なんですよね」
「まあ、初心者の方は、最初のうちは大変でも、そのうち面白くなるみたいですよ。とくに読書経験がけっこうある人は、意外と上達は早いみたいですし」
「ああ、私、本も、あまり読んだことがなくて」
「そりゃ、社会人の方は、仕事が忙しくて、最近あまり読めないっていう生徒さんも多いですけどね」
「だって、本って、面倒くさいでしょ」
「……あの、もしかして、本とか、お嫌いなんですか?」
「でも、小説とか書いたら、映画とかになるでしょ」
「……そりゃ、まあ、そういう作品もあるでしょうけど」
「私、そういうの、やりたいんですよね」
「……あの、けど、そういう場合は、むしろ、映画シナリオとかを書かれた方がいいんじゃないでしょうか」
「でも、いきなり映画のシナリオ書くって、大変でしょ」
「まあ、小説と違って、それほど何本も作りませんので、それなりに大変かもしれませんけど、しかし、小説も全部、映画になるわけではありませんし、映画がお好きなんでしたら、シナリオライターをめざされた方がいいと思いますよ。シナリオの学校もありますから」
「シナリオ? でも、やっぱり作家がいいんだけど」
「でも、もし作家になってしまったら、それこそ仕事で一日中原稿を書かないといけないわけですから、文章を書くのがキライなんでしたら、むしろ大変じゃないでしょうか」
「じゃ、もういいです」

……なんてことは、起こりかねないのだった。ふう。くわばらくわばら。

いくら初心者で入学までに書いたことがなくても、本を読むのが好きな人は、それなりにすぐに上達するのでいいんだだが、いくら作家志望でもこういう人はダメ。少なくとも、一度でも本を「面白いなあ」と思って読んだ経験くらいないと、そもそも何が面白いかわからんのだから、書けないでしょう。ライティング講座なら、もちろん新聞や雑誌だけでもいいんだけど、とにかく「もともと文章なんか読むのもキライで、もちろん書くのもキライ」という人を指導してくれと言われても、そりゃそんなものどうしようもない。えらい大変である。

で、うちの生徒さんは、そういう人だけはいないので、それだけはとっても嬉しいことなのだった。

文章教室の申込書もちらほらと

3月24日(金)
昼から小説講座の事務所。

今日も一通、文章教室<ライティング講座>の申込書が届く。締切は、4月上旬だから、まだ早い方だ。申込書には、住所や氏名などの他に「興味のあることを書いてください」という欄があるのだが、ほんの数行しかないので、どんな生徒さんかは、あまりよくわからない。氏名を一覧表に書き写したりしながら、「いい人だったらいいな」と思ったりする。

私は、他の専門学校では、非常勤講師などをしているけど、うちの講座は、小説講座でも、文章教室でも、現役プロ作家やライター、編集者に「先生」をお願いしているので、私自身はただの事務担当である。が、ただの事務でも、実際には、十数人の先生に週代わりで交代でやってもらう形式なので、開講してから卒業までつきっきりで担当するのは私だけ。文章教室の方は、初心者ばかりのはずなので、実習をやったり、赤ペンを入れたり、私もけっこう忙しい。その分、一人一人に手をかけていきたいと思っているので、どんな人が入学するか気になるのである。

小説講座の方は、一応、プロ作家養成というコンセプトなので、ちょっとレベルが高いことになっている。実際、「ずっと独学で書いてきて、コンテストにも応募し続けてきたけど、せいぜい2次選考どまりで伸び悩んでいる」なんて人が多いから、まるきりの「初心者」の割合は少ない。それでも毎年、3分の1くらいは初心者なので(9期は、めずらしく半分くらいいる)、一応、基礎の基礎くらいは説明するけれども、いきなり小説の話ばかりをして、「日本語のレベル」などのレベルでチェックする機会などはほとんどない。

それでも、前期課題の時には、まだまともな作品になってない人が多いから、高井先生が「赤ペン先生」をしてくれる。が、修了課題の時に「赤ペン」を入れる先生は、ほとんどいない。先生たちも、日本語のレベルをいちいちチェックするよりは、内容をみてコメントしてあげたいと思うらしく、書き方のレベルは、「自力でなんとかしてくれ」という感じである。だいたい、さすがに修了課題の頃にこれを必要とする人なら、プロになるには相当な年月がかかる。もし本当にプロ志望なのなら、なにがなんでも半年くらいで早くコツをつかんでもらわないと困るわけで、基本的な日本語の書き方は、さっさと自分でマスターしてもらわないといけない。

というわけで、小説講座の方は、まるきり初心者の人には、やや不親切なので、「講義についていくのに精一杯」とか、「専攻科に進学してから、ようやく講師があの時、言っていた意味がわかってきた気がする。昨年の講義は、もっと真剣に聞いとけばよかった」とか言われる。週1回だと思ってのんびりしていると、たいして何も進歩しないうちに、あっという間に卒業である。

小説講座では、そういうわけで初心者の人はけっこう大変らしいのだが、どういうわけか、こうして一年たつと、すっかり逆転して、初心者の人がいい作品を書くようになるのはなぜかなあ。入学時に「自分は書ける」と思っていたような人(つまり、まるきりの初心者ではない人)の方が、なんだか上達が遅い気がするんだけどな。ものすごく悪いクセがついていると、なかなか抜けないというのもあるだろうけど。

さて、文章教室の申込書を見ると、今のところ、どうも「小説」に興味がある人が多いらしい。
(こっちのコースを修了した人には、小説講座への編入の時に割引があるし、もともと半年しかない講座なので、学費も安い。うまく利用するとかなりの低料金なのである。講義も20回以上あるし、こちらでも作品指導もあるので、いきなり小説講座に入るよりは、かなりオトクである。ちなみに、小説講座からでも、こっちに希望する人がいれば割引にあるが、こっちの方が初心者クラスなので、そういう人はかなり少ない。でもたまにいる)

とにかく文章教室の方は、カリキュラムに余裕もあるし、毎年ちょっとノンビリした雰囲気なので、どんな生徒さんが入学してくれるのか、かなり楽しみである。お茶を飲んだり、ランチをしたり、楽しいクラスになるといいなあ。

子供のいる家の風景、ハムスター

3月23日(木)
午後から小説講座の事務所。

今週から、家に帰って、玄関を入るとまた新しいカゴが2個増えて、小さなハムスターが3匹いる。息子の卒業式の日に、子供たちが買って来たのだった。

まあ、小さな子供がいる家ならどこも同じようなものだろうが、うちの玄関にも「小動物」がいつも数匹いる。まだこれでも「虫」がいないだけマシである。夏になれば、子供たちがとってきた虫が何匹も飼われるので、玄関中が飼育ケースだらけになる。なにせ、夏のあいだ中、セミやらスズムシやらコオロギが玄関まわりでうるさく鳴いている。さすがに、カマキリの卵などはあきらめてもらっているので、冬はしずかである。

しかし、どうも3月上旬の気温の変動で、カメが寝起きに失敗したらしい。カメは冬眠起きに失敗するということがあるので、「小さいうちはまだ冬眠させない方がいいよ」と言われていたのだが、なにせうちの飼育場と化した玄関は、「熱帯魚」のヒーターで電気容量がいっぱい。カメにヒーターをつけることができないのだった。、ま、昨年はなんとか冬眠できたのだが、2度目の冬で、ようやく春みたいな陽気が来たところで、急に厳しい冷え込みにやられたらしい。冬中、冬眠していた場所からちょっと移動したところで、死んでしまった。まだ1歳半なのに、ご臨終である。うまく飼えば、数十年も生きるらしいのに、不憫なことだなあ。

さて、これも小さな子供がいる家庭ならどこでも同じなんだろうが、累々と増えていく死体の山をどうするかという問題がある。子供は、いちいち「お墓」を作るものなのである。グッピーも何匹死んだかわからないが、どんな小さいものでも、いちいちお墓は必要なのだった。

しかし、考えてみれば、魚なんぞ、私ら、毎日のようにグッピーなんかよりも、もっとずっと大きな死体をバラバラにして、ぐちゃぐちゃに食べちゃったりしているわけで、だしをとった煮干しよりも小さいグッピーなんか、ポイとゴミ箱にほおりこめばいいのだが、やっぱり子供ってのは、「お墓」がいるのである。なんにせよ、名前をつけたんである。名前をつけたものには、墓がいるのだ。

といっても、うちにはほとんど庭らしい庭がないので、しかたないので、私が「墓鉢」と呼んでいる。「お墓用プランター」に埋めることになっている。死んだものはすべてここに埋められるので、すでにグッピーやら金魚、数十匹、セミや蝶々、オタマジャクシ、トカゲなどが大量に埋められている。子供たちがいうのには、どこかで死んだコウモリやネコの子まで拾ってきて「お墓をつくってあげたり」しているらしい。「大人の猫はやめてね」と頼んでいるのだが、本当は「ほ乳類」は止めて欲しい。虫に魚、両生類、ハチュウ類の死体なら、なんとか平気だけど、ほ乳類はイヤだなあ。

とにかく、半分腐ったグッピーが出て来ないと限らないし、妙なものが出てくると気持ち悪いので、私はこのプランターには絶対に近寄らないのだが、このまえ、庭でままごとをしている娘たちを見ていたら、ままごと遊びの土が足りなくなったらしく、ヒョイとこの「墓鉢」から土を拝借していた。慣れた手つきだったので、どうもいつもこういうことをしているらしい。ということは、死んだペットたちは、死んだ後も土になって、子供たちのままごと道具の「おまんま」になったりしてくれているのである。ははは。なるほど生命というのは、死んだ後もムダがないのだな。

しかし、ハムスターというのは、1〜2年しか寿命がなく、ヘタするとカエルより短命なのだ(カエルはうまく飼えば3〜4年生きるらしい)。なんだか、イヤな予感がするなあ。

03/23/2006

娯楽小説に「図版」は何枚までつけていいのか

3月22日(水)
午前中、小説講座の事務所。午後から外出。

午後からは、非常勤講師をやっている専門学校の講師会議。なんだかんだで、13時半から19時過ぎまでびっちり会議。でも、いろいろ勉強になったのだった。

ところで、実は、みんな知らないことだが、先週の土曜日、小説講座の授業のウラでは、専攻科のSくんが、またちょっとトボけた言動をしていたのだった。Sクンというのは、あのSクンである。

何があったかというと、その日、授業中、私は近くのコンビニに資料をコピーしに行ったのである。この資料は、当日、草上先生が持参されたもので、作品指導のコメントを一覧表にしてまとめたものである。先生に「授業が終わってから配布してね」と言われたので、授業が始まるのを見届けてから、教室を抜け出してコピーしに行ったのだ。教室のあるエル大阪にはコピー室がないが、道路をはさんでコンビニがあり、ここのコピー機をよく使っている。

で、コンビニに行くと、専攻科のSくんが何やらコピーをしている。「おや? 何やってんだろう。もう講義が始まってんだけどな」と思ったら、Sくんが振り返り、「ああ、ちょうどよかった。これ、コピーして、みんなに配布しておいてくださいね」と何かを手渡して来た。

「なに、これ?」
「ボクの作品の資料ですよ。作品の舞台となる地図とかなんですよ。作品を提出する時につけてなかったんで、今日持ってきたんです。はい、これ、みんなにコピーして、次回、配ってくださいね」
「えっ、作品の? もう、とっくに締切を過ぎてるじゃない。もう、困るなあ。作品の追加とか、差し替えなんかがあるんだったら、提出時に連絡もらわないと困るのよ。もう印刷終わってるかもしれないんだから」
「いや、追加で配ってくれればいんですよ」
「作品とは別で? わざわざ追加でいいの?」
「そうです。配ってくださいよ。頼みますよ」
「それに、これ、何枚あるの?」
「7枚です」
「えーっ、なんで、7枚もあるの?」
「A4版で、7枚です。図版がけっこうあるんで」
「え、なんでそんなにあるの? そんなの、縮小しても、一枚におさまらないやん」
「あ、それ、絶対に、縮小しないでくださいよ」
「ええっっ、縮小したらダメなの?」
「地図だから、字が細かくなって、読みにくくなるじゃないですか。一枚ごとにいくつか地図入ってるんですよ。これ以上縮小したら、字が見えなくなっちゃうもん」
「そんな、全部、原寸でコピーしないとダメなの?」
「ええ、お願いしますよ」
「えー、でも、そんな何枚も、地図とか、年表とか、系図とか、小説を読みながらそんなにいっぱい誰も見ないよ」
「とにかく縮小しないでくださいよ」
「えー、誰も読まないような地図をわざわざコピーするの、やだよ。しかも縮小しないなんて、無理ムリだよう。だいたい専攻科の作品集って、B4用紙だもの、B5版にはなるよ」(B5版の2段組で製本されている)
「A4版じゃ、ダメなんですか」
「うん。こっちで印刷すると、原寸にしようと思っても、B5にはなるで」
「じゃあ、しょうがないから、B5でいいです」
「でも、7枚ってのはなあ。まあ、先週、締切だったから、提出されたばかりなんで、私、みんなの作品まだ全部読んでないんだよね。だから、作品読んでから、私が『その地図、必要だ』と判断したら、それならコピーして配るってのは、どう?」
「あれ〜、もしかして何か勘違いしてませんか?」
「へ?」
「これ、このあいだの作品じゃなくて、前に出したヤツの資料ですよ」
「え!? え? 前の? ってことは、1月締切の?」
「ええ。ほら、4月に青木先生に指導してもらう予定の」
「えっ、あっちの作品!? 3月締切の分じゃなくて?」

