« August 2005 | Main | October 2005 »

09/30/2005

小説コンテストの困ったちゃん

9月29日(木)
午前中、小説講座の事務所。午後から外出。

なんでこんなに忙しいんだろう、と、悩んでしまうような月末。まあ、9月末決算なので、年度末でもあるわけで(しかも初年度)、仕方ないんだけど。

午後からは、専門学校へ。非常勤講師の仕事は、本日が最終日。木曜日のクラスは前期だけの担当なので、後期からは月曜日のみだ。正直、週2回も講師の仕事があると、他の仕事にも差し支えるし、10月からはだいぶ楽になる。講師の仕事は、もう5年くらいやっているから、別にいいんだけど、やっぱりり本業の方も大事だからなあ。最近、何が本業なんだか、自分でもさっぱりわかんなくなりつつあるけど。

最後の講義は、ざっくばらんな質疑応答など。わずか半年の講義期間だったが、最後まで生徒の顔と名前が一致しないダメな講師だったなあ。ちょっと反省。まあ、顔は覚えているんですよ、作品もね。小説講座の方は、生徒さんも社会人ばかりだから、講義が終わってから飲みに行ったりして、すぐに仲良くなるのだけど、専門学校の方は、学外での接触は原則禁止されているし、生徒数も多いので、なかなか名前が覚えられない。しかも、講義数も3分の1しかないし。まあ、小説講座は、素晴らしい講師陣がいるけど、私の講義は、13〜14回あれば充分。そんなに話す内容がない(笑)。でも、教材で色んなアニメ映像ばっかり見せてるんで、生徒には人気は高いみたいだけど。

小説講座の方も、今週末の10月1日(土)の講義が最終日。第7期は、修了である。あとは、第9期が10月29日(土)に開講するまで、講義はお休み。29日は、入学式とショートショート大賞の授賞式&記念講演なども予定している。毎年、10月中旬に開講していたのだが、今年は10月29日が開講なので、事務的にはかなりラクだ。毎年、ショートショート大賞の選考も、一次審査から最終まで、たったの2週間というめちゃくちゃハードスケジュールだったのだが、今年は3週間(あれ、一週伸びただけか。でも、だいぶ違うよな)。毎年、下読み委員にも、最終選考の先生方にも、かなり厳しいスケジュールで選考してもらっているので、申し訳なかったのだけど、今年はまだ余裕あり。まあ、制限枚数がたったの5枚しかないコンテストだからこそできるスピード選考ですな。それでも、下読みも数名で、二度以上やってますし、2次以上は、講師の選考委員さんたちがじっくり選んでくれている。小さな賞の割にかなりきっちりやってるんですよ。だって、みんながんばって書いてくれたのだもんね。

ところで、他のところのコンテストの下読みを引き受けたり、こうして受付事務をしていると、毎年、いつも思うことがあるんですが。
「できれば、もう少し受賞しようと思って、作品を送ってくれへんかな」って。
つまり、それだけ「受賞する気が最初からないんじゃないのか」と思うような作品が多いのよね。まあ、生徒さんには、
「参加することに意義がある。小説コンテストなんて、参加無料なんだから、宝くじよりも参加しやすいぞ。作品はバンバン送レ送レ」
と、確かに私も日頃から言っているんだけど(うちの小説講座の生徒さんは、なぜか慎重すぎるのか、なかなか応募しないのだが)、でも、どうせ参加するなら、せめていい成績を残そうとか、できれば受賞しようとか、そういう欲があってもよさそうなもんでしょ。でも、どういうわけか「参加することに意義がある」みたいな作品も多いようなのよね。

小説コンテストは、誰でも応募できるので、時々トンデモナイ作品が届くことがある。そういう公募の常識みたいなものは、「公募ガイド」などにも載っているだろうに。

というわけで、コンテストの「困ったちゃん」作品の特徴をご紹介。
(あくまでも、今年ではなく、昨年度までの実績)

○困った作品

1 連絡先が書いてない原稿

 応募要項では、作品の上に連絡先やタイトルを書いたものを添付するように指示されているんだから、それは守った方がいいよ。ちなみに、さらに送って来た封筒にすら何も書いてない人もいたりします。連絡先がさっぱりわかんない(笑)。万一、受賞したって、連絡とりようがないぜえ。

2 さっぱり読めない手書き原稿

 手書き原稿で、どうやっても読めない原稿ってのはあるんですよね。ホント、内容のよしあしじゃなくて、字が読めないてのは、どうだろうねえ。こういう問題は、たぶんウマイヘタではなくて、たいてい走り書き(なぐり書き)だってことです。できるだけきちんと「楷書」で書かれた方がいいと思うよ。いくら達筆でも崩した字は読みにくい。反対に、きちんと書かれていたら、字がへたでもけっこう読めます。あと、字があまりにも薄いのも、ちょっと困ると思う。(選考時に作品のコピーをとったりするから)

3 読みにくいワープロ原稿

 印刷の形式に問題があって、読みにくいワープロ原稿も、なるべく避けた方が無難です。これは、手書きよりは、けっこう多いです。まあ、書きと違って、「これは絶対ムリ」というほどではなかったりするのですが、字が小さすぎるとか、字間があきすぎとか、とにかく目が痛くなるような原稿は、読む人には辛すぎるので、とくに長編だとめちゃくちゃ不利。印刷形式が極端に悪いと、原稿用紙10枚でも気分が滅入ると思います。

4 規定枚数を守ってない原稿

 規定枚数は、やっぱり守ってよね。ものすごーく素晴らしい原稿でも、規定枚数を守ってないとやっぱり受賞は難しくなる。だって、受賞作品は、必ず発表するわけだし、「なんだ。これ、規定枚数を守ってないのに受賞させるとは何事だ」みたいな苦情が発生するかもしれないじゃん。やっぱり規定枚数は守ろうね。

5 頑丈に包んで送られてくる原稿

 お中元やお歳暮でも、今は簡易包装の時代ですよ〜。たまに、ちょっとびっくりするような過重包装の作品が届くことがあって、原稿を出すのが大変なことがあるのだ。段ボールケースに入れて、さらに何重にも包まれたような作品。あんまり頑丈だと、なんか不審物でも送られて来たんじゃないかと心配になるので、過度の包装は避けようね。

6 頑丈に綴じた原稿

 ホッチキスなどで何カ所も止めたりして、頑丈に綴じないように。作品は、選考時にコピーをとることがあるので、すぐにバラせるように簡単に綴じましょう。もちろん、製本したものも送らないようにね。

7 推敲してない原稿、清書されてない原稿

 しばしば、余白に書き直してあったり、字を塗りつぶしたり、とても見苦しい原稿があるのだ。書き直し部分が多いなら、そのままだと読みにくいので、ちゃんと清書するべき。また、ワープロでも、やたらと誤変換が多いとか、ちょっと見直せば、すぐに気がつくようなミスが多い原稿も多いよ。せめて一度はしっかり推敲をしようね。

8 不必要な手紙が添えてあったり、あとがきがついている原稿

 コンテストに応募する原稿には、とくに手紙は添えなくてもいいよ。作品を審査するだけなので、手紙をいちいち選考委員が読むわけではないから。

9 途中までしか書かれてない原稿

 ちゃんと最後まで書いてくだされ。

10 オリジナルじゃない原稿

 他の作品のアイデアを引用したものとか、直接引用したようなもの。キャラクターを拝借したような作品、あるいはパロディとか。

11 二重投稿の原稿

 二乗投稿は、やめましょう。以前、「これは他にも応募しています」とわざわざ丁寧に書かれたものを見たことがあるけど、これは困る。どうしても他に応募したければ、選考で落ちたのが決まってから、あらためて投稿すればいいと思うんだけどな。

12 どうみても別ジャンルの原稿

 小説のコンテストなのに、「シナリオ」を送ったり「詩」を応募するのは、切手がもったいないからやめよう。あと「日記みたいな形式の小説なのかな、と思っていたら、やっぱりどうやら本当の日記だった」みたいな原稿もやめましょう。

13 その他

 できるだけ感熱紙の原稿はやめよう(変色するかもしれないから)。広告チラシの裏に書いたり、ノートを切れはしに書いたりしたものもやめよう。両面に書いてくるのもやめよう。あと原則的に小説はタテ書きなので、とくに指定がなくても、ヨコ書きはやめよう。受取りの証明がほしい場合は、書留にしよう(ハガキや封筒を同封して「受取証明をください」と要求するのはやめよう)。選考中に、電話で結果を問い合わせるのはやめよう。印刷フォントで、おそろしく読みにくい字体を選ぶのはやめよう。手書きのキャライラストを添えるのもやめよう。キャラの設定書もつけないようにしよう。あと必要な地図ならともかく、とくに必要ないなら、やたら詳しい地図を一緒に送るのはやめよう……。

……と、まあ、いろいろありますが。(でも、常識的なことだと思うんだけどな)

「そんなんあたりまえやろっ」っていうよな人が多いと思うのですが、実は、コンテストの応募作品の中にはこういう作品もけっこう混じっているのです。ひょっとすると3割くらい、そうかもしんないぞ。え、なんか自信ついたって? いやいや、そこからが勝負なんですよ。

09/29/2005

病院選びは、慎重に

9月28日(水)
終日、外出。小説講座の事務所には入れず。うう、なんだか忙しいなあ。

夕方、打ち合わせの帰り道、ちょっと天神橋筋商店街をうろうろ。大阪以外の人は、知らないかもしれないけど、市内ではちょっと有名な商店街。天神橋筋六丁目から一丁目まで、アーケードの長さが長いので有名だし、割と値段も安い。大阪は、案外、商店街があちこちに残っていて、私もよく行くことが多い。天神橋筋もよくぶらぶらする。が、天六周辺は、さすがに久しぶりなので、店が変わっていたりして、ちょっと面白い。100円均一の店もいくつか見える。もともと安くて、食べ物もうまい店が多いので、ついフラフラ買い物をしてしまう。

私は、東京にもフラフラでかけることが多いが、なかなかうまい店にあたらない。まあ、時間がないことが多いので、探索にかけるエネルギーが少ないせいもあるが、おいしい店があっても、値段が高い。私もすっかり大阪のオバハンなので、いくらうまくても値段が高いとダメである。まあ、東京は、ソバだけは圧倒的にハズレが少ない(たぶん文化の違いだろうけど、大阪はソバやウドンは、アタリも多いが、ハズレも多い)。だから、いつもソバばかり食べていたのだが、最近は、いろいろ探すようにしているので、最近、ようやくカンが働くようになってきた。東京では、圧倒的に「昼時」あるいは「夕食時」に食べるのが一番いいらしい。というのは、大阪だと混むのがイヤなので、昼食だと11時半とか1時とか、ちょっと人が少なくなるような時間帯に行くことが多いのだが、東京でもさすがに昼食は、毎日食べているビジネスマンはどこが安くてうまいか、よくわかっているようで、昼食時に混む店がやはり正解みたいなのである。つまり12時40分の時点で、まだ人がたくさん並んでいる店がかなり可能性が高い。こういう店は、12時過ぎに満席になっているはずなので、12時40分過ぎには最初の客が食べ終わる頃で、すぐに一回転するから、案外さほど並ばずに済む。でも、考えてみれば、私って、大阪でも、あまり知らないビジネス街では、同じやり方で店を探してるな。しかし、この飲食店を探すエネルギーを、どこかもっと違うところに使えればなあ。

飲食店を選ぶエネルギーは、なぜか病院を選ぶエネルギーにもつながるような気もする。私は、飲食店にアタリハズレがあるように、病院にもアタリハズレがあると思う。ただ、あいにく病院は入ってみなければアタリハズレがなかなか判断がつかない。たまに「大きな病院なら間違いがないだろうと思っていた」という人がいるのだが、どんな大きな病院でも、診断するのはそれぞれの医者個人で、病院の規模が関係するのは、看護システムだとか、検査機器の数だとか、手術数だとか、まあ、そういう面だから、必ずしも診断そのものには、病院の大きさは関係ない。まあ、治療方針には病院の傾向もあるけど、大病院でも、得意分野と不得意分野があるし、同じ病院でも、人によって治療方針がまったく違うということもある。まあ、今はセカンドオピニオンとか、患者が治療方針を選ぶのが普通になりつつあるが、世間ではまだまだ「大病院の言うことを信じていればよい」という人も多いようだ。

ただ、どれくらい病院や医者の能力が左右するかは、病気の種類にもよる。病気によっては、まあ、誰が診てもあんまり変わらない、という場合もあるだろうけど、一番、影響がでやすいのは、何かと考えてみると、案外、救急病院なんじゃないだろうか。緊急性が高いから、医者の判断が決定的な影響を及ぼすはずである。ところが、実際には救急病院は、あまりに激務のせいだろうけど、とくに夜勤は若い医師がいることが多い(激務の割に、給料は少ないらしいし)。だから、どうしても交通事故も、運ばれる病院によって、アタリハズレができてしまうようだ。しかし、飲食店のアタリハズレなら、笑って済ませられるが、病院は、命に関わるから、笑って済ませられない。しかも、自分から診察に行く場合なら、病院も選べるが、交通事故なら普通は選べない。ただし、救急隊員も、どこの病院の夜勤がどんな医者かは知っているので、その点は、彼らが判断して、それなりにうまく手配をするようだ。しかし、緊急出動がたまたま重なって、多い日もあるので、それが必ずしもうまくいくとは限らない。

私は、何度か、交通事故にあったことがある。何度か救急車にも、お世話になった。その中で、一番、印象的だったのが、十数年前の事故であった。当時は、箕面に住んでいたのだが、自動車を運転していて、後ろからぶつけられた。乗っていた自動車はふっとんで、電信柱に前からナナメにつっこんだので、自動車の前の部分がつぶれてしまった。軽自動車だったので、すぐに足がはさまった。しかし、はさまった足を引き出した時、すり傷しかなくて、「ああ、助かった」と本当にホッとした。結果的にはかないr軽症だった。(ただムチウチがひどく、そのあと無理をして働いて悪化させてしまい、それが原因で、外食産業で働くのをあきらめた)。

私の車は、信号で停止中だったし、この事故の責任は全部相手の車にあるはずだが、そのまま逃げて、行方不明なので(居眠りか飲酒運転らしい)、自動車代も治療費も、むろん一円ももらえなかった。まあ、被害者が死なない限り、こういうケースは警察もさほど熱心に探してくれない。交通事故は、毎日、何件も起きているし、警察も忙しいからである。だから、私が死んでいたら、探してくれたかもしれないけど、軽症だったので、無理である。まあ、だいたい日本は、犯罪の被害者には何も保証のない国である。だから、交通事故は悲惨だが、ひき逃げされたらさらに悲惨である(まあ、私の場合、幸い治療費は、通勤途中だったので、労災で下りたけど)

この時の事故は、自動車は相当ハデにつぶれたのだが、奇跡的に私は、アザとすり傷とムチウチだけで済んでいる。まあ、正面衝突ではないし、シートベルトをしてたのと、ぶつかったのが壁でなく電信柱だったし、シートが壊れて、なぜか前ではなく、後ろ向けに倒れたのと、あれこれ幸いしたようだ。だから、事故直後はしばらくは気を失っていたようだが、救急車が到着する頃には、つぶれた自動車から自力ではいだして、自分の足で(靴はなかったから、やぶれたストッキングだけ)救急車に乗り込んだのであった。

それくらいだから、救急車の中でも、すでに意識もはっきり戻っていたので、救急隊員たちの会話もはっきり理解できた。どうやら、私は、間の悪い時に事故をしたらしく、「どこに運ぶ?」「あそこしかないやろ」「でも、今、あそこに運んでもなあ」という小さな話し声が聞こえてくる。どうも「軽症みたいやし、やっぱり、あそこが近いやろ。とにかく運ぼう」ということで、事故現場から最も近い救急病院に連れて行かれたのだが、そこに着いてから、理由がすぐにわかったのだった。

救急車が着くなり、看護婦さんが3人ほどかけよってきて、私が自分で立てる様子を見ると「あ、大丈夫やね!」と行って、また走り去って行った。残った一人の看護婦さんに、救急車の人が「どうしましょうか」と聞いたのだが、「まあ、これくらいなら大丈夫。こっちで診ます」と言ったので、ホッとした様子で、「じゃあ、お大事に」と去って行った。私は、ちょっとおどおどしながら、救急治療室に入ったのだが、そこは悲惨な状態だった。つまり先客がいたのである。

先客は3人だった。2人は、頭や手足に包帯などを巻かれてイスに座っていた。2人とも若い女性だったが、顔半分は包帯で見えなかったが、まだ軽症らしく、黙って座っていた。そして、奥で、若い男性が一人、錯乱状態というのか、担荷に寝かされたまま、大声で訳のわからないことを叫びながら暴れていて、それを医者や看護婦が一生懸命に押さえ付けている。私は、修羅場に出くわしたのであった。私に応急手当てをしていた看護婦さんが、「どうやら大丈夫そうね。こんな状態だから、ちょっと待ってくれるかしら?」と言うので、私はビビりながら、うんうんと頷いた。それは、ついさっき、事故にあって命拾いをしたばかりの私には、世にも恐ろしい光景である。男性は、大声で叫びながら、驚くほど暴れていて、押さえつけられているのだが、ふとシーツをかけられた片足の部分を見ると、ちょっと血が引いた。その片足が、普通の状態ではないのである。どうも、つぶれているらしい。あんまり暴れるので、さすがに医者も「痛いのはあたりまえや! じっとせな、手術も検査もでけへん!」と大声で怒鳴っている。すっかり錯乱していて、どうも状況を把握していないらしい。だいぶ看護婦さんは「なかなか薬が効かないらしくて」とすまなそうに言い、あんまり私が青い顔をしているので、「治療室せまいから、廊下で待ってくれてもいいのよ」と言った。私は、あわてて、治療室からとびだして、暗い廊下の長椅子に座った。11月下旬で、靴もなく、スリッパを借りただけの足下は寒かったが(傷もあったし)、あの地獄絵のような治療室よりは、誰もいない廊下の方がよほどいいのであった。

ちなみに、先客たちは、若者4人で乗っていた車で、自損事故を起こしたらしい。暴れていた男性は、運転していたらしいが、助手席に座っていたもう一人の男性は「はさまってレスキューが来ないと出せなかったので、別の病院へ運ばれていた」と警察官が言っていた。若者が運転していたのは、父親が所有していたかなりの高級車である。なんで、そんなことを詳しく知っているかというと、そのあと、男性の両親がやってきて、私のいた廊下の長椅子の横に座ったからである。真っ青な顔をした年配の男性と、寝巻きにガウンらしきものを羽織っただけの母親らしき女性が泣きながらやってきて、せっかくの廊下も居心地が悪くなったのだが、夜だったので、どこにも逃げることもできない。警察がやってきて、両親に事情を説明していた。暗い病院の廊下で、真っ青な顔をして、彼らは黙ったまま、話を聞いていた。別の病院にいる助手席の若者の生死はわからないと警察の人は言った。私はその後2時間ほど待ってから、朝になって、病院のスタッフがそろってから再検査を受け、異常がなかったので、そのまま病院から警察に行って(調書を書くついでに)パトカーに送ってもらって帰ったので、そのあとのことは知らない。(こちらにいた若者は、どうも足を切断したらしい)

というわけで、救急病院に行くなら、あるいは交通事故なら、できれば11月下旬から12月はやめたほうがいい(まあ、むろん年中、ごめんこうむりたいが)というのは、とくに年末は、飲酒運転が増えるらしく、交通事故、それも死亡事故とか大事故がかなり多いらしいのである。(そうでなくても、寒いので、病気の人も増える)。まあ、救急病院が選べるとは限らないが(普通、選べないだろうが)、日頃から、病院のことは一応、調べておいた方がいいな、などと思っている。まあ、子供の頃は、私や妹にぜんそくの発作があったので、もともと病院に行くのも慣れてはいたりするのだが。

余談だが、救急指定の病院なのに、看護婦さんやお医者さんの歩くスピードが遅いところは、おそらくちょっと要注意である。以前、外科手術で失敗されて別の病院で治したことがある母も、病院を必ずしも信用していない。「病院や治療法は、自分で選ばないと」が口癖である。弟が交通事故にあった時に運ばれた病院は、私も、ちょっとこれはまずいかもと思ったのだが、母は翌日には手配して、さっさと別の病院に運んでしまった。私は、母と違って、医者には会っていないのだが、病院の中がきれいに掃除されてなくて薄汚れている(建物が古いのではなくて、暗い雰囲気なのである)、看護婦さんたちもムダ話を平気でしていて、歩くスピードもかなり遅いのが気になった。看護婦さんたちに、ほとんど勤労意欲がないような病院は、確かにヤバそうである。

ところで、先日の娘の顔面にできた腫れ物は、最初、あいにく皮膚科が休みだったので、やむなく外科に行ったのでわからなかったのだが、トビヒでも、ヘルペスでもなく、ブドウ球菌皮膚感染症であった。どっちにしても、抗生物質の外用薬が効いたのですぐに治ったんだが、やはり病院は横着せずに、ちゃんと選ばねばならないようである。

09/28/2005

小説講座以外の仕事でも、楽しい一日。

9月27日(火)
終日、外出。小説講座の事務所では、丁稚どんがせっせと事務作業。ご苦労さまです。

朝7時半から、小説講座以外のお仕事で終日外出。お役所関係のイベント。ちなみに、私は、もともとコピーライターだから、キャンペーンとか、イベントがらみの仕事もかなりあるんだけど、企画だけ参加することも多いので、企画はともかく、運営に慣れているというわけではない。企画をしても、運営はイベントディレクターがやる場合がほとんどである。印刷物だけならディレクターもやることもあるが、実は、イベントは苦手なのである。(今回の仕事は、取材を兼ねているので、もちろんディレクターでもないし)。

しかし、イベントディレクターという職業の人は、私が知る限り、とてもタフな人が多いな。今回もとっても元気な女性ディレクター。それなりに大変なことはあるんだろうけど、人前に出る商売。明るく元気に見せる努力も忘れない。彼女はもう子供が成人したそうだから、私よりはだいぶ歳上のはずだけど、ちょっと曇ってきてパラパラときた途端、「雨具の手配!」などと、ケータイで叫んでいる(午前中は屋内、午後から屋外だったのだ)。結局、天気はもちこたえたけど、イベント現場で必要な能力は、臨機応変。イベントディレクターって、ホンマ、機転のきく人しかできないなあ。印刷物の得意な私は、とてもマネできません。

ところで、広告の仕事は、幅が広い。クライアントが「こんなことできますかね」と言えば、すぐにどんなことでも「やります!」というのが広告の営業マンなので、まあ、私も、色んな仕事をやったことがある。広告業界で扱うのは、いわゆる広告だけではなくて、ゼネコンの大規模開発の(競合プレゼンのための)企画書作り、社長挨拶の草案作り、企業内の福祉イベントの企画など、いろんな仕事をやることがある。こういう仕事は、印刷技術や広告の知識は別として、何か専門的な知識があっても、さほど役に立たない。新しい商品は、新しい技術やコンセプトを含んでいるものだし、たとえ大学で専門的な知識を学んでも、案外、広告には役に立たない。それよりは、どちらかというと「雑学」とか「常識」がある方がよほど役にたつ。新しい発想も、常識的な目がないと発見できないのである。

(というか、コピーライターは、ある時は、血液検査機器のパンフレット、ある時は、泥美容用の化粧品のDM、ある時は、PR誌のコーナーで消防車メーカーの取材など、そのたびにどんなものでも「できるだけ魅力的に書く」という毎日を過ごしているので、いやでも「雑学」になってしまうんだけど)

小説を読んでいても、「この作家は、きっと、雑学系なんだろうな」と思うことがよくある。専門的な知識が書かれていたとしても、つい「この部分は、きっと取材だな」とか「このケースは、きっと専門書に書いてあるような事例をちょっとアレンジしたんだろうな」とか、なんとなく、そういうふうに思ってしまう。まあ、私なんかは、いつもそこそこの専門知識を、速効で身につけないといけない職業なので、ついついそんなことを考えてしまうんだけど。

小説でも1作2作くらいは、もともと持っていた知識でも書けるんだろうけど、やはりネタの限界があるだろうから、取材やお勉強が嫌いな人はやはり不利かもしれない。でも、自分の関心のある分野をちょっと深く調べてみればいいだけだろうから、適度な好奇心さえあれば、そんなに大変なことじゃないと思うけど。まあ、雑学のある人は、専門的なことを書いているようで、うまくゴマかす。「知ってるフリをして、ごまかす」のがうまいのは、「いいウソつき」だからで、小説家なんて、大ウソつきのプロだから、うまくウソがつければいいわけである。実際、小説を読んでいる人は、そんな専門知識なんかない人がほとんどなわけだから、高度な専門性はあった方がいいかもしれないけど。わかりやすく書けているかどうかが重要だろう。

しかし、小説を書くには、文章の能力や発想力なんかも大事だけど、意外とこの「雑学」とか、あるいは「常識」とかが大事なのかもしれないと思うことがある。まあ、常識というと「常識って何やねん」という人がいるかもしんないけど、「人のイヤがることをしたらダメ」「好きな人のことを考えると、ドキドキする」とか、まあ、その程度の誰でも知っているようなこと。あるいは、「愛」とか「友情」とか、そういうような。

だいぶ前に、かなりよくできた作品を書く人がいたが、読ませてもらうとどこか妙な感じがすることがあった。周囲の人たちも「うまいですよね」と言っていたが、「おもしろい?」というと「うーん」という。まあ、個人的な感想だけど、どうも作者が持っている社会認識というか、「常識」がどうもしっくりしない。まあ、この人は恵まれた環境で育った人らしく、どうも人を少し見下すようなところがあって、しばしばそういう思想がにじみ出てくるようなのである。他にも、ちょっと女性蔑視が混じっている人とか、そういうのはどこかしらで読めてしまうから、全体はよくても、やっぱり引っかかってしまう。あるいは、過度の悲観主義とか。もちろん小説の中の人物は、いくら異常な思想の持ち主でもかまわないのだが、その作者の思想がちょっと極端で、それがにじみ出てくるとちょっと難しい。小説は、エッセイと違って、直接的に書いた人の思想が出るものではないが、なにせ長文。長くつきあい続ける読者にはやはりわかってしまう。

ただ、こういう面は、小説の構成とか、技術とかと違って、周囲からは注意しにくい。というか、指摘を受けてもすぐに直るものでもないだろうし。もちろん色んな人、色んな考え方があってもいいのだが、読者が受け入れられる範疇、常識的な範囲というのがある。やはり「常識がない」人には、他人が感動したり面白がるような作品を書くのが難しい。そういう常識というか、あたりまえな感覚を見につけるのはどうすればいいかというと、やっぱり直接、いろんな人と会って、いろんな話を聞く方がいいような気がする。その人の話を聞くだけじゃなくて、姿やら、声やら、話し方、歩き方、着ている服、臭いなど、全部の感覚を総動員して話を聞く。むしろ常識なんて、堅苦しく考えなくても、ただ「社会にはいろんな人がいるのだ」と知っているだけで、面白いネタもシーンも、いろいろ書けそうな気がするんだけどな。

今日も、イベントで色んな一般の人と話ができて、面白かった。いやはや、疲れたけど、ホント、世の中には、いろんな人がいるもんですな。


小説とは関係のない休日(オメデタの話)

9月26日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

事務所はお休みだが、終日、お仕事。9時半に帰宅。
弟夫婦から電話があり、どうやらオメデタらしい。来年の5月が予定日だそうだ。ちなみに、うちの夫は、友人や親戚から出産したという電話があると、「おめでとう。で、男の子? 女の子?」などと言わずに、決まって「おめでとう。で、一人? 二人?」と言う。うちの娘が双子だし、妹夫婦の息子たちも双子だったせいだが、どうも、彼は「性別」よりも、まず「出産人数」を確認しないと気が済まない。あんまりそういう質問をする人はいないと思うけどなあ。

双子の出産率は、どうやらちゃんとした集計がないようで、調査によってデータがまちまちなのだが、どうも70〜130件に1件くらい。最近は不妊治療などで急激に増えているから、もう少しありふれているかもしれない。120人くらいの保育所にも三組いたし、小学校にも何組かいる。近年は、宗教的な理由とか、よほど理由がない限り、それ以上の多胎は、減数手術をすることが多いらしいので、現在は、4つ子、5つ子は少ないらしい。今後、おそ松くんみたいな6つ子は、生まれそうにない。

