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11/30/2005

早退して、小学校の行事

11月29日(火)
午前中、小説講座の事務所。午後から早退。

朝、講師のかんべ先生のラジオ番組「朝はミラクル」に、SF作家の堀先生が出演していた。前回は、ジャズ愛好家としてのご出演だったけど、今回は、「早朝グルメ研究家」。本日は、早起き特集なので、そのゲストである。

話題の中に出てきた「天満の安いウナギ屋」というのは、当時はかなり有名な店で、私も大学生の時から何度も通ったところ。まあ、私の場合は、もちろん早起きではなくて、飲んだ帰り。大学の頃は、いわゆる勤労学生だったのだが、4回生にもなる頃には、すっかり金もたまったので、けっこうよく飲みに行くようになった。その頃、バイトは、某外資系企業の製品開発の部門で、研究助手のようなことをしていた。ここは「週給」の現金払いだったせいで、毎週給料をもらった金曜にはたいていパッと飲みに行く。(しかし、おそろしく安い店で、たしか2000円で朝まで飲んでいた覚えがあるから、さほどの散財でもないんだけどね)

そのあと、深夜2時頃にウナギを食べに行ったら、そのまま東通りまで歩いて、深夜営業の喫茶店で朝まで時間をつぶすことがよくあったなあ。まあ、20年前の話だけど。

昼から仕事は、早退して、子供たちの小学校へ。今年は、PTAの広報委員なので、小学校の「学年集会」へ写真を撮りに行く。1時間ほど、子供たちと球技や簡単なゲームを楽しむだけの行事なので、私はこれまで一度も出たことがなかったのだが、3分の1ほどの保護者が集まっていたのに、ちょっと驚く。平日の昼間に、こんなに集まるとは……。どうも、すごく「専業主婦率」が高い気がするんだけどなあ……。この地域の特徴なのかなあ。まあ、割合と言えば、専業主婦は、兼業主婦よりは少ないはずだが、実際、有職主婦のうち、かなりの割合の人は、パートタイマーらしいからなあ。この学校には、一学年100人ほど生徒がいるのだが、「幼稚園」ではなくて、「保育所」出身は、約1割らしいしな。

女性の社会進出が進んだといっても、実際には、こんなもんなのですなあ。

夕方、めずらしくスイミングスクールまで、子供たちのお迎え。大阪市は、放課後に「いきいき保育」というのをやっているのだが、これがあまりアテにならない制度で、「放課後に、学校内にいてもいいよ」という程度のもので、指導員の数も少ないし(3人くらいしかいないのに、登録は100人)、いちいち誰が来ているのか把握してないようで、昼間は家族が不在という家庭が多いだろうに、子どもがいてもいなくてもチェックもしない。だから、保護という意味ではアテにはならない。登録してしても利用している人はかなり少ないようだ。

うちも、長男が低学年の時に利用したのだが、雨の日は、ただビデオを見ているだけとか、さほど利用価値があるとも思えず、これはどうも帰宅が遅くなるだけだとわかったので、現在、小学2年の娘たちは登録もしていない。まだ明るいうちに家に帰宅してくれた方が安心である。ただ、両親が働いていると、たとえ子供が事故にあったり、誘拐されても、なかなか気がつきようがない。というわけで、それもあって、うちは、スイミングに週3日通わせている。スイミングに来ているかどうかは、電話すれば確認できるので、まだアテにならない「いきいき保育」よりましである。

私自身、子供の頃、変質者に追いかけられたり、空き家につれこまれそうになったことが何度かあったので、こういう危険性はいくら注意しても足りないくらいだと思っているけれど、仕事がある以上、子供たちをずっと見張っているわけにもいかないのも事実。うちは双子なので、たいていは二人で行動しているけれど、それでもたまに単独行動はしているようだからなあ。

しかし、イギリスに住む友人から聞いた話だと、小学生の子供は、登下校は、完全に保護者の送り迎えつき。しかも、朝夕、保護者が一列になって点呼を待たないといけないんだそうだ。もちろん昼間遊ぶときも、保護者が監視しなくてはいけないらしく、子供たちだけで遊ぶというのは「ありえない」んだそうである。まあ、この国では、7万円ほどの給料を払えば、若い女性が「住み込みのベビーシッター」として子供たちの世話を見てくれるらしいので、成り立つのかもしれないけど。まあ、しかし、アメリカなんかは、変質者や行方不明の子供の数もケタが違うわけで、まだ安全なのかもしれないけど、でも、そのうち子供たちが寄り道して帰るなんてのは、不可能になるのかもしれないなあ。ホント、子供も大変ね。

小説とは関係のない休日(市長選結果、非常勤など)

11月28日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝の新聞を見たら、大阪市長選挙は、ほぼ予想通りの結果。昨夜は、私は夜8時ギリギリに投票に行ったんだけど、そのあとテレビですぐに当確が出てしまったようだ。つくづく盛り上がらない選挙だったなあ。

終日、外出。午後は、小説講座ではなく、専門学校で非常勤講師。講義内容にもよるけど、なぜか今日はけっこう大変。4コマ連続でクタクタ。体調が悪いのかなあ。講義終了後、1時間ほど教務室に残って、9時頃までレポートの整理。10時に帰宅して、軽く夕食。テレビなど見て、早めに就寝。

11/28/2005

小説とは関係のない休日(紅葉狩り、箕面の滝、昆虫館)

11月27日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

秋晴れのいい天気。せっかくなので、箕面に「紅葉狩り」へ。子供連れだから、もちろん「昆虫館」も。「心斎橋より混んでるらしい」というウワサなんで「すごい人出だろうなあ」と思いながら、阪急電車で箕面駅まで。まあ、人は多いけど、お祭りみたいでそれはそれで楽しいよねえ。揚げたての「紅葉のてんぷら」をかじりながら、ぶらぶら歩く。途中、川辺で弁当。途中、川辺で遊んだり、テントウ虫の群れを見つけたり、子供連れなので、駅から1時間あれば、たどり着くはずの箕面の滝になかなかたどり着かず。途中、のんびりサル一匹発見。時期的には、紅葉は最高。彼らは、昆虫館も初めてで、放蝶園も大喜びである。めずらしい蝶が目の前で花のミツを吸っているのに、奇声をあげていた。

梅田で夕食を食べて帰宅。テレビを見ながら、夫が焼いたクッキーを食べたりして、子供たちは「紅葉」のお絵書き。

たまには、グループ実習も楽しいよ

11月26日(土)
昼前から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。夜は、小説講座「第9期」のガイダンス。

本日の授業は、ガイダンスと教室実習なので、プロ作家の講師はいない。本科では、年35回の講義のうち、5〜6回は教室実習日。通常は、プロの作家さん十数名が交代でやってきて、レクチャーをしたり、作品指導をするのだが、教室実習日は講師はいないのである。まあ今回は、1時間ほどはガイダンスだったので、実習は、毎度お馴染みの「キャラクターシート」を使ったグループ実習。3人一組でやるタイプのものだが、うちの講座ではお馴染みの実習。どっちかというと、日頃は話をしない生徒同士がちょっとおしゃべりするきっかけみたいなもの。これは、「キャラクターシート」というものを使って、3人でやるブレーンストーミングみたいなもの。あらかじめ、ある条件を決めて、その範囲で、名前とか現住所とか年齢とか体形とか「シートの項目」をそれぞれ自由に書いてもらい、その3人の「キャラクター」がどういう出会いになるか、その「親」たちが集まって、話をしてもらうというもの。「人物表」の組み合わせによっては、たまにものすごく面白い結果になることもあるし、まあ、あんまり盛り上がらないこともある。まあ、どうも、参加者の組み合わせにもよるけど、盛り上がるかどうかはこの「人物」の組みあわせのパターンにもかなり左右される(くじ引きなので、偶然の運不運)。

私は、この実習は、専門学校でも毎年やっているので、もう何十回もやっているのだが、まあ、テクニックを覚えるとか、これで作品を作るというタイプのものではなくて、何らかの「気づき」を誘発させるような実習なので、うまくハマる人とあまりハマらない人がいる。私自身は、発表を聞くのがけっこう面白い。このシートを使った実習は、条件指定を変えればいろいろやり方を変えられるが、一番簡単なのが、恋愛をさせるタイプ。この方法だと、あたえる条件がせいぜい性別くらいでいいし、年齢もおおざっぱでいいので、参加者の能力差がある時はラクである。あとで、それぞれのグループごとに発表してもらうのだが、それを聞いていて、どのグループの発表が一番面白いかと考えてみると、案外、いろいろ気がつくことがあって、面白い。

よく「おもしろいキャラクター」とか「キャラクターがたつ」などという話を聞くし、小説やマンガを書く人も「面白いキャラクターを作りたい」とか「魅力的な人間を描きたい」と思っている。ところで、こうして、短時間でさっと発表されるのを聞いていると、その時点で、「なぜか興味をそそる話」と「あんまり関心がもてない話」というのがある。もちろん発表の技術もあるけど(詳しく説明してくれても、さっぱりわからないことがある)、どこかに組み合わせの問題がある。

やはり、ある程度、興味をそそる「人物」というのがあるらしい。簡単にいうと、興味をそそるキャラというのは、『やたらリアルな人物』(本当にそこらにいるくらいに、設定が細かくて具体的に感じられるキャラ)か、設定がわかりやすく『目立つキャラ』(フリーターで警備員をやっている吸血鬼の青年とか)かどっちかで、それ以外はちょっと不利なのだが、ただし、それでも3人の組み合わせによっては、それが生きてくることもあれば、あまり興味をそそらない結果になることもある。

どうやらキャラクターというのは、個々の人物像というよりは、それぞれの物語の背景や行動の目的にあっているか、とか、あるいは「組み合わせ」の問題がかなり大きいらしい。あたりまえと言えば、あたりまえなのかもしれないが、空想上の人物とは言え、この「人間」たちは「生きて動く」のが前提なので、誰か別の人間と会うと「しゃべったり」「仲良くしたり」「憎みあったり」してしまう。まるで「化学変化」みたいなことを起こすので、大人しい性格の平凡な人物でも、秘密組織に追われている少年が突然自宅に飛び込んで来たら、思ってもみないような意外な行動をついついやったりする。

まあ、この実習は、ほとんど「遊び」でやっているので、あまり創作には直接的には関係ないのだが、あちらのグループ、こっちのグループと話をしているのを聞いているとけっこう面白い。空想力がたんまりあふれているタイプで、人物表を見ただけで、色んなアイデアが次々思いついて来て仕方ないという人もいれば、全然、思いつかない人とか、もともと興味を示さない人とか色々いる。まあ、小説を書く人の中には、人見知りでも、自分の好きな分野の話ならめちゃくちゃおしゃべりになるというタイプの人もいるので、意外な人がよくしゃべったりしているので面白い。実は、「人物表」自体を作るのは、誰でもできるのだが、どうやら他人の作った人物像を理解して、その行動を予測するのに多少、能力差がでるみたいだ。まれに、自分が作った「人物」ですら、ある事件に対して(例えば、捨て子を発見してしまうとか)どういう行動をとるかすぐに想像つかないという生徒さんもいるようだ。面白いのは、同じ趣向のある生徒さんばかりが集まると(サスペンス好きばかりだと、すぐにピストルとか出て来たりするが)、案外、同じ傾向ばかりだと、すぐに「これで納得。これしかない」という結論に落ちてしまい、ブレインストーミングとしては盛り上がらなかったりする。作られた方の「人物」もそうで、あたりまえだが、全員が「引きこもり傾向」の性格だと、みんな家から出てこないので、キャラ同士が出会うことができない(「出会いのシーン」を考えるのが課題なのである)。まあ、それぞれの現住所が離れている場合は、まず飛行機やら新幹線に乗せて移動させないといけないのだが、趣味や仕事がないと出かける理由がみつからない。子供だと「親の職業」などがあればいいが、理由もなく、東京から大阪にはやってこない。

かと言って、たまたま近所にみんな住んでいても、さほど面白くない。組み合わせも、平凡なキャラばかりだと、これまたつまらないし、かといって、エキセントリックなキャラばかりでもみんなむちゃくちゃな行動をとるので、けっこう大変。ちなみに、一人くらい「江戸時代の商人」の設定のキャラとかがいても、適当に「洞窟」だの「古井戸」だの「事故」だのがあれば、いつでも時間はカンタンに超えられるので、それはほとんど問題ではない(これは、専門学校のマンガ科では「犬夜叉方式」、小説講座では「蒲生邸方式」と呼んでます)

ところで、課題が「恋愛」の場合、いきなり他人が作ったキャラクターと恋に落ちなくてはいけないのだが(一応、性別と年齢範囲は指定してある)、それでも場合によっては、「これは絶対に両想いは無理」という組み合わせはある。もちろん片思いでもいいのだが、多少、つりあいがとれないカップルでも、なぜか出会うまでにキャラたちがいろいろ走り回らないといけないので(こういうのは、たいていお互いの生活圏が重ならないから)案外、おもしろかったりする。まあ、実習はうまくいっても、うまくいかなくてもいいんである。でも、どんなキャラでも組み合わせ次第で面白くなる可能性はあるし、誰でもいろいろな発想の可能性はあるんだと気づいてくれればいんだけどな。

もちろん日頃は、自分が書いている小説の中では、他人の作ったキャラなんか登場しないわけだけど、まあ、小説を書くのは孤独な行為なので、たまにはこういう機会に、色んな人と話をするのは面白いだろうから。

講義後、今日は講師がいないので、のんびりと飲み会。このクラスは、飲み会も早めに終わるので、途中、書店に。6千円ほど買い込み、深夜12時頃帰宅。『爆笑オンエアバトル』など。

11/26/2005

児童書も楽しいね

11月25日(金)
朝から小説講座の事務所。

午前中、銀行など。支払い数件。夕方まで作業をして、4時から移動。南森町で、募集広告の打合せ。そのあと飲みに行く。生ビール180円。なかなか安くていい店ですな。もう少し天満橋近くにあればいいのに。講義後に飲めるのになあ。

11時頃、帰宅。いつもなら金曜日は早めに寝るのだが、なぜかあまり眠くない。そのまま『探偵ナイトスクープ』を見て、ごちゃごちゃ深夜番組チェック。

たまたま飲みながら、児童書の話をしたので、「そういえば、息子や娘の本棚には、どんな本が並んでいるんだろう」と思って、子供部屋をちょっとのぞく。息子は、この数ヶ月、ハリーポッターをちびちび読みつつ(最近は、さすがに小6には分厚いらしい)、デルトラなど。小2の娘たちは、まだ低学年なので、図書館などでも、人気があるのはやっぱり「ゾロリ」「ぼくは王さまシリーズ」。『ずっこけ三人組』は、まだ早いのか、女の子にはあまり人気がないのかわかんないけど。ゾロリは、男女とも人気あるみたいだなあ。しかし、子供たちは、しょうもないことでゲラゲラ笑う。ゾロリは、「おやじギャグ」ネタが、おもしろいらしい。そんでもって、たまに父親が「だじゃれギャグ」を口にすると、「寒い。ギャグ攻撃やあ」とげらげら喜んでいる。

子育ての面白さは、子供を通じて、自分の子供時代を追体験できることなのだけど、私の頃とは、似ているようでやっぱり違う。彼らは、彼らなりの子供時代を過ごしているのだ。そんでもって、ついつい「あんたたちはいいねえ。仕事もないし、気楽で楽しそうだねえ」なんて言ってしまうと、「いやあ、これでもけっこう大変なんやで、ママ」なんて大人びた口調で言われてしまうのだった。まあ、そりゃそうだろうけど、まあ、そりゃ私も、小学校の時、友だちに「絶交」されたり、やってもないことで先生に注意されたり、あるいは、たまたま宿題をやっていないだけで、「ああ、いっそ、死んでしまいたいわ」と思うくらいだった記憶があるけどさ。でも、まあ、「子供に返ってみたいわ」なんて言うのは、大人の特権なんだからさあ。それくらい言わせてくれよう。

ちなみに、私が子供時代に好きだった本を思い出してみた。『ナルニア国物語』『ドリトル先生』『ルパン』『ホームズ』『二十面相』『SF全集』……。このあたりのシリーズは、図書館の定番。(なにせビデオもゲームもない時代に育ちましたんで)自分が持っていた本で、一番気にいっていたのは『おさるのジョージ』『不思議の国のアリス』『スケートをはいた馬』『海底二万里』『たのしいムーミン一家』『若草物語』『赤毛のアン』など。今、気がついたが、子供の頃、読んだお話といえば、ストーリーの他にどうも覚えているのは「食事のシーン」とか「お茶のシーン」ばっかりだあ。うーん。そうか、どうも私は、子供の頃から、読書の楽しみの基準に「食事シーン」を重視する傾向があったのだな。ははは。ってか、ただの食いしん坊なだけじゃん。

11/25/2005

どっぷり仕事の一日

11月24日(木)
終日、小説講座の事務所には入れず。

朝からずっと自宅で作業。先週から、パソコンの前にガラスの瓶が置いてあり、ベタが一匹が泳いでる。この魚は、娘が200円で買って来たものなのだが、長いひれがあり見かけは美しいのだが、ぼおっとしている妙な魚。鏡を見せると、急にあわてて踊り出すのだが(オス同士は縄張り争いがあるんだそうで、自分の姿が見えると威嚇してくる)、あとはまるで死んだみたいに浮いてるか、沈んでいるかのどっちかである。生き物を飼いはじめると、みんな適当な名前を勝手につける。そのうち一番呼びやすく、バカな名前に固定するんだが、今はまだ適当な名前で呼ばれている。ベタを飼うのは初めてだけど、けっこう面白いな。

今度の日曜日、ある講演会があって、東京へ行きたい用事があるのだが、どうしても都合がつかず。来週は、法事だしなあ。ブログに意外な人からのコメントがあり、ちょうどメンテナンス時間で気づかず、妙にあわててしまう。仕方ないので、一人でとりあえず踊ってみる。何かあったら、人は踊るんやなあ。(今日の朝ドラによれば、阿波踊り)。

あんまりはかどらないけど、夕方6時半過ぎまで仕事。あわてて買い物に行く。安売りのお刺身があったので、卵焼きを作って、ごまや大葉、野菜などで簡単なちらしずし、豆腐とワカメのみそ汁。夫と息子、娘(双子の姉の方)がジョギングに出かけてから、残った娘の九九(やっと8の段)を聞いてやり、お風呂。最近、夫のせいで子供たちにバレエストレッチが流行っているみたいだけど、身体がかたい私は全然やらない、絶対やらない。やりたくてもできない。

夫は、滅多にジョギングなどしないのだが、なぜか冬になると外を走る。またフルマラソンに挑戦しようかなあ、などという。彼は、20歳で踊りをはじめたのだが、公演がしばらく間があくと身体がまなるらしく、たまにジョギングをする。だが、彼とは同じ高校だったので、私は知っているのだが、実は、ものすごくスポーツが苦手。球技もヘタ(野球もほとんどできない)、マラソンも完走できない。まさかそれがフルマラソンを走るようになるとはなあ。人間って、わかんないなあ。

11/24/2005

小説とは関係のない休日(クリスマスカードとチキチキバンバン)

11月23日(水)
小説講座の事務所は、日曜、月曜、祝日お休みです。

午前中、子供たちと家の大掃除。午後から近くのホームセンターへ自転車でショッピング。日本最大級のホームセンターがすぐ近くにできたのである。しかし、この周辺はスーパー、ショッピングセンター、ファミレス、ホームセンターなどが次々とオープンする。しかも、今のところ、まだどの店もつぶれてないのが驚きである。それだけ人口が多いのかな。

日用品いろいろ購入。お風呂のイスも、子供用が使えなくなってきたので、十年ぶりに捨てて大人用を2個買う。

夫は公演のリハーサルで留守。義母にもらった松茸御飯、鶏肉と豆腐などの鍋。子供たちは、早くもクリスマスカード作り。私は、『チャーリーとチョコレート工場』が見たかったのだが、どうしても映画館に行くヒマがなく(専門学校の生徒さんに自慢された。くやしい)、代わりに、借りて来た『ピーウィの大冒険』と『チキチキバンバン』のビデオ(ピーウィは、ティム・バートンで、これはまだ見てなかったヤツなので。チキチキバンバンは、チョコレート工場の原作のロアルド・ダールが共同脚本だから)。

11/23/2005

受賞式に参加してみたら

11月22日(火)
午後から小説講座の事務所。

丁稚どんに「作品集」の印刷や発送準備などをお願いしてから、事務所から移動。『第4回「みち」と「近畿」をテーマにしたショートストーリーコンテスト』の授賞式へ。このコンテストは、多少関わりがあったからである。といっても、うちの「創作サポートセンター」で下読み選考の手配をしただけなので、私自身が選考に直接関わっているわけではない。委員の難波先生にも、面識はないである。ただ、今回も私自身が下読みをしたわけではなくても、責任をとらないといけないので、全作品すべて私も読んでいる。(実際に、選考をした方の名前は、今回も秘密)。だから、全作品の成績表も手元にあるのだが、最終の選考結果は、つい先日まで知らなかったのだった。

このコンテストは、今年で4回目らしい。私が関わったのは、今年が初めてなのだが、主催が「お役所」であるせいか、このコンテスト、多少、意図がわかりにくい。より多くの人に「みち」に親しんでもらうのが目的なら、もう少し多くの作品が集まるようにして、たとえば小学校や一般向けの「作文」や「体験文」なども募集すれば、もっと有意義ではないかと思うのだが、なぜこういうシステムになっているのか、少しわかりにくい。応募数もかなり少ないし。でも、最優秀賞は賞金30万。しかも、佳作とあわせて6編も受賞している。うちの生徒さんの中には、「何のために」という印象を受ける人も多いだろうが、私にもその辺の事情はわからない。

今日の授賞式は、20〜30人の参加者。一般公開だが、関係者しか来てなかったようだ。いくら行政機関でも「費用対効果」が気になるだろうから、このコンテストも、来年はもっといい運営方法を検討した方がいい気がするなあ。なんか事情があるのかなあ。むろん行政が実施するものなので、どれほどの効果があがっているかどうかは毎年検討されているんだろうと思うけど、コンテスト内容にしても、どうせならこうした方がいいんじゃないのかな、と思う点がいくつかある。来年、実施されるかどうかわからないけど、改善されるといいな。とくに行政機関が、こうした文章(小説なり、エッセイなり)のコンテストをすることはいいことだと思うし、振興を願うものだが、その場合、必ず実施目的と方法がきっちり効果的に行えているか、それなりに検討すべきだとは思っているのだ。

「創作サポートセンター」は(まだ法人格は申請してないのだが)、一応、ボランティア団体なのである。(小説講座の運営は、その活動の一環です)。この「大阪NPOプラザ」に入居しているのもそのためなのだが、そういう意味では、こうした行政機関との関わり方も、きちんとした関係のとり方を考えた方がいいのかもしれない。今回は、単に下読み(選考者の手配と調整)を依頼されただけだったので、実際、詳しい運営方針やら内容が理解してなかったのだが、今後は、こうしたコンテストは、もう少し関わるなら関わるで、ちゃんと理解したうえで、きちんと対応をした方がいいんだろうな。私も、「創作サポートセンター」の責任者としては、そのあたりのポリシーはしっかり持っていた方がいいのだろうと思う。しかし、次から次へとしなくてはいけないことが多くて、少ないスタッフの手に余ってくるなあ。「創作サポートセンター」の設立の目的から考えれば、こうした行政が実施する「ストーリーコンテスト」も、ある意味、積極的に関わっていくべきなのかもしれないが、なにせ人手が足りないからなあ。

さて、そのうえで、少しこのコンテストについての個人的な感想。(これは、きわめて個人的な感想なので、下読み選考の人たちや選考委員長の難波先生とは、まったく関係のない発言として考えてください。受賞作は、おそらくインターネットでも読めるはずなので、興味ある人は検索してそちらのページをのぞいてもらえればわかるでしょう)。下読み成績表が手元にあるので、この6編が選ばれるのは、おおよその予想はついていたのだが、ただ最優秀作品については……まあ、仕方ないのかなあ。これは想像なのだけど、おそらく、難波利三先生も「これを選ぶしかなかった」のではないかという気がしている。

たぶん、専攻科の生徒さんなら気がつくと思うが、この作品はそれなりにはよくできている。悪くはない。でも、「いい作品か」と言われると、個人的にはちょっと迷う。というのは、まるで大学受験の小論文対策みたいに、「傾向と対策」を勉強して、「ほら、よく書けました。どうですか」という感じがどこかにするのである。ある程度、文章を読み慣れている人が読めば、どことなくアザトサにも気がつくかもしれない。なにせ道をテーマに、「車椅子駅伝」「親子愛」「努力」……。それなりのネタ、それなりの構成なのだが、あまりにも「お役所コンテスト」狙いが見えてくる。もちろん「まあ、うまい」のは確かだけど、そういう意味では、「優等生」的な作品なのかなあ。まったく作品を読まない人なら、あらすじだけで「いい話ですね」と言うかもしれないが、私は、読者というのは、案外、だまされないものだと思っている。(そりゃ、まあ、私自身、あんまり読み手としての能力はさほど高くないんだけど)

しかし、そういうことは、ある程度、読み慣れた人なら、それはすぐにわかるだろうと思うし、難波先生にももちろんそこのところはわかっているはずである。で、授賞式の先生の選評を聞いて、私は確信したのだが、どうやら先生も、それは全部わかっていて、あえて選んだのではないかと思う。たとえ応募作品数が少なくても、最優秀賞を一作、どうしても選ばなくてはいけないわけだし。

ところで、この最優秀作以外の5編については、けっこう面白いので、受賞は個人的にもちょっと喜ばしい。5編のうち3編は、「何らかの自分の体験なり、実話がもとにあるんだろうな」と思うような内容のもので、小説というより、体験談みたいな作品だ。文章もたどたどしい部分もある、内容は興味深く面白く読める。あとの2編はエンターテインメント系で、1編は、奈良の鹿の話で、鹿が「かもめのジョナサン」みたいに旅立つのである。どこかすっとぼけた雰囲気でなかなか面白い。しかも奈良の情報もそれなりによく調べられているので、けっこう読ませるところもある。もう1編は、近畿の道たちを擬人化して描いたもので、これは非常に出来がよい。アイデアだけでなく、内容もなかなかである。ただ惜しいのは、これは、コメディタッチなのである。

私は、最終選考には一切関わってないので、憶測なのだが、ギャグは「お役所」実施のコンクールの最優秀作品では、選びにくいタイプなのかもしれない。あとの三編も、実話らしく、内容はとてもいい話なのだが、どうにも文章にアラが目立つ。ちなみに、授賞式のコメントでわかったのだが、このうち2人は、ほとんど初めて書いた作品らしい作品だったそうだ。だから無理もないのだが、あきらかな表現上のミスとか、文章に不明なところがあるから、これは、さすがに最優秀には選びにくい。

ということは、つまり、この作品が最優秀を受賞するのは順当と言えるわけである。だから、私もこの選考に異論はない。だけど、どこか「仕方ないなあ」というような、ちょっと割り切れない気持ちを捨てられないでいる。この作者、授賞式のコメントを聞くと、昨年度の佳作入賞者である。だから、あきらかに今年は「傾向と対策」をして応募してきたようで、授賞式のコメントでも「今年はやっと最優秀をもらえました」と得意満面の笑顔を見せていた。それはそれで喜ばしいことなのだが、この少ない応募数のおかげで、こういう作品が受賞できてしまったのは、この人にとって、本当の意味で、幸なのか不幸なのか、はたして私にはよくわからない。もちろん賞金30万(お役所主催だから、税金なんだけど)を獲得できたわけだから、本人にとっては、むろん幸運なのだろうが、もしも「こういう作品でいいんだな」と思い込んでしまうとしたら、そして万一にでも、本人がプロ作家志望なら、ある意味では、不幸と言えなくもない気はする。まあ、私が余計な心配をする筋合いはないんだけど。いや、ご本人の勝ち誇ったようなコメントが、ほんのちょっと気になっただけかもしれないけど。

いつも思うんだけど、たとえ技術的にはうまいとしても、作品がどうもってのは、一体どういうことなんだろう。こういうのって、どうなのかなあ。

地方の同人誌などにも、小説を書いている人はたくさんいるし、ネットでも、ちょっと検索すれば、いくらでも観察することができる。その中には、小さな賞をとっただけで、思いっきり威張っている人もいて、まあ、ネットで見る分には、どうせ私には関係ない人なのでこんなことは別に気にしなければいいのだが、こういう人を見ると、どうしても私はどこか胸が痛くなってしまう。いや、もちろん本人には余計なお世話なんだけど。うちの生徒さんには決していないと思うけど、受賞って、ある意味では、要注意なんだなあ。

うちの小説講座も、コンテスト受賞者は「特待生」で入学できるのだが、だいぶ前に入賞された人の中には、受賞したことによって、それで満足して小さなプライドを持ってしまったという人もいる。もちろんプライドを持つのはいいことだと思うのだけど、まれにそのせいで次の作品が書けなくなってしまうみたいなのである。小説を書くには、自意識や自尊心はいくらでも持っていていいとは思っているのだが、もしかすると、このバランスが難しいのかなあ。

ところで、私は、この作品を最初読んだ時、「作者はたぶん公務員か塾講師。あるいは同人誌経験者か」と思ったのだが、はたして、これは当たっていた。どうやら塾の講師らしい。(だから「傾向と対策」で書いた作品みたいなのかな)。というか、実はうちのコンテストに応募してくるのは、なぜか公務員と塾講師がかなり多いのだ。いや、実際に、塾の講師に「公募マニア」が多いかどうかは知らないんだけど、職業欄に「塾講師」と書いてくる作品はかなり多いのだった。

でも、わざわざ東京から来た佳作の女性が赤くなってコメントをしたり、優秀賞の大学生の若者が、「今日は、恥ずかしいけど、母も一緒に来ました」とちょっぴり『親孝行』したり、けっこう感動的なシーンもあった。こういうのを見ると、やっぱり意義はあるんだな、と思った授賞式だった。コンテストって、やっぱ、色んなドラマがあるもんだなあ。

小説とは関係のない休日(小学校は、振替休日です)

11月21日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

子供たちは、土曜参観の振替休日です。午前中、少し宿題をみてやり、昼食を作ってやってから、午後から専門学校へ。90分4コマ。10時頃、帰宅。レポートの整理をして、1時頃、就寝。

小説とは関係のない休日(美術展『もの派ー再考』、科学館)

11月20日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

午前中、雑用。午後から、中之島の「国立国際美術館」へ。美術展『もの派ー再考』を鑑賞。夫が持っていた招待券は二名様有効なので、考えた末、子供たちを連れて一緒に出かける。現代美術は苦手なのだが、「もの派」はちょっとだけ興味があったのだ。小6の息子、小2の双子の娘も、「なんじゃこれ」と笑いながら、それなりに鑑賞。私が仕事に出かける土曜日などは、父親によく美術館に連れて言ってもらうので(美術教師なのである)、それなりに現代美術も見慣れているらしい。個人的には、『空相ー水』(関根伸夫)が面白い。子供たちにウケたのは、『HALF&HALF』(飯田昭二)。鳥かごの中に靴が入っており、こちら側から見ると青色。反対から見れば白色。単純なしかけだけど、ちょっと可愛らしい感じ。

今日は「関西文化の日」だそうで、隣にある科学館が入場無料。子供たちが行きたがるので、夫に聞いたら、「今まで一度も入ったことがない」という。中之島にできた国際美術館は、すでに何度も来ているくせに。ちなみに、彼は、めずらしいくらい完全な「科学ギライ」なのである。「共通一次世代」だが、大学受験の「生物」「化学」も丸暗記だったそうだ。私は、大学では文系なのだが、高校までずっと理数系が得意だったタイプである。息子は「科学好き」だから、科学館も何度もやってきて、どこに何があるかもほとんど覚えている。二人で「えっ、パパ。科学館に一度も入ったことないのっ!?」と驚いてしまう。各フロアを勝手に走り回る子供たち。讃岐うどんを食べて帰宅。夕食は、鶏そぼろの卵どんぶりとみそ汁、かぶの浅漬け。

11/22/2005

小説専攻科のガイダンスと第9期の講義

11月19日(土)
午後から小説講座の事務所。夕方は、第9期と専攻科の講義。
第9期のクラスは、ミステリの黒崎緑先生。専攻科のクラスは、ガイダンス&実習。

午前中、うちの子供たちの小学校の土曜参観だったので、事務所に着いたのは遅めの12時。丁稚どんが13時から来てくれて、専攻科の作品印刷などを手伝ってくれる。時間的には余裕のスケジュールだったはずのだが、なぜか時間ギリギリになる。うーん、なぜか土曜日はいつもバタバタするなあ。結局、4時半過ぎまで印刷、雑用で走り回り、5時に移動する。

夕方6時から、専攻科と第9期の講義。9期のクラスは、今日は、黒崎緑先生の講義である。毎年、人気の高い講義である。ミステリに限らず、エンターテインメント全般の話をわかりやすく話していただく。小説の書き方も、やさしくカンタンな方法を教えてもらえるので、「書いてみたくなる」とけっこう生徒さんには人気が高いのだ。今回は、同時に講義があるので、専攻科が見学ができなかったので、そっちの黒崎ファンにはかなり文句を言われた。

しかし、黒崎先生には、いつもの年なら、後期に講義をお願いしているので、前期からお願いするのははじめてである。今年のクラスは初心者が多いので、なるべく早く受けてもらいたかったのだ。開講からまだ3回目の講義ということで、先生も「今年は、どんな生徒さんが来られるんでしょう」と、気を使われていた。生徒さんの「指導用アンケート」を全員分コピーして、講義前に送付した。

9期は、遠方からの通学者が多く、講義後の飲み会にも数名の参加するだけで、まだ私もほとんどの人の顔を覚えていない。うちの小説講座は、講師が毎週変わるので、先生が生徒さんの顔を覚えるのは難しい。まあ、飲み会で隣の席に座った生徒さんなら、じっくり話を聞けるので、先生も覚えてくれるかもしれないけど。もちろん専攻科になれば、同じ生徒さんの作品を何度か指導したりするから、先生もかなり生徒さんを覚えているのだが、入学したばかりのクラスで、とくに前半だとまたレクチャー講義が中心なので、先生どころかまだ私も、顔と名前が一致しない。

今年は、飲み会に来る人もかなり少ないし、作品提出率もめずらしく非常に悪い。まだ「自由課題」しか募集していないので、基本的に提出するかしないかは自由なのだが、提出される作品数は少ない。普通、入学した当初はやる気まんまんなので、第1回目の課題なら、9割くらいの人が提出するものだが、今年は、半分以下である。うーん。いくら初心者が多いクラスとは言っても、ちょっと悪いなあ。まあ、このクラスは、真面目な感じの人が多い気もするけど(どうも慎重になりすぎて、「気楽に書こうよ」と言っても書けない傾向あり)。

一方、専攻科の教室は、8割の出席率。今日は作品指導がなく、講師もおらず、ガイダンスだけなので、出席率が悪いだろうなと思っていたのだけど、まあまあ悪くない出席率。今年から、すべての作品集を「両面印刷」に統一したので、作品提出要領が変わったため、少し説明。その後は、グループ実習。専攻科は、継続受講ができるため、昨年度の専攻生に、この10月に卒業した第7期が加わった混合クラスである。専攻科の生徒さんは、講義後の飲み会の出席率もいい人が多いので(これを楽しみに来ている人も)、例の中華屋では、21名で座敷席を占領。でも、9期のクラスは、飲み会に来るのは5〜6人ほどでテーブル席で充分。こちらは、黒崎先生を囲んで、いろいろ小説の創作法など。人気の高い先生なので、トイレに立たれると、専攻科の生徒さんが集まって来て、ミステリや創作の悩み相談などでつかまってしまう。でも、先生は一人一人にやさしく丁寧に答えてくださっていた。新しく専攻科に進学した7期生の中には、ミステリ志望者が多いので、こういう機会は貴重だもんね。

一部の専攻科の生徒さんたちは、あいかわらず11時過ぎまで。今日はめずらしく飲み代の割カン計算の予測が外れる。半分以上の人が飲まない9期のテーブルが1200円なのはわかるのだが(この店は安くて量があるので、めちゃくちゃ食べても、料理だけなら一人千円くらいなのだ。これでも相当、腹一杯)、専攻科の方のテーブルも、あれだけ飲んで食って、1300円未満なのだ。検討をつけて1500円集めたから、けっこう余ってしまった。あれれ? まあ、今日は、一番よく飲むYさんの周囲が、なんだかえらく盛り上がって、ずっとゲラゲラ笑うのに忙しかったみたいだから、あんまり飲まなかったのかな。いや、もしかすると、昨年まで在籍していた50代男性のNさんが来なくなったからかなあ。専攻科は、8時過ぎから11時半近くまで飲む人がけっこういるし、お酒を飲む人が多いので、1500円で足りないこともしょっちゅうあったんだけどなあ(毎回1500円以上はかけないようにしているので、足りない分は、割カンの端数分をためて、調整しているのです)。とにかくめずらしく5千円くらい余った。(次回の飲み会で放出します。今日参加した人は、次回もしてくださいまし)。

自宅に帰り、専攻科のアンケートなどをチェックしながら、『爆笑オンエアバトル』。『アメトーク』で、中川家と次長課長のコント合戦などを見て(微妙な人間観察がすごく笑える)、3時頃就寝。

11/19/2005

長編に必要なのは、やる気と時間とバックアップ

11月18日(金)
午前中、小説講座の事務所。午後から外出。

今週は、娘の病欠もあって、思いのほか仕事がはかどらず。なんかバタバタしてるのはあいかわらずなのに。なんだか、ついてないなあ。こういう時は、突然の事故につけましょうね。そういや、先日、専攻科の某生徒さんから「作品データが破損! ぎゃあああ」というようなメールが届いてましたね。うう、ご愁傷様です(プリントアウトはしてあったらしいので、最悪は免れたようです)

皆さん、作品データはしっかりばっちり保存しておきましょう。天災は忘れた時にやってくる。備えあれば憂いなし。バックアップは、何度でもとっておこうね。長編は一日にしてならず。千里の道も一歩から。

11/18/2005

家事の達人、文章の達人、みんなが達人

11月17日(木)
朝からバタバタ。小説講座の事務所には、寄れず。

午前中、図書館、銀行など。昼過ぎに帰宅して、自宅で作業。
娘がまだ学校を休んでいるので、一緒に昼食。気管支炎かあ。はじめてだなあ。もう元気そうだが、まだぜいぜいという息をしている。私自身も喘息があったので、ちょっと気にはなる。小さい頃は、妹の方が気管支喘息がひどくて(当時は、「公害病」の扱いだったので、妹は公害病認定を受けていた。今は「公害病」じゃなくて「アレルギー疾患」である)、私自身はかなり軽かったのだが、私の方は、高校生くらいにひどくなり、20代以降も、たまに発作が起きる。私の場合、アレルギーというよりは、心因性というか、まあ、過労とか、風邪が引き金になる場合が多い。もちろん最近は、ほとんど発作も起きないけどね(最近は、過労だと、先にヘルペスが発症する〜)

さすがに病児がいると集中できないようで、通常なら自宅の方が仕事がはかどるのだが、作業もはかどらず。パソコンの調子も、ちょっと悪い。再起動を繰り返して、システムをチェックしたりする。結局、あまり仕事にならず。

そんなわけで、何もやってない割に夕食後にはクタクタ。夫が帰宅し、夕食を食べて(ちなみに、今日は、カレイの煮物、みそ汁、関東炊き)、くつろいでマラソンに行き、娘と仲良く風呂に入り、ビール片手に「パパイヤ鈴木のダンシング」(NHK教育)のレッスンに合わせて機嫌よく踊っているのを見ると、なんだか関係ないけど、思わずムカムカ腹がたつ。いつもなら公演だの何だのでほとんど家にいないのだが、最近、稽古場がなくなったので、めずらしくずっと家にいるのである。それにしても、専業主婦の焦燥感とか、むかっていく所のない意味不明なイライラとか、わずか半日で、なんだか分かったような気になるな。

まあ、大学生の頃もずっと勤労学生だったし、職業もそこそこ転々としてきたので、失業していた時期もしばしばあるのだが、ずっと何かしら仕事をしていて、専業主婦になろうと思ったことが一度もない。まあ、当時は、結婚相手に定職がなかったわけだし、なりたくてもなれなかった。が、だいたい彼自身が主婦いらずの体質で、料理も掃除も裁縫も、もともとかなりうまいのである。今でも、掃除やらアイロンがけなんぞは、私はほとんどしたことがないくらいで、彼が家にいればたいてい彼がしている。かろうじて私の方が得意と言えるのは、せいぜい料理と裁縫ぐらいだが、これも彼ができないわけではないのである。私がいない日は、かなりマメな料理を作っているらしいし(私が留守の日に限るので、私はあまり食べたことがない)、舞台衣装も、たまに自分で縫ったりすることもあるくらいで、とにかく器用な男なのである(彼は、美術教師だが、工芸を教えることもできるので、木工、陶芸、ガラス工芸、七宝焼、藤手芸、銀細工も、教えられるほどの腕前。ちなみに庭のベンチも手作り。「トンボ玉」も、個展をしたら全部売り切れた)。

こういう家庭状態では、もしやりたくても専業主婦なんて要らないのだった。

子供も結局、小さい頃は「保育所」だし、小学生になると、すっかり自立してしまって、何もかも自分でやりたがる。娘たちが言うには、「友だちは、お母さんに時間割あわせてもらって、服も用意してもらっている」らしいのだが、娘たちはどっちみちアレコレうるさいし、息子は息子で、どうでもいいらしく、ハンカチも「あ、アイロンとか、かけた方がいいんじゃないの?」と聞いたりしたら、「ええねん。寝る時に『寝押し』するから」と言い、「おやつは、おばあちゃんちに行って何かもらうから」と、抜け目なく、もはや母親いらずである。保育所で大勢の人に囲まれて育ったせいなのか、もともとの性格が抜け目がないのか、それとも働く母に気づかってくれているのか、兄妹3人で母がいなくても寂しくないのか、よくわからないが。

そういえば、調査によると、「共働き家庭」に較べると「専業主婦の家庭」の方が子供の数は少ないんだそうだ。このデータは何だか不思議だったのだけど、兄妹がたくさんいれば、親の手間がかけられなくても、勝手に育つ気はするもんな。まあ、金もかかるしな。

そんなわけで、私は、一応、兼業でも「主婦」だと思われているようだが、本人に「主婦」をやっているという自覚はほとんどない。こういう状況では、あんまりエラそうに主婦だとは言えそうにない。ある専業主婦の人が、私が家事を夫にまかせていると聞いて、「主婦失格ね。そんなに家事がキライなら、私の家に見習いに来てはどう」とエラそうに言ったことがあるのだが(私もとくにキライというわけではないんだけどな)、その「家事自慢」という家に、もしも私じゃなくてうちの夫を連れて行ったら、どうするのかな、とふと思ってしまったことがある(そんなことを本人に言うと、余計に怒るので、もちろん黙っていたが)。もしかすると、うちの夫は、たいていの主婦より家事がうまいかもしれない。

もし、彼の方がうまく家事をやってしまったら、この主婦の人は、どう言うんだろうなあ。まあ、アイロンがけやら、料理やら、掃除やら、いくら家事自慢でも、まあまあ普通のレベルなら、彼ならほとんど差がつかないだろうが、そうすると「手芸」で差がついてしまう気もする……。およそ彼ができない手芸は、ビーズ手芸だけである(できないというか、これだけはやる気がしないらしいが。チマチマしていて面倒臭いらしい)。まあ、今でも週2〜3日は私がいないので、その日は彼が夕食を作っているのだが、スーパーでのお買い物を見ても、よほど私よりマメというか、倹約家である。

部屋にたくさんある観葉植物の鉢も、庭の寄せ植えも、基本的には、夫の管理下にある。ガーデニング知識もばっちりである。これだけ器用な人間に、家事の才能で勝負しようとしても、まず無理である。ちなみに、私は実家の父も、かなり器用なタイプだったので、今、私が作っている料理のかなりのメニュー(イワシのショウガ煮、うどの酢みそあえ、牛蒡とミンチの煮物、竹の子の木の芽あえ、アジのつみれ……)などは、実は、母の味ではなく、父の味なのである。そして、これらの料理だけは、子供たちから「パパが作るよりおいしい」と誉められるメニューだったりする。

ところで、こういう話をすると「いいわね。うちのダンナは、何も手伝わないし、台所にも入りたがらないわよ」という主婦の人がいるのだが、実は、家事をする人が家に二人いる、というのは、嫁姑問題ほどではないが、ちょっとばかりややこしいこともおきる。だから、ここには重要なルールがあって、「人のやり方に、口をはさまない」というのを守らなくてはいけないのである。実際、洗濯モノの干し方とか、掃除機のかけ方とか、皿洗いの仕方には、一人一人に(あるいは家庭ごとに)、細かいこだわりがあるのだ。その一人一人微妙に違うこだわりをもつことが(これは「こうすればうまくいく」と個人的に発見することに基づくのである)、上達の秘訣だったりするので、細かい指図ばかりされていたら、夫も子供も、台所に寄りつかなくなりがちである。嫁姑が同居していれば、よくわかるのだが、家事のやり方は「どっちが正解」というのはあまりない。核家族の主婦で、夫も家事をまったくしない家だと、なぜか自分のやり方が正しいと思い込んでいる人がいて、他の人がやると横で「そのやり方は違う」などとイチイチ命令してしまうらしい。しかし、「自分のやり方」を自分で発見してもらわないと、自分よりはうまくはならないのである。

うちの小6の息子は、すでに父親より母親よりも米をとぐのがうまくて、息子の炊いた御飯が一番うまい。「お米と炊く量によって、水加減を変えるのがコツ」なんだそうだが、こういうのは、親よりうまいわけだから、教えられてうまくなったわけではない。小2の双子も、最近では、すっかり皿洗いがうまくなってしまった(双子なので、母親が一人でやるより早いのである)。5〜6歳の頃は、これを見て、実家の母に「台所をびしょびしょにされて、よく平気ね」と言われたものだが、そんなものは、下にバスタオルでもひいて、後でぞうきんで拭けば済むことである。多少、食器の汚れが落ちてなくても、大丈夫。それくらいの不衛生くらいではそうそう死なない(ちなみに、昔、外食産業で学んだことだが、一般家庭でも一番不衛生になりがちなのは、食器より、ふきんとまな板である。食中毒が怖ければ、確実にこれを紫外線または煮沸殺菌すべし)。割られて困る高価な食器なんか、子供が小さい間はそもそも使わないし、最近は、百円均一でけっこう可愛いのがあるから、何枚割られてもニコニコである。

ついでに言うと、家事もそうだけど、こういうのは文章を書くも同じで、「自分のやり方」を発見することが一番の上達の早道かもしれない。もちろん途中の段階では、他人のやり方を参考にするのもいいが、これは、もっといいやり方がないかと考える段階のひとつのステップだから、最終的には、自分のやり方を見つけるのが一番いいのである。もちろん、初心者のうちから、いきなり「一番いい方法を見つける」のは無理なので、最初は、他人のやり方を参考にするといいことだと思うけど、自分で見つけた方法を「金」とすれば、やっぱりいくらいい方法でも、他人のやり方はまだ「銀」か、せいぜい「銅」である。「これなら一番、私がうまくなれる」というものを見つけられたら、他人がどう言おうが、それが一番いいのである。

しかし、まあ、私がこうして家に半日いると、それだけでゆううつになるのは、たぶんどっちみち専業主婦が必要とされてない家庭環境によるものだろうなあ。でも、ほんのちょっぴりだけ、どこか、寂しい気もするが、ま、ぜいたくな悩みなんだろうなあ。

11/17/2005

インターネットとコピーライティング

11月16日(水)
終日、自宅。小説講座の事務所には寄れず。

娘の気管支炎のため、自宅で作業。事務所の経理資料の整理など。たまっていたビデオをいくつか見るが、このところすぐ疲れ目になるなあ。久しぶりに、知り合いの女性ディレクターのIさんから電話。3年前くらい前は、新大阪の近くの学校で非常勤をやっていたので、江坂に事務所がある彼女とよく一緒にランチを食べたのだが、最近は、滅多に会わなくなったのだった。ほとんど1年ぶりくらいである。

仕事の依頼なのだが、商品販売サイトの広告コピー、ではなくて、広告コピーのコツを伝授するみたいな社内研修らしい。いわゆる「eライティング研修」というヤツである。サイトの広告コピーは、更新を頻繁にしないといけないので、外部の業者に委託してられない。だから、社内の人間が書く場合が多いのであるが、あまり文章がひどいとマズイ。だから、カンタンな「文章のコツ」みたいなものを研修で、身につけてもらおうという企業研修をやるわけで、私も、たまに講師をやったりする。今回は、デザイナーとカメラマンも一緒に研修をするらしい。「直販サイトの作り方」である。

以前は、広告というと、イベントなどをのぞくと、たいてい印刷か放送媒体だったのだが、最近はインターネットである。やはり「量」的に一番多いのは、サイト関係。とくにデザイナーは、ほとんどインターネットがらみの仕事が増えてしまっている。周囲のデザイナーで、今、完全に「紙媒体だけ」という人は、ほとんどいなくなってしまった。

ただデザインはともかく、広告コピーはあまり変わらない。デザインだと、アプリケーションも変わるし、どんどん技術も発展するので覚えなくてはいけないことが増えて大変なのだが、文章は、さほどの影響は受けていない。ただ、まあ、いわゆる紙媒体の方が、仕事としては、以前としては多い。たぶんサイトの仕事は、単価が安いからだろう。

もともとデザインは、「誰でもできない」と思われているが、コピーは、文章なので「誰でも書けそう」と思われているところがある。よほどマーケティング的に重要な商品でない限り、広告コピーを外注したりしない。まあ、コピーはどっちかというと「高い」らしい。大手の企業だと、それでも代理店のキャンペーンだと、コピー代も含まれているが、中小企業だと「コピー代」が出せないということもある。まあ、私自身もコピーライターだが、さほどマーケティング的に影響がないなら、社内の人が考えたコピーでいいんじゃないかなあと思うこともあるし、「お金がない」と言われれば、「書き方のコツ」を教えてあげることが多い。自分で一度考えてみて、うまくいかなければ、それから外注すればいいわけだし。

まあ、そんなわけで、コピーライターは、一般的にデザイナーよりも数が少ない。まあ、仕事内容にもよるけど、以前いたプロダクションだとデザイナーの5分の1とか、まあ、営業を入れると、10人に1人とか、20人に1人とか、そういう数しかいなかったりするしね。ところで、コピーライティングのコツを聞かれることがよくあるけど、これは、非常に簡単なことで、基本は「わかりやすく、買いたくなるように書く」である。他にも色々あるんだろうけど、まあ、それは些細なことで、たったこれだけを気をつけていれば、なんとかなる。広告コピーなんだから、一番大事なのは、「買いたくなるように」であって、実は、コピーのイメージである「面白かったり」「アッと思わせたり」「共感させたり」というのは、必ずしも一番大事なことではない。それは、「買いたくなる」ためのエサみたいなものだから。それは、どっちでもいいことで、とくにインターネットの場合は、一般的に更新が頻繁だったり、量が多くなるので、社内制作にするか、社外制作になるかは、その企業の考え方によるのだが、「お客さまとの距離」が近くなるから、伝えたいという内容さえきっちりわかっていれば、なんとかなるんじゃないかと思う。

ところで、明治や大正の頃から、作家は「タレント」だったんだろうけど、バブルの頃、80年代には、広告コピーが流行の最先端で、コピーライターも一部、タレント化したけど、今は、どうなんだろうなあ。シナリオライター志望も、最近は減っているみたいだけど、今は、何が人気なのかな。もしかして、これからは、人気ブログのブロガーがタレント化したりするのかなあ。

11/16/2005

美人カメラマンとインタビュー

11月15日(火)
午後から小説講座の事務所。

朝から娘の体調が悪く、結局、小学校から電話。熱があり、吐いているので迎えに来てほしいとのこと。夫に電話をしたら、めずらしく今日は午後から授業もなく、たまたま早退ができるらしいので、彼に学校へ行ってもらう。子供たちが小さい頃は、熱を出すたびに割とよく迎えに行ってもらったのだが、最近はめちゃくちゃ忙しいらしい。迎えに行ってもらうことも滅多にできなくなったのだが。

丁稚どんは、専攻科の作品集を印刷作業。今日は、専攻科の第2回作品締切なのだが、Nさんの短編が2作品、Iさんの長編、それとAさんの短編のみ。第1回は、3作品だけだったのだが、なんとか12月と1月の2回の講義は、作品指導ができそう。本当に集まらなかったら、講師の人に「専攻科向けのレクチャー講義」を依頼しようかと思ったのだが。専攻科の作品は、いつも7月〜9月に、ドバドバと集中して提出してくる傾向があるが、例年、11月は作品提出があまりないのである。専攻科の人は、コンテスト向けの作品を書いていることが多いので、どうしても提出時期がかたよりがちなのだった。

欠席者発送など数件。娘の病気の件があるので、8時頃まで仕事をして、さらに明日もし事務所に寄れなかったら困るから、経理書類などを全部カバンに詰め込む。今週中に昨年度(9月まで)の決算書類をつくってしまわないとね。

夕方、紹介を頼まれていたのを思い出し、知り合いの女性カメラマン(っていうか、フォトグラファー)に電話。某有名ブランドのイベントで、カメラマンが欲しいらしいのだが、できれば「人物撮り」がうまい人がいいらしい。仲のいいOさんという女性カメラマンは、なかなかカッコイイ女性で、トークも上手なので人物撮影も得意。メイクも詳しいし、ブランド関係のお仕事もいいのでは。まあ、ギャラの問題はあるだろうけど。

私は、広告関係の仕事が多いので、どっちかというと「ブツ撮り」と呼ばれる商品撮影がうまいカメラマンの知り合いの方が多いのだがが、たまに雑誌の仕事をやることもあるので、「人物撮り」のうまいカメラマンとのつきあいもある。ただ、ライターもそうだが、関西ではさほど分業などしてないので、カメラマンも、たいてい「ブツ撮り」も「人物撮り」も両方こなす。でも、やはりどっちかが得意というのはある。どっちが得意かというのは、ほとんどその人の性格。ぶっちゃけ「よくしゃべるタイプ」か「あまりしゃべらないタイプ」か、どっちかで決まっているみたいだ。

もちろん「よくしゃべるタイプ」は、どっちかというと「人物撮影」が上手で、「あんまりしゃべらないタイプ」は「商品撮影」がうまい。まあ、とくに広告写真は、商品撮影はかなり根をつめてやるようなものが多い。まあ、広告でも、通販カタログなんかだと、一点一点はそれほど凝らなくてもいいのだが、製品キャンペーンがからんだりするようなメイン商品とか、カタログ写真でも凝るものは撮影も大変で、たった1枚の商品写真に一日かけたりする。だから「職人肌」みたいなカメラマンが多い気がする。

一方、雑誌とか、人物撮影系カメラマンは、一見「調子のいいタイプ」、イケイケの性格の人がけっこういたりする。口がうまい人が多くて、撮影対象になる人をノセてくれる。こういう人と一緒に仕事をすると、緊張するようなインタビューもラクになることもあるので助かるのだった。

そう言えば、今日、丁稚どんとの話題でもインタビューの話が出たので、ちょっと思い出したのだが、インタビューの「技術」は、「技術」というより、ほとんど「慣れ」である。たまに「ライター志望」に人と話をすることがあるのだが、インタビューは、基本的には慣れれば何とかなる。

ただし、インタビューは、いわゆる「有名人」をする場合と「一般の人」をする場合と2パターンがあって、この2つはだいぶ違う。インタビュー慣れしているか、してないか、の違いである。どっちが大変かというのは、ちょっと判断しにくいのだが、有名人の場合は、すでにインタビューを何度か受けていることが多いので、質問をする前から「解答例」が決まっていたりする。有名人の場合に気をつけておくのは、ある程度「下調べ」しておく必要があることと、すでに既存の雑誌記事などがあるので、これに気をつけることである。というのは、プロのライターとしては、「すでに他のライターが書いたような内容はあまり書きたくない。できれば、何か目新しい情報や新しい面を開拓したい」という気持ちがあるのだが、有名人の場合は、たいていインタビュー時間が限られている。ヘタすると10分、20分なんてこともあるので、要領よく、必要な質問をして、聞きもらししないことが大事なのだ。

ただ、だいたい有名人は、インタビュー慣れもしているし、すでに他の人にも自分が話したいことを何度も繰りかえして話しているものなので、あまりインタビューそのものは難しくない。気をつけることと言えば、事前に読んだ知識に頼り過ぎないこと(いろいろ調べるとその情報に頼り過ぎて、会う前から「記事」を作りあげてしまうのである。そうすると、インタビューでは「確認作業」に終止してしまって、ちゃんと聞き出す努力をしない)あとは、インタビュー対象者のペースにはまり過ぎないことくらいである。知識人とか、タレントとか、スポーツ選手とか、こういう人は、自分の話すべき内容はわかっているので、めちゃくちゃ難しいという経験は滅多にない。

だから、インタビューの仕事で難しいのは、どっちかというと、やはり一般の人である。こういう人に、いろいろなことを聞き出そうとすると、かなり時間がかかる。まあ、有名人と違って、2〜3時間くらい時間をとってもらえることも多いので、その点は気はラクなのだが、話してもらう内容が、本人も「今まで一度も誰にも話したことがない」みたいな内容だったりすると、これを聞き出すのは、どうやっても時間がかかる。

こういう話をすると、「じゃあ、インタビュアーは、人に好かれる性格じゃないとダメなのでは」という人がいるのだが、これが、ちょっと違うのである。とくに「好かれる性格」じゃなくてもいいのである。ただ、好かれる必要はないが、信頼される必要はあるかもしれない。この「人に好かれる」のと「人に信頼される」というのは、似ているようで、ちと違うのだ。信頼さえしてもらえれば、とくに好かれなくてもいいのである。

前にも言ったことがあるのだが、よく混同している人がいるみたいだが、こういう場合の「好き」と「信頼」は違うのである。もちろん恋人などに「好きだから、信じてるわ!」なんてことはあるかもしれないが、一般的には好きだからと言って、信じているとは限らないし、信頼しているからといって、好きだとは限らない。インタビューをするなんてことは、ホントに一時的な人間関係を結ぶことなのだが、その場限りでいいので、限定付きの信頼を得られれば、必ずインタビューは成功するのである。(まあ、そのあと記事を書くには、文章力とか構成力もいるが)

もちろん、この信頼関係というのは、その場限定のものなので、そんなに深い信頼関係ではない。だから、ホント単純なことなのである。で、たぶんそれは、インタビューを受ける人が「この人は、私の話をわかってくれるに違いない」と思ってくれることである。そのためには、相手の話をちゃんと聞いてあげる。これさえできれば、たぶん成功である。まあ、少なくとも私はそう思っている。

ところで、一般の人にインタビューをすればわかるが、普通の人というのは、普段あまり人の話を聞いたりしないものである。気のせいか、誰もが自分の話を聞いてもらいたがる。たとえば、仕事について「社長さん」にインタビューをしたりすると、なぜかよく「こんな話は、社員にも、女房にも、誰にも話したことがないなあ」などという。インタビューをすると「こんな話は誰にも話したことがない」というのは、割とよく聞くセリフなのだが、よく考えれば、ちょっと不思議である。人というのは、周囲の人の話をあまり深くは聞かないものらしい。

誰もが「自分の話」を聞いてもらいたがるのだが、たぶん誰も人の話はあまり聞きたくない。だから、話してくるものを仕方なくしぶしぶ聞いている。たまに、昼間のすいたファミレスで原稿を書いていると、横のテーブルで、主婦が二人ベラベラしゃべっているのを聞いてみると、案外「自分のしゃべりたいことを交互にしゃべっているだけ」だったりする。いつも天気だとか、スポーツだとか、事件だとか、そういうことを話していて、「人生ポリシー」とか「仕事観」とか、そういう大事な話は、夫婦でも、親子でも、案外、普段は聞きもしないし、言いもしない。まあ、若い頃、「自分の両親の結婚のなれそめ」を知らない男性って多いんだ、と思って、びっくりしたことがあるのだが、ま、世間は、そんなもんなのかもしれないなあ。

たぶんこれからも誰にも聞かれず、だからきっと書かれもしないような話が一人一人の中にたくさんあって、たとえばこの瞬間にも、病院やら、路上やら、戦地やらで、きっと消えているのだろうなあ。まあ、それは仕方ないことなのだが。でも、もしかすると、みんなどこか、その代わりに小説なんぞ書いているのかもしれないんだけどなあ。

小説とは関係のない休日(非常勤講師と『教授と美女』)

11月14日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝8時前から外出。昼、心斎橋のイタリアンレストランでランチ(なんだか最近、イタリアン続きだけど)。午後から、専門学校で講義。

夜、10時頃に帰宅。帰宅すると夫が『教授と美女』(1941、監督ハワード・ホークス)のビデオを見ていた。図書館で借りたのだという。めずらしいモン見てるなあ。日本未公開だぜ。普通、レンタルショップじゃ、人気のない作品はすぐになくなってしまうけど、図書館には、結構ヘンなビデオがけっこうあるんだよね。これは脚本にビリーワイルダーが参加しているので、ワイルダーファンの私としては必見なのだが(実は、ゲイリークーパーも好きだったりして)、今日は4コマ連続で講義があり、睡眠不足だし、眠くてたまらない。古い白黒映画は、体調の悪い時に見るとダメ。だるくて寝てしまう。ちょうど有名な酒場のシーンで、ここは思わず見とれてしまったが(マッチ箱でドラムやるシーンは必見)、可愛い7人の教授たちを横目に、やっぱりそのまま寝床へ。

11/15/2005

小説とか関係のない休日(鶴見緑地でピクニック)

11月13日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

妹が、自分の息子たちを連れて、実家に遊びに来た。妹のところには、男の子の双子がいるのである。妹のダンナは、今日からアメリカ出張だという。前回ハリケーンにあい、まったく仕事にならずに帰国したので、改めて出張するのだそうだ。毎日毎日、いろんなニュースがあるから、海外のハリケーンのことなどかなり忘れかけているが、現地はどうなっているのだろうな。

子供たちを連れて、一緒に鶴見緑地で昼食。双子の男の子たちは、嬉しそうにゲラゲラ笑いながら、めちゃくちゃ走り回り、それをうちの双子の娘たちがそれぞれの子守り当番になって、一緒に追いかけて走り回っている。(小学6年の息子は、「総監督」なんだそうだ)。2組の双子(プラス1名)の孫に囲まれて、父母がニコニコしているので、「来年、弟のところに生まれる赤ちゃんも、また双子やったらオモロイよね」と言ったら、母が急にキッとした顔をして、「いや、もう双子はええで」と言う。

「でも、どっちみち、実家に『里帰り出産』の予定なんやろ。だから別に、お母さんが面倒みるわけじゃないやん」と私がいい、妹も「そうやん。私が里帰り出産した時も、お母さん、ずっと家におらへんかったし、私が家事とか手伝わされてたやろ。里帰りしても、あんまり面倒みてもらってへんかった気がするで」と言うと、「あら、そうだったかなあ。もう忘れたわ」という。あいかわらずマイペースな母である。母は、たまに気が向くと熱心に子守りをしてくれるのだが、気が向かないとイヤがるし、しょっちゅう「だって、お友達と遊びに行く約束してるも〜ん」と遊び歩いているタイプなので、さほどはアテにはならないのである。

そういや、だいぶ前に死んだが、実家で猫を飼っていた時も、フンの始末や掃除は、ほとんど父が世話をしており、母がやるのは「エサやり」だけだった。そういえば、母はうちの子供たちにも「餌付け」は熱心にしてくれるらしく、子供たちはお腹がすくと、実家に走って行ってお菓子をもらっている。これは子供たちには「ばあちゃんのお菓子」と呼ばれている。(息子は、なぜか「非常食」と呼んでいる)

ところで、どうも3人兄妹というのは、なぜか抜け目がなくなる。兄弟というのは、自分以外にあと一人か、それとも2人もいるかで、おやつを食べる時の「優雅さ」が違ってくるのかもしれない。一人っ子はもちろん優雅に食べる。おやつを兄弟にとられる心配がないのである。2人でも、割と優雅におやつを食べているが、3人になった途端に、急激に生存競争が激しくなるのか、妙にガサツになる気がする。もちろん「分配」はするのである。でも、うちの子供たちは、たとえばクッキーでも見つけたら、その途端に、真剣な顔で数を数え、「最低でも3枚は食べられるな。でも、3枚ずつ分けても2枚残るぞ」などと瞬時に計算し、(娘たちなどは、まだ2年生で、割算もできないのだが、これだけは必死で考えるのである)すばやく残り2枚の奪い合いを始めるのである。

うちでは、毎回、食事のたびにものすごい勢いでケンカをしながら食べているので、私には「うちの子、食が細くて、困るわ」という他の母親の気持ちがよくわからない。うわさによると、4人、5人と兄妹の数が多ければ多いほど、やっぱり食い意地がはってくるそうだ。だいたい子供が何人もいると、一人ぐらいあんまり食べてなくても気づかないかもしれないが。うちは、3人子供がいるので、誰か一人がたまたま食欲がないと、悩むどころか「ラッキー」という感じで、たちまち残りの2人が食べてしまうので、体調によっては、一人くらい「食が細い」時もごくたまにあるのかもしれないが、あんまり気づかない。しかし、たまには優雅に食べてもらいたいものだが。もちろん弁当も一瞬で食べてしまい、泥まみれで走り回っていたのだった。

11/13/2005

小説講座は、まだ2回目の講義です

11月12日(土)
朝早くから小説講座の事務所。夕方は、第9期の講義。「ファンタジーの書き方」。講師は、五代ゆう先生。

朝から事務所で、雑用。いろいろ印刷など。専攻科の生徒さんが立ち寄り、作品の件など話す。

昼頃、芦辺先生より電話。今は、東京在住の先生だが、午前中、守口の乱歩邸でのNHKの取材があるそうで、昨日から帰阪されている。先日から「少し相談があるので、お会いしたい」と頼んでいたのだが、昨日は都合があわなかったのだった。今日は、夕方まで時間があくとのことなので、事務所近くの野田阪神駅前のイタリア料理店でパスタランチ。今朝9時からの撮影らしいので、ちょっと寝不足でお疲れ気味。この先生はだいたいは夜型の人なので、「朝9時」は「早朝」。昨日も、帰宅がかなり遅かったみたいだしなあ。

昼食後、事務所を見てもらってから、今度はJR野田駅前でコーヒー。「かなり疲れているので、一度、家に帰って、夕方まで仮眠しようかな」と言っておられたのだが、結局、夕方5時まで色々な話につきあってもらう。私は、専攻科の生徒さんの件で、いろいろ相談。今月末か、来月上旬に東京行きの用事があるので、ついでに各方面でご紹介をお願いしたい人もいるし。先生は、今書いている長編についても色々と話。以前、大阪に住まいがあった頃は、私は家が近かったので、「ちょっと御飯でもどう」と言って、よく自転車で行って、おごってもらったものだが。いや、おごってもらっているだけでなくて、これでも一応、アイデア出しにつきあっているのである。まあ、そりゃ、毎回しっかりデザートまで注文してるけどさ。

「でも、君のことを『ブレーン』と呼ぶと、怒るらしいからなあ」と言われるが、そんなこと、別にとくに怒ってませんが。ただ、これは、単なる「茶飲み友達」なだけなんじゃないかと思うけどからなあ。でも、今日は、昨年頃、話していた執筆中の作品のある重要なアイデアを、本人がすっかり忘れてしまっていたらしく(自分がぺらぺらしゃべっていたくせに)、私と話しているうちに「あっ、そうか。あの部分は、そういうことにするつもりだったんや。ああ、やっと思い出した!」んだそうで、まあ、ただのダラダラした世間話にも、そういう作用があるのかもしれないけど。まあ、こっちも、博覧強記の芦辺先生には、いつも知恵袋的にお世話になっているので、お互い様ですが。

5時になり、先生は落語会へ。私は、天満橋へ移動して、第9期の講義。今日でまだ2回目の講義だが、一番出席率が気になるところ。なぜか毎年、初回か1〜2回だけで辞める人が1〜2人ほどいる。一番驚いたのは「入学式」しか来なかった人もいることである。これはかなりもったいないのだが、そういう人もいるのである。もちろん「退学届」が提出されれば、学費返金も少しはあるのだが、こういう人は「そのうち必ず行きます」と言って、結局、一度も来ないというパターンになる。

だいたい、これまでの経験で、最初の3回、連続して出席している人は、たいていほとんど前期までは続く。前期課題が提出できれば、もう9割は大丈夫である。それでも、退学率は多くても2割ぐらい、毎年、せいぜい2〜3人。たまたま去年は、5人ほど来なくなったのだが、これが過去最高である。だから、おそらく社会人向けの教室にしては、かなり中退者が少ない方なのだが、個人的には、途中退学が多いとイヤなので、とにかく11月だけでも来て欲しいのである。

まあ、土曜日の夜の講座だし、習慣になれば続けられるのだが、講義に来るのが一度でも面倒になってしまうと辞めてしまうらしい。でも、転勤や仕事の都合で続けたくてもどうしても続けられない人もいる。

で、心配していた今日は、欠席者3名。ちょっと多い気もする。まあ、2名は事前に連絡があり、体調不良と仕事が入ったということなので、理由はわかっているのだが。

五代ゆう先生は、すでにキャリアも十数年あるベテランなのだが、ご本人は、あいかわらず、まだどこかに女学生の雰囲気がただよってくるような優しい感じの女性。五代先生と言えば、デビュー作は、すごくしっかりしたハイファンタジーで、ホラーを書かせても本格的という感じで、骨太のがっちりした小説のイメージがあったのだが、最近は、ライトノベルで人気。メイドさんキャラ萌え萌え、やっぱツンデレよね、みたいな話を、まさかあの五代先生の口からお聞きするとは〜、と思ったのだが、この先生は、作家としての適応力がすごく高いのか、興味の範囲がとても広いのか、それとも「小説なら何でもござれ」のプロ根性なのか、それは、ちょっとわからないけど、とにかく、キャラ萌えのライトノベルもばっちりの作家さんである。

五代先生は、現在のライトノベル業界の簡単な動向とか、カードや図表を使った創作テクニックとか、具体的な例をいろいろ話して、ライトノベル志望者からの質問にも色々答えていた。このクラスは、どうやら生徒さんのレベルの差が激しいようで、たぶん「ライトノベル」と「児童文学」の違いがわからない初心者もいたと思うが、これでわかったのかな。よく書店に行く人なら、「ライトノベル」と「児童文学」は、だいたい「売場」が違うので、売り方も違うことが想像がつくだろうと思うのだが、初心者の人には、どうも違いがわからない。五代先生は、ライトノベルの出版社ごとに多少傾向の違いを説明をされたのだが、小説講座の生徒さんと言えども、「そもそもライトノベルなんて、まったく読んだことがない」という人も結構いるし、ファンタジーと言われても、ほとんど何もピンとこない人も混じっているんだけど。

余談ですが、「ミステリを書いてみたい」という人で、ミステリを一度も読んだことがないと言う人はまず滅多にいないが、「児童文学」だけは、ちょっと要注意。他のジャンルなら、SFを書きたい人はたいていSF小説をよく読むし、恋愛小説を書きたい人は、たいてい恋愛小説のファンなのだが、「児童文学」と「童話」だけは、ファンとか、よく読む人は限らないんだよね。

これは、小説講座の生徒さんではないのだが、ある年配の主婦の人がいて、「私は、今、子供向けの童話や小説を書いてるんですが、できたら読んでもらえませんか」というので、「いいですよ。私でよければ読ませていただきますが、どんな作品ですか?」と聞いたら、「日常を楽しく描いた、ちょっとユーモアのある作品なんですが」というので、「ええっと、ズッコケ三人組みたいなヤツですか?」と言ったら、「あら、なんですか、それ?」と言うので、ちょっとズッコケた経験がある。(もちろん彼女は「かいけつゾロリ」も見たことがないと思うが)。

そんな人ばかりではないとは思うが、「童話や子供向けの作品を書く人の中には、どうやら子供向けの本をまったく読んだことがない人がけっこういるらしい」というのがわかったのだが、そういう人がなぜ「子供向けの小説」を書きたがるかというと、この女性も(好きな作家は、田辺聖子と向田邦子という人なのだが)、日頃、子供向けの本など読んだことも見たこともないが、「大人向けの小説を書くのは難しそうだけど、子供向けはカンタンそうだから、それなら書けるかも」と思ったらしいのである。

まあ、「カンタンそうだから、自分でも書いてみる」と思うこと自体は、大変いいことだし、それはそれで創作には必要な態度なので、それでもいいのだが、おそらくプロの作家さんは「子供向けだからカンタンに書ける」とは思ってないだろう。大人になったのに「子供の感覚を忘れない」というのは、それはそれで、ある種の特別な技能である。まあ、だから、必ずしも子供向けだからカンタンだとは言えないんで、そこのところは、もしプロ作家志望ならば、多少の覚悟はいるかもよ。

そういや、「ファンタジー」という言葉でイメージするのも色々である。3年ほど前に、アンケートで「好きなファンタジー作家は?」という項目で、「村上春樹」と書かれた生徒さんがいて、個人的には「ファンタジーと言えば、ファンタジーだしなあ」と思った覚えがある。まあ、そりゃ、別に魔法使いやドラゴンが出てこなくてもいいわけだし、「鉄道員」(浅田次郎)だって、ファンタジーかもしんないけど。そりゃ、そうですよね。

講義後、例によって、中華屋さんで飲み会。遠方からの通学生が多いせいか、また今週も十人ほどで参加者はやや少なめ。1〜2時間ほど食事して、かなり早めに解散。

やる気があれば、きっと小説も書けるよね

11月11日(金)
午後から小説講座の事務所。

雨がぽつぽつ。久しぶりの雨で、新しいカサが使えると機嫌がいい娘たち。午前中、外出。昼前から小説講座の事務所へ。

生徒アンケートにあわせて、カリキュラム日程をかなり修正。今回は、初心者も多いが、何作も書いているという人も多く、レベルの差が激しい。こういうクラスは、ついつい初心者がついていけず、脱落率が高くなってしまうかもしれないので、今年は、構成など技術的なことや細かいコツや知識などを説明してくれるような講師は、なるべく後回しにして、「初心者向け」に「元気が出る」「書く気になる」というタイプの講師の順番を先にする。生徒募集時には、昨年度実績で、講師予定一覧を出しているだけので、実際のカリキュラムの順番は、開講してから、生徒さんの人数やレベルにあわせて、調整しているのである。

ところで、うちの小説講座は、毎年、十数人の講師に出講いただいているのだが、どういうわけか、あとでアンケートなどをとったり、口頭で感想を聞いたりすると、「参考になった講義」などが見事にバラバラになる。もともと、うちの生徒さんは、ミステリやSFなど、書きたいジャンルがバラバラなせいもあるけど、好みもバラバラである。まあ、講師の個性もバラバラで、講義の内容も全然違う。昨年も、専攻科でアンケートをとったら、きれいにバラバラになってしまい、ほとんど集中しない。不思議なものだ。ある意味、うちは、全部の講師が「人気講師」と言えるのかもしれないけど。

しかし、小説の作り方といっても、細かいプロット表をみっちり作る人やら、いやいや一切作らないという人。手書きで下書き原稿を書いてから、パソコンで清書する人など、まあ、プロの作家さんでも、本当に一人ひとり見事に作り方が違う。そこが話を聞いていて、けっこう面白いのだが、生徒さんも、「あの先生のあの方法が一番参考になった」というのが、また一人ひとり違うのが面白い。また、同じ講義を聞いていても、印象に残っているところが全く違うってこともある。このあたりが、プロ作家の生の声を聞けるという面白さでもあるんだろうなあ。

専攻科に入ると、本科の講義の見学もできるので、好きな講義を何度も聞くという人もいる。しかし、まったく同じ講義でも、一年後に聞くと「なぜかまったく違うように聞こえてくる」という感想をよく聞く。私も、この講座がはじまった8年前、第1期の講義から毎回教室の後ろで、たくさんの講師の話を聞いていたのだが、とくに最初の年、さらに第2期の講義時に「ああ、この話はこういう意味だったのか!」と毎回、驚いた覚えがある。同じ話でも、とても新鮮だった。わかっているつもりで、なんだかわかってなかったようなのだ。これは、たぶん聞き手の問題だろう。たぶん聞き手の知識レベルがあがったので、講義の内容理解度が違うのではないかと思う。だから、同じ講義を同じように聞いても、たとえば「すでに何作も書いている人」と「まったく書いたことがない人」だと、同じように理解ができているわけではないから、違って聞こえてくるんだろう。

まあ、講師によって、毎年だいたい同じ内容を話す先生と、毎年違う内容を話す人と、半分くらい変えるという人と色々である。まあ、正直、毎年違う内容を話す先生ばかりだと、こちらでカリキュラムの予想がまったく立たないので、せめて半分くらいは同じ内容を話して欲しい気もするが、そこは、講師にまったくまかせているので、口出しはしたことがない。まあ「できればあの話をぜひ」と思うことも多いけど。(もし足りない場合は、講師が来ない「教室実習」というのを設定しているので、その時に話をするし、それぞれの生徒さんには個人的に相談にのることにしているから、たぶんあんまり問題はない)。

もちろん講師の先生たちは、できるだけわかりやすく、しかも役に立つように話をしてくださっているわけなのだが、もともと受け取り側の理解度にかなり大きな差があるから、多少、話のレベルが高いとピンと来なかったり、あまり理解できない人もいるのは当然だと思う。ま、リクツがわかったとしても、結局、書くのは、また別の作業だしね。

「とにかくやってみなければ、わからない」というか、「リクツがわかんなくても、やってみれば何とかなる」こともあるわけだし。

それに、講義を聞いていた時には「なんだかよくわかんないな」と思っていたことでも、自分でいろいろ作品を書くと「ああ、あの先生があの時言っていたのは、実は、こういう意味だったのだな」と後でジワジワわかってくることもある。まあ、とくに専攻科にもなると、講義の内容理解よりも、まずは作品を書いてナンボだし、どんな悩みを一切抱えずに書き続けている作家もたぶんいないわけで、だからこそ、講師の先生たちは、自分なりの方法を編み出したり、工夫したりしてるわけである。

結局、創作方法なんて、自分なりの方法を編み出すしかないわけで、小説講座でできることと言えば、「自分なりの創作作法を見つけるためのヒントをいくつか与える」くらいでしかないわけだし、だから、色々な生徒さんに、色々なジャンルや個性たっぷりの講師(プロ作家)がたくさんいるのはいいことなんじゃないのかな、なんて思うのだった。まあ、うちの講座は、あんまり「手取り足とり」という感じの親切な講座ではなくて、いきなり海につれてきて、「泳いでみようぜえ」みたいなところもあるのだが、どのみち、そもそも水を飲む気のない馬を水辺に連れてきても、無理に飲ませることはできない。飲む気があるなら、水さえ見れば飲むだろう。

まあ、私は、いろんな講師の話がきけて、いろんな生徒に会えるから、けっこう楽しい。

小説家にも、資格は要らないけど

11月10日(木)
終日、外出。小説講座の事務所には、入れず。

先日、なくしたと思っていた『電子辞書』がやっと見つかったので、分厚い辞書を片づける。小学生の息子は、宿題などで、小学生向けの「紙の辞書」を使っているのだが、これも、そのうち電子辞書になるんじゃないのかなあ、と思う。まあ、便利なものにはすぐに慣れてしまう。小説講座でも、今はパソコンを使わず、手書きにこだわっている人は、講師でも生徒でもかなり小数派。ほとんど絶滅の危機にある。手書き派で、「やっぱり自分の手で書かないと書いた気がしない」という人も中にはいるが、「ワープロソフトがないと、絶対無理。ないと小説が書けない」という人もいる。

ワープロソフトも、講師のプロ作家の人たちは、「これのおかげで、けんしょう炎から解消された!」とか「推敲がすごくラクになった!」とか、「もうパソコンなしで書くなんて、想像がつかない」という人がほとんど。まあ、小説家にとれば『商売道具』だし、競合の激しい業界なので、自分の創作環境を整えるのも大事なんだろう。

「電子辞書」は、今の高校生や大学生では、すでに必須アイテムになっているらしいから、そのうち「紙の辞書」は、使う人が激減するんじゃないかしら。まるで「そろばん」が「電卓」に入れ替わったように。今でも『そろばん』はお稽古事では人気があるらしいのだが、かつてのように実用的な技術だと考えられているかは、ちょっとわからない。今、「履歴書」の資格欄に「珠算2級」と書いたら、どんだけの価値があるんだろうな。『シスアド』(情報処理試験のシステムアドミニストレーター試験)と、どっちが効果が高いのかなあ。

かくいう私は、『珠算2級』と『シスアド』の資格をもっているのだが、『珠算2級』は、小学5年の時にやったきりなので、今、やってみろと言われても、たぶんできない。『シスアド』の方は、この資格ができたばかり頃に、たまたまコンピュータ関連のハイテク広告ばかりやっていたので、取引先のクライアントもみなプログラマとかばかりで、「どんな資格なんかな〜」みたいな感じで受験したら、受かったというだけである。あれから十年以上たっているので、コンピュータ業界も激変してしまった。もう一度、受験したら、たぶん受からないだろう。

しかし、十年ほど前に、フリーランスのコピーライターとして独立してからは、市販されている「履歴書」を使ったことがない。仕事をする時に、「履歴書」を見せてくれ、と言われたことは一度もない。フリーランスで仕事をしていると、新しい仕事はたいてい人の紹介でやってくる。こういう業界は、履信頼関係は大事だし、実績もいるが、履歴書は必要ない。まあ、紹介されて、名刺交換をすれば済む。実績も「どんな仕事してるんですか」と雑談するだけで、お互いだいたいの検討がつくので、そんな感じで済んでしまう。

まあ、公民館などで「文章講座」などの講師を頼まれて、「経歴書を見せて欲しいんだけど」と言われることがあったが、これも、簡単な経歴や仕事の実績等をワープロでしゃかしゃかと書いただけのものを渡せば済んだ。大学生の時は、いわゆる勤労学生だったので、18才から22才まではあれこれバイトばかりやっていたし、だから「履歴書」は山ほど書いた覚えはあるのだが、ここ十年ほどは書いたことがない。考えてみたら、企業というものにずっと所属してないんだから、あたりまえだけど。でも、考えてみれば、小説家なんてのも「資格」が要らない。どんな小説を書けるか、だけ。資格ではなくて、実力だけが問題にされる仕事である。まあ、賞でもとれば、経歴にはなるかもしれないけど。

ところで、うちの夫は、つい3年前、たまたま大量採用の時期になって、試験に受かってしまい、正規採用になってしまったのだが(本人は、どうも不本意らしいのだが)、それまでは、ずっとフリーの高校講師だった。つまり、いわゆる「非常勤」やら「期限付」と言われる教員だったのである。まあ、あんまり知られていないと思うが、産休やら、人事異動の都合などで、正規の教員が足りなくなると、たいていは学校長が臨時雇用(いわゆる講師)で、不足教員分を補うことになっている。で、他の自治体は知らないけど、大阪府や大阪市だと「講師登録」というものをしておくと、その「履歴書」を見て、電話連絡などをして、採用が決まるのである。これは、臨時雇用だから、期間は長くても一年未満。それも通常は、半年更新である。そういうわけで、身分は不安定だが、「期限付」でも一応、常勤雇用なので、給料もかなりいい。だからか、こういう臨時雇用で、食いつないでいる人もたくさんいる(なぜか私の周囲や知人では、こういう講師がけっこう多い)。

しかし、これはいわゆるフリーターである。夫も、教員経験が十数年あったのだが、ずっと正規採用ではなかったので、つまり長いフリーター生活(で、子供が三人もいたわけだが)、「履歴書」に書ける唯一の資格である「教員免許」(美術・工芸、中高校)だけで、メシを食っていたわけである。

彼は、十数年ぶりの大量採用で、なぜか正規採用になってしまったのだが、「新任教員」はやっぱり大変だそうで、「講師に戻りたいなあ。そういうのって許されへんのかなあ」とぶつぶつ言っている。まあ、これまで「クラス担任」もしなくてもよかったそうで、残業も少なかったから、今はヘトヘトなんだそうだ。先日も、休日に家庭訪問をしていたが(この時期に高校生の家庭訪問ってのは、なんだか変だから、きっとまた何かあったのだろう)毎日、かなり大変そうである。

どっちにしても、「資格があれば、それだけで、いい仕事ができる」というわけでもない。ようやく景気も回復傾向だが、リストラにあって、仕事が見つからない人もまだまだ多い。まあ、どんな仕事でも、努力を続けなくてはならないのは同じで、だから、小説家だけがラクして儲けているわけではない。まあ「努力してるなんて、ダサイから言わない」って作家さんもいるだろうけど、たぶんそこんとこは、間違いなくホントだと思うんだよね。

11/10/2005

「図書館栄えて、モノ書き滅ぶ」はウソだと思うよ

11月9日(水)
午前中から、小説講座以外のお仕事。小説講座の事務所には入れず。

先日、ある生徒さんから「講師の本をあまり買ってないので、飲み会でもあんまり声をかけにくいし」という話を聞いた。そう言いながら、その人は、講師の先生たちの著書の内容にもまあまあ詳しいので、よくよく聞くと「図書館で読んだ」んだそうな。
「え、それなら、ぜんぜん気を使う必要なんかないよ。今、出版業界も不況だし、どうしても次々と絶版や在庫なしになるんだもの。そういう本は、どうやっても書店では手に入らないんだし、そうなれば、買いたくても買えないんだから、図書館や古本屋で探してでも読んでくれた方がいいよ」
というと、
「でも、作家の人は、自分の本を買わないと気を悪くされるんじゃないですか。ほら、『図書館栄えて、モノ書き滅ぶ』って、いうらしいし」
と言う。
うーん。
いやいや、そういう理由で、少なくともうちの先生たちは、気を悪くしたり、怒ったりはしないよ。そりゃ、買ってくれる方がありがたいけど(作家にとって、本を買ってくれた人は、「お客さま」だもん)、図書館に行くな、なんていう先生は絶対にいないよ、と言ったのだが、ちょっとびっくり。

その話は、たしかにうちの小説講座でも、数年前には少し話題になったのだが、その議論はとっくに終わったと思ってたのになあ。

結論からいうと、『図書館栄えて、モノ書き滅ぶ』というのは、今でも、作家さん自身がある意味、やや自嘲的に使う場合はあるけど、それ自体は、むしろ、基本的に『ウソ』だと考えておいた方がいいかもしれない。ウソというか、まあ、なんつーか「格言」みたいなもんですね。根拠はないというか。

確かに、どんな作家さんでも、自分の本は買ってくれた方が嬉しいわけだから、「いつも図書館で読んでます!」などと言われても、ちょっと内心ひっかかるだろうというのは、想像がつく。というのは、
「あれ、それなら、どうして新刊が出ているのに買ってくれないのかな。もしかすると、オレの本は、読みはするけど、買う価値はないと思われているのかな」
などと、考えられる危険性があるからだ。
(作家さんというのは、どんな売れっ子さんでも、案外、めちゃくちゃ気が小さいというか、割にそういうことを気にする人種で、自分の作品に関しては、とってもナイーブなものなのである。しかも、たっぷりと想像力があるだけに、邪推する能力も高いのだ)

ところで、そもそも「図書館が栄える」ことと、「モノ書きの収入」には、因果関係が証明されていない。その「説」自体は、けっこう話題になったので、いろんな検討がされたらしいのだが、まず、因果関係が証明されたものは見たことがない。出版業界が不況なのは、データ上から見ても「事実」なのだが、その原因とされているのは、大きくわけると、次の二つである。

その一つ、これが最大の理由が、「人々がそもそも『本』を読まなくなった」である。買うとか、借りるとかの問題じゃなくて、そもそも「読まない」。よく「活字離れ」という言葉があるが、最近は、もはや「活字離れ」ではなくて、「活字知らず」の時代なんだそうだ。データはたぶん色々あるけど、「一日あたりの読書時間」がこの数十年で「10分以下」まで落ちただろうとか(テレビが普及する1960年代までは、1時間以上あったとか)、大学生の読書冊数が、年数冊だとか。

まあ、「主婦の雑誌」なんぞを見ると、「家計簿」などが載っていたりするのだが、そもそも「書籍代」という項目が最初から全くない(まあ、あったとしても、たまに雑誌を買うくらいだろうけど)。うちは「借家」なので、よく住宅のセールスマンがやってきて、パンフレットをもらうことが多いが、建売り住宅、あるいはマンションでも、間取りを見ると「本棚を置く」という想定がまったくない場合が多い。息子や娘が、友だちの家に遊びに行っても、「本棚がある家は、うち以外、一軒も見たことがない」そうだ。(ちなみに、私の実家にも、義弟の家にも「本棚」という家具はない)

出版不況のもう一つの原因とされているのは、たいていが「流通システム」である。「再販制度」は、出版不況を議論されるたびに、何度も繰り返し、やり玉にあがっている。(でも、結局、なんだかんだで、変わる傾向がないので、たぶん当分このままだろうけど)、今後も、流通システムが多少は問題にされるのは間違いないだろう。

つまり、産業構造として「出版不況」を分析する場合、たいてい「図書館」をあげる人は、少なくともほとんどいなかったのだ。そういう意味では、これは画期的な「説」だったのである。ただ、実際には「図書館が出版不況の原因だ」と本気で考えている人は、おそらくほとんどいない。むしろ、書店などの最前線では、「図書館には、もうちょっとがんばってもらわないと」という意見が聞かれることの方が多いようだ。図書館は、書籍文化の普及を使命としているわけだから、もし本当の意味で、図書館が栄えれば、当然、書店も栄えるだろうからである。書店が儲からないということは、モノ書きも儲からない。

つまり、因果関係が証明されてないうえに、今、「図書館が栄えている」という前提にも、かなり疑問が残る。何をもって「栄えている」と判断するかである。そもそも図書館の普及率がどれくらいあるかというと、これはおそらく考えているよりはだいぶ低い。人口カバー率で、およそ4割という調査もあるが、これはたぶん市町村単位ではないかと思う。ご存じのように、大阪周辺でさえ、図書館のない自治体はゴロゴロある。そもそも地域になかれば、利用なんかできない。また、カバーしているとは言っても、これは市町村単位だから、日常的に利用しようと思えば、片道1〜2時間以上、離れているような場所にあっても仕方ないだろう。

と考えると、全区に地域図書館が設置されている大阪市内でも、片道4キロ以上離れている地域なんか、けっこうあるはずである。私は、以前、大阪の御堂筋線の沿線「我孫子」の近くに住んでいたのだが、ここは住吉区なのだが、図書館まで4キロ離れていた。しかも、当時は直接行けるバスもないし、駅や繁華街とは反対方向である。よほどの用事がないと、4キロ離れるとさすがに日常的には利用しない。まして、赤ん坊をベビーカーに乗せて歩いて行かねばならないんだもの。

しかも、多くの図書館は、あまり予算がないので、あまり充実してないのである。地方に行くと、「少なくとも建物だけは立派」という図書館もあるのだが、中身はかなり貧弱なところが多い。だいたい、現在は歩いて10分くらいのところにある「大阪市立鶴見図書館」。かなりいい施設なのだが、たとえば座席はソファまで入れても、50人も座れない。駅前にあって、便利な図書館である。冷静に考えて、これは少ないのではないだろうか。鶴見区は、人口10万以上もあるのである(でも、みんな本をあまり読まないおかげで、座席がいっぱいになっているのは一度も見たことがない)

たいていの自治体は、図書の購入額も非常に低い。たぶん「図書館を栄えている」などと認識できる地域は、かなり限られている。。大阪市内にも、たくさんの図書館があるが、「栄えている」と認識できそうなのは、西長堀にある「大阪市立中央図書館」だけである。ここだけは、常にいっぱい人がいる。(不況になって、ヒマそうな人が増えたので、より一層混んでいるような気がするが)
でも、他の図書館が混んでいるのはせいぜい日曜くらいで、それもある限られた時間だけではないかと思う。

つまり、ある程度、予算がたくさんあって、来館者も無理なく来れるような図書館は、さほど多くない。ということは、「図書館を栄えている」などと認識できる地域は、たぶんある特定地域、おそらく東京都内だけではないだろうか。大阪に住む私から見ると、東京人は「東京スタンダードが日本のスタンダード」という思い込みがある人種でして、「東京人にあらずんば、人にあらず」みたいな思想がどっかにあるから、たまたま都立図書館が混んでいると、それが日本の標準だと思い込むのかもしれない。

ところで、この図書館では、ヒット作や話題作の大量購入をしていたらしく、それがいけなかったらしいのだが、まあ、個人的には、大量購入しても、書籍の売上げ自体にはほとんど影響がないんじゃないか、と思っている。というのは、理由は3つある。

まず、地域図書館を頻繁に利用している人を見ると、正直、とくに平日に行くと思うのだが、図書館にいるのは、こういっちゃなんだが「ビンボー人」が多い。ちょっと語弊はあるかもしれないが、年金暮らしの高齢者と主婦とガキばかりなのである。どう考えても、もともと「おこづかい」が少ないから、「本でも読もうか、金もかからんし」という人ばかりである。ビンボー人の数少ない「金のかからない娯楽」として、図書館が利用されている感じがある。かくいう私の母も、定年後の楽しみは、図書館の本ばかりである。うちの子供たちも、自分では買えない本を「予約」して借りる。

ところで、図書館の本というのは、一冊あたり、何人くらい読むのだろうか。で、私は、いくつかの図書館を日常的に利用しているが、こういう地域図書館というのは「貸し出し」がメインである。そもそも座席数が少ないし、日曜日にしか来館しないので、そこで調べものをする気にならない。さて、今は、市立図書館は、システム化されたので、「日付け印」を押してくれないが、今でも押してくれる図書館もあって、それを見る限り、図書館の本は、二通りあって、20回ぐらい貸し出される本と、5回も貸し出されない本のどっちかが多い。で、話題作を読もうとすると、必ず「予約」を入れなくてはいけない。私は、話題作があると、よく面白がって、オムリスで大阪市内の図書館を全館検索する。

大阪市では、よっぽどの話題作(社会現象になるくらいの)は、特別に複数冊購入しているらしいのだが、まあ、予約しても滅多にまわってこない。というのは、だいたい読まなくても、とにかく予約しないと本を手にとることもできないから、とりあえず「予約」するわけなので、予約待機人数が爆発的に多くなる。しかも、実は、大阪の図書館は「貸し出し期間が2週間」である。ただ、そのうえ、予約本が届いてから1週間以内にとりにいけばいい、ということになっている。つまり「とり置かれている時間」も長いのである。しかも、延滞もあるだろうし、たいていの人は日曜日など利用する曜日が限られているので、回転はかなり遅いと想像する。私の経験でも、スムーズにいっても一冊の本につき「月に2人」は無理である。どうやっても、一人2週間以上かかっている。だから、たぶん、半年で10人、借りられればかなりいい方じゃないかと思う。まあ、半年もたてば、たいていのブームが終わるが。まあ、話題になる本を一年近くも待てるのは、やはりビンボー人だけ。その頃には、古本屋では200〜300円になっているのだが。

しかし、「半年あれば10人も読むじゃないか。その分、買ってくれる機会喪失じゃないか」という意見もあるだろうが、まあ、図書館の本は、何人か借りられればかなりボロボロになるし、そういう本は、本当に数百冊に一冊くらいである。それくらいいいじゃないのかなあ。本当に、そんなに言うほど問題なのだろうか。気のせいか、話題の本を買わずに借りようなどという人は、どうも主婦が多いみたいなんだけど、こういう人は小さな子供を連れてくるわけである。読書習慣は低学年のうちに、ある程度つけておかなければ、一生読まないと言われているんだから、こういう親次第である。どんな業界でも、マーケティング戦略として、購買層の育成には力を注ぐのである。他の業種に較べると、出版業界は、あまり書籍の普及には、さほど金を使っていない。何もせずに「ただ、なげているだけ」か、「誰かが何とかしてくれるだろう」と思っている。まあ、業界自体の変革もなく、のんびり他のせいにできるのは、まるでどこぞの業界と同じだが、これも、ある意味、図書館のおかげなんだろうな。

ところで、図書館だけど、「借りる本をすべて買うとは限らない」と思うんですが、どうですか。私なんか、今、現在でも、ある図書館で8冊、もう一つの図書館で2冊。つまり10冊の貸し出しを受けていて、まあ、日頃、常に10冊くらいは手元にある。月に数十冊は借りるのだが、これを全部買うとなると、月にヘタすると十数万はかかる。貸出を受けないで、図書館内で読んだだけのを数えたら、もっとすごい金額になる。おいおい、そんなに買えるわけないじゃん。

私は、本はかなり買う方だと思うが、ほっとくと無制限に買うので、一応、収入の1割を上限に決めてある。たぶんこれはかなり多い方である。でも、まったく足りない。だから、講師の本ならもちろん全部買うけど、新刊で出ていても、講師じゃない人の本は買わない場合だってある。だけど、話題になった本は読みたい(まあ、社会現象になるような話題のためではなくて、業界内の市場調査みたいなもんなので、ちょっと違うけど)。で、図書館しか頼るところがない。まあ、たとえ買えたとしても、今の住宅事情では置くところがないだろうけど。
(普通の年収500万のサラリーマン家庭が年50万ずつ書籍を買えば、出版不況なんかたぶんなくなるが、そういうわけにはいかない。そんなに買えば、生活費が圧迫されてしまう)

それに、そもそも本当に「モノ書き」は儲からなくなっているのだろうか。今日の出版点数を見る限り、ものすごい量の出版物が毎日のように出てくる。これだけ見れば、たとえ、売上げは低くても、総量としては、モノを書く人の数は、極端に増えているはずである。つまり、全体のパイが減った以上に、それを分け合う人数が反対に増えたんじゃないだろうか。これでは、一人当りの収入は減る。モノ書きの数そのものが増えたんだったら、ある意味、当然なんじゃないのかなあ。

図書館は、そもそも存在目的も社会的な使命も違う。無料で貸し出すのがダメなら、有料でレンタルならいいのかという議論はあるだろうが(外国では有料のところもあるそうだ)、むしろ、どうも図書館が栄えていないのが、モノ書きが滅ぶ原因でもあるような気がするのだ。それとも、ロンドンにはたくさんの博物館があって、今もほとんど無料らしいが、それで、例えば、画廊や古物商が大きな被害を被っているのだろうか。むしろ、人を集めてきて、芸術に親しませて、むしろ欲望を刺激しているような気がするんだが、どうなんだろうな。

とにかく「図書館栄えて、モノ書き滅ぶ」は、正直、内容的には「どうかな」という点も多い。もちろんモノ書き商売の人が、やや自嘲的(あるいは自虐的)に使うことはあるかもしれないが、でも、小説家志望の人が、それに気をとられて、図書館を利用しないというのは、もったいないと思う。絶版になった本の中にも、たくさんのいい本があるのだ。また、小説を書くうえで必要な資料もたくさんある。よほど金持ちか、あるいは、すでにプロになっていれば、「どうせ金になるから、投資だ」と思って買えるかもしれないけど、普通は、全部、買うのは正直、不可能である。ビンボーだが、向上心があって、知的好奇心もたくさんあるような作家志望者なら、買いたくても買えない本がいっぱいあるはずだ。

というわけで、何が言いたいかというと「図書館へ行くのは、別に悪いことじゃないんですよ」ってこと。もちろん不況だと図書館は多少にぎやかになるだろうし、(リストラされた人が、図書館に通うとか)、そしたら、同時に出版物もさらに売れなくなるだろう(全部の家計費が切り詰められるから)。そういう意味だと考えておくだけの方がいいと思う。余計な因果関係を考えないようにした方がいいんじゃないかな。

それにしても、予算がなかったり、不届きな利用者も多かったり、とくに地方図書館なんか、司書の給料もなかったりするところもあるし、図書館の人は大変である。今は、とくに自治体の予算が削られているようで、図書館自体が危機になっているところもある。でも、とにかくがんばって欲しいなあと思ってます。だって、やっぱり「図書館栄えて、モノ書き栄える」ってのが一番だと思うしね。

11/08/2005

まずは書いてなんぼ、の小説講座

11月8日(火)
午後から小説講座の事務所。結局、夜8時まで、あれこれ事務作業。

丁稚どんが、専攻科と第9期の「作品集」を印刷。どちらも提出数があまり多くない。まあ、最初だからいいんだけど、第9期の方はかなり少ないので、気になる傾向ではある。うーん。真面目な人が多いかなあ。「自由課題」は、出しても出さなくていいことになっているので、真面目な人が多いと、出さない傾向になるのである。こういう人は、やや完璧主義だったりするので、書いても「恥ずかしい」とか「ちゃんと書けなかった」とかで、提出しないことがある。

文章を書くのは、練習さえすればうまくなるので、「水泳」とか「自転車」に例えることが多いんだけど、こういうのは、「スキー」を覚えはじめた頃に似てるかも。スキーって、最初のうちは、こけるのが怖くて「こわごわ」滑るんだけど、まず丁寧に教えられたフォームを守ろうとするタイプよりは、「とにかく転がってるうちに、なんとかなるやろ」みたいな、無鉄砲な人の方が、なんか上達は早いんだよなあ。結局は、いくらリクツを覚えたって、スキーなんか身体で覚えるしかないってことだけど、文章も、案外、頭で書くっていうよりは、腕で書くというか、やりながら覚えるしかないんだもんなあ。

実際に、「頭で考えた通りには、身体が動かない」ってのは、どんなスポーツでも同じなんだけど、文章も「頭で考えたはずなのに、その通りには書けない」もんなんだよね。ま、『モノ書き稼業』をやっていたり、小説を何本か書いたことがある人なら、これくらい「あたりまえ」だと思うだろうし、「そうそう。だから大変なんだよ〜」と思うだろうけど、初心者には、これが案外わかんないみたいなのよ。講座に入学したばかりとか、日頃から文章を書いてなかった人は、「頭ではちゃんと考えたし、だから書けるはずだ。それなのに、あれれ、なぜか書けない。一体なぜなんだ!」とイライラしたりするんですよね。

でも、たとえば、「絵」だって、何も考えずに描いている人はいないわけで、普通は「こんな絵を書こう」というビジョンとかイメージはあるわけですわな。でも、実際には、描いてみたら考えていたイメージとはまた違ったものが描けてしまう。ま、「イメージ通りにできた」と思う時もあるだろうけど、たいてい違うカタチになっちゃう。でも、それで「困る」場合もあるし、その方がかえって「よくなった」という場合もあるわけだよね。だから、絵画なんかもそうだけど、イメージ通りにできなかったりするからこそ、面白かったりするわけで、文章も、自分では思ってもみなかったようなことが「書くこと」によって、ぴょんと飛び出て来たりするわけで、そういうのが面白いわけですよね。だからこそ、自分で書いた言葉に「おおっ」と驚いたりすることもあるんで、それが面白くて、みんな書いているようなところがあるんじゃないのかな。

だから、まあ、最初のうちは、うまくいかなくても、まあ、そのうち少しずつうまくなるし、「それはそういうものだ」と思って、楽しみながら書いてくれるといいんだけどな。しかし、なんで小説って、書くのに言い訳がいるのかな。うちの講座は、プロ養成がコンセプトだけど、いくらなんでも、いきなり「作家になる」とか、そういうレベルは要求してないけどな。まあ「なれたらいいな」というのは自然な発想だと思うので、それは思ってくれる方がいいんだけど、真剣にプロデビューするとかしないとか、そんなもん、何作か書いてからでいいんだけどなあ。それにしても、ちょっとカラオケに行ったりするだけで、「歌手になるつもりなの?」なんてことを言う人がいないだろうになあ。つくづく小説って、読むのも書くのも、よっぽどマイナーな趣味なのかもなあ。

専攻科のカリキュラムとクラス編成で、いろいろ検討。どうやら授業は、なるべく2クラス合同でやってほしい人が多いらしい(なんだかんだで、仲良しである)。まあ、合同クラスだと講義回数が増えるから、その方がいいと思う生徒さんが多いかも。とりあえず、2クラスになるのは初めてなので、どうやってクラス分けするかが課題。

基本的には、専攻科への入学年度で分ける方がいいんだろうけど、どうも同じクラスだけとか、せまい範囲だけで仲良くすると、たまになぜか創作ペースが落ちることもあるので(理由は分からないけど、クラスの仲がいいと脱落率は下がるんだけど、なぜか全員の提出率が下がることもある)、やっぱクラス分けは「ジャンル別」かな。あ、「今年、ねらっている新人賞のジャンル別」ってのはどう。まあ、どうせ講義は、8割以上、合同でやることになるでしょうけどね。

そう言えば、以前、ある人に「そんな、なれるかなれないか、わからないようなプロ作家をめざすよりも、カルチャーセンターみたいにノンビリ楽しくやって、ヒマな人をたくさん集めて、少しは儲けたら」というアドバイスを受けたことがある。が、まあ、それなりに「のんびり楽しく」やるのにも、別に異論はないのだが(社会人が多いので、どうしても多少「のんびり」ペースになるんだし、どうせ好きなことやってるんだから、小説に関することをやる限り、楽しくならないはずないしね)、それでもやっぱり「プロ養成」というコンセプトにはこだわりがあるから仕方ないんだよね。いや、講座自体が「プロ志望」というコンセプトだとしても、実際には、プロ志望じゃない人もけっこういるけどさ。まあ、小説クラスだけで、50人以上いるわけだし。

しかし、創作講座なんだから、やっぱり、他人に読んでもらってなんぼ、の世界だと思うんで、そうなるとどうしてもプロ志望になっちゃうんだよね。まあ、その方が自然だし。「文学を通して、自分自身の人生をみつめる」という要素もなくはないけど、やっぱ、『エンターテインメントノベル』だもんなあ。

私は、目標があった方がわかりやすくて、いいと思うんだよね。長編なんか、時々、ついイヤになっちゃうこともあるだろうけど、新人賞なんか、とりあえずの目標としては、とってもわかりやすいじゃない? ほら、賞金もあるしさ。というわけで、とくに今年の専攻科は、新人賞か、あるいは、小さな賞を確実にゲットするか、どっちかをめざしましょうかね。つまり、クラス全員が賞金ゲット。どだ!?

小説とは関係のない休日(図書館と雑炊)

11月7日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝7時40分に外出。昼は、イタリアンのランチ。
午後からは、図書館に4時間ほど滞在。疲れ目がひどく、それ以上の滞在ができず。ああ、最近、集中力がなくなったような気がするなあ。よく「最近の若者は、勉強しない」などという人がいるらしいが、私は、6時間の授業を毎日耐えているというだけで、中・高校生を尊敬してるですよ。この歳になると、そんな集中力ないもんな〜。

6時頃、帰宅。夕食は、昨日スキヤキと豪勢だったので(実は、生ハムメロンも食べてました)、今日は質素なもの。たまご雑炊にみそ汁。うちは、ぜいたくな夕食は二日と続かないのだった。

夫がまた「キューピー」のホームページで、「たらこ〜たらこ〜」というCMソングを聴いている。この間から、しょっちゅう聴いている。ふーん、そんなに気にいったのかえ。

11/07/2005

ひらかた大菊人形とスキヤキ

11月6日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

金曜日の夜から、夫の実家に二泊していた子供たちが帰宅してきたのだが、あいにく天気が悪い。ぐずぐず雨。でも、子供たちを連れて10時過ぎから『ひらかたパーク』へ。もちろん大菊人形展を見るためである。関西の人ならおなじみの『ひらかた大菊人形』は、今年で最後。そのため、今年の大菊人形展は、必見である。うちは、ひらかたパークなら1時間もかからないので、よく行く方だと思うのだが、去年までは「まあ、見なくてもどっちでもいいかな」という感じだったのだが、その96年の歴史も、とうとう今年で最後と聞けば、絶対に見ておかないとね、という気になってしまう。

ウワサでは、3時間待ちの日もあるとかで、雨の日に遊園地に行くのはちょっと残念なのだが、あんまり人が多いのも大変なので、こういう天気の悪い日ほど、すいているだろうと行ったのだが、はたして「1時間20分待ち」という看板が出ている。奥のプールの前まで、長い列が続く。といっても、実際に並んだのは、せいぜい30分ほど。(そのあと、午後からは、ほとんど並んだ人もなかったようで、この日はすいていたようだ)

たしか2〜3年前などには見たはずなのだが、小学2年の娘たちは、「菊人形を見たのは初めて」という。小学6年の長男も、「あんまり覚えてない」とか。それは、貴重な経験になったなあ。

菊人形は、例年「NHK大河ドラマ」と同じテーマなので、今年は「義経」。全7場ほど。もらった資料は、川井ゆうさんの監修で、ちょっとした歴史を解説したパンフレットになっている。私は、「現代風俗研究会」の例会で、この方の菊人形についての講演会をお聞きしたことがあるのだが、なかなか充実した資料です。このミニパンフレットは、皆さん、保存版ですぜ。

この資料によると、どうも私が幼い頃は、『菊人形展」もかなりハデだった時期らしく、全7場どころか、数十場面もあって、豪華絢爛に展示されていたそうだ。私は、子供の頃、毎年のように両親に連れられて見た覚えがあるのだが、子供の頃は、いつも菊人形がすごく「怖かった」気がする。どうも「花に生首」というイメージがあったらしい。そのせいか、今でもちょっとばかり、こわごわ見てしまうのが、自分でもなんだかおかしいんだけどなあ。

ま、この「最初で最後の菊人形体験」が、7歳の双子の娘たちの記憶にどれだけ残るのかどうかは、わからない。

せっかくの「ひらかたパーク」なのだが、雨のため、ジェットコースターなどは止まっている。観覧車やお化け屋敷、メリーゴーランドなどでぶらぶら遊んでから、京阪電車で帰宅。娘が京阪電車の中にカサを置き忘れる。このカサは、骨が2ケ所も折れているので、さすがに駅員さんに頼んで探してもらうのも恥ずかしく、京橋に寄って、カサを買う。きちょうめんな妹は、カサの使い方も丁寧で大切に使うのだが、おおざっぱな性格の姉はカサをよく壊すのだ。双子なのに、どうしてこう性格が違うのか。彼女は、この半年で5本目。あんまりひどいので、もう百円均一のカサにしてやろうか、と思ったのだが、これは家を出て2分しかもたなかった。玄関を出た途端、いきなりカサをひっぱりあいして、アッというまに壊したのだった。わずか2分で壊すなら、たとえ百円でももったいないわい。白い雲の模様がはいった青色の可愛いビニール傘が300円で売っていたので、買って帰る。

いつも忙しい夫もめずらしくのんびりと家にいるので、「夕食、何がいい?」と聞いたら、めずらしく「スキヤキ」という答え。で、夕方、スーパーに行くと、なぜか、長ネギと牛肉が大安売り。当然、買って帰ると、娘たちは、「卵を割って、つけて食べるの? なんだか変なの」という。鍋にしょうゆと砂糖をどんどん入れると、さらに驚く(注:関西では、スキヤキは、鍋に直接しょうゆと砂糖を入れるのがスタンダード)。えっ、あんたら、スキヤキ食べたことなかったっけ? 夫が「そういや、少なくとも1年半以上は食べた覚えがないな」とつぶやく。私は、ほとんどの食材はできる限り国産を買う主義でして、牛肉は高価だし、そういや、年に数回しか買わないかもなあ(合挽ミンチなら、一昨日もギョウザを作るのに買ったけど)。まあ、もともと魚料理が多いし、肉といえば、「豚肉」か「鶏肉」だしなあ。だって、スキヤキって、特別な日の料理でしょう。ほら、赤飯とか、ああいうような。

スキヤキを食べていると、夫が「子供の頃、菊人形を見た日は、いつもスキヤキ食べてたなあ」と言いだす。「えっ、そうなん? なんで?」と驚いたら、「だって、ほら、これ」と、春菊をハシでつまんで、ひらひらさせた。
へえ。菊人形には、みんな、いろいろな思い出があるのかもね。

11/06/2005

小説講座は、第9期。はじめての講義

11月5日(土)
午前中から小説講座の事務所。夕方から、第9期の講義。

今日から、第9期の授業開始。第1回の講師は、草上仁先生で「短編小説の書き方」。わかりやすく詳しいレジュメと初心者向けに丁寧な解説。具体的なミニ演習もあって、短編の名手で、素晴らしいアイデアストーリーをたくさん書かれている草上先生ならではの名物講義で、毎年、生徒さんにも人気の講座である。第1回目の講義ということで、第9期は全員出席。専攻科と一般の見学が3名加わって、教室はぴったり満席。

アンケートによると、今年は「一作もまだ書いたことがない」という人がやや多いようなので、ちょっと心配していたのだが、とりあえず全員出席なので、ホッとする。このクラスは、遠方からの通学者もいるし(東京、名古屋)、とにかく初心者が多いと、どうしてもクラス全体の挫折率は高くなる。週1回のたった2時間の講義だけだし、社会人ばかりなのだが、案外、クラスの雰囲気というのも、影響する。昨日言ったみたいに、講義後の「サイン会」(のようなもの)がにぎやかなクラスは、それだけ熱心で、好奇心も旺盛な人が多いので、お互いいい刺激になるらしい。

講義後、草上先生と一緒に飲み会。あとから高井信先生がやってきて、一緒にビールなど。(あいかわらず何かと仲がいい作家さんたち)。飲み会は、遠方の人が多いせいか、生徒さんたちの参加は、やや少なめ。まだ、話をしたこともない人がほとんどなのでわからないのだが、なんだか今までのクラスに較べると、ちょっと真面目そうな印象の人が多い感じ。なにせ小説講座の生徒さんというのはオタク系も多くて、毎年、けっこうクセのある生徒さんが多かったりするんだよね。いやいや、まだ猫をかぶってるだけかもしんないけど。

「自由課題」の提出率も、あまりよくないようだ。まあ、最初の課題は「ただの作文」なのだが、この課題は、毎年クラスによって違うのだが、多いクラスだと「ほぼ全員」提出されるのである。でも、今年は、3分の1しか集まってない。うーん。ちょっと少なすぎだなあ。クラスによって、全然違うのだけど、全体のレベルが高いクラスは、たいてい「自由課題」の提出率も高くなる。この「自由課題」というのは、講座で集めるカンタンな課題作品で、とくに作品指導をするわけではないのだが、作品集を作って、生徒全員に配布したり、一部、講師に手渡ししたりしているものである。これは、とくに作品指導がないから、全員提出する必要もなくて、自主参加である。ほとんど遊びのようなもので、たとえば「階段」をテーマに原稿用紙5枚以内とか、そういう簡単な課題などをやったりしてる。

といっても、こういう課題を集めるのは、2月締切の「前期課題」を書くまでの短い時期だけなのだが(修了課題が忙しくなる後期にはほとんどやっていない)、毎週か、隔週くらいで、締切を作っているが、気楽に楽しんで、作品を提出してくれる人が多いほど、盛り上がるので、できればもうう少し作品を出して欲しいなあ。そういや、講義後の「サイン会」も、人数の割にはちょっと少なかった気もするな。まあ、最初の講義なので、本を買うのが間に合わなかった人も多いみたいだけど。

ところで、この「自由課題」は、「作品集」を作って、配布するだけなので、ちょっと同人誌的な感じにはなるのだが、短いものばかりなので、「書き慣れる」とか「人に読んでもらうのに慣れる」のにちょうどいいし、とにかく「他人の作品を読んでみる」というのができるのがいい。小説を書いたりすると、自分の作品を読んでもらうことばかりに関心が向くのだが、案外、他人の作品を読んでみることの方が、勉強になったりする。自分の書いたものは、どうにも客観的な判断がつかないものだが、他人の作品は、アラやら欠陥が見えるものである。というわけで、他人の作品を読むことは、自分の作品を見てもらうよりも、けっこう勉強になるのだ。

何度、講師に作品指導してもらっても「あれ、なぜか、なかなか上達しないなあ」と思う人の中には、他人の作品指導をほとんど聞いてない人がいる。まあ、誰だって、自分の作品指導は、いろいろ言い訳もしたりするし(実際、口に出すかどうかは別にして、内心では、いっぱい自己弁護しちゃうもんだよね〜)、でも、他人の作品指導を聞く方が冷静に判断もできるし、「こういうこと、やったらアカンよね」というのは、わかりやすいのである。こういうのも、講座に通っているメリットなんだよね。

まあ、とにかくフレッシュな雰囲気で、はじまった第9期。どんな生徒さんがいるのか、楽しみだけど、これから1年間、楽しくがんばろうね。

11/05/2005

小説も食わず嫌い、大きくなれませんよ

11月4日(金)
午後から小説講座の事務局。

明日は、小説講座(第9期エンターテインメントノベル講座)の第1回目の講義なので、あれこれ、その準備など。

ところで、うちの講座の先生たちは、講義のあと、生徒さんと一緒に飲みに行ってくれる人が多い。講義が土曜日の夜なので、時間がとれる人も多いので、だいたい半数くらいは参加する。(専攻科だと8割くらいかも)

作家の先生たちの中には、けっこう忙しい時でも、わざわざ時間を作って、同席してくれる人もいる。もちろん遠方から来られている講師や、「デビューしてから一緒に飲みましょう」という主義の先生もいるし、締切前でどうやっても無理という人もいるので、講師全員というわけではないのだが、かなりの先生がいつも講義後の飲み会に同席してくれる。

これはとても有り難い。というのは、講義は2時間しかないし、十数人の講師が順番に来るので、それぞれの講師は「年1〜2回」という機会しかないので、できるだけ多くの話を聞きたい生徒さんたちにとっては、一緒に飲みに行くのは、単に「親交を深める」以上の目的があるのだ。まあ、ファンでもあれば、それだけでも一緒に飲めれば嬉しいと思うが、個人的な創作ノウハウなんかも聞けるし、業界話も聞けるし、やはり真剣にプロ作家になりたい人にとっては、こうした実際の仕事内容をいろいろ聞けることは貴重な体験になると思うから。

ところで、プロの作家を目の前にして、著作を一冊も読んでないというのは、やはりちょっと恥ずかしいかもしれない。とは言っても、うちの講座は、毎週毎週、違うジャンルの違うプロ作家が来るので、全部の先生の全部の著作を読むのは無理である。なにせ眉村卓先生などは百冊以上あるし、他の先生でも数十冊ずつ著書がある。いくらなんでも、全部はムリ(エンターテインメント系だから、絶版も多いのだが)。まして、毎月のように、講師の誰かの本が新刊が出ているしねえ。

でも、「できるだけ、一人の講師につき、一冊くらいは読んでおくと話もわかりやすいし、サインももらえるよ」と生徒さんには言ってある。今まで興味がなかったジャンルでも、実際に会えるとなると、講義までに読んでおくのも楽しみだし、質問などのきっかけにもなる。だから、最初の数ヶ月は、十数人いる講師の本をあわてて全部購入して読みまくっている人もいる。

しかし、入学までに講師の本を一冊も読んでなかったという人もあまりいないのだが、「プロ作家をめざして、バリバリ書いて、小説も人一倍読んでます!」っていう人であっても、入学前から全員の著書を読んでいる人はまずいない。

よく「小説なら、なんでも読みます!」という人がいるのだが、そういう人がホントになんでも読んでいるかというと、そういうわけでもなかったりするのだ。プロ作家と生徒さんは、何が違うといったら、まず読書量がだいぶ違う。それに生徒さんは、プロ作家よりもせまい範囲しか読まないという人もいる。「エンターテインメントノベル講座」なので、純文学の本ならムリもないのかもしれないけど、それでも「ミステリだけは苦手」だとか「時代小説だけは一度も読んだことがない」とかいう人が多いのだ。

また、「ミステリが好き」と言ってても、「日本のいわゆる『新本格ミステリ』だけしか読んだことなくて、クイーンもクリスティも読んだことはないんです」という人も、ザラにいるし、「時代小説が好きで、時代小説ならめちゃくちゃたくさん読みました!」と言う人でも、よくよく聞いたら、司馬遼太郎だけしか読んだことがなくて、「へえ〜、藤沢周平って、面白いんですか?」なんていう人がいる。(一般の人ならいいが、小説創作をめざすなら、ちょっとヘンだと思うんだけども)、そういう生徒さんだっているのはムリもないのだ(ちなみに私は、山手樹一郎ファン)

読書傾向は、誰でも普通、ある程度かたよっている。なにせ今は、出版される書籍数が膨大だ。ミステリとか、SFとか、ファンタジーとか、時代小説とか、恋愛小説でも、あるジャンルだけでも、今年出版された本だけでも、まず読める量ではないのだ。まして過去に出た名作もあるし。どれだけ努力家の書評家でさえも、とても読めない。だから、誰でもかたよっているのはあたりまえだと思う。

まして今は、フツーの人は、小説などはさほど読んでないことを、作家さん自身も知っている。だから、プロの作家さんを目の前にして、「一冊も読んでません」というのは、あなたが「作家志望」でなければ、それは、とりたてて侮辱的な行為でもない。タレントに「あなたの顔なんか見たことがありません」などというのとは、だいぶ違うのである。

タレントさんに会って、「いつもテレビで見ていますよ」と言うんならともかく、わざわざ「テレビで見たことないね」というのは失礼である。まあ、「普通の会社員ですよ」と言う人にも、「会社員には見えないなあ。本当にちゃんと働いているの」などというイヤミな人も世の中には結構いるんだけど、相手の気持ちも考えずに、わざわざそういうことを言えるヤツはやっぱり無神経な人である。まあ、うちの夫みたいに「一切、テレビは見ないので」と言う人もいるにはいるが(彼が、テレビを見るのは一週間で1時間未満)。ただ、テレビを一切見ない人は、今の日本では「変人扱い」される。本を読む人は少ないから、変人扱いもされないが(場所によっては、本なんか読む人の方が変人扱いされる)。まあ、せいぜい「教養がない」と思われるかもしれないが、実は、どうせ今は「小説」は教養でもなんでもない。むしろ、ヒット映画をみんな見ているとか、おいしいレストランを知っていて、カラオケで色んな曲が歌える方が、今は「教養がある」と尊敬される可能性が大。本なんか読んでても、尊敬もされなければ、たぶんモテません。

でも、もしあなたが作家志望なら、せっかくだから、興味ある作家さんの作品は、しっかり読んでおいた方がいいと思う。業界研究もかねて、できれば違うジャンルも読んでおく。好きなジャンルなら、できるだけ多くの作家さんの本を読んでおいた方がいい。あんまり好みの範囲がせまいのは、創作的には、たぶんかなり不利だと思う。なんでも好奇心を持ってた方がいい。バクバク何でもたくさん食べられた方が楽しいと思うし、ましてプロの調理人になるなら、あんまり好き嫌いの激しすぎるのはどう考えても不利である。多少の好みがあるくらいならともかく、あまりヒドイなら、偏食を捨てるか、調理人の道をあきらめるか、どっちかになるかもしれない。あんまり好き嫌いばっかり言う子は、大きくなれませんよ。

さて、明日の初めての講義では、ちゃんと講師の本を読んでくる人は何人くらいいるのか、ちょっと楽しみ。私が思うに「講師の著書を一冊くらいは読んでおく」なんて、割とカンタンなことだし、普通の好奇心があれば、つい読んでしまうもんじゃないかと思う。まあ、うちの小説講座は、講義終了後に先生たちにサインをもらったりするので、ちょっとしたサイン会みたいになるのだが、クラスによってだいぶ違う。たしか一昨年の6期生は、毎回、十人くらい本をもって来ていたのに、昨年は講師の著書を持ってくる人がほとんどいなかった。でも、「サイン会」がにぎやかなクラスの方が、全体のレベルが高くなるスピードが早い傾向はあるもんなあ。あ、6期は、たしか文章講座からの編入組が11名もいたから、最初からテンションは高かった気もするけど。そういや、昨年は、課題作品の方も提出率も悪かったなあ。

まあ、講師の本もたくさんあるわ、毎週毎週、講義で紹介される本もたくさんあるわ、自由課題もあるわで、うちの小説講座は、たった週1回、年に35回の講義だけど、真面目にやるとそれはそれで、けっこう大変なのだった。

11/03/2005

ラジオ番組にゲスト出演しました

11月3日(木)
小説講座の事務所は、日曜、月曜、祝日は、お休みです。

午前中、雑用いろいろ。午後から、事務所に寄ってから、弁天町の「ラジオ大阪」へ。今日は、「文化の日」ということで、「NEWSワンダーランド」という番組でゲストに呼んでもらって、小説講座の話を色々しゃべりました〜。生放送です。うう、やっぱりめちゃくちゃ緊張しました。うまく話せないのはわかってたので、原稿も用意したけど、重要な点はとばしちゃったわ。まあ、里見まさとさん、アシスタントの阿部宏美さんが親切なので(そうそう、アシスタントの阿部さんも、双子ちゃんママなんですよね〜)、なかなか楽しかったけど、なんとかあれでゲストとしての任務は果たせたのかなあ。不安。

講師の本を十数冊(講師一人につき一冊ずつです)、山ほど持っていき、スタジオで一緒に写真を撮ってもらいました(番組ホームページに掲載されるみたい)。かんべ先生と眉村先生など数冊は、プレゼントとして置いて帰りました。

しかし、私は20分くらいのゲストだから気楽なもんだけど、かんべ先生は、これを早朝、毎日やってるのね〜。しかも2時間も! つくづく、すごいなあ。タフだなあ。私は、しゃべる方はさっぱりです。

純喫茶と純文学の考察

11月2日(水)
終日バタバタ、小説講座の事務所には入れず。

ところで、自転車でウロウロしていると、古い看板をよく見かける。私はよく裏道を走るので、つぶれた銭湯やら、店やら、工場などの看板を見かけることも多い。今日、通りかかった道にも、古い喫茶店らしき建物があって、そこにはかすかに純喫茶…という文字が見えた。

そう言えば、小さい頃、家の近くに「純喫茶××」という喫茶店があった。いわゆる古ぼけた喫茶店で、外からのぞいても、色あせたイスが並んでいただけだったのだが、私は、どうもこの「純喫茶」の『純』がちょっと気になっていた。というのは、近くには、他にも「喫茶カトレア」とか「喫茶ヒマワリ」とか、「純」のついてない喫茶店があったからで、なんで「純喫茶」とこの普通の「喫茶」はどう違うのか知りたかったのである。わざわざ「喫茶」ではなく「純喫茶」という名前になっているんだろう。「喫茶」店と「純喫茶」店とは、どこがどう違うのか。

うちはどっちかという貧乏な家だったから、小さい頃は、喫茶店などに連れて行ってもらった覚えもない。だから、喫茶店自体もよくわかってなかったせいかもしれない。(子供の頃、食事に連れて行ってもらうと言えば、その頃は、デパートの食堂と決まっていた。ファミレスなんか、まずない時代である)

その時、母がどういう説明をしてくれたのか、あいにく全然覚えていないのだが、どうも納得がいかなlかったようだ。で、後に「ノーパン喫茶」という店のことを聞いた時、「それは純喫茶じゃない」と思った。「ノーパン喫茶」と言えば、どう考えても、純ではなく「不純喫茶」でしょう。やっぱり。そういうわけで、純喫茶という看板を見ると、なんだか今でも妙な気分になる。まるで「不純じゃありません!」と書いてあるような気になるのである。で、「そうか、不純じゃないのね。うんうん」なんて、つぶやくのである。ああ、ちょっと変ですけどね。

ところで、不純な喫茶店と言えば、最近なら「メイド喫茶」がトレンド。まあ、「マンガ喫茶」も、「インターネットカフェ」も、「純喫茶」じゃないから、これも「不純喫茶」である。まあ、「歌声喫茶」なんかはまず見かけないが、「ジャズ喫茶」や「クラシック喫茶」なら今でもある。あんまり不純そうじゃないけど。

というわけで、「純喫茶」というのは、たいてい古い店である。まあ、今頃、喫茶店を開くのにわざわざ「純喫茶」などという看板をつけないだろうし。ってゆーか、今は、看板にわざわざ「喫茶」と書くよりは「カフェ」とか「cafe」とか書いてある方が多いだろうし。たぶん、「純喫茶」は、化石で言えば、示準化石みたいなものではないかと思う。全国的に調べてみれば、特定の年代とか、ある分布を示すだろう。もしかすると、いい研究対象になるかもしれない。いや、社会学者とか、誰かやってそうだけどな。

それはそうと、「純文学」と「純喫茶」は、どこか似たようなニュアンスがある、と私はひそかに思っている(……のだが、たぶんあんまり共感してくれる人は少ない気もする)。

どこが似ているのか、と言われると困るのだが、なんだかそんな気がするのである。だいたい、どちらも「純」というのが、なんだか怪しい。それに、ノーパンとか、マンガとか、メイドとか、喫茶の名前の前に、何か書かれているのが不純な喫茶だとしたら、不純文学なんかも、何か文学の前にひっついているはずである。ミステリ小説とか、SF小説とか、ファンタジー小説とか、ユーモア小説とかは、ぜんぶ何かひっついているから、これはみな「不純文学」なんじゃないのかな。
(もしかすると、みんなただの「小説」で、「文学」ですらないかもしれないけど)。

ところで、実際、その昔は「文学」というのは、実は、かなり広い範囲を指す言葉だったらしい。今でも、大学などでは、文学部に「英文学科」や「仏文学科」などと一緒に、「哲学科」とか「宗教学科」「地理学科」「史学科」などが含まれている学校もある。まあ、今日的な言い方でいうと、文学部というより、人文学部とか、人間学部とか、そういう名前になっていそうだが、どうやら、昔は、もう少し広い意味で「文学」という言葉をとらえていたようだ。ってことで、哲学とかも、全部「文学」という概念の一部だと考えられていた。つまり文学とは、人間に関わる広い広い概念だったわけですね。

そうか、なるほど、そういうわけで「文学評論」というのは、「哲学」とか「史学」とかと何かとお友達なのか…などと思ってしまうわけなのだが、ということは、純文学以外の「不純文学」というのは、もしかすると「哲学」とか「地理学」のことなのかなあ。それにしても、私は「不純」って言葉を聞くだけで、微妙に嬉しい気分になっちゃうな。なぜ。

そういうわけで、「純喫茶」という看板を見かけるたびに、なぜかいつも「そういや『純文学』っていつ死語になるんだろうなあ」と、私は思うのだった。

11/02/2005

作品批評を聞く心構え、のようなもの

11月1日(火)
午後から小説講座の事務所。入学式の後処理。第9期欠席者への発送。ショートショート大賞の下読み通過者へ、作品集発送。資料印刷。

ショートショート大賞の件など、丁稚どんと雑談しながら、事務作業。選考委員の堀先生も言っておられたけど、上位の作品については、高井先生との意見がほぼ一致したそうだが、下位の作品ほど意見が違っていたそうだ。実際、ホントに意見が分かれる作品というのもあって、うちは小さなコンテストだから、ある程度上手く書けていれば上位になってしまうが、上位の作品は意見が分かれないのだが、とくにうまくいってない作品になると、けっこう意見が分かれてしまう。とくに5枚という短い作品だから、読む人によって解釈がまったく違うのかもしれない。

ところで、先生たちの選評を読んでいて思ったのだが、気のせいかもしれないが、高井先生の方が「ショートショート」の定義がはっきりしていて、判断基準がきっちり明確な感じがする。で、堀先生の場合は(あくまでも推測だけど)、ショートショートの定義の範囲をやや広い感じに考えておられるのではないかしらと思った。その分、自由というか、たぶんいわゆる純文学でいうような「掌編」という感じのものでも、堀先生は、アイデアが面白ければ、ショートショートに含めてもいいんじゃないかという感じみたいである。とくにオチの重要度に微妙な差があって、この判断には、やや評価が分かれている気がする。いずれにしても、先生たちの選評をくらべてみると、なかなか評価の違う作品もあって、それぞれの「ショートショート」というものへのこだわりが見えるような気がして、私には面白かった。

ところで、作品指導というのは、うちの講座では、入学してから半年(正確には5ヵ月目。4ヵ月目に提出)の間は、実施していない。正確には、「自由課題」とかいうのがあって、作品集を作って配布したりしているんだけど、これも配布しているだけで、作品指導はしていない。つまり半年後の前期課題作品の指導日までは、細かい作品指導をしていないのである。他校では、とくにレクチャー講義がなくて、ずっと作品合評をするというスタイルの学校も多いのだが、うちの講座では、最初の半年は、プロの作家さんが毎週レクチャーをしていて、前期はほとんど正式な作品指導はやっていない。作品指導を始めるのは、半年たってからである。実は、作品指導は、ちょっと難しいものなので、半年後なのである。

これには、色々と理由があって、まあ、せめて半年は書くより読むのを優先させたいからでもある。というのは、最近はとくに「作品はたくさん書いているけど、あんまり市販の小説を読んだことがない」という生徒さんもいるせいもある。それに、できれば、講義までに、講師の著書を読んで欲しいのもある。うちの場合、プロ作家の講師の数がかなり多いので、一人たった一冊ずつ読んでも、十数冊は読まないといけないわけだし、何十冊も書いている先生も多いから、ついでに一冊じゃなくて二冊ずつ、なんてことになると、すぐに数十冊になってしまう。さらに、講義のたびに「ミステリを書くなら、せめてこれだけは読むといいかもね、読書リスト」とか「ホラーおすすめベスト10」とか、毎回、紹介されるものだけでも数十冊になるので、毎週毎週、けっこう読むだけでも大変なのである。

でも、もう一つの理由は、最初のうちは「作品批評(指導)を聞く能力」の方が心配だからである。「小説がなかなか上達しないなら、できれば作品批評を受ける方がてっとり早いよ」なんて言っているし、生徒さんも入学したら「とにかく早く作品指導が受けたい」らしいのだが、これがけっこう難しいのである。うちの講座では、生徒同士の作品合評は滅多にやらないのだが、これは、合評は長所もあるけど、こうした作品指導を聞く能力がないと、危険な面もあるからである(たまにやったこともあるのだが、たいていすぐ辞めてしまった)。まあ、ジャンルがあまりに違いすぎると、批評どころか、個人的な感想もまったく言いようがないというのもあるけど……ミステリをほとんど読まない生徒さんは、いきなりミステリを読んでも、感想すら言えない……でも、作品批評をする側の問題もあるのだが、むしろ批評を聞く側の能力の問題も大きい。けっこう大事である。

授業では、作品の内容やジャンルだけでなくて、本人の性格的なこととか、諸問題をいろいろと考えて、最適だと思われる講師を選んで、作品指導を依頼するのだけど、それでもうまく噛み合わないことがまれに起こる。生身の人間だから気分によってうまくいかないこともあるからだけど、でも、せっかくならそれは避けた方がいい。講師だってみんな忙しいわけだし、効果のない作品指導なんかムダなだけである。

それもあって、最初の作品指導(前期課題)は、講師はわざわざ二人にお願いしている。まあ、わざわざ二人の作家が来ても、実は、どうせ半分以上はほぼ同じような意見なのだが、でも、生徒さんにすると、二人が読んで感想を言えば、さすがに納得も行くし、説明もわかりやすい。それに、二人の作家さんでは、微妙に意見が異なっている。そこがいいんではないかと思う。みんなの作品指導を聞きながら、自分の批評を聞く心構えみたいなものができるみたいなのである。

小説講座などに通わず、自分でコツコツ書いていたり、ネットなんかで公開している人は、こうしたいわゆるプロの作家じゃなくて、周囲の友人などから厳しい感想をもらったりするのかもしれないけど、私は、作品批評を聞く能力というのも、けっこう大事だと思う。個人的には、注意しておくポイントがいくつかあると思っていて、少なくとも3つくらいは重要である。

まず最初に「小説には、そもそも絶対的な『正解』というものが存在しない」ということを認識しておくことである。だから、どうやっていいかわからなくなるのは、たぶん仕方ないのである。なにせ正解がないのだから。ただ、「ここはヘンだよね」「わからないよね」などという意見をもつ人がめちゃくちゃ多いというのはマズいかもしれない。でも、人によって意見が分かれるというのも、けっこうある。そうなると結局、自分で判断するしかないのである。

次に、批評してくれるその人の「個性」をそれなりに認めておくこと。そうでないと、いくら批評を聞いてもあまり意味がなかったりする。批評してくれる人も個人だから、その個性に従って判断する。極端に言うと、女性読者と男性読者では読むところが違う。年齢の違いでも、意見が分かれることがある。既婚と未婚でも意見が違っていたりする。読書傾向や趣味なんかも重要だったりするし、その人が小説を書くか書かないかでも、だいぶ感想が違う。そのへんも考えてから聞いた方がいい。

(ちなみに、小説講座でも「自分の作品を指導してくれる講師の作品を一冊も読んだことがない」という生徒さんがごくたまにいるけど、講師の本を読んでおいた方がいいのは、つまり自分の作品のためでもあるのだよ)

最後に、その批評の意図である。必ずしも、批評をしてくれる人に「愛」があるとは限らないし、あったとしても「作品」そのものか、あるいはその「設定」が好きなのか、「キャラ」が気に入ったのか。あるいは、「愛」と言っても、そのジャンルに対する「愛」が強くて、「こんなものミステリじゃない」とか「こんなの信長じゃない」と言う人だっているのだし、どういう意図があるかを考えてから、冷静に聞いた方がいい。また、顔見知りの場合は、さらに違う思惑がある場合だってある。「こんなにがんばったんだから、誉めてあげないと」とか、反対に、「どうせ才能なんかないに決まっている」とか「小説を書くことなんか早く辞めて欲しいなあ」などと思っている場合だってあるかもしれない。そういう場合は、そういう意図が働く。

とにかく「批評を聞く能力」がある場合はいいが、まだないうちに、批評ばかり気にするようになると、かえって作品が書けなくなったりする。で、むやみに生徒だけで合評会などをすると、せっかく学校に来たのに、わざわざ才能をつぶしてしまう気がするので、うちの講座では、生徒だけの合評はあまりやっていない(講師が混じれば別だろうが)。なぜか、自主的に勉強会などをしても、もともといい作品を書いていた人が凡庸な作品を書くようになったりするので、やるなとは言わないが、自分で「批評を聞く能力」があるかどうか、考えてから参加した方がいいような気がする。ちなみに、ネットで作品を公開している場合も同じだろうと思う。作品批評は、それを聞く心構えみたいなものがあった方がいいような気がする。

でも「小説がうまくなりたい」とか「できればプロになりたい」とか思っているかどうか、ってのもあるので、「そんなことホントにまったく意識してない」んなら、別にいいんだけどね。(でも、そんな人がそもそも作品を発表するかどうかに疑問はあるけど)

シナリオと小説、どっちが儲かりますか

10月31日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝、7時40分に外出。11時から、市大の図書館(学術情報総合センター)へ行き、そのまま夜8時頃まで各種の調べもの。専門学校の非常勤講師は、今日はお休み(生徒さんたちは、海外研修旅行中)。夕食をとり、10時まで資料整理してから、地下鉄で11時に帰宅。

小説講座の事務所に行く時には、地下鉄は、いつも西長堀で乗換えているので、大阪市立中央図書館にはいつでも寄れるのだが、ここはいつもやたら混んでいる。どうせ市立の図書館の本は、近くの鶴見図書館にも取り寄せができるし、どうしてもここの資料じゃないとダメな場合は別として、長時間の調べものには向かないから、案外あんまり行かない。もちろん専門雑誌など、それぞれ置いてある本が違うけど、専門書などで調べたいことがある場合は、市大の図書館か、府立の中央図書館の方がラク。市大の図書館は一般利用には登録料がいるけど(2年で2000円)、年中空いていて、個人ブースも座り放題だし、全部の席に照明もついている。一部、一般では利用できないサービスがあって、とくに外国の論文集などは地下だけど、私が見るような一般的な専門雑誌なら、たいてい開架スペースにあるし。小説を書くような人は、何かしら図書館で調べものをする必要が出てくるかもしれないし、地元の図書館は、行き慣れていると便利。行ったことがないという人は、たまには散歩して、のぞいてみよう。ネタが拾えたりするかもしれないよ。

ところで、昨日、シナリオと小説の話を書いて、ふと、だいぶ前のコメントを思い出した。どうもMacのソフトの不具合らしいが、今も、私はあいかわらずなぜかブログにコメントが書き込めないのだが(このブログに限らず、全部のブログがダメ。文字化けする)、そう言えば、シナリオと小説、どっちが儲かるかという質問をされたことがあったような気がする。

実は、この質問、毎年必ず誰かにきかれるのだ。ってことは、みんな、どっちが儲かるかに関心があるのかもしれないな。まあ、しかし、毎回思うのだが、答えにくい質問である。どれくらい答えにくいかというと、まるで「裁判官と大学の先生とどっちが頭がいいですか」みたいな感じですな。こういう質問をされても、「いやあ、頭がいい人も悪い人もいるでしょうし……」としか答えようがないかもしんないような気がするんですがね。

これらの質問は、素朴な疑問だから、質問したい気持ちはわかるのだが、いくつか問題点がある。まず「儲かる」とか「頭がいい」というのは、抽象的な概念で、これ自体は客観的な指標ではない。つまり、質問者が「儲かる」とか「頭がいい」というのを「何だ」と考えているかどうかがわからない。でも、この質問に答えようとしたら、まずここが問題なのである。ぶっちゃけ、「いくら儲かれば、儲かったと考えるのか」とか「頭がいいって、どういうことか」というのは、人によってだいぶ考えているのが違うのである。

「いや、儲かるというより、なんとか生活できるくらいでいいんですよ」という人もいるのだが、これくらいあれば生活できるという金額でさえ、年間100万あればという人もいれば、年間500万、できれば一千万という人もいるし、「儲かる」となると、「一億以下は儲かるとは言わない」という人もいれば、「50万ももらえれば、充分儲かったと思う」という人もいる。

もう一つの問題は、サンプル数にだいぶ差があるということである。たとえば、裁判官と大学の先生だと、裁判官の方はいいとして、大学の先生だと、教授と助教授だけに絞っても、だいぶ数が多い。(さらにサンプルに、講師や助手を含めるかどうかという問題もあるが)裁判官なら、かなりサンプル数なども確定できるだろうけど、「大学の先生」は数も多いし、それぞれ分野も違う。だから、どうやってデータを集めるのか考えるのがたぶん難しい。

さて、小説家とシナリオライターだけど、そこには、まず「どこからどこまでをサンプルとするか」という問題もある。会社員なら、その会社に籍があるがどうかわかりやすいけど、何をもって小説家とするか、という問題はややこしい気がする。本を一冊でも商業出版したことがある人、という定義ならわかりやすいかというと、そうでもないだろうし。これだと、二十年前に一冊だけ出したという人も含まれてしまうが、そういう人までいれると、ものすごい数になってしまう。じゃあ、今、現役で活躍している人というと、これまた、どこからどこまでが現役かという問題になる。小説家だと、もう何年も書いてないけど、エッセイは書くとか、あるいは今でも重版したとか、文庫化したとか、あるいは今年は一作も単行本は書いてないけど、連載はしたとか、何かとプロの定義がややこしい。

というわけで、ややこしい質問なので、ちょっと答えにくいのだが、乱暴な解答でよければ、シナリオライターの方が儲かる。というのは、シナリオライターは、たいてい専業だし、今、仕事している人しか収入がないのがほとんどで(印刷物と違って、重版とかがほとんどないから)、だから中途半端な人が生き残らないから、たぶん「職業はシナリオライター」という人の数が少ない。つまり、サンプル数が少ないから、収入を平均するとシナリオライターの方が高くなるのではないかと思う。つまり、シナリオの方が志望者も少ないが、仕事先も少ない。シナリオライターが、仮に、儲かっている人を頂点として、デビュー前の志望者を底辺とした「ピラミッド型」にいたとして、そのピラミッドの大きさは、小説よりは小さいはずである。シナリオの場合、現在放映されているドラマ数から考えて、上の方にいる人の数はかなり限られているはずだが、プロと呼べる全体のサンプル数が小さいから、収入の平均値は高くなるんじゃないだろうか。小説も、プロの定義次第では、ピラミッドの大きさが変わるだろうが、どうしてもシナリオよりは多いだろうから、全体の平均値は下がるような気がする。

しかし、おそらく億単位で儲かっている人の数は、どちらにしても相当に限られているはずである。だから、「シナリオと小説とどっちが儲かりますか」という質問なら、「やっぱ、マンガが一番儲かるんじゃないですか」というのが私の考えた答えなんだけど、これ、どうかな。マンガの方がもっとサンプル数は増えるだろうけど、それでも平均値はずっと高いんじゃないかな。

ところで、こういう質問をする人は、実は、こういうデータを知りたいわけではなくて、「シナリオにも小説にも興味があるんですが、プロになるにはどっちをめざせばいいでしょうか」という質問をたぶんしたいのである。ところで、この質問は、一つ前提があって、「どっちにも『自分の能力』が発揮できる」というのが前提なのだ。でも、実際には、両方を書けるという人はあまりたくさんはいない。いるかもしれないけど、よほどの人だけである。まあ、がっぷり儲かるほど両方の才能がある人はあまりいない。たいていの人は、どっちかに向いている。しかも、どっちのジャンルも競争は激しい。だったら、自分が好きな方、自分が得意な方をやるべきである。どっちも競争が激しいとすれば、無理をして向いてないことをやっても、他人には負けてしまうだけだろうから。その仕事を本当に好きな人というのは、どんな努力をしてもさほど苦にしない。だから苦手な仕事をするよりは、ずっと楽に競争に勝てるはずである。

だから、私は「どっちも好きなんですが、どちらをやるべきでしょうか」という質問には、なかなか答えられない。でも、案外、もともと仕事の内容をカン違いしている人もいて、実際のプロのライターや作家の話を聞いたら、急に気が変わる人も多いんだけど、「ドラマもやりたい。小説も書きたい」という人には、「ああ、それならミステリを書けばどうですか。ミステリだったら、テレビドラマにもなりやすいみたいですし」とからかってみたりすることもある。すると、たいてい「ミステリなんか書けないですよ。トリックが思いつかないもの」なんて言う。やっぱりできないことはできないんだな。でも、どんなビジネスでも、他人が簡単にできないものの方が競争は少ないかもしれないし、もしかすると「儲かる」かもしれないじゃん。

まあ、ラーメンと回転寿司とどっちが儲かるのか、私にはわからない。ただ、ラーメン屋でも儲かる店もあれば、儲からない店もある。回転寿司だって、儲かる店もあれば、すぐつぶれてしまう店もある。どっちの経営が難しいかも知らないが、市場競争があるので、どっちにしても努力が必要なのは確かである。だったら、自分がどんな努力をしても惜しくない、せめて好きなジャンルを選んだ方がいいと思うけどなあ。

小説を書くシナリオ・戯曲・マンガ家志望

10月30日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

天気悪し。午前中、雑用。午後からは、子供たちはビデオ(『パイレーツ・オブ・カリビアン』)。結局、資料を整理したりして、ごちゃごちゃと夕方まで雑用でつぶれる。

昨日の入学式で集めた新しい生徒さんの指導用アンケートを見ていたら、今年はなぜか演劇関係者が多いらしいので、ちょっと驚き。どうも3〜4人くらいいる。「大阪シナリオ学校」の脚本コースでも、演劇をやっていた人はさほどいない。この学校は、シナリオコースに「戯曲」が含まれているのが特徴で、他の学校に比べると演劇志望も多い方だと思うが、それでも毎回1クラスに1〜2人くらいだったのである。競合するシナリオの学校は、どこも「映像」(ドラマや映画)が主流で、映像シナリオと戯曲と同時に教えているところは少ない。まあ、演劇の志望者は、さっさと劇団に入ったり、自分で劇団を作ったりするので、わざわざ学校で書き方を教わらなくてもいいのかもしれないけど。

実は、うちの講座は、エンターテインメント系の小説志望者ばかりなので、どっちかというと、SFとかミステリとかファンタジーとか、ある特定のジャンルが好きな人が多い。こういうタイプの人は、SFファンなら、小説だけじゃなくて、映画も大量に見るとか、もちろんマンガも読むとか、メディアそのものにはこだわらず好んで見たりする。たぶん、「でも自分が作るなら小説かな」とたまたま思っているだけである。で、これまでにも、「シナリオを書いていました」という人はかなり入学している。

エンターテインメント系に限らず、今は、メディアミックスになっているし、講師であるプロの作家さんたちも、小説を書く一方で、ゲームの原案をやったり、マンガの原作提供をしたりしている。もちろん作品がドラマや映画になった人もいる。まあ、ちょっと乱暴に言うと、エンターテインメント系の作家さんたちは、どちらかというとストーリーやキャラクターやアイデアにはこだわりがあるが、あまり「文学にこだわる」というタイプではない。もちろん小説家だから、文章や文体にはこだわりがあるのだが、「人生にとって文学とか何か」とか「文学で表現しなくてはいけないものは何なのか」なんてことは、あまり考えていない……と思う(まあ、ひょっとしたら考えているのかもしれないけど。飲み会での話題で一度も出たことがないだけかも)。もちろん「せっかく小説を書くのだから、どうせなら映画では表現できないようなモノを書きたい」くらいなら思っているかもしれないけど。

ところで、これまで演劇やドラマのシナリオを書いていて、小説志望に転向した生徒さんの場合、正直、少なくとも最初のうちは、一度も何も書いたことがない人よりも、上達が遅れる傾向があるようだ。とにかく最初のうちに、たいてい一度は壁のようなものがあるみたいだ。これは、私の経験だけなので、正確なことは言えないんだけど、うちの講座に関しては、かなりの確率で言えることで、どうもシナリオ志望だった人は、「小説も作文も、一度も書いたことがない人」よりも、むしろ「小説」を書けるようになるのが、ちょっと難しいみたいなのである(ちなみに、まったく初心者の方が、自分が書けないと思っていて、こだわりもないから、割と早く上達する)。

それがなぜなのか、私にはちゃんとした理由はわからないが、たぶんストーリーなどが先に頭の中で映像で浮かんでくるので、それをどう文章にすればいいかわからなくて、イライラするのかもしれない。それとも「自分はシナリオを書けるから、小説も書けるはずだ」と思い込むのかもしれない。でも、もちろん最初から両方を器用に書き分ける人もいるのだろうが、少なくとも私が会った生徒さんでは、かなりまれである。

シナリオを書いていた経験がある人は、もしかすると、その方法に頼って書こうとするからかもしれない。こういう人は、かえってうまくいかないのだ。よく言うのだが、シナリオと小説は、全然「別モノ」である。まあ、文章を書くという点では同じかもしれないし、少なくともストーリーやアイデアでは似たようなところもあるが、いくら中華料理の達人でも、まったく作ったことがないフランス料理を作れるとは限らない。もちろんシロウトのレベルなら「中華も和風もフランス料理も得意」という人や「野球もサッカーもどっちもウマイ」という人はいるだろうが、プロではまずいないだろう。プロのサッカー選手で、しかも野球もプロ並みというのはちょっといない。

プロの小説家でも、ストーリーがまず映像で頭に浮かぶという人はたくさんいるし、別にそれはそれでかまわないのだが、問題は、それが読者に伝わるように書けているかどうかだと思う。シナリオを書いていたという生徒さんが陥るのはそこかもしれない。これまでは「セリフ」と「ト書き」があれば伝わっていたのかもしれないが、シナリオを読むのは、たいてい監督とか役者とか、全部はプロである。でも、小説を読むのはプロではない。しかも、映像や演劇なら、実際にはそこに役者の演技(顔の表情とか声のトーンとか)が加わっているわけで、シナリオのむこうには、さらに「演出」があるのである。でも、小説はそこで直接、読者に対して、最後の接点になっている。だから、その演出を、ある文体とか文章の描写とかでやる。それがないと、読者の頭の中にうまく映像が伝わってこない。でも、そこがうまく理解できなくて、ひっかかる生徒さんがいるようなのである。

だから、小説講座に入る時に、シナリオを書いていたと言っても、それがどれだけ役に立つか、ちょっと疑問である。むしろ足をひっぱることもあるからだ。とは言うものの、役に立つ時もある。シナリオの創作法は、小説にも適応できることもあるからだ。

ただ、生徒さんで確実にひっかかるタイプというのがいる。これが、どういうタイプかというと、「小説はほとんど読んだことがないけど、シナリオではなかなかデビューできないから、これからは小説を書きたい」というタイプである。まあ、こういうタイプの人は、どういうわけか、シナリオのくせが抜けない。書くよりも先に、集中して本をたくさん読まないことには難しい。やはり、これは読書量によるのである。読書量があまりに少ないと、いくらシナリオがうまくても、どうもカン違いしたままで、うまくいかないようだ(あ、よく考えたら、こういう人はシナリオでデビューできなかったんだから、シナリオもうまいとは限らないんだろうけど)。

反対に、「本を読むのもずっと好きだった」という人なら、さほど苦労はしない場合も多い。最初のうちは、シナリオと小説の違いにちょっとくらいとまどっても、何度か実際に作品を書いたら、「ああ、小説ならこういうふうに書けばいいんだな」と気づくみたいである。だから結局、なかなかわからない人には、自分で気づいてもらうしかないのだが、これも本をたくさん読んでもらうしか方法はないのである(しかし、そもそも小説を読まない人が、小説を書くというのがやっぱりどうも変だと思うんだけどな)

ところで、映像シナリオと演劇の脚本(戯曲)だと、実は、「演劇」をやっていた人の方がどちらかというと苦労する傾向がある。たぶん、これは推測だけど、演劇(とくに小劇団系)だと、いわゆる主役はいても、映像や小説でいうような主人公ではなかったり、あるいは群像劇が多かったりして、どうも見えてない部分があるというのがわかりにくいらしい。もしかすると小説には「視点人物」というのがあるので、これがわかりにくいのかもしれない。ただ、こういう場合、手っ取り早い方法がある。というのは、とにかく少なくとも最初のうちは、意識的に「一人称」で書けばいいのである。「私は」とか「ぼくは」とか、とにかく一人称なら、視点の混乱もあまりない。一人称なら、気軽に「心情吐露」もできるし(映像よりも、むしろ演劇ではよく独白を使う)、いろいろ書けてけっこうラクである。

ところが、なぜか演劇を書いていた人の中には、「一度でいいから、一人称で書いてみたら」と言ってみても、なぜか何度も「群像劇」を書いてくる人がいる。それしか思いつかないのかもしれないけど、短編でいいから、一度、一人称で最後まで通して書けば、自分で気がつくだろうになあ、と思うのだが、なぜかこういう人は、絶対に書かない。

で、これは余談だけどが、演劇経験者でなくても、少なくとも初心者に限れば、短編はできれば一人称一視点で書いた方がいいんじゃないかな〜。よく「ミステリだから無理」という人がいますが、たいてい短編だし、そんな複雑なトリックでもないので、たぶんよく考えてみれば、それも一人称でも書けると思うケースがほとんどなので。ミステリの場合、たいていは「視点が違う特定のシーンを書きたい」というのが原因なんだけど、短編の場合、それで視点を混乱させて、読者に負担をかけるよりは、ちょっとくらいそのシーンを省いても、話がつながれば、そっちの方が読者は読むのがラクではないかと思う。

ところで、もちろんうちの生徒さんの中には、マンガ志望者だった人もいるのだが、ただ、マンガ志望の場合、あんまり苦労しているようには見えない。なぜかそういう傾向がある。もちろんマンガは、自分で最後まで書くわけだから、そこを分業しているシナリオと違っている。でも、どうも「小説の方が、大量のページをマンガで書くよりはラク」という意識があるせいじゃないかな、と思う。マンガから転向した人は、自分が「小説」を書くのに最初かなり苦労しても、あんまりメゲたりしないのだ。どうも「どうせ違うんだから、苦労するのは仕方ない」と納得しているみたいだ。たぶんマンガを書くよりは、小説を書くよりもきっとラクなのだろう。で「小説にはなにせ絵がないんだから、表現方法が根本的に違うのは仕方ないな」と納得してるのかも。だから、マンガを書いていた人は、シナリオを書いていた人よりは、ひっかかってもイライラしたりしないのかもしんないな。ちょっと面白いけど。

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