そういや、Sくんの前の作品というのは、もともと2月に予定していたのだが、講師の都合で、急に4月に指導が延期になったのだ。

「えーっ、でも、あれなら2月に配ったんだし、もうとっくにみんな読み終わっているわよ〜。なんで今さら?」
「でも、たぶんわかりにくいだろうから、この地図を配布してほしいんです」
「そりゃあ、1枚や2枚くらいならしてあげなくもないけどさ。なんで7枚もあるの? しかも、なんで原寸じゃないとダメなの?」
「だから、ほら、この1枚にいっぱい図が入ってるんですよ。ね。だから、してくださいよ。頼みますよ」
「うーん。でも、いくらなんでも、やっぱり7枚は多いよ。小説にそんなにたくさん図版つけるのって、ヘンなんじゃない? そりゃ、自分でコピーして勝手に配ってくれるんならいいけど」
「いや、ボクがコピーしたら、2、3千円かかっちゃうでしょ。事務所の印刷なら安いはずでしょ」
「安いってったって、まるきりタダじゃないんだよ。それにあの機械(リソグラフ)、丁合いができないし、製版に時間がかかるから、手間がけっこうかかるのよ。ってことは、バイトの人件費がかかるのよ。金はともかく、手間がかかるわよ」
「えー、そんなあ。そんなこと言わないで、配ってくださいよ」

結局、仕方がないので、預かったのだが、その日、自宅に戻ってから、よくよく見てみたのだが、いくらなんでも、これはやっぱり多すぎる。というか、なんか、かなりヘンである。

やはりSくん。昨年から「もしかすると、かなりトボけた性格では?」と思っていたのだが、やはりそうだったんじゃないか。本人は、まったく自覚がないようだが、たぶん、そうだな。

ちなみに、専攻科の資料は、最近、ほとんど丁稚どんがやっている。なにせ専攻科の作品数が多いのだが、丁稚どんは週1〜2回しか来ないから、それだけで手いっぱいなのである。実際、専攻科の作品印刷は、火曜日の4時間だけに限られているのだ。実際、400枚くらいの長編ならたった一本の印刷だけで2〜3時間かかる。専攻科は、とにかく学費が安いので、予算も限られている。いや、経費はともかく、スタッフも少なく、時間がないので、不必要なことはやりたくない。

もちろん専攻科の生徒さんたちには、「いい作品を書いてくれるなら、どんなことでもしてあげる」と言ってある。必要ならば、どんな手間をかけるのもやぶさかではない。けど、どうもヘンである。この地図とか系図とかは、本人が作ったもんじゃなくて、どっかの本の資料をコピーしたものらしい。歴史モンの作品だから、資料ぐらいいくらでも手元にあったんだろうが、これはいくらなんでも安易。そりゃ、地図1〜2枚とか、合戦の配置とかなら、読者もあれば便利なので、「そりゃ、あった方がいいな」と思うけど、これは、小さな地図まで入れると、地図だけで10個以上、系図が3個、それにチャート図とか年表とか。歴史の参考書か、解説書じゃあるまいし。

うーん。小説じゃなくて、歴史解説でもやるつもりか?

いや、たしかに歴史モンの小説の中には、「歴史シミュレーション小説」というジャンルもあったりする。どんな小説でも「好き嫌いなくおいしく食べる」のがモットーの私だが、さすがにバリバリの歴史シミュレーションだけはまったく判断がつかない。太平洋戦争モノなんかも、ちょっとダメ。私の周囲には「ミリタリ〜大好き」な人がけっこうたくさんいるので、きっと人気があるんだろうな、とは思うけど、どの戦車も見分けがつかない私には、そういう面白さはほとんどわからない。小説なので、たいてい人間ドラマの部分もあるからいいけど、そこしか、面白さがわからないのよね。

でも、でも、でも! ほら、1月提出された作品でしょ。あれって、どう見ても、そういう作品じゃないよねえ。いわゆる幕末モノだけど、そんなに図表のいる小説だったっけ? なにせ2月に配ったので、たぶん専攻科はかなりの人がすでに読んでいるんじゃないかと思うけど、うーん、そんな話だったっけ?

そりゃあ、図版も、ついてれば嬉しいこともある。本格ミステリなんかで、「館の見取図」とか、「時刻表」なんかついてると、それだけで「やた!」と喜んでしまったりすることは私だってある。ファンタジーでも「地図」がついていたりするとなんだか嬉しかったり。けど、それは、こういうことじゃないかな。ミステリで、見取図がついてると嬉しいのは、そこに「密室トリック」とか、なにか面白いアイデアがあるのが「保証」されるからである。時刻表だってそうだ。しかし、実際、ものすごく面白い小説を読んでいる時なんかは、一時でさえ、字面から目を離すのもイヤなくらいなので、読み終わるまで一度も見ないってことも多い。ふと目が疲れた時にとか、真相の直前くらいに、ちょっと見るくらいはするけど、よほどのことがない限り、あんまり地図なんか、しげしげ見ないよね。

……っと、ここまで考えて、ちょっと恐ろしいことに気がついた。たぶん彼は、自分の小説を信じてないんだろう。だから、史実の部分に頼りたい気がおきたのかもしれない。いや、もしかすると、もしかして、もしそうだとすればエライことだが、彼は、小説の力というものを根本的に信じてないのかもしれないぞ。そういや、思いあたる言動もなくはない。

まあ、実際、歴史モノとか時代モノとかを書く人のなかには、資料に足をすくわれるという現象がけっこうある。ファンタジーの人の中に「設定」だけに夢中になってお話をまったく考えない人がいるみたいに、歴史モノとか時代モノを書く人の中には、資料の面白さに夢中になって、ミイラとりがミイラになるというか、すっかり目的と手段がひっくり返ってしまった人とか、そうでなくても、誰でも多少そういうところにハマってしまう傾向はある。かなりヒドイ人の場合、いわゆる「調べもの小説」とか、私は、「お披露目小説」などと呼んでいるのだが、自分が調べた歴史上の事件とか史実などをとにかく全部書かないと気が済まないらしく、延々と書いてくる人がいる(うちの生徒ではほとんどいないけど、地方の小さな賞の下読みなどすると、年配の人が書いた作品で、小説というよりは、地方史みたいなものがけっこうある)

ちなみに、私が今までに目にした中で、一番「こりゃ、すげえ」とびっくりしたのは、実は、小説ではなくて、シナリオの通信生の作品で、これはシナリオなのに千枚ほどの超大作。時代モノなのだが、延々とある地方の歴史が書かれたもの。シナリオというのは、プロだとだいたい400字づめ原稿で、およそ1枚で約1分くらいの計算がなりたつ(とは言っても、むろんシロウトが書くモンだから、この計算があてはまる保証はないが)ってことは、それだけで1000分、十数時間の超大作である。

まあ、年末年始には、時代劇ドラマの大作なんてものもあるので、それでも内容さえ面白ければ、長さは別にいいと言えばいいのだが、やはり典型的な「調べもの小説」。ストーリーの筋らしきものは、まったくない。一応、見た目はシナリオ形式なのだが、どうみても小説としか言えない書き方で(早い話が、「ト書き」に小説の「地の文」みたいな抽象表現が多いのである)どうにも「よく調べたから、ホメてね」と言わんばかりの作品だった。シナリオの通信コースの課題作品だったので、数センチもある作品の束を抱えながら、シナリオライターの先生が苦笑して、
「いや、この分厚さ、3回目なんだけどね。どうも内容がまったくないわけじゃなくて、部分的にはいいところもあるんだけどね。いくらなんでもシナリオにしては長いよね。小説でも書いたらどうですかって指導したんだけど、やっぱ、ぜんぜん効き目ないみたいだね」
と言っていた。いや、業界を少しでも知っていれば、時代モノというだけで大変なのは知っていると思うが、でも、それ、小説でもダメですってば。

フィクションという前提である小説とノンフィクションとは、やや書き方が違う。いや、書き方自体はそんなに違わないのかもしれない。いわゆる伝記小説(伝奇ではなくて、伝記)とか、歴史小説と呼ばれるものの中には、「ほとんど境界線上かな」というような作品もあるし、こういうのは、文体だとか、構成の問題では区別できない。実際、「調べもの小説」もうまく書ければ、まるっきり悪いわけではないのだが、実は、一番マズイのは、何が面白いのか、読者にわからないってことである。早い話、「そもそも歴史をなぜ小説形式で書くのか」というのを考えてないと、読んでいる人が「何が面白いのか」がわかんなくなる。

ノンフィクションなら、その時代に生きた人物とか、事件とか、それ自体の面白さがあって、それが面白い。けど、小説だとするのなら、少しは「空想力」の翼をバタバタしたい。もし資料の重さが重くて飛べないなら、そんな資料なんかなくてもいい。だって、読み手は「空想」の部分が美味しいわけだもの。けど、歴史なんか、見てきた人なんか誰もいない。資料がいくらあったって、それはむしろ空想の糧になるんだし、想像の余地なんか、いくらでもあるはずなのだ。

思うに、小説には、小説の面白さがあるはずだ。歴史小説は、歴史解説書ではない。「史実を知りたい」そのためだけに読んでいるわけではないはずだ。

さて、専攻科で、しかも星組(Aクラス)は、プロ養成のクラスである。ってことは、基本的には、ここで提出される長編は、コンテスト応募や商業出版を予定している、という前提の作品である。実際に、出版するとなると考えたら、どんな図版でも、結局は、すべてデザイナーなどによって新しく作ってもらわなくてはいけない。地図や年表などにも著作権があり、どのみち他の本からそのままコピーするわけにはいかないからだ。出典を明らかにすれば、そのまま使えなくもないけど、出版社はたぶん地図なんかはオリジナルを作ったりするはずである。

というわけで、今後は、専攻科で、提出される図版は、長編一作に一枚限りにするように。あるいは自分で作った地図あるいは修正した地図なら(自分でトレースするか、コピーして書き直して内容を整理するべし)、いくらでも提出してもいいが、とにかく図版ひとつにつき、必ずアイデアをひとつ。新しい歴史解釈でもいいし、新鮮なトリックでもいいし、なんでもいいから、図版をつけるなら、その代わりにそれだけの「面白さ」を必ず一つ保証してもらいたい。それならば、図版をいくらつけてもいい。それなら、ミステリなら当然「トリック満載状態」になるはずだから、いくらでもいいのである。

小説として、その面白さのための図版なら、いくらでも添付してもいい。でも、もし、小説の面白さに自信がなくて、それを補おうとして、史実とか、資料に頼ろうとするなら、それはやめてちょーだい。いくら面白い史実があったとしても、興味深い人物がいたとしても、ただそれだけなら、わざわざ小説で読む必要なんかないもの。

いや、それよりも空想力で跳ぶのが怖ければ、それは他人に見せるもんではない。怖くても、自分の書いた小説を自分で信じなきゃ、誰が信じてくれるんだろう。作者さえ信じない世界観を読まされる身にもなってもらいたいもんである(専攻科のみんながそうだ)。

Sくんは、もともと書ける人だけに、なんだかそこが、ちょっとショックだったりする。しかし、とにかく今頃になって、図版を提出してくるなんて、やっぱり、彼が「トボけた性格」なのだけは確かだな。トホホ。

03/22/2006

小説の「人称」で迷う生徒さん

3月21日(火)
小説講座の事務所は、日曜、月曜、祝日お休みです。

9期生からメールあり。「『人称』って何ですか。ちょっとわからなくなったんですが」という問い合わせ。毎年、同じような質問を誰かに受けているので、こっちは慣れっこになっているのだが、なぜか今年も同じような質問がくる。質問をするような人は、間違ってたことに「ちゃんと気がついた人」なので、かなり進歩なのだろうと思う。中には、たぶんあいかわらず誤解をしたまま、自分では気がつかない人もいるだろうから。

「人称って何?」ってのは、世間の人は意識しないものだけど、小説講座では、基本中の基本である。ただあんまり基本なので、さほど説明するわけではない。うちの講座では、まったく初心者も混じっているので、一応、実習やガイダンスの時にそれなりに説明はするのだが、どのみち、一度作品を書いてみないとわからないモンなので、じっくり説明してもしょうがないのである。しかも、うちの講座では、「小説の書き方」とか「文章読本」をすでにたくさん読んでいて、入学時に「そんなことわかっているわよ」というような人もかなり多いので、あまり詳しく説明しても、どのみち聞いてくれないのである。

でも、作品指導を受けると「わかってるはずだ」と思っている人が、どうも「実はわかってなかった!」と気がつくらしくて、毎年、半年くらいたってから、似たような質問をする人は多い。

さて、この質問なのだが、これはたぶん「『人称』がわからない」のではなくて、たいていは「視点」と「人称」の問題をごちゃまぜにしているせいで、混乱しているだけである。それは、たぶん簡単な「誤解」が原因だと思う。一言で言うと、「三人称なら、視点を統一せず書けるからラク」という思い込みがどこかにあったからで、たぶん、本当にわからないのは「人称」ではなく「視点」なのである。

小説をまったく書かない人には、なんのこっちゃわからないかもしれないので、説明しておくと、小説には、「一人称文体」と「三人称文体」というのがある。「一人称文体」ってのは、つまり英語だと「I」で、私、オレ、ボクなど「主語」が「一人称」、つまり語り手が主語の文体のこと。二人称の小説はほとんどない。ごくまれにあるにはあるのだが、なにせ「YOU/君」が主語なので、これはおそろしくめずらしい。で、多いのが「三人称」で、これは、彼とか、彼女とか、あるいは真弓とか、洋とか、ナポレオンとか、ハム太郎などの名前などが「主語」になっている文体である。

で、人称の問題だが、これは、ただの「文体」である。基本的には形式のことなんで、誰でも見ればわかる。よほど主語がコロコロ入れ代わるような文章(小説はもちろん、普通の文章ではまずありえないけど)でなければ、見ればすぐわかるので、誰だって判断はつく。まあ、印象もだいぶ違う。もちろん小説を書くとなると、「さて、どっちで書こうかな」と「迷う」ことくらいはあるだろうが、そもそも混同したりするもんではない。主語の違いだから、教えられれば、きっと小学生でもわかる。わかりやすい。だから、これが「わからない」というのはちょっと考えられない。

ただ、「視点」の問題は、ちょっとややこしい。小説講座の生徒さんたちでも、「視点」って何かちょっとわからない人はけっこういる。しかも、「どうしてもよくわからないんです」という人に説明してあげるのがちょっと難しいという問題でもある。こういうのは、口で説明してもよくわからない。まったくの初心者なら、まだ素直なので書いた作品を添削されると、すぐにわかってくれることもあるが、自己流で長く書いていた人ほど、なかなかわかってくれないことがある。こういう場合は、やっぱり一番手っ取り早いのは、一度「一人称」で書いてみてもらうのがいい。というか、それ以外の方法を知らないんだけど。
(けど、何度も言っているのだが、なぜだかこういう人は「三人称文体」にこだわりがあって、絶対に「一人称」で書いてみようとしないんだが。不思議)

どうしてこういう現象が起きるかというと、これは想像なんだけど、たぶん「三人称文体なら、視点を変えてもいい」という『誤解』が本人のどこかにあるからである。いや、実際には本人は「視点の統一」という言葉も知っているのだが、たぶん「視点がなにか」を理解してはいないので、そういう思い込みをしてることに気がつかない。

さて、シロウトの作品を読むとよくわかるのだが、視点がフラフラしているというのは、実際、すごく読みにくい。たまに「いくらなんでも、ふらつきすぎじゃ〜」と叫びたくなるような生徒作品があって、こういうのを我慢して読むと、目の前がクラクラしてきて、そのうち頭が痛くなる。そういうのは、くどいほど説明している場合が多いから、その書いてある「状況」がまるきりわからないからではない。視点というのは、カメラだから、それをぐるぐる回されると、まじで目が回るんである。いやいや、笑い事じゃなくて、こういうの読むのはけっこう大変なんだぜえ。

もちろん、まれに「一人称」で書いても、ふらつく人もいる。ただ、こういう人はきわめてまれで、普通は「一人称」で書けば、視点がコロコロ変わるのはかなり防げる。なにせ主語が「私は」と書くわけだから、あまり妙なことは書けない。これで、たいていの人は、三人称よりは何百分の一かになるので、随分ましになる。そりゃ、それでも他に文章に問題がある場合も多いが、少なくとも視点だけは、かなり気にならなくなる。

だから、初心者は、とにかく一度「一人称」で書いてみるのがオススメなのだが、なぜか「一人称は、絶対にイヤ」という人がたまにいたりする。こういう人は、たいてい「自分は書ける」と思い込んでいる人なので、ホントまるきりの初心者ではなかったりする。うちの生徒さんでも、こういう人は何度か書いてコンテストなどにも応募したことがある人である。まったくの初心者なら、一人称の方が書きやすいから、イヤだとは言わないのである。

で、つい「純文学系ならラクなのになあ」とつぶやいたりしちゃう(もちろん冗談だ)。純文学系の小説を志望する生徒さんは、なぜか一人称が多いんである(うちの講座は、エンターテインメントノベルなので少ないのだが、それでも1割くらいはいる)。三人称の文体でも、主人公などにかなり自分を投影している場合が多いので、視点がふらつく傾向が少ない。

ちなみに、前も言ったけど、うちの講座の場合、とくに「ファンタジー」とか「時代小説(世話物というよりは、戦記物)」はなぜか要注意の傾向がある(もちろん全員ではなくて、ほんの一部の人ですよ)。かなりの確率で、視点は統一せず、しかも「ぜったいに一人称はイヤ」なのである。

これはどういうことかというと、たぶん「三人称なら、視点を切り替えてもいいから書きやすい」という『誤解』があるせいである。でも、こういう場合、本人は「視点は統一したつもり」なので、ちょっと、やっかいである。どうも「視点」が何かが、わかんないらしい。

どうやら「なるほど、小説というのは、視点を統一すればいいのだな。ボクは、視点人物がこの人物のつもりだから、じゃあ、この人のことさえ書いていればいいだろう」だと思っているだけなのである。どうも、ただ主人公の周囲のことを描いてさえいれば、「よしよし、視点は統一したぞ」と考えているらしい。

けど、実際には、視点というのは「カメラ位置」のことなので、主人公のことだけ書いていればいいと言う問題ではない。こういう人の書いた作品は、あっちこっち妙に視点がとぶので、たとえば会話しているシーンでも、誰がしゃべっているのか、読み手が判断するのに苦労する。が、こういう誤解はなぜかやっかいで、即効薬というのはあまりない。初心者ならまだいいのだが、ずっと公募に落ち続けていた人で、すでにちょっと悪いクセがついているような人だと、残念ながらちょっとやっかいである。かなり思い込みが強いと、講師のアドバイスも耳に入らないことさえある。人によっては、作品を批評してもらっただけなのに、たまに「人格を否定された」と錯覚することさえある。作家志望の人は、だいたいプライドが高いものだし、ショックを受けたり反発したりしても、それくらい全然かまわないのだが、あまり思い込みが強いと、自己発見もできない。成長がないなら、学費はもったいないよな。

で、今のところ一番いいのは、やっぱり一度は「一人称」で書いてみることである。で、どうしても「三人称」にしたければ、「主語のところだけ、あとで変更する」というやり方をすれば、カンタンに「三人称」になるのである。「私は」と書いたところを、「美佐子は」に変えれば済む。一人称だろうが、三人称だろうが、主語が変わっても、視点が統一されていれば、書き方にはさほどの違いがないので、一度そのことが実感としてわかるといいんだけどな。

(もちろん同じ「一人称」でも、地の文で内的描写をするかどうかなど、作者によって、微妙に視点の位置のとり方にかなり違いはあるのだが、こういうのはもともとの体質にもよるのか、これが無意識にコロコロ変わる人は少ない。プロなら意識的に書きわけているので、作品によって使い分けることもあるけど、さすがに初心者で最初からそれができる人はほぼいない)

でも、第9期の生徒さんたちは、まだまだこれからである。たくさん書いて、これから色んなことを発見していく。どうせ小説講座なんてのは、すべてのことを教えてくれるわけではない。とくにうちの小説講座は、一人の講師が手取り足とり教えるスタイルではないので、どうも「おりゃ〜、泳いでこ〜い」と、沖合いから「ドッボーン!!」と海にほおり込まれるみたいな感じがする初心者もいるらしいが、結局、もし運よくプロになったら、死ぬまで勉強しなくてはいけない不幸な職業。ひとつずつ自力で発見していってもらうくらいは、しょうがないのである。

03/21/2006

小説とは関係のない休日(天気よく、アホ少年たちも卒業式)

3月20日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜、祝日お休みです。

本日は、息子の卒業式で、小学校へ。あいかわらず、うちの長男は、チビでアホである。「こんなにアホなのに、もう卒業か? これで中学に行っても大丈夫なのか?」と内心では不安に思っていたのだが、こうして並んでいるたくさんの6年生たちを見ると、どうも男子と女子の成長差が激しいようで、私には、なんだか男子はみんな「アホの餓鬼」に見えるな。一方、女子はみんな身長も高く、すごく大人っぽく見える。とても同じ歳とは思えん。

ちなみに、ここの卒業式では、一人一人、名前を呼ばれると大きな声で、「ぼくは、…が好きなので、将来……になります」などと、将来の抱負を叫んでから、校長先生に卒業証書をもらう。一人ずつ「サッカーが好きなので、 サッカー選手になって、ワールドカップで活躍します」とか「化学者になってノーベル賞をとります」とか言うのだ。で、うちの息子は、「マンガを読むのが好きだから、マンガ家になります」んだそうだ。まあ、アレは、読むのだけじゃなくて、たぶん書くのが好きじゃないとなれないと思うが、ま、がんばってくれ。うまくいきゃ、小説家や絵描きやダンサーよりは、マンガ家の方がたぶん儲かるだろうし。

さて、やはり見た目だけではなく、少年たちは、やっぱりアホだった。だいたい卒業式の日は、9時に集合なのに、8時前から学校へ集まっていたらしい。いつもは遅刻気味のくせに、遠足と運動会だけは、ものすごく早く集まる。卒業式の朝も、意味もなく、ワクワクして、じっとしていられないのだ。くすんくすんと泣く少女たちの横で、少年はみな、嬉しくてたまらないらしく、卒業証書を入れた黒い筒でチャンバラしながら、やたらぴょんぴょんと飛び跳ねて、ゲラゲラ笑って、はしゃいでいた。やっぱアホや。

まあ、この小学校は、百数十人もいる卒業生のうち、私立に進学する生徒はたったの2名。ほぼ全員が同じ公立中学に進学するという、都会にしてはえらくノンビリした学校なのだった。とにかく中学受験にはまったく縁のない土地柄で、ストレスとも縁がなさそうな見事なはしゃぎぶりを見せる少年たち。このご時世に、なぜか登校拒否やイジメなどのウワサもほとんど聞かなかったノドカな小学校で、うちの息子も、毎日、「給食争奪戦」に一番エネルギーを使っていた。ああ、これだけ見事なアホ少年をしっかり量産したということは、たぶんきっと「いい学校」だったんだろうなあ。

昨日の天気がうそみたいに、きれいに晴れた青空の下。やたらうれしそうに笑いころげてる少年たちを、私は、心から祝福したのだった。

小説とは関係のない休日(恐怖の体組成体重計)

3月19日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

気温が下がって、みぞれが降る寒い一日。このクソ寒いのに、小6の長男は父親といっしょに四天王寺へ。残された双子の娘たちは、イトコたちの子守り。(私の妹の子供たち。双子の男の子なんである)。で、私は、めずらしく、一人でのんびり、図書館で調べものなど。

そして、夕方。一人きりの自宅で、先日、夫が買ってきた「体組成体重計」に乗って、ぎゃあああという悲鳴をあげる。コンテンポラリーダンスなどもやっている夫は、当然ながら、身体作りには余念がないのだが、私は、すっかり無法地帯でした。反省しました。はい、ほんと。ぐえ。で、今日から、一週間ノルマは、週0.5キロ減量です。


03/19/2006

前期の課題指導と小説専攻科

3月18日(土)
朝から小説講座の事務所。夕方は、第9期と専攻科の授業あり。
第9期のクラスは、前期課題・作品指導。講師は、高井信先生と草上仁先生。
専攻科のクラスは、長編2編で、講師は、堺三保先生。

前期課題の作品指導は、本科では前期のハイライトともいえるような講義。うちの講座では、入学して半年、前期はレクチャー講義が中心なので、今日がはじめての作品指導なのだった。短編またはショートショート作品。今年も、草上先生と高井先生の「対談」形式で、作品指導していただく。

前期課題は、二十本以上。短いとは言っても、あわせると本一冊分くらいの原稿枚数になる。今年も高井先生は、一人一人の作品に「赤ペン」でチェック。人によっては、真っ赤っか。これはたいへんな手間がかかることで、誠に恐縮。かかった時間を思うと、ホントホント有難うございます。

で、やっぱり高井先生に「こんなに多いと、読むだけで十数時間以上かかっちゃうよ」と笑われてしまう。さすがに今回は枚数も多いので、2回の講義に分けようかと思ったのだが、スケジュールの調整ができなかったんである。前期課題の作品は、小説としての内容以前に、正直、日本語に問題がある作品もあったりする。せっかく講師指導なので、そういうレベルで指導されるよりは、指導日までに、文章表現などについては、なるべく注意してあげようとは思ってはいるんだが、頭でわかっているつもりでも、実際にできない人がほとんどで、事前にいくら注意しても、提出作品はやっぱりできてないのだった。

ま、小説ってのは、「頭では、わかっているつもり」という人がすごく多いもんだし、「実際に書くと、実は、ちゃんと書けない」ってことに気づくのに、なぜか、ちょっと時間がかかるもんらしい(いや、実際に一度書けばわかるはずだがな)

草上先生も、今年も、作品ごとにコメントを整理して、一覧表を作られている。きめ細かく生徒作品を読み込まれて、一人一人の作品に対して、二人で対談しながら、色々とフォローしたりして、わかりやすく説明してくれる。

しかし、なにしろ、はじめての作品指導。毎年、生徒さんたちは、この日をかなりドキドキして待っている。今年も、かなり真剣な雰囲気。あいにく2名欠席だったのだが、なにせ20数本もあるので、講義時間も30分ほど延長。それでも、一人一人は5分くらいしか扱われないのだが、「ものすごく緊張したので、自分の順番より前の作品指導は、まったくうわの空でしたよ」という人もいたりする。

だから、前期課題の作品指導は、毎回とっても面白いのだが、本日は、教室をベテランの先生方にすっかりまかせて、私は、専攻科の教室へ。この日は、どうしても専攻科のクラスへ出なくてはいけないのだった。

専攻科の講師は、堺三保先生。長編2編の作品指導である。堺先生は、「夏以降はたぶん大阪にはいないと思う」ということで、残念ながら、もしかすると、この日が最初で最後の作品指導なのかもしれないのだった。この日は、NくんとHさんの作品。

堺三保先生は、小説やアニメのシナリオも書かれているのだけど、書評家さんとしても有名。個人的には、そのクリアで、すっぱりスパスパッっという、切り口さわやかなところに期待大。

そう言えば、うちの講座は、講師が十数人もいるけど、ほとんど全員プロ作家さんで、編集者なのは、青心社社長の青木先生だけ。考えてみれば、「書評家」という講師は、誰もいないのだった。(あ、小森先生は、作家で翻訳家で書評もされてるが)

書評家と言えば、なんとなく「書き手の気持ちもわかるけど、あえて、わかってあげたりしないもんね」という感じじゃないかと思うし、堺先生はとくに下読み選考の経験も多い。だから、専攻科の生徒さんの作品も、「すっぱりスパスパ!」と切ってくれるのでは、と期待したのだった。で、「スパスパっ」の期待で、指導用の作品も厳選したのだった。うちの生徒さんでも、本科だと、まったくの初心者とか、たまたま性格的にかなりウエットな人もいる。「厳しく言われるとちょっと耐えられないわ」という人もいるかもしれないが、今日の作者は大丈夫なタイプ。先生にも「ぴしぴし言ってやってください。ぜひぜひっ!」とお願いしてみる。

さて、NくんとHさん。作品レベルはちょっと違うし、堺先生にお願いした意図もちょっと微妙に違うのだが、この二人は、どちらも長編作品もバリバリ書くし、性格的にさっぱりしてて、言われたら言われただけ成長できる体質である(たぶん)

さて、結果から言えば、本日の授業は、期待通りというか、予想の120%、いや200%で、大成功。堺先生は、開口一番、「この2編は、もし小説コンテストに応募されたとしたら、私ならA、B、C、D、Eの5段階評価で、BとDをつけます」ときっぱり。さらに、わかりやすい説明で、サクサクっと作品指導。サクサクっという感じで、なんだかいつもと雰囲気がぜんぜん違う。残念ながら、これは今日、参加した人にしかこのニュアンスはわからないんだけど、なんだか、気持ちいいくらいに「サクサク!」と、素晴らしく切れ味さわやかな講義でした。

ああ、堺先生、どうか気が向いたら、時々は、大阪にも帰ってきて下さいまし〜。

さて、ちょっとトボケたところもあり、専攻科のアイドル(?)というウワサもあるNくん(20代前半)。正直、入学した当初は、「どひゃ〜!」と笑われるくらい無茶苦茶な原稿を書いていたのだが、わずか2年で、ものすごい進歩。まあ、今日も、先生には「それでもDだけどね」ときっぱり言われていたが、彼はなぜか妙にいいセンスがあるのだった。ただ、題材は面白いんだけど、なにせ構成も文章もまだまだむちゃくちゃ。先生もそこはわかってくださったようなので、「ボクも、君くらい若い頃の文章は、もっとむちゃくちゃだったからね」と笑っていた。

で、今日の見どころは、やはりNくんの「いやあ、野球小説のつもりはなかったんで」発言でした。私なんか、思わずぷーっと吹き出してしまいましたわ。ま、うちの生徒さんたちは、教室ではいつも真面目なので、思いきり爆笑していたのは私だけですが。けど、その瞬間、みんなの背中を見ると「なんでやねん」「どうみても野球小説やろ」「じゃなきゃ、なんやねん」と一斉に心の中でツッコんでいたのが、私にははっきりと見えました。ええ、どう見ても、野球小説ですわ。

ネタばれになっちゃうけど、これ、ゲイの人たちが野球の試合に挑むという作品で、ほとんど野球の話なんです。(専攻生で欠席された方は、お手元の資料をご参照して、ご一緒にツッコんでくださいませ。「おいおいっ、なんでやねん!」)

まあ、Nくんは、文章技術の問題があるので、間違いなく1〜2年以上はかかるが(もう少し誤字を減らしてよ〜)、吸収が早く、しかもタフな性格。ものすごい勢いでスクスク伸びていくタイプだし、センスが光るところがあるので、将来性は大なのだった。ただ、将来、プロ作家としてデビューしても、たぶん先生たちには、どこかのパーティとかで会うたびに「いや、この人、今は売れっ子でも、デビュー前はすっごくひどかったんだよね〜」と一生言われ続ける危険性はあるな。たぶん。

で、「B」の方の作品は、Hさん。この人の作品は、どの講師の作品指導でも、いつも評価が高いのだが、新人賞デビューを狙っているので、このレベルはとても大変。たしか前の作品も、小森先生に、「ここまで書ければ、たぶんそのうちデビューはできると思いますよ」ときっぱり言われていたのだった。

ちなみに、お子さんもいて、仕事もバリバリのHさんなのですが、スタイルもよく、どっちかというとしっとり美人系かなと思っていたら、先日、空手などやっておられることが判明。そういや、「実家の父は、刀鍛冶」と言ってたし、うーん、スゴイっす。なんだか、ハードボイルドのヒロインみたいっす。

で、どちらのクラスも、講義が終わって、いつもの中華料理店で集合。講師の先生たちや生徒さんもあわせて三十人ほど残って、ガヤガヤと飲み会。8時半頃から、最終電車の時間まで、ワイワイと飲みつつ、感想いろいろ。

作品指導は、やっぱり受けられた方がいい

3月17日(金)
午後から小説講座の事務所。夜、9時半過ぎまで事務作業。

明日は、第9期の前期課題・作品指導で、しかも、同時に、専攻科の講義もある日なのだった。今日は、その作品集を読みかえす。しかし、第9期の作品集だけでも短編二十数編、合計すると400枚くらいある。専攻科も長編2編。一度すでに読んでいるのだが、また読み返すだけで、だいぶ時間がかかってしまったわ。ぐえ。

プロ作家の作品なら、同じ枚数を読んでもこれほど疲れないだろうに、生徒さんの作品はどうしても疲れちゃうもんなあ。ううう。ぐったり。

しかし、こうやって読み比べてみると、第9期と専攻科は、やっぱ、だいぶ雰囲気が違うなあ。第9期の作品集は、はじめて作品を書いたという人も多いので、かなり問題がある作品も多い。でも、専攻科の方は、かなり上達してる。あたりまえだけど、やはりちゃんとした作品指導を何度か受けたら、ものすごく上達するのだなあ。

うちの小説講座の生徒さんは、書き続けれさえいれば、一年もたてば、ほとんどの人が驚くほどうまくなる。(なぜか生徒さん自身は、自分のことはよく気がつかないものらしいけど)。

生徒さんに限れば、たいていみな上達するので、以前は私も「書いていれば誰でもうまくなる、そういうものだ」と思っていたのだが、今では、それはどうも必ずしもそうではないんじゃないか、と思っている。とくに、小説コンテストの下読みなどをするとそう思う。

毎年、秋には「大阪ショートショート大賞」という小さなコンテストを実施しているし、個人的に、他の下読みをしたこともあるのだが、コンテストに応募される人の中には、たまに、あまり上達されることがない、というか、むしろどんどんつまらなくなっていく人がいるのだった。

ただ、うちのコンテストの場合は、たったの原稿用紙5枚という短さなので、題材やアイデアによっては、アタリハズレがかなり強く出る。でも、どうも最初の頃はかなりよかったのに、年々だんだんと面白くない作品を送ってくるようになる人がけっこういるのだ。正確に言えば、書いていればうまくなるのは確かなので、うまいのはうまい。でも、つまらない。つまり、「文章はうまいが、内容はつまらない作品」である。なんだか不思議である。

この現象は、一体どういうことなんだろう、と思っていたのだが、今日、うちの生徒さんの作品集を読み比べてふと思ったのだが、やっぱり作品指導を受けてないせいなのかもしれない。

公募ファンというか、一人でせっせとコンテストに応募しているような人の中には、もしかすると誰にも作品を見せることなく、書いている人もいるんだろう。で、そういう人の中には、運悪く「悪い方向」へ成長する人がいるのかもしれない。理由はわからないが、たぶん書き慣れることで、書くことをナメちゃったりするのかもしれないな、と、思ったりする。で「それなりにうまいけど、つまらない」という作品ができたりするのかな。

少なくとも、書き慣れてきたらしいコンテスト応募者は、「かなり短時間で書き飛ばしたんだろうなあ」というような作品を送ってくることが多い。文章表現も、アイデアも、構成も、技術的にはそれなりにうまいので、下読み選考くらいなら通過してしまうのだが、なんかどっか違う気がする。でも、一次予選は通過しても、二次には残らない。なんだか違うもん。

もしかすると、こういう人は、いろんな公募に応募しまくっているのかもしれない。だから、うちのような小さなコンテストに応募するような作品に時間をかけたりはしないんだろう。きっと、他にも色々応募したい賞がたくさんあるんだろうから。

で、これは想像なのだが、どうやら小説コンテストなどの公募を続けている人の中には、ちょっと違う方向へ行ってしまうタイプも意外と多いのかもしれないなあ(ま、考え方も、人それぞれだから、何が違っているかわかんないけど)。

前も言ったんだけど、コンテストの下読みをしていると、なんだか「ひとこと言ってあげらればいいのにな」と思うような作品にけっこう見てしまう。
「きっとこの人は、せっせと公募を続けているんだろうけど、ちょっと違うんだけどなあ。一度、誰かちゃんと見てあげればいいのになあ」
なんて、ふと思ってしまう作品がけっこうあるのよね。(でも、たぶん余計なお世話)

だから、生徒さんの作品を読むのは、なんだかんだ言っても、ちょっとホッとする。
だって、彼らは、顔をあわせて、ちゃんと作品指導も受けられるんだもの。
というわけで、明日は作品指導。楽しみだなあ。

03/17/2006

小説を書く人の才能、書かない人の才能

3月16日(木)
午後から小説講座の事務所。あいかわらずぐちゃぐちゃの事務作業。

今日は、問い合せ一件。どうも入学希望ではないようだが、小説を書いている人らしい。いや、これから書くのかなあ。そこがちょっとよくわからない。とにかく自分は才能があると決めている人のようである。気のせいか、小説を書く人の中には、たまによくわからない人がいるなあ。うちの生徒さんでは、そういう人は滅多にいないからわかんないけど、きっと「ずっと公募に応募し続けている」人の中には、思い込みの強い人がたまーにいるような気がする。

たしかに小説コンテストもいろいろあるので、かなり文章が書ける人でも、一次審査で落ちることもあるし、「え、あれが?」という作品が一次審査を通過することもあるにはあるが、でも一般論だが、「ずーっとどの一次でも一度も通過していない」というのは、たぶんそれは下読みした人が悪いのではなくて、まだ自分にはそれだけの「実力」がないのだと考えた方がいい気がする。

つまり「運がない」のではなく、ないのは「実力」なのだから、これは努力すればいいだけである。たいていの場合、このレベルの「実力」は、おそらく「文章技術」ではないかと思う。私は、「運」とか「選考委員の趣味」とか、そういうことを心配するのは、最終選考で落ちた場合に考えればいいことで、たぶんそれ以外なら「落ち込む必要性」すらないと考えている。一次選考で何度も落ちるというのなら、まだ実力が身についてないだけだから、そんなものは落ち込むヒマがあれば、まず文章技術をどうやって上げるか、冷静に考えた方がいいだけなんじゃないのかなと思っている。

まあ、そりゃ、落ち込むかもしれないが、この時点では、まだ落ち込んでいるだけムダな時間なので、次は一次くらいは落ちないような技術をさっさと習得すればいいだけである。

「運」を引き寄せるのは、一体どうやればいいかわからないのだが、「文章技術」なら、よほど間違った方向に努力さえしてなければ、たいていは、きちんと上達するので、落ち込むようなものではないはずである。

どうやら世間には、「私には、すばらしい小説が書けるはずだ」と信じ込むために、2つの方法があるようだ。そのうち一番確実な方法は、実は、絶対に書かないことなのだ。書かなければ、「実は、私は書けない」ということを認めずに済むわけで、誰にも永遠に気づかれずに済む。だから、一番カンタンで、確実な方法なのである。

もちろん、もう一つの方法は、実際にすばらしい小説を書けるまで努力することで、こっちの方法は手間もかかるし、壁にもぶち当たる。けっこう大変な方法である。

しかし、書くのが苦手ではなければ、こっちもかなりの確率はあると思う。(もちろん、たまに努力の方向がまるで間違っている人もいるし、個人差もあるけど)

ところで、「作家になろうと努力しても、どうやって無理な人もいますよね」という話を平気でされる人がけっこういる。そりゃ、よほどの人というのは、千分の一とか、万に一人とか、そうとしか言えない人もいるにはいるだろうが、実際には、そういう簡単な問題ではないと思う。

どうも「作家になるには、才能がいる」あるいは「特別な素質がいる」など、そういう一般認識があるようだが、個人的には、これはかなり疑問に思っている。もし才能が必要だとしても、それはきわめて高度な問題だけで、それ以前のレベルを何とかすれば何とかなるんじゃないかと考えている。だいたいうちの小説講座では、エンターテインメント系の小説が中心なので、文章や構成、テクニックなど、いわゆる技術的な面を習得する必要性が高い。まず才能をうんぬんするよりは、その前に、まず技術の習得に努めてくれ。才能ってのは、それからの話である。

小説を書いたりするのは重労働だし、時間がかかる(書いた人はわかるはず)ので、実は、そもそも本気で作家になりたくて、マジでその努力する人はきわめて少ない。というか、そもそも「書きたいから書いた」という人は多いが、「できれば人に読んで欲しいから、なるべく読みやすく面白く書いた」という人は少ない。そういう技術があるかないか、という以前に、そういう「気持ち」すら考えたことがない、という人がけっこういる。

私は、個人的に「作家志望」というわけでもなく、たまたまコピーライターという職業だったので、この「読み手のことをまったく考えずに書ける」ということに最初かなりびっくりしたもんである。

で、考えたのだが、どうも小説とか(あるいは普通の文章でもそうなのだが)、「まったく努力しなくても、書ける人は自然にできるはず」だと考えている人はけっこう多いらしい。

まあ、たしかに「いきなり書ける」というタイプも中にはいる。まあ、世間の「作家」さんたちでも、はじめて書いた長編でデビューという「早熟系」の人も確かにいるそうだ。しかし、作家というものが、全員そういう人ばかりならともかく、「最初はむちゃくちゃだったけど、だんだんうまくなってデビューした」という人もかなり多い。まあ、そりゃいきなりデビューできたらラクかもしれないけど、実際、たとえ早熟系の作家さんたちでも、デビューしてから何年もたっても「あの人は、デビュー作が代表作」と言われたりして、自分自身を乗り越えるのに苦労したりすることもあるから、なにが幸福なんだか、よくわからない。なかなかデビューできなくても、どんどんうまくなっていくタイプで、「いつも新作がベスト作品」って方が、職業作家としては、よほど幸福かもしれないし。

しかし、いつも思うんだけど、作家になる努力と言っても、美容師になる訓練、あるいは、医者になるよりは、時間的にも技術的にも技術の内容から言っても、必ずしもこれが特別に習得にすごーく時間がかかるとは思わないんだけどなあ。いや、もちろんプロから見れば、「一生努力し続けなければいけない厳しい職業」なんだろうけど、それは、どんな仕事でも、ある程度おんなじだもん。

スポーツ選手ですら「才能だけで、プロになれると思うなよ」と思うだろうに。

とにかく、お金をとれるレベルになるには、やっぱり少なくともどんな仕事でも訓練はいる。つまり一流とか、そういうんじゃなくて、お金がとれる最低レベルでも、まあ、教師でも、保育士でも、看護婦でも、自衛隊員でも、いきなりカンタンにはなれないはずだ。医者になるのに、あるいはピアノ教師になるのに、トータルで何時間の訓練がいると思う。で、なんで作家だけが特別? え、違う?

けど、「作家になりたい」と思う人の中には、なぜか作品を書かない人もかなりいて、さらにたとえ書いたとしても、自己満足で終わる場合も多いから、それを実際、他人に見せて、もっといい作品を書こうとする人となると、きわめて少ない。

ちなみに、才能と言えば、これはバイオリン教師の話だったと思うが、「才能は、ベテランの教師でも見抜くのがけっこう難しい」ものなのだ。さほどの才能がないと思っていたら、パッと花を咲かせる人もいて、反対に、これはスゴイと思っていたら、伸び悩んだり、さっさとあきらめたりする人もけっこう多いらしい。

まあ、そんなもんだから、「自分には才能がある」というのも「才能がない」というのも、どっちにしても、熟練した教師ですらそれを判定することが難しいのだから、才能ほどアテにならないものはない。だから、やたら信じて、ただ「天性の才能だけが頼みで、技術習得にも興味がなく、まったく努力しない」という人もよくわからないし、「才能がないから、努力しても仕方ない」という人もよくわからない。私とすれば、才能なんてものはよくわからないものなので、とりあえず「たぶん全員にあるものだ」と思っておく。そのうえで、技術を習得したり、どうやればいいか頭を使ったりというのは、プロなら、あたりまえのことなので、これも何もいちいち悩む必要はないと思う。

とにかくテニスがうまくなれば、けっこう楽しいし、料理がうまくなればかなり嬉しい。小説だって、うまく書いて、人に読んでもらって感想を言われたりすると、けっこう楽しいんである。もちろんプロとなれば、そりゃあ多少なりとも努力がいるだろうが、そりゃそんなもの、金とるんだから、あたりまえじゃないのかあ。あたりまえだと思えば、全然ヘンでも何でもないじゃないのかなあ。

さて、オリンピックなら4年に一度で、しかも金メダルをとるのはたったの一人だが、小説は、たとえ直木賞でも毎年に2人以上とるわけだし、新人賞なんぞ、山ほどあるわけである。だから、まあ、可能性がある以上、絶対ムリだとは思ってない。ただし、絶対ムリと言えるのは、いつまでたっても全く書かない人だけだろう。これだけは、たぶん、絶対である。

小説や文章講座は、儲かるもんではないけどね

3月15日(水)
午後から、小説講座の事務所で事務作業など。

午前中、義母の検査&手術のため、自宅にて待機。病院には義弟がいっていて、とくに自宅にいる必要もないのだが。さいわい検査の結果、緊急手術の必要性はなかったので、ホッとひと安心。
午後から事務所へ。

専攻科の作品がたんまり山になっているのだが、なにせ生徒募集の時期で忙しく、しかも年度末。なにせスタッフがほとんどいない事務所で、色々とやらねばならないことはあるわけで、なにかと忙しい。とりあえず本日は手がつけられないのだった。

さて、春から始まる新文章教室<土曜ライティング講座>は、これまでの文章教室とはかなり内容が違うので、事実上「第一期生」の生徒募集。とは言っても、実は、大阪シナリオ学校の頃に「土曜文章講座<クリエイトルーム>」というのをやっていたので、講座コンセプトとしては、ほとんど似たような内容である。

うちの「創作サポートセンター」は、もともと「大阪シナリオ学校」から独立した小説講座が母体となっているのだが、そもそも独立する時、学校側が、シナリオと演芸台本(放送台本)という放送系のコースのみに集中することになり、最初は、小説講座だけでなく、文章講座という「印刷系」の講座も独立することになっていたはずなのだが、なぜか途中で二転三転して、結局、文章講座『エンターテインメントノベル講座』だけが独立することになったのだった。

でも、今年から「大阪シナリオ学校」では、「ショートストーリー講座」を募集している。絵本シナリオなど、基本的にはショートムービーなど映像シナリオが中心である。毎年、春募集をしていた文章講座<クリエイトルーム>は、もう生徒募集をしないらしい。そういうわけで、講師の先生たちに相談して、このたび新しく「ライティング講座」を開設することにしたわけなのだ。

さて、完全に分離してしまったのだけど、「大阪シナリオ学校」は、「親」学校である。もちろん経営的にも、あっちは有限会社で、こちらはNPO法人を取得予定という立場だし、経営ポリシーもちょっと違うのだが、共通点は、「現役プロ十数人に出講してもらう形式の総合的なプロ養成コース」が中心ということである。新しい「ライティング講座」もそうなのだが、一人の講師がつきっきりで毎回講義をするのではなく、十数人の講師が順番に週がわりで講義をする。もちろん実習などはあるのだが、レクチャー講義そのものは、単発講座がセットになっている形式なのである。

しかし、実は、これは事務所にとっては、かなり手間がかかる形式である。講師のスケジュール調整もいちいちしなくてはいけないからである。しかも少人数で、基礎知識とか、個々の生徒さんの要望にあわせたフォローというのも、基本的には、事務担当者がしてあげることになっているので、かなり手間がかかる。シナリオ学校の頃は、とくに演芸コースなどは、就職希望者が多いので、進路相談などもマメにしないといけない。正直、あまり利益を追求できるシステムではないと思う。

一人の講師だけが担当する講座なら、事務担当者がするのは、作品集の作成とか、欠席者への資料発送だけで、あとは講師がつきっきりなので、事務の負担は少ない。また、レクチャーだけと割り切って、手配だけすればいいのなら、これもまたラクなのだが、結局、少人数で、いろいろ作品のレベルを考えたり、作品の内容に合わせて講師を手配したり、いろんな相談に乗ったりするのは、手間ばかりがかかって、たぶん儲けは少ない。

しかし、まあ、営利企業ではないので、これでいいのである。とりあえずやれるうちは、この方法にこだわりたいし、たしかに忙しいけど、私自身は、面白いからこの方がいい。まあ、儲かってない、ということで、ちょっと困ることと言えば、しいて言えば、「今は忙しいから、再来年に入学したいんですが」と言われちゃったりする時である。

今年の春と秋開講の講座は、すでに資金的にもメドがちゃんとたっているので安心してもらいたいのだが、さすがに来年、再来年の予定なんかわからない。なにせ営利企業ではないので、多額の資金を借入れしてまで、ムリに継続する計画はないのである。学費は、基本的に前払いだし、さすがに途中で廃校するわけにはいかないので、経営が苦しければ、生徒募集がなくなるだけである。まあ、今のところ、少人数ながら黒字経営なので、具体的にそうなるという予定もまったくないのだけど、とにかく来年開講できる保証はできない。保証できるのは、今年の開講分のコースだけである。

しかし、大阪シナリオ学校の頃から、毎年<エンターテインメントノベル講座>は、必ずしも継続できるかわからない、と言われながらも、今年の秋には10期生募集。実質9年たつわけで、月日のたつのは早いものだなあ。しみじみ。いや、もうそろそろ、かな。

03/15/2006

小説専攻科の締切日だったのだ

3月14日(火)
午前中、打ち合わせ。午後から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

本日は、専攻科の締切日。作品の山である。専攻科の締切は、2ヵ月おきなのだが、またけっこう長編が多い。驚くべきなのは、Hさんで、またまた400枚の長編である。仕事もしている兼業主婦で、子育てしながら小説を書いている人である。ひええ。一体どこにそんな時間が?(しかも最近、空手を習っているらしいぞ)

作品を持参してきたYさんも、Hさんの作品を見て、「うーん、一体どこにそんなヒマが……」と絶句していたのだった。
「こういう人もいるから、ほんま、忙しいというのは言い訳にならんよなあ」
ホンマ、忙しくても、小説を書こうという人はちゃんと書く。

ちなみにHさんが前回、提出された長編は、今週末の専攻科の講義で、堺三保先生に作品指導をもらう予定。このところ、1次、2次通過はするが、最終選考には残らずというレベルの作品が多いような気がして、ちょっと惜しい。うちの小説講座の生徒さんは、いろいろなレベルの人がいるのだが、あと一歩というところがけっこう大変。しかし、このあたりに数名たまっている感じで、もうちょいという様子で、なかなかうまく受賞者が出ない。だが、まあ、もうちょい、ちょい、なのである。なんつーか、「ちょいと高く跳んでくれれば届くのにぃ〜」ってくらいの、ちょい、である。まあ、ちょいと跳ぶ、ってのが大変なのかもなあ。

講義見学の申込み、電話で一件あり。この春、募集しているのは『新文章教室』<ライティング講座>の方だけなので、小説講座の方は秋まで開講しないのだが、見学は、受付けている。「ライティング講座」から、小説講座に編入する予定の人がけっこういるかもしれないし(学費割引を利用すると3〜4万は安い)、小説講座も7〜9月はレクチャーがなく、修了課題指導が続くので、もし気軽にのぞきたい場合は、できれば見学も、早い方がいいのだった。

ちなみに今日、問い合わせされた方は、すでに広告関係の仕事をされているそうで、文章を基礎から勉強したり、広告コピーやら取材などを学ぶ<ライティング講座>の方にはあまり興味がないそうだ。「小説を書く」と決めているなら、とくに春から入学する必要はまったくないので、「それなら秋の開講まで待って下さいね」と言っておく。春の講座は、どちらかというと初心者向けだし、新聞記者やら、シナリオライターやら、雑誌の編集者やら、小説以外の話も多い。まあ、小説講座との合同講義もけっこうあるのだが、インタビューの方法とか、とにかく小説を書きたい人は、たぶんあまり興味のない人もいるだろうしね。

まあ、たとえて言えば、文章教室<ライティング講座>の方は、いろいろな種類をつまみ食いできる「幕の内弁当」ですね。一方、小説講座の方は、小説専門なのでレストランの「コース料理」という感じでしょうか。

まあ、どちらに入学した方がいいかは、好みによる。まあ、文章教室からの編入生も多いんで、6期なんか、編入生が十数人くらいいたけど。(昨年は、編入制度がなかったので、第9期には文章教室からの編入生はいませんけど)、

ただ文章教室の場合、初心者向けの講座なので、入学までに何も書いてなくてもいいのだが、小説講座の場合、入学するまでに、たとえ1作品でもいいから(なんなら途中まででもいいので)、小説を書いていた方がいい。もし、今、ライターや編集者などの仕事をしているとしても、とにかく一度、自分なりでできるところまで書いてみる方がいいのである。生徒さんは、仕事では原稿を書いているだろうが、小説を書くというのは、また全然違う作業なので、(まあ、「一度も書いたことがない」といっても、実際には、ちょっと書いてみた人ばかりだけど)

まあ、小説を書く人の中には、小説以前に「そもそも日本語が変!」という人もかなりいるから、その点、雑誌記事や広告などの「書く仕事」をしている人の方が、多少はトクなのは確か。ただ、うちの講座でも、ライターや編集者をやっている人がけっこう入学されているのだが、なぜか、こういう職業の人は、一度は、壁みたいなものにぶちあたるみたいである。

たぶん小説と雑誌などの記事は、かなり書き方が違う。(そもそも文字量がだいぶ違うが)。でも、同じ文章作成だし、どうも勝手が違うので、いざ書きはじめるとちょっと戸惑ってしまうようだ。まあ、短距離ランナーがマラソン選手に転向したみたいなものである。

ライターをやっていた人は、入学したばかりの頃は、他の人よりは文章的に「うまい」から他の生徒さんより少し優位に立てるのだが、1年くらいすると、なんとなく全員が追いついてくるので、そこで心理的にちょっぴりしんどくなる。実際、講座の生徒さんというのは、なぜか2年くらいたつと、不思議にグンとうまくなる。ヘタな人ほど顕著なので、入学した頃は「ものごっついヘタだし、正直、どうしようもないんじゃないかしらと思っていた」なんて人でも、先生の話やら、作品指導などを受けている間に、ぐいぐいと目に見えて、うまくなる。うまくなると、本人も嬉しいもんだから、また書くのも楽しいらしく、どんどん上達する。

一方、もともとレベルが高い人は、それほど顕著には伸びないので、ちょっとアセってしまうこともあるみたいだ。数年で、すっかり逆転するってことも、けっこうある。

ところで、うちの小説講座は、生徒さんたちに言わせると、ちょっとレベルが高いところもあるらしい(まあ、だから初心者向けの「文章教室」も作ったんだけど)
たぶんそれはプロ作家さんたちが、自分の実作経験で得たノウハウなんかを丁寧に話してくれるせいだと思う。こういう話は、貴重なんだけど、実は、自分で何度か作品を書いた経験がないと、なかなかピンと来なかったりする。だから、正直、「小説を一度も書いたことがないが、ぜひ書いてみたい」という人よりは、「自分でも一度は書いてみたけど、うまく書けない」という経験があった方がいい。でないと、せっかく先生たちが貴重な話をしても、わかる人にしかわからない。実作というのは、やってなければわからない部分もかなりあるのだった。

ま、しかし、とにかく作品を書かなければ、壁にぶちあたることもないもんね。水を欲しがってない馬をいくら連れて行っても、無理に飲ませることはできぬ。まったく泳ぐ気のない人に、泳ぎを教えても仕方ないことで、文章とか、小説の講座というのは、「ああ、うまく書きたい」とか「どうすれば面白く読んでもらえるんだろうか」という動機というか、何かしらの経験がないと、どんな立派な講義を聞いても、たぶん内容がわからない。講義を聞いても、もったいない。