まあ、そんなわけで、うちの両親にすれば、6番目の孫なのだが、義妹のご両親から見れば、初孫になるから、ちょっとコーフン度が違うだろうなあ。弟たちの結婚式の時にしか会ってないが、大泣きしている父上の顔を思い出してみる。弟たちは、劇団で知り合っただけに、演技派でイベント慣れしており、自分たちの出会い(始めてのデートから、プロポーズまで)を自分たちで映像作品にし(もちろん仲間の劇団員の友情出演つき)、最後のクライマックスは、感情たっぷりに「父への手紙」を読み上げるお嫁さん(なにせ元劇団員)。どうも明らかに、お嫁さんの父上君を「泣かせて盛り上げる」ことに決めていたようで、なかなかすごい力の入った演出であった(目的は、見え見えだが)。人ごとながら、あれでは確かに泣かずにおれないだろうと思ったのだが、見事な号泣であった。また、初孫を見て、泣くのではないだろうか。楽しみである。

弟の結婚式の時を思い出した。やっと式が終わり、親戚たちと談笑しながら、うちの母が「ああ、やれやれ、これで、うちの結婚式は全部終わりやわ」などと話をしていると、慣れない蝶ネクタイをしながら、ジュースを飲んでいたうちの息子が、急に驚いたような顔をあげて、「えっ、じゃあ、じゃあ、ぼくのは!?」と叫んだのだった。一同爆笑。
「次は、ボクの番や」と思っとったんかい……。

ま、こんなチビでも、来年は中学生だからなあ。

09/26/2005

小説とは関係のない休日(形而上学的風景のある休日)

9月25日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝から子供たちは、またまたイトコの遊び相手をしに、実家へ。7歳の女の双子が、4歳の男の双子の面倒を見るわけだから、どれくらい役にたっているかわからないんだけど。それで、11歳の長男が「総監督」なんだそうだ。実家は、今、母が旅行中なので、どのみち70歳の父しかいないから、「総監督」も少しは現場の役に立ってもらわないと。

昼過ぎに「子守り」任務も終了し、午後から子供たちを連れて、梅田大丸の「キリコ展」へ。美術教師の父親の影響か、なぜか「抽象絵画」に詳しい息子は、「これは、ピカソの本でも見た作品があるで」とそれなりに細かい興味を示すが、7歳の娘どもは「電球人間ばっかりや」(キリコがモチーフにする不思議なマネキンのこと)とちょっと不評。しかし、思ったより点数も多く(百数点)、形而上学的な興味がある方にはオススメ。10月2日まで。急いで行くべし。

そのあと、阪急三番街で夕食。息子は「チーズカレーうどんの大盛り」と「どんぶりごはん」というドエライ量を注文するが、すっかり完食。うーむ。おまえ、それでなんでクラスで体重が最低なのよ(身長はちょっと伸びたので、今は、前から4番目らしい)。よほどエネルギー効率が悪いのか。ダイエットに苦しむ母はうらやましいぞ。

紀伊国屋書店で、大騒ぎしながら一人一冊ずつ本を買って帰宅。途中、地下鉄の中で、クスクスと笑い出す息子。なぜか腕を組んでから、「なあなあ、ほらほら」と前を指差すので、見ると、前の長いイスに男性が6人。眼鏡をかけた若者、ポロシャツのオジサンなどが並んで座り、それが全員、同じように腕組みをして、揃ってうたた寝をしている。どうやら皆、たまたま一人ずつ乗り合わせただけのようだが、首のかしげ方といい、腕の組み方といい、申し合わせたようになぜか似たようなスタイルで、言われてみれば、ちょっと妙な光景である。
「腕の組み方は右、左と交互やけど、みんな同じやなあ」
しかし、言われてみたら、私なんぞこれまで何度も電車には乗っていたが、案外こういう風景は見たことがないかも。そういや、きれいに並んでいるよなあ。娘たちもクスクス笑っているが、たまたま並んで座って眠っただけで、本人たちも笑われているとは思わないだろうが。

地下鉄が止まり、駅で私たちが(なぜか起こさないようにそおっと)降りても、彼らはそのままきれいに並んで眠ったままで、地下鉄はゆっくりと出発した。
「なんか、あのまま、どこまでも行って欲しいなあ」と、なぜか嬉しそうな息子。黄色い地下鉄の光を見届けながら、私は、なんだか、どことなく形而上学的な風景だな、と思った。見る人が見れば、街の光景は、みなシュールレアリズムの絵画のようかもしれない。

あと十年、二十年、五十年先の小説業界

9月24日(土)
午後から小説講座の事務所。本日は、連休中につき、講義はお休み。

講義がない日なので、休暇をとろうと思えばとれるのだが、仕事が多いので、やむなく出勤。子供たちは父親と一緒に釣りに。夕方まで、仕事を片づけて、あわてて天満橋へ。大阪シナリオ学校の元事務局長のYさんと元事務員のMさんと待ち合わせて、おしゃれなカフェバーへ(似合わないメンツだが)。その後、ジャズのお店で深夜まで。

Yさんは昨年4月、Mさんは今年の1月に辞めている。私も、昨年の9月に運営独立したので、3人とも今はあっちの運営とは無関係ではあるのだが、その後、入社した人が今年2人辞めているという話で、まだ落ち着いてはいないだろう。今が一番、大変な時期なんだろうなあ。あの学校は、講師数など関係者が多いので、スタッフも人脈やらノウハウが必要で、一つのコースでも1〜2年ほど続けて担当しないと、テキパキと運営することができないのである。がんばってくださいね。

ちなみに、「大阪シナリオ学校」は、来年50周年を迎えるという古い学校なのだが、それだけに改革がやりにくいという面がどうしてもある。現在の事務局長は、元シナリオライターで、意欲も熱心な方なのだが、やはり経営能力というのは別の能力だし、役員の放送作家や脚本家の人たちも、もともと単独行動がむしろ得意な人ばかりで、「経営感覚」はさほどない。大阪の人間は、けっこう普通の人でも商人根性があふれているように思われるようだが、なぜか放送作家やら、脚本家やらは、あまり金に関心がない人が多い。そのせいか、あの学校は、いいのか悪いのか、どこか優雅である。商売気がないってのは、生徒にはいいことだろうが、経営は大変である。まあ、それはうちの講座も同じだから、どうしようもないよな。

あいかわらず、食事もとらずに、ビールを飲みまくるYさん。酔っぱらって来て「キミが事務局長にならなかったのが悪いんだ」などと、また古い話を蒸し返すので、Mさんと苦笑い。面白い人なのだが、酒量が増えると話がとぶので、聞き取るのがちょっと難しい。ちなみに、私は、当時から「社員」ではなく、外部スタッフ。コース年度ごとの業務契約である。ただ、この学校は、50年の歴史で、4コースの担当をしたことがある人は少なくて(というか、4コース体制になったのが、7年前からだけど)、たいていの社員は、演芸か脚本など、一つのコースを担当のみである。というのは、それだけ専門的なスタッフ能力が必要だと考えられているからである。単なる事務員ではない。

私は、この学校では、もともと広報とか、イベントの企画を担当するために契約して働き出したのだが、内部事情により、コース担当もするようになって、小説、文章、演芸、脚本のコース運営も見るようになった。(あと新しいコースを2コース創設したが、これはすぐツブれた)

この学校の講座の特徴は、一つのコースを複数の講師が分担することで、一コースあたり、講師が二十人前後もいる。ちょっと多いし、こういう形式は、少しめずらしいようだ。講師一人は、年1〜5回くらいの出講だけなのだが、一年間に百数十人の講師が入れ替わり立ち代わりである。つまり、40回近い単独講座をまとめてセットにして、連続講座にしているわけである。こういう体制をすると、忙しい放送作家やシナリオライター、作家などでも「年1回だけでもお願いします」と言えるので、現役バリバリのプロから、現場のナマ情報を含めて、個人的なノウハウを聞けるというメリットがあり、講師の方も、滅多に話すわけではないから、かなり濃い内容が聞ける。ただ、こういうやり方にも一長一短はあり、他の講座では、一人の講師がずっと指導する体制をとるところも多いのだが、そういう講座なら、基礎からじっくり体系的に教えてもらえるし、講師と個人的なつながりもできるわけで、どちらのシステムがいいかは、生徒さんの体質にもよるので、一概には言いがたい。

ただ、少なくとも運営側の立場から言うと、一つのコースに講師が何十人もいるというのは、手間がかかることは間違いない。講師のスケジュール調整から、カリキュラム上の補填(基礎的なことは、講師が「誰かがとっくに説明しているだろう」と誰も言わなかったりするのである)、作品指導の手配(どんな作品で、どの講師が一番ふさわしいか)、生徒さんからの相談まで、なんだかんだで運営側の手間が膨大になる。一人の講師しかいない講座に較べると、かなりの作業量である。実は、演芸の専攻科などでは、講師一人が続けて担当する専門コースもあったのだが、こういうコースは、事務の仕事は、作品指導のための「作品集」を配るくらいしかないので、ものすごくラクである。

だから、講師数(講義数ではなく、講師の数)が少なければ少ないほど、本当は、運営はラクになるのはわかっているのだが、それでも複数制にこだわっているのは、ある意味、「現役のプロ作家」にこだわっているからである。だいたい現役のプロ作家は忙しい。だから、一人で講師をするのはかなり難しい。私自身、専門学校では非常勤講師をしているが、週1回半日だけと言っても、それはそれで、かなり大変である。その間、確実に仕事の原稿は書けないし、取材の予定も組めない。まあ、作家さんなんか、かなり大量に書いている人でも兼業作家と言う人もいるので、その気になればやれるのだろうが、だいたい非常勤講師というのは、専門学校でも大学でも収入面ではさほどないわけで(教授なら別)、実際のところ、講師を引き受けている人の多くは、収入のためというよりは、「後輩育成をする」とか、社会貢献のために引き受けている場合も多いと思う。

小説家の人の中には、「僕は誰にも手伝ってもらわずに作家になった」という人も多いそうで、「小説講座なんかくだらない」とまで言う人もいるらしい(そういう人は講師など引き受けないので、私は会ったことはないが、うわさは何度も耳にする)。まあ、今はまだ「小説講座なんぞに通わずに作家になった」という人が多いだろうけど、これもそのうち変わるんじゃないだろうか、と私は思っている。個人的には、小説講座の有効性がもし本当に低いとすれば、それはたぶん「純文学系」が多いせいではないかという気がしている。そもそも純文学系の講座の中には、必ずしもプロ養成とは限らないわけものも多いわけだし。でも、「エンターテインメント系」に限れば、ストーリーテリングとか、構成とか、いろんな創作法とか、どう考えても、「教えてもらった方がトク」ではないかと思う。少なくとも、たぶん独学よりはラクである。

ただ、放送作家やシナリオライターは、現在はすでに、講座などを経由する人の方が圧倒的に多く、演芸作家でも、少なくとも大阪では、圧倒的に「大阪シナリオ学校」の出身者が多い。というか、関西の漫才台本が所属する「関西演芸作家協会」などは、今でも大阪シナリオ学校の卒業生の比率が圧倒的に高く、学校内の教室を外部レンタルして、毎月、例会に使っているくらいである。(ちなみに、ここは漫才台本の著作権管理の団体なので、この団体に所属してないと放送上、二次使用の著作権が支払われないらしい)。
新作漫才大会などがあれば、過半数は、卒業生の台本だし、ほとんどの関西制作のバラエティ番組のスタッフの中に、誰か卒業生がいるという状態である。

(注:大阪では、テレビでもラジオでも、どんな番組でも「お笑い」の要素がないと、番組が成立しないと言われている。そのせいか、漫才台本を書ける演芸作家が、放送台本を書く場合が多く、業界に占める演芸作家の比率がめちゃくちゃ高いのである。そのせいか、在阪の放送作家のかなりの割合、もしかすると8割くらいは、演芸作家系。あるいは、日頃は書かないけど、たまには書く、書こうと思えば書ける、あるいは、書かないけど、落語会には通っているという作家でかなり占められている。他の地方では、考えられないかもしれないが、大阪には、そういう特殊なマスコミ事情があるのである。なにせ、お笑いのメッカ。視聴者も「お笑い好き」ばかりだし、笑いが書けないと、放送作家としては圧倒的に不利なのである。まあ、今は、かなり減ったとはいえ、それでも全国ネットする番組数もそこそこあるんだけど、考えてみたら、ヘンな町ですな)

演芸台本も、小説も、シナリオも、ほとんどの生徒さんは、入学して1年かけて卒業するまでに、その作品を見れば、確実に上達している。正直、内心「うーん、ひどすぎるなあ」と思ったような作品を書いている人ほど、劇的に変化する。とくに前半はレクチャー中心だし、複数講師で作品指導回数は、それほど多くはないのだが(せいぜい年に2〜5回である)、だから、手取り足とり教えるというよりは、いきなり海に連れて行って、「さあ、泳いでこーい」とドボンと落としているようなちょっと乱暴な教え方なよな気がしているのだが、それでも、ほぼ全員、なぜか驚くほど上達する。

そんなわけで、私は、講座そのものの有効性自体を疑ったことはほぼ一度もないのだけど、なにせ放送作家もシナリオライターも小説家も、おそらくデビューできたとしても、なにせ「生き残り率」が低い世界である。フリーランスだし、企業に就職するのとなにせわけが違う。ただ、小説を書きたいと思ったりするのは、けっこうよくあることだし、書けば人に読んでもらいたいというのも、自然な欲求である。それなら、多少、読みやすいように書きたいというのも当然だし、結局、プロ志望かどうかは、その後の判断でいいので、一年間の小説講座を卒業した人が、半数以上、専攻科に進学することなく、小説そのものを書かなくなっても、それはそれで当然だろうから、それはいいのである。

ただ、少なくとも、うちの小説講座に通ったことがあれば、いい読者にはなるようである。というのは、「ミステリなんか読んだこともなかったのに、けっこうハマってしまった」とか、「全然知らない本だけど、紹介されたので読んでみたら面白かった」とか「小説の読み方がかわりました」とか、少なくとも、楽しい読書講座にはなっているようだからである。たいていの人は、「私は何でも読むんですよ」という割には、案外、読書範囲が片寄っているものだし、それが広がるだけでも、人生が楽しくなる。

だから、小説講座を運営しているのは、大変面白いのだが、ただ、運営的には「大阪シナリオ学校」と同じく、うちの講座も、儲かりはしないことは確かである。やれやれ、あと50年か。もし続けられたら、それだけでスゴイんだけどなあ。


09/24/2005

小説の登場人物とハリケーンの名前

9月23日(金)
祝日は、小説講座の事務局はお休みです。

朝から双子たちが、おもちゃなどをカバンにつめたりして、バタバタしているので、理由を聞いてみると「おばあちゃんに子守りを頼まれてるねん。私たち、お手伝いしなくちゃあかんねん」と言う。実家に、妹のところの子供たちが来ているらしい。実妹のところには、4歳の男の双子がいる。祝日も、出勤しなくてはいけない妹は、実家に子供たちを預けたらしい。で、母が、うちの7歳の娘たちに相手を頼んだというわけだ。娘たちは「夜も一緒に寝るねん」とはりきっている。

祝日も仕事をする妹の家では、普段なら、彼女の夫が子守りをしているらしいのだが、あいにく彼はアメリカに出張中なのだそうだ。アメリカは、再びハリケーンでパニック状態だそうで、テキサスにいた彼も、仕事にならず、帰りたくても空港で何時間待っても帰れず、今は、現地の人たちと避難しているんだそうだ。前のハリケーンの時には、誰も関係している人がいなかったので、遠い国のことだと思っていたが、身近な人が巻き込まれていると、急に怖くなる。

しかし、母が、「リタに引き止められて、帰れないらしいわ。怖いのかしら、リタって」などと繰り返し言うので、ちょっと妙な感じになる。あちらの国は、ハリケーンに名前をつけている。今は、女性名と男性名が交互についているはずだが、かつて、こっちの国でもジェーンとかいう性悪女があばれまわって、人がたくさん死んでいる。あの頃は、台風には全部「女性名」ばかりがついていたのだが(なんだかどうしても男性の悪意を感じますね)、リタという名前の人は、今、アメリカにどれくらいの数いるのだろう。アメリカ人の名前は、どんな名前が多いのかさっぱりよくわからない。あちらでは、人の名前の数は案外少ないらしいから、かなりの数いるのかもしれない。カトリーナも多いのかな。

以前、アメリカの有名なコラムニストのエッセイで、「マドンナ」が流行っている時、同じ名前なのでイヤがっているという女性の話を読んだことがある。これを読んだ時、「たぶんマドンナという名前は、アメリカではさほど多くないんだろうなあ」と思った覚えがあるのだが、実際、どれくらい珍しい名前かよくわからない。そう言えば、「リリー」という名前がちょっとエキゾチックな感じがするので好きだったのだが、アメリカ生まれの女性に「こういう名前の人がよくいるの?」と聞いたら、彼女は、ちょっと考えて、「うーん。昔っぽい名前よねえ。おばあちゃんの名前みたいな。今の若い人はあんまりつけない名前ね。ああ、犬の名前ならよくあるわね」などと言うので、ちょっとがっくりきた覚えがある。言われてみれば、なんだか古風な響きはあるような気もするのだが、犬の名前とは。日本でたとえると「ハナちゃん」みたいなもんなんだろうか。

小説を書いている人は、しばしば主人公や登場人物の「名前」をどうするか、で悩んだりすることがあるそうだ。途中まで書いていて、なんかイメージに合わずに変えてしまったという話もよく聞く。というのは、何カ所か、書き換え忘れて残っているような生徒作品がごくたまにあるからである。いきなり「これ誰?」というような人が出てきて、びっくりするのだが、割とよくあることなので、最近は、「ああ、これはこの主人公のことだな」とすぐにわかるようになった。(人間って、何にでも慣れてしまうものなのだなあ)。けっこうよくあるケースである。

ドラマとか映画なら、名前の場合、「音」が大事だろうが、小説の場合は、字面が大事である。なにせ小説は、主人公の顔がいちいち画面に出せるわけではないので、名前の印象というのも、かなり強いようなのである。ところで、この名前の印象というのは、ちょっと面白くて、たとえば「正子」なんていう名前だとなんだか真面目そうで、「アケミ」などと書かれると、ちょっとはすっぱな感じがする。同じアケミでも、「明美」と書かれるとちょっと普通になるし、朱実になるとまたちょっと違う印象である。

現実社会では、「亜梨沙」の方がありふれた普通のおばさんで、「富子」の方がイケイケの女子高生という例があるかもしれないけど、小説の世界ではそういう人は少ない。名字でいうと、どうも福田とか、山下、中村などという人は、なんとなく真面目そうな名前に見えるし、キトウとか、ケンザキとか、どういうわけか、シとかキとかいう音が混じっていると、ちょっとキツそうな名前に見える気がする。「シバザキ」なんていう名前だと、小説やドラマに出てくる場合、なぜか主人公の友人だとか、そういう脇役が多い気がする。しかも、たいていちょっとキザなタイプだったりするのだが、これはどういうイメージなんだろう。しかし、現実世界では、先に名前を知っていた場合、想像通りの人だった経験がなぜか私には一度もないのだけど、やっぱりどこかに名前のイメージぴったりという人がいるのだろうか。

そう言えば、娘たちのクラス名簿を見ると、今は、カッコイイ名前が多くて、とくに女の子は、みんな少女マンガの主人公みたいな名前である。もうすぐ運動会があるのだが、体操服を着た子供たちは、遠くから見るとみんなおんなじ顔に見えて、自分の子供さえ探すのが難しい。どの子がどの子でもみんな同じである。こんな私だから、小説くらいは、ある程度、区別がつきやすい、覚えやすい名前をつけといてもらいたいのだが、まあ、うちは双子の娘の名前をつけるのに、夫とギリギリまで意見が合わなかったくらいだから、この「名付け」というのが、けっこう大変だってことは知っているのである。

なににせよ、できれば「リタさん」が肩身のせまい思いをするようなことにならなければいいが、と、遠くの国のことを思っている。

素材と料理法で楽しむ料理と小説

9月22日(木)
終日、外出。小説講座の事務所には入れず。

午前中、病院。午後から専門学校の方の非常勤講師。なんだかんだで、また夜中まで仕事。しかし、こんだけ忙しく、金にならんことばかりやってる私って、よほどのアホか。ま、考えようによっては、優雅な毎日か。

専門学校では、非常勤として教えているけど、小説講座の方は、企画と運営だけを担当しているので、私が教えることはまずない。というか、こっちは素晴らしい講師がいっぱい揃っているので、私の出る幕なぞないのだ。だいたい小説はもともと専門家ではないわけだし。専攻科の人なら知っていると思うけど、まあ、生徒の作品に対する感想などもよほど強く聞かれない限り、めったに言わないくらいである。

ちなみに、専門学校の方は、これは小説の書き方ではなくて、本来は「アイデアの技術と方法」がテーマだし、一般的な教養的な扱いなので、映画(まあ、個人的な趣味で、アニメだらけだが)の解説をメインに、簡単なアイデア出しの実習をやっているだけ。実習も一回約30〜45分の短いものばかりである。実際、大量の資料を作っている割には、講師料は安いが、教えることでこちらも見えてなかったことが見えたりするから、それなりに勉強にはなっている。生徒さんも、おせじだろうが、週で一番楽しみな講義とか言う人が多いので、まあ、それなりに楽しいんだろう。なにせ、専門学校のマンガ科コースなので、ただ教養がつけばいいというもんでもないのだが。うーん、大学ならまず教養が身につけばいいんだろうけどな。

まあ、専門学校は基本的に「実学」をめざしているわけで、「教養」的な教育は、基本的に少ない。ただ、「実学」と言っても、本当の現場ではそれほど通用しない。専門学校で、学んでも、それは「架空」の実務だからである。だから、ある意味、これも一種の「教養」なんだろう。専門的ではあるが、一種の実学的な教養である。グラフィックデザイナーだって、いくら専門学校を出たからと行って、実際の実務経験がなければ、ただの新卒である。まあ、プロのデザイナーとして使い物になるかどうか、まだわかんない。Macのソフトが扱えるとしても、締切とか、クライアントの注文とか、いろんな制約のもとで、どれだけのクオリティが出せるかがわからないからである。実際、専門学校で学ぶ程度の技術なら、まったくやってことがない人でも、現場で数カ月もすれば追いついてしまうから、スペシャリストとしての勝負はそこから先の話になる。そうなると、案外「教養」とか「資質」が重要だったりするのだ。

さて、小説家志望の人の中にも、「私って、『才能』がないから、やっぱりダメなんでしょうか」という人がいる。まあ、やっぱりダメかどうかは未来予測だし、小説は、どっちみち「確率」で判断するには、成功するまでがあまりに長丁場になるので、ちょっと返答ができないのだが、それよりも何よりも「才能って何?」というのが、疑問なところではある。「才能」…なんか、よくわからんもんだ。うさんくさい臭いもするしなあ。先生によっては、「才能とはやり続けることだ」という人もいるし、実際、どう考えてもすぐにあきらめる人が圧倒的に多い。まあ、とくに純文学系だと「高校生デビュー」とかしちゃうから、それもあるんだろうけど、まずは数年かかると思ってもらった方がラクだと思うのだが、まあ、ほとんど9割以上が、一本ないし数本書いただけであきらめる。(中には一本も完成せずにあきらめる)

しかし、「才能があるんでしょうか?」と聞きたくなる生徒さんの気持ちもわかるので、市販されている作家のエッセイなどから、作家にとっての「才能」とは何か、ということをいろいろと抜き出して考えてみた。
(でも、多くの大作家さんでも、やはり才能よりは技術とか努力を語りたがる。「自分が作家になれたのは才能があったからだよ」なんて人はまああまりいない。まあ、当然だろうけど。ただ、かなり匂わす人はいるけど。で、案外「運がよかった」なんて人が多かったりするんだが。ああ、運のよさ! 売れているタレントも、みんなそういうよな。でも、正直、何もせずに王子様がやって来たというのは、やや信じがたいのだが。だって、白雪姫みたいに、わざとらしく横たわって待ってたかもしんないじゃん。ま、これをさらに分析するのは面倒そうだし、私の手には負えないから、とりあえず無視する)。

そうやってみると、「技術」(文章能力、構成力、発想力、その他)あるいは「営業力」(「編集者のおかげ」的な要素、あるいは処世術、賞の取り方など)などをのぞいた部分、つまり「いわゆる才能」は、どうやら二つの要素に分けられるのではないかと私には思えてきた。

「教養」と「資質」である。「教養」というのは、簡単にいうと「知識」をたくさん知っているかどうかである(本来の「教養」は、単なる「知識」を身につけるだけでなく、「知恵」を身につけるためのものだという批判もあるだろうが、知恵とは何かと語ると、それはそれでややこしいのでこの際、知識の量だけだと考えよう)。

さらに、これも二つに分けられるんではないかと思う。つまり小説創作のための「直接的な教養(実学的教養)」と「間接的な教養(一般教養)」である。直接的教養は、たとえばエンターテインメントの場合は、ずばり「他の作品をどんだけ見たことがあるか」である。これはストーリー作りの時に、他の物語の骨格をどれだけたくさん知っているかで、使える「技」の数が決まるのである。少なくともエンターテインメントの場合、このあたりは大きく差がつく部分だったりするから、かなり重要である。「間接的な教養」というのは、たとえば、コンピュータ業界を舞台にした作品だったりすると、それに関する知識も必要となるので、そういう知識もかなり必要になる。これがどれくらいの量あるかは、小説創作に直接関わらないが、間接的には重要なので、とりあえず間接的教養と考える。

で、これらの「教養」を仮に「知識の量」と比例すると仮定すると(まあ、単純には比例しないかもしれないが。まあ、一応)、これは、まずは知識を詰め込めばいいわけである。もちろん、小説を書くのに、「人間心理」「人生のいろいろ」なんかも必要だし、人生経験は生かせるわけだから、それらも、一種の教養と考える。

で、たぶん問題なのは、「資質」なのである。教養は、おそらく自分でもあるかないか、検討がつくんだろうし、努力次第で今後も身につくような気がするからである。だから、「才能がないんでしょうか」というような質問をする生徒さんが気にしている「才能」の本質は、たぶんこっちの方なんじゃないかと思う。「資質」。あるいは、体質、ですね。

考えてみると、スポーツ選手とか、あるいは歌手だとかは、「才能」というのは、おそらく「資質」なのではないかと思う。確かに、あまりに背が低い「バスケット選手」とか「バレー選手」は、間違いなく不利である。歌手も、関係者に聞いた話では、「新人歌手は、多少音程がはずれてても、訓練次第で、直るから、それは問題ではない」んだそうだ。「それよりは、声質。あとは声量」という話を聞いたことがある。こういうのも、資質の問題ですね。少なくとも技術の問題ではないようだ。

では、どういう人が作家に必要な体質なのか、というと、これがちょっとよくわからない。作家のエッセイとかをたくさん読んで、そこから読みとれる共通点と言えば、「面倒なことがあっても、結局、書くらしいな」ということしか見つからない。そりゃ、多少、自己顕示欲は強い人が多いのだろうけど、それくらいなら一般の人も案外、強い人が多いものだし、作家だけがとくに強いとも思われない。体質も経歴もいろいろだし。だから、資質というのが何か、私にはわからないのである。まあ、スポーツ選手とは違って、体力じゃなくて、性格的なもんなんだろうけどさ。

で、思うのだけど、こういうことではないだろうか。資質については、たぶん、どういう人でもたいてい何とかなるのである。たくさん作家のエッセイなど読んだけど、やっぱりわからないのである。つまり、料理法によれば、誰でもけっこう食える食材なんだろうな、きっと。(考えてみれば、バスケットでもバレーでも、たまに低い選手もいるもんなあ)。とにかく、肝心なのは、自分という素材がどんなものか知ることと、あとは料理法の選択なのかもしれないよ。

09/22/2005

やっぱ、人生いろいろあるのよね

9月21日(水)
午前中、外出。午後から小説講座の事務所。

あいかわらずバタバタ忙しい。生徒さんから電話が数件、相談も仕事のうち。これだけ忙しい中、某社の「事業案内」のコピーの仕事が入り、大慌てで作成。時間がなさすぎて、正直、今回まったく自信がない。忙しいので、本当は一度断った仕事なのだけど、事情により、引き受ける羽目になってしまったのだ(先方はそれでもいいみたいなんだけど、こっちは仕上がりが悪くて、気持ち悪い)。結局、昨日今日とあまり寝ていない。なんとか仕上げてメール送信。ううう、今週は、神経が休まる間がないなあ。年度末の書類も山積み。このまま、なんだかんだで、たぶん10月5日頃までこの調子だろうけど、体力持つかなあ。来週は、イベントが一件あり(広告の方の仕事)、さらに「ショートショート大賞」の締切もあるんだよねえ。専門学校の成績つけもあるし、どうやって乗り切るんだろう。がんばれ、アタシ。

さて、今週は、専門学校の方の生徒さんにも、高井先生の『ショートショートの世界』を紹介。この本のいいところは、新書で手に入りやすい価格だというのもあるけど、創作希望の方には、とくに「第三章」がオススメなのだ。この本は、第一章「ショートショートの定義」で、第二章は「ショートショートの歴史」と知識中心なのだが、第三章は「ショートショートの書き方」なのだ。これは、これから小説を書いてみたいという人には読んでおくと絶対トク。星新一、阿刀田高、都筑道夫、眉村卓、筒井康隆など、ショートショートの名手の創作法を、それぞれのエッセイなどから紹介している。これらの著書は、創作のヒントが書いてあるので、けっこう貴重なんだけど、今、手に入りにくいものもけっこう多いんだよね。でも、これらの著書をくまなく調べて、エッセンスを紹介してあるし、これだけコンパクトにまとめられていると、「ショートショートを書きたい」という人から、いわゆる長編とか短編を書きたい人にも参考になる。もちろん「ショートショートを読みたいだけ」っていう人も、ここをさっと読むだけでも、いろいろ面白くて、ちょっと読み方も変わるかも。

ちなみに、紹介されているショートショートの本も、今は絶版になっているものもあるんだけど(残念、再版してほしいなあ)、表紙の写真つきで、かなり紹介されている。中には今は貴重で高価な古本もあるから、ビンボーで手が出せない私には、これもちょっと嬉しい特典。

やはり社会人が多い小説講座と較べると、専門学校の方の生徒さんは、小説をまったく書いたことがない十代の若い人ばかりが多いので、ショートショートを知らない人がけっこういる。そして、なぜか「途中まで書いたけど、完成しなかった」という人がものすごく多い。

でも、ショートショートは短いし、ある意味、少なくとも長さだけ見れば、「ちょっと書いてみたいな」と思った初心者に向いているジャンルかもしれない。あと、もう一つ、ショートショートのいい点は、アイデアそのものを吟味するようになることではないかと思う。というのは、どうも小説を書く人の中には、いきなり思いついたことをだらだらと(もちろん結末も考えずに)書きはじめるという人が案外多いようだ(だから、結末まで書けないか、無理やり中途半端に終わらせたみたいな作品になるみたい)。あと、専門学校の生徒さんは、もしかすると、ファンタジー志望が多いせいかも。設定にごちゃごちゃ凝るので、どんどん話が横道にそれて、いつまでも終わらないみたいなのね。

その点、ショートショートというのは、長さは短いのだが、短いだけに、アイデアもしっかりしてないと面白くないし、プロットもきちんとできていないと書けない。と考えると、それはそれで、けっこう難しいものではあるのだが、とにかく初心者のうちは「最後まで書く」のが大事(あ、初心者じゃなくても、最後まで書く必要はあるけど)。そして、一つでもいいからちゃんと作品を仕上げるのが大事なので、長編を書きたい人や短編を書きたい人も、ショートショートから書いてみるのは勉強になる。ショートショートから書き始めると、基本的なことがけっこう身につきやすいみたいなのだ。(あと長編を書くのは体力と気力の問題)

でも、幸い、うちの生徒さんたちは、来月、最後の講義が、高井先生なので、また直にレクチャーが聞けるはずなので(ふっふっふ、しあわせ者!)、そのあとは、詳しいことは次の講義で。(あ、今週は連休中なので、講義はお休みですぜ)ところで、余談だけど、もし一般の人がこのブログを読んでいる場合は、「私は、あくまでも事務担当者にすぎない」ということをぜひぜひお忘れなく。第三者というか、個人的な見解がかなり多いから、私の意見は、実際、プロで活躍している講師の人たちの、中身の濃いアドバイスとは根本的に違うのだぞ。ホントに小説を書きたい人は、さっさと入学すべし。あ、遠方の人は、新幹線通学でもこちらはかまいませんので。

(ちなみに、小説講座でこれまでに一番遠いのは、名古屋まで30分かけて来て、そこから新幹線通学をしていた生徒さん。演芸科だと、九州とか、北陸とか、あと、東京から深夜バスも多かったんだけどな。まあ、大阪は、お笑いのメッカですが、出版はあっちがメッカなんだろうけど)

さて、夕方、パソコンを打っていると、えらいミスに気がつく。半年分の経理ファイルがないのである。どう探しても見当たらなくて、なぜか3月までの古いデータしかない。どうも考えられるのは、バックアップの際のミスである。バックアップをとる時に、古いファイルを取り込んだということだ。うぎゃああ。ってことは、半年分の経理データがパアってこと?(正確には、合算してない3ヵ月分は別に保存されているのだが)。うげげ。

なんでそんなことになったんだろう。今年が初年度なのだが、今、経理ファイルのシステムをエクセルで自力でなんとか作っているので、銀行帳だの、講師交通費伝票だの、現金出納帳などをファイル連結したりして、ちょっとデータがややこしくなっているのだ。今月末が年度末になるので、もう大詰めだったのに。エクセル苦手なのに。経理事務も苦手なのに。もうすぐ初めての決算なのに。今年は、経理を外注委託する金もないぞお。ぎええええ。どうしよう。

まあ、手書きの伝票はあるので、また打ち込めば済むことだが、いくらなんでも10時間くらいはかかるなあ。この忙しいのに、どうするんだあ。まさにピンチ。

あんまりショックなので、1時間ほど何も手がつかず、結局、今日のところは、帰宅することに。昨日、自転車がパンクして、京橋にほったらかしていたので、取りに行かねばならない。京橋周辺は、週1〜2回、自転車放置を撤去するトラックが来るので、何日も放置できないのである。昨日は、アポの時間が迫っていて、やむなくパンクした自転車を路上に放置したままだったのだ。で、JRで移動して、京橋へ。自転車をとめていた所に来ると、ぎゃああああ。ない。ない。そして、そこには「ここの止めていた自転車は、9月21日に撤去しました」という貼り紙が。え、うそ……。そ、そんな……。踏んだり蹴ったりとは、まさにこのことだわ。ううう。

「保管所まで取りに来て下さい。一ヵ月間、保管します。撤去手数料2500円。」
うーん、がっくり。まあ、そりゃ、確かに放置自転車だけどさあ。でもでも、パンクしてたんだよう。しくしく。ほんの一日だけ、初めての自転車放置(私は、基本的に自転車は大事にするのだ)なのに、そんなことってあるのかしらん。ううう。

すっかり落ち込む私。でも、考えようだな。もしこれが本当に「自転車泥棒」だったら、2500円で済む方がまだいいわけだしな。それに、あの保管所なら自転車屋に近いはずだから、京橋よりは、パンクした自転車を運んで保管してもらっていると思えば……、と、そこまで考えて、なんとか立ち直ろうとしたのだが、あれっ、もしかして、っていうことは、保管所まで取りに行っても、結局「見つからない。やっぱり取られてたわ」という可能性もまだあるんじゃないの、ってなことに気がつき、やっぱり落ち込む。げーろげろ。

そんなこんなで、よろよろと帰宅。あわてて夕食の支度。バタバタとしながら、ひょいと娘の顔を見ると(双子の姉の方)昨日、顔面にできていた大きな吹き出物が、なぜか顔全体に広がっている。ひえええ、何、その顔。鼻の頭にも水泡がいっぱいできている。ええっ、トビヒか? しかし、これだけひどければ、さすがに病院につれていかなくては。「ああ、でも、とにかく食事を」と子供たちを食べさせていると、今度は、仕事の電話がたてつづけに数件かかってくる。イベントの仕事で、手配していた人がキャンセルになって、また人材探しの連絡待ちなのだ。

結局、最後の電話を切ったのは、10時過ぎ。もはや病院は行けず。明日、学校を休ませて、病院に連れて行くことにする。傷を痛がる娘をなんとか寝かしつけようとして、「耳なし芳一」の話を力一杯やってあげたら、力一杯やりすぎて、びびらせてしまい、かえって泣かしてしまった。(でも、それ、本人のリクエストだったんだよう)。布団で泣き寝入りした娘たちを見届けて、ごちゃごちゃと夜更けまでパソコン仕事。うう、疲れる。今週、体もつかしら。

しかし、なんかホント、今日は、散々な一日だったような気がするんだけど、気のせいかな。

09/21/2005

いつか行きたい、虹の向こうに

9月20日(火)
午後から小説講座の事務所。事務作業いろいろ。

丁稚どんは、入学資料の発送や「大阪ショートショート大賞」の受付作業など。私は、欠席者への資料発送および来客2件。欠席者への資料発送は、来月1日で最終講義なので、あと1回だけである。毎年、「何の役にも立たないんですけど、受け取って下さいね」と渡す修了証。いや、うちはただの小説講座なので、修了したからと言って、何か資格がもらえるわけでもなし。ホント、何の役にも立たないのだが、毎年、最後の講義日にお渡ししてますので、受け取ってね。たまたま最終講義の講師だった先生に手渡してもらうことにしているのですが、今年は、高井信先生の予定。

その高井先生の『ショートショートの世界』は、ついに発売。私も、数年前からずっと出版を待っていたので、かなり嬉しい。新書版で、お手ごろ価格です。皆さん買いましょう。といっても、実は、講義で配布してもらっている資料だけでなく、先生が持っていた膨大な資料の一部を見せてもらっていたので、個人的には、かなり高くなってもいいから、年表や資料をたんまりつけて分厚いまま出版してほしかった気がするけど(個人的な希望)。商業的な判断だろうから、仕方ないんだろうなあ(でも、先生にこっそり見せてもらった資料は、これの数倍は分厚いものなのよね)。

小説講座は社会人が多いので、知らない人はあまりいませんが、私が教えている専門学校生の方は、「ショートショート」という言葉すらほとんど知りません。でも、星新一は、「教科書でなんか見たことがある」のだそうです。そう言えば、「大阪シナリオ学校」にいた頃は、よく「ショートコントの台本のことですか?」と言われました。バラエティ番組で、「ショートショート劇場」とかいうショートコントのコーナーがあったりするからでしょう。まあ、そんなことを言うのは、もちろん「演芸台本科」の生徒さんだけど。

小説講座の生徒さんでも、「当時は、『ショートショートランド』っていうショートショート専門雑誌もあったんだよう」(私は、創刊から最後までなぜかちゃんと購読してた)というと驚きます。小説講座の生徒さんでも、「当時は、『ショートショートランド』っていうショートショート専門雑誌もあったんだよ」というと驚くけどね(私は、創刊から最後まで購読してたのよん)

ともかく「ショートショートとは何か」という内容の本は、ほとんどなかったので、数千冊の調査を元にしたこの高井先生の新書は、歴史的な資料価値はかなり高い。これは絶対に急いで買うべし。個人的には、今、ショートショート研究とか、あるいは当時のSFブームの研究なども思ったほどされてないのは、まだバリバリの現役作家がいっぱいいるからで、あと数十年たって、7割くらい死に絶えたら、そこんとこに研究者たちが目をつけないはずはないと思います。たぶん。やっぱ、家宝にコレ一冊。

さて、話は変わるけど、世の中には「やりたいこと」がやれない人がけっこういる。金銭的な問題ではなく、心理的な問題である。世間には「やりたいことはどんどんやるべき」という価値観と「やりたいことをやらずに我慢するのが美徳」という二つの価値観があるのだが、通常、世間の人はこの二つをうまく使い分けている。まあ、「経済活性化」と「エコライフ」を同時に目標とする行政さん(大阪人は、何でも「さん」をつけるが、お役所さんよりは、行政さんという言い方の方がちょっとけったい)を見習うまでもなく、たいていの人は、その場その場で使い分けている。

まあ、あまり要領のいい人ばかりじゃないから、ある作家さんは、「やりたいことをやらずに我慢するのが美徳」という母親の教育が相当に強かったそうで、「犬を飼いたい」と思いながらずっと我慢を続けていたそうで、「犬を飼いたいと思っているんですがね」というので、「じゃあ、飼えば」と私が言うと、「ええっ、飼うの!? そんなことしていいの」と飛び上がって驚かれたので、こっちが驚いた。「あれ、なんか、飼うのに問題があるんですか? なんか障害が?」と聞いたら、じっと考えて「うーん、とくに無いよなあ。そうか、飼ってもいいのか。そうかそうか」と納得したらしく、それから数年たった今では、犬に振り回されている(なにせ大型犬なのである)毎日を楽しく過ごしているようだ。よかったよかった。

何かやりたいことがあって、とくに大きな問題となる障害もなかった場合、「じゃあ、やってみよう」というのが、割と、普通の行動だろうと思う。もちろん、大きな障害が立ちふさがっていることは多い。何か欲しいブランドバックがあっても、値段が高いとか(経済的障害)。あるいは「ビキニを着たい」と思っても「それは恥ずかしい」とか(精神的障害)、あるいは「あいにくサイズがない」(物理的障害)、あるいは「見苦しい」と周囲に猛反対される(第三者障害)などと、まあ、どんなことにも「障害」はつきものなのだが、要は、その障害の強さと行動後に引き起こされる問題の大きさ、それと「やりたい欲望」のバランスで、普通は、やるかやらないかを決定している。

ところで、そのバランスの中で、犠牲(?)になっているらしいのが、もしかすると「専業主婦」ではないかと思うことがたまにある。先日も、知人と電話していて、つくづく「専業主婦って大変だなあ」と思った。実際には、専業主婦だけでなく、たとえば、男性でもそういうタイプはたくさんいるんだろうと思うけど、そういう人はバランスがとれなくて、しんどい目にあっているらしいのである。

私は、仕事を持っているせいか、保育所の知り合いも「働くママ」で、仕事で知り合う女性も、みんな「働くママ」だったりする。だから、周囲の専業主婦と言えば、たいてい学生時代の友人だけなのだが、たまに女性と知り合って、ちょっと話をして、私が仕事をもっていて、しかもコピーライターだと言うと、途端に「いいわねえ」とちょっと複雑な顔をして、途端に急にちょっと攻撃的な態度に変わる専業主婦がたまにいる。

この「いいわねえ」などというのは、実は、中産階級の奥様たちに限られている。かなりリッチな家の主婦の方たちは、決して「いいわねえ」などとは言わない。言うとしたら、たぶんバカにした言い方である。リッチな主婦たちは、「大変ねえ」と言いつつ、「金のために働くなんて可哀相」くらいにしか思ってないのである。もちろんリッチな主婦も働くことはあるが、それは金のためではなく「自己実現」のためである。私なんか、金がなくて働いていることは間違いないので、そういう仕事を持たないと仕方ない人に対しては、「大変ねえ」というのが普通である。

どうやら「いいわねえ」というのは、そのあとに来るセリフから判断して、二つの意味がある。一つは、「私も働きたいんだけど、働けるかしら」である。でも、もう一つは、「私も働きたいけど、主人がウンといってくれないのよね」である。これには、複雑な心理が働いていて、だいたい主婦が「うちの主人は、家事は何ひとつできなくて」とぼやくのは、マジに不満であるというよりは、実は「ほとんど自慢」という場合がけっこう多い。奥様方は、「うちの人は、ぜんぜん家事を手伝ってくれないのよ」と口では言うのに、実は、内心ではキッチンに入られるのを極端に嫌っている人が多い。「お茶も入れない」というダンナを持っている奥さんは、たいていそういう所がどこかにある。まあ、そういうダンナも、冷蔵庫をあけて、腐りかけた野菜を見つけてしまうよりは、さっさとビールだけ出して、あとは知らん顔をしている方がラクだろうけど。

女性雑誌なんぞを見ていると「主婦だけど輝く」とか「主婦らしく見えない化粧テク」とか「いきいきと生きがいを見つけて、家庭を両立」とか、なんだか元気な記事がいっぱい載っている。専業主婦向けの雑誌を見ても、せこせこした節約術ばかりが載っているだけではないのである。こういった雑誌の内職ビジネスの広告(このビジネスで金を出すのは主婦なので、主婦は決して儲からない仕組みになっている)では、「生きがいと収入」という文字が躍っている。決して「収入」だけではないのである。そう、「生きがい」が大事。

女性雑誌には「やりたいことやらなきゃソン」みたいな記事がいっぱい書いてある。まあ、ああいう雑誌は、化粧品の広告もいっぱい載せているわけだし、ファッションも売らないといけないし、どっちみち(金を使って)イキイキと生きてもらわなくては困る。まあ、イキイキと生きる方が楽しいに決まってるじゃないか。

ところが、一方で「やりたいことを我慢するのが美徳」みたいなところも強いのが専業主婦である。このあたりに矛盾が生じる。私の学生時代の友人で、たまの同窓会に「子供が小さいし、実家が預かってくれなくて、主人しか家にいないから」という理由で来なかった女性がいる。まあ、来たくない理由が他にあったのかもしれないけど、たぶん「来たかったけど、主人だけじゃ、子供を預けることができないわ」と本当に思っていたようである。たった年に1回、ほんの4時間の外出さえもしない。おそらく彼女は、子供が小学校にあがるまでは、一時も離れず、べったりと一緒にいてあげるのがいい母親だと信じているのだと思う。(いや、お父ちゃんがホントに子守りもできない役立たずなのかもしれないけどね。しかし、それだと母子関係を完璧かもしれなくても、父子関係にちょっと不安を覚えるがなあ)

まあ、子育て中は(とくに0歳児くらいだと)母親自体が、子育て以外に何の関心も持てないような心理状態におかれることはよくある。私なんか、下の子が双子だったので、実際、0歳児の時の記憶がほとんどないのだが、まあ、仕事はしていたし(ちなみに、あれは小説講座の開講の時期だった。第1期開講時は、双子は生後10ヵ月)たまに飲みにも行っていたが。

そういう話をすると、「いいわねえ。うちのダンナなんか全然、子育てには参加してくれなかったから、何もできなかったわ」という人がいるのだが(だいぶ自慢が入っている)、それを聞くとちょっと不思議である。いくら不器用でも、4時間くらい赤ん坊を見るのは、案外、簡単である。ドラマでよく「赤ん坊」を抱かされてオロオロするという姿を見るし、子育て経験者なんぞは「子育ては大変だよ」と自慢しまくるので、やたらと大変だというイメージがあるのかもしれないが、まあ、4時間くらい赤ん坊を見るくらいは、ちょっと一言教えてもらえば、本当はなんなら小学生でもできる簡単なことなので、大の大人(しかも父親)が技術的にできないというのは、全くありえない。つまり技術の問題ではなく、やる気の問題でなのだが、半分は、男性本人のせいで、あとの半分のケースは、女性自身が原因である。ダンナが子育てに参加しないのではなくて、実は、本人が参加させないようにしているというケースがけっこうある。もちろん彼女たちも、口では「ダンナが手伝ってくれなくて」というのだが、本心では手伝ってもらうのはどこかイヤなのである。それでいて「手伝ってくれない!」とイライラしたりする。ちょっと矛盾した行動である。

この行動は一見ヘンに見えるのだが、理由はカンタンで、こういうタイプの人は「真面目」な女性が多いのである。だから、つい「完璧な主婦、完璧な母親」をめざす。もちろん日曜日に子供たちをダンナに預けて、友だちとショッピングに出かけたりはしない。(そんなことができるアナタは、不真面目だから長生きする)。家事もなるべく完璧である。少なくとも、兼業主婦にだけは負けてはいけない。それでいて「生きがい」も持っていないとダメなのである。以前なら、「子育て」だけで充分大手をふって「生きがい」になれたのだが、どうも最近は「子育てだけで終わりたくない!」という女性雑誌の特集が増えたのか、子育てだけでは不足らしい。というわけで、専業主婦は、あれこれとにかく忙しい。

専業主婦は、他人から評価されることがとても少ない。そのせいか「やりたいことを我慢することによって、がんばってるねと誉められたい」という欲求が強くなってしまうのかもしれない。もちろん、子供がかなり小さいと、それ以外のことは我慢しなくてはいけなくなるのだが、この場合は、実際、やるべきことがたくさんあるから、意外と我慢しているという感じではないのである。しかし、もともと誉めてくれる人があまりいない状態だから、我慢し続けても、やっぱり誉めてくれる人がいない。で、どういうわけか、そのまま子供がかなり成長してしまっても、「我慢したのに、認めてもらえなかった」という気持ちが強くなる人がいる(世代の問題もある。自分は我慢していたのに、嫁が我慢していないと知った女性は、そこで腹を立てる)。で、ある女性は「こんなにがんばっても、家族は勝手なことばかりしている」「誰もわかってくれない」と知り合ったばかりの関係のない女性(ときには私)に愚痴をこぼし始める。

こうした女性を見て、思うのは、やっぱり「やりたいことは、やってしまえ」である。我慢する気持ちはわかるし、そういう人物が好きなのだが、それでも「なんで、やりたいなら、やらへんねんの?」と言いたい。やたらと我慢するのは、実は、自分にも周囲にも迷惑なのだ。時代は変わったのである。

どんなことにも、やろうとすれば、多少の障害はある。しかし、やってみて何か重要な問題が引き起こるなら別だが(たとえば、別の男と駆け落ちしたり。そりゃ、色々とまずかろう)、そうでなければ、大抵たいしたことは起きない。少しはお金を使うかもしれないし、周囲の協力もいるかもしれない。でも、たぶん「やりたい」と言えば、案外たいていのことはさほど不可能じゃないし、意外と簡単にできてしまうもんである。(たいていの人は、完全に不可能なことを「やりたい」と思いつく方がむしろ難しいから)

いずれにしても、やらないことで評価を受けるよりは、やったことで評価を受けた方がいい。たとえそれで何か失敗しても、やらないよりは一つ前に進む。失敗すればやめればいい。つまらない意地なんかはらないで、素直に楽しく生きるために何がいいのか、ちょっと考えてみるだけで、自分も周囲もたぶんちょっと気が軽くなる。

09/20/2005

文学なんて知らない、エンターテインメントが好き

9月19日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

さて、うちの小説講座は、「エンターテインメントノベル講座」という名前だから、娯楽系の作品を書く人が多い。もちろん、それでも純文学系の作品を書いている人もたまにいる。ところで、この「娯楽系」とか、「エンターテインメント」ってのは、一体何だろうね。まあ、入学する人の中には、自分が書きたい作品が、一体どんな作品なのかわからないって人もけっこう多いし、ホントは書くのは何でもいいのだが、せっかくエンターテインメントノベル講座なのだから「エンターテインメント系」の小説を書いて欲しい、というのが内心はあるのだ(いや、結局、どっちでもいいんだけど)。でも、そもそも、その「エンターテインメント」って、一体どういう意味?

たまに電話で問い合わせがあったりして、「エンターテインメント」って何ですか、と聞かれることがある。その時は、「娯楽小説とか、商業小説のことですよ」という説明をする(でも、たいていこれだけで納得してもらえる)、たまに「SFとか、ミステリとか、ファンタジーとか、そういうワクワクするような小説」なんて、言うこともある。

実は、初心者だと自分が書いているのが、「純文学系」なのか「エンターテインメント系」かもわからないという人はけっこういる。今まで、「純文学系の本ばかり読んでいて、ミステリとか読んだことないんですけど」という人もかなりいる。実際、純文学とエンターテインメントの境界は、さほどはっきりしているわけではない。も違いはあるけど、境界線上の作品もあるし、判断しにくいのである。ただ、やっぱり違いがあることは確かである。

初心者の場合は、どっちにしても、基礎レベルの問題があるので、作品指導ではそこまで聞かれないことも多いけど、たまに「これはどういうつもりで書いているの?」と講師に聞かれることがある。実は、エンターテインメント系と純文学系では、指導の仕方が違ってしまうのである。(実は、この「どういうつもり?」という質問には、色んな意味がある。たいていの講師は、その答によって、指導の方向を決めるつもりである)。

カンタンに言うと、「エンターテインメント系」の作品は、はっきりした「目的」のもとに書かれている。つまり「驚かせたり」「笑わせたり」「泣かせたり」「怖がらせたり」「ホッとしたり」「ぽっとしたり」というような「感情」を引き出す目的があり、それに従って書かれている場合がほとんどである。まあ、もちろん複合的な要素があるから、「コレだ」とカンタンには言えない場合もあるけど、概ね、好奇心だとか、ワクワク感だとか、ハラハラ感だとか、いわゆる「喜怒哀楽」と「それから派生する様々な感情」を刺激するストーリーが描かれる。それゆえに、登場人物の運命も、不幸になったり幸福になったり、ダイナミックに変化することも多い。それによって、登場人物と一緒に、読者も振り回されて、「ドキドキハラハラ」させたりするのである。

一方、純文学系の小説は、そのままで長い「散文詩」と言ってもいいような性質を持っている。文体によっては、作品全体が「詩」みたいなものである。だから、かなり体質によって好みがあり、感性にあう合わないなどという問題もある。比較的「物語の骨格」とか「起伏」なども、あまり強く持っていない場合もある(まあ、実際には、長編だとかは、エンターテインメント的な手法で組み立てられている場合も多いので何とも言えんけど)

でも、エンターテインメント系は、はっきりした骨格(もちろん複雑化はするが)や起伏を持っているケースがほとんどである。だから、そこには、必ず書き手の意図がある。それは読み手を「夢中に」させて、魔法にかけるためのものだ。だから、作品指導では、その目的に合わせて、適切な手段がとられているかを見る場合が多い。もちろん初心者で、まだうまく書けてないような人の作品だと、ちょっと意図がわかならかったりするので、講師もわざわざそれを確認して、指導する人もいるのである。

つまり、エンターテインメント系の小説は、「びっくりさせたい」とか「泣かせたい」とか「笑わせたい」というような目的がはっきりあるから、読者に対する「企み」とか「仕掛け」があるのが普通で、だから必要なのは、その計算と技術である。もちろん小説創作は、それ以外の複雑な要素もたくさん含むから、簡単に言い切れない部分も多いが、あえて簡単に言えば、必要なのは、そういうことなのである。だから、訓練さえすれば、ある程度、誰でも書けるようになるはずだというのは、そのせいである。と言っても、今は、かなりレベルの高い長編が書けないとプロデビューはできないから、その訓練がかなり大変なのだけど(以前も言ったように、長編を最後まで書き通すだけでも大変な労力だから)。

さて、純文学系か、エンターテインメント系か、というのは、体質の問題(つまり好みの問題)だから、どっちがいいとか悪いとかではない。だから、純文学系の作品でもかまわない。(けど、エンターテインメント系の方が作品指導をしてもらいやすいのは確かである)。まあ、出版業界でも、かなり境界がなくなったとは言え、雑誌媒体もまだ違いを残しているし、「商品」としてもかなり違うらしい。ただ、一般的には今でも「純文学」の方が「高尚」なものとされているし、「娯楽小説なんぞは、下等なものだ」と考えている人が今でもいたりする。そういう意味では、エンターテインメント系の作家さんは、みな呪われているかもしれない(と、スティーブン・キングの自伝的エッセイに書いてあるとかないとか)。だいたい、世間では、カッコイイ「文学」の方が、志望者も圧倒的に多い。

大阪には、うちの小説講座以外にも、「大阪文学学校」という創立50年以上もある伝統ある学校があるのだが、こちらはかなり「純文学系」の志望者が多いようだ。ちなみに、もともと、うちの小説講座は、「大阪シナリオ学校」から運営独立したものなのだが、この「大阪シナリオ学校」自体が、こちらの「大阪文学学校」から50年前に分離したものらしい(私は当時、もちろん生まれてませんから、よくは知らないんだけどね)。だから、家系でいうと、あちらが「祖父母」。

それくらい伝統はあるし、今でも500人ほどの生徒さんがいる。つまり「エンターテインメントノベル講座」という名称は、「小説なんだけど、純文学系の人が多い『大阪文学学校』とは違う分野」という意味も込めて、つけられている(らしい)。祖父母のテリトリーを侵犯しないように気を使っているのである。(まあ、あっちの方がよほど巨大なので、あちらは気にしてないだろうが)

というわけなので、うちの講座では「文学」ではないので、「文学を追求する」とか「文学に親しむ」とかもあんまりできない。あくまでも、小説創作の講座である。そして、小説はすべて、ただの「小説」で、「文学」とは呼んでいない。まあ、「文芸」とは言うかもしんない(作家は、ある種の芸人だしな)でも、「文学」とはあまり呼ばない。なんか「文学」というと、ちょっと賢そうで、なんだかカッコイイ気もするのだが、「学」だから、何だか堅苦しくて、めんどくさそうだ。少なくとも私は、それよりは、ただの「小説」でいいのである。

(とか言いながら、一度だけ、でも「エンターテインメントノベル」じゃないか、「ノベル」は文学だろ、だったらむしろ「ストーリー」じゃないか、という表現上の指摘を受けたことがある。まあ、そんな英語圏の事情を気にするよな人は今まで誰もいなかったのでほったらかしですが)

エンターテインメント系に特化していると、商業小説に特化していることになる。(エンターテインメント小説は、相手の感情に訴えるためのものだから、一人で孤独に追求するものではないのは明らかだ。人に読ませてナンボの世界である。だから、どうしてもそういう方向になってしまう)。世の中には、今でも「金もうけは、悪いこと」と考えている人もいるくらいだから、そういう人にとっては、商業小説はすべて下賤なものになってしまうのかもしれないけど、私自身は、「ヒト様を喜ばせる職業」はおしなべて「一応すべて聖職」だと考えている。なぜなら、喜怒哀楽は、人間の本質的なものだし、「愛」や「自由」なんていうのも、本当は、こういう根源的なところに潜んでいるのだ(たぶん)。

ところで、先日、ある作家さん(ノンフィクション系の作家さんで、小説は書いてない)の講演集を読んでいたら、「エイターテインメント」とは、語源的に見れば、エンター(中に入る)とステイン(突き刺す)であり、そんな心に突き刺さる「無我夢中」になれる本がいい本だ、という話が書いてあった。この作家さんには全く面識はないけど、かっちりしたイメージを持っていたので、この人から「エンターテインメント」なんて言葉が出てくるのは少し意外だった。ちょっと面白い。

無我夢中になれる、心に突き刺さるような本があるといい。確かに、それは、人生において、ちょっこっとだけ大事なことかもしれないな、なんて思う。そうか、やっぱり、エンターテインメント万歳。

09/19/2005

作家志望のヨコ線

9月18日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

休日だけど、仕事いろいろ。自宅でパソコン。図書館。「そんなに忙しかったら、本など読めないでしょう」と言われるんだけど、忙しくてもなぜかいつの間にか読んでしまうのである。いつ読んでいるのか自分でもわからないのだが、子供たちに言わせると、私は本を読んでいるついでに家事をしているらしい。ま、そんだけ家事が手抜きなのだが。洗濯機を回したり、煮物を作ったりしている間に読んだり、寝る前に読んだり。最近、あるところのコンテストの下読みをしていたので、「えーん、面白い小説が読みたいよう」という気持ちもある。作品の中には、読むのがそれこそ殺人的に辛いというのがあって、たった数十枚の短編なのに、2枚目まで読んだ時点でクラクラと気分が悪くなり、それでも「作者はヘタでもがんばって書いたんだから」と5枚目まで読んで、「やっぱり、もうダメ。このままだとこっちの頭がおかしくなる」と断念するような作品があったりする。ダメージは大きい。ウワサに聞いていた「電波系」もあった。

しかし、世の中には、あんなにたくさん小説コンテストがあるのだが、あれもこれも、みんなこんな思いをして下読みしているのかなあ。これは短編だから、まだいいが、長編なんか、よしあし以前に、ホント最後まで読めないような作品がかなりあるんだろうなあ、なんて思う。とりあえず、みんな推敲くらいしろよ。たまにちょっとでもマトモな作品があると、ホッとする。「ああ、ありがたい」と感謝する気持ちになるほどである。

というわけで、お口直しに、いくつか市販の小説を読まねば済まない気分になっている。まあ、仕事があるので、あんまり難しいのは無理で、軽めのエッセイとか小説を探し出す。かなり疲労がたまっているので、ほとんど読んでいるのだが、まとまったのは読んだことがなかった本を何冊か借りてくる。私は、かなり以前から「書籍購入費は、収入の1割が上限」とルールを決めているのだが、そんな金額では到底足りないので、図書館から毎週5〜6冊借り出している。(正確にいうと、貸し出し8冊までなので、うちビデオ2本で、本6冊)。買えばたぶん一万くらいか。お金はともかく、置く場所がない。まあ、金を出せと言われると、それなら別に読みたくないって本も混じっているからなあ。

久しぶりに、亡くなった某女流作家さんを描いた自伝的小説を借りて再読。今回もついついツッコミながら楽しく読んでいたのだが(たぶんこれが正しい読み方)、ふと何ケ所かに「横線」が引かれているのを発見。「図書館の本にラクガキしちゃいけないんだぞ〜」と思いながら、気にせず読みすすめていると、おもしろいことに気がついた。このラクガキ男(いや、性別はわからないけど)は、どうやら作中に登場する「小説を分析したところ」にいちいち「横線」を引いているのである。どういう意図があるのかわからないが、妙に細かいチェック。気のせいか、「こいつは、もしかすると『小説家志望』なんだろうなあ」と思われるような横線の引き方である。あげくに、主人公の女流作家本人の性格を書いた部分にも波線。他の箇所は、横線なのに、ここだけ波線だ。ちょっと笑ってしまう。

うーむ、何を刺激されたのかわかんないけど、たぶん間違いなく、このラクガキの主は、小説家志望だろうなあ。この本で、何を学ぶつもりかしらないけど、この主人公の「女流作家」をライバル視しているか、あるいは成功のモデルケースにしようとしているような感じだなあ。それも、どこかかなりマジな感じである。ただ、もしそうなら、それが成功するかどうか、ちょっと疑問なんだけどな。だいたい世間には、「小説創作法」の本なら、山ほど出ているんだから、まだもっと役に立つ本があると思うんだけどなあ。それに、もしそうなら、横線を引くべき所が何度か間違っているぞ。ほら、肝心なところにチェックがないし、それはわざわざ横線を入れる部分じゃない。見習うべき点は、そこじゃないと思うよ。

……なんて、そのうち本の内容ではなく、ラクガキにつっこみながら読んでしまった。おかけで、再読だけど、新鮮な気分で本が読めて面白かったわ。図書館の本や古本の中には、たまにラクガキが書いてあることがあり、たいていはうっとおしいんだけど、けっこうおもしろいものもある。横線を引いてある箇所ばかり拾い出して行くと、なんだかラクガキの主の意思のようなものが透けて見えてけっこう面白い。そういう「面白いラクガキ」が入っている古本なら、私は喜んで買うかもしれない。ただ、なんかラクガキをする人はなぜかプライド高い人が多いみたいで、うっとおしくて、面白いのはあんまりないけどね。

まあ、どうも世間では「小説家」および「小説家志望」というのは、「なんか特別なヘンな人」らしいと思っているようなのだが、小説コンテストなどを見ると、書かなくてもいいのに、なぜか便せんが同封していて、長々と「作家への決意表明」なんかが書かれてあったりする。まあ、うちの事務局でも、今、ちょうどコンテストの募集期間なのであえて言いますけど、応募作には、手紙を添えたりしないようにね。あれ、別に、要りませんよ。まず、受付けた時点で、作品のみを受付けて、同封された手紙は事務担当が破棄しちゃいますから。それを選考委員にいちいち見せたりしません。というか、そういう手紙(手紙じゃなくて、作品の最後のページに何行か書かれている場合もあって、その場合はしょうがないから、そのまま作品にひっつけてある)などを書く人の作品は、なぜかたいてい予選通過しそうもない作品だったりする。いくら「一生懸命書いたのでお願いします」と書かれても、それは応募作みんなそうだろうし、実際には、作者が一生懸命に書いたかどうかは問題ではなくて、作品そのものしか判断しようがないんだよねえ。

ただ、そういうのを見ると「確かに、小説家志望って、ヘンな人がいるんだなあ」っていうのも感じるなあ。でも、正直なところ、たぶんこういう人って、「作家になることにはあこがれているけど、小説そのものを愛しているというわけではない」って感じである。いや、別に、作品さえ書けてれば「愛」が要るってことはないんだけどね。しかし、なんだろうなあ。この「別に小説は好きでもないが、作家になりたいと憧れる」というのは、個人的には、かなり時代遅れ的な感覚なんじゃないかと思うんだけどなあ。以前、「作家になって、世間を見返したい」という話をする人がいたんだけど、正直、かなり有名な作家でも、今は本を読む人自体が減っていて、世間の人は作家の名前をあまり知らないわけで、さらに収入の面から見ても、マンガ家やミュージシャンの方がよほど高額収入である。世間の知名度も圧倒的に高い。作家になったからと言って、世間が広く人が認めてくれるとはちょっと思えないんだけどな。まあ、しかし、マンガ家だと絵がヘタだったりして、最初からあきらめる人もいるだろうし、音楽もそうなんだろうなあ。でも、小説は、識字率が高い日本だと「お手軽な方法」なのかも。しかし、「人生一発逆転」を狙うなら、他にもベンチャー企業を起こすとか、まだ方法がいくらでもありそうだが、まあ、たぶん安易な起業家ももっと多いんだろうし、金銭的なリスクもあるから、やっぱり小説家志望の方が、低リスクなんだろうなあ。

まあ、うちの小説講座には、そういう「一発逆転」をねらうような人は、案外ほとんどいないので(たぶん学費を払わないといけないから、宝くじを狙うような人は来ないんじゃないかな。まあ、みんな小説は好きだよね)私は、あんまり直接会ったことはないんだけどね。つまり小説家志望は、どうも「お手軽」なせいか、倍率だけは高くなるもんらしい。まあ、周囲にさほど迷惑がかからないだろうから、いいけど、下読みの方たちだけがけっこう大変だよね。まあ、もし皆さんが「下読み」の立場になれば、よく作家さんたちが、「一枚しか読まなくてもダメなのはすぐわかる」という気持ちがすぐわかると思うけど。私は、痛感しました。ホント、人様に見せる作品は、推敲してね。頼むから。

09/18/2005

小説志望と踊るアホウと見るアホウ

9月17日(土)
午前中から、小説講座の事務所。夕方から講義。本日の講師は、小森健太朗先生。
(公使でも、格子でも、公私でも、子牛でもない「講師」)

夕方までギリギリまで、入学資料の発送作業。事務所に忘れ物をして、バタバタと教室に遅れて到着。講師をお待たせしてスミマセン。本日の作品指導は、長編1編と短編3編。生徒さんは、専攻科3人と第7期1人で、合同クラスである。

小森先生は、涼し気なジャケット姿。最近、大学で講師をなさっているので、こちらに来られる時もジャケット姿が多い。大学の講義では、ミステリを原書で読ませているそうだ。いいなあ。面白そうだなあ。原書で小説がバンバン読める人はいいなあ。先生は、本日も、豊富な知識と明解な分析で、サクサクと作品指導。短編3編は、「うーん、まだ書き慣れてないなあ」という感じが残る作品。「何がしたいのかもちょっとわかりにくいな」と思っていたのだが、さすがに先生は、すっと言い当てる。いつも論理的に分析して、解説をされるのだが、見学組のまだ作品を書いたことがない第8期の人たちにも理解しやすかったようだ。3人とも個性的で、いい素質はあるタイプ。まあ、たぶんこれから1年くらいしたら、グンとうまくなるんだろうな、と思う。せめてあと1年、書き続けてくれればいいけど。

長編の方は、専攻科のベテランで、レベルは高い。作者のHさんは、働くママさんでもある。長編を書くのは、時間も体力も気力もかかるので、まだ小さな子供がいるHさんは、きっとかなり大変だったろうと思うのだが、なかなかタフな人である。作品は、いつもハードボイルド調で、今回のもそういうタッチだったが、専攻科では、男性のYさんが「男ハードボイルド」、Hさんが「女ハードボイルド」と呼ばれているとかいないとか。ただ、今までの作品に較べると、格段にレベルがあがっており、「やっぱ、長編一本、書き上がると変わるなあ」と思うことしきり。半年ぶりに講義にやってきたKさんも「うまくなったねえ」と感心していた。小森先生も「このまま書けば、たぶんそのうちデビューできると思いますよ」と誉めていた。

ただ、この作品自体は「まだ何かが足りない」感じはする。うまいけど、新人賞などでは、受賞作には選ばれにくいんだろうなあ、とは思う。何が足りないのかは、ちょっと私にはわからない。小森先生は、ラストの意外性が弱いという話をしていたのだが、私自身は、なんとなく、ほんの少し濃くすればいいのかなと思っていた。ハードボイルドだから、もう少し「泣き」というか、何か余韻になるような、印象的なものは欲しい気はする。そういや、『女には向かない職業』のコーデリアも、けっこう普通の女性なんだけど、やっぱりあの最後が印象的だしなあ。ってことは、いずれにしても外枠に何か、っという感じなのかなあ。でも、これは作者の考え方ひとつで、大きく印象が変わるところだから、何かいい方法があればいいんだけどな。

飲み会では、久しぶりに来たKさんと『カリオストロの城』と『スターウォーズ』シリーズの骨格と構造について大論議。オタクな会話をいやがって、隣に座っていた50代のUさんが席を変わってしまう。まだ20代の若い人たちと話をする方がいいようだ。ここの小説講座は、年齢が皆バラバラで、20才から60代まで同じ飲み会でワイワイ騒いでいるのだが、年齢よりは、SF組とか、ミステリ組とか、ジュニアノベル系とか、どうしても小説とか趣味の方向で分かれるよなあ。しかし、けっこう美人もいたりして、独身も多くて男女入り交じっているのに、ホント浮いたウワサがほとんどないのはなぜかしらん。みんな清く正しく美しく、小説修行の青春を送っているんでしょうか。それともただの小説オタクばかりだからかな。

しかし、不思議なもので、入学した時は「うまいなあ。この人、絶対そのうちプロ作家になるよな」という人がいつか辞めてしまい、そのままウワサでは小説を書くことも辞めてしまったらしい、なんていうことがよく起きる。その一方で、入学した頃は「うーん、正直、かなり厳しいよなあ。よっぽど努力しないとムリだよなあ」と内心では思っていたような人でも、なぜか奇跡が起こる。ホント、わからない。卒業後も、連絡がある卒業生はあまりいないから、わかんないけど。

ただ、個人的には、講座でも専攻科でも、とにかく卒業してからキッチリ一年以内が勝負なんだろうな、という気がしている。卒業した人なら、たぶん「自分一人で、絶対書くぞ」と気をひきしめているのは、一年以内だろうなと思うからだ。でも、一人だから、ぼんやりしているとあっという間に数年たつ。そうして、小説家志望は、「いや、そのうち小説を書くつもり」と言いながら、決して書かない「元小説家志望」になっていく。誰が書き続けるかは、いろんな条件もあるからわからないけど。ちなみに、周囲の画家やダンサー、役者などは、20代がほとんどで、30代、40代はほとんどいない。体力の問題もあるけど、たいていは結婚と育児がきっかけで辞めていく。才能があっても売れる前に辞めてしまう人が多い。小説は、役者ほど生活との両立が難しいわけではないが、それでも書くのを辞めていく。あきらめなければ、絶対とは言わないが、かなりの確率でそのうち何とかなっただろうと思うのだが、その前に自ら辞めていく。

以前、プロのシナリオライターの人が言っていたのだが、プロのライターは、やはりまず一度「金をもらう」という経験をしなくてはダメらしいのである。自分の書いたもので、金をもらって、さらにそれを多くの人が見てくれる。「味をしめる」というのが大事なんだそうだ。
「そういう経験は、タイミングもあるけど、なるべく早く経験した方がいい。だって、誰でも金にもならないことを続けるのは大変なんだから」
放送作家も、毎年、たくさんの人が志望するが、30才あたりで自然と脱落していく。

だから、この1年ほど、「早く誰か、コンテストに入賞してくれへんかなあ」と思っている。実は、小さな賞には、誰かしらよく入賞しているので、数万から数十万の賞金をもらったことがある人も多いのだが、大きな賞はここしばらくいない。で、できれば「えっ、あんな人が!?」という生徒さんがいいんだけどな。そういう人が、数百万ほどの賞金をもらったら、みんなの目の色が変わるかもしれない。金をもらったら、奥さんに理解してもらえなかった人だって、たぶん変わると思うよ。

余談だが、ある年配の俳人の方からうかがったのだが、「俳人は、職業ではなくて、生き方」なんだそうだ。まあ、俳句をふつうの職業とするには、どうやっても収入がともなわないという意味だろうけど。小説家や画家や役者は、それでも食える人がけっこういるが、俳人はそれでいうと職業とは言えない。それでもその人は自分自身のことを「俳人」だと考えているし、うちの夫に言わせると「画家も、ダンサーも、生き方」なんだそうだ。でも、やっぱり私が彼を「やっぱり、画家なんかもしれへんなあ」と思ったのは、その「ただの絵」が、画廊で売れたからである。彼の作品は、現代美術(ミニマルアート系)なので、私は「ただの板に絵具をむちゃくちゃにぬりたくっただけ」に見える。そんなバカげたものを全然見知らぬ人が数十万で買ったのである。
私は「こんなものホンマに買うヤツがいるのか」と驚いた。だって、こんなん、ただの大型ゴミである。「こんなもんに大金払うやつは絶対アホや」と私は思う。(ちなみに、それはどこかの病院のロビーに飾られたらしい)「砂のシリーズ」という「ただの砂を画用紙にひっつけただけ」のものが、二十万で売れた時も「アホや、絶対アホや」と思ったものである。ただ「ああ、世の中には知らない世界があるんや」と思ったのは確かだ。現代美術を買う人の気持ちは、私にはわからない。小説は、せいぜい数千円だが、美術品は数万円するからな。ああ、世の中にこんなもん見たがるアホがいっぱいおるんか。(ちなみに彼は、社会的には美術教師なのだが、本人のアイデンティティは、今でも画家で前衛ダンサーのままなんである)

お金で売れるというのは、それだけの価値があると他者に認められるということだ。まあ、画家なら「芸術は魂だから、売ることはできない」などという有名な人もいるので、売るか売らないかでは判断できないけど、そもそも絵は単品制作、版画をのぞけば一点ものだが、小説は、複製を売るので、別に売ったからといって、それで魂が減るわけでもないだろう。本屋に並ぶということは、誰かが読んでくれるということだ。まあ、売れるにこしたことはない。そしてそれは、その気になれば、そんなに難しいことでもないような気がするんだけどな。ま、踊るアホウに見るアホウ。同じアホなら踊らな損である。

次の講義は、10月1日である。その日が修了式。過半数の人は卒業していく。そして10月下旬になれば、また、新しい生徒さんが入学してくる。

書かずに、死ねるか

9月16日(金)
午後から小説講座の事務所。

事務作業いろいろ。今週は、入学案内の発送作業もあり、忙しすぎて身動きがとれない。実は、知りあいの墓参りに行きたかったのだけど、連休も動けそうにない。

ところで、突然、ヘンな質問なんだけど、あなたは、もし、今、目の前に自分の「死」があったら、何も書かずに死ねると思いますか。もちろん「遺書」でも何でも。何も書かずにである。私は、そういうことをたまに考えてしまう。去年亡くなったTさんのことを思い出すたびに、なぜかそんなことをつい考えてしまうのだ。

私は、人には、二種類あるような気がしている。書かずに死ねる人と、何か書いてしまう人と。

たとえば、不治の病に罹ったりして、死が一年後にせまっているとして、あなたは、その間、何も書かずに死ねるだろうか。もちろん、話はできる、口では伝えられるという前提で。それを考えると、私は、よくわからないが、不覚にも何か書いてしまうような気がしている。少なくとも、何か書き残そうとするだろうなと思う。いや、書き残すというのではない。遺書というのではなくて、たぶん、ただ何かをジタバタと書こうとするだろうなあと思う。死を前に、たぶんその意味を考えようとして、そして抵抗しようとして、あるいは受け入れようとして。たぶん私なら、何も書かずには、考えることも認めることもできないのではないかと思う。

かといって、今「この内容を書き残しておきたい」というのはないのである。でも、ただ、命がつきる前に何か書けるものなら、きっと何か書きたいだろうなと思うに違いない。それを残された家族に読ませたいと思うかどうかは別で、おそらく、どっちでもない。それは、むしろ自分のために書く。だから、私は、あまり、ぽっくり死にたいとは思わない。苦しんでもいいから、時間が欲しい。家族には、死が迫っているなら必ず告知してほしい。ジタバタして死ねるなら、突然死よりは、病死の方がよほどいい。

だが、自殺する前に日記を燃やしてしまう人がいるように、死を目の前にして、むしろ何も書き残さずにキレイに死ねる人がいる。ジタバタしてしまう私だが、そんなキレイに死ねる人がうらやましい。潔いような気がする。でも、そんなカッコイイことはできそうにない。だから、きっと、人には二種類いるのだ。何も書かずに死ねる人と、できれば何か書きたい人と。

それで考えれば、Tさんは、間違いなく、何も書かずに死ねる人だった。そういう生き方をした人だったと思う。たぶん、ずっと「いつ死んでもいい」、きっとそう考えて生きていたような気がする。直接、聞いたことはなかったけど。でも、そういう生き方ができる人は、本当は少ない。みんなジタバタ生きている。仙人のようには生きられない。でも、Tさんは、仙人のような人だった。男だからできたのかもしれない(女は何もかもに執着する)。生きている時も、のほほんとただ生きていた。亡くなってしまった今でさえ、まだ、のほほんとしている気さえする。

Tさんは、十数年前、私が駆け出しのコピーライターだった時、同じ職場にいたグラフィックデザイナーである。たしか当時は、40才にもなるかならないかの年齢だったはずだけど、すでに仙人のような人だった。いつも無精髭を生やしていて、少し背が低く、やせていて、まるで体重がないようにふわふわ歩く。彼だけは正社員ではなく、フリーランスで、月3万の家賃を払っていた。会社とは月6万の契約で、デザインの顧問をしていたが、顧問と言っても、たまにデザイン案を出すくらいで、あとは隔月で小さなPR誌のデザインをしていた。それ以外は、いつもほとんど働かずに、ニコニコと本ばかり読んでいた。おそらく年収は百万台だったろうと思う。本をよく読むせいか、雑学家で、「センセ」と呼ばれていた。なんだか仙人くさかった。

生涯独身だった。「一人だけだから、気楽なもんや」と一間だけの小さな木造アパートの一室に住み、なぜか電話も使わずに暮らしていた。「いくらなんでも周囲が困るから電話をつけろ」と社長にもヤイヤイ言われていたのだが、頑固に電話をつけなかった。だから、急用の時は、アパートの大家さんに電話をしなくてはいけなかった。数年前、電話がついたのだが、それは本人のお兄さんから譲られたものだった。Tさんは、11人兄弟の末っ子なのだが、一番仲がよかったお兄さんが、トラックにはねられて亡くなり、形見に電話をもらったのである。お兄さんも独身で、他の兄弟も皆、すでにいなくなっていた。形見は、その電話と運転手からのわずかな慰謝料だけだった。どうも状況から見て、お兄さんの方が飛び出した可能性が高いらしい。
「でも一応、事故やということになってな。ま、たぶん自殺やろうけどな。でも、ちょっとお金くれたわ。でも、何も残ったんはそんだけや。部屋片づけに行ったけど、半日で終わったわ」。Tさんはそう笑って、「これも形見やからしゃーないわな」と、ようやく電話をつけたのだった。

フリーランスなのに、本当にのんびりとしていて、仕事がない時は、昼間、自分の机の後ろのソファに横になってぐうぐう寝ていた。寝ていない時は、本を読んでいるか、テレビを見ているかである。働いているのは、月にたったの十数時間というくらいだから、毎日、昼頃、職場にやってきてのんびりテレビばかり見て、夕方になったらふらりと消える。どこかの酒場で、きっかり千円で、夕食と酒を済ませ、あとはアパートに帰ってテレビを見る。ごくたまに仕事がたくさんあると、気前よく急にフグなんかおごってくれたりするのだが、どれくらい貯金があるのかはあやしい感じだった。たぶん、ほとんどなかったという気はするけど。

十数年前、私はまだ若かったから、慣れるのに時間がかかった。どうみても向上心がないようなTさんの行動は、ちょっと納得できなかった。デザインも、いつも古臭い雰囲気なままなのが、どうしても気に入らなかった。ある日、いつものようにソファに寝転びながら「昼ドラ」を見ていたTさんに、「どうしてもっとちゃんと仕事しようと思わないの?」と聞いたことがある。
「もっといいデザインをして、もっとたくさん仕事すれば? フリーやねんから、お金かて要るやろ」
「なんで、そんなん、せなあかんねん」と、Tさんは、寝転んだまま、画面を見ながら答えた。
「お金になるし、面白い仕事ができるかもしれへんやん」
「仕事やったら、今の量で充分や」
「もうちょっと、こうしたい、とかないの」
「ない」
「将来の夢とか、こうなりたいとか、ないの」
「ない」
「普通は、何かしら、もっと儲けたいとか、こうなりたいとかあるやろ」
「ない。ワシ、もう若くないし。儲けたかて、今んとこ、独身や。使い道ない」
「今んとこって、どうせ結婚もする気ないやろ」
「ないけど、一応、今んとこ、と、ゆうことにしてあるんや」
「まあ、40そこそこ、やもんな」
「そや。でも、もう夢とかはないな」
「でも、子供の頃は、夢とかあったんとちゃうの。デザイナーになりたいとか」
「子供の頃? ワシ、田舎育ちやで。デザイナーなんて仕事も、知らんかったからな。まさかデザイナーになるなんか、ちっとも思ってなかったわ」
「じゃあ、子供の頃、他の夢とかあったんと違うの」
「子供の頃か? 子供の頃は、夢なんかあらへんな。ワシの家、田舎やし、貧しいし、夢なんかないねん。ただ、一人でのんびりしたい、って思っとったな。そや、ワシ、一人きりになるのが夢やったんや。なにせ11人も兄弟おったし、末っ子やったしな」
「でも、他にあるやろ、ふつう、夢とか」
「そうやなあ、あとは、一人でテレビが見たかったなあ」
「テレビ?」
「ああ、田舎やし、テレビなんか、珍しかったんや。だから、他の家に行って、テレビ見せてもらうんや。でも、人がいっぱいおるやろ。ワシ、末っ子やから、小さいし、いっつもぜんぜん見えへんねん。あれがくやしいてなあ」
「もしかして、センセって、テレビを一人だけで見たかったん? それが夢?」
「ああ、そうやったそうやった」
「ってことは、もしかして、今、夢かなったん?」
「そうやな。テレビを一人で見たかったんや、ワシ。だから、満足やな」
やっぱり、ヘンな人である。

ああ、こんな生き方はしたくない。私は、そう思う一方で、なんだか仙人のように生きるTさんが少しうらやましかった。私は、ついジタバタする。「ちょっとでもいい仕事がしたい、面白い仕事がしたい」。でも、ジタバタするから、しんどい。本当は、向上心なんて要らない。苦しいのは、もっと何かやりたいと思うからだ。仙人のように生きられたらどんなにいいかしら。

私は、その会社を4年勤めただけで辞めてしまったのだが、そのあともTさんとはしばしば会った。私がいつ遊びに行っても、このオッサンはあいかわらずソファに寝転んで、のんびりと古い「二時間サスペンス」の再放送を見ていた。たまに飲みにつれていってくれた。飲み屋でのTさんは、いつも少しだけ飲んで、すぐに酔う。そして、少しだけ食べて、たわいもない雑学をたくさん披露してくれる面白いオジサンだった。飲み友達もたくさんいるみたいで、忘年会シーズンなんか、毎晩のように出かけていた。

Tさんが亡くなったのは、去年のことだった。その朝、会社に普通にやって来て、「やっぱりなんか身体がだるい。気分が悪い」と言い出したのだそうだ。病院なんか嫌いで、絶対に行きたがらない人だったけど、顔色があまりに真っ青なのに驚いて、社長があわてて自動車に乗せ、病院についた時にもう意識がなくなっていた。そのままそして昼前に亡くなってしまったのだそうだ。動脈瘤破裂だった。だから、何も書き残す時間はなかったのだが、たぶん時間があったとしても、Tさんは、何も書き残さなかったのではないかと思う。書き残す遺族もいないし、書き残すべきこともたぶんないだろう。

身寄りのないTさんの遺体は、ほとんど面識のない姪が一人、ぽつんと大阪までやって来て、翌々日にはひっそりと火葬にして、その日のうちに遺骨を持って帰ったのだそうだ。社長から電話でそう聞いたのは、その後だった。葬式も何もしなかったから、私は会えないままだった。骨になったTさんは、今は、故郷の岡山の新庄にある家の墓に入っている。私は、お別れを言えなかったから、いつかそこに行かなくてはいけない。山奥まで行くのに、ちょっと面倒だと思っていたら、すぐに一年もたってしまった。まあ、のんびりしている人だから、たぶんいつまででも待っててくれるに違いないが。

あいかわらず、私はジタバタ生きている。まだまだ当分、何も書かずに死ねそうにない。たぶん、仕事であれ、プライベートであれ、私がまったく書かなくなるのは、きっと何も考えられなくなった時である。そして、たぶんそのギリギリまで、私はジタバタしそうな気がしている。みっともないけど、これもある種の美学なんだろうな、なんて思いながらだけど。

09/16/2005

辞書と気になる牡蠣、火気、下記、書き言葉

9月15日(木)
終日、外出。小説講座の事務所には入れず。

あいかわらずバタバタ。先週から電子辞書が見当たらない。どこに置いたのだろうか。たぶんどこか違うところに片づけたんだろうけど。しかし、やはり辞書がないと不便である。もちろん「電子」ではなくて、「紙」の辞書ならあるんだけど、一度、便利に慣れてしまうとダメだなあ。以前、使っていた分厚い辞書もあるが、当時は「よっこいしょ」と重いながらも使っていたはずなのに、今はなんだかうっとおしい。もはや別れた恋人並みにうっとおしい。私ももうすっかり電子辞書がないと生きていけない体質である。身体がなじんでしまった。だから、やむなく忘れていた古い男を頼りにするものの、ついつい心の奥で、新しい恋人を探している。だって、指がなじんでしまったのよ。こんなに重くて反応も鈍い、気のきかない年寄りよりは、若くてよく気がつくスタイリッシュなハンサムがいいに決まっているの。そう、身勝手と言われても、人の気持ちって変わるものなのよ。

しかし、私は、新しいもの好きの割には、こういう道具類には保守的な方で、電子辞書を使い始めてまだ一年もたたないのだが、やっぱり便利なものにはすぐ慣れるもんだなあ。パソコンもケータイも、今はなしでは仕事にならない。でも、ごくまれに、小説講座の生徒さんの中にも「辞書なんか持ってないんですよ」という人がいる。どうやらパソコンで書くと、「漢字が思い出せない」という苦労がないので、辞書なんか使わないでも書けるらしい。まあ、ホントにそうなら、いいんだけどさ。でも、言葉は、呪文だから、辞書は「魔術書」である。身内ならともかく人前で呪文を間違えると、せっかくの魔法がかからないかもよ。

専門学校でも、講義中にレポートを書かせると、たいてい何人かは「先生、ケータイ使っていいですか」と言う生徒がいる。電話をするのではなく、ケータイのメール画面を使って、思い出せない漢字を調べるためである。もちろん辞書じゃないから、意味を調べるわけにはいかないのだが、「ちょっと自信のない漢字」くらいは変換してもらえる。だいたい誤字が多いので、読むのにいつも閉口するから、「もちろんいいよ」と言っている。ごくまれに「電子辞書」を持って来ているコもいるが、それほどたくさんはいない。(この学校には、英語の授業もあるが、「実用英会話」に徹しているらしく、単語を辞書で調べるような予習もないようだ。外国語も話し言葉の時代である)。

しかし、最近のケータイは、ATOK搭載で、ヘタすると古いパソコンよりもお利口さんである。私が持っているケータイは(PHSだけど)昨年の12月に購入したものだが、日本語変換だけなら、今、使っているパソコンの日本語変換よりも明らかに「お利口」である。まあ、私はケータイではメールが打たないから、あんまり関係ないのだけど、自宅のMac(G4)は、5年前に買ったマシンだし、日本語変換も「ことえり」(Macの日本語変換)のみしか搭載していない。これは、自動学習機能があやしいので、登録しなければ、いつまでも間違った変換をする。たとえば「講師の小森先生」と書こうとすると、なぜか毎回一度は「公使の子守宣誓」などという、よくわからない漢字変換をしてくれる。これをほっといたら、この5年間いつも小森先生の講義があるたびに、私は毎回この「子守宣誓」をするハメになってしまった。まさかこのパソコンは、私が3人の子持ちだと知っているのだろうか。未知なる存在の意思でもあるのかな。さらに「こもり」で変換すると、あとは「隠り」「篭り」「籠り」「小守」と、どう考えても「そいつは滅多に使わないだろう」という順番にいつもきちんと出してくれる。アホである。やはりコイツは一体、何を考えているのだ。

ただ、作家の先生たち(ちなみに「作家」だと、必ず「作歌」「昨夏」「作家」の順で変換する。「先生」だと、宣誓、先制、専制、専政、先生の順である。どうよ)は、さすがにたくさんの文章を書くせいか、キーボード入力にはこだわっているようである。一般的に、ビジネス世界では、キーボード入力は「ローマ字入力」が主流で、あとは「かな入力」がやや少ないだろうと思うが、作家の先生たちは、「ローマ字入力」をされる人が一番少ない。たぶん叩くキーの数が多いと大変だからだろう。世間ではすっかり使う人もいない「親指シフトキーボード」をまだしつこく使っている人も案外たくさんいる。親指シフトは、「絶滅危惧種」でかなりの少数派のはずだが(まだ絶滅はしていないんですぜ)、小説業界ではまだかなり生息しているらしい。

私は、原則的には「ローマ字入力」で、時々「かな入力」に変わる。両方使うが、たいてい「ローマ字」が多い。「ローマ字入力」なのは理由があり、私の場合、自宅や職場、実家やデザイナーの事務所で使わせてもらったりと、色んな機種をマシンをうろうろするからで、「かな」だと全部キーボードの配置が違うからである。Macのキーボードは独特な配置になっているタイプがあり、「かな入力」だとマシンが変わるたびにキー配置が多少変わってしまうので、面倒なのである。

私は、パソコンを信用していない。電子辞書なら信用できる。辞書は、言われたことだけをちゃんと調べてくれるが、パソコンはいいかげんなことばかり言う。ぜんぜん信用できない。いいかげんなくせに、方言も理解してくれない。関西弁は、いまや全国的に有名になった方言だが、それでも難しい。演芸台本科の生徒さんなんか、漫才台本を書くたびに「そんなわけ内野ろ」とか「なんでや年」とか変換して、「茶う茶う。それ茶ウ!」と叫んでいる。
(まあ、漫才台本に使う関西弁の語尾は、案外、限られているので、辞書登録していればいいだけだが、演芸台本の生徒たちはアナログな人が多く、手書き原稿もめちゃくちゃ多い。パソコンで書いている人も、辞書登録もできないよなヤツが多いから、イチイチ叫んでいる人はけっこういるはずだ)。

ただ、これだけパソコンやメールが普及したら、牡蠣言葉、もとい書き言葉が変わらないはずがない。たぶんパソコンでは文字を読むけど、一冊も本なんか読まない人はいっぱいいるのだ。毎日インターネットやメールで何時間も文字を書いたり読んだりしても、本なんか数カ月読んでない、なんて人はいっぱいいる。だから、きっと火気言葉、もとい書き言葉も、そのうち変わってしまうんだろう。だが、だからと言って大きく変わるのかというと、それもちょっとわからない。そりゃ、さすがに平安時代に書かれたものはだいぶ違うけどさあ(でも、千年かけて、あの程度といえば、あの程度)。もちろん小説も変わるだろうけど、案外、内容はさほど変わらないのじゃないか、少なくとも根本的にはさほど変わらないのじゃないか、などと思う(だって、あの程度といえば、あの程度)。

ところで、テレビが普及した頃、「これからは速報性のあるテレビの時代だ。新聞なんかは要らない」と言われていたらしいのだが、最近、テレビ番組を見ていると、新聞を解説するようなコーナーがめちゃくちゃいっぱいあって、私はいつも「一体どういうこっちゃ」と思うのだが、あれはどういうことなんやろなあ。

09/15/2005

小説いろいろ、感覚いろいろ

9月14日(水)
終日、外出。小説講座の事務所に入れず。

小説講座以外の仕事でバタバタ。夕方、レンタルビデオショップに寄るが、最近、DVDへの移行期で、古いビデオがなくなっている。とくにクラシックの棚がほとんどなくなっていて、ここまで来るともういっそ早く入れ替わってしまった方がいいかもしれないなあ。まあ、DVDの方が置き場所も少ないし、コストも安いだろうし。探しに行ったのは、ビリーワイルダーの『情婦』だけど、近所のビデオ屋さんにはもうないし、ちょっと離れたこの店もやはり置いてないし。

先日、若い人の書く「ファンタジー」作品には、ともすれば「設定」だけで「ストーリー」がないという話をしたのだが、実をいうと「時代小説」なんかも、そういうパターンがある気がしている。ただし、この場合、年配の人が多い(そういや、これも、ほぼ男性に限るな。もしかすると、男性って「ストーリー」より「設定」に凝る傾向があるのかな)。ただし、時代小説とか歴史小説の場合、「設定」というと、時代背景などは、「ほとんど史実」だったりする。で、それはそれで別の興味はあるから、多少、延々と続いて書いてあっても、それはそれで面白かったりするのだが、やはり限度はある。やはり小説なら、ストーリーも書いて欲しい。(え、そういうもんでしょ?)

先日読んだ作品も、20〜30枚ほどの短編で、そういう感じだった。長々と「その地域の風土」「歴史」「城主の家系」を述べたあと、「一体どんな話をするつもりなのかなあ」と思って楽しみにしていたら、何もしない間に、いきなり何代目かの「殿」が城から外の景色を見て、ため息をついただけで話が終わった。それが最後のページ、最後から5行だけ。うーん、小説のつもりなのかなあ、これ。

こういうパターンの小説を、私はひそかに「調べもの小説」と読んでいる。「私は、歴史について、よく知っています。こんだけ調べたんですよ、すごいでしょう」という得意げな文章で満ちているからである。たいてい作者は真面目な人らしく、文章としての間違いはないが、小説としての構成にはなっているとは言いにくい。まあ、それはそれでも、そこに何か面白い史実とか新しい見解が書かれていたら、楽しんで読めると思うのだが、それもあんまりない。さほど歴史に詳しい方ではない私でさえ、「それくらい、知っているわい」とツッコむような話もけっこう多い。だから、「一体、作者は、『読者』がどれくらいの知識をもっていると想定しているのかなあ」と首をかしげる場合もある。

たぶん「歴史小説」を書くような人は、もともと歴史小説とか歴史読本などの本が好きな人だと思う。もしかすると、こういうジャンルは、「小説(フィクション系)」と「史実などを解説したり分析したりするような本(一応、ノンフィクション系)」が曖昧になりやすいジャンルなのかもしれない。ただ、「調べもの小説」になってしまう原因のほとんどは、自分の書く作品が「どこが面白い」と考えているのか、自分自身でわかっていないという点ではないかと思う。だから、きっと延々と調べたことを書き出してしまうんだろうな。
(というか、歴史小説に限らず、作者本人が「何が書きたいのかわからない」という作品が、読者にとっては、一番読みにくい。いくら辛抱して聞いていても、何が言いたいのかさっぱりわからないのだから)。

ただ、それも書く技術とか伝える技術がついてないだけで、「なぜこの武将に興味があるのか」などをちょっと落ち着いて考えてくれれば、いいんだけどな。それは、たぶん自分でもわかっているはずなので、それをどう伝えるか考えて書いてくれればいいのである。こういう人の作品は、「書き出す前にほんの3分間、ちょっと待て。ちょっとだけ考えて」と言いたくなるところがある。あるいは、ぐたぐたになってもいいから、書きたいことを全部書いてしまって、それをそのままにせずに、一度、冷静に読み直してみて整理するか。まあ、どっちかちゃんと考えてから、公募に送るなり、人に見せた方がいいと思うけどな。

まあ、私たちも会話をする時、話し始めてから脇道にハマってどんどん本筋から離れて行き、「あれ、最初に言いたかったことって、何だったっけ」という経験がよくあると思うが、文章でコレをやられると読む方はかなり辛い。どうやっても、話を聞くよりは、読む方がエネルギーがかかるからである。文章じゃ、会話と違って、途中で口をはさむこともできへんしな。

ところで、余談だけど、「時代小説」と「歴史小説」というジャンルは、みんなどうやって区別してるんだろうなあ。まあ、ジャンル論ほど訳のわからないものはないと言うけど、私は、プロの作家さんに色んな「定義」を聞くのはとても面白くて好きである。それぞれの「こだわり」がよくわかる。私も、よく「エンターテインメントノベル講座」という名称の小説講座を運営しているので、「エンターテインメントって何ですか」なんてことを聞かれるのだが(面倒なので、『娯楽小説』あるいは『商業小説』だと説明しているだけだが)、たとえば「SFって何ですか」とか「ミステリって何ですか」という質問などもたまにある。ちなみに、作家の先生方も「SFのつもりで書いたんだけど、出版されてみたら、『スーパー伝奇アクション』と書かれていた」と笑っていたりするので、案外、ジャンルってみんなわかんないもんかも。某作家さんも「ボクのこのあいだ出版した本は、『新社会派推理』と書かれていたから、今日からボクは『新社会派作家』ってことで」と言っていたし、プロの世界でも、そういうものなんだろうか。

ただ、「時代小説と歴史小説って、違うんですか」という質問をする人は、たいていそのジャンルにあたるような作品をほとんど読んだことがない人が多いので、ちょっと説明するのが難しい。このジャンルが好きな人は、ニュアンスだけでも「なんとなくちょっと違うよね」と言うのがあるのだけど、世間の概念として、はっきり区別されているわけでもないから説明が難しい。私の場合、個人的には、なんとなく「時代小説」となると、江戸時代を中心として「戦国から幕末あたり」の「サムライが一応、日本刀を差しているよな時代が舞台」みたいなイメージである。で、歴史小説というと、それよりはもう少しダイナミックな歴史の変動を描いたり、あるいは「戦国から幕末」以外の時代、つまり飛鳥とか平安とか鎌倉とか、あるいは幕末以降の明治とか、そういう幅広いイメージがあるなあ。まあ、かなり個人的な感覚なので、あまり通用しない定義かもしんないけど。

「時代小説」とか「歴史小説」以外にも、過去の時代を舞台にしている作品の中には、いわゆる「伝奇小説」とか「歴史ファンタジー」というような作品もある。まあ、歴史ファンタジーなんかだと、たいてい忍者か陰陽師が「魔術師」をやってたり、妖怪がとりついていたりするから、そりゃ、違いはわかるんだけど。ただ、そういうタイプの作品じゃなくて、かなりリアルに描いた時代小説の中に、なんだか「うーん、惜しいなあ」というタイプの作品がいくつかあるなと感じている。「調べもの小説」とは限らなくて、かなりちゃんとした小説の形になっている作品でもそうなのだが、よくよく読んでみるとどうやらたいてい「なんだかカタナの描き方がちょっと……ね」という感じの作品が多いのだ。

まあ、時代小説でも、江戸時代中期とか、やはり町人を描いたものも多いので、必ずしも「日本刀」が関係する話とは限らないんだけど、やはりサムライが出てくると、日本刀の感覚というのがちゃんと書けているかどうかが、けっこう大事なんじゃないかなあと思う。そのあたりは感覚の問題だから、ちょっと説明しにくい。もちろん小説なので、宇宙船に乗ったことがなくても、SFは書けるし、殺人をしたことがなくてもミステリは書ける。経験したことしか書けないというのでは、小説ではないのだが、どうも日本刀を持つ感覚みたいなものは、一度も経験したことがないらしいと、かなり書きにくいらしいことは確かのようである。と言っても、ピストルなんかも撃ったことない人がほとんどだし、日本刀もそれくらい想像力でなんとかなりそうなんだけど、なんでかなあ。たぶん食べるとか、飲むとか、そういう感覚に近いような、なんだか相当に原始的な感覚なんだろうなあ。

投稿作なんかを読んでいると「たぶん、この人は一度も日本刀を持ったことがないんだろうなあ」と思うようなものがあり、それだけで、やっぱりちょっとつまらなくなる。ファンタジーならともかくリアルに描いたものだと、それだけで、なんだか途端にペラッとうすっぺらい感じになるのである。時代考証なんぞは、多少間違っていても、目をつぶるんだけど、こういう「感覚」がまったく違うというのは、ちょっと読みにくい。もちろん「調べもの小説」が全部悪いわけじゃないけど、何か小説としての面白みには欠ける。うーん。たぶん知識ではなくて、それを消化して、感覚として描いてもらえればいいんだろうな。

たぶん年配の人などは、日本刀がある家で育った人もあるかもしれないし、子供の頃、チャンバラ遊びをしていた世代だろうから、さほど変な描写はないはずなのだが、それでもヘンな感じがする作品がある。「なんでかなあ」と考えてみると、たいていそれが「日本刀」だったりする。まあ、カタナというのは、現代社会にはないものだし、江戸時代でも安定した町社会を描くような作品だと、ほとんど関係ないのかもしれないけど、作品によってはダイレクトに武士が出てくると、どうやったって、日本刀の描写をせずにいられない。まあ、私も、ちょっと剣道をかじったことがあるだけで、さほど日本刀に触った経験はないのだが、あれはちょっと変わった、ヘンな武器である。なにせかなり細いし、長いし(まあ、短いのもあるが)、持ち方なども(色々あるが)ちょっと変である。そういうケッタイなものは、一生懸命に想像して書くより、一度でいいから触らせてもらった方がわかりやすい。まあ、ホンモノというより、どっかの道場とか行けば、練習用のを置いてある所が多いから、それを一度でも握らせてもらえば、それだけでかなり違うかもしれない。

小説とか、マンガとか、かなり「妄想力」を駆使して書くものなので、実際には経験してないことでもいくらでも書ける。でも、案外、感覚的なもの(つまり食べるとか、触るとか)は妄想力の差が一番差がつくところで、だから、どうも作家さんたちは、自分が経験していないことは、知識だけじゃなくて、何かしら別のところで経験した自分の感覚を増幅したり、移行したりして書いているようだ。だから、どうしても、作品になんとなくメリハリがないとか、ちょっとボケてしまうという場合、なにかストーリー上の問題もあるけど、こういう「感覚」を見つけてみるのもいい方法なんじゃないかなあ、と思う。

ちなみに、私はパック旅行の広告を作っていたことがある。広告の場合、「商品」ならそれをくれる場合が多いけど、むろん海外旅行の費用までくれないから、この仕事は、全部、資料を見て、あとは想像だけで書いていた。でも、どんなに資料をたくさん読んで、きれいにまとめても、それだけではなんだか臨場感がない(広告だとシズル感と呼ぶような感覚)。ワクワク感がイマイチなのである。だから、実際に現地に行ったことがある人を探しだし、わざわざその人にインタビューして、その「現地」に行ったことがある人にしかわからないような、その人ならではの「小さな感覚」や「小さな発見」をもらって、それを一行、あるいは一言でいいから、ボディコピーのどっかに入れ込むようにした。すると、不思議なことに、ほんの一言、それがあるだけで、なんだか全体がくっきりと魅力的に見える。不思議なものである。どうやら文章は、情報として読まれているのではなく、何か不思議な力によって、お互いの感覚を共有させるものらしい。
やっぱり、すべての言葉は、呪文なんだな、きっと。

09/14/2005

作家の視線、営業マンの視線

9月13日(火)
午後から小説講座の事務所。

丁稚どんと一緒に事務作業。(今日からスタッフKさんは、ブログ上では「丁稚丼」と改名することになったので皆さんヨロシク)。土曜の件で、私がブツクサとブータレていると、なにかと芦辺先生をかばう丁稚どん。実は、丁稚どんは、かなりの芦辺ファンなのだ。
「新刊(ルパンとホームズ)もいいですよね。やっぱ、芦辺先生の作品は、ホント読みごたえありますよね」などと言う。
「でも、本はスゴくても、本人が」とふてくれる私。
「まあ、イライラされてたんですよ」
「いつも、私、とばっちり食うもん」
「忙しいのに、わざわざ東京から来ていただいたのに」
「いきなり関係のないことでイライラして怒鳴るし」
「そりゃ、作家さんは、締切とかありますからね。きっとイラつくこともありますよ」
「頭脳はキレるかも知らんけど、中身は、子供」
「そんな、むちゃくちゃ言う人、他にいないですよ。でも、作家さんはそういうギャップがあるところがいいんですよ」
「えー、そうかあ」
「確かに、ちょっと見かけとギャップありますよね。意外と繊細な方なんですよね」
「でも、私、関係ないもん。本人も、もう大阪とは関係ないってゆうてるもん」
「まあ、小説でも、このまま森江さん(芦辺ミステリの名探偵)まで、舞台が東京に完全に移ってしまったら、私はちょっと残念ですけどね。でも、ちょっと電話で言われただけなんでしょう。飲み会では、先生の機嫌よかったですけどね。それにしても、このあいだのSクンの件といい、案外、けっこう根にもつタイプなんですね」
はい、けっこう根にもつタイプなのよね、私って。しかし、誰も私に同情してくれへんよなあ。ブツブツ。

事務作業は大幅に遅れて、「入学資料」の発送作業も間に合わず。明日、明後日と忙しいので、ちょっとヤバイ。

しかし、小説家の先生って、どうもちょっと変わったところがあるのは確かかもしんないな。というか、シナリオライターの人や映画監督とか放送作家の人なんかも、一見して判らないんだけど、ちょっと特殊なクセのようなものがあるよな。というのは、こういう職業の人と会うと、なぜか必ず人の心理をかなり深く読むクセがあるのだ。まあ、芦辺先生の場合は、ちょっと頭がよすぎるせいか深読みしすぎて、いわゆる「妄想が暴走」状態になるのだが、そうでなくても、たいていの作家さんは、他人の考えていることを察知しようとする、なんだかクセみたいなところがある。

ただシナリオライターや映画監督だと、現場での丁々発止もあって、会議も多いらしく、その点は営業トークというか営業の顔みたいなものがあるんだけど、作家(とくに専業作家)さんは、それがあんまり強くない。で、根ッコのところでは、どうやら人見知りが激しいところがあるらしく、それで、相手がいると必要以上におしゃべりになってサービスしようとしたり、めちゃくちゃ気を使ってかえって疲れていたりする。考えてみると、ちょっと変わった人種かもしれない。

だいたい講師に来るプロ作家の先生たちなどは、本来、私の方が気を使わなければいけない立場なのだが、案外「だから、必要以上に気を使わせないようにしてあげようと気を使う」みたいなところがあって(どっちかというと、私はそっちの方が余計気を使うのだが)、最初の頃は、それでとまどってしまったものである。

しかし、人に対する観察力はすごく鋭くて、見てないようで何気なく見ているのが面白い。これだけ観察力とか推察力がある人種というのは、さほどいない。案外、人は、他人の顔色を見ているようで、さほど気にしてはいない。これくらい人間に興味を示すクセがあるのは、あとは「やり手の営業部長」くらいである。

まあ、広告関係の仕事をしていると、クライアントの会社に行って話をする場合、たいてい宣伝部、企画部、広報室、社長室などというややエリートっぽい部署の人間になるのだが、販売促進がらみだと、開発部長、営業部長という人にお目にかかることも多い。とくに産業広告だと、この開発部長や営業部長とのやりとりの方が多くなるのだが、この営業部長というのは(そうでない会社もいっぱいあるけど)、元「スゴ腕セールスマン」がたたき上げてくることが多いのだ。で、こういう人の中には、一見ニコニコとおだやかで、人あたりもすごくよく、冗談もとばすし、外注先にも優しい人がいるのだが、こういう人こそ、ちょっと油断してはいけない。一見して「やり手のセールスマン」なら、人あたりがいいだけで、よく見れば、目が笑っていないので分かりやすいが、営業部長となると、威厳も出てくるから、穏やかな顔をしており、ホンマモンのやり手の人は、そのまま目さえ笑っている。でも、こちらの仕事ぶりはきっちり観察しているのだ。ちょっと、怖い。もちろん、広告の仕事というのは、どうしようもないアホな人とやるよりは、どんなキビシイ人でも頭のいい人とやるに限るから、別にいいのだが。
(広告業界はだいたい外注で、いわばマーケティングの傭兵部隊みたいなものなので、売れない商品よりは売れる(勝てる)側と長く仕事するのが一番よいのである。今は、消費者もバカじゃないので、売れない商品を広告で売ることは不可能である。売れる商品をもっと売れるようにするのが広告屋の仕事なのだ)

広告代理店にも、やり手の営業マンがけっこういるので、会議なんかに出ると、あとで「実は、あの人がキーマンなんですよ」と教えてもらったりすることも多い。(営業に較べると、コピーライターというのは、クライアントとの接点は少ないのである)。私なんか、そういうのはウトイ方なので、「げげげ、ってことは、あの時の会話は、そういう意味だったの」と後でびっくりすることがけっこうある。広告代理店の営業は、たとえ初めて会った役員や幹部クラスの人が数名もいたとしても、なぜだか一瞬にして、その権力関係やあるいは派閥なんかが見分けられるらしいのである。すごい人は、その人の目を見た瞬間にわかるらしいから、ほとんど「超能力」である(眼力が違うのだそうだ)。まあ、広告営業は、けっこう「誰に決定権があるか」が重要だったりするからだろうから、そういう人間観察のクセのようなものが身についているのだろうけど。

ただ、こういう営業がらみの人間観察のクセは、どうやったって、戦場の偵察隊みたいなちょっとピリとした辛い視線が混じっているから、見分けるのはけっこう簡単である。ところが、映画監督だとか、シナリオライターだとか、作家だとか、そういう職業の人は、ピリッとは見ていない。どっちかというと、なんだかぼおっとした、ふんわりとした視線なのである。どうも、「あれ、こんなクセがあるんだな、この人は」とか「おもしろい考え方をする人だなあ」とか、おそらく、そういうような人間観察をどうやらほとんど無意識にしているみたいである。営業マンと違って、観察者本人が「無意識」でついやってしまっていることらしく、だから、あんまりピリっとした視線はなく、しかも観察者本人もその好奇心をさほど隠さないので(隠す必要もないから)、なんだか、のほほんとした感じなのである。

シナリオライターとか映画監督とか放送作家とか作家とか、まあ、これまで百人以上のそういう職業の人に会ったことがあるが、みんな、なんでか、そういう視線の持ち主である。これは、なんだろなあ。まあ、これは職業病なのか、それともそういう性質の人がそういう職業になるのか。
なんにしても、人間に興味がある人種なんだろな。

09/13/2005

とにかく作ってみるのも、楽しいもんだ

9月12日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝からバタバタ。小説講座の事務所以外のお仕事いろいろ。夕方からは、専門学校の方へ。
講義を済ませると、一人の生徒さんが近寄って来て、「マンガのプロットを考えてるんですが、見てもらえますか」とノートを持って来た。この学校には、プロのマンガ家の講師もいっぱいいるし、わざわざ「シナリオ」の講義も他にあるので、マンガ家でもない私に相談するのは間違っているのだが、まあ、ネームとかじゃなくて、まだアイデア段階くらいなら、話くらい聞いてあげるのはやぶさかではない。
「うん、いいよ。どんなの?」と気楽に聞いたら、いきなり「こんな話なんですけど……」という話をしだした。
「うんうん」と、ほんの少し聞いてやってから、「で、細かい設定の説明はもういいから、それで、どんなストーリーなの?」と言ったら、「えっ、ストーリーですか? それは、まだ……」と口ごもる。

「でも、読者が読みたいのは『設定』じゃなくて『ストーリー』だからさ。ストーリーを考えてないんだったら、私も、相談されてもアドバイスもしようがないけど」
「いえ、少しは考えてます。一応、気の弱い男の子が失恋する話で」
「ふーん。どうやって失恋するの?」
「強い男の子が好きだろうと思って努力するんですが、実は、気の弱い男が好きだったという」
「え、でも、それじゃ、ハッピーエンドになるんじゃないの」
「あ、えっと、そうなのかな。でも、最後に、男の子が『女装』するのを見て、彼女が失望するのが最後で」
「え、なんで女装? そういうシュミ?」
「いえ、その男の子のお姉さんの趣味でムリヤリ」
「ふーん。ああ、もしかして、ラブコメみたいな話? で、それがオチ?」
「ええ、ダメですか?」
「いやあ、そりゃ、ダメじゃないけど。まあ、何でも描きようだしさ。でも、そのストーリーを聞く限りでは『いい』とも言いにくいなあ」
「えっ、どうしてですか?」
「どうしてって、そりゃ、なんつーか、そのままでは『ここが面白い』ってのがないし、お話としてはありふれてるやろ。盛り上りも、今のところ、なさそうだし」
「あ、前の作品も、編集者の人に『話に盛りあがりがない』『話がうすい』と言われたんです」
「ふーん」
「どうすればいいんでしょうか」
「うーん。まあ、普通は、そのストーリーだけじゃなくて、何か別のアイデアがいると思うけど。でも、まあ、ラブコメなんだったら、そのままで、とりあえず笑いのアイデアをいっぱい書き出してみたら?」
「えっ、笑いのアイデアですか?」
「だって、ラブコメなんやろ。ほんなら、何ケ所か笑わせるところがいるやろ」
「あ、そうか」
「そんだけの枚数があるんだったら、10個くらい小さなネタ要るんとちゃう。最後までもたすには」
「え、そんなに?」
「ストーリーに沿って、まず50個くらい考えてみたら。で、取捨選択してみたらいいやん」
「えっ、50個も? 笑いですか? ボク、そういうの考えるのすごく苦手で……」
「ふーん。でも、それじゃ、なんでラブコメ?」
「いや、なんとなく」
「じゃ、一回考えてみたら? 案外、向いているかもしれへんやん」
「はあ」

このように、たまに「相談にのって下さい」と言われて聞いてみると、「細かい設定」(たいていファンタジー)ばかりを嬉しそうに詳しく説明し、「うんうん。で、ストーリーは?」と聞くと「えっと、それは、これから考えます」という生徒さんがむちゃくちゃ多いのが、専門学校生の特徴である。もうすっかり慣れた。というか、半分くらいそうなんだもん。小説講座の方なら、いくらなんでも「設定」だけで「ストーリー」なんか全然考えてない、という人はほとんどいないけどさ。まあ、若い人はファンタジー系がほとんどだから、そうなってしまうのかもしんないけどね。どうも、よほど安易なファンタジー設定が多いらしく、先日、マンガの学内選考をしていたマンガ家の先生の近くを通ったら、「もう! 今度からファンタジー作品は、それだけで落選ってことにするからな!」と一人で叫んでいるのを見かけた。マンガ科は人数も多いし、かなり絵のレベルも高いのだが、ストーリーは手抜きである。マンガ家志望は、絵が好きで描きたい人がほとんどなので、気持ちはわかるけどね。

まあ、ファンタジーだと「設定を考えるのが楽しい」ってのはわかるので、それはそれでいいんだけど、ストーリーがないと作品としては読むことができない。で、たいていそういうファンタジー設定は、細かく考えられているように見えて、チマチマ細かい部分を考えているだけだから、案外さほどのオリジナリティはない。さらに、面白いのは、そんだけがんばって考えた設定の割には、ほんのちょっと話を聞いただけでもかなりヘンな所がある。なにせ人里離れた村の話なのに、すぐ翌朝にはちゃんと城に行ける(もちろん徒歩だ)。で、「こんだけ首都が近いんだったら、ここ、ぜんぜん田舎じゃないんとちゃうの」とツッコンだら、けっこうあわてる。位置関係がむちゃくちゃである。さらに、ほんの小さな町なのだが、もう何年も前から、毎週子供が何人も誘拐されている(いくらなんでも、そのうちいなくなると思う)、だって人口は5万人(それなら、そこそこでかい町だと思うが)。主人公は、たいてい安易な「孤児」で、彼は、自分でも何歳から孤児になったのかわからないらしいのだが、ずっと一人暮らしで、食べ物などは「適当に調達」しているらしく、子供の頃は、小さな山村で育ったのだが、ずっと適当に「そこらへんのもの」を盗んで食べたりしていたらしい(小さな村ならすぐにバレると思うが)。で、なぜか誰にも習ってないのに、わずか14歳で、剣の達人。ちなみに、親のことは何一つ知らないが、剣はたいてい「父の形見」。さらに、それまで一度もその村から出たことはなかったようなのだが、実戦経験も豊富。どんな人も倒せなかった魔物をあっさり一撃で倒す。せめてクライマックスの戦闘シーンくらい何か目新しい技を使ってくれればと思うのだけど、「戦闘シーンを描くのが苦手なんで」という理由で、そこはあっさり何の工夫もなく一撃で倒されてしまう魔物。うーん、いくらなんでも弱すぎるぞ、魔物。こんな魔物に今までなんで他の人が無惨に殺され続けていたのかさっぱりわからん。きっとこの国の兵士はみんなよほどのアホだな。

と、まあ、お話が面白ければ、いくら類型化されたヒーローでもいいわけだけど(限度もあるが)その割には、片目の色が違っているとか、微妙な設定は覚えきれないほどたっぷりある(もちろん今のところストーリーには何も生かされていない。でも、ほら、たぶん大長編になる予定だから)。と、このような話を読まされることは、よくある。「いやあ、若いなあ。ほほえましいなあ」と思っているので、私は、別にいいんだけど。

しかし、「ふーん。みんな、なぜか、同じこと考えるんだなあ」とちょっと感心してしまう。まあ、これは、若い男の子のパターンだけど、女の子なら、だいたい悪魔とか天使が、なぜか少年に変身していたりして、いきなり恋愛するのも多い。まあ、小説講座の生徒は社会人が多いので、そういう単純なパターンはないけどね。

どういうわけか、なぜか皆、同じような所をつまづいているような気がするのは気のせいかな。

余談だけど、小説講座では、「今度の作品は、ホントいやらしいシーンを書いたんですよ」という作者が言う「いやらしいエッチなシーン」は、たいてい読んでみても、全然ちっともいやらしくもなんでもないという「官能の法則」(?)がある。これは、たぶん単純な「文章表現力」の問題だと思うが、官能的なシーンの描写は、文章力の力量の差がはっきり出るので、けっこう難しいのだ。本人は、書くのが恥ずかしかったりして、「かなり濃厚」と思っているのだが、よほど書いたつもりでも、読む方はかなり冷めている。だって、専攻科の皆さん、このあいだのMさんの作品(美少女を埋める話)もそうですぜ。「えっ、あれ? どこが『いやらしい』の?」(冒頭の部分だそうです)「ちゃんとわかるように、もっといやらしく書かんかい」と、みんなにツッコまれてました。読んでいる立場からいうと、単純にベッドに一緒に入るだけとか、あるいは、さらに入れたり出したりナメたりくわえたり、と書いたとしても、それを書けばいやらしいかというと、そういうわけでもない。そんだけでは、読む方は「あ、そ。それで?」という感じだけかもしれない(中学生の男の子じゃあるまいし、なにせ大人向けの小説)。官能シーンは、かなり技術がいるのである。

まあ、こんなことでも、けっこう楽しいものである。なにはともあれ、とりあえず作ってみることが一番。で、自分の作品と他の人の作品をくらべてみたら、そのあたりは、すぐにわかるかもしれない。市販のプロの小説は、みんなうまいからわからないだろうけど、他人のヘタな作品を見たら、たいていわかる。「人のフリ見て、我がフリ直せ」、自分の作品に対しては、みんな甘いけど、他人の作品に対してはみんな冷たい。他人の作品を客観的に見て、どうすればいいか、考えてみるだけで、だいぶ違うと思う。教えられるというよりは、自分で発見する。ま、そういうもんなんですよ、たぶん。

09/12/2005

小説講座の事務所は、お休みです

9月11日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

最近、メールや電話でよく問い合わせをいただくのだが、「通信講座はありますか?」とか「来年の募集はありますか?」とか、この秋の入学には結びつかないケースも多い。まあ、それはそれで別にいいんだけど、あいにく今のところ通信講座はないし、今年の秋は開講決定しているが、来年の開講も今から保証することはできない。正直、独立したばかりで運営がキビしいので、この秋の生徒募集の結果しだいでは、もしかすると、来年の新規の生徒募集はないかもしれない(卒業生対象の専攻科くらいなら続けられると思うけど)。うちは、営利団体ではないので、もし資金がなければ、借金せずに解散するだけである。まあ、小さな学校なので、ガッポリ儲けて……という方針はないので、これは仕方がないのである。

でも、「来年、入学したいので」という人がなぜか多いのは、毎年のことなので慣れている。なぜか小説講座は、「実は、3年前に資料請求をしたのですが」なんていう入学者がけっこう多い。入学するのに、ちょっと決心とか時間がいるのかなあ。よくわからないけど。やはり「自分でいくつか書いてみてから」という人が多いようだ。まあ、入学者の半数は、まったくの初心者(あるいは書こうとして書けなかった人)なので、あまり事前に何か勉強してから入学しなければならない理由は、どこにもないんで、月に2〜3回の土曜の夜の講義に出席できるかどうかだけだと思う。まあ、皆勤で出席する人は、さほど多くないけど。

ただ「何かをスタートする」というのは、ちょっとノリの問題もある。やりたいというタイミングにはじめなければ、たぶんそのままやらないだろうし、ぐずぐずしてて、始めた時にはもう気分が変わっていて「遅すぎる」ということもある。タイミングが合わなければ、「縁がなかった」ということかもしれないが、2〜3年悩んだ末に、入学する人もいる。どうも「小説講座」に入学するには、時間の都合だけじゃなくて、何か、プライドのようなものがあって、なんだか難しいのかもしれない。ちょっとわからないけど。

でも小説講座に来る人は、やはり小説好きばかりである。みんな読むのも好き、書くのも好きという人ばかり。まあ、だから、たぶんそれだけだなあ。それ以外に重要な要素はないと思うんだけどな。小説を読んでホッとするとか、ワクワクするとか。プロ志望かどうかも、それだけあればいいと思うんだけどなあ。悩んだり、余計な考え過ぎたりしなくても、そこだけを考えてみるといいんじゃないかなあ。楽しくなかったらしょうがない。だって、夢を書くんだもんな。

09/11/2005

それでもキミは小説が好きだろう

9月10日(土)
朝、6時起床。午前中、銀行、エル大阪へ教室代支払い。午後から事務所。
夕方からは「専攻科」と「第7期」の2クラスの作品指導。

昼、事務所にいると、なぜかKさんが登場。「今日の私は、スタッフではなく一生徒ですからね」と言いつつ、さっさと作品の束を運んできて、いきなり帳合いを始める。「ブログの様子を見たら、どうせまだ作業やってないだろうなと思ったので」と笑い、3時間ほどモクモクと働いてから、「でも、遊びに来ただけですからね」と言いながら去って行った。ひええ。すみません。感謝感謝。

また、Nくんが作品を持ってくる。先日、見せてもらった短編の書き直し。バリバリのファンタジーなんだけど、「肝心の戦闘シーンがどこにも書いてないなー」と感想を言ったら、なぜか書き直すと「女戦士」が「戦う巫女」になっていた。剣術ではなく、魔術で戦ってる。でも、確かにこっちのキャラの方がいい気はする。1時間半ほど色々話をする。
「で、今日、講義あるよ。ちゃんと来てね」と言ったら、
「誰の作品?」
「えーっ、だいぶ前に渡してたやろ」
「どっか行った」
「先週、お知らせを渡したやろ」
「知らん」
それで、作品を手渡したのだが、なぜか読む気なし(結局、彼は、講義は欠席)。たぶん、急に作品を書き直したくなって、家で自分の作品を見てたんだろうけど(それはそれで、いいけど)、でも、キミは、一度でいいから、他人の作品をちゃんと読んで、他人の作品指導を聞いた方がなんだかいい気がするんだけどなあ(ファンタジー作品を書きたがる若い男の子にありがちな、わかりやすいクセがいくつかあるのだ)。

そんなこんなで、バタバタしている間に4時半。5時には移動しなくてはいけないのだが、そこで、芦辺先生から電話。いきなり「キミの失礼があったから、今日の作品指導はしたくない」とご立腹。意味がわからず、よくよく聞くと、確かに私の不手際なのだが、冷静に考えても、それほどの立腹をされるほどの不手際でもないような…。ということは、何かまったく他の理由で、イライラしているに違いない。長年のつきあいで、そのあたりの心理状態はわかるので、聞いてみると、何か全く別の件で、どうも深刻なトラブルの真っ最中らしい。この先生は、たぶん自分の頭の回転がおそろしく早いせいだろうけど、ふつうは説明されないとわからないようなことでも、たまに他人が察しないと、急にイライラされることがある。で、こちらは、何がなんだかわからない。面くらう。以前は、大阪にお住まいだったので、後でゆっくりと話も聞けたのだが、実は、東京移転されて以来、ある所で「大阪とは関わりたくない」と公言されているので、できるだけ、こちらからメールも電話も遠慮してほとんどさしあげていない。これくらい疎遠な状態だと、やはり何が起こっているのか全くわからない。しかし、どうやらそちらのトラブルも全くの知らない人というわけではないらしいし、詳しく聞きたいのだが、電話ではややこしくて、全然よくわからない。ただ先生自身も、電話の途中で誤解に気づき、さほど怒る理由がないと思われたようで、「じゃあ、また後でね」と、落ち着いて電話を切られる。ああ、びっくりした。で、時計を見ると、もう5時である。ぎゃあああ。あわてて、残りの印刷機を回し、なんだかんだで15分遅れで荷物をまとめて出発。やむなく車道を自転車でふっとばす。幸い自動車にはねられなかったが、やっぱ、ホンマ考え直そうかなこの仕事。まだ、命が惜しいぞ。絶対ストレスでそのうち寿命が縮まるな。

で、今日の講義は、2クラス。教室は隣どうし。複数クラス同時に講義がある時、階が別々だと、私は階段を何往復もしなくちゃいけないので、こうして隣の教室だととっても助かる。自転車でとばして来たから、もうハアハア。さて、「専攻科」の講師は、堀晃先生で、長編と短編が1編ずつ。「第7期」のクラスは、芦辺先生。ミステリー短編4編である。東京から来られる芦辺先生には、来年度からの作品指導を依頼する予定がないので、作品指導はおそらく今回が最後である。ご本人は、「交通費は気にしなくていいよ」と言われるのだが、私はとてもそういう性格ではない。とても新幹線代も払えないしな(本日分も払っていない〜)。でも、レクチャーは年1回だけだから、せめてそれだけはお願いすることにしている。専攻科の芦辺ファンも多いので、残念だろうけど。

で、いざお目にかかると先生の機嫌もよく、講義もすみやかに始まる。一般の見学者が一名いたのだけど、あとで感想を聞いたら、「すごくおもしろかったです」と言っていたので、なかなか興味深い講義だったようだ。ミステリ4編は、全員、まったくの初心者で、作品にはもちろん色々と問題はあるのだが、みな熱心で真面目だし、きちんと書き上げているし、ほとんど1〜2作目だから、ミステリのカタチに仕上げるだけでもたいしたものである。さすがにミステリ、とくにトリックなど分析的でスピーディな説明。ただ、あんまり早口で高度な話をポンポン説明されるので、どこまでの生徒さんが話について来ているのか(私も最初の頃そうだったが)自信はない。まあ、ミステリ組以外で、何人か脱落していないといいがと思いつつ、専攻科のクラスへ。

専攻科は、堀先生。こちらの2編は、かなり作品指導が難しい(と思われる)作品。とくに長編の方は、60歳代の男性の作品で、前半は、戦時中をスパイ活動をする軍人を描いたリアルな話で、後半は、がらっと雰囲気が変わって、冒険モノというちょっと判断がむずかしい作品。大変よく書けているだけに、判断が難しく、実は、だいぶ前に提出されて6月には印刷していたものなのだが、講師も決められずノビノビになっていたものである。「え、あのSFで有名な堀先生が、そんなタイプの話の指導を?」と思う人もいるかもしれないが、主にハードSFを書かれている先生だが、読み手としては幅広いジャンルを読まれる方で、戦後モノから冒険モノも詳しいし、どんな難しい作品指導をお願いしても、アドバイスも的確である。それに甘えて、もう一本は全く違うタイプの短編。ちょっと異例だが、その作品だけを見てもらうのでは、本人のためにならないので、参考作品2編も合わせて作品指導していただく。あとの飲み会で、生徒さんに聞いたら「堀先生にホレ直しちゃった!」ということだったみたいだし、他の生徒さんにもわかりやすかったようだ。

しかし、堀先生は、ホームページのイメージだと、ものすごく頭がキレまくる学者さんタイプ(なにせマッドサイエンティストだし)で、ちょっと近寄りがたい雰囲気なのだが、ご本人はニコニコといつも穏やかな感じの方である。しかし、考えてみたら、こういう意外性のある男性(すごく頭がよくて鋭いのに、可愛いところもある優しい男性)は、確かに、女性の理想のタイプなのだが、私なんか、最近は、先生のブログで、お母上の介護をされている様子などを見て「うーむ、私もこんな素晴らしい息子が欲しいものだ」などと思っていたくらいだから、ちょっといかがなものか。自分の老後(?)に気をとられて、トキメクのを忘れていた。女性としての自覚を忘れかけているぞ。迂闊。ま、もはや合コンに誘ってくれる年頃でもないがな(専攻科の誰かさんたちが合コンをやったらしい)。くすん。

講義後、朝の早い堀先生は、まっすぐ帰宅。芦辺先生たちと例によって飲み会へ。専攻科のSくんは、「このあいだのブログ読みました。本当に、ごめんなさい」と言って、めずらしく飲み会に参加せず帰宅する。少ししょげたふうで(Kさんなんか、めちゃくちゃ同情していた)私もちょっと可哀想かなと思ったのだが、話をすると「すみません。ちゃんと『11月末』までには出しますから」などと言う。おいおい、なんで11月末やねん。9月末とかならわかるが、それがなんで11月末になるねん。どう考えても、おかしいやろ。やっぱ、ちゃんと反省しろよ。

しかし、結局、生徒さんの問題だから、私にはどうしようもない。私は、待つしかないのである。そういや、第7期でも、自分の作品指導が済んだ途端、急に講義に来なくなった生徒さんが一名いる。なんだかキツイ講評でショックを受けていたようで、それまで皆勤だったのに以来ずっと欠席なんだよね。でも、それも私は、待つしかない。いろいろあるけど、それでも小説を書くだろう、それでも、きっと小説を好きだろう、ってことを、信じるしかないもんなあ。

10時を過ぎ、何人かの生徒さんが先に帰宅し、ようやく芦辺先生から「例の事情」を聞く。(業界のウラ話的なことなので、あんまりデビュー前の生徒さんには聞かせられない。専攻科ならいいけど)やっとなんとなく事情が理解ができたが、それでも、イマイチ状況がよくわからない。やっぱ、疎遠になると、事情がわかりにくいなあ。距離が離れると心も離れる、ってのは長距離恋愛だが、出版業界は東京中心なので、大阪からはちょっと離れている。まあ、新幹線でせいぜい2時間半なので、日頃さほど感じないんだけど、住む場所の違いというのはけっこうあるのかな。ただ、他の先生たちも「離れていると不便なこともあるけど、便利なこともある」という話もしている。業界内のつきあいも仕事のうちだろうけど、ホント案外せまい業界である。東京在住だと便利な反面、わずらわしいこともたくさんあるだろうから、みなさん大変だな。でも、こうなると、大阪在住の方がよほど気楽かもしれないな。どうせ作家は、最終的には作品だけが勝負なわけだし。11時過ぎまで飲んで、帰宅。『爆笑オンエアバトル』見て、ビデオ見て、就寝。長い一日。

09/09/2005

小説家という階級、ノンフィクション

9月9日(金)
終日、自宅で作業。小説講座の事務所には入れず。

午前中、小説講座以外のお仕事。クロスワードパズル作成。午後から、某小説コンテストの下読み作業。読んでも読んでも、まだ山積み。どれもこれも、面白くないよう。少しでもマシな作品があると「ああ、助かった〜っ」という感じ。まあ、うちの小説講座の生徒さんの作品も、うまくはないけど、コンテストの応募作の平均値よりはたぶん面白い。だいたい顔も知らない他人の作品だしな。でも、この調子だと、選考を通過する作品がなくなっちゃうなあ。どうしよう。みんな一生懸命、書いているのはわかるんだけど、読むのツライのよなあ。

ところで、読んでいて気がついたのだが、どうもフィクションとノンフィクションの区別がついてない作品が多い気がする。このコンテストは、「フィクション、ノンフィクション問わない」というコンテストだから、どっちでもいいんだけど、書き方が違うなあ、おしいなあ、という作品がけっこうあるのだ。もちろんフィクションというのは、小説などの架空のお話のことで、ノンフィクションというのは、事実を元に書かれたものである。小説講座の生徒さんなら、「えっ、そんなもの、どうやって混同するの?」と思われる人もいるだろうけど、どうもノンフィクションの方がよくわからないようだ。もちろん「私小説」という分野もあるんで、混同するのはわかるんだけど、「これ、ノンフィクションなんかなあ。でも、なんだか違うなあ、惜しいなあ」という作品がけっこうあるのだ。

そう言えば、明日の講義で、作品指導の順番になっているある生徒さんからも、以前「私小説」を見せてもらった。それは、ご本人の息子さんが若くして病死した時の体験を書いたものだったのが、あとで聞くと「ほとんど実話」なのだった。その時、「やっぱりな」と思ったのだが、同時に「それは、なんか違うな」と思ったのだった。この人がまとまった文章を書いたのは、それが初めてだったそうだ。喪失感や衝撃や色々な感情が、初めて文章を書かせたのだそうだが、それまでほとんど本なども読まなかったと聞いて、それで少しばかり納得した。

「私小説」というものがあるので、どうもややこしいらしいのだが、一般の人は、実は、フィクションとノンフィクションの違いがはっきりついているわけではないらしい。この場合の「一般の人」というのは、読書経験があまりない人のことを指している。まあ、小説講座なんかに来る人は、本を読むタイプばかりだが、実際、世間の多くの人は、さほど本を必要としない生活を過ごしている。最近は、新聞さえ読まない人もいる。家に本棚があるという家庭は、それほど多くない。実際には、私たちは毎日、生活そのものでとても忙しいので、小説を楽しむ時間がないのである。

まあ、私自身は活字中毒だし、仕事のためでもあるから、本は大量に読むけど、周囲の働く母親たちは、ほとんど本など読むヒマがないと言う。それは「嘆かわしい」とか、なんだというよりは、正直、ホント仕方ないのである。子育て期は忙しい。日々の生活でも学ぶべきことはたくさんある。人生には、書物よりも実戦が大事という時期があるのだ。私は、本が好きだから、本が嫌いな人がいると残念だけど、それはそれで仕方ないだろうなと思っている。だって、ゴルフが好きな友人は、私がゴルフの面白さを知らないままでいるのを残念だと思っているだろうし、ギャンブル好きな友人も、私がギャンブルを楽しまないのを「かわいそうだ」と思っているに違いないもんな。

そんなわけだから、一般の人が、フィクションとノンフィクションの違いがわからなくても、さほど問題ではない。数年前に、どこかの公民館で、女性向けの講座を頼まれて、「コピーライターの立場から、お話をしてくださいね」というので、「まあ、主婦向けの単発講座だから、適当に面白そうな話をすればいいだろう」と引き受けたら、当日は50人くらいの出席者で、それが、皆さんかなりマジで「文章がうまくなりたいんですっ!」なんて真剣な顔をしているので、ちょっとビビって、「皆さん、一体、どんな文章が書きたいんですか?」と聞いたら、「私は、自分史を書こうと思ってます」という年配の人や「大学で、レポート書かないといけないんです」という若い女性、あるいは「エッセイを書いてみたい」「童話を書いてみたい」「趣味で俳句を作ってるんです」とか、あげくに「果物を送っていただいたので、お礼状を書きたい」という人までいた。こうなると、まったくお手上げである。正直、同じ文章といっても、ここまで幅が広い人が集まると、あまり直接の役に立つことは言えないのである。

ちなみに、「お礼状を書きたい」という人に「御仲人さんか、誰かからですか?」と聞いたら、「いえ、幼馴染みなんです」というので、ちょっと驚いた。それほど年配の人ではなく、せいぜい40代の女性である。一瞬「そんなもの、ハガキにでっかく『おいしかったよ』と書けばいいんじゃないの」と思ったのだが、それはコピーライター的な、あまりに「伝われば勝ち」的な発想であろう。その女性は、そんなことを求めているのではなくて、たぶん「私はエチケットをわきまえたお礼状が書けるエレガントな女性になりたい」というのが本音なのである。「おいしかったよ」ではメッセージは伝わるけど、意図は達成できない。だから、あくまでも、エチケットをわきまえたお礼状でないとダメなのである。

しかし、こういう雑多な文章をごっちゃまぜに考えられるのは、「たこやき」と「チョコレートケーキ」と「肉じゃが」の作り方をまとめて教えるくらい大変である。結局、私が話したのは「材料は新鮮なものを選びましょう」みたいな話で、あとは「文章読本の選び方」である。それしか言えん。なにせ時間もないことだし。

ちなみに、文章読本は、(1)作家が書いたもの(2)新聞記者が書いたもの(3)学者が書いたもの(4)その他のライターなどが書いたもの、など書いた人によって、書いている内容が全然違うので、少なくとも「役立たせたい」のなら、せめて著者のプロフィールをみてから買うべし。私は、文章読本マニアなんで、どんな本でもそれなりに楽しく読むけど(百冊くらいは読んでいると思う)、普通は「お金のムダ」。とにかく、新聞記者の書く文章と小説の文章とは、かなり違うので、自分がどんな文章を書きたいのかわかっていたら、それにあった本を買うべきだよん。

一般の人は、どうも「文章なら、何でもどうせ一緒だろう」と考えているらしい。しかし、それは違うぞ。まあ、よくある例え話だが、便利なのでいつも説明するのに使うけど、ある日、あなたの家の近所で、火事が起きたとしよう。そしたら、ゴウゴウという激しい炎を見て、モクモクとすごい煙が出ていた、と、想像してみてください。それで、一人暮らしのおばあさんが亡くなってしまった。さて、これをエッセイに書くのに、あるいは小説のワンシーンで書くのに、あなたならどう書く? いろんな書き方があるはずだ。でも、新聞記事だと『何月何日、何時何分ごろ、どこどこ市どこどこ町1丁目の木造2階建ての住宅から出火。住宅二棟が全焼し、何時ごろ鎮火……』と書かないといけないわけで、飛び散る火の粉なんか、ぜんぜん書くわけではないのである。それよりは、たぶん焼跡から見つかったその遺体が「成人女性と見られる」のか「本人と確認された」のかが大事である。

つまり、新聞記者の文章と小説家の文章、あるいは雑誌ライターでも、雑誌によって、全然、書く文章が違うのであって、それこそ「たこやき」と「チョコレートケーキ」くらい違うのである。(まあ、どこかに共通点はあるだろうけどさ)。「たこやき」を作るのがうまいからと言って、うまい「チョコレートケーキ」を作れるとは限らない。えらい違いである。

ところが、やはり一般の人は「文章なんか、みんな一緒でしょ」と思っている。だから、文章を書く人もみんなまとめて見分けがつかず(まあ、これは仕方ないが)、さらに、ちょっと不思議なのは、なぜかその中で「作家が一番エライ」と思っているらしいことである。この原因がなぜなのかはわからないが、文章を書くプロの中では、なぜかしら「作家」という職業が、階級的に一番上らしいのである(二番目は「新聞記者」かな)。

ごくまれに、コピーライターをしているという話をすると、(親切なオバサンとか)「そのうち小説家になって有名になるかもねえ」などと言ってくれることがある。文章を書く仕事は、「有名な小説家」になるのがゴールらしいのである。ああ、マスコミ志望の大学生とかなら、コピーライターでも適当にうらやましがってくれるんだけどな。でも、何度もいうが、すべての「タコ焼き屋」が、おしゃれな「チョコレートケーキ」を作りたいと思っているとは限らない。私は、ケーキ屋になるよりは、うまいタコ焼き屋になりたいがなあ(いや、ケーキも好きだけど)。まあ、一般の人だけじゃなくて、それはたぶんおエライ作家の先生方の中にも、そう考えている人もいるらしいから、なんとも言えないけど。どうしてみんな階級を作りたがるのかなあ。

ところで、ノンフィクションとフィクションの違いは、確かにある。(違いはあるが、ちゃんとした境界はないかもしれない。境界線上のジャンルというのもあるから)
ひとつは、「事実」を読ませるか、だと思う。私小説は、そこに描かれたものが「事実」だからかどうかではなくて、たとえ事実を元にしていても、基本的にはフィクションとしての本質があって、読み手は「事実」そのものに感動しているのではなく、作られた物語(あるいは事実ではないが、真実はあると感じるもの)に反応する。が、ノンフィクションは、あくまでも「事実」である。だから「事実」が正確にどれくらい描けているかが、一番重要なのであって、だから、実は、ノンフィクションもそれなりに書くのは難しいし、別の技術がいるものである。(小説が書けるからといって、ノンフィクションが書けるとは限らない。いや、書ける人もいますが)

ちなみに、ルポルタージュとドキュメンタリーという言葉がありますが、この違いがわかりますか。はい、フランス語と英語? わからない人は辞書で調べてみようね。

小説かシナリオか、原稿用紙と野菜の苗

9月8日(木)
終日、外出。小説講座の事務所には入れず。

専門学校の方へ「学内選考」の評価表を提出。こちらの短編は十数編なのだが、一年生が多く、レベル的にはかなり問題があるけど、まあ、みんな18〜19歳だからね。ただ一本、シナリオ作品で、3年生の作品はかなりうまい。学校の事務の人に聞いたら、どこかのシナリオコンテストで佳作入選したこともある生徒らしい。群をぬいてよく出来た作品。「大阪シナリオ学校」の生徒でも、ここまで書ける人は滅多にいない。でも、ここまで書けるなら、もう少しという欲が出るのかもしれないいけど、あんまりにも「よくある感動モノ」で、クサイといっていいほどの展開。これはこれで「うまいな」というより、ただ「あざといな」という気がして、決め台詞もどこか鼻につく。うまいのはわかるが、このままだと、ちょっと私には、手放しで評価しにくい。微妙な感覚なのでちょっと説明はしにくいのだが、ホント難しいものだなあ。(ただ「あざといな」という感覚は、多分に「ツクリモノっぽいな」っていう感覚を含むので、結局、高次な技術の問題だと思うけど)
まあ、この作品はシナリオ作品なので、プロ志望と考えたら、この若さでこれだけ書けたら、それだけでかなり有望だと思う。

ところで「シナリオ」と「小説」はもともと全然違うものなのだが、なぜかよく混同する人が多い。うちの小説講座でも、「本当はシナリオが書きたいんだけど、とりあえず小説でも」という人がいる。もちろん、どっちも書きたいという気持ちはわかる。でも、「とりあえず小説でも」というのは、かなり大変である。だいぶ前、「小説家をめざしているが、とりあえずコピーライターに」などという選択は、コピーライターの仕事自体が大変だから、その選択はやめた方がいい、という話をしたのだが、同じように、小説も「とりあえずやる」にしては、ちょっと大変である。それがいい悪いとか、どっちがエライとか、そういう問題ではない。そもそも小説とシナリオは、全然違うものだし、どっちもある程度の技術の修練が必要だから、両方に秀でるのはとても大変だからである。

まずシナリオは「シナリオ形式」で書くものだから、カタチを見ただけでだいぶ違う。もちろん、内容的にもかなり違う。そして、何より職業的にかなり差がある。プロのシナリオライターは、ほぼ「受注制作」だから、ディレクターなどと何度も打ち合わせて書く。ドラマなら、キャスティングの問題もあるし、アニメなどでも、キャラ設定とか、ストーリー展開などは、すべてシナリオライターが決められるわけではなくて、ディレクターさんたち(たいてい一人ではなくて、何人かいる)と話し合って決められる。つまり、共同作業なのである。制作側のトップは、プロデューサーとか、ディレクター(あるいは監督)という人たちだから、シナリオライターが書いても、その通りにならないことが多い。よほど大物のシナリオライターならともかく、普通は、注文通りにシナリオをあげてくれるライターを使う。映画でもそうだけど、撮影の現場で「セリフ」なども変えてしまうこともあるし、ストーリーが変わってしまうことも多い。ラストでハッピーエンドになるはずだった主人公が死んでしまった、なんてこともあるわけである。シナリオライターが「それは絶対イヤだ」と言ったとしても、それは受注生産だし、最終的に作品を作るのは、現場のディレクター(監督)なので、いくら嫌がっても、基本的に「仕事を降りてしまう」以外に抵抗する手段がない。でも、そうして仕事を降りてしまったら、別のシナリオライターが来て、主人公を殺すだけである。ちなみに、映像関係、とくに映画監督という人たちは、ほとんどの人が基本的に「シナリオくらい自分でも書ける」ので、シナリオライターが途中で降りてしまっても、実際にはさほど問題はない。映画監督が「シナリオは自分で書かない」のは、その誰かと「一緒にやりたいから」で(むろん忙しいのもあるけど)、自分が書けないからではない。

というわけで、シナリオライターは、実力も求められるけど、人との共同作業ができる人の方が向いている。どちらかというと人脈というか、人との信頼関係も必要で、面倒な会議や打ち合わせもあったりする。少しぐらい口下手でもいいが、最低限のプレゼン力は必要もある。相手の意図も汲んでやったりしないといけないので、かなり「職人」的な世界である。ドラマなんか最近はほとんどキャスティングありきだから、「あの俳優とあの女優で、これこれこういうテーマで、こういうドラマにしてください」と言われたりするから、その時点で、ほとんど内容が決められたようなものだし、さらに撮影スケジュールの都合とか、ロケ地の都合とかあって、いろんな条件が加わるから、それこそほとんどパズラーみたいにシナリオを組み立てている。たまに現場の裏話など聞くと「ひえええ、それでよくマトモな作品に仕上がってますね」と感心するくらい、そこはスゴイ技術である。

作家の場合、よほど注文のきついゲームのノベライズなどは別として、他からの注文はかなり少なくなる。もちろん小説でもプロだと注文制作だけど、それでも「100枚ほどで、できれば密室ミステリがいいんですが」というような、かなり幅がある。だから、それくらい自由度は高い。主人公の設定も比較的自由だし、ドラマや映画だと少しマズイと言われるような微妙なテーマでも書けたりするし、長さも色々である。映像なら、あまり短編や極端な長編は、商業的にはまず成り立たないが、小説ならその点もかなり自由。しかも、役者のギャラやスケジュールも気にせず、美男美女も使い放題。CG制作の費用も気にせず、群集も、巨大戦艦も、宇宙人も、妖怪も、新宿爆破も、時代衣装も、使い放題。スポンサーに気を使わなくてもいいから、飛行機をハイジャックしても大丈夫。携帯電話の中に小型爆弾を仕込んでも、サラ金の借金で自殺しても、どこかのスポンサーに文句言われることはないのである。よほど差別的なものや人権侵害などがなければ、基本的にやりたい放題である。

というわけで、そもそも内容が大きく違うのだが、一番違うのは、小説ならできるが、シナリオだと「演出」ができないという点だと思う。ここの小説講座が、まだ「大阪シナリオ学校」にあった頃も、よく「シナリオを書こうか、小説を書こうか、どっちのコースに入ればいいか、迷っている」という相談を受けて、「小説が好きか、映像が好きかで決めたらどうですか」といっていたのだが、実際、創作上の問題と考えると、それは、テーマやキャラやストーリーが全部自分で決めたいかどうかであり、さらに「演出にこだわりたいかどうか」ではないかと思う(でも、まだ一本もシナリオも小説も書いたことがない人に、この話をしてもピンとこない)。

「演出」と言われてもわからない人がいるかもしれないので、一応、説明すると、シナリオでは、「演出」は、現場を担当するディレクターなり、演出家なりが担当することになっているので、普通のシナリオではそこまで書かないのである。つまり「夕日に向かって、『バカヤロー』と叫ぶ主人公の青年」がいたとして(くさいシーンですね)、シナリオでは、たとえばこんな感じだとして、
○海岸
   夕日が沈む海岸で、ヒロシが一人立っている。
   ヒロシ叫びながら、海に向かって石を投げる。
ヒロシ「バカヤロー」
そのヒロシがアロハシャツ姿なのか、学生服なのか、ジーパンなのか、ジャージなのか、あるいは腕をまくっているのか、ボタンをだらしなく外しているのか。あるいは、夕日の方をにらんでいるのか、ぼんやり見ているのか、遠くに投げるのか、近くに捨てるのか、足はあげるのか、さらにバカヤローの語尾が下がっているのか、上がっているのか、石を投げたあとに顔がアップになるのか、バックのか、さらに音響効果など、それはもう演出のバリエーションはめちゃくちゃあるわけで、映像なら全部それを一つ一つ選択していくわけである(どうでもいいシーンならそれなりに)。で、普通のシナリオの場合は、ストーリー上どうしても必要な「夕日」とか「石をなげる」とかは書くかもしれないけど、くしゃくしゃな髪の毛とか、にじんだ瞳とか、石の大きさだとか、投げる方向とか、投げた後の石が落ちる音とか、そういう細かいことはシナリオには書かないものである。つまり、基本的に「最終的な演出」は、現場の担当者がするのだ(あるいは役者の演技で)。

ところが、小説の場合、作品がそのまま最終的に直接、読者との接点になっているから、演出してくれる人はいないわけで、どのように書くかは作者次第である。あたりまえだが、小説は映像と違って、読者に与えられる情報は文字情報のみである。だから「演出」といっても、結局、文章表現になってしまう。だから、それを読者に伝わるように(イメージしやすいように)書くわけだから、思いついたシーンをすべて細かく書けばいいではない。もちろん必要なら、「彼の瞳はにじんでいた」かもしれないし、「ぐっとこぶしを握りしめた」かもしれないけど、とにかく細かく書けばいいわけではない。伝えたいことが伝わるように書くわけである。で、細かいところは、読者の想像力を利用すればいい。というか、ほっとけばいい。というか、読者に任せればいい(だから、小説の中には絶世の美女が何人もいるが、映画ではさほど美人じゃないかもしれないが)でも、とにかく最終まで自分一人でやれるのだ。

だから、作家とシナリオライターは、作るものがかなり違うので、どっちがエライとか、難しいか、とか、そういうレベルではあんまり比較しようがない(私は、「作家」という仕事を含めて、職業にいちいち階級ランクをつける考え方は理解できない)。別の仕事で例えると「運転」なら、いつも高速道路を長時間走らないといけない「長距離トラック運転手」と臨機応変に対応できる「スピードバイク便」では、仕事内容も違うし、求められる資質も違う。医者だって、大学病院の脳外科医と最前線の軍医とでは、技術的にはどっちが難しいかと聞かれても、私にはさっぱりわからない。おそらく難しさの質が違うはずだし、その彼らだって、突然、小児科医をやらされたら、できるとは限らないじゃないか。患者との対応も全然違う。薬の分量や病気の種類も全然違う。注射の打ち方でさえ、同じとは限らない。

小説とシナリオなら、もっと違うかもしれない。パン屋とケーキ屋くらい違うかも。いや、花屋と八百屋かもしれない。たとえば、園芸ショップに野菜の苗が置いてあったとしても、同じピーマンとかトマトなどの野菜だとしても、それが八百屋に並ぶ商品と同じものであるわけではない。

もちろん小説とシナリオ、両方うまく書き分ける人もたくさんいるけど、それは両方のやり方がわかっている人で、実際それほど多くはいない。それに、人生は有限なのだから、書ける作品には限りがある。それはプロでもアマチュアでも一緒なのだ。だから、悩んでいるヒマがあったら、とりあえずどっちか決めた方がいいかもしれない。で、たぶん1〜2作書けば、自分の資質くらいわかると思うので、まずは書いた方がいい。ま、やってみないとわからないってこともあるしね。

09/08/2005

小説コンテストの下読みもラクじゃない

9月7日(水)
午後から小説講座の事務所。発送、事務作業いろいろ。

私は、小説講座の担当をしているけど、よく小説づくりを「料理」にたとえることがある。それは、私がコピーライターになる前に外食産業に勤めていたせいで、しかも日頃、家に帰ると主婦だからだろう。掃除は多少サボれても(多少というか、かなりサボッている気もするが)、料理は毎日作らないといけない。そんな私だけど、コピーライターになった頃は、よく「広告」と「料理」の共通点を探していたものである。例えば、広告だと「メディアミックス」(広告媒体を使い分けて、販売促進キャンペーンをすること)というのがあるのだが、「ああ、これは料理でいうと、コース料理を考えるみたいなもんだな」と思ってみるとか、「シズル感」(広告の写真や映像に見られる臨場感、リアル感)と言われたら、「ああ、メニュー写真だな。うまそうだ、と思わせなきゃいけないんだな」といった感じである。

で、さかのぼって、その外食産業に入社した頃は、外食と「演芸」や「実験」との共通点を探していたような気がする。それは、もちろんその前に演芸場で働いたことがあったり、企業の研究所でアシスタントをした経験があったからである。

だから、小説も、たまたま私が「元運転手」なら「運転」にたとえたに違いないし、「元看護婦」だったら、「看護」にたとえたに違いない。どうも人は、何かしら、新しいことを始めても、自分の知っていることで判断しようとするもんらしい。フリーのライターになってからは、色んな人や企業に取材に行ったりしたが、大企業の社長にインタビューしても、弁当屋のオバチャンに話を聞いても、いつも「これは、料理で言えば、こういうもんだな」とか、自分の知っている世界に当てはめて考えていることが多い。

でも、「小説創作」は、演芸や料理、広告とは「サービス業」という共通点もあるし、一方で、モノを作るわけだから、製造業や職人とも共通点がある。だから、小説を作るのは、たとえば「たこやき」を作るようなものだ、なんてこともたぶん言えるわけである。プロ作家である講師の中にも、以前の仕事のやり方をそのまま使っているんじゃないかなと思われるような方法を使っている人がけっこういる。ちょっと面白い。ある先生は、工場で使う「工程管理表」を小説を書くためにも使う。見せていただいた「工程表」は、ホントに工場で使われているような感じで、とても興味深かった。

案外、こういう行動習慣みたいなものは、社会人になった初期の頃に叩き込まれるものなのかもしれないな。余談だけど、コピーライターとして、カメラマンやデザイナーの知人も多いのだが、こういう職業の人は、机の上がめちゃくちゃ片づいているか、めちゃくちゃ散らかっているか、どっちかなのだが、もって生まれた性格の問題もあるけど、どうやら最初に教えてもらった先輩などの影響が強いようである。カメラマンなんかは、とくに厳しく教えられたりすることが多いから、すっかり身に染みついていて、私生活ではだらだらするようなタイプでも、仕事場だけはきちんと片づいている人がいたりして、それもちょっと面白い。

ところで「短編は、書こうと思えば一日で書けるよ」とよく言うのだけど、実際に「一日」で書こうというのは、かなりしんどい。それでも土日の2日間の休みがあれば、書こうと決心すれば、大抵なんとか書けるようだ。生徒さんたちに聞いてみると、やはり短編でも、2〜3日かかっている。もちろんこれは実際に原稿用紙に書くとか、パソコンの前に座って作業をしている時間で、アイデアを考えている時間は含まれていない。アイデアというのは、「何か書いてやろう」と思って、それよりも前にとっくに考えておく方がよくて、実際に原稿用紙の前に座ってから、「さて、何を書こうかな」なんていう感じだとなかなかいい作品を書くのは難しい。できれば、書きはじめる前に「工程管理」のようなものもできていた方がさらにラクである。時間がありあまっている学生さんならいいが、この小説講座は、社会人の生徒さんが圧倒的に多いので、飲み会でも時間のやり繰りの話題がよく出るのだが、自分の「原稿を書くスピード」や「推敲にかかる時間」などはきちんと把握していないと、締切までに作品が間に合わない。とくに長編を書く場合、パソコンを使う人が圧倒的に多いだろうけど、印刷時間がバカにならないということを忘れてはいけない。400枚、500枚という長編だと印刷だけで、半日とか丸一日はかかってしまう。紙と予備のインクを用意するのを忘れないようにね。とにかく一日で書けるのは、丸一日8時間以上かかっても、せいぜい20枚程度の短編がかなり限界で(これも人によるけど)、平日3枚、休日10枚くらいが生徒さんの平均値だろうと思う。となると、当然、一ヵ月で書ける限界量というのがあるので、そうなると「工程管理」が重要なのである。時間そのものは、いつまでも無限にあるものだが、個人には、他の生活をする時間とか、あるいは寿命といったものもあるので、時間が無限にあると思ったらいけないのである。

とにかく、小説を書く人の中には、大きく分けると2パターンいて、最後までプロットができあがってから書きはじめるタイプと、最初の一行から綴っていくタイプがいる。まあ、作り方は本人のやりやすい方法をすればいいから、どっちでもいいのだけど、書くのがまだ初心者で、短編の場合は、必ず「結末」は考えてから書くようにした方がいいとアドバイスしている。というのは、初心者の場合は、いきなり書き始めても話がうまくまとまらないからである。たとえて言うと、登山でも達人だったら、土地カンのない所でもなんとか目的地にたどり着けるのだが、初心者は地図を見る訓練もしてなかったりして、方向もわからず、しかも自分の歩くスピードや疲労度がわからない。だから、どれくらい歩いたら目的地につけるのかさっぱりわからないものなのだ。「小説」だから遭難して命を落とす心配はないから、いくらでもウロウロしたいだけすればいいのだが、大抵、そのうち自分が飽きてしまって、ロクなところにたどり着かないことがほとんどだったりする。

今ちょうど同じ時期に、短編のコンテストの下読みを2件も引き受けてしまっていて(注:当校が主催の「大阪ショートショート大賞」ではない。こっちはまだ募集中で、締切は9月末日)、この2週間ほどで短編を100編ほど読まなくてはいけないのだけど、こんなふうに「シロウト」の作品を山のように読むといつも「なんで、地図も、目的地もなく歩き始めるんだろうなあ」と思うような作品が8割くらいある。というか、文章も悪くない、書き出しなんかすごくいい、というような作品に限って、読めば読むほどだんだんつまらなくなっていき、最後の結末は、本当にとってつけたような終わり方をしている作品が山ほどある。どうも、最初に思いついたことを書きはじめて、その先を考えずにどんどん書いていき、枚数制限が近づいて来たので、なんとか適当に終わらせよう、というような書き方をしているようだ。こういう作品の中には、明らかに「一度も推敲もしてないな」と思われるような作品も多くて、構成もかなり荒っぽい。てか、「構成」というのをちょっとでも考えたことがあるのだろうか、と悩んでしまうようなものがほとんどだ。よくあるパターンは、やたら意味もなくつまらないシーン描写が延々と続いたかというと、最後の方になって、唐突に終わっている。ぐちゃぐちゃと道に迷って、そこでたまたま見た風景を書いたような感じ。文章的にはそれほどまずくなくて、導入部もそこそこおもしろそうなのだが、面白いのは最初のせいぜい2枚だけで、3枚目になるともう退屈になってきて、結末を読むとちょっと腹が立つという感じである。まあ、いろんな書き方はあるから、一次原稿はだらだら書いてもいいけど、普通は自分であとでカットするなりして、人様に見せる前にもう少し見ばえを整えるのが礼儀じゃないのかな。

こういう作品は、小説講座の生徒作品ではほとんど見たことがない。生徒作品だって、そりゃ、どれもうまいわけではないし、訳わからんのもあるのだが、「いきなり思いついて書いてみただけ」というのはあまり多くない。でも、コンテストの下読みをすると、どうもほとんどの人(実に8割くらいの人)が、あきらかに結末などは考えずに短編を書きはじめている。もちろんいわゆる純文学系の「掌編」とか、日常を描いて、どうってことない結末しか書いていないような作品でも、ものすごくいい作品もいっぱいある。だからダメだとは思わないのだが、そんな作品をねらっているとはとても思えないような作品ばっかりを数十本読み続けていると、「結末も考えずに適当に書くんじゃない。読まされる方の身にもなってくれよ」と言いたくなってしまう。ものすごく面白い結末を期待しているわけではないが(もちろんあった方がいいが)、おざなりな、みっともない終わり方をされると腹が立つのである。

そういう作品は、結局、最初の数行、書き出しの部分だけがいいという人が多いので、私は、そういう短編をひそかに「書き出しクン」と読んでいる。「書き出しクン」は、もともと文章としてはそれほど悪くないものもある。とくに冒頭部分は、そこそこ書けているように見える。が、最初の1枚目、せいぜい2枚目はいいが、残念なことに3枚目から急速に失速し、5枚目になると確実にもうダメで、後になればなるほどひどくなり、たいてい結末が一番ひどい。いきなりとってつけたように終わっている。だらだらした描写もかなり多く(たぶん自分の書いた小説に酔っているのではないかと思う)、自己陶酔的な気分もたっぷり感じさせるので、十枚以上になると読んでいるこちらの気分が悪くなってくる。こういう作品は、誤字や脱字などもないし、文章上の間違いはほとんどないのだが、読んでいると「退屈」か「気分が悪くなる」かどっちかである。キツイ言い方をすると、見知らぬ人のマスターベーションにつきあわされた気分である。まあ、別の意味で面白いからいいけどさ。でも、全国の投稿マニアの人の中には、たぶんこういう作品ばかりを書いては投稿している人がけっこういるんだろうなあ。

不思議なのだが、なんで読む人のことを少しも考えずに作品が書けるのだろうなあ。ほんのちょっとした気づかいをしてくれれば済むのに。そりゃ、いきなり書いて、うまく人もいるけど、プロ作家でも短編の「終わり方」をまったく考えずに書き始めて、それでもサッとうまく終えられるという人はどれくらいいるのかは微妙である。というか、プロなら、最初は明確じゃなくても、短編の一行目を書いた途端に「ああ、じゃあ、こんなパターンかな」「あんなパターンでいこうかな」なんて、結末まで色々とすぐに考えながら書いてしまうだろうから。たぶん30枚くらい短編で、10枚目を書いても「結末なんてホントにまったく考えてない」なんて、そんなこと、そもそもまずできないと思う。というか、たぶんプロが言う「結末はまったく考えてない」ってのは、大抵は「長編」で(もしかすると70〜80枚くらいのもあるかもしれないけど)しかも、ホントに何も考えてないわけではなくて、「まだはっきり決めてない」くらいの意味である。でも、「書き出しクン」は、どう考えても、30枚の短編でも、28枚目までどう終わるかなんて考えていない。自分の書いた文章に陶酔してるだけである。むろん、その陶酔につきあえるほど、うっとりした文章ならいいんだけどねえ。

いくら料理がうまい人だって、どんな料理を作るかぐらいは考えるだろうと思う。ホント、普通に考えれば、いきなり適当にやって、そうそう上手いもんが作れるわけがない。コンテストに投稿するってのは、たとえ家庭料理でも「特別なお客さまが来た日の献立」みたいなもんである。材料だって、精一杯、新鮮なおいしい(できれば、旬のもの、珍しいもの)を用意するだろうし、せっかくのお客さんをどうやって楽しませようかと考えるだろうと思う。飲み物だって「そうだな、最初はビールかな。あとは鍋料理だから、日本酒にするかな」なんて、順番やら、種類やら、色んな「作戦」を考えるはずだろうしねえ。(あ、やっぱ「料理」にたとえるのが一番ラクだな)。コンテストだって、単に読んでもらうだけが目的ならともかく、本当は、どんな人だって、投稿するからには、ちょっとは入選をしたらいいなと思ってると思うんだよね。で、できれば大賞なんか狙ってるんでしょ? 

私だって、ブログなら、個人の自由で無料で書いているので、多少、推敲もせずに、ごちゃごちゃだらだら書いても許されるだろうけど(え、違う? ダメなの?)、仕事のインタビュー原稿なら、ちゃんと金ももらっているので、構成を考えて、何度も書き直す。というか、私は、まだスタイルが決まってないようなケースだとかなりの長文でも、構成やら文体を何度も打ち合わせたうえに、さらに書き変えたものを3パターンくらい作るから、手間は人一倍かかるのである。まあ、広告コピーなんか、雑誌に比べるとさらに十倍くらい金ももらっている。だから、もっと時間はかけている。だから「作戦なし」で文章を書くなんて、まずありえない。つまり料理は、家庭料理だから、適当に作ることもあるけど、親しくない他人に食べさせるなら、もう少し材料も吟味するし、料理法も考える。ましてヒトサマから金をもらうなんてものは、よほど丁寧に作るわけである。それは、料理の腕の問題ではなく、なんつーか、「もてなそう」という気持ちの問題があれば、当然、そうなってしまうのである。

それなのに、みんな、なんで小説だと平気で書けるんだろう。なんか、不思議だなあ。


09/07/2005

小説も料理も、作ると味わうとじゃ大違い

9月6日(火)
昼過ぎから小説講座の事務所。

スタッフKさん、印刷の山。といっても、今期はこれでほぼ最後。大型台風は、九州の方にいるらしく、大阪は、風は強いものの雨もところどころ。5時半頃まで、作業をして帰宅。

さて、小説を書く人の中には、「本当はマンガ家になりたかった」とか「映画が撮りたかった」という人も多い。「でも、小説を書く方がラク」というわけではないのだが、いくら「お話を考えるのが好き」でも、マンガを書くには、絵も好きじゃないといけないし、映画なら映像を作らないといけない。お話を作るのが好きとか、アイデアを考えるのが好きとか、それだけなら楽しいし、すごく好きな映画を見たあととか、誰でもちょっとくらいは考えてみたことがあるかもしれない。でも、実際、「作る」となると、色々と大変なこともある。まあ、映画なんかは「現場」の面白さがあるんで、一人で作っていくものとはちょっと違うのだけど、「マンガ家になりたかった」なんて人はけっこういたりする。

知り会いのプロのマンガ家に話を聞いたら、やはりマンガは相当な手間ひまがかかるので、「エッセイ」の仕事をすると「うーん、こりゃ、楽だな。オレ、小説家になろうかな」なんて思うらしい。マンガは、話を考えて、あれこれ構成して、下書きして、ペン入れして、最後に消しゴムをかけるという膨大な手間ひまがかかる。
「だって、考えてみてよ。その最後の仕上げだけでも、たとえば24ページ、せっせと消しゴムかけたら、どんだけ体力使うと思うか。もう腕があがんないよ」
私はマンガが描けないのでピンと来ないけど、消しゴムくらいはかけれる。で、それくらいの想像はつく。
うーん、そりゃ、大変だなあ。

だから、マンガや映画は、お話を「考える時間」よりも「作る時間」の方が圧倒的に長かったりする。誰でも、学生の頃は、「自分でも作ってみたいな」なんて、ふと一度や二度考えたことがあるかもしれないが、実際に作ってみる人、最後まで作ってみるという人はかなり少ない。実は、小説に限らず、マンガや映画も、短い作品なら、2〜3本も作れば、他人が見てもそこそこ見れるものが作れるし、少し指導をしてもらったりすると、けっこう面白いものになったりするものだったりする(むろん売り物にはならないが)。
私は、ストーリーマンガは一度も作ったことがないけど、8ミリ映画なら高校生の時に4〜5本作ったことがある。どれも20分前後の短い作品だったけど、何本か作ったら、そこそこなんとか見れるものになった。やる前に考えたよりは、作るのは案外、簡単である。だけど、続けることはなかった。8ミリは、手間もかかるし、協力者が何人も必要である。そこが面白いところでもあるのだが、やはり作り続けるのは大変である。私の弟は、社会人になっても、自主制作で映像を作り続けているらしいが、役者のスケジュール調整だけでも、相当な手間ひまがかかるそうだ。それで、やっと難しい調整をして、せっかくロケの手配をしてても、雨にやられたりしてる。大変である。さらに、彼は、今は舞台関係の仕事をしていて「定住」をしているが、結婚するまでは、ずっと商業劇団で地方巡業の仕事をしていたので、自宅にいることもほとんどなかった。だから制作を続けるのはますます大変なのである。

そういう苦労をして、1年がかりで、やっと作るのが20分くらいの作品だったりする。で、それを見るのは20分。まあ、見る方からいうと、映像作品を見るのはものすごくラクである。(自主映画の中には実験的なものもあるけど、彼の作品はストーリー作品なので、普通に楽しめるようなヤツである)
つまり映画というのは、作る人の労力と見る人の労力の差がそれくらい激しいメディアなのである。マンガなんかもそうである。描くのに数十時間かかっても、読むのはせいぜい十数分という、とんでもなく差がある。

それに比べて、小説はどうか。小説は、マンガや映画に比べるとまだマシな気がする。それでも「作る時間」と「読む時間」では、相当な差がある。30枚くらいの短編くらいなら、早い人なら、ほんの十数分もあれば読めてしまうかもしれないけど、それを書くとなると、かなり早書きの人でも、一日か二日はかかる。ただし、小説を書く平均速度は、人によってすごく違うのでなんとも言えないけど。内容にもよるし。でも、物理的に1時間あたり6枚以上なら、かなり高速なんじゃないかな。初心者だと一時間に1枚半くらい。ここの講座の生徒さんたちは、どうも平均すると1時間3〜4枚くらいらしい。まあ、社会人が多いから、平日1〜2時間くらい書くという人がほとんどで、週末にまとめて書くタイプもいるが、それでもやはり週に7〜10時間くらい書く時間がとれればいい方だ。半年くらいかかって書いた長編でも、遅い人でも数時間。早い人だと1時間くらいで読んでしまう。

ところで、歩くスピードが時速4キロで、一日1時間歩くと健康維持に効果があるそうだ。だから毎日一時間小説などを書く時間をとったら、精神衛生に効果があるハズ……か、どうかはわからないけど。(でも、電車の中で、ものすごい早さでメール打っている若い人を見ると、「あれをずっと続けていると、手先が刺激されて、ボケ防止になるんじゃないか」という気がするんですがどうですかダメですか。ちなみに私はできませんが)

でも、小説というのは、映画やマンガと違って、読む人の時間や労力もかなり必要とする。小説は、書く人のスピードにも個人差があるが、読む人のスピードにもかなり個人差がある。人によっては、本一冊を読むのに数カ月かける人もいる。まあ、私は、書くことを仕事にしているし、もともと活字人間だから読むことについてはまあまあ熟練している方かもしれないけど、それでも長編は、けっこう時間がかかる。マンガはどんなに疲れてても読めるのだが、小説はかなり疲れている時には、読む気になれない。私は、出産の時にしか、ゆっくり入院したという経験がないのだが、どんなに時間があっても、集中力がないと小説なんかどうしようもない(自然分娩の時は陣痛の合間に、帝王切開の時は術後の激痛の気晴らしに、マンガくらいは読めるが小説は読めん)

それだけに、小説を書くだけなら、実は、誰でも書けてしまうものなのだが、「人が読める作品」を書くのは大変なんである。それでいうと、小説を書くのって、なんか歌を歌うのにも、絵を描くのにも似ている。ホント、誰でもできるし、楽しいものだ。でも、自分だけじゃなくて、人が楽しめるようなものというのは、ちょっと難しい。周囲の人ならともかく、赤の他人は見てくれない。自分が楽しませてもらえるものじゃないと、他人につきあうのは、ただ面倒なだけだったりする。その点は、料理も同じだな。まあ、料理くらい、ちょっと訓練すれば誰でもできるけど、自分や家族のために作った料理をまったく赤の他人が食べて、それがうまいとは限らない。知っている人ならまだ「おいしい」と言って食べてくれるけど、それがレストランで売れるとは限らない。

ところで、絵もそうだけど、小説も「うまい」からと言っても、それがいいとは限らない。なんでかというと、絵や小説や音楽は「好き嫌い」の問題もあるからだ。だから、100%全員に好かれるというのは、まあ、まずムリだ。だから、自分が作った作品に対して「こんなん面白くないで」と思う人がいるのはしょうがない。が、ただ商業出版をしようとすると、つまり収入と支出、つまり赤字が出ない程度にはウケないとしょうがない。たまに「最近、くだらない音楽が流行っているな」とか「なんかしょうもない小説がけっこう売れてるな」と言う人がいるけれど、自分がおもしろく感じないからと言って「くだらない」とは限らない。たとえば世代が違う人、性別が違う人たちが面白いと思っているのかもしれない。『冬ソナ』でも『スターウォーズ』でも『ハリーポッター』でも、ハマる人とハマらない人がいる。小説でも、いろんな作品がある。ターゲットも違うし、感性も違う。

ところで、エンターテインメント系の小説を書く人が多いので、作品指導では、どうしてもプロットの問題とか、設定とか、そういう話が多くなってしまう。まあ、作品の構成に問題がある場合が多いので、どうしてもそうなっちゃんだけど、読者の好き嫌いの最終的な判断は、どうも演出のところでやっている気がする。肌触りというか。いや、「密室殺人ならとりあえず読む」とか「美形の吸血鬼が出てくる話なら何でも好き」とか「信長が出てくる話なら読もうかな」みたいなところもあるのだが、最終的な好き嫌いの判断は、そういった肌触りとか、感性だという気がするな。

で、それが何かというと、私の場合、ちょっとわからないのだけど、どうも五感があうかどうか、みたいなところらしい。小説では、視点人物の体験を通して、読者は物語世界をストーリーに従って体験していくので、文章表現では五感(見る、聞く、臭う、触る、味わう)の感覚表現を使ったりして、臨場感とか感じることになるのだが、それがわかるかわからないか、ってのが「肌触りが合う」と感じるかどうからしいのだ。もちろんモノの見方とか、人生観みたいなものもあるかもしれないけど、極端にいうと、その視点人物の人生観がかないr嫌いでもいいんだよね。五感がわかれば。つまり、ちがう人の人生が擬似的に体験できるのが面白い所があるので、その人物の考え方や人生観が違っててもいいんだけど、少なくとも五感が共有できないとかなりキモチ悪い。他の登場人物はどうでもいいけど、視点人物の感性が理解できないと、それが魅力的な話でも、なんだか作品自体が好きになれない。「うーん、面白いのはわかるんだけどね」って感じになってしまう。

でも、「この作品はピンと来ない」と言われると、ちょっと難しい気もするし、どうやっていいかわかんないだろうけど、「この作品の視点人物が、五感で感じている感覚が、ちょっとわからない」っていうのは、努力の可能性が残ってそうな気がする。だって、人生観は共有できないかもしれないけど、五感は共感できるような気がするんだけどなあ。どんなキャラでも、ちゃんと書いてくれれば「感覚」ならわかるし。

エンターテインメント系の小説を書く人は、どうしてもストーリー主導だったりするので、本人は視点人物を決めているつもりでも、視点がつい離れてブレたり、そこになかったりする。その点、純文学系の作品を書く人は、一人称か、かなり一人称的な三人称文体で書くことがけっこう多いので、視点がブレる人の方が割と少ない気がする。(その分、合うか合わないかの結論がかなり早めに出てしまうけど)まあ、いわゆる神の視点でも何でも、面白ければいいってのもあるかもしんないけど、視点人物はそういう意味で「わかる」ように書いてくれると、ホント読むのもずっとラクなんだけどなあ。

09/06/2005

小説とは関係のない休日(映像やら何やら)

9月5日(月)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

事務所はお休みだけど、なんだかんだと小説講座以外の仕事いろいろ。夕方は、専門学校の方の非常勤講師。今日の資料映像は『奥様は魔女』。第1作。白黒版だぜえ。新婚旅行で、魔女だと告白されたダーリン。その驚きようが面白い。一応、授業テーマは「リアリティとは何か」。ファンタジー系の生徒さんが圧倒的に多いので、一応、そういう話。そのあとで「リアリティって何」ってか、ヘタなリアルさなんかクソくらえ、オモロかったら何でもええんじゃい状態の『ムトゥ踊るマハラジャ』を紹介。むろん前半だけだけど。しかし、えらく不評。クラスによっては、大ウケするんだが、このクラスは、なぜか皆、真面目で(他のクラスと違って、宿題の提出率も高い)そのせいか、しかめっ面して見てた。うーん。それはそれは。やっぱ、混乱しちゃったか。まあ、多少、混乱させるのが目的だからいいんだけどね。

こういうクラスは、『タイムボカン』とかも見せると怒り出すんだよね。なにせハリウッド映画を数本くらいしか見たことがない若者ばっかだし。やっぱ、今度は『鴛鴦歌合戦』でも見せようかしら。『イノセンス』も最初の5分だけ見せたけど、それだけでほとんど脱落。まあ、好みはあるよね。資料映像だし、視野を広げるのが目的だから、全部見せるわけではないんだけど(後でレンタルで借りて見たい人もいるだろうから、できるだけ冒頭部分を使っているけど)わかんなくても、若いうちに何でも色んなものを見てちょうだい。自分が面白くなくても他人が面白いとか、腹を立てるとか、なんでもいいけども。まあ、私の講義は、ラスト3回は、ちょっと変わったやつばかりだから、これで怒ってもらうと後が困るんだけどなあ。まあ、戸惑ったり、怒り出すのも、発想転換という勉強だということで。

ところで、若い人の方が柔軟な感性を持っていて、だから、柔軟な発想ができるんだという考え方があるけど、まあ、私の経験では、一般的にそういう感性を維持できるのは、せいぜいローティーンまでで、ハイティーンになるとものすごく個人差がある。というか、ハイティーンの中には、経験や知識がない分、けっこう融通が効かないとか、偏狭だったりすることも多い感じ。小学生とか中学生なら、何でも新鮮に反応があるんだけどね。そういや、ある落語家の人が言ってたけど、学校へ公演に行くことも多いそうだけど、小学高学年から中学生は、案外、ちゃんと落語が理解できるらしい。空想力も集中力もふんだんにある。それが「高校生になるともうダメ」なんだって。だから、ただ若いからといって、柔軟な発想ができると勘違いしちゃダメよ。すごく個人差があるので、若い人でも、柔軟な発想ができる人とできない人といるんだよね。まあ、歳をとっても、できる人はできるしな。

まあ、社会人向けの小説講座と違って、専門学校生だと、ほとんど映画を見たことがない人が多い。マンガ科コースなのだが、だからと言って、じゃ、マンガならたくさん読んでるかというと、まあ、それほどではない。今日、マンガは大量に出版されているから、分化が激しいのだけど、それぞれ読んでいるのが、かなり狭い範囲。私のようなオバサンの世代だと、マンガ好きだとしても、当時は出版されているマンガ雑誌の量がさほどなかったので、少年マンガも少女マンガも好き嫌いなく読まざるを得なかったのだ。だから、ヒット作を読まないってのはありえなかったんだけど、今は、犬夜叉もハガレンもコナンもNANAも読んでない生徒さんが多い。「へえ。一体、何読んでるの?」と聞くと、たいてい私は知らないマンガで、みんなそれぞれ違う。まあ、マンガもホントいっぱい出てるしなあ。最近、アニメもあまり見ないからなあ、わし。帰宅後、小説講座の生徒さんに借りた『カウボーイビバップ』のビデオの残りを見る。これは食べるシーンが好き。やっぱ、メシ食わないとな。でも、なんで、みんな作品の中に食べるシーンを書かないんだろうな。

さて、なんだか映像づくしのようだが、小説も読まないとダメなのだ。専門学校の学内選考の下読み十数本。短編なので、一晩で読めちゃったけど。うーん。まあ、いつも他から頼まれてコンテストの下読みとかすると、うちの小説講座の方って、レベルが高いんだなあとつくづく思うな(笑)。いや、ホント。

でも、どんな作品でも、みんなコンテストに応募してくるんだよね。どんなにいい作品でも誰にも見せないなんて、どうしようもないもんな。専攻科の入選がここしばらくないのも、このあたりにあるような気もするけどなあ。

09/05/2005

いつか書ける、きっと会える

9月4日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

家族がみな美術館に出かけてしまって、半日、一人で留守番。結局、『彦八まつり』に行けず。その代わりというわけでもないが、田中啓文先生の『笑酔亭梅寿謎解噺』を再読。

ここの小説講座は、土曜の夜に講義があるので、資料などは自宅に持ち帰ることが多い。そして、日曜、月曜は、事務所がお休みなので、そのまま火曜日まで、自宅に資料を置いてある。後期は作品指導が多いし、欠席者も多くなるので、かなり重たい。けっこうジャマである(とくに置き場所がないわけだから、余計ジャマなんだよな)。
ただ、今月末で、年度がかわり、10月には新しいクラスが始まるから、その頃には、たぶん資料は少なくなる。毎年、だいたい半分から4割くらいの人が専攻科に残るが、それ以外の人は卒業なのである。専攻科に進学しない人は、どうもほとんどの人が小説を書くのをやめちゃうみたいだ。まあ、いいんだけど、そんなこと、あんまり複雑に考え過ぎないで、「まあ、気が向いたら書くかもしんないけど」くらいでいいと思う。

ところで、ここの小説講座は、一応、プロ作家養成というコンセプトになっているのだが、実際には、生徒全員がプロ志望というわけでもない。たしかにプロ志望者は多いんだけど、その程度もいろいろである。作家の場合は、専業でも兼業でもやれるわけだし、むしろ「兼業でいいから、年に1〜2冊の商業出版ができるようになりたい」くらいの人が一番多いんだろうな。専業になりたい、と真剣に思っている人は案外少ないのかも。ちなみに、小説創作の実力があるかどうかと、その人がプロ志望かどうかは、それほど関係がない。入学時は、まったくの初心者の人も多いし、かなり書ける人は1〜2割程度なんだけど、そういった実力のあるなしは、プロ志望かどうかに、あんまり関係がない。ま、どっちみち、入学時の実力差くらいは、一年も過ぎればかなり目立たなくなってしまうけど(ヘタな人でも、入学して何本か書くと、ある程度、上手くなってしまうのだ)。

その生徒は、ほとんど社会人だから(大学生もいるが)多少、先生たちもたまに厳しいことも言うかもしれないけど、もちろん「プロになる気がないんだったら、小説なんか書くな」なんてことは言わない。そりゃ、むろん「プロになりたいんだったら、がんばらないとダメだよ」くらいは言うかもしれないが。まあ、だからプロ志望だと色々と悩むかもしれないが、あきらめたらあきらめたで、楽しく一年過ごせるはずだと思う。でも、なぜか「プロになりたい」と言って入学して来て、たまに「自分の才能に自信がなくなったので、筆を断ちます」なんてことをいう人がたまにいる(まあ、きっぱり宣言したのは、百人中2人くらいだけど)

実際、入学して3〜4ヵ月くらいすると、プロの講師の先生たちや周囲の生徒さんの作品とかに圧倒されてしまって、ちょっと自信をなくす人もいる。でも、そのうち「ま、やっぱ面白そうだし、がんばってみようかな」とやる気をとりもどすことがほとんどなのだが、ごくまれに、そのまま自信をなくしてしまう人もいる。そのうえさらに「筆を断ちます」なんて言うような人は、まれになるのだが、たぶんそれは、入学前にやたら自信満々だった人である。いや、やる気マンマン、自信満々な人は、たくさんいるから(そもそも小説を書く人は、自意識過剰気味な人が多い気がするけど?)、それだけが理由ではないんだろう。

たぶん、そういう人は、小説を「面白い」と思えなくなった人なんではないだろうか。その中には、すごく実力のある人も含まれていたりするのである。

まったく初心者の人に小説を書いてもらうと、ほんの数枚の作品でも、最後まで一作でも書けたら、けっこう嬉しくなってしまう。で、その感動は、割と一年間続いたりする。そして、短編一本一本、ただ書けるのが嬉しくて(それなりに苦労はするだろうけど)、けっこう楽しそうに書いている。こういう人の方が、むしろアレコレ悩まずに済むから気がラクかもしれない。で、あっという間に一年たって、「もうちょっと色々書きたいな」なんて思うようになる人は、専攻科に進学する。

ところで、うちの小説講座は、「エンターテインメントノベル講座」という講座名である。日本語なら「娯楽小説講座」だ。私は、この講座を7年前の創立時からずっと担当しているのだが、なんでカタカナ名になったのかは、実は知らない。この名前をつけたのは、今は、出講していない「ある人」である。この人は、生徒ではなくて、プロの作家さんで、数年前まで講師もお願いしていたのだが、今は来られていない。うわさでは「筆を断ってしまった」のだそうだ。何か深い事情があるらしいのだが、詳しいことは聞いていない。だから、よくわからないけど、プロの作家でもそういうことは起こりうるということなのだ(というか、まだプロの作家にもなってない生徒に対して、「筆を断つ」って表現はヘンなのかもしれないけど)

たぶん、こういう人は、ものすごく真面目な人なんだと思う。だって、「ま、そのうち書こう」「時間ができたら書こう」なんて言ってても、書かない人は山ほどいる。だから、無理に『引退宣言』なんかしなくていいはずなのである。でも、それはそれでいい。だって、生徒さんは、まだプロ作家でもないんだから、書きたい時に書けばいいし、書けなきゃ一年くらい休んでもいいと思う。もちろん専攻科に進学するもしないも自由だし(だって、専攻科の学費は、ほとんど実費。どっちみち赤字ギリギリなんだもん。生徒数が増えると手間がかかるだけし)、まあ、正直、一年ずっと講義で会って来た人なので、そのままずっと書き続けてくれれば嬉しいなあと思うんだけど、結局、書くか書かないかは個人の自由である。専攻科の進学しても、仮に一年間、1作も仕上げられなかったとしても、それはまだ書く意思があるのだからいいのである。でも、もう二度と会わないとわかっている人でも、なんか「絶交」と言われると何だかやっぱり「どうかな」と思う。だから、「いつかまた、会いたいね」くらいにしといてもらいたいんだがなあ。せめて「小説なんか、やっぱ、書くのは難しそうだけど、読むのは続けますよ」。まあ、そう思ってくれるならいいんだけど。

別れた恋人だって、今は会いたくなくなっていても、もしかすると、ふとまた会いたくなるかもしれない。本当に好きなら、もし別れてもいつか会える日があるかもしれない。それなのに、しなくていい『引退宣言』をするのは、きっとその人の真面目さのためだろう。あるいは、自分自身のプライドを守るためなのかもしれない。作家志望だった自分に決着をつけたいのかもしれない。でも、他に何かやることを見つけただけなのに、わざわざ挫折感なんか、いちいち味わう必要があるんだろうかと思うことがある。だって、これが野球選手のプロ志望とか、司法試験とかなら何となくわかるんだけど、小説なんて、プロにならなくても書けるし、プロになるチャンスは何歳になってもいくらでもあるし、だから、わざわざ引退するほどのものではないと思う。

世の中には、きっぱり決めなくてはいけない問題もあれば、曖昧なままでいい問題もある。プロ作家志望かどうか、それは、本当は、決めてもいいし、決めなくてもいい。決心した方がラクになることもあるし、それゆえに辛くなることもある。少なくとも、今すぐ決めなくちゃいけない問題ではない。だから、正直、個人的なお願いなんだけど、もうすぐ第7期も専攻科も修了なんだんだけど、そこで「きっぱりあきらめて筆を断ちます」なんてことは、できれば、あんまり言ってもらいたくない。専攻科へ進学しない人も多いだろうけど、せめて、「これからも本をたくさん読みます」くらいは言ってほしいなあ。
ま、とにかく恋人とは「いつかまた会おうね」と言って別れるのが、私の理想である。

09/04/2005

人に読まれない小説は、存在しないと同然である

9月3日(土)
朝から小説講座の事務所。夕方は、講義。第7期と専攻科の合同クラス。
作品指導4編。講師は、青木先生。

9月が年度末になるので、事務もバタバタ。結局、1年間の決算があがってから、法人申請をすることにしたので、そっちの作業も大変。生徒募集も、ショートショート大賞も、そろそろ全部の作業が重なって来て大忙し。

印刷もたくさんあったので、いつも土曜には来てないKさんも、今日は特別にお手伝いに来てもらう。で、Sくんの作品が1時に届けられるはずなのだが、12時頃、電話があり、「今日はムリです!」などと言う。
「えっ、冗談やろ。わざわざ今日は、Kさんも来てもらって、アナタの作品のために印刷待機してるねんでー。もうそろそろKさんも事務所に向かって家を出てるよお。9月中に指導してほしいなら、こっちが困るから、せめて前半部分だけも今から持って来て!」とあせる私。
「でも、前半だけなんて、見せたくないですよ。やっぱ、完成してから……」とノンキな答え。おいおい、冗談やめてよ〜。本来の締切から何週間過ぎてると思ってるの。それを「待って下さい。ホントすぐできるから」っていうから、待っていたんじゃないの〜。はああ。
「本来の締切は、とっくに過ぎてるやろ。もうホンマのほんまのギリギリや。いくらなんでも2週間前に配布してないとみんな困るねん。講師も決められへんし。短編ならともかく、70枚くらいの中編なんやろ。そんなん印刷かて、40部も50部も、すぐに印刷できへんねんで」
「あの、その、70枚じゃなくて、それは、どう考えても百枚越えるってゆうか……」
「百枚越える? それこそ、早く出してもらわんと。再来週の講義が、最終講義なんやで。とにかく今日の1時がギリギリやねん。講師への依頼も今日中にしないと調整できへん。短編やったら、どの講師でも指導してくれるから、まだ追加もできるけど、それくらい長さがあるんやったら、誰の指導でもいいってもんじゃないもん。講師のアポもとらんと」(短編なら、まだ十数本まとめて指導できる)
「でも、もうちょっと待ってくれませんか」
「だから、7月からずーっと待ってるって。ほんま、何度も」
「ムリですかねえ、あと少しなんですが」
「もう。今日も、そのために印刷待ちまでしてんねんで。ほんなら、しゃあない。前半部分だけでも持って来て」
「いや、それはちょっと……」
「だって、もうホンマのギリギリやってゆうたやん」
「でも、ちゃんと完成させないと、人には見せたくないっていうか」
「ほんなら、さっさと完成しいや」

いやあ、困りましたなあ。ホンマ、皆さん、締切は守りましょうね。
私とか、Kさんだから、まだ待ってくれる方だと思うんだけど。けど、待ってくれる人を裏切っちゃダメですよ。だいたい専攻科は、9月17日の講義が最終日なので、本来の作品提出は、8月20日が最終なんだよー。というか、それはホントは30枚以下の短編の締切日でして。それ以上の中編や長編は、もともと7月が締切だったんだよね。だから、もちろんとっくに正式な締切は過ぎているのだ。ただ、専攻科では、数カ月おきの締切なので(それを3ヵ月くらいにわけて作品指導する)、締切は厳守なんだけど、作品指導までちょっと間がある場合は、提出時に申し出てれば、印刷を後回しにするので、その間、「修正」することができるという裏ワザがあるのだ。まあ、プロの作家さんで言えば、「ゲラ直し」で大幅に書き変えちゃうみたいなもんである。(ただゲラ直しと違って、そのまま印刷するので、ギリギリまで印刷せずに、本原稿を差し換えるだけなんだけど)。とにかく前半だけ、あるいはたった1ページだけでも提出したら、数日は待ってはいる(それくらいはしないと、締切がないも同然になってしまう)。一度締切ったら、3ヵ月間にわたって作品指導をするので、順番が遅い人は3ヵ月後くらいになるからだ。

でも、うちの場合は、講師がたくさんいるので、講師の依頼もしないといけないし、その時に「こんな作品なんで、お願いします」というために、事前には、私が全部目を通しているのである。というわけで、印刷もして、生徒や講師に配布するためにも、2週間前がギリギリなのだ。

でもさあ。もともと長編中編は、7月締切なんだよお。短編は、8月20日だ。(うちでは、便宜上、30枚以下を短編と呼んでいて、50枚は中編と呼ぶ。一般的には50枚くらいでも短編と呼ぶだろうけど)だから、70枚くらいだと完全に「中編」で、本来なら7月締切なのである。まあ、ただこのSくんというのは、実は、毎度毎度、締切のたびに同じことを繰り返し。今年は一本も出せたことがない。最終だから、今回こそ、やっと出せるのかなあと思ったんだけどなあ。そういや、以前も、たしかわざわざ休日出勤までして、そのためだけに一人でずっと待っていたのに持ってこなかったことがある。うーん。ちょっと腹たってきたぞ。プロ作家でも、よっぽど売れっ子ならわかるけど、新人作家なら、こんだけ何度も原稿を落とされたら、ホント内容がどうであれ、これだけで仕事が来なくなることがあると思うよ。

しかも、実は、Sくんの職業は、フリーライターなのである。うーん、どういうこっちゃ。
「まさか、仕事の原稿でこんなことしてへんやろなあ。ライターやったら、それこそ命取りやで」と私がボヤいたら、Kさんが笑いながら、
「いや、たぶんそんだけ、今はまだ小説でプロになるっていう考えがないんでしょうね。彼も、仕事の原稿やったら、締切厳守で、きっちり出してると思いますよ」と言う。専攻科の生徒でもあるKさんは、先月、青木先生にチェックしてもらった長編を今日までにがんばって修正して、なんとか間に合わせたのである。「でも、さすがに、いつもは飲まないドリンク剤を飲んでしまいましたけど」
うーん。エライぞ、Kさん。

でも、Kさんはやさしいから、そう庇ったのかもしれないけど、わたしゃ、やっぱり、Sくんのライターとしての仕事ぶりは連想するけどな。だって、だいたい締切を守れない人は、教室でも毎回遅刻してくる人ばかりだし、まあ、待ち合わせをすると必ず遅れてくるタイプの人が多い。ちなみに、コンテストの下読みをしても、だいたい締切日をきっちり守る人の方がクオリティは高い。締切日の一日前に届く作品ってのが、たいてい一番レベルが高いのだ。ギリギリになる人は、きちんと修正に時間がとれないことも多いようで、反対にめちゃくちゃ早く出してくる人も、どうも思いつきでサッと書いただけで、あまり作品を見返してない人が多い。

でも、何より、間に合うか間に合わないかが一番重要なんじゃないかなあ。何でもそうである。まあ、少なくとも「ここぞ」という時は絶対に間に合わせないとダメだよな。

しかし、Sくんの一番の問題は、たぶん完成度を求め過ぎなんじゃないかなあ。けど、ぶっちゃけて言えば、小説講座に提出する作品なんぞ、コンテストで入賞を狙う作品でも何でもないわけだから、「とりあえず提出して、先生に見てもらって、そんでもって直せばいいや」なんてくらいでも別にいいのである。「精一杯やったんだから、今はこれでいいや」みたいな作品でかまわないんだけどなあ。

専門学校の生徒さんなんかにも多いのだが、どうも課題を出したがらない人というのがいる。書いてないわけではないのだが「いや、まだ完成してないから」とか「ちょっと出来がイマイチだし」とか。小説講座は、出す出さないは自由だけど、専門学校の方は『単位』の問題もあるから、課題は提出してもらないと困る。だから「でも、何も出さなきゃ0点だよ。提出するんだったら、いくら悪くても20点とか30点とかつくから0点よりは点数はいいよ。そりゃあ、100点、80点を狙う気持ちはわかるけどけど、無提出は0点だよ。それでもいいの」というのだが、まあ、それでも出さない人はいる。

ちなみに、作品を出せない人の「言い訳」を聞くとだいたい共通している。まあ、「思ったよりうまくいかなかった。時間がなかった」とか。
つまり原因としては、
(1)自分の能力を過信しすぎている(もっとうまく書けるはずだと思い込んでいる。もちろん根拠はない)、(2)計画性が低い(制作の進行管理が甘い。あるいは、プロットの工程管理が甘い)、(3)完全主義である(あるいは、百点主義)
というような要素がある。で、この中で、実は、もっともやっかいな問題は、(1)でも(2)でもなく、(3)である。というのは、(3)さえなければ、たとえいくら自分の能力を過信しようが、計画性がなかろうが、なんとか提出はできる。でも、反対に、どんなに能力が高くても、計画性があっても、完全主義だといつまでたっても提出できないのだ。実際、実力なんかは、そうそうすぐに身につくもんでもないし、計画性だとかも、けっこう日頃の習性もあって、なかなかすぐに身につかない。でも、完全主義なら、それに本人が気づけば済む。でも、なぜか、それはなかなか認めようとはしない。不思議だ。

私は、専門学校へ行って、十代の若者たちを見て思うのだが、高校生までの学校教育だと成績がいいというのは、正解が書けるかどうかで、テストなんか、基本的に「正解」を当てるゲームなのである。ところが、社会に出ればわかるが、仕事の方法などは(まあ、仕事に限らず、あらゆるものがそうだけど)むしろ正解がない場合がほとんどで、とくの「創作」なんてのは「正解」ってのはまずないのである。だから、そもそも完全主義なんかなりようがないような気もするのだが、なぜか「正解」をどこかに探したがる人がいて、そういう人は真面目なので、小説を書いてもきっちり仕上げようとするのだが、そうすると「まあ、合格点だけどなあ」という感じになってしまう。

しかし、どんなヒット作だろうが、有名な作品だろうが、まあ、どっかゆがんだところはあるだろうし、つじつまがあわないところもあるよ。でも、それはそういうもんじゃないかと思う。だから、そもそも小説って、百点を狙わなくてもいいのである。正解はないんだから。それに、小説って、たぶん人に読んでもらうために書くんじゃないの(いや、そうじゃない人もあるかもしれないけどさ)。
だから、読む方から見たら、未完成のままの読まれない作品は、何も存在しないのと同じだ。それならまだヘタでも何でも目の前にあった方がいい。空振りで終わっても、何もないよりは、何かやってみた方がいいんじゃないのかなあと思う。イチロー選手だって、バッターボックスに入らなければそもそもボールを打てないだろう。

「でも、カッコ悪いから、打てるようになってからバッターボックスに立つ」と思うかもしんないけど、自分のカッコ悪さなんぞ、実は、こだわるのは本人だけで、悪いがあんまり誰もそんなことは気にしやしない。ほんま、小説書くのに、完全主義なんか要らないし、カッコにこだわる必要もないと思うが。いや、もちろん気にしてもいいけどさ。作品が完成できなきゃ、そもそもまったく意味がないんとちゃうの。

ホント、せっかくチャンスがあるんだから、とにかくバッターボックスに立つだけ立てば、どうなのかなあ。うーん、ホント残念だなあ。というか、見てて、なんだか、ちょっと腹がたつよな。うん。

講義のあと、青木先生たちと飲みながら、まだ「なんとかなりませんか」などというSくん。「じゃ、ホンマのホンマにいつ完成してもらえるの。明日? 明後日? どっち?」「そ、それは、書いてみないと検討がつかなくて」「じゃあ、ダメ」「えー、困るなあ」「あんた、迷惑かけてんねんから、ちょっと反省しなさいよ」「うーん、じゃあ、9月はあきらめますから、10月から始まる来期の専攻科で指導してもらえますか」「それは全然かまへんよ。でも、それもすぐやで。10月の上旬には締切になるから」「えっ、それ、間に合うかなあ」
おいおい、アンタ、ほんま、いつ完成するつもりやったんや。

09/02/2005

ライバル、友だち、福の神

9月2日(金)
朝から小説講座の事務所。といっても、10時から18時まで、小説講座以外の仕事で、打合せやら会議で、外出。事務所はほとんど不在。着信がけっこうあったけど、連絡とれずでスミマセン。

ところで、このブログは、一般公開されているので、一般の人から、たまにメールