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10/30/2005

ショートショート授賞式、小説講座の入学式

10月29日(土)
朝から小説講座の事務所。本日は、大阪ショートショート大賞の授賞式&入学式。

午後から、丁稚どん、ご令息にも手伝ってもらって、授賞式と入学式の準備。作品集などの制作作業、その他の配布物の印刷など、なんだなんだで、あっという間に5時前。丁稚どんは、授賞式用の花束を持って、電車で移動してもらう。私は大量の荷物を自転車にくくりつけ、天満橋の教室へ移動。教室では、先についていた丁稚どんがきれいにセッティングしてくれていたのだが、座席数の不安があり、せっかくだけど壇上のテーブル2個をはずしてイスのみにする。授賞式は、毎年、一般にも公開をしているのだが、秋の公開講座より見学者は少ないので、よく来たとしても10名ほどである。しかも今年はあいにくの雨だし、来たとしてもせいぜい2〜3人だろうが、それでも今年は専攻科の生徒数が多いので、教室はほぼ満席になってしまうのだ(結局、6〜7席ほど空いたけど、ほぼ予想通り)

本日は「ショートショート大賞」の選考委員の堀晃先生、高井信先生のお二人が揃って、記念講演。入選作の山梨在住の男性と大阪在住の男性で、二人とも参加いただく(佳作の人は、欠席)。第9期は一人欠席、専攻科の欠席者はかなり多いが、それでもあわせて50人近くいるので、教室はほとんど満席近く。ショートショート大賞は、第一回目から堀晃先生にお願いしていたのだが、昨年から高井先生にも選考をお手伝いしてもらっている。でも、昨年までは、授賞式の来られるのが、お一人だけだったので、お二人揃ってというのは、今年初めてである。でも、せっかくの機会なので、記念講演として、たいへん忙しい堀先生、高井先生に少し無理を言ってお願いして、一時間ほどお話いただいた。なかなか貴重な話もチラホラ。あいにく私は、専攻科の学費納入などの経理作業に追われて、ほとんど聞けなかったけど。

講演では、まず堀先生が今回の選考の経過について、簡単に説明され、「今、たぶん日本で一番ショートショートを読んでいる作家さんだと思う」と高井先生をご紹介。高井先生は作家だけど、最近発売された『ショートショートの世界』の著者でもある。数千冊以上の本を読み、ショートショートについては、めちゃくちゃ調べまくったという、つまり「ショートショート研究の第一人者」でもあるわけですね。
(ちなみに、高井先生は、また髪型が変わっていて、またもや全然印象が違っていた。毎回、別人に変身してる。前は、毎回、髪の毛の色が青かったり、緑だったりしたのだが、よく変身する人である)

しかし、今年は、『ショートショートの世界』の発売もあるので、図書館と一部の書店にもかなり案内を郵送したのだが(チラシは、講師の著書の宣伝を兼ねてます)、その割に反応も少なかった気もするな。どうも最近は「ショートショート」というジャンル自体があまり知られていないようだ。昨年まで、コンテスト事務局が「大阪シナリオ学校」の中にあったので、余計そうなのかもしれないが、一般の若い人の中には「ショートショート」といえば「コント」というイメージがある人もけっこういた。もちろん、この世代は、星新一さんの作品が教科書に載っていた世代だから、作品自体は知っているはずだと思うのだが、もしかすると、「ショートショート」という言葉になじみがないのかも。もっと気軽に楽しんでくれればいいのにね。
あ、公開講座は、だいたい年2回やってますし、たいてい無料なので、お友達さそって、お気軽に来て下さいね。もっとたっぷり聞きたい方は、御入学を。十数人のプロ作家のお話が、年間35回ほどたっぷり聞けます。

さて、本日入学した第9期生は、入学式初日というのもあって、ちょっと緊張気味。毎年、入学式で、「講義上の注意」を配布しているのだが、今回は、遠方からの入学者が多いので、今日はなるべく時間を厳守して早めに終了。第9期生とはゆっくりと話せなかったのだが、どうせ来週から長いつきあい。毎週会うからぼちぼち話せるしね。入学式終了後も、事務作業などでバタバタ。片づけや事務作業をお手伝いいただいた皆さん、ご苦労様でした。

その後、残った数十人で、いつもの中華屋で飲み会。小さな店を占拠して、講師の高井先生や受賞者、第9期生や専攻科がワイワイ、ビールを飲みながら色々雑談。テーブルの端では、例の専攻科の生徒さん(小説コンテスト落選して落ち込んでたMさん。もう皆に言ってたから、イニシャル出してもいいよね)を皆でなぐさめていた。実際、今は「このままいけばデビュー確実」と言われている人も「私も、これまでにコンテストで何度も落ちたことあるのよ。落ち込むよねえ。でも、一緒にがんばろ!」とか言ってくれるわけだし。

「ああ、そう言えば、ブログを見たHさんからもメール来てたよ。がんばろうね、ってさ」と私が言うと、「みんな、優しいわあ」と感激するMさん。いや、それは優しいというより「よきライバル」という感じなのよ。こんだけ専攻科の生徒数が増えたら、ミステリ志望だけでも数人、SF、ファンタジー、ホラー、ライトノベルと、同じ賞を狙う人間がそれなりにけっこう増えてくるからね。前は案外あんまりダブらなかったのだが、さすがにプロ志望が増えましたからね。一番少なかった「時代小説」志望でさえ、今は数人いるらしいもん。まあ、それぞれ微妙に「テリトリー」は違うみたいだけど(江戸中期、幕末に、戦国時代……)、でも、みんな、仲良くライバルだもんね。ああ、今年は、大きな賞、誰かもらってほしいなあ。

第5期生で、昨年まで専攻科を辞めていた(どうやらそのまま筆も断っていたみたいだが)生徒さんが「やっぱり書こうかな」と専攻科へ復活進学。おかげで、5期組のパワー炸裂で、テーブルのはしっこは大騒ぎ。また一方では、尾道で撮った「大和」との「ツーショット」を見せびらかす女性。(かんべ先生のホームページにも載ってるアレですね)。うら若き美しい女性たちですが、けっこうオタク入ってます。でも、コアな幕末ネタで、モエないようにね。しかし、昨年は、ミステリ志望も増えたけど、SF志望も復活の兆し。

結局、一番遅くまで飲んでいた連中は、11時半まで。私はそのまま自転車で深夜帰宅。メールをチェックしたら、専攻科の申込書をまだ提出してなかったFさんからメール。「今日入学式だったんですか。間に合いますか」とのことで、追加申込。今のところ専攻科の生徒数は31名。

結局、昨年度の専攻科で、継続の申込みがまだ出てないのは、このところずっと教室には来てなかったTさんとMさんコンビと50代の男性のNさんだけ。まあ、仕事の都合などで、ほとんど講義に来れない人も4〜5人ほどいるのだが、そうした忙しい時でもやれる時に書くという人もいれば、すっぱり小説を書かない(筆を断つ)という人もいる。まあ、専攻科にもなれば、書くか書かないかも、それぞれ本人の人生の問題だからなあ。

しかし、確かに売れない小説を書き続けるのは、理解のない家族から見れば、ただの道楽かもしれないがなあ。けど、まあ、たとえ売れたとしても、やっぱり遊びみたいなところはあるよなあ。しかし、うちの夫(現代美術作家で、前衛ダンサー兼振付家。まあ、ただの道楽者)に言わせれば、「人類にとっては遊びこそが、本当の仕事。天から与えられた使命」なのだそうで、こう命がけで遊ばれちゃうと、何も言えんのだが。まあ、少なくともうちの場合、何を言ってもムダなので、あきらめるしかないような気がするが。ちなみに彼は、今日も鳥取の方へ踊りに行ってるから留守。よう知らんけど、踊るアホウに見るアホウだな。

深夜2時、回収した第9期の創作アンケートを自宅でチェック。やや初心者が多いものの、すでにかなりたくさん書いている人も多いようだ。毎年、生徒のレベルの差はかなり大きいのだが(まあ、一年たつとこれくらいは目立たなくなってしまうのだが)今回は、とくに遠方からの通学者が多いので、前期修了まではとにかく続けて通学できるようにサポートしないとなあ。入選作品および受賞者の発表は、さすがに疲れてホームページの更新ができないので、明後日にすることに。

明日は、入学式!

10月28日(金)
朝から銀行など、午後から小説講座の事務所。入学式の準備いろいろ。

入学式だけでなく、ショートショート大賞の授賞式をかねているため、準備品もいろいろ。受賞作の作品集の文章を入力。文字校正は、明日、丁稚どんが手伝ってくれる予定。この後におよんで、入学資料請求が数件。今週発売の某雑誌にも載っているせいだが、10月29日開講とも書いてあるはずで、わかっているはずだと思う。今日の請求分が、最終発送分。来週から、春の生徒募集開始である。

今回、大賞は該当作なしだったのだが、入選が2名。うち一人は、大阪在住なので、授賞式に来られるという返事をもらっていたのだが、山梨在住の受賞者から返事があり、授賞式に参加予定とか。うちの学校は、とても小さな学校なので、遠方からわざわざ来られても交通費は自費。「よろしければ賞金は、銀行振込しますよ」と伝えたのだが、どうやら授賞式にご参加いただけるらしい。小さな賞でも、受賞者が来てもらえるとこちらも嬉しい。毎年、入学式と合わせて実施するのだが、なかなかアットホームな雰囲気の授賞式です(まあ、悪く言えば地味なだけ。一般公開もしてます。選評と作品集ももらえます)


10/28/2005

小説コンテスト落ち、あけび、九九(三の段)

10月27日(木)
終日、小説講座の事務所には入れず。

午前中、外出。どうも体調をくずしたので、午後から早めに帰宅して、ちょっと横になる。あいにくよほど高熱でも出ない限り、昼寝ができない体質なのだが、2時間ほどダラダラ本を読んだり、うつらうつらして休んでいる間に回復。先日の風邪がぶりかえしたのではなく、どうもただの寝不足だったみたい。

ラジオ番組のディレクターから、来週のゲスト出演の件で、質問シートが送られて来た。「生放送ですから、これ以外の質問もあるかもしれません」と書いてある。うーん、生放送なんだったな。20分くらいらしいけど、これ、みんなには内緒にしておこう。来週の「昼間」の番組。皆さん、間違っても聞かないようにね。前にテレビに出た時も、昼間の番組だったのに、なぜか見てる生徒さんがいたんだよなあ。

コピーライターの仕事でも、ラジオ広告を作ったことはあるのだが、ほとんどの場合、録音だし、生CMというのもなくはないけど、自分が読むわけではないから、聞いたこともない。というか、ラジオコピーは書いたことはあるが、なぜかテープも一本も手元にないし、覚えてもない。私は、自分の仕事でも生原稿はすべて捨ててしまうので、印刷物も一部しか残してない。だいたい小説は何年たっても読めるが、広告コピーなんて、数年たったら読めた代物ではないのである。チラシやパンフレットなど、使い終わったら、それこそゴミである。まあ、十数年も広告業をやっていたら、それなりの量の仕事をやっているはずだが、「残るもの」というのはほとんど何もないのである。

だから、生徒さんが小説コンテストで落選したりして、落ち込んだりしていても「どうせ作品が残るんだからいいじゃないか」と思ってしまう。コンテストで選ばれなくても、その作品が消えてなくなるわけでもない。今は、ほとんどの人がワープロソフトで書いてるだろうし、テキストデータで保存していれば、また書き直したりできるわけである。だから、一度入賞しちゃうと、その作品は他のコンテストに応募できなくなるから、より上位の賞を狙っているなら、かえってチャンスかもしれないし。

ところが、広告なんかは、そういった使い回しができない。まして「競合プレゼン」で落ちた作品などは、誰の目にも触れることなく(まあ、クライアントは一度は見てるわけだが)、そのまま消えて行く。広告はオーダーメイドだし「まあ、いいや。他のところで使えるわ」などというアイデアなんか、まずほとんどない。不幸な子供たちである。まあ、いくつ不幸な子供を作ったか、私自身、もう忘れたけど(広告は、大きなキャンペーンなんかは、たいてい競合になるので、プレゼン落ちしたことがないようなコピーライターはほとんどいないのだ。ただし、社内の広告部とか、系列広告会社とか、ある種の大手代理店とかなら別)

というわけで、小説コンテストなんぞ「いっぱい落ちてなんぼのもんじゃい」と思った方がええんではないだろうか。まあ、そのコンテストではダメでも、いつかその作品を使える日が来るかもしれないじゃないか。出版業界も、商品の入れ替わりが激しいと言われているが、それでも「亡くなった作家の本を今出してもまだ売れる」というヘンな業界である。こんな変な売れ方をする商品は、ほとんどないぞ。10年前とほとんど同じ商品を売って、買うやつがいるなんて、他の商品ではありえない。小説なら、数十年前のものでも読むやつがいるのだ。ケータイなんか、1年前の機種でも売れないのに。

まあ、そういうわけで、作品のストックもできるわけだし、書き直すという手もある。先日も、専攻科のある生徒さんがコンテストに落ちて、「もう小説を書くのをあきらめた方がいいのかなあ」と電話をかけてきたのだが、よくよく聞くと「生まれて初めての応募」だったらしいのである。確かに、うちの小説講座の講師の中には、「初めて書いた長編」で大きな賞をとった人も数人いるが、「かれこれ十年くらい落ち続けた」という作家さんもこれまた数人いる。とりあえず、私が見ても、まだ小説を書き始めて2〜3年だし、一作ずつ上達はしているから、絶対無理だろうと思わない。だから、あきらめるかどうかは、「才能」とか「腕」の問題ではなくて、本人の人生設計の問題である。だいたい「作家になる」というのは、「金持ちになる」のとイコールでもないし、「有名人になる」のとイコールでもない。でも、「焼き鳥屋になる」というのなら、ちょっと似ている。脱サラして「焼き鳥屋」を始めたとしても、商売には浮き沈みもあるし、それで確実に幸せになれるとは限らない。向いているか向いてないかの問題もあるが、要は、その仕事が好きかキライかである。だから、たぶん作家になったとしても、それが幸せかどうかは、本人の問題だろう。もともと趣味では好きだった作業でも、仕事になるととやかく口を出す人もいるわけだから、仕事にするかしないかは、ある程度、本人の覚悟が必要になるんじゃないかなあ、と思う。で、それで、幸せなのかどうか、私には、そんなことはわからない。生徒さん一人一人が判断するべき問題だから。

いつも言うことだけど、私は小説講座の生徒さんの作品を見て、「この人は絶対無理」とはまず思わない。でも、私は「無理」とは思わないが、本人は「無理」だと思ってしまうことが多い。まあ、ほとんどの仕事は「やる気も問題」だけど、ホント、その通りである。あんまりひどい時は、「ある程度の作品を書くのに、数年かかるかも」とは思うことかもしれないけど、案外、そういう予想ははずれてしまうことが多い。数年と言っても、たいていは1〜2年で追いつくのだけど、とにかく生徒さん本人があきらめてしまう場合がほとんど。「あきらめる」というと、暗く後ろ向きな姿勢みたいに聞こえるかもしれないけど、本人は「仕事が楽しくなって来た」とか、「他の趣味が忙しい」とか、「家庭を持って、忙しくなったので」とか、まあ、よく考えてみると、むしろこっちの方がよほど人生前向きなような気もするんで、必ずしも「暗い」わけではないのである。

だから、小説は「あきらめる」のではなくて(そんなことをする必要はどこにもない)、辞めるなら、「新しい夢をみつけた」(なんだか、クサイ気もするが)とか、「他にも人生の楽しさを見つけたから、忙しくなったので」という気楽な態度が望ましいような気がするぞ。かなり思いつめた人なら、「無理矢理、あきらめる」というのは、どうせあきらめつかないかもしれないしね。まあ、恋愛でも、他のヒトを見つけるのが一番立ち直りが早いのだ。でも、他の人を無理やり探す必要はないぞ。なにせ、小説は書き上げるのがかなり大変なんだし、しかも、ちゃんと他人が読めるように書く人も実際にはかなり少ないのだから。(どっちみち、勝手にどんどん脱落するように見えるんだけどなあ)

先日も、専門学校の講師会議で、
「マンガなんかは、絵のうまさよりは、その人の持っている知識とか考え方の方が大事で、まずは常識があるかないかが問題。絵がヘタでも、それくらいは教えてあげられるし、すぐ上達するけど、そういうのはなかなか変わらない」
という話が出たが、この「常識があるない」というのは、単なるしつけの問題ではなくて、たぶん私は「好奇心」と「人間への興味」の問題じゃないかなあと思う。小説を書く人も、マンガ家志望でも、ちょっと人とは変わったタイプが多いのかもしれないけど、他人への興味があったり、好奇心があれば、まあまあ常識くらいはわかっているだろう(もちろん常識そのまんまに通りに暮らしているかは別だろうが)。でも、この好奇心と人間への関心が低いというのは、小説やマンガを作るのは、これはさすがに致命傷かもなあ。本人の問題なんだろうけど(確かにマンガを書く生徒さんには、書いている本人にしかわからないような作品もあったりするからなあ)

ちょっと寒いので、夕食は、鍋料理(豚肉、白菜、糸こんにゃく、人参、えのき、水菜、とうふ)。デザートは、ヨーグルトとアケビ。子供たちは、アケビを食べるのは生まれて初めて。私も、たぶん30年ぶりかな。まあ、あんまりウマイもんでもないけど、黒い種をぷーぷーとばして食べるのはおもしろいよ。まあ、あんまし手に入らないけど。

子供たちと風呂に入って、双子の娘たちのヘタクソな九九(まだ三の段)につきあう。早めに寝る。

10/27/2005

DVD、さつまいも、全集別冊

10月26日(水)
朝から終日、外出。小説講座の事務所には入れず。

朝、8時に外出。夕方まで、小説講座以外のお仕事(お役所関係のイベント)。入学式前なのに、今週は、ちょっとバタバタしていて、忙しいのだった。事務作業のための書類はほとんど持って帰っているので、それはなんとかなるのだが、電話や郵便の問い合わせが対応できないのが、ちと心配。体調も、少し不調気味。

最近、事情があって、ビデオを大量に見ている。ちょっと頭痛がする。目が悪いので、あまり集中して見ると、疲れ目から頭痛や肩こりになったりするのが困る。私はけっこう画面のはしっこまで真剣に見るたちなので、1本見るとかなり目が疲れてしまう。専門学校の学生さんなどは、教室で、教材のためにビデオを流しても、日頃テレビを見慣れているせいか、あまり集中して見ない。たぶん世代の問題なのかもしれない。私は中学生になるまで、ビデオなどというものがなかった世代だし、どうも集中して見るくせがついている。でも、学生さんたちはちょっと退屈になると、すぐうつむいたり、寝たりする人がいる。私なんか、どうも貧乏性なのか、レンタルで借りてしまうと「つまんない映画だな」と思っても、最後まで真剣に見てしまう。さらに、気に入ったら同じのを何度も何度も見る。

しかし、何度も何度も見た作品でも「あれ、こんなシーンがあったんだ」という発見があるので、けっこう楽しい。前にも言ったけど、私は英語がかなり苦手なので、日本語吹き替え版が好きなのだが(字幕に追われてしまうと画面をゆっくり見れないから)、大人向けの映画は字幕しかないので、「いい映画だな」と思ったら、二度見ないと仕方がないのだった。(英語だけで聞き取れるかなあと思うには、3回以上見ないと無理)。そりゃ、字幕なしで英語のまま見れれば一番いいんだろうけど(それでも英語を勉強し直そうという意思はまったくない私)

それで最近、気に入っているのは、DVDの英語字幕である。あれは、英語が苦手な私にはありがたい機能。なにせ私の世代の人間は、学校時代に「リスニング」も「スピーキング」もほとんどない英語教育しか受けてないので、とにかく聞き取りが苦手。でも、画面を見ながら英語字幕を読むのは(どうせ会話ばっかりだし)英語の本を読むよりもずっとラクなのである。

私は、中学の時、英語の先生が嫌いだったせいで、英語がずっと苦手なまま。昨年、イギリスに行った息子が、わざわざおみやげにと買って来てくれた分厚い『ハリーポッター』も、当然ながら、まだちっとも読んでない。自分のおみやげもほとんど買わず、小さなリュックサックに詰めて、わざわざ持って帰って来てくれたのに、それでも読んでないのだった。本棚の飾りになっている。
(児童文学? あんな分厚いもん読めるかあああ。厚さ4センチもあるペーパーバック)。

でも、DVDの英語字幕なら、最後まで見るのはカンタンだし、好きな映画なら字幕を見れば「聞き取れなかったけど、こんなことを言っていたのか」という発見もできるから楽しい。やっぱりDVDはありがたいな。とくにディズニーは、日本語版と英語版で、歌の歌詞を比べたりすると楽しい。『ナイト・メア・ビフォア・クリスマス』なんか、日本語吹き替えで見ると、なんだか英語で見るより、皆ちょっと間抜けっぽくて可愛いのよね。どっちの声優も有名人だらけだし。
(歌のシーンは、英語字幕がないと歌詞はほとんど聞き取れない。子供向け映画でさえ、満足に聞き取れない私の英語力がちと悲しい気も)

夕食は、イワシの梅煮、サラダ(さつま芋とリンゴと柿とレタス)、みそ汁(さつま芋と白菜とベーコン)など。今週、我が家の料理には、どんな料理を作っても、さつま芋が入ってる。そのせいか、家族全員おならぷうぷう。なんだか家中に臭う気がするんだけどな。

『藤沢周平全集・別冊 藤沢周平 人とその世界』とぺらぺらめくりながら寝る。これは図書館で借りたのだが、この別冊は、文庫の解説やインタビューを集めていて、藤沢ファンなら必読(いや、私はとくにファンというわけじゃないんですけど)。


10/25/2005

入学式前の忙しい日々

10月25日(火)
午後から小説講座の事務所。「ショートショート大賞」の落選通知を発送。

ショートショート大賞は、応募総数が193編。そのうち入選2編、佳作1編。つまり190編は選ばれなかったわけである。まあ、複数を応募してきた人が少しいるのだが、さすがに大量の落選通知である。丁稚どんが印刷してくれたので、二人でせっせと封筒にラベルを貼って送付。

今週末から始まる「第9期」に申込書が一通届いていた。今年は、なぜか東京から2名(一人はすでに引っ越しているが、一人は遠距離通学)、名古屋からも1名。これだけ遠い生徒さんがいると、和歌山からぐらいならまだ近いように見えちゃうな。それ以外は大阪近郊。

先日、専攻科の生徒さんから電話あり。コンテストに落ちたとの連絡。ちょっと落ち込み気味。でも、どんなコンテストだって、応募総数マイナス入選作は、全員落選だから、あんまり落ち込まないようにね。

夕方、帰宅途中、演芸作家の大池晶先生とばったり会う。少しだけ立ち話。大阪シナリオ学校の演芸の講義があるようだ。なんだか、大阪シナリオ学校の運営も人の入れ代わりがあったりして、バタバタしているようなんだけど、できることなら何でもお手伝いしたいと言っておく。

小説とは関係のない休日(焼き芋屋は、夏の間どこへ行くのか)

10月24日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝7時40分に外出。午後から、専門学校の非常勤講師。後期の授業開始。
夜9時頃、郵便局へ寄ってからレストランで夕食。10時半に帰宅するとテーブルの上に、山のような大学芋が。こんなに大量の大学芋を一度に見たことがなかったので、ちょっとびっくりする。どうやら夫が作ったらしい。先日、双子の娘たちが「いもほり遠足」で、大量のサツマイモを持って帰って来たのだが、さらに実家からも大量にもらってしまったし、その前にも夫が同僚からもらったりしたので、今、家の中には大小あわせて40個くらいのサツマイモがあるのだった。でも、一番大きなサツマイモがめちゃくちゃ大きかったので、この大量の大学芋も「大きいヤツ3個を使っただけ」でできたそうだ。当分、芋には不自由しないなあ。まあ、日持ちするからそのうちなくなるだろう。

ところで、そろそろ「石やきいも〜」という声が聞こえてくる季節だが、この焼き芋屋さんは、大阪では、夏は「わらび〜も〜ち〜」とわらびもちを売っている。だが、どうも東京の人と話をしていると、どうも「わらびもち」という移動販売は見たことがないらしい。どうやら名古屋では目撃情報もあるらしいが。

実は、私の家から4キロほど離れたところに、この業者さんたちのトラックが何台か集まっているところがあるのだが、たしかに「夏はわらびもち、冬は石焼きいも」という商品の積み込みをやっている。どうも春や秋は、なぜかみな一斉に商品を変えるみたいだ。この方法で1年中商売をやっている。ところが、何人かの東京の人に聞くと「『わらびもち屋』なんか見たことがない」という。知人によると、東京の「焼き芋屋」は、単なる季節労働者ではなくて、まるで渡り鳥のように移動しているという説があるそうだ(ホンマか)。つまり、春は桜前線とともに「焼き芋屋」のトラックも北へ移動する。だから、今頃は、東京近くに焼き芋屋が集結してくる時期なのだ。まるで渡り鳥みたいに。大阪の業者は定住型の「二毛作」なのだが。

ところで、さおだけ屋はなぜつぶれないのか、については、私は子供の頃からずっと考えていて、十年かけて「ある仮説」を立てた。あのひどくのんびりしたトラックのスピード。きっと、あれは、諜報活動をしているためである。だから、あれはどっかのスパイなんかだと思うよ。たぶんね。

小説とは関係のない休日(恐竜博2005)

10月23日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

のんびりした休日。午後から子供たちを連れて、自然史博物館の『恐竜博2005』へ行く。ところが、長居の駅を降りたら、目の前に「恐竜博は、90分まちです」という看板が……。

うーん。90分待ち〜。こういうイベントは午前中早めじゃないと混むなあ。私だけなら、さっさとあきらめて別の日にするのだが、子供たちが「ぜったい見る!」というので、しぶしぶ長居公園を歩いて、博物館へ。この催しは、閉館時間も4時半とかなり早くて、入館は4時まで。博物館前では「40分待ち」と言われ、入館時刻の4時を過ぎるらしい。でも、「並んでもいい! ぜったい見る!」という子供たち。しょうがなく並んで待つこと30分。

まあ、結果的に閉館まぎわで、正解だったかも。「鳥への進化」がテーマで、展示もよく考えられてはいるのだが、展示物の量はかなり少なく、会場もせまいので、時間的には30分あれば見るのに充分。もちろん掲示されたパネルなどをじっくりと読めば、1時間ほどかかるかもしれないけど、お目当てのものを見るだけなら、やっぱりせいぜい半時間ほどである。しかし、よほどの恐竜好き以外は並んでまで見る必要がなさそうなのだが、世の中にはこんなに恐竜好きがたくさんいるのかなあ。まあ、小中学生が無料なので、親子連れがほとんどなのだが、けっこう大人だけのグループもいる。若い女の子2名が並んでいたりして、ちょっとびっくり。とにかく、閉館ギリギリだったので、かえって空いていたのでよかったかも。90分並んだお父さんお母さんは、ご苦労さまです。

長居公園で少し遊んだあとは、マクドナルドへ。すっかり子供たち中心の一日であった。

10/23/2005

小説講座の新学期準備、マンガ家さんと盗作

10月22日(土)
午後から小説講座の事務所。小説講座は、来週までお休み。

資料作成いろいろ。頭痛がひどいので、なかなか仕上がらず。
昨年度の資料もあるので、全部の資料を一から作るわけではないのだが、あれこれ修正もあるし、決算もあるし。そういえば、専門学校の方も、来週から新学期なのだった。後期は、週1回、月曜日のみにしてもらったので、前期よりはだいぶ楽になるだろうけど。

専門学校で非常勤講師をはじめて、もう5〜6年ほどになる(今の学校は2年目だけど、他の学校でもやってたのである)。今年は、自分のクラスの生徒アンケート集計をもらった。去年ももらったけど、今年のはかなり詳細である。2クラス分あるけど、ひとつのクラスは全体的に評価が高く、もうひとつのクラスはかなり低い。講師としては、どっちのクラスもほとんど同じような内容を話しているつもりでも、クラスによって、受け取り方がかなり違うなあ。ちょっと不思議だ。

そういや「講師の教え方の問題もあるけど、クラスによっての評価の違いもかなり大きいんですよ」と、事務の人から聞いていたのだが、なるほど、こういうことなのか。他の講師ともよく話しているのだが、なぜか今年も、クラスごとにまるで雰囲気が違う。理解度や作品提出数なんかも、大きく違ってくる。少ない人数なので、誰かに影響されてしまうんだろう。真面目なクラスとか、やる気のないクラスとか、クラスの雰囲気が全然違うのである。

しかし、ここまで差が出るもんなんだなあ。まあ、18、19才というのは周囲に影響されやすい年頃ではあるんだろうけど。大学では科目の選択が多いが、この専門学校は、コースを選択してしまうと自分で選択できる科目は少ない。だから、ほとんどの授業がクラス単位だ。ずっと一緒にいるので、まるで高校生のままみたい。女の子たちはグループを作ったり、べったりした関係を作っている。少人数制なのは教えるにはいいのだが、雰囲気は閉鎖的になりがちで、高校生というより、なんか中学生みたい。全体的には真面目なのだが。

前期で面白かったのは、授業中ずっと「鏡」ばかり見ているグループがいたことかな。直径十センチ以上もある手鏡を机の上に置いていて、授業中に何度も自分の顔を見ている。十分おきに前髪をいじったり、化粧くずれをチェックしているのである。おもしろい。授業はあんまり聞いてない。ビデオで映画を見ている最中も、何度も鏡を見ているのだ。映画よりも、自分の顔を見てる方が面白いらしい。鏡のお姫さまである。

電車の中で、化粧をしている女性を見たことがあるかもしれないけど、授業中に化粧直しをするくらいは普通なのかなあ。でも、ちょっと心配になって、他の講師の先生(マンガ家)に聞いてみたら、
「ああ、あのクラスやろ。あの『おしゃれ倶楽部』さんたちや。あの子ら、私の授業でもずっと鏡を見てるよ。どんだけ自分の顔、好きなんやろなあ。まあ、将来、笑顔を忘れたらあかんとか思って、ずっと鏡を見てるんちゃうかなあ。笑顔が大事って、どんな職業につく気か知らんけど、少なくともマンガ家ではないやろね。マンガ家はそんなオシャレばっかりしてるヒマないから」
「マンガ家って、日頃、むしろ汚い……」
「そりゃ、締切前はめちゃくちゃ汚いもんねえ(笑)。でも、彼女たち、ファッションには詳しいから、『最近の女子高生の流行ってどんなん?』とか聞いて、参考にさせてもらってるけどね」
とか。
ふーん、さすがに少女マンガ家さんだ。女子高生のファッション情報とか、ちゃんとチェックしてるんだな。

そういや、先日の講師会議でも話題だったのは、例の盗作問題。マンガ家の先生たちはその話題でもちきり。最近、Macを使ってマンガを作成する人が多く、コンピュータ実習の先生も、「授業課題でも、ネットから画像を持って来て、そのまんま背景に使う生徒が多いんですよ」と言ってて、著作権問題は深刻。しかし、盗作は、著作権でメシ食っている人が、他人の著作権を侵害してるわけで、マナー違反であることは確かである。(先日のマンガの盗作事件は、業界事情も聞いたが、それは内緒)

ただ、マンガ家は、服やら、車やら、建物やら、どうしても資料を使うことが多くて、「やっぱ、つい、雑誌とか本なんかを参考に書いちゃうよねえ」というものらしい。まあ、自分が撮影した写真を見て書いたり、パソコンにデータを取り込むなんてことはよくやっていることである。
「そりゃ、売れてる人なら、アシスタントに取材させて、写真をとりに行かせられるかもしんないけどさあ」「全部、取材できないよね」「うんうん」……どうも、なかなか難しい問題らしい。

たしかに小説だって、他の本を参考にして書くこともある。でも、「盗作」と言われるには、もう一つ条件があって、「誰が見ても、これは盗作やろ」と言われるほど、「そのまんまや」というのが必要条件だよねえ。

「普通、どの資料を参考にして書いたかバレないように、構図とか工夫するよね」
「そりゃ、雑誌とか見て、そのまんま、写して書く方が変じゃないの」
「誰が見ても盗作だとわかるようにパクるってのは、あんまりにも『そのまんま』だってことだよね」「うん。普通なら、雑誌とか参考にしても、別の視点から見た角度にしたりとか、ちょっと自分で考えてから書くよね」
「ってことは、構図を変えることがでけへんかったってことやろ」
「他の人のマンガ見て、カッコイイポーズとかあって、自分も描いてみたいなと思っても、トレースなんかはせえへんよな」
「うん。なるべく、変えるよね」
「つまり、絵がヘタってことが一番悪いってことやん。ヘタやから、安易にマネするんやろ」
「そうそう」

ふーん、そうなのかあ。まあ、確かに人の作品を見たら、影響を受けることはあるだろうけど、だからって「そのまんま使う」ってことはないはずだよなあ。でも、マンガ家さんって、日頃、そんなに資料調べに時間がかかるのかあ。みんな、けっこう大変なんだな。ラクして、いいもんが作れりゃいいけど、そういうわけにもいかんもんなあ。

10/22/2005

小説講座にも新入生

10月21日(金)
午後から小説講座の事務所。来週入学予定の第9期生へ、資料発送。

来週の29日(土)に、入学式&授賞式(ショートショート大賞の授賞式)を予定。第9期生の名簿を作成。最初の資料を一斉発送する。この資料は、生徒指導用のアンケート。小説講座の生徒さんは、まだ一度も小説を書いたことがない人から、何度も公募に応募して、すでに2次選考くらいまで残っているような人まで、レベルの差がけっこう激しい。また、ミステリやホラー、時代小説など、傾向もさまざまなので、事前に把握しておく必要があるのだった。今年の生徒さんは、19才から50代まで。一番多いのは、30代前半かな。

そういう一度も書いたことがないような初心者でも、1〜2年もすればかなり追いつくのだが、まあ、最初のうちは、「原稿用紙の使い方」なんかがわからなかったりするし、書けなくてイライラするかもしれないしね。

うちの小説講座を楽しんで、自分の創作に役立てるコツは色々あるんだけど、たぶん講師の著書を一冊でも読んでおくのが一番役立つ。この講座は、毎週、いろんなプロ作家が順番にやってくるので、本屋に行って、最低一冊ずつ、買って読んでおくのが一番いい。どんな講師が来るか、楽しみになるし、どんな作品を書いた人かがわかれば、話もわかりやすい。文庫本でいいので、できれば手に入れて、ついでにサインでももらっておくのがいいのよね。

知り合いのラジオ番組のディレクターから電話。来月、ちょっと20分ほどラジオにゲストで出演してくれないかという話。もちろん小説講座の話。宣伝になるわけだから、オーケーする。ちゃんとしゃべれるのかなあ。あんまり自信ないけど、ま、なんとかなるだろう。

そう考えると、かんべ先生は毎日毎日すごいなあ。これを月〜金で毎日やっているわけだもんなあ。私だったら、たぶん毎朝、起きれるかどうかだけで不安だろうなあ。(かんべ先生のラジオ番組『朝はミラクル』は、朝7時前から2時間)

クロスワード原稿の修正

10月20日(木)
終日、小説講座の事務所には入れず。

終日、自宅の仕事場で雑用。体調悪く、ほとんどはかどらず。
先月分のクロスワードの仕事で、一ケ所間違いがあったとかで、緊急修正。なんとかヒントを変えただけで済んだ。ただ、担当者に「もう東京版はデザインが終わっているみたいなので、ヒントを変えるだけで済ませて欲しいんです」と言われた。ええーっ、東京版? この雑誌、クロスワードの連載がはじまってからもう5年くらいたつんだけど、ずっと「大阪版」だけに載っていると思っていたわ。へえ、これ、東京版も載っていたのかあ。ぜんぜん知らんかった。ってことは、これ、フリーペーパーだけど、もしかすると、すごい量が配布されているのでは……。固有名詞は使わないとか、時事ネタ、政治ネタも一切使わないとか、難易度もかなり低めにしているのだが、クロスワードはカンタンなやつほど、使える言葉が少なくなるので、作るのは余計難しい。
(といいながら、実は、作るのに2時間かかってないけど)

クロスワードパズルは解くよりも、制作する方が楽しい。親子で、迷路とか、間違い探しなどを作るのもかなり楽しいよ。子育てにもいかが。

10/20/2005

すり傷とシャレード

10月19日(水)
朝から外出。11時から専門学校の講師会議。2時前まで延長してから、ソバ屋で昼食。3時半過ぎから事務所へ。夕方まで事務作業。

体調悪く、風邪気味のようだ。早めに帰宅。家につくと、双子の娘たちがかけよってきて、「お兄ちゃんが大変!」と言う。見ると、全身すり傷だらけで、布団に横たわっている。とくに顔がひどい。顔の横がすっかり傷だらけで、真っ赤になっている。「どうしたん?」と聞くと「こけやんや」と言う。「それにしても、えらいハデにこけたなあ」「ラグビーごっこをしてたんや」
足も肩もえらい血がにじんでる。傷だらけで、見た目はひどいが、ま、すり傷だけのようである。半分はれあがった顔も、どうせ彼は、幼い頃から色白でちょっと女の子みたいな顔なので、見ようによっては、たくましくなったようにも見えるから、まあ、いいんじゃないの。どうせ男の子は、大ケガしても「ほら、これ。すっげえ、痛いねんで」と友だちに自慢するんだろうし。

夜、調べたいことがあり、借りて来た『シャレード』のビデオを観る。体調の悪い親も一緒に、早めに就寝。


10/19/2005

それは、金木犀の咲く頃

10月18日(火)
午後から小説講座の事務所。夕方まで、事務作業。

家を出ようと玄関のドアを開けると、金木犀の甘い匂い。もうそろそろ終わりなのだろうか、隣の家の庭から伸びた枝、うちの庭にもたくさんの黄金色の小さな花が散っている。ああ、花、花、花。

「金木犀」と言えば、なんか、そんなシーンが印象的なマンガがあったな。たしか『星の時計のLiddell』(内田善美:作)というマンガに、青年が見る「夢」の話が出てくるのだ。その夢に出てくる大きな屋敷の中には、満開の金木犀の枝を抱いて、ポーの詩を暗唱する謎めいた美少女が一人。

「夜という妖怪が、真っ黒い王座によって、悠々とあたりを覆い、ただ悪心の天使ばかりがうろつく……(あとは忘れた)……あわれ黄金郷」

なんてことを思いながら、機嫌よく、仕事に出かけようとしたら、げええ、あの例の近所のおばさんがやってきた。で、また聞きたくもない話を聞かされて、またまた不愉快な気分に。うーん、先日、あれほど二度と話しかけないでくださいと言ったのに言ったのに言ったのに。ホントに、ぜんぜん聞いてないな。

エドガー・アラン・ポー様、真昼の住宅街にも、妖怪がいるようなんですけど。

午後から事務所で、せっせと事務作業。終日、丁稚どんは、ショートショート大賞の応募者の住所録の作成。キーボードぱちぱち。昨日、堀先生と高井先生から連絡があり、受賞作も内定いたしました。今年は、応募総数193編。受付事務、下読み選考などなど、ご協力いただいた皆様、ご苦労様です。発表、授賞式は、10月29日(土)の予定。一般の方も入場できます。みなさん、ご参加ください(でも、座席は50席しかないので、早めに来てね)

さて、夜にメールチェックをすると、昼間、お電話で問い合わせがあった方からメールが入っていた。この東京在住の方なのだが、できれば通学したいという。ええっっ、マジっすか。
「東京にも小説講座はあるのですが、やはり講師とカリキュラムに魅力があるので、がんばりたいと思います」ということだそうです。ってことは、今期は、東京からの通学生が二人ってことに!?(もう一人は、引っ越してくるらしいが)

いえいえ、こちらは全然かまわないんだけど、そりゃ嬉しいんだけど、年間35回の講座を全部、欠席せずに通ったとすると……なにせ新幹線代が……。ひえ。

10/18/2005

俳句、川柳、純文学、娯楽小説

10月17日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝7時半に外出。昼、ナンバのOCATにある丸善に寄ってから、レストランで、シェフのおすすめランチ。地下鉄で移動して、1時から小説講座の事務所。4時まで事務作業をしてからまた移動して、専門学校へ。8時まで非常勤講師。TUTAYAに寄ってから帰宅。

専門学校の学内コンテストの選考。小説の方は、大阪校のレベルは今年はかなり低かったのだが、東京、福岡、名古屋にも学校があり、こちらの学内選考を通過したのが、それぞれ2〜3編ほど全体の選考にあがってきた。ところが、これはかなりレベルが高かったので、正直、ビックリした。うちの小説講座の生徒さんに較べても、相当レベル高いかもしれない。まあ、選考に残っているのは、2年生以上の生徒だから、うちの生徒だと「専攻科」レベルになるはずだし、なにせ昼間の専門学校だから、書こうと思えば時間はたっぷりある生徒ばかりである。少なくとも、初心者のうちは、文章レベルは、書いた量にほとんど比例するから、専門学校でどっぷりと真面目に書いていれば、ある意味、これくらいは上達するのも当然かもしれない。

やや純文学っぽいテーマのせいもあるけど、なかなか個性的な「文体」で、文章レベルでは、なかなか面白い。まあ、エンターテインメント系の小説だと、アイデアとか構成の問題の方がずっと重要な場合が多いので、文体の問題を気にとめるまでの作品もないが、(文章で指導されるのは、「日本語表記上」の問題くらいである)純文学系の作品だと、文体の問題はかなり重要ではないかと思う。とくに、主人公の一人称では、ユニークな視点とか、比喩とか、文章表現の細かい所の方が面白みがあるわけで、そこがエンターテインメント系と違うとこじゃないかなあと思う。

まあ、私は、個人的な嗜好としては「娯楽系」の人なので、純文学系をちゃんと理解しているとは思えないのだけど、まあ、それはそれで結構、大量に読む。純文学系でも、いいなあと思う作品もあるのである。

というのは、うちの夫が純文学系の小説ばかり読む人で、彼が買ったり、図書館で借りたりしているからである。家に常にいっぱい積んであると、何でも読まずにはいられない活字中毒の私は、さほど興味がなくても、ついついかなり読んでしまう。どうも毎日のように接していれば、それなりの違いやら、少なくとも好みのようなものもできてくるらしい。

ところで、周囲では、本を大量に読んで、お互い本棚が何本もあるような男女が結婚すると「本が何十冊もかぶってしまったわ」という話を聞くのだが、好みが違うせいか、うちはたった2冊しかかぶった本がなかった。美術教師で、現代美術作家&前衛ダンサーの彼とは、趣味がまったく違うのである。ちなみに、この2冊というのは、たしか澁澤龍彦の本で、それもお互いそこそこ何冊も持っていたのに、ちょうど重なったのが2冊だけ。図書館も、週2回くらい通っている私が「こんな本、どこにあったのかな」というような本ばかりを借りてくる。レンタルビデオも、毎回私はおよそ題名すら聞いたことがないような作品ばかり見つけてくる(よほど好みが違うのだな…)。ちなみに、最近、彼がレンタルして「わりと面白いよ」と言った映画は『雲の中で散歩』。私は見てませんけどね。
(彼は、およそミステリもSFもホラーもファンタジーも読まないし、映画もまず見ないので、たぶん内容は、恋愛ものか文芸作品だろう)

ただ、純文学でも娯楽小説でも、おもろいものはおもろい。まあ、そう思えるくらいの好き嫌いしかないので、私はなかなかの幸福者である。

ところで、純文学系とエンターテインメント系の違いだけど、これ、もしかして、俳句と川柳の違いと似てないかしらんと、今、ふと思った。なんかこんなこと言うと、あちこちから怒られそうだけど。

たしか面白い川柳をたくさん紹介していた『川柳でんでん太鼓』(田辺聖子著)のどこかで読んだのだが、俳句と比べて、川柳は「下世話なもの」とか「お遊び」と思われているそうだ。で、どこからどこまでが俳句で、どこからどこまでが川柳かという違いなのだが、これは案外、はっきりしたもんではないらしい(私なんか「季語が使われてないのが川柳だ」と単純に思っていたが、そうではないらしい)。
で、ある川柳を作っている人が、「とにかく俳句の方で、こっからこっちは俳句、と決めてくれたらいい。残ったものをこっちで引き受ける」と言ったとか(この本だと思うが、記憶があいまい)。なるほど川柳というのは、下世話かもしれないが、大衆的でかつ懐が広い。だから、なんでもかんでも川柳になってしまう。俳句の方が定義しやすいのかもしれない。

で、最近は、「エンターテインメント小説って何ですか」と聞かれたら、「商業小説」あるいは「いわゆる純文学以外の小説」と答えることにしてるのだが、なんか、これ、俳句と川柳の違いに似てませんか。え、ぜんぜん違う? まあ、たとえばですよたとえば。そう考えるとわかりやすいかな、と。いやん、そんな難しいこと言わんといて。だって、純文学の定義は、そっちにまかせてあるのやから。

そういや、たしか、あの本の最後で紹介された川柳は、
「主義主張持たずに気楽に拍手する」(作者忘れましたスミマセン)
だったよな。
おもろいもんは、何が何でもええでんがな。ほな、パチパチ。

10/16/2005

小説とは関係のない休日(ご近所トラブル、芋ようかん)

10月16日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

いい天気。近所で、だんじり囃子が聞こえる休日。窓を開けると、隣の家の金木犀がうっとりと匂ってくる。気分のいい秋の日である。

ところで、田舎の暮らしも大変だろうが、都会でも、近所づきあいはなかなか大変である。実家の建て替え工事に、毎日のように文句をつけていた隣家の婦人がいるのだが、今日の昼、うちにもやってきて、また長々と話をしてきた。忙しい時に限ってやってくる。子供たちが夫の実家に泊まっており、せっかくゆっくり一人で家事を片づけてたのに。なんだかんだで、ついに頭に来てしまう。すっかり気分の悪い秋の休日だあ。

この人は、一人暮らしの高齢の婦人なのだが、近所のおばあちゃん連中からも、どうもつまはじきになっている人物らしく、ちょっと難儀な人である。同じ話を何度もするし、やたらと話が長い。かなり閉口する。だいたい「家の件なら、父に言って下さいね」と言っているのに、「でもね…」と長々と話を続ける。先日の夜も、うちに来たのだが、普通なら「今、食事中なんで」と断ったら、普通はすぐに話を切り上げるはずなのだが、「ごめんなさいね。でもね、ええっと」と説明が長い。さらに、物足りないのか、10時頃にもまたやってくる。あきらかに他人の都合を考えていない。うっとおしくてたまらない。

高齢者なので、こちらも我慢しなくてはと思うのだが、なかなか大変である。工事で、家にヒビがはいる、自動車がキズついたなど、毎日、現場監督みたいに一日中家のまわりをウロウロして、何かしらぐずぐずと言う。工事が終わってもう3ヵ月にもなるのに、まだ工務店の人を呼び出して、ごちゃごちゃ言う。まだ、ほとんど毎日、家のまわりをウロウロしている。で、実家に近いうちの家のキッチンの窓の真ん前にも、しょっちゅう立っているのだ(しかも30センチ前だ)。あまりに毎日なので、気持ち悪い。立ち聞きなどしてるわけじゃないとは思うけど、さすがにうっとおしい。

今日は、あんまりひどいので、「近所の評判になっているし、もうちょっと自覚された方がいいのでは」と言ったら、これが余計なお世話だった。「一体、誰が、そんなことを言っているの!」と怒り出し、すぐさま、あちこちの家のベルをならして、「おたくが言ってますの? おたくは言ってませんよね。一体、誰がそんなこと言うのかしら」と言って回っている。ウワサでは聞いていたが、これを目の前でされたので、かなり驚いた。そこまでやるとは、やはりさすがだなあ。結局、うちの父が見かねて出て行き、「まあまあまあ」と声をかけ、裏の家に住むおじさんと一緒にヒビがはいったという下水を見てやり、わざわざ家にあったコンクリートを溶いて、二人で丁寧に塗ってやっていた。そしたら、やっとおさまったようだが、やれやれ、ご苦労なことである。

実は、うちの母は(おそらく裏の家のおばさんも)、この人とは顔を合わすのもイヤらしくて、この婦人が外にいるあいだは決して家から出てこない。近所のおばあさん連中は、この人とは、何だか色々と過去にあったらしい。まあ、うちの父などは、「あの人も、ほら、長くないだろうから……我慢してやれば」などと言うのだが。
(でもさ、あの人、老けて見えるけど、たしか年齢は1歳か2歳くらいしか変わらないんじゃなかったっけ、父ちゃん…)

まあ、私は、今日ちゃんと「二度と来ないでください」と言ったから、当分は来ないはずだけど。
(でも、ウワサによると、彼女は、相手を怒らせてもほとんど気にしないらしい。だから、他でまた別のトラブルを起こしたら、その人の悪口を言いに来るそうだ。難儀やな。まあ、ちょっとキツイことを言ったんじゃないかと気にしていたのが、うちの父母には「そんなん、あの人は全然気にせんとまた来ると思うで」とあっさり言われたが)

ところで、私はこそこそ陰口を言うくらいなら、本人にきっぱり言う方なのだが、うちの両親などは、どんな場面でも、思ったことをほとんど言わないタイプである。まあ、この年配の人たちは、「思ったことを言わないのが美徳」みたいなとこがあるようだ。でも、私なんかはちょっとこういうのは性に合わない。世代の違いなんだろうか。

そう言えば、うちの両親には、「芋ようかん事件」というのがある。「何があっても直接、相手に何も言わない主義」の見本のようなエピソードである。

芋ようかんというのは、東京みやげのあの「浅草の芋ようかん」である。実は、うちの子供たちはこれがかなり好きなのだ。で、私は、東京に出張へ行くと、よくこれを東京駅などで買って帰っていた。で、そのついでに、実家の分も買って、渡していたのである。ところが、何年もたって、ある日、実家に行くと、ゴミ箱に箱ごと捨ててあったのを見たのだった。

母は「ごめんごめん。食べられなかってん」というのだが、よくよく聞くと、実は、うちの父母は二人とも芋ようかんが大嫌いで、毎回おしつけあいをやっているという。全然、知らなかった。もちろん、彼らは毎回、「ありがとう。嬉しいわ〜」と言って受け取っているのである。でも、捨てるんだったら、うちの飢えたガキどもにやればいいのになあ。

彼らは、お歳暮お中元にも知人から「大嫌いなもの」をもらい続けていたことがあったのだが、それも毎回「ものすごく美味しいですねえ」と電話していた。そこまで言わなくてもいいんじゃないかと思うが、なぜか力いっぱい「言ってしまう」らしいのである。だから、もう何年も同じものをもらい続けていた(今はないみたいだけど)。まあ、それは知っていたのだが、実の娘にも何も言わないとは、おもしろい人たちである。

「だってぇ、せっかくもらったものに文句を言うなんて変やし、そんなん、でけへん」と言うのだが、そんなん、ゴミ箱に捨てる方が変ちゃうん。嫌いなら嫌いで、早く言ってもええんとちゃうん。だって、もう何年にもなるんだぜえ。なあ、そっちの方が失礼ちゃうの。

まあ、うちの母は、私の妹にも、「もらうんやったら、何でもいいわ」と言ってたくせに、もらってから「こんなの欲しくなかってんけど」と小さな声で文句を言っている。ちゃんと注文すればいいのに、あとからブツブツ言う。そういや、うちの母は、以前にも、ものすごく大嫌いな友人(そもそも「大嫌いな友人」という分類が私にはよくわからない。私なら「大嫌いな人」とは友だちにならへんぞ)に、その人(スナックのママであった)の何万円もする服(ブランド服だが、着古した服)を「半額にしてあげるから買ってちょうだい」と言われて、着もしない服を何枚も買わされたり、散々イヤな目に合いながら、なかなか交際を断れなかった人である。よほど、きっぱり言うのを美徳としないのだな。

うちの父も、もう十数年前になるが、ある知り合いが亡くなったことがあり、「お友達やってんやろ。がっくりしてるやろなあ」と私が言ったら、母が「ああ、ええねん。あの人、ものすごいイジワルな人で、お父さんも迷惑かけられたし、ホンマはものすごい大嫌いやったんや」と言う。あれも、かなりショックを受けたなあ。父は、さらに、思ったことはまず言わないタイプなのだった。しかし、何年も親しくつきあっているように見えたんだけどな。だから、ずっと父の友達やと思ってたけど、ほんまのホンマは大嫌いやったんかあ。そうかあ、知らんかった。(たぶん亡くなったその人も全然知らんかったやろうけど)

けど、「思ったことを言わない」という美徳はどうなんだろうなあ。忍耐と言えば、聞こえがいいが、自分のツラが可愛いだけにも見えるけどなあ。私は、両親だけに、芋ようかんがゴミ箱にあったって、苦笑いくらいで済むけどさ。こういうのは閉鎖社会で、限られた人間関係を保つ秘けつなんだろうなあ。ってことは、田舎者の習慣という気もするけどな。

ほら、ちょっと違う気もするけど、京都のお茶漬けとか。実家の「芋ようかん」も、考えてみたら、同じなんかなあ。なんだか、みんなオトナだよな。でも、私は、そんな大人なんか、なりたない気がするなあ。そんなオトナになるくらいやったら、「お茶漬け、どうどすか」と言われて、「はーい、いただきます!」と元気に叫ぶ素直なコドモのままでいたいんだけどな。どうかな。あかんのかなあ。

知的な放送作家と小説コンテスト

10月15日(土)
朝から小説講座の事務所。まだ、秋休み中なので、講義はなし。

夕方、雨の中、天満橋で、放送作家の高見孔ニ先生と待ち合わせ。エル大阪で、大阪シナリオ学校の入学式があるらしいので、その前にほんのちょっとお時間をとってもらったのである。「ショートショート大賞」の件などで少し確認など。先生にお会いするのは久しぶり。高見先生は、数多くの漫才台本を書いたり、クイズ番組のメイン構成などもされている知的な放送作家。お酒や料理にも詳しくて、お話もいつも面白いので、お会いするだけでもちょっと嬉しい。

ちなみに、高見先生は、料理を作るのもうまくて、ほとんどプロ並み(もちろん料理番組の構成もしたことがあるそうです)。先生のご自宅で行われている漫才台本の勉強では、台本指導のあと、先生の手料理が食べられるので有名だったくらい。一度だけ食べさせてもらったことがあるのだが、すごくセンスがいい創作料理で、とても美味しい。しかも、お酒にも詳しくて、バーもあって、カクテルなんぞも作ったりされるとか。うう、うらやましい勉強会だ。ああ、この勉強会に入れるだけでいいから、やっぱりもう一度、漫才台本にチャレンジしようかなあ。
(この勉強会は、先生の個人的な会なので、演芸科の卒業生なら誰でも入れるわけではなくて、選抜された人しか入れない)

さて、「ショートショート大賞」だが、昨年の第6回までは、主催は「大阪シナリオ学校エンターテインメントノベル講座」で実施していた。この「ショートショート大賞」は、発案も実行も、私が単独でやらせてもらっていたものなのだが、「創作サポートセンター」が独立した時にそのまま譲ってもらったのだった。ただ、過去の受賞作の著作権(受賞作の著作権は、主催者に譲渡)は、ちゃんと確認していなかったのである。第7回までの過去の受賞作をインターネットで発表したり、作品集を作成したりしなくてはいけないのだが、その確認が済んでなかったので、高見先生にお願いしたのである。

まあ、大阪シナリオ学校には、脚本と演芸台本(コント)のコンテストである「ショートシナリオ大賞」というのもあるわけだし、それはむこうの学校がやることになっているわけだから、ショートショート大賞には何も問題はないらしく、過去の受賞作はこちらで発表してもいいそうだ。その「ショートシナリオ大賞」というのは、大阪シナリオ学校にいた頃に「小説のコンテストしかやってない」と非難を受けたので、あわてて作った賞である。この秋に実施されていたようだが、確か、第2回目である。

大阪シナリオ学校は、今年で創立50年目。まあ、経営はあいかわらず厳しいらしいが、私は、数年間、運営補助をやったりしただけに、独立してしまった今もけっこう心配なのである。これからもがんばって欲しいなあ。

でも、小説講座にとって見れば、「シナリオ学校」というだけに、何かというと「脚本科」に気を使うのがたまにキズだったけどね。実は、小説講座は、毎年「シナリオ学校なのだから、小説講座などは不要。廃止すべき」という話が出ていたのである。まあ、コースの評判はよかったし、とくに赤字だったわけでもないから(儲かりもしないけどね)、なぜだか理由はわからないけど。

まあ、「大阪シナリオ学校」という名前はなんだか「歴史と伝統がある」らしいから、「エンターテインメントノベル講座」などという軽いネーミングがマズかったのかもねえ。まあ、けっこう気を使っていたので、昨年からこうして独立して、気を使わずに済むのはホントありがたい。とにかく脚本科に気を使って、毎年、コース廃止になるかどうかとビクビクせずに済むだけでも、かなり気がラクである。

高見先生は、演芸コースの講師なのだけど(30年前の演芸台本科の第1期卒業生です)、演芸だから「娯楽」には理解があるのか、あるいは、私が演芸台本科の卒業生なので「ま、しょうがないやっちゃ」と思うのか、色々と優しいお言葉をいただいたり、具体的に色々配慮もしてくださって、「エンターテインメントノベル講座」の独立運営も応援してくれたのだ。ありがたいことでやんす。他にも、演芸や脚本など、色んな先生たちに応援してもらえたので、こうして運営が続けられるんですよね。在校生50名ほどの小さな講座だけど、色んな人のためにも色々がんばらないとね。

夜、久しぶりに早めに帰宅。今日は講義がない。子供たちも、夫の実家に泊まりにいっている。土曜日の夜に家にいるのは、滅多にないので、なんだか嬉しくなって、テレビを見たり、ビデオを見たり。仕事がたまっているのに、のんびりできるのが嬉しくて、ついノンビリする。

10/15/2005

生きているから歌うんだ〜

10月14日(金)
午後から小説講座の事務所で作業。

放送関係の制作会社に勤める知人と梅田で昼食。仕事の話で、若いライターを紹介してほしいという話。できれば放送台本が書ける人がいいらしいが、書くものにはあまりこだわらないらしい。20代の若い人がいいようだ。バイトとしてはそれなりに有名人などにも会えて、そこそこ面白いだろうから、誰かやりたがる人いるかもしれないなあ。

出版系や放送系など、たまに人の紹介を頼まれることが多いが、なかなかうまくタイミングが合うとは限らない。会社を辞めてブラブラしている時期と、募集の時期がぴったり合えばいいんだけど、うまくいくとは限らないからだ。ただ、マスコミ系の仕事に就くには、正式採用で就職しなくても、こういうバイトとか契約社員からという人が案外多い。

もちろんマスコミ業界というと「大卒採用」などは、ものすごい倍率になるけど、バイトから社員へあがる人も多いし、中途採用など転職も多い。よほど大きいテレビ局や新聞社、大手出版社などは、新卒でしか採用の道はないかもしれないが、それでも正社員にこだわらなければ、最近は、契約社員も多いし、そもそも業界全体で働いている人の比率を考えたら、マスコミ業界は、大卒新卒でずっと同じ会社という人は他の業界よりもずっと少ないかもしれない。ウラ道ヨコ道の多い業界である。

でも、普通はこういうバイトの欠員みたいなものは、話そのものが人づてにしかやってこないから、その人脈をもってない人は最初からムリである。まあ、親戚やら知人にそういう人がいない場合は、「大阪シナリオ学校」など、こういう社会人向けの学校で、プロの先生と接触をもっておく方がいい。

ライターや放送作家、あるいはADなどは、最近はめっきり「できれば女性がいい」という話が多い。女性の方が「よく気がつくし、根性もあるし、体力もある」んだそうだ。確かに、気のせいか、なぜかわからないけど、若い男性には「根性もなく、体力もない」という人が目立っている。ぼおーっとしてて、あまり気もきかないタイプである。人を使う立場から見たら、こういう若い男性は、確かに使いづらいだろう。なんだろうなあ。マザコンとまで言わないけど、どこかで人の世話になるのに慣れきってしまったのかあ。

ひどい人になると「だるい」「うざい」「むかつく」というセリフを一日ただ繰り返すだけだったりするもんなあ。こういう人は、かわいそうに一日中「だるい」らしいから、きっと足腰も弱ってくるのだろう。ずりさげたズボンでそのままパンツむきだしで、地べたにすわっていたりする。こうなると生きているだけで、しんどそうで、たいそう不憫である。

こういう「どうせ何やってもムダ。オレなんか何やってもどうせダメ」という人のことを、私は「ドーセ星人」と呼ぶ(これも秘かに名付けました。土星人じゃないよ)。で、この「ドーセ星人」の発生は、突然変異ではなく、たぶん親との関係で生まれるのではないかと考えている。まれには「友達の強い影響」というパターンもあるが、たいていはたぶん親である。

ちなみに、「ドーセ星人」のうち、一番多いのが「ダメダメちゃん」のパターンである。このタイプは、親(あるいは先生かも)に「おまえはダメ」「まだまだダメ」「もっともっとがんばらなくちゃダメ」「誰々ちゃんは、すごいけど、あんたはダメ」と言われ続けて、「どうせ何やってもオレはダメなんだ」と洗脳されてしまった「ダメダメちゃん」である。

この「ダメダメちゃん」は、実は、第三者から客観的によーく見てみると、それほど「ダメダメ」というわけでもないのだが、このタイプは、やたらと自己評価が低いのが特徴である。いわく「成績も悪いし」「スポーツもできないし」「ハンサムじゃないし」「スタイル悪いし」…。

まあ、確かに、小学校から高校生くらいまでなら、「成績」か「スポーツ」か「音楽などの特殊技能」あるいは「美醜」(とくに女子)という、この3タイプのうち、どれかに当てはまる才能がないと、学校ではモテモテちゃんにはならないかもしれない。しかし、実は、こういうモテモテちゃんの方が普通は少数派なのだが、このタイプの人の思想は、実は、極端な「エリート主義」だったりするわけで、エリートにあらずんば人にあらず。エリート以外はすべて「負け組」なのである。だから、エリートになれなかった自分は「どうせ何をやってもダメ人間だ」と信じている。(たぶん、そういうふうに母親か教師に教えられたのだろう)。

また、「ドーセ星人」のもう一つのパターンは、「お母さん(先生)の言う通りにやっていればいいのよパターン」ではないかと思う。おそらく子供の頃から、ずっとその通りにやってきて「その場を無難にやり過ごすこと」に全神経を使って来たので、大きくなって、社会に出る頃になって、「さあ、好きなことをやってもいいのよ」と急に言われても、何をやりたいのか、もはや自分でもわからなくなっているという状態ではないかと思う。

でも、「このパターンが一番、深刻だよな」と思ってしまうのは、母親が父親を軽蔑しているパターンである。離婚してなくて、夫婦仲が表面的にはさほど悪くない場合もあるが、なんだか、どうも不思議なぐらいガンコに自己評価が低い場合、とくに中学生、高校生くらいの男子の場合は、どうもこれが深刻な原因のような気がする。

まあ、小説を書く人の中にも、やっぱりコンプレックスとか、ちょっと自己評価が低い人がいる。ただ、私は、こういう人はやはり極端な優生思想の持ち主なんだなと思う。
「私なんて、どうせダメなの。なんの価値もないの」なーんてことを平気で考えられる人には、実は、その背景には「優れた人間しか生きている資格がないの」などという、けっこう恐ろしい考え方が潜んでいる。こういう人は、自分を自己否定するたびに、さほど変わらないくらいの「価値」しかない他の人間も、一緒くたに大量抹殺しようとしていると同然である。くわばらくわばら。

「ドーセ星人」は、自分に自分で毎日『呪文』をかけ続けているのだから、できないのは当然である。しかも、こういう人はかなり幼い頃からしつこく呪文をかけられているので、呪文を解くのはやっぱり大変である。でも、まあ、解けない魔法というのは滅多にない。反対呪文を毎日唱えるとか、何かしら方法はあるはずだと思う。

つまり何が言いたいかというと、この「ドーセ」という呪文にとらわれている限り、たとえ小説を書いても、「ドーセ」になってしまう。しかし、そんな小説は、まず誰も読みたくはない(まあ、純文学系の作品で、その「ドーセ」がもはや芸風まで昇華されていれば別だろうが)。心当たりのある人は、常に、反対呪文を唱えよう。

ところで、「優れた小説が書けるのは、その人の才能。そういう才能がある人以外、何も書く資格はない」なんていう思想の持ち主も、同じ理由で、ちょっと困る人だなあと思っている。

まあ、確かに「うええ〜。書くのはいいけど、こんなの、人に読まさないでくれ〜」と思っちゃうほど、ヒドい作品も世の中にはあるだろうけど、そういう作品でさえも、私は、決して書く資格はないとは思わない。どんな人間だって、生きる資格はあるのと同じで、そういう文章でも書く資格はあるとは思う(読まされるのはたまらんが)。

ただし、人間も、さすがに殺人などを犯せば、存在が許されないこともあるのと同じで、文章も、他人を傷つけたり、迷惑がかかれば別である。(だから読んであげるのがちょっとばかり苦しいくらいは、ホントは大目に見てるのよね。私がブツブツ言うのは、せっかくの言いたいことが伝わってこないのが残念なだけよん)

そして、生きている限り、誰かの役に立ちたい、認められたいと思うのと同じで、たぶん文章も、みな、きっと誰かのために書くのだろう。そして、その人が読んですごく喜んだら、せめてお礼がしたくなって、つい金なんかも払っちゃうこともあるかもしれない。だから、私なんかは、「文章で稼ぐ」ことは、「人に喜んでもらって、お金にもなっちゃうかもしれない、わかりやすいサービス業だな」と思っている。「文学がどうのこうの」というのはわからんけど、とってもシンプルな問題だと思うのだが、どうなんだろうな。

まあ、どっちにしても、私は「文学とは何か」という質問には答えられないので、(だって大学も、文学部じゃなかったし)あんまり難しい質問をしないように。
(でも「小説とは何か」なら答えられるぞ。「文章で書いたお話」だ。どだ、この解答)

10/14/2005

小説専攻科の生徒数、増加

10月13日(木)
終日、外出。小説講座の事務所には入れず。

朝からバタバタしていて、洗濯をしたのに干す時間がなく、あわてて外出。ううう、ピカピカの太陽が口惜しい。うちのように小学生のガキが3人もいると、晴れているのに洗濯物を干せないと、なんだか「ものすごーい大損失」をした気になるのだ。まあ、でも、かつて双子の大量の布オムツがあったことを思えば、それでもだいぶ減ったんだからなあ。

最近、8時頃には外出しているので、朝のラジオなどもゆっくり聞く時間がない。月曜から金曜まで、講師のかんべむさし先生のラジオ番組「朝はミラクル」があるのだが、今は、ほとんど7時台しか聞けていない。毎日やっていたラジオ投稿もお休み中。双子もなぜか早起きになり、朝はますます騒がしくなったので、以前みたいに、6時に起きた上の息子とゆっくりとコーヒーを飲んで……というわけにいかなくなったから。残念。ああ、平和な朝が欲しい。先輩の働くママに「あと10年がんばりなさいね」と言われた。あと10年かあ。

専攻科の入学申込書を整理していたら、定員15名のところ、倍の30名に到達していた。専攻科は、30人を越えれば2クラスに分けると宣言していたので、これで2クラス制実施である。うーん。意外と多かったなあ。ありゃりゃ、本科は、例年通りの人数だけど、思いもよらず、専攻科だけはかなり増えてしまったわ。

とはいうものの、「都合により、今年はたぶんほとんど出席できません」という人が少なくとも4名いるし(専攻科の学費はかなり安いので、こういう人がけっこういるのである)、どうやって2クラスに分けたらいいか、思案中。レベル別、入学年度別、ジャンル別? うーん、ミステリー専攻クラスとかにしますか? まあ、どれくらいの量の作品が提出されるかも予想がつかんので、またアンケートでもとってから考えようっと。

昨年度の目標は、実は、「長編を書こう!」だったのだが(私が個人的に秘かに決めてただけ)、今年の目標は、「賞金をとろう(学費の元をガッチリとろう!)」である。(まあ、今回も、個人的に秘かに決意しただけど。でも、このブログは専攻科の人が読んでいる確率が高いからな)

まあ、大きな新人賞をとれば、一気にオツリが来るが、小さな公募でチマチマと稼ぐ人もいるし、いろいろである。もともと忙しい社会人が多いので、あんまり小さな賞はさほど推薦してなかったが、ちょっと方針転換。とは言っても、「長編にかかりきりで、短編などはムリ」なんていう人が多いだろうけど。でも、こっちも気楽に書いてみようね。気晴らしになるみたいだし。また「今年は、仕事が忙しくて、長編の公募はムリ」という人は、この機会にチマチマ小さな賞で稼いでくだされ。去年も、大きな新人賞の受賞者がいなかったけど、5〜6万程度なら稼いでいる人もいるみたいだしね。まあ、こんだけ生徒数がいれば、今年は、ぜったい誰か新人賞ゲットだな〜(私は楽天家)。

夕方、制作会社で働く知人から電話。人の紹介の依頼らしい。ちょうど梅田に出る用事もあったので、明日、一緒に昼食することにする。

10/13/2005

小説、夢の世界へ連れてって

10月12日(水)
午後から小説講座の事務所。

ショートショート大賞の下読み原稿を選考委員の先生方に郵送。結局、下読みの人たちが選んだ14編に、私が4編を追加して、あわせて18編にする。だいたい13〜15編くらいを残すはずなので、ちょっと多いのだが、全体にレベルが低いので、ドングリの背くらべ状態。どうにも選びにくいのだった。まあ、うちのコンテストは5枚でわかりやすいから、あんまり読み落としはないだろう。というか、今回は全体的にものすごく低くて、「ちゃんと日本語になっている」「とりあえず内容の意味がわかる」というレベルだけで、たぶん下読みを通過してます。

じゃあ、残った作品は、どうなんだというと、まあ、そうなんだという感じの作品が多いのである。実を言うと、専攻科では、コンテストの選考の内容確認をしてもらう意味でも、原稿をチェックしてもらうことが多いのだが、はじめてコンテスト応募作を見た生徒さんはたいてい驚く(ちなみに、うちのコンテストは応募資格の限定はないので、小学生から80代まで応募があるが、専攻生だけは応募できないことになっている。まあ、世の中に「公募」はたくさんあるし、どっちみち新人賞狙いの人ばかりなのでたいした問題ではない)。教室では見たこともないくらいレベルが低い作品が多い。私は、他のコンテストの下読みもやったことがあるが、全体の3分の1は正直、論外である。一般のコンテストには応募資格があるわけでもないから「意味がわからない」とか「日本語として読めない」というものが混じっているのだ。

まあ、コンテストの選考は、選考委員の先生にまかしてあるので、私は、下読みの結果だけなのだが、今年のテーマが「夢」だったので、少し危惧はしてたのだった。というのは、うちのコンテストは、今年で7回目なのだが、第1回目のテーマが「卵」だったのだ。で、その時、やたらと多かったのが「私は、作家の卵です。がんばってます」という内容の作品だったのだ。

「え、それ、小説? エッセイじゃないの?」と思うでしょう? でも、エッセイじゃないわけ。「ショートショート」コンテストだし、わざわざ「オリジナルのフィクション作品」とまで規定してあるんだから。だから、これはエッセイじゃないんだよね。フィクションなんですね。たぶん。

で、今回が「夢」だったので、
「また、『私の夢は、作家になることです』っていう作品がいっぱい来るんじゃないだろうな」
と思ってたら、はたしてはたして……はい、けっこうありました。いやはや。

しかし、ちょっと考えてみればわかると思うんだけどな。
アナタが「作家になりたいかどうか」は、少なくともコンテストの場合、読む側にはまったく関係ないんだよねえ。コンテストで見られるのは、ただ「作品」だけ。まあ、私の場合は、小説講座もやってますので、「がんばってます」なんて手紙が添えられていたら、つい思い入れして読んでしまいますけど、普通は、こういう手紙も下読み段階で廃棄されるから、手紙なんか、添えなくてもいい。そんな手紙を書くくらいなら、作品をもう一度、清書するとか、もう少し手を抜かないようにした方がいいと思うよ(推敲してない作品がやたら多いんだなあ、これが)

まあ、そういうわけで、コンテストの下読みなんかをすると、「何か言ってあげたい」という気がすごくするのだけど、それはできないので、ちょっと不憫。なぐり書きみたいな作品なんかは、本人も応募したことを忘れているんじゃないかと思うので、まあいいんだけど、小学生だとか、ヘタなりに一生懸命に書いている作品を見るとちょっと複雑。生徒さんなら、作品を見ても、直接、何か言えるし、それで落ち込んでもフォローもできるけど、コンテスト応募作品は、それきりだしなあ。

でも、やはり「作家になりたい」と長々とした手紙をつけて応募されてきた方に、「だったら、ちゃんと作品を書いてね」と言いたい気はする。小説が好きで、本当に「人にも楽しく読んでいただきたい」という気持ちがあるのなら、しっかりした作品を書くようにしようね。どんなにヘタでもちゃんと努力して気持ちがこもっていれば、どんな文章でも、まだ読める気がするんだけど、その努力が足りない、というか、あまり読む人のことを考えてない人があまりにも多い。

まあ、もしかすると、本人は、むちゃくちゃ努力してるのかもしれないけど。その努力が、「ひとりよがり」な「カン違い」した努力ではないことを祈ります。

そのために、そりゃ、かなり読書もしなくてはいけないだろうし、いっぱい書かなくてはいけないだろうけど、そんな勉強は大変という人は、そもそも作家さんは向いてないだろうし。だいたい「映画もいっぱい見て、小説もいっぱい読んで、たくさん書きましょう」というのは、他人から客観的に見れば、勉強でも何でもなくて、それだけで相当な「遊び人」である。「勉強」だと思えば大変だけど、実際、小説が好きな人は、そんなこと楽しくやれるはずだし、実際、専攻科の人たちは、けっこう楽しくやっている(よね?)。だから「楽しい小説講座」なんですよ。いや、ほんと。

余談ですが、私の両親は、まったく娯楽小説を読まない人なので(純文学系は読む)、ミステリだの、SFだの、ホラーだの、ファンタジーなどという小説は、「なんや殺人とか、宇宙人とか、魔法使いだとかの子供だましのアホな小説らしいわ」だと考えているようです。で、そういう小説を大量に買いこみ、「これも仕事のうち」と大量に読んでいる私を「お気楽な人間」だと思っている。ま、映画も、アニメも、「これも仕事、仕事」と言って観てますんで、実際、自分でもそうかなと思うけどね。

考えてみれば、若い頃、演芸場(旧うめだ花月)に勤めていて、よくこういうお客さんがいたんですね。当時は、団体客が多くて(当時は、客席数800)、地方の農協の婦人会とかが慰安旅行に来ることが多かったんですが、けっこう年配の人が多くてね。そのおばあさんたちは、どうやら大阪に来るのも、一生に一回か二回らしいんですね。まあ、ずっと生まれ育った地域で住んでいて、あんまり旅行もすることは滅多にないんですね。「旅行なんて、そんなお金もったいない。とんでもない」ってわけで、地方の農家には今でもそういうおばあさんがいますけどね。

で、「テレビで観たことがある漫才師をナマで見れた。よかった。冥土のみやげになる」とか言うわけ。そういうお客さんが割と多かったんですよ。で、そういうお客さんが毎日来る。

つまり、働いているこっちは、毎日だから、それが「日常」なんだけど、お客さんにとっては「非日常」。まあ、ハレの日なんですねえ。そんでもって、それ、一期一会なんですよね。だから、やっぱり努力しないといけないんだなあ、と思ったんですね。まあ、ディズニーランドじゃないけど、夢の世界を維持するのは、けっこう努力がいるんですよね。でも、見ていただくのが商売なんだから、笑顔笑顔で、それが仕事。でも、それがわかったら「ああ、努力してもしんどくないってことがあるんだな」と思ったんですねえ。うれしい顔されたら、こっちもうれしいじゃないですか。

漫才コンビがロビーの裏で、熱心にネタあわせをやっているのを見て、そんなことを考えたりしましたね。「ウケたい」から努力するわけだけど、それは「努力しなくちゃいけない」からではなく、「ウケたら、うれしい」からで、それさえあれば、「なんのために、オレはこんなことやってるんだ」なんて悩みはふっとんでいくんじゃないのかなあ。そうなれば、たぶんそれ以上ややこしいことは考えなくてもいいんだよねえ(まあ、それでもどんなプロだって、悩みがない人なんていないだろうけど)

そういや、漫才作家の先生も言ってましたしね。「思いっきりウケたら、劇場全体がホントにドドっと揺れる」んですって。それを一度でも体験したら、もう「お笑い」を書くのはやめられなくなるんだって。

きっと、その瞬間、その人は、創作の神様に魅せられたんだろうなあ。

思うに、小説も、そういうもんじゃないのかなあ。やっぱり誰かに読んでもらって、夢中にさせるのが快感なんじゃないのかなあ。だから、小説って、たぶん書きたいことをただ書けばいいわけじゃないけど、でも、書くための努力がツライだけってことないと思うんだけどなあ。たぶん読んでもらっての快感があるだろうしね。いや、ホント。

10/12/2005

まだまだ生徒募集中だよ

10月11日(火)
朝から小説講座の事務所。夕方まで事務作業。

あいかわらずバタバタ忙しい。入学願書の締切日だけど、資料請求もまだ続いているので、受付期間は延長するのだった。とりあえず、入学式まではまだ入学申込を受付けます(お友だちをお誘いのうえ、どうぞご入学ください)。
まあ、なぜか例によって、「来年、必ず入りますので」という人が多いのよね(笑)、来年のカリキュラムはわからないんだけどなあ。ご出講の講師は、皆さん生身の小説家でして、今年とまったく同じカリキュラムで来年やるとは限らないんですよ。注意してね。

ちなみに、うちの講座では、専攻科の学費がかなり安いので(年3〜4万という驚きの低価格)、本コースを卒業してから、専攻科のクラスに進学する人が多い。毎年、4割から過半数の人が専攻科に残る。専攻科は、本コースの講義も毎週好きなだけ何度でも参加できるし、私がいうのは何だが、かなりオトクなクラス。作品指導も、原則的に受け放題。自分が書けるなら、長編でも中編でも、何本でも指導が受けられる。

ところで、この専攻科の入学資格だが、「エンターテインメントノベル講座の卒業生または講師推薦者」ということになっている。つまり、誰でも入れるわけではなくて、一応の「入学資格」があるのである。といっても、卒業生なら、選考はなくて誰でも入れるのだが、いきなり専攻科に入る場合は、講師推薦が必要ということになっている。一応、そういう選考基準があるわけだ。でも、本科じゃなくて、「専攻科に入りたいんですけど」という電話をもらうことはけっこうある。

こういう人は、たいてい「作品指導の回数が少ないんじゃないか」とか「講師の指導はちゃんとしているのか」とか、けっこう細かいことを言い、「専攻科のレベルが知りたい」なんてことを言う。で、よく話を聞くと「今まで一本だけは書いた」くらいのものらしく、正直、あまりレベルが高いとは思えない。さらに、人によっては、「実は、小説は今まで書いたことはないんだけど、できれば専攻科へ」なんてことを言うので、思わず受話器を持ちながら、ズッコケそうになる。まだ一回も書いたことがないのに、もう自信満々か〜。その絶対の自信はなぜなんだ〜。根拠がわからんぞ〜。

で、「まあ、専攻科を希望されるなら、とにかく作品を送ってくださいね」というのだが、送ってきた試しがない。送って来てほしいんだけどなあ。待ってるのに。

先日も、メールでこんな質問がきた。「作品指導の回数が足りないんじゃないか」というので、すでに書き貯めたものがたくさんあるのかなあと思ったら、「小説はまだ一本も書いたことがない」んだとか。「でも、シナリオの学校へ通ったことがあるので、シナリオは書ける。だから、とにかく小説の書き方だけが知りたい」らしいのである。

これは、ちょっと困ってしまった。どうも、この人は、小説にも、まるでシナリオみたいに、小説にも「ト書き」の書き方や「シーンの柱」の立て方とか、決まったフォーマットがあって、その形式を習えば、小説が書けると思い込んでいるらしい。こういう場合は、小説とシナリオの違いを根本的に説明しなくてはいけないから、メールだけでカンタンに説明するのはちょっと大変である。

まあ、長々と説明するのは面倒なのだけど、カンタンにいうと、小説はシナリオみたいな形式がないのである。表現の自由度がきわめて高いわけで、だから「形式」だけを先に覚えるというわけにいかないのである。この人が通っていたらしい某学校は、10枚のシナリオ作品を何度も書かせて指導するというシステムをしているので知られている学校だが、これはシナリオに関しては有効な方法だが、小説でこれをやるのはちょっと難しいかもしれない。というか、小説の「形式」は、その作品によって、それぞれ変わる。わかりやすく言うと、小説には、たぶん作品の数だけ「形式」も無限にたくさんある。だから、たぶん形式だけをマスターするというのは、小説ではあまり意味がない。まあ、そりゃ、基本的な書き方の問題はあるけど、内容やテーマやストーリーと言ったものを棚上げにして、「書き方だけを先にマスターする」なんてことがちょっと難しいのだ。

ってことを説明したいのだが、どうもシナリオを習っていた人は、このことを理解してもらうのが難しい。カンタンな違いだと思うのだが、どうもピンとこないらしい。でも、小説とシナリオは、もちろん似ているところもあるが、原則的には「別物」である。シナリオは、「映像の設計図」だから、最終的な「完成品」ではないし、実際、プロの世界は仕事のやり方もだいぶ違う。だから、シナリオが書けるからと言って、即、小説が書けるかというと、そうとは限らない。まあ、本人もそれはわかっているみたいなんだけど、なぜかこれは説明は難しいのである。シナリオは形式があるのに、小説には決まった形式のようなものはない。なんてことを聞くと、もしかすると「がっくり」しちゃうのかもしれない。ちょっと、わかんないけど。

でも、これと決まった形式がないからこそ、表現は自由だし、だからこそ学ぶべきテクニックもたくさんある。小説なら書けるってことも山ほどあるんだけどな。
でも、なんでシナリオから小説に転向する人がこんなに多いのかな。

ところで、この人には、丁寧なメールを返したんだけど、それっきり返事はなかった。もし入学してくれたら、それくらい、ちゃんと丁寧に説明してあげるんだけどなあ。

でも、まあ、小説講座では、一年間、わりと丁寧に指導するので、こういう最初からあまりカン違いしている人は、指導の手間がやたらかかっちゃうだけなので、無理に入学してくれなくてもいいけどなあ。どっちみち「作品は書かないがプライドは高い」だけだと無理だろうしなあ。プライドはいくら高くてもいいんだけど、書いてもらわなくちゃなあ。
(ああ、でも、こういうことばっかりやってるから、商売気がないと言われるのかなあ。でも、その方が良心的なサービスだと思うんだけどなあ)

でも、ある電話では、うちのコンテストで賞金をとれば「入学してやってもいいが」と言う。まるで、もう入選は当然だというみたいに。なんで、そうプライドばかり高いかなあ。

さて、夕方、夫がどういうわけか、ケーキを買って帰って来た(たぶん結婚以来、はじめて)。
どうも今日は、私の誕生日だったらしい。

10/11/2005

閉じた世界の小説が語ること

10月10日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝から天気悪く、どんよりした休日。祝日だが、子供たちは夕方4時からスイミングの練習だし、天気もしっくりこないから遠出をする気にもならない。この秋は、『恐竜博』と『ひらかた大菊人形』(今年が最後らしい)にも行きたいけど、どっちも始まったばっかりだし、まだ混んでいるだろうし。

結局、ほとんど家で過ごし、マーラーを聴きながら、運動会のビデオチェック。冬に備えてパンジーを買って来て、玄関先に植える。夏野菜のナスとピーマンも抜いてしまってもいいんだけど、まだ小さい実が残っているのだった。

ところで、ビリー・ワイルダーの『情婦』のDVDかビデオを探しているのだが、どこにもない。今日もあちこちのレンタルビデオ店をかけめぐる。やっとDVDを見つけて借りて帰るが、帰宅後、家で見ていたら、「使用人の証言」の部分で画像が止まる。どうも破損しているようだ。うーん。前に借りたビデオも、一部、破損していたんだけどなあ。なんでなんで。

こうなるとちゃんと見るには買うしかないのだが、これは4千円以上するからなあ。で、ネットで検索していたら、10本作品が入った「ビリーワイルダー・コンプリートDVDボックス」が売っていて、26000円ほどらしい。ちょっと悩むところ。どうしようかな。

ところで、小説というのは、一人でコツコツ書くものなので、人によっては、人間嫌いとか、社会との接触を拒んでいるようなイメージがあるらしい。が、それはむしろ反対なんじゃないかな、と私は思っている。小説を書くには、社会現象だとか、人間観察だとか、技術革新だとか、宇宙でも歴史やでも、何でもかんでも関心をもつような好奇心が必要な作業だったりするからだ。確かに、小説を書くような人は、やっぱりどっか「人見知り」をするようなタイプの人が多いが、それでも本当の意味で「人嫌い」ではない。本当の「人嫌い」なら、たぶん小説を書くのは無理である。

ただ、どうも小説コンテストの作品の中には、「どう考えても読まれるのを拒否しているかのような作品」があるような気がしている。応募してくるくらいなんだから、読んで欲しいんだろうとは思うんだけど、なんというか、自分からコミュニケーションを拒否したような作品があって、こういう作品には、どこかに強烈な「人間不信」というか「人嫌い」の臭いがする。

ちょっと説明が難しいのだが、こういう作品は、作品全体がなんだか「閉じている」のである。誰かに読んでもらおうと思って書いたとはちょっと思えない。技術的には必ずしもヘタではなかったりする。だいたい私は、文章というのは、たとえヘタでも「伝えよう」と思うものは、何となくわかるような気がしている。ヘタなら、それがうまく伝わらないだけで、何かしらぼんやりとはわかるものである。

ところが、なぜか最初から文章によるコミュニケーションそのものに懐疑的な作品としか言えないような文章があって、こういう作品は、たぶん最初から作者が「ただ自分のためだけに」書いていて、読んでくれる他人をこれっぽちも信じていないから、読むとものすごく違和感があるのである。

もしかすると、こういう作品を書く人は、これはネットとかにいるようなタイプの人なのではないのかなあ。ネットには、実社会でうまくいかないことがあるような人が、そのバーチャルな世界で自分の枯れそうな魂を補うために、何か仮想敵を作り上げて、不毛な攻撃を繰り返していることがある。こういう、攻撃のための攻撃を繰り広げているのを見てしまうと、私はいつも「末期の学生運動家」を思い出してしまう。私が大学の頃は、学生運動の残り火がかすかに残っていて、私は個人的になんとなく少し接触があったのだが、その頃の活動家は、「もはや滑稽で、せつないほどの思い込みタイプ(勘違いな善人)」か「わかってて面白がってやってる悪意タイプ(無邪気な極悪人)」などがいて、どっちみち
「自分のことはさておいて、他人を批評するのに全エネルギーを使う」というタフな人ばかりなので、私のような体力のない人間は、関わると大変ややこしい人たちなのだった。

思うのだが、どんなに他人を非難しても、それでイコール、自己の正当性が証明できるわけではない。それとこれとは別である。たとえ「アナタが悪い」のを証明しても、それだけは「だから、私が正しい」は、証明できないはずなのである。これくらいは、ちょっと考えればわかりきったことだと思うが(あまりに細かい批判をすれば、それが同時に自分自身にも降り注ぐからタイヘンだ)。

もしかすると「寂しいからどんな形であれ相手をしてほしい」のか、それともホントにその単純な事実に気がつかず、それで自己正当性ができると本気で思っているのか。どっちかなんだろうか。まあ、どっちでもいいけど。
(ちなみに、ネットのおかげで「トイレの落書き」も減って、拡声器も減ったという前向きな意見もあるらしいけど、これはどうなんでしょう)

そういう人みたいに、小説の世界に逃げ込もうとしているのだろうか。よくわからないけど、なぜか異常なほど、極端に作品が閉じているものを見ると、なんとなく、切なくなる。

さすがに小説講座の生徒さんは、わざわざ学費を払って「うまくなりたい」「人に読んでもらいたい」という気がある人ばかりだから、教室ではそんな作品はまず見たことがない。提出された作品は、みなに読まれるから、自己完結しようがないかもしれないけど。それに講師も生徒もそれなりに「熟練した読み手」なので、どんなヘタな作品でも書き手が何を考えて書いたか、そこそこ見抜くのはうまい。入学して一年もたてば、まだうまく書けなくても、読み手としては結構ベテラン揃いになる。作品指導も公開指導だし、もともとそんな作品は提出できないのかもしれない。

たまに電車の中や、あるいは道を歩いていると、「大声で『独り言』を繰り返す人」と出会ったりする。一般的には、普通、電車の中では、長々と大声で『独り言』を言ったりはしないものなので、いわゆるちょっと「おかしい人」なのだが、どういうわけか、こういう人の9割以上は、内容を聞くと独り言のテーマがネガティブである。「小泉さんに怒っていた」り、「若者はケシカラン」だったり、なにかしら「ゆるさんゆるさん」と批判的な言葉を繰り返している人がなぜか多い。ごくまれに、本当に夢みたいなことを言っている人がいるが、私の経験では、どうも9割くらいは、なぜか世間に対して怒っている。なんでなんだろう。

小さい頃からずっと不思議に思っていた。そういえば、小さい頃、近所に「おかしなオジサン」がいて、この人は小さい子供を見ると、理解できないようなことを言って、怒鳴って追いかけてくるという、ややこしいオジサンであった。でも、子供というのは残酷
というか、男の子などは、わざわざこのオジサンの家に行き、「きもだめし」とか言って、庭に石を投げ込んだりするのである。すると、必ずこのオジサンが怒って追いかけてくるのだが、実はかなりの高齢なので、足の早い小学生の男の子たちをつかまえることはできないのである。

このオジサンは、たいてい一人で庭で叫び続けている。その言葉を聞いてみると、「日本帝国をダメになる」「けしからんバカども」「虫ケラども」だったり、どうもこのオジサンは、日本国の将来を憂いており、誰かしら腹をたてているのである(今、思うに、何かおそろしい従軍経験があったのかもしれない)。とにかく見えないものに対して、すごく怒っていたオジサンだった。

大学の頃は、心理学も必修だったので(社会学部)、精神疾患やら、理論やらもそれなりに知識くらいは学んだはずなのだが、それでもあいかわらず、ずーっと素朴な疑問をもっている。なぜ独り言をいう人の多くは、たいていネガティブなことをいうのだろう。なぜか怒っている人の方が多い。まるで、世の中はすべて悪だというように。

おそらく自分の存在があやういからだろう、とは思うのである。圧倒的な自己破壊のストレスが継続的にかかった状態になると、自己の存在があやうくなって、「言葉」が内部で循環を起こしていく。そして、言葉は、他者という存在とゆっくりと遊離しはじめていく。そして、遊離した言葉は、ガン細胞のように、増殖を始めて、精神を侵す。最初は、健康な環境に置かれればすぐに修復されるだろうが、その状態が続ければ、少しずつ大きくなっていく。

どんな言葉でも、こだわりすぎると強力な呪文に変わる。それは、他人も攻撃するだけじゃなくて、使う人間自身に大きなダメージを与える。だから、言葉を操って延々と文章を書くのは、けっこう怖い作業なのである。ただし、幸いエンターテインメント系の小説を書くことは、危険なことはほとんどない。というのも、エンターテインメント系の小説は、基本的に「他人を泣かせたり、笑わせたり、びっくりさせたり、喜ばせるためのもの」だからで、他人へのサービスのために書くもので、自分のために書くものではないからである。少なくともエンターテインメント系の小説では、他人とのコミュニケ
ーションを拒否しては成り立たない。だから、たぶん遊離しにくいのである。

確かに、他人とのコミュニケーションを蹴ってしまえば、これほど危ないジャンルはない。殺人も幽霊も宇宙人も吸血鬼も忍者も、危険になりかねない。もし、ホラーの好きな殺戮に魅せられた人が現実感のない空間に暮らし始めたら危ういかもしれない。

でも、閉じた作品の多くは、なんだか私小説風である。そこに空想力はほとんどない。もしかすると、空想力の翼がなくなったら、逃げ場を失った精神は、その場でうろうろしはじめるのだろうか。

とにかく、コンテストの下読みなどをすると、たまにそういう臭いのする作品が混じっており、それはぷんと「こごもったような、気持ち悪いような臭い」をさせている。私は、そういう作品を見つけると、なんだか、せつないような、哀しいような、そんな複雑な気持ちになってしまうのだった。

10/10/2005

小説講座の生徒さんたちと一泊

10月9日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

二日目。朝、ログハウス前のレストランで、しゃれた朝食。昨夜は、ほとんどの人が夜1時半には眠ってしまったので、朝まで起きていて、だらだらおしゃべりをしていたのは、私とNさんだけ。そのNさんは、昼には用事があるそうで、朝食後ほとんど眠らないまま8時にタクシーを呼んで大阪に帰ってしまった。昼食会があるそうだ。タフだなあ。

朝食後、裏山にちょっとハイキング。男性組は「留守番しとく」と言って(二日酔いするほど飲んでないはずだが)、女性だけ4人(Sさん、Uさん、Kさん、私)で、ちょっとお散歩。片道30分くらいの小さな城跡なので、ほんと気軽な散歩程度なのだが、ほんの少し登った所で、残りの3人が「クモの巣がっ」と叫びまくる。まあ、私もクモの巣は好きではないし、さすがにでっかいクモは触れないが、子持ちでハイキングくらいはよく行くので、棒ではたき落とせばいいだけだし、これくらいは平気。なにせあんまり小さな山なので、ハイキングというほどでもないし、朝の散歩程度である。世間に「虫がキライ!」という女性がいるのをすっかり忘れていた。ごめんごめん。

結局、一番前で、巣をはたき落としながら登る。30分ほどで展望台に到着(たぶんクモの巣を丁寧に落としてなかったら、子供でももっと早く登れる)。高さは低いが、周囲が広けた盆地になっているので、視界もかなり広い。光秀軍に落とされた城跡らしい。地図を持ってこなかったのをちょっと後悔。下の方を眺めてみると、ちょうどお祭りがあるらしく、田んぼの中の屋敷の前に、小さな御輿を担いでいるらしい集団が小さく見える。街道筋が見えるので、あわてて頭の中に、乏しい知識でなんとか歴史の地図を広げようとしたが、予習が足りなかったので、ほとんど何も浮かばない。どこへ行くにもたいてい地図を持っていく私としたことが、これは迂闊である。

10時にロッジを引き払い、駅前へ。近くの八幡神社でお祭りをしているというので、そのあたりを散策することに。ちなみに、Sさんは、「私って、旅行に行くと、たいていお祭りやってるんですよね」という雨女ならぬ「お祭り女」なのだそうだ。

地元の人たちが出店しているらしい色んな店あり。古道具やら、野菜やら、まんじゅうやら。織田の紋章を書いた布がかかった小さなステージは、人が一人二人立つのがやっとくらいである。Uさんは店のおっさんにつかまり、黒豆茶を「安かったから」と大量に買い込んでいた。青年団によるお店で猪ラーメン(チャーシューが猪肉)を買って食べて、黒豆の枝豆を食べてから(これは無料。旨い)、ついでに近くの観光。あいにく陣屋跡は改装中。「柏原町歴史民俗資料館」などをのぞく。ここは、田ステ女の資料館も併設。6歳で作った俳句がやたら有名な人である。私は、ステ女と言えば、教科書に載っていたこの「雪の朝ニの字ニの字の下駄のあと」の俳句しか記憶になかったので、この他にどんな俳句があるのかなと思ったが、やっぱり他の俳句は記憶に残らなかった。あと、芭蕉と同じ「貞門派」だったというのだけは学んだ。あとはさっぱり。夕方、解散。5時過ぎに帰宅。

小説講座は生徒募集中。専攻科は、秋休みです

10月8日(土)
午前中から1時まで、小説講座の事務所で事務作業。本日は、夕方の講義はなし。

昼すぎに待ち合わせして、第7期の生徒さんたちの旅行に同行。旅行といっても、2時に集合して、現地には4時過ぎには着くという近場。ログハウスで一泊してバーベキュー。

まあ、小説を書くタイプの人は、アウトドアタイプが少ないのだが、ボーイスカウトOBで、キャンプ慣れした男性のUさん(50代)と集団行動慣れ(?)したAさん(なにせ教員)はわざわざ「下見」したそうで、バーベキューの準備もばっちし。私は、仕事が忙しくなければ、朝早くに家を出て、もう少し北側の山を一人で登ってから、現地に直接行こうかと思っていたのだが、仕事がまだ残っているので、断念した。というか、晴れていれば、仕事をほりだして行ったと思うけど、あいにくの雨なのだ。で、1時まで事務所で仕事してから、大阪駅に2時に集合。

小説講座の生徒さんは、みんな割と仲がよくて、たしか昨年もどっかの同期が集まって、旅行に行ったみたいだ。なんか「おみやげ」をもらった記憶がある。私は、毎週土曜日が仕事になるので、あんまり一緒に行ったことがない。そういや、バーベキューだけは、たしか一昨年に一緒にやったような。近くの鶴見緑地でやるというので、自転車で参加しに行ったのである。しかし、年齢もバラバラで、男女混じって変な話ばかりしている連中だし、たぶん周囲には、よほど妙な団体だと思われていることだろうなあ。

バリアフリー対応で、おしゃれで広いログハウス(正直、今までに泊まったログハウスの中では一番きれい)。共同風呂もそれなりにきれい。大阪駅からたったの1時間半くらいなので、案外、来る機会は少ないかもしれないが、バーベキューも、むこうで材料カットしてくれて、道具も全部レンタルしてくれるし、目の前にレストランもある。駅からはタクシーで10分だし、日頃インドアな人にもオススメ。アウトドアな人も、あっちの方面の山登りのついでに、帰りに一泊というのも面白いかも。

仕事と小説

10月7日(金)
朝から小説講座の事務所。昼から外出。

午後は、小説講座以外のお仕事。お役所関係。夕方、自宅に戻り、夕食。夜7時半からは、小学校のPTAで広報の委員会。PTAだより用の運動会写真を選ぶ。夜更けの小学校で、9時半過ぎまで作業。

しかし、お役所関係の仕事は久しぶりで、驚くほど打ち合わせが長いので疲れる。公務員って、責任が伴う「リーダー制」より、時間がかかっても共同責任をもつ「合議制」を選択したがるもんなのかな。でも、外注先の業者まで時間がかかる会議に出席させるのがいいのかどうか。作業効率がもう少し高い方法を考えた方がいいと思うんだが。一人ずつの給料もかかっているわけだし。ちなみに、会議は1時間あたり労働時間で換算しなくてはいけない。以前、取引先の経営者の方に「企業では、たとえ会議もタダではない。ヒラ社員は5千円。課長クラスだと時給1万のコストがかかるものとして、会議の回数を計画しなさい」と言われたものだが、お役所はなぜか大勢集まるような会議が好きである。みんな真面目で熱心な人ばかりだが、何人もの人間を5時間近くも拘束するような会議は、数十万のコストがかかっているのは確か。ムダとは言わないが、もう少し効率よくできるハズだと思うが、それは誰の仕事でもないらしい。このあたりがお役所的である。

ところで、今まで広告の仕事をしていて、いろんな企業の人と出会ったが、「仕事ができる方ではないが、給料分くらいは働いているよ」という人がいるけど、経営者側から見ると、労働コストというのは、自分の給料以外にもいろいろあって、たとえば社会保険の企業負担分だとか、あるいはオフィスの広さだとか(人数が増えれば、机やパソコンなどのコストがかかる)がかかるので、会社規模にもよるけど、だいたい給料の三倍くらい稼ぐ社員が「ほどほどの社員」と言われている。だから、実際には、給料分だけ働いているという人は案外少ないもんである。給料以上に働いているか、給料分も働いていないか、どっちかである。中には新人社員とか、まだ役に立たない人を別にして、ある程度以上になると「ほどほどに働く」なんてのは難しい。まあ、たぶん、たいていの人は働きまくってますね。

とくに今は不況だし「ほどほどに働いて、あとは趣味の時間でも」というのが難しくなっていて、小説講座の生徒さんたちも、社会人が多いので、小説を書く時間を確保するのが大変みたいである。「土日も休みがなくて」という人もいる。だから、「寝る時間を削って」とか、「朝早く起きて」とか、どうにかして、小説を書く時間をつくり出さないとなかなか書けないようだ。習慣化してしまうと書かずにはいられなくなるのだが、やはり仕事が忙しいと時間を作るのが大変みたいだ。小さい子供がいる家庭でも、「作品を書こうとして、子供を早く寝かしつけようとしたけど、疲れてそのまま一緒に寝てしまった」なんて人もいる。

でも、「気分が切り替わるから」とか「書いている時間だけは、仕事のことが忘れられる」とか、「主婦だから自分の時間がないけれど、小説を書く時間だけは自分の時間」などと、小説を書く利点もあるのかもしれない。とにかくクタクタになるまで仕事をして、それでも小説を書いてみたいという人には、それだけで何か伝えたいことがあるに違いない(ま、それがうまく伝わらないにしても)。

でも、仕事も、小説も、誰か他の人を喜ばせようとしている。たまには(しばしば)うまくいかないこともあるけど、言葉では伝わらないものを言葉で伝えようとしているのだから、仕方ない。しかし、仕事をやって、家庭もあって、そんでもって、長編作品などを書く小説講座の生徒さんたちは、ほんとタフだなあ。


10/07/2005

料理も小説も、食わず嫌いはソンをする、

10月6日(木)
朝から小説講座の事務所。来客(入学申込者)1名。

夕方、家で夕食を食べていると、娘がデザートのイチジクを「要らん」と言う。双子なのに、どういうわけか、妹の方だけ、いつも「食わず嫌い」である。どんな食べ物でも、まず最初は「要らん」と言わずには気が済まないらしい。とくに見た目が悪いような食べ物は苦手のようだ。そういや、去年もイチジクを食べなかったのを思い出す。そんなに見た目が悪いかなあ。

先日も、モロヘイヤ入りの緑色のパンがイヤだと言って食べなかった。しぶしぶ食べたら案外おいしかったようだが、すでに全部、兄や姉に食べられたあとだったので、「ひどい」と大泣きしていたが、自業自得である。そういや、さくらんぼも、「もずく」も、カニも、最初はすごくイヤがってたなあ。これらは、今では彼女の好物になってしまったのだが、毎回、食べるまでに一度は「イヤダイヤダ」と大泣きしている。で、実際に食べたら「おいしい。もっと欲しい」などと言うのだが、その頃には、兄姉に食べられた後である(うちは生存競争は激しいのである)。で、また泣く。なぜ、最初から一口くらい食べてみないのだろう。アホかいな。

食わず嫌いは、どう考えてもソンである。
「食べてマズかった」というのならわかるけど、食べる前から「キライ」とか「イヤ」というのは、馬鹿馬鹿しい。私には理解できない。好奇心と警戒心のバランスの問題なのかもしれない。そういえば、この話は前にも言ったことがあるが、私の実妹も、食わず嫌いなヤツだった。小学生の頃、給食の献立表に「黒糖パン」と書かれていて、ものすごい大騒ぎしたことがある。「黒砂糖」が大嫌いだった妹は(ぜんそく児だった彼女は、民間療法に凝っていた母親から色んなものをムリヤリ毎日食べさせられており、黒砂糖もその一つだった)、「黒糖パン」という文字を見てパニックを起こし、前日にたっぷり2時間ほど大泣きし、当日の朝も「ゼッタイ学校には行かない!」と泣き叫んでいたのを無理に学校に行かせた(当時、給食が食べられない子どもは、掃除時間になっても残されて、無理矢理でも絶対に食べさせられないと帰宅できなかった。今の小学校では、食べ残してもまず怒られることはないが)。

さすがに母も心配して、めずらしく「豪華なおやつ」を用意して待っていた。で、帰宅した妹に「どうだった? ちょっとは食べられた?」と聞いたのだが、妹は、ニヤっと照れながら小さな声で「お・い・し・かった」と恥ずかしそうに言ったのだった。結果的には「めでたしめでたし」なのだが、前日にあれだけ大泣きしたアレは何だったんだ。だから、やめましょうね、食わず嫌いは。

でも、なぜか、双子の妹の方だけは、この叔母さんの性格を受け継いでいるようだ。そんなもの、律儀に受け継がなくてもいいのになあ。

でも、いい。イチジクは。
そんなに大量に買うもんでもないし、季節限定だし。で、本人の気が変わらないうちに「そうかそうか。残念だねえ」と、さっさと皆で食べることにした。たぶん、来年も泣くんだろうな。

ところで、どんなものにも「食わず嫌い」はあるものらしい。
というか、まったく食わず嫌いがないという人もいないもので、私などは、あまりスポーツをしない方だから、ゴルフやサーフィンなども「食わず嫌い」である。やれば面白いのだろうが、どうしてもする気になれない。ギャンブルでも、競輪や競艇は(競馬とパチンコは何度かやったことがあるが)どうも最初から「したい」と思わない。まあ、食わず嫌いなのかもしれないけど。

ただ、私は「料理」や「小説」に関しては、あまり「食わず嫌い」はない。好き嫌いは多少あるけど、食べられないほど嫌いなものはない。むろん子供の頃は、嫌いなものもけっこうあって、ナスとか、椎茸、牡蠣、ウドなんかは大嫌いだった。とくに嫌いなのが、牡蠣である。これは大人になっても食べられなかった。だが、レストランに勤めるようになって、鮮度チェックのために、絶対に食べなくてはならなくなって、それで毎日イヤイヤ食べていたら(季節メニューだったので、夏場はなかったが)、そのうちにすっかり慣れてしまった。どうやら舌が慣れて、「味がわかる」ようになると、さほど嫌いではなくなるようである。

「味がわかる」というのは、「分かる」だから、分類できるということである。同じ牡蠣でも「これはマズイ」「これはウマイ」「これは新鮮」「これは傷みかけ」と分類ができるようになるということである。どうも、どんな分野でも、多少、慣れてきて「わかる」ようになれば、面白くなるもんらしい。いくらスポーツ音痴でも、プロレスでも、スケートでも、器械体操も、どうも少し見慣れてくると、ちょっと見分けくらいはつく。選手のうまい下手や、技などの見分けがつくようになると、ちょっと面白くなってくる。

もしかすると、小説なども同じで、文章が「わかる」というのは、どうも「分けられる」かどうかではないかという気がする。つまり、「うまい下手」とか「なんかこのへんが技かも」なんかが見えてきたら、ちょっと面白くなってくる。最初の方は、鑑賞者なのだが、だんだん目が肥えると誰もが批評家になってくる。そんでもって、まだまだ面白みはここで終わらない。プロ野球の中継を見て、「あほ! そこで打たんかい、ボケ!」とエラそうに叫ぶオヤジも、実際にバッターボックスに立って打てるわけではないのと同じで、見るとやるとでは大違い。やってみなければ、本当の面白さはわからないのである。小説や映画も、同じ作品を見ても、人によって、「鑑賞者」「批評家」「創作者」とそれぞれ見かたが違う。

私は、これを個人的には、「視線の違いの三段ステップ」と呼んでいる。好き嫌いで見る場合は、やっぱり鑑賞者である。だが、そのうち見慣れてきて、多少は分類ができるようになる、つまり「わかるようになる」と「批評家」になっていく。さらに、わかるようになると、それを自分でやってみたくなる人がいて、こうなると単なる好き嫌いではなく、他人の作品でも、「これは使えるな」とか「自分ではやらないけど、こういう方法もあるのか」などと思いながら見たりしている。だから、小説講座では、好きな作品の感想なんかを何気なく聞いたりしても、なんだかその人の書き手としてのレベルが少しは想像できる(当たらずとも遠からじ)。

小説も、いろんなタイプがあるので、「ミステリなんかキライ」とか「ホラー小説なんか読む気もしない」とか言う人もいる。だが、ジャンルで判断して、さほど読まないのに苦手だと思い込んでいるのは、「食わず嫌い」だから、かなりもったいない気がする。もちろん、ただの読み手ならそれでもいいけど、「ちょっと自分でも書いてみようかな」と思ったら、いろいろ食べてみるのもいいんではないかと思う。なぜなら、限られたものだけしか食べられない料理人よりは、何でも試して、色々と食べられる料理人の方が、どう考えても創造性は高い。そして、個人的な経験から言うのだが、これはけっこう楽しいのである。単なる鑑賞者に過ぎなかった時には、「好き嫌い」でしか判断ができなかったのだが、創作側にまわった途端、楽しく感じられることもあるのである。「さあ、次は、どんな手を使って、お客を楽しませてやろうか」と考えて、いろんな料理を試してみたりするのは、実は、苦しい勉強でも何でもなくて、かなり楽しい作業である。そして、今まで苦手だったものが、急に違って見えたりする。たまに、今までミステリなんかほとんど読んだことがなかったし、たまに読んでも一度も面白いとも思わなかったのに、「自分で小説を書くようになった途端、ミステリを読むのが面白くなった」と言う人もいる。

私自身、小説講座に関わってよかったなあと思うのは、好きな小説がものすごく増えたことだったりする。もともと食わず嫌いではなかったけど、今まで見えなかったことが見えるようになって、さらに楽しい小説が世の中にいっぱい増えた。これは、とっても有り難い財産である。今は、牡蠣鍋も食べられるし、冬の楽しみも増えた。(牡蠣は夫も食べないので、家では独り占め)。有り難いことである。

もう一つ、甘いイチジクを食べながら思うのだが、ホント、食わず嫌いは、ソンである。

10/06/2005

小説コンテストの楽しい事務作業

10月5日(水)
午前中から小説講座の事務所。来客2件。

東京からの受講申込者があり、さすがにちょっと驚いていたのだが、近く大阪に引っ越しをするつもりだそうで、ちょっと安心。ちなみに、今まで一番遠かったのは、名古屋から電車で40分ほどの所に住んでいた男性。もちろん新幹線通学。名古屋圏なら、日帰りができるだろうけど(彼は、友達の家に泊まってたらしいが)、東京からの夜行バス日帰り通学は、キツイだろう。
(大阪シナリオ学校の時は、演芸コースに、よく東京からの通学生がいたけど、小説講座は東京にいっぱいあるしねえ)

さて、「コンテスト」の下読み選考をお願いしていた作品のうち、半分ほどが済んで事務所に戻って来た。来週までには、全部の下読みが終わるので、毎度ながら、なかなかスピーディな選考である。うちのコンテストでは、下読みで残った原稿も、再度、私や別の人が、全部また目を通して、しつこく何度も読み落としがないかチェックし直している。下読みで残った作品の中に、もし「いい作品」があったら、それも最終選考にまわすためである(下読みは、慎重にやってます)。最終選考は、今年も、堀先生と高井先生にやっていただけることになっており、その点では、そこそこきちんとしたコンテストだと思いますよ(賞金は安いけど)。

ところで、私は、全作品、基本的に最後のページまできちんと読むことにしているが(これは制限枚数がたったの5枚だからできることで、この枚数が限度だけど)、正直、「小説講座」の生徒さんのレベルから考えると、コンテストの応募作のレベルはかなり低い。
(まあ、うちのコンテストに限らず、他のコンテストの下読みをさせてもらうと、応募作のうち何割かは、かなりヒドイ作品も混じっているみたいだけど)

まあ、毎年、応募してくださる人もいるし、私自身は、公募自体は、安上がりだし、趣味としては大変いい趣味だと考えているので、なんとも言えないんだけど、正直なところ、
「ホント、一度、誰かに、きちんと文章指導をしてもらった方がいいんじゃないのかなあ」
と、思うことも多い。

つまり「原稿用紙の使い方」とか、「日本語としての『文章』の書き方」が間違っているというパターンが多いのだ。あとは、構成上の問題とか。
(ちなみに、たった5枚の作品というのは、ラスト2〜3行がかなり重要だったりするのだが、ここがものすごくヒドイ作品もあるんですよ)

うちみたいな小さなコンテストでも、毎年毎年、応募作を送ってくれる人もいたりして、ありがたいんだけど、それがずっと同じような問題を抱えていたりする。こういう作品を見ると、「うーん、ホント誰かに一度、指導してもらったら」とつい思ってしまう。こういう作品は、小説講座の生徒なんだったら、直接、何かしら言ってあげることもできるけど、この場合、どうしようもないしねえ。

でも、ホント、一人でコツコツ書いてるのもいいけど……そりゃ、公募も「参加することに意義がある」と思っていて、「ほんと、別に上達する気もないし、賞金もぜんぜん欲しくもないわ」という人ならまあ、いいけど……もちろん、みんなが小説講座とかに通う必要はないんだけど……誰か、しっかりした人に、一度見てもらった方が絶対イイと思うけどなあ。いや、ホント。周囲に、誰か「ちゃんと読める人」いないのかなあ。ちょっと指導してもらうだけで、だいぶ違うと思うぞ。

その方が、少なくとも、上達は早いはずだと思うけどねえ。文章上のミスとか、簡単な構成上の問題点くらいなら、ちょっと文章がわかる人に読んでもらえば、簡単にわかるもんだし。それだけでグンとうまくなるはずなのになあ。アイデアがいい場合は、ホントもったいないもんなあ。(まあ、アイデアにも問題があるケースが多いみたいだけどねえ)

まあ、公募が趣味な人は、そんなことあんまり気にしないのかもしれないけど、やっぱり、どうせなら入選した方が嬉しいだろうし、やっぱ、切手代ももったいないような気がするんだけどねえ。

ところで、実は、今まで私は、コンテストのたびに、
「うーん、せめて一度でいいから、きちんと推敲してから送って欲しいなあ」
と思っていた。

だが、先日、ふと
「あ、そうか。これは、推敲をしないんじゃなくて、できないんだな」と、やっと気がついた。
「そうか。自分でわかってないから、どっちみち、直しようがないんだ」
つまり、「推敲をしない」んじゃなくて、したくても「自分自身では推敲ができない」みたいなんですな。だったら、一度、他人にみてもらわないと仕方がないもんね。

あれは、たしか、向田邦子さんだったと思うのだけど、「シナリオなんて誰でも書けます」という話をどこかの本で読んだことがある。確か、それは「ダメな作品を見て、ここがダメというのをやれば、誰でもうまくなる」という話だった。まあ、シナリオのことはわからないけど、「誰でも書ける」かどうかは別として、これをやれば、「誰でもうまくなる」のは確かかも。

そういや、小説講座の生徒さんは、自分の作品を指摘されるというよりは、「他人のフリ見て、わがフリ直せ」方式で、うまくなるのかもしれないなあ。

ただ、それもあるので、小説コンテストの下読みは、手間はかかるけど、すごく勉強にはなるし(もちろんほとんど反面教師なんだけど)、もしかすると、宝物みたいな、面白い作品に会えるかもしれないし、これはこれで、けっこう楽しい作業だと思ってるんだよね。
(いや、ホント、たとえむちゃくちゃな作品でも、応募してくれるのは嬉しいんですよ)

ただ、まあ、読んでる途中は、いつもブツブツ文句を言ってしまうけどね。だって、やっぱ、どうせなら、ちゃんと書いて欲しいもん。ほら、もう、ホント。もったいないよねえ。

10/05/2005

小説講座のカリキュラム修正など

10月4日(火)
午後から小説講座の事務所。コンテスト受付事務作業。

9月末日締切のコンテスト最終受付。入学案内の発送作業など。電話数件。
事務所に在席していないことが多いので、電話を直接受けるのが難しい。今は、ちゃんと電話がとれるのは、丁稚どんがいる火曜の午後だけ。コピーや印刷があると、ワークステーションが離れているので席を外し、来客があれば、会議室へ行くので、席を外す。電話がすぐとれる体制を作らないとは思うのだけど、当分、確実なのは、火曜日だけだなあ。皆様、ご迷惑おかけします。

入学式まで、講義はしばらくお休みなのだが、様々な事務作業がたまっている。それにしても、昨年度は、小さなコンテストで受賞した人がチラホラいるだけで、賞金が数百万クラスの大きな新人賞は一人もなし。今年度は、絶対一人くらいとってちょうだいまし。

ちなみに、初心者も多い本科のコースでは、1年間の作品課題は、短編2本、中編1本。(まあ、自由課題や教室課題を入れると、十数回くらいは、作品実習があるわけだけど)
でも、専攻科の基準は、長編1本、中編2本、短編5本です。一応。まあ、もっと提出できる人はやってくれてもいいけど。

現在、第9期の生徒募集中なのだが、ちょっとカリキュラムを変更している。8割は同じ内容だけど、2割くらい修正。(おもに教室実習のところ)。小説講座は、一応、文章教室を修了したレベルくらいの人を対象にしているのだけど、実際には、募集期も違うし、毎年、初心者の人もけっこう多い。うちの小説講座は、どうもレベルが高いらしいので、初心者の人には、少しフォローをすることにしたのである。といっても、せいぜい日本語レベルの指導だけど。

(文章教室の方は、どうしても小説だけでなく、文章一般を「広く浅く」やるので、最初から「書きたいのは小説だ」とわかっているのなら、初心者でも、「小説講座」に入学した方が正解である)

だから、ちょっと「日本語」指導の教室実習を増やしてみたのだが、まあ、実際に入学した生徒さんのレベルを見てみないと詳しくは決められない。うちは少人数だから、メンバーに合わせて、カリキュラムを組み直してしまう。とくに、後期のカリキュラムは、毎年変更している。

今年は、専門学校の方でやって人気が高かったアイデア実習も、実施してみようかなあ。まあ、希望者がいれば、だけど。専門学校と違って、小説講座の生徒さんは社会人ばかりだから、けっこう優秀な人が多いんで、あんまり初心者向けの実習は必要ないだろうけどねえ。

ちなみに、これは、7分くらいの映像作品を見て、そのストーリーを書き出し、それを換骨奪胎して別のストーリーにするという非常にカンタンな実習なのだが、比較的わかりやすくて、効果が高い作品を見つけたので、最近は、ずっとコレを使っている。この方法なら、たいていの人が、そこそこ面白いストーリーをきちんと起承転結つきで作れるので、「なかなかちゃんと完結した話が作れない」なんていう超初心者にはオススメ。
専門学校では、今年は13種類の発想法の実習をしたのだが、これが一番役にたったようだ。(グループワークも人気があるけど、効果は疑問)

帰宅後、夕食を食べてから、専門学校のレポートのチェック。全15回の講義なのだが、毎回1〜2個ずつ何かしら実習をしているので、かなりの量のレポートがある。だいたいは採点済みなのだが、最終日の試験日にまとめて返却するので、個人ごとにまとめる作業をしないといけない。ついでも採点の最終チェックもする。しかし、A4サイズで積み重ねると25センチくらいある山になってしまった。まだまだ終わらない。今週は、週末までずっと忙しい。夕食後も、しばらくのんびりできそうにないなあ。

10/04/2005

多忙な一日、ウは宇宙船のウ

10月3日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝5時半起床。7時40分から外出。夕方は、専門学校の非常勤講師、夜9時半に帰宅。さすがに疲れがたまり、遅い夕食を食べてからすぐ寝床に倒れこむ。夫が、明後日の公演のための進行表(ステージの立ち位置や照明、音響の進行を記したもの)を書き直している。明後日から2日間、ダンス公演があるらしい。また当分、母子家庭のようだな。

昨日、借りた「レイ・ブラッドベリシリーズ」のビデオを見ていたら、息子がブラッドベリの本を読みたがるので、とりあえず萩尾望都が書いたマンガ『ウは宇宙船のウ』を貸す。私も、ブラッドベリが特別好きというわけでもないんだけど、好きな作品はけっこうある。そんなわけで、ビデオを見終わってから、『キリマンジャロ・マシーン』を読んでいたら、息子が「読みたい読みたい」という。「キリマンジャロマシーンっていうのが、なんか気になるもん」というのだが、この短編はいくらなんでも無理じゃないかな。だって、登場する老人の正体がわかっても、まだ小学生の息子は、それが誰か知らないだろうから。小説は、「いつ読んでもいい」というものでもなく、読むべきタイミングが合わないと面白くないというものもあるんだけどね。

息子は、「じゃあ、わかるようになったら読むわ」と言い、学校の図書室で借りた「デルトラ・クエスト」を読む。なかなか順番がまわってこないんだそうだ。

ちなみに、「ハリーポッターは、最近はあんまり読むヤツがいない」んだそうで、さすがにあんまり分厚いと小学生にはキツイらしい。どうも、あれはハリーの年齢と同じくらいの読者を想定しているらしいが、4巻目になると読むのはほとんど女子だけなんだそうだ。男子はサッカーや野球で忙しく、やることが他にもいっぱいあるから、あんまり本など読まないんだそうだ。つまり彼は、サッカーも野球も、よほどメンバーが足りない時にしか声がかからないらしいから、一人で本などを読むヒマがあるのだな(まるで、のび太)。

私も子供の頃、さほど社交的なタイプとは言いがたい性格だった。でも、孤独は、空想力を鍛えてくれる。そして、大人になっても、本だけはずっと友達。

一方、外交的な性格で、いつも大勢のお友達と遊んでる双子の娘たちは、あまり本を読まない。というか、ほとんど昼間は家にいない。彼女たちは、たいへん愛想がよく、まだ小学2年生だが、近所のおばさんたちとの井戸端会議にさえ参加しようとするほどである。近所のうわさにもなぜか詳しい。双子のせいもあって、どうやらほとんど孤独とは縁のない毎日をおくっている。

でも、小説講座の生徒さんたちも、専門学校の生徒さんたちも、やっぱり、どっちかというと、やっぱりインドアなタイプが多い。やっぱり外交的な性格だと、一人で小説やマンガなんぞチマチマと書くヒマがないのかもしれないな。ずっと一人で何時間でも書き続けていなければ、小説やマンガなんかそうそう完成させられないもんなあ。

小説とは関係のない休日(運動会)

10月2日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝から子供たち3人分の弁当を作り、小学校の運動会。PTAの役員は、朝8時20分に会議室に集合。広報委員の私は、PTAだより用の写真撮影係である。「PTA」と刺繍のついた白いキャップをかぶり、「写真係」と書かれた黄色い腕章を腕につける。デジカメ2台をぶらさげて、朝から夕方まで一日中トラックの中を走り回るのだった。夕方まで約200枚撮影する。デジカメなので、失敗した写真なんかは、ドンドン廃棄しているのだが、やはりシロウトの腕前の哀しさ。正直、使えそうなものはそのうち10枚くらい。写真係は、全員で6名。で、みんな百枚以上撮影していると思うけど、使えそうな写真がはたして何枚あるのかなあ。

夕方は、さすがにクタクタ。子供の撮影だし、どうしても一日中座ったり立ったりしたので、太もも痛い。睡眠不足もあるんだけど、明日も一日忙しいしねえ。

小説講座の修了式、ブラッドベリ、ヘビメタ

10月1日(土)
午後から小説講座の事務所。夕方は、第7期&専攻科の合同講義。

第7期と専攻科は、本日が、最終の講義。講師は、高井信先生。第7期と専攻科の短編数本。高井先生は、すっかりスマートになっているので、なんだかまだ慣れない。ベテラン講師の作品指導で、講義はスムーズに終了。講義後は、簡単な修了式を実施。講師代表として高井先生から「修了証」を授与していただく。

第7期生の修了者は、全員出席。毎年、なぜか最後の講義に欠席する人が何人かいて、修了証を郵送する羽目になるのだが、今年はめずらしく無事、みんな手渡しできたのでホッとした。皆勤賞は、4名。(皆勤賞は、マグカップがもらえるのだ)

講義後、例によって、いつもの中華屋さんへ。最終日なのだが、専攻科へ進学する人も多いので、雰囲気は、なんだかいつもの飲み会。専攻科へ進学する人も、進学しない人も、これからも小説創作を続けて欲しいなあ。

帰宅後、高井先生に借りたビデオ5本「レイ・ブラッドベリシリーズ」のうち、気になっていた「THE LAKE<湖>」が入っている5巻だけを見てみる。この5巻は、「第1話 思い出のつづき」「第2話 霊界よりの訪問者」「第3話 THE LAKE<湖>」「第4話 砂漠の蜃気楼」。一話15分くらいだが、なかなかいい雰囲気。たぶん十数年前に、たしか阪神のショールームで見たビデオは、これだと思います。高井先生、ありがとうございます〜。

ビデオをちょっと見てから、テレビで深夜番組「ヘビメタさん」の最終回。私は、決してヘビメタがそれほど好きでも、詳しい方でもないんだけど、この番組のコーナーで、マーティさんが歌謡曲をヘビメタで弾くヤツが大変イカしてて、とても気に入っていた。でも、残念ながら番組は最終回。ホント素晴らしくアホなコーナーだったが、「ヘビメタっていいよね」という手作り感満載の番組の中でも、スペシャルなコーナーだった。マーティさんスゴイ。

「ハッチポッチステーション」のあのコーナー(ロックなどの名曲で童謡を歌うヤツ)が大好きな人なら、たぶん気にいるだろうと思われるコーナーだったのに、もう見れないのね。残念。(眠い目をこすりながら、いつも録画しないで見てたけど、やっぱ録画しておけばよかったわ)。最後は、ローリーさんと「サブちゃんのまつり」で感動的なフィナーレ。「電リク」でヘビメタの「名曲」フレーズを聞いたら、色々聞きたくなってしまった。たまにはヘビメタ。

ってな感じで、寝たのは深夜3時。翌日は、朝5時半起きで弁当作って、子供の運動会だぜ。

10/01/2005

役者、小説家、デザイナー…フリーランスとお金

9月30日(金)
終日、小説講座の事務所。銀行、文具店など行ったり来たり。発送物数件。

日頃、私は、作家になるのには、それほど特別な才能は要らないと思っているのだが、「もしかするとフリーランスで『幸福』になるには、少し才能がいるのかも」とは、たまに思うことがある。専業作家は、勤め人じゃないから、普通はフリーランスである。で、こういう職業で『幸福』になるには、多少の才能がいるのかもしれない。まあ、幸福とは何か、ってのは、だいぶ難しい問題だから、そこをあんまり深く考えてもらうと困るのだけど。

先日、専門学校で前期の最後の授業をやり、めずらしく90分ノンストップでレクチャー講義をした(日頃は、実習とか映像教材の上映があるので、レクチャーは10分くらいである)。ちなみに、小説講座の方の生徒さんは、みな社会人ばかりで、たまに大学生もいるが、全員「自分の金で、自分がやりたいから入学した」という人ばかりである。中には、「家族には内緒」とか「配偶者は賛成していない」みたいな人もいるが、それでも「ぜひやりたいから」入学したような人が多い。まあ、小さな学校だが、講師陣を見れば、小説好きな人にとっては、非常に魅力的な作家さんばかりなので、かなり遠方から通ってくる人も多いのだ。学費は安いが、自分の貯めた金を放出するわけだし(まあ、一年間35回分の学費で、一週間のヨーロッパ旅行には行けないかもしれない金額だが、アジアくらいなら充分行けるはずだ)、だから、小説講座の生徒さんは、熱心な人ばかりなので、授業中に寝ている人はあんまりいない。

ところが、専門学校の方は、熱心な生徒さんも多い一方で、どうみても、やる気のない生徒さんもちらほら混じっている。
「ただぼんやりと大学に行くよりは、技術をちゃんと身につけたくて」
と専門学校を選ぶ人も多いようだが、
「働くのもイヤだしィ、専門学校でも行ってたら、遊んでいても親に文句言われないしぃ」
というような理由で、消極的に選択をした人もいる。

もちろん専門学校は、学費を聞くとちょっとビックリしてしまうような金額なのだが、所詮は「親の金」なので、必ずしも本人は通いたいわけでもないのかもしれない。しかし、今まで一度も働いたこともない若者たちが、「金のありがたみ」なんてものを理解できないのは、ある意味、当然なので、これは仕方ないのかもしれないけどね。

ところで、先日は、最後の講義なので、せっかくだからと「お金」の話を少しだけ話したら、生徒さんの中から一人、「お金の話ばっかりで、げんなりした」というレポートが出て来て、ちょっと面白かった。

実は、もともとアイデア創作の講義なので、今までとくに「お金」に関する話をしなかったのだが、どうも生徒さんたちは、まったくそういう話を誰からも聞いていないらしいので、最後の「質疑応答」(今まで提出されたレポートにあった質問に答える形式の講義)だから、ちょっとだけお金の話をしたのである。生徒さんは、マンガ家志望か、小説家志望。だとすると、どう考えても、真面目に専門学校で授業を受けて、そこそこいい成績さえ出して、卒業できれば、いい会社に就職できる……というコースではないのである。まあ、実際には、2年の後期からは、「プロ組」と「就職組」に振り分けられていしまうらしいのだが、まだ1年生なので、一応、全員プロ志望の扱いなのである。

だから、むしろお金の話は、少しくらい早めに簡単に説明しておいた方がいいのかな、と思って、ホントに簡単に「出版の流通システム」(再販制度とか、印税とか原稿料とか)の話と、「フリーランスという働き方」(保険などは自分で入るんだよとか)という話をしたのであるが、実際には、他の話が多かったので、90分のうち、お金の話に触れたのは、たった2回、両方合わせても、5分くらいである。まあ、2年生になると「業界研究」という講義があるらしいので、どうせそこで詳しい話を聞くだろうから、ほんの紹介程度で済ませてしまったのだ。

だから、その日、生徒さんのレポートにも「お金」に触れたものは他には一枚もなく、だから、ある一人の女生徒だけが「お金の話ばかりで、げんなりした」という感想が書いていたので、ちょっと面白かったのである。90分の講義で、5分程度だから、せいぜい1割くらいなのだが、よほど印象に残ったのだろうか。それとも、単に「できれば聞きたくなかった」話なのかもしれない。(周囲が全員マンガ家志望で、中にはめちゃくちゃうまい子もいるので、1年も夏休み過ぎになると、だんだん不安になってくる子もいるのである)

しかし、考えてみれば、印税の話なんかは、全然知らなかったようだし、「マンガ家も、基本的にフリーランスなんだから、社会保険も税金も自分で払うから……」と何気なく言ったら、それを聞いて、エッという顔をした生徒さんも多く、こっちがちょっとびっくりした。まあ、高校を出たばかりの18、19歳ばかりだから、人間が一人暮らすのに、どれくらい生活費がかかるかもわからないだろうし、社会保険や税金なんてものは、もしかすると聞いたことも考えたこともないのかもしれない。

知り合いの高校教師も、日頃から、「高校で、仕事で得られるお金とか、社会保険や税金についても、もうちょっとちゃんと教えておいた方がいいんじゃないかなあ」と言っている。まあ、社会科では少しは教えているのかもしれないけど、本当は社会で生きていくには、そういうことについて、もう少し教えておいた方がいいんじゃないか、というのである。

というのは、卒業後に、安易にサラ金で金を借りて20代のうちから高額な借金を作ったり、就職した会社を簡単に辞めてしまって、あやしい会社に再就職した結果、給料不払いの目にあったりと「転げ落ちる」のが早い卒業生がけっこういて、見るに耐えないこともあるらしい。まあ、いい歳をした大人でも、このあいだ「それなら、サラ金に借りる前に、安い公的融資が受けれるよ」と言ったら、けっこう驚いていた。それくらい常識だと思っていたが、案外、そういう人は親も知らないケースが多いのかも。だとしたら「家庭で教えてもらえ」というのは無理だもんなあ。

「せめてもう少し社会のシステムを知っていたら」というが、じゃあ、高校の数学の授業でも、たまには微分積分じゃなくて、サラ金の金利計算でもさせたら……いや、ま、やらんだろうけどなあ。

「でも、高校教師って、所詮みな『真面目な勤め人』なんだよね。だから、ちゃんと就職しろ、としか、言わないんだよ。で、フリーターなんかするな、ってしか言わないから、いざ生徒がフリーターになった時に、何をするべきかとか、教えられないんだよねえ。失業保険の申請も、ほとんどの教師は一度もしたことがないんだから」

うーん。ホントかどうか知らないけど、まあ、高校までは、たぶん誰もお金の話なんかしないだろうなあ。フリーターなんてのは不安定だから、失業保険やら、労災やら、給与不払いの時の法的な対応まで、むしろ「まともな勤め人」より、しっかり知っておく必要があるかもしれないけどねえ。親も、今は「親の稼いだ金なんだから、感謝しなさい!」などと文句たれるだけだろうし(案外、親というのは、子供に自分の給料明細とか家計簿とかを見せて解説したりまでしないもんである)、親もマトモな勤め人なら、教師と同じだからねえ。

まあ、私の周囲は、役者だとか、絵描きだとか、作家だとか、フリーライターだとか、デザイナーとか、いわゆるフリーランス、まあ、一般的に「ヤクザな水商売」の人が多いので、失業保険の申請も一度はしたことがあるようなヤツが圧倒的に多い(ちなみに、私は3度)。もちろん確定申告やら、税金、社会保険のことを世間話でしてたり、ライター仲間では、「ギャラ不払いで、簡易訴訟してうんぬん」なんてのも何人かいたりする。倒産した印刷会社から、給与をもらう方法とか、やたら詳しかったりするヤツもいる。

一般的には、たぶんミュージシャンとか、役者とかは、「夢を追いかけている人たち」なのかもしれないけど、実は、金に執着せざるを得ない仕事でもある。ビンボーなやつは、金がなくていつも困っているから、少しは金のことを考えずには生きて行けないし、儲かっていれば儲かっているで、金のことを意識しざるを得ない。つまり、世間では、夢だけを追いかけているように見える職業でも、フリーランスというのは、案外、お金のことを意識しないではやっていけない職業なのである。

まあ、世間的には「お金にはしばられてません」などと、カッコをつけている人もいるのだが(もちろんそういう面もあるのは確かなのだが。多少やせ我慢が含まれているかもしんないけど)、もし、そういうことを真剣に言えるのは、「それが単なる趣味で他に収入がある人」か、「すでによっぽど稼いでいて、もはや金なんてホントに要らない人」だけだろう。稼いでしまった人でも、その人がその稼ぎになるまで、ずっとそういうことを考えていたかは、ちょいと疑問。少なくとも、私の知っている限り、金(自分が売れるか売れないか)にまったく執着しない人がたまたま売れたというのは、例が少ない。たいてい売れる人は「売れたい売れたい」とずっと言っていた人で、そういう人がたいてい売れている。まあ、「たまたま売れた」という人もまれにいなくはないが、どっちみち売れると周囲が金を意識するので、本人もよほどのバカでなければ、そのうち意識しざるを得ない。

日頃から本当に金のことをあまり考えなくて済むのは、まあ、「公務員」か、あるいは、安定企業の「会社員」だけだろう。こういう人は、給料のことを気にしても、どっちみち自分で決められる問題でもないし、年末調整も「むこうが勝手にやる」ので、税金も社会保険も、どうしようもないのである。例えて言うと、家畜か、野生動物か、の違いである。というと、イメージが悪いかもしれないが、食いもんの心配がどれくらいあるかという違いは大きい。食いもんの心配を全くしない野生動物がいたら、まあ、長生きはできなくても誰にも文句を言うことはできない。だから、野生動物で生き残っているようなヤツは、少なくともその日までは何らかの方法で、食いもんにありつくことは多少できているということだ。夢がある職業に見えても、実際は、そういうもんなのである。

だが、どれくらいあれば「食える」と判断するかは、人それぞれ違う。で、こういう職業は、儲かっている人と儲かってない人の差が激しい。儲かっていても、収入の変動は覚悟しないといけないが。(でも、儲かってない人が多いので、たぶん間違いなく、平均すると同年齢の勤め人よりは年収が低いだろうけど)

ただ、フリーランスでやっていくためには、単に金だけを目的にするには続けにくいことも確かで、だから、こういう職業を選んで、そこそこ「幸福」になるには、ちょっとした才能……あるいは、もしかすると、才能ではなく「技術」なのかもしれないけど……がいる。たとえば、やりたいことを金につなげるテクニックとか、あるいは向上心と自己満足のバランスと保つとか、第三者評価と自己評価を調整するとか。そして、お金に対する認識のバランスを保つこと。実力も必要だが、何かしら、そういうものも必要なのである。

私は、小説講座などを運営しているが、たまに作家志望の人で「うーん。お金に対して、何か、恨みでもあるのかな」というような人に出会うことがある。幸いうちの講座は、エンターテインメント系なので、滅多に会わないのだが、たまに、「売れている作品は、商業主義的だから絶対よくない」という頑固な信仰を持っている人がいる。
(どうも気のせいか、私小説系の作家志望者は、どうもちょっと妙なひねくれ方をしている人が多い気がする。エンターテインメント系で、「商業出版なんて、くだらない作品ばかりだ」などという人はまずいない)
まあ、確かに売れてない作品でもいい作品はあるし、売れている作品の中にも「うーん、これはちょっとねえ」と思うような作品もある。でも、「売れている作品は絶対ダメ」というのも、ちょっと違うような気がするんだけどねえ。

「冬ソナなんて見てるオバサンはみんなアホ」なんて、まあ、そんなこと誰でも言えることだが、世の中の人は、それほどアホばっかりでもないし(まあ、ひょっとするとやっぱりアホなのかもしれないが)、それでも、何かに夢中になって、それを求めて買うのがそんなに悪いこととも思わないがなあ。
(まあ、そういう人は、自分の作品が認められていないのを単にひがんでいるだけのことが多いけど。ま、たぶんその人に言わせると、自分以外の大衆はすべて愚民なのだろう)

それにしても、フリーランスだと(まあ、勤め人でもそうだが)お金に対して、やたら偏見があると大変である。フリーランスなら、お金は、人の役に立った結果の正当な対価であるというくらいの認識でやめておかないと、お金に対して何か特別な恨みとか憎しみとかやたら持つと、本人も周囲も不幸になるかもしれない。必ずしも、社会的成功は重要ではないだろうが、お金を使う適度な能力とお金に対する適度な認識は、幸福のための必要条件である。

この数日間を食べるのにも苦労するほど、切迫しているような人や病気等を抱えている人ならともかく、さしあたりお金にさほど困っているわけでもなく、本人も家族も、そこそこ健康なのになぜか「不幸」な人と言うのはけっこういる(まあ、周囲にはわからないような何か複雑な人間関係とか何かがあるのかもしれないけど)。お金があれば幸福とは限らない。家族や友人や人間関係もあれば必ず幸福とも限らない。でも、生きている限り、人間とも、お金とも、全くつきあわずには生きていけない。自殺の原因は、人間関係と金だそうだが、みっともなくても、哀しくても、そういうのが「楽しい」のだと思えればいいのになあ。

「何も面白いことなんてない」なんていう若者を見てしまうと、ふと、何だか、ちょっとそういうふうに思ってしまうことがある。面白いものなんか、どこにでもあるのに。きっと、幸福になるには、運だけじゃなくて、いくつかの技術がいるのだろう。それを誰かに教えてもらう人もいるし、小さい頃からきちんと身につけているような人もいる。ただ最終的には、誰もが自分だけのそれを見つけなくてはいけない。何かを待つだけの人には、なかなか気がつかないような技術も、世の中には、けっこうたくさんあるのだから。

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