たしかに、小説講座に通っても、作家になるのはムリというのはいるにはいるだろう。けど、あたりまえだが、料理教室に一年間通っても、実際に自分で作ってみなければ、決してうまくはならないので、しかし、経験上、きちんと作品も提出していて、ちゃんと作品指導を受けている生徒さんを見ていると、ほんの2〜3年たてば、(まあ、人によって違うが)なぜか「1次選考は、確実に通過。まあ、最終候補の一歩手前までは残るだろう」と言われるような作品くらいは、ほとんどの人が書けるようになるみたいだ(まあ、実際にはそれまでに辞める人が多いんだけど)。

たぶん、とくにエンターテインメント系の小説は、それだけ技術習得の部分が大きいせいもあるんだろうけど、それでもほんの数年で、びっくりするくらい上達するのだ。私は、それだけでもたいしたもんだなあと思っている。

もちろん、それでも「それがどうしたの。結局まだプロ作家にはなってないんでしょ。だったら、どうせ意味ないじゃない」という意地悪な声もたまに聞こえてくるかもしれないが、だいたいそういうことをいうような人は、そもそも小説を書いたり、「作品、けっこう面白かったですよ」などと言われたことがない人なので、気にしないようにね。

しかし、専攻科の作品がまたもや「山」になっている。みんな、よく書くよなあ。丁稚どんと二人で、ありがたい悲鳴をあげるのだった。ふう。

小説とは関係のない休日(ホットケーキ)

3月13日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

古い炊飯器で、タイマーを利用して、朝、ほかほかのホットケーキを焼いてみる。こういう朝食も、おもしろい。炊飯器を使った煮物やシチューのレシピなんかもあったので、タイマーを使えば、朝、夕食の準備をしておいて……という使い方もできるかな。夏は無理だろうが、冬場はけっこう使えそう。

今日から義母が検査入院した。心臓が悪く、明後日、カテーテル。

小説とは関係のない休日(講演会、書店、炊飯器)

3月12日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

9時過ぎに地下鉄に乗り、外出。午前中、講演会に参加する。
梅田のレストランでランチ。タイ風料理だが、小6の長男、トムヤンクンは初体験。「辛いのは大丈夫だけど、酸っぱいのはダメだなあ。慣れればおいしいのかなあ」とか。まあ、たしかに慣れてない味かもね。

紀伊国屋で、本を数冊購入。『メアリー・アニングの冒険〜恐竜学をひらいた女化石屋〜』(吉川惣司・矢島道子著)が棚にあったのを見つけて、これも購入。すでに以前、図書館で読んでいたのだが、とってもおもしろい本なの。アニメの大御所が、「なぜあのメアリー・アニングを?」と思うでしょうが、これは貴重な本ですよ〜。ところどころの描写がかなり面白いです。私は、科学者の伝記とか、ルポとか、エッセイものを読むのがけっこう好きなんですが(S・J・グールドも、もう新しいの読めないから残念です〜)、日本人の書き手にしては、なかなか想像の遊びがある楽しい本です

夕方、図書館に行く。『タンタンの冒険』のビデオなど見る。

夫が、新しい炊飯器を買ってきたので、古い炊飯器を料理に使用することにする。古い方は、まだ使えるんだけど、4月から息子が中学になるので、「5合半炊き」では弁当作りには不安なので、一升炊き。古い方のは、10年以上前に5000円で買った簡単な炊飯器なのだが、まだ使えるので捨てるのはもったいないなあと思ってしまう。さいわい最近、「炊飯器を使った調理」の本を立ち読みしたので(どこかの番組で紹介されたそうで、どうも流行っているらしい)、とにかく何か料理を作ってみることにする。

どのみち古い炊飯器だから、どんな使い方をしても壊れてもいいくらいなので、かなり気楽である。レシピをネットで調べてみたが、機種によってだいぶ違うようだ。とりあえずホットケーキを焼いてみる。内釜に直接、ホットケーキミックスと卵、牛乳を入れて混ぜてから、スイッチを入れてみる。1時間ほど保温すると、蒸しパンみたいなのができた。フライパンで焼くよりは、ふわふわだし、これは便利かも。ボールなどの余計な汚れものがでないし、保温もきく。今度は、パンでも焼いてみようかなあ。

ホラー小説の書き方

3月11日(土)
朝から小説講座の事務所。あれこれ事務作業。夕方から第7期の講義。

本日の講義は、「ホラー小説の書き方」です。プロの作家さんたちも3名ほど(はじめて遊びに来られた方ばかりです)、見学された。

かなり詳しいレジュメも配布。これは、たしか牧野修先生が8年前に作った資料に、田中啓文先生、小林泰三先生が次々と書き加えられたもので、もしかするとかなり貴重な資料(!?)なのだった。内容は、ホラーの歴史や書き方など。最近、ホラー志望の生徒さんも多いので(と言っても、うちの小説講座はみなミステリ、SF、時代小説と、志望ジャンルがバラバラなので、多いと言ってもホラーだけなら4〜5人なんだが)みんな熱心に話を聞かれていたようである。

質問タイムで、「資料にあったキングの『ファイアースターター』って、ホラーなんですか?」という質問が出る。「僕は、あれはホラーじゃないと思いますが」という生徒さんに、先生は「ジャンルの定義は、自由なので」と答えられていた。ホラーの定義も、人それぞれ、けっこうこだわりがあるもののね。私も、キングではあれが一番好きなんだけどな。

しかし、そう言われてみれば、個人的には、ホラーと言えば、なんとなく「キングの書くものみたいなのが『ホラー』」という認識だったわ(正確に言えば、モダンホラーか)。そういや、日本のホラーは、ワタシ的には「ホラー」というより「怪談」という感じがする。(『リング』とかは怪談)
まあ、私は、ジャンルとか、どっちでもいいんだけど。『炎の少女チャーリー』も、20年くらい前のことなんで覚えてないけど、映画もそれなりに面白かった記憶があるんだけどなあ。もちろん、タイトルは笑いましたが。

さて、見学された先生たちも加わって、ワイワイと講義後の飲み会へ。東京からの通学生も、今日はホテル泊だそうで(他の日は深夜バス通学なので急いで帰らなければいけない)、作家先生たちのテーブルの前に座って一緒にゆっくり参加。名古屋からの通学生、和歌山からの通学生などは、10時頃くらいには帰られるが、最後は11時頃まで、ビール片手に色々と話をする。

12時半に帰宅。3時頃には就寝。チャングムが金曜の夜に変更になってしまい、2日連続の遅寝になるなあと思いつつ、あいかわらず、ERとかも見る。なにせ私は、朝起きる時間が早いので、週2日になると睡眠不足になりそう。

03/11/2006

今日も、地味で事務な一日

3月10日(金)
朝から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

ちなみに、ブログが更新されてないのは、日曜からずっと自宅のMacが接続異常で、さらに昨日からココログのメンテナンスが24時間たってもまだおわらないからなのよ。私のせいじゃないの。

今日も、弁当持ちで事務所にこもって、せっせと事務作業。やっと接続ができるので、ブログをアップしようとしたが、自分で言うのはなんですが、文章量多すぎ。読める人にしか読めない量ですね。まあ、広告のお仕事では、コピーライターとして一字一字に悩み、できるだけ減らそうとしているはずなのですが、ブログは無法地帯。世間では、「短くして、写真などもつけて、毎日更新」が、読まれるブログの条件だそうで、むしろ目立たないように地味にやってます。いえ、地味に。あまり多くの人の目を汚すのもなんなんで。

生徒募集中

3月9日(木)
朝から小説講座の事務所。一日中、コツコツ発送作業。

入学案内などの資料を発送。郵便振替の用紙を請求したり、口座の現金を移したり。なんだか毎日雑用で忙しいなあ。終日、募集関係の事務で忙しく、作品など読むヒマなし。問い合わせ電話あり。

結局、どうしても帰宅が遅くなり、家についたのは8時過ぎ。自宅では、子供たちが飢えているだろうから、あわてて帰ったのだが、腹をすかしていたのは息子だけ。どうも祖父母の家で、何かしら食べていたようだ。うちの実家が近いので、両親の帰宅が遅くなると、そっちに行って、食べ物をあさっているらしい。あとで、きっと母に説教されるなあ。

03/10/2006

長生きしろ、健康診断を受けろ

3月8日(水)
朝から小説講座の事務所。夕方、遅くまで事務。

先日、受けた「総合健康診断」の結果通知が郵送されてきた。小説講座の生徒さんや作家さんの中には、あまり健康に気をつかわない人がけっこういる。まあ、スポーツマンタイプが少ないせいかも。とは言う私も、日頃は、あまり運動をしない。というか、ぜんぜんしてない。で、ビクビクしながらの検査結果である。

たいていの検査は、だいたいその場の雰囲気で結果もわかるのだが、血液検査だけは後日にならないとわからない。で、気になっていた血液検査なのだが、結果はオールA。だけど、尿検査に「要精検」の項目が一つ。まあこれは、あんまり問題のない項目なので、そのうち病院に行けばよさそう。念のため電話をかけておくと「ヒマな時に一度来て下さい」とのこと。あと、胃ガンと乳ガンは、要観察。といっても、いまは問題がないので、1年後また受診せよとのこと。まあ、PETでも受ければ何かわかるかもしれないが、とにかく今は問題なし。

ところで、実は、私、二十年ほど前、ほんの数カ月「健康診断の検査センター」で働いていたことがある。この検査センターは、企業などの団体検診を請け負ってやっているところで、定期検診が中心だから、春と秋が忙しい。私は、内勤のバイトで、だいたい検査結果をパソコンにデータを打ち込むのが仕事だった。血液検査などは、すでに検査室から機械入力されているのだが、他のデータ(尿とか、レントゲンの所見とか)を手入力する係である。だから、だいたいはコンピュータ室にいるのだが、忙しい時は、検診の手伝いにも行く。もちろん看護婦や医者の資格はないのだから、私がすることと言えば、受診カードのチェックとか、問診表を医者に手渡したりするだけである。まあ、集めた血液なども運んだりすることもあるので、白衣くらいは着るが。

たぶん学校や職場で、定期検診を受けたことがある人も多いと思う。私は、そのほんの数カ月だったのだが、それだけで数百人から数千人のデータを目にした。その時、発見したことがいくつかある。そのうち、もっとも印象に残っているのが、
「四十歳までは、どんな生活習慣でも、健康にはまだほとんど影響がない。でも、四十歳を過ぎるとガクンと違う。生活習慣がロコツに検査結果に出る人がかなりいる」
ってこと。あたりまえと言えば、そうなのだが、ホントに急にガクンと違うのである。

(ちなみに、検診には、「問診表」というのがあり、そこに病歴のほか、喫煙の有無、飲酒量、平素の運動量など、色々書く欄がある)

しかし、それくらい常識だろ、と思うかもしれないし、医療知識のある人なら当然かもしれないが、やっぱり悪いデータを見つけるたびにゾッとするような思いがしたんだよね(工場などの健康診断が多かったから、そんなに悪い人はあまりいないが)。まあ、なにせ二十年前なので、検査方法もかなり違うのだけど、あの時見たデータがあまりに印象的で、今でも忘れられない。とにかく「四十歳で、がくんと違う」のである。

まあ、よく「いつ死んでもええねん。健康に気をつかうより、好きなもん食べて、やりたいようにするわ」と言う人がいるが、正直、私は、そういう人は「あやしい」と思う。人間、いざとなったら、じたばたする人がほとんどである。というか、ほとんどの人がジタバタするはずだと思う。本当に「いつ死んでもええ」などということを言い続けられるのだろうか。そんなことが言えるのは、まだ気力があるうちだけで、身体が動かなくなってきたら、普通、気力がなくなるので、じたばたしてしまうのである。まあ、ポックリ死ねたら一番いいが、こればっかりは、うまくいくとは限らない。幸い、ガンだろうが、脳だろうが、心臓だろうが、現代医療の発展とともにあれこれ治療ができるようになってきて、それはそれで、なかなか簡単にぽっくりと死ねなくなっているもんなあ。

確かに健康的な生活をしてても、病気になる人もいるし、事故にあう人もいる。しかし、わざわざ自分から生活習慣病まで呼び込まなくてもいいわけだし、チェックできるところはチェックした方がいい。なにせ、いざとなると、本人が大変なのはいいとして、周囲が大変なんである。たとえ「ほっといてくれ」と言われても、肉親ならほっとくわけにいかんのだから。

それに、少なくとも「結核」は、とくに作家志望は要注意である。マジで、大阪は「結核」の発生率が異常に高い地域である。結核なんて、過去の病気だとか、若いから関係ない、と思ったら大間違いで、もう十数年前だが、うちの妹も軽度の結核にかかったことがあるし、息子が通っていた保育所でパート保育士がかかっていて大問題になったことがある(マスコミ沙汰にならないように、保護者にもほとんど資料を公表してくれなかったのだが、感染する危険性があるレベルまで進んでいたのだった)

結核は、日光にあたらないような屋内業務の多い職種はかかりやすい。作家なんか、もともと危険である。意外とけっこう人との接触もあるし。自分はよくても、伝染病は人に感染するからなあ。とにかく自覚症状がないので、レントゲンを受けるしかないのだ。まあ、妹も、職場のレントゲンで、初期の頃に発見できたから、すぐに薬を飲んで、人には伝染する段階まで進まなかったけど。だいたい今どき、作家で結核にかかっただなんて、むしろカッコ悪いでしょうが

と、これくらいシツコク言えば、「もう何年も、健康診断なんか受けてませんよ」と言っている人も、ちょっとは受診してみようかと思ってくれるんじゃないか、と期待する。なにせ何年も受けてない、などという生徒さんを、少なくともウワサだけで、5〜6人は知っているのだ。ホントは、きっともっといるのかも(実は、作家さんも何人かそういう人が……)

長生きするのは、作品のためなのだ。長生きして、後の世に残るほど、一作でも作品をいっぱい書くのだ。いや、ホント、生きている間に、思いっきり書くためにも、健康診断くらい、たまに行きなさいよ。バリウム体験も、取材だと思えばいいもんよ。


人のフリ見て、我がフリ直すな

3月7日(火)
昼から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

今日は、丁稚どんが来てくれて、いろいろ事務作業。入学資料の発送準備やメール数件。

専攻科の締切日は、奇数月の第2火曜なので、次は来週なのだが、すでに数本作品が提出されている。けど、なぜか「速達」で来たのが一つある。もしかして、締切日を間違えたのかしらん。

で、丁稚どんに「みんな締切、守るかなあ」と言うと、「いえ、他人事じゃないんで」と苦笑いされた。丁稚どんは、専攻科の生徒さんでもあるので、来週の締切日までに原稿を書かないといけないのだった。

ところで、この丁稚どんは(最近は少なくなっている気もするけど)、いつも「他人事じゃない」というのがクセになっている人で、そこがちょっとおもしろい。
週1〜2回、事務所の仕事を手伝ってもらうようになって、もう1年以上たつのだが、最初の頃は、これがちょっとした発見であった。実際、丁稚どんは、誰の話をしても、「いつも他人事じゃないんですよ」と眉をひそめる人なのである。

というのは、私が、なにか他の生徒さんの作品を見たりして、たとえば、締切日を守らないとか、視点が混乱しているとか、そういう何か悪いところを発見して「ほら、ここがこんなふうに」と指摘すると、すぐにかばうように「でも、私もやりますから」と必ず言う。どういうわけか、間髪を入れずに必ず「私もよくやるんですよ」と言う。

いつもかばうように言うので、最初はあまり気がつかなかったのだが、この丁稚どんは、この後、余計なことを必ずひとこと言う。「だから、私ってダメなんですよね」

まあ、私も、愚痴の時もあるけど、たいていとくに怒っているわけでもなく、たまたま話に出しただけだし、「だいたい他の人の話をしていたはずなのに、なぜアナタがダメだという話になるのだろう?」といつも不思議に思い、どうしてそっちに話がいくのかなあ、と思っていたのだが、なんだか「だから、私ってダメなんですよね」というセリフがどうもクセになっているみたいである。まあ、もともと真面目な人で、どこか完全主義なところがあるのだった。

まあ、人間というのは、口癖というのが誰でもあるもんだけど、「だから、私ってダメなんですね」というのが口癖になっているのはマズイ。「疲れた疲れた」がすっかり口癖になっている人は、さほど疲れてなくても「疲れた」と言ってしまうし、もし本当に「疲れた」のならきっぱり休むべきなのに、それは休まない。「私ってダメ」などという口癖は、かなりマズイ口癖である。ネガティブな意味をもつ口癖を持っている人は、できれば意識して直した方がいい。意識していれば、直すのは簡単で、もし言いたくなったら、できるだけポジティブな、できれば反対のこと言う。それを口癖にすればいいだけである。人間のクセというのは、なかなか直らないものだそうだが、禁煙も、箸の持ち方も、どんなに苦しくても、たった1ヵ月続けてればなんとかなるそうである。人間のクセというのは、1ヵ月たってからやっと新しい習慣に置き換えられるものらしい。だから、たぶん口癖だって、1ヵ月毎日意識して苦労すれば、それくらいで直るはずである。

でも、とにかく最初の頃は、
「ねえねえ、そんなふうにダメダメってばかり言っていると、本当にダメダメちゃんになっちゃうよお」
と、それとなく言ってみたりしたのだが、あまり効き目がなかったのだった。
そんなことを言っても、
「そうですよね。だから、私って、ダメなんですよね」
などと、納得したりする。

だから、違うって! 話をちゃんと聞け〜!

けど、最近は、丁稚どんのこういう口癖にも慣れてしまったので、すぐに「丁稚どんは関係ない」ときっぱり言うか、「うんうんダメだよねやっぱダメだねそりゃやっぱりダメなんじゃない」とひそかにイジメたりするようになったのだった(ワシもワルよのお)

けど、最近は、私がイジメるのを知ってかどうかわからんけど、「私もよくやるんですよね」から「だから私ってダメなんですよね」へとは続かなくなってきたようだ。私のいいかげんな性格が伝染ったかなあ。

夕方、専門学校の講師研修会に参加。合同研修なので、他の学校の講師の人もたくさん来ていたようで、大阪シナリオ学校でお世話になっていた映画監督とも会う。夜遅く帰宅。


休日だけど、あいかわらず仕事

3月6日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝から外出。終日、事務所に入ったり、銀行などあちこち外出。3月は、雑用が多いなあ。

小説とは関係のない休日(鶴見新山)

3月5日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

天気もよく、すっかり快晴。どこかの山にでもでかけたいところだが、朝からバタバタ雑用。昼から子どもたちがブーブー文句を言うんで、やむなく鶴見緑地へ。というわけで、緑地の鶴見新山を登る。低山にもほどがあるんだが。次は、日本一低い山として有名な「天保山」かな(地図に載っている最も低い山らしい)

帰宅途中、家の近くの道路で、なぜか大学時代のクラブの後輩にばったり会う。たしか彼女は、奈良に住んでいるはずなのだが、「この近くに、おばが住んでいるんですよ」と、2人の子供連れだった。部員数がかなり少ないクラブだったんだけど、今ではほとんど結婚して子持ちだったりする。
(でも、数年前に一人亡くなってしまったし、大学時代にも、後輩が事故で亡くなっているんだが)

ウソつきのプロ

3月4日(土)
朝から小説講座の事務所。夕方から、第9期生の講義。本日は、田中哲弥先生の「ユーモア・ギャグ小説」

生徒募集の時期なので、何かと忙しい。電話のお問合せが数件。平日は、打ち合わせなどがあると、事務所を留守にしてしまう。留守電にガチャと切れる音があったりして、とても申しわけない。

夕方の講義は、田中哲弥先生。髪が伸びて、なんだかすごく若返って、さわやかな感じ。講義は、けっこう好きな内容なので、みんな真面目な顔で講義を聞いている間、一人で教室の後ろでウケてしまう。中でも、演芸作家だった頃のエピソード(ナンバの交差点の話)を聞くのがちょっと好き。

ちなみに、田中哲弥先生が演芸作家をやっていた『うめだ花月』では、その1〜2年前まで、私は出札係をしてたのだ。ま、二十年前の話だけど。ニアミス。

ところで、田中先生の『大久保町シリーズ』(電撃文庫の三部作)には、隠れファンがけっこういる。(何が「隠れ」なのかというと、たいてい「実は、ボク、あのシリーズ好きだったんです!」という人がいるから、必ず「実は」を入れるから)。実は、大久保町ファンは、20代の男性が多い。

講義中、田中啓文先生がのぞきに来られて、教室のうしろに入って来られた。というわけで、ダブル田中先生になってしまったのだった。哲弥先生、啓文先生、とお名前でお呼びできればいいのだけど、どちらの先生も、なにせ専攻科にも女性ファンが多いんで、誤解を招くような呼称は避けた方がいいのかも(いや、ちょっと誤解されたい気もするが)なんだか、呼び方に迷う。それにしても、小林泰三先生、北野勇作先生など、年齢が近いせいか、うちの作家さんたちってなんだかとっても仲がいい。いつもながらうらやましいことである。

田中啓文先生は、角川ホラー『水霊』映画化がこの夏に公開予定。春には、久しぶりに(数年ぶり)講師をしていただく予定。第9期だけでなく、専攻科の人たちも聞けるようにしないとブーイングだろうなあ。先生に相談して、教室を調整しなくては。お楽しみに。

講義後、いつもの中華屋で飲み会。生徒さんたちが二人の田中先生たちを囲んで、いろいろ質問。『大久保町』のあるシーンの内容について、ある生徒さんから質問。
で、「それもあれも、作品のために作った設定だから、まるっきりのウソ」と言われて、「え、あれは本当じゃないんですか。よく調べてあるなあと思ったのに!」と絶句する生徒さん。「すっかりまるっきりウソ」をそれらしく、本当らし〜く描くのがプロ作家さんだしねえ。

ま、でも、その魔法にひっかかるのは、彼に多少知識があるからである。手品でも、ミステリでも、知識がある人の方がきちんとひっかかるもんで。ぼーっとしてる人は、ひっかかるもクソもないんですわ。あいにく私などミリタリー系の知識がまるでないので、そういう驚きもよくわかりません。なんかつまんない。

けど、虚実いりまじり。プロの作家さんは、みなウソつきのプロです。ホンマモンの専門家ならさすがにダマされないでしょうが、生半可な知識ならすっかりダマされる。しかし、飲み会でも集まって冗談ばかり言ってるだけでも、どこまでホントかわからないくらいです(やっぱり常習的なウソつきばかりですね!)。

そう、小説講座は、ウソつき集団。ただ、私だけは、小説を書かないから、絶対にウソをつきませんけどね(いやホント)

03/07/2006

ひままつりもとうに過ぎて

3月3日(金)
午前中、小説講座の事務所。午後から外出。

昼から専門学校の補講。夜、遅く帰宅。冷蔵庫に昨日のケーキの残りがあったので、それをちょっぴり食べる。息子の誕生日ケーキの残りである。3月2日生まれの息子は、いつも祖母からケーキをもらうのだが、なぜか毎年いつも「ひなまつりケーキ」である。かわいらしいケーキで、小さなおひな様とおだいり様の前に、「おたんじょうびおめでとう」と書いてあるチョコプレートもあるのだが、さすがに男の子なので、微妙である。私も、「男の子なのに、毎年ひなまつりケーキというのもなあ」と思っていたのだが、せっかく買ってもらったもんだし、「そういうシーズンなので、ケーキ屋のサービス品なのかなあ。仕方ないのかなあ」と思っていたら、どうもそうではなかったらしい。「だって、ひなまつりケーキの方がかわいいから」と、わざわざ高い方のケーキを買っていたらしい。こういうことをするのは、私の実母である。

さすが母である。この人は、昔からそういう人なのだった。
「だって、かわいいもん」という理由で、いろんなものを買ってくるのである。おそるべし。
(ちなみに、キティちゃんにもハマって、かわいいぬいぐるみなどは孫たちに触られないように、タンスの上に並べている)
私が一番「おそるべし」と思ったのが、かの有名な「地蔵事件」。うちの実家には、小さな庭があったのだが、そこに母は「何か飾りたい」と言い張り、かなり小さな庭なのに、父が買ってきた「灯ろう」だけでは満足せず、あげく「お地蔵さんを置きたい」と言うのだった。

私は、お庭に「地蔵」を置いて、一体どうするのか聞いたら「だって、灯ろうは面白くないもん。お地蔵さんだったら、かわいいもの。水をあげたり、前かけ作ったり、お世話できるし」という。ちなみに、この人は、「宗教は、難しいから、よくわからない」という人で(祖父は、ある宗教の教会長もやっていた人なのだが、まったく関心がない母には、ただ難しいだけだったようだ)、けっして信仰心から「地蔵が欲しい」わけではない。あくまでも「かわいいから欲しい」である。

ところで、うちの父は、このようなアホな年下の妻をとても可愛がっており、ブツブツ言いながらも何でも買ってやるタイプの人だったので、私は、まさかと思いながら、ホントに買ってくるのではないか、と内心かなりビビっていた。が、結局、どうにか説き伏せたようで、ある日、玄関に、信楽焼きの巨大な「たぬき」が置かれていた。よく居酒屋なんかで、徳利を持っているあのたぬきである。わざわざ父は信楽まで行って買ったらしい。特別サイズである。母は、しばらく「地蔵さまの方がかわいいのに」とブツブツ言っていたが、一応、その時はなんとか納得したらしく、「たぬきもよく見たら、けっこう可愛い」と言っていた(ホンマかわいかったら、何でもええんかい)

というわけで、今、実家の庭には、地蔵様はおられない。巨大なたぬきがいるだけ。
(ちなみに、母は、まだ「地蔵」を完全にあきらめていないらしいけど)

というような母なので、孫の男の子に、わざわざ「ひなまつりケーキ」を買うくらい「あたりまえ」なのである。でも、今年は、息子が、直接、注文をつけたらしい。母は、「あっちのケーキの方がかわいいのに」とブツブツ言っていたようだが、さすがに本人の希望なので、今年はめずらしく、ひなまつりケーキではなく、タカラブネの「ピーターパン」のケーキを買ってきた。小さなピーターパンとフック船長が並んでいて、「おたんじょうびおめでとう」のチョコプレートがある。

しかし、よく見たら、なんだか、ひな人形がピーターパンになっただけで、あんまり変わらない気もするのだが、息子は、小さなピーターパンの首を食わえて、ボリボリかじって満足そうだった。あいかわらず、アホな12才。まあいいか。

「書く」という仕事

3月2日(木)
午前中、小説講座の事務所。午後から外出。

なにせこの頃、小説講座の事務所の仕事が忙しいので、フリーでやっているコピーライター業との両立がかなり難しくなりつつある。最近、これが最後かも、と思いながら仕事をやっている。実際には、事務所の低給だけではとても食えないので、広告の仕事を辞めてしまうわけにはいかないし、専門学校の非常勤講師もやってるんだけど、もう少し事務所にも集中できればいいんだなあ。

そうそう、5年以上も連載していたクロスワードパズルが、どうも終了したらしい。そろそろ誰かと交代した方がいいかもしれないなあ、と思っていたので、ちょうどいい時期。これは、8マス×8マスで、ちょっと小さめなパズル。新聞社の仕事で、使えない言葉など制限がけっこう多いし、時事ネタも一切なし。レベルも最低。実は、ちょっと消耗気味であったのだ。クロスワードで、誰にでも解けるほとレベルを低くするというのは、作り手側から言うとかなり面倒。ストレスもたまる。実際には、難しい方が作るのは、時間はかかるが、意外とカンタンなのだ。しかも、面白い。その方が作り甲斐もあるし。

カンタンなものを作るのは、ヒントに制限があるし、作り手が遊べないので、けっこうストレスがたまる。そういうわけで、正直、ちょっと飽きてきていた。クロスワードもいいけど、間違い探しとか、迷路とか、他のパズルを作るのも好きなので、しばらくは、子供向けの絵解きパズルでも作ろうかな。仕事にはならないだろうけど、自分の子供向けに。ま、当分、また情熱が持てるようになるまで、パズル制作は休業である。何にしても、情熱を継続させるのが一番難しい。

ところで、「書く」という仕事には、小説家だけではなくて、いろいろある。広告コピーやクロスワードもそうかもしれないけど、新聞記事、雑誌記事なんかも誰かが書いている。仕事によって、だいぶ内容が違う。だから、「モノ書き」と一緒にまとめてもいいのかなあ、と思うけど、一応、全部、書く仕事である。まあ、大阪では少ないが、編集者やシナリオライターや放送作家なんかもそうだ。まあ、ひとくちに放送作家と言っても、ドラマや映画のシナリオ以外に、ドキュメンタリーや報道番組などの台本を書く人、漫才や新喜劇の台本を書く人など、様々な人がいる。

ところで、実は、私は子供の頃(いや社会人になってからもそうだったけど)、かつて、こういう「モノ書き」になる人というのは、かなり「特別な人」だと思っていた。なにか、きっと「人とは違う才能がある」人間なんだろうと思っていたのである。だから、私は、大学を卒業する時も、自分が何かそういう職業に就くなんか、まったく想像もしなかった。実は、大学は社会学部だったので、マスコミ専攻というものもあったのだが、私は「社会学」の方を選び、卒業後は、外食産業に就職した。数年後、交通事故で身体をこわしてから、たまたま何の仕事をしているかわからずに、ただバイトに入ったのがコピーライター事務所だったわけで、それがなかったら、こういう仕事に就いていたかどうかわからない。

ただ、こういう仕事に就いてから気がついたのだが、モノ書き商売、というのは、とくに特別な仕事ではないのである。少なくとも「特別な才能」なんかは要らない。多少の才能は要るかもしれないが、それも、「本を読むのは、ちょっと好き」とか「作文は苦手だが、いろいろ考えるのは好き」(作文が苦手でも何とかなるが、さすがに物事を考えるのが苦手という人には向いていない)という程度である。

もし、あらかじめ必要な才能があるとすれば、それくらいの『才能』で充分である。けど、そんなちょっとした才能よりは、プロとしての技能習熟の方がよほど重要である。コピーライターなんかも、ある程度、仕事ができるようになるまでに、どうしても3〜5年ほどかかってしまう。そういう意味では、運転手や美容師や保育士などとあまり変わらない。そう、特別な職業と言えば、医者だってそうだし、公務員も、漁師もそうである。

私自身は、たまたまコピーライター事務所で働くようになったので、周囲のいろんな人を見て、それに気がついたのだった。が、周囲にそういう人がいなかったら、今でもやっぱり「モノ書き」というのは、「特別な才能がある特別な人だ」と思っていたかもしれない。とくに、作家というのは、あこがれもあるだろうし、どうしても「特別な才能」があると思いたいところがある。

けど、やっぱりプロの「作家」でも、それは特別な人なんじゃないよ。そりゃ、少しは「特別」なのかもしれないけど、それはそれ。どの職業だって特別なんだし。

ただ、一つ、これは違うなあ、と思うところがあるのは、美容師でも、運転手でも、医者でも、新人の頃は「見習い」の時期、というのがあるが、作家には、そういう時期がまったくないことである。コピーライターや新聞記者だと、先輩に怒鳴られて、何度も書き直しさせられる時期が絶対にあるものだが、作家にはそういう「見習い時期」がない。作家は、新人賞でデビューすると、それ以降は、プロとして一人前のレベルを求められてしまう。「新人だから」と期待はされるだろうが、それほどおおめに見てくれるということもない。とにかく、いきなり「一人前」である。

そういう意味では、一人前になるまで、どうしても自分だけで一人で努力しなくてはいけないので(しかもその間はノーギャラ)、それがちょっと大変かもしれないけど(いくら小説講座に通っても、実際に書くということでは、自分しかできないのよね)。

でも、どんな職業だって、一人前になるには、ちょっとくらいは努力くらいしないといけないのだから、作家だけが、とくに努力が必要、というわけでもないと思う。まあ、世間では「作家になりたい」という人は多いのかも知れないが、実際に、ホンキで考えている人は、百人に一人もいないと思う。(なにせうちみたいな「プロ作家養成の小説講座」の生徒さんでも、実際には、ほんの数割しかいない)
だから、「作家」という仕事をめざしているのだったら、それくらいの努力くらい何だろう。どうせ、作家になっても一生努力は要るのだし、それはどんな職業でも同じ。きっと誰でもやっていることなのだ。だから、そんな程度のことを「大変だ」とか「面倒だ」とかいちいち思わなくてもいいと思う。そりゃ、書くのは一人でやらないといけないので、それなりに苦しいこともあるだろうが、イヤならあきらめればいいだけだし、やっぱりきっと誰かに読んでほしいと思えば、もう少しがんばれるかもしれない。ごちゃごちゃ面倒なリクツはともかく、とにかく読者が金を出して読みたいと思うような作品を書けばいいだけだから、やり方も色々あるだろう。少なくとも、たぶん世間で思われているほど、作家になるには「特別な才能」は要らない。

まあ、こういう同じことを何度も何度も繰りかえして、小説講座でもよく言っているのだけど、なぜか、生徒さんでもたまに「やっぱり才能がないから、ダメなんですかね」という話をするのだった。いや「生まれつきの才能」ってものを完全否定するわけではないが(現実的には、生まれつきというよりは、幼児期の体験の影響くらいはあるだろうが)、どのみち才能より、技能習熟という面の方が圧倒的に大きいから、さほどの影響はないと考えた方がいいのである。だから「生まれつきの才能」などというものを「挫折の理由にする」のは、どうも卑怯な気がしている。

しかし、などという話をしても、「でも、やっぱり何か才能がいるんでしょうね」などと言う生徒さんがたまにいる。まあ、何かよほど「強い思い込み」があるか、どうしてもそう思い込みたい理由があるんだろうけど。うちの生徒さんは、途中で辞めちゃう人はかなり少ないのだけど、そういう話をする人は要注意である。

たぶん金メダルだって、才能があるから取れたんだろう、というのではないだろう。あのために、どれだけの時間を費やしたかわからない。小説を書くのには、それ自体にはほとんど金はかからないが、時間も、頭も、いる。しかし、まあ、金はかからないのだし、作品が書けちゃうのは嬉しいものだし、なにせオリンピックの金メダルよりは、直木賞の方がまだとれそうな気がするでしょ。

だって、直木賞は、4年に一回じゃないから。

03/02/2006

電車男、トマトスープ、ベタなドラマ

3月1日(水)
朝から小説講座の事務所。

夕方まで作品集作成や資料発送の準備など。春募集の「土曜文章教室」の資料の発送準備など。今年のは、新しくカリキュラムも全面改訂。学費も今年は安いんだけど、生徒数はどうだろう。願書は、3月1日から受付開始なんだけど、まだ発送できてないんだよね。

丁稚どんが来て、電車内で見かけたオモシロイ男性の話する。大笑い。
6時まで仕事をして、早めに帰宅する。

夕食は、鶏肉と野菜のトマトスープ。味つけを息子にチェックしてもらう。彼は、まあまあ味つけのカンがいい。私は毎度「ようわからん料理」を作るので、「何が入ってるかわかる?」と聞いたりするのだが、娘たちはまったく興味がないようで、ただ黙々と食べるのみである。息子だけは、食材や調味料をあてられる。ちなみに、今日のスープの味つけは、生のトマトとケチャップ少し、バター、塩、こしょう、ハーブ、隠し味はしょうゆ少々。昨日は、金目鯛の煮付け、水菜の炊いたん、ぜんまいと厚揚げの煮物という和食だったんだけど、スープだけの方が子供たちは好きらしい。

夜、帰宅した夫がめずらしくテレビをつける。彼は、ビデオは見るが、滅多にテレビ番組を見ない人で、たぶん週平均しても1時間未満である。なのに、そんなに「ベタの世界」を楽しみにしているのかあ。しかし、確かに「ベタ」の認識がみんなに備わっているというのは面白いなあ。「こういう話がベタだ」というのは、きっと誰もがどこかで学んだはずなんだが、私はそれを一体どこで学んだんだろうなあ。(テレビドラマか、マンガだろうけど)。なんだか不思議なもんだな。

03/01/2006

リアリティのレベル

2月28日(火)
午前中、小説講座の事務所。午後から外出。
1時から4時半まで会議。事情により、そのまま帰宅。

先日、小説の設定の話で、ちょっと思い出したことがひとつ。

小説はウソの世界なので、それゆえにそれなりのリアリティがいるんだけど、どんなむちゃな設定でもできると言えばできる。ただ、ムチャな設定というほどではなくても、ちょっと不自然な部分というのができてしまうことがある。そういう場合、どうすればいいかというと、以前、講師の先生が説明されていたのだが(たしか黒崎緑先生です)、「小説は、どんな無茶な設定でもいい。ただし、その場合は、ほんの一行、言い訳をしておくこと」なのだそうだ。

これは、以前、ホントにあった原稿なんだけど、ある生徒さんの作品に「生後6ヵ月で歩き出す赤ん坊」が出てきたことがある。子育て経験がない若い人だったのだが、やはりいくらなんでも6ヵ月で歩き出すのはちと早すぎる。ご存じの人は多いだろうが、「赤ん坊」は、個人差が大きい。でも、確かに「つかまり立ち」くらいならかなり早くからできる子もいるのだが、それでも「歩く」のには、もう少し成長しないと無理なんじゃないのかなあ。まあ、8ヵ月か、12ヵ月くらい。個人差はあるかもしれないけど、6ヶ月はいくらなんでも。

では、6ヵ月で歩くというのは、絶対にダメなのか、というと、別にそういうわけでもないのである。実際、小説の読者というのは、どんなに無茶な設定でもけっこう「平気」だという習性がある種族なので、こういう場合でも、たとえば、
「彼は、信じられないほど成長の早い子供だった。だから」と書かれていれば、そう言われただけで、なぜか「そうかそうか。それは信じられないほど成長が早いな。なるほどなるほど」と言って、なぜか納得してしまう。で、すんなり「そうかそうか」と「信じたり」する。なんかヘンなんだけど、だいたいそういうものである。

で、「生後6ヵ月目には歩いていた」のあとに、さらに「12ヵ月目には空を飛んだ」と書かれていたとしても、「なるほど、そうかなのか」と納得する。
もちろん「でも、空飛ぶんだったら、人間じゃないんだろうなあ」と思っているかもしれないけど、とにかく、それだけで「リアリティ」がないとは思わない。けっこう物わかりはよろしいのである。

なんだか妙な現象なのだが、読者というのは、なぜか「あれから百年がたった」と言えば、「そうかそうか、百年たったんだな」と素直に思ってくれるという、なぜか有り難い人たちなのである。こんなに有り難い人たちなので、それなりにうまくダマしてあげるのが礼儀正しい態度だと思う。

つまりリアリティの持たせ方というのは、作品ごとに違うので、その設定とか描写がどれくらいで不自然になるかというのは、微妙に基準が違う。
(『寅さん』と『ゴジラ』のリアリティは、それぞれ違う。『小林サッカー』と『ムトゥ踊るマハラジャ』もかなり違う)。昨日たまたまテレビで、宮崎駿監督がインタビューに答えていたのだけど、「ウソのレベルは、その作品によっていろいろ違っている」とおっしゃっていた。アニメもそうだろうけど、小説もウソの世界だから、作品ごとによって、ウソつき具合のレベルがちょっと違う。

つまり、それによるので、小説を書くのにどれくらいリアリティがいるか、とか、資料が要るかどうか、とか、そういうのは、その人の書く作品によるのだから、自分で考えるしかない。まあ、作品の長さにもよるだるし。まあ、基本的には、読んでいる最中に、読者が気にならなければオーケーということなんじゃないのかなあたぶん。

小説とは関係のない休日(テストは、犯人あて)

2月27日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

専門学校での非常勤講師のお仕事。本日は、テスト。といっても、大学の単位テストと違って、平常点で70点もつけているので、テストは30点満点。この学校は、デッサンなどの実技がメインなので、テストを実施する先生は私の他にはほとんどいないみたいだけど。私も、講義を欠席しがちな人のために、一発逆転ボーナス点をあげるつもりで、実施してるだけ。

テストは、ビデオを一本見て、2枚のレポートを書くというもの。私は、とにかくレポート用紙の最後の行まで書けば、内容はともかく、それなりの点数をあげるので、かなり採点は甘いのだ。ただ、見るビデオは、ミステリ『情婦』で、犯人当て。真相をゼッタイ人にバラしてはいけないこの映画。そのビデオのラスト10分くらい、ちょうど真相の手前で、ビデオをとめてから一枚目のレポートを書かせる。それから最後まで見てから、二枚目のレポートを書いてもらう。

ま、なにせ点数をあげるためにやっているようなテストなので、とにかく何でも文章が書いてあったら高得点。なので、犯人が当たっていても、真相がわからなくてもいいと言ってあるのだが、やはり「犯人あてだよ!」と言われると、みんな必死で見るらしく、真相がわかると大騒ぎ。今日も「ぎゃああ」という叫び声があがったり、「えー? ええー??」と呆然としていたり。いや、そんなに素直に驚いてくれると嬉しいけどね。アガサ・クリスティにお礼を言わなきゃ。

しかし、こういうテストを、毎年、どのクラスでもやっているのだが、「ミステリなんて見たことなかったけど、すごく面白かった!」と、かなりミステリファンを増やしているらしいので、けっこう業界に貢献してますね。

まあ、このビデオは、ラストの展開がめちゃくちゃ早いのだけど、なにせ古い映画で、白黒で法廷モノなので、「犯人当て!」とでも言わない限り、生徒さんたちは、頭からバカにして見ようとしないのだ。とにかく、今回も、けっこう盛り上がった楽しいテストでした。ははは。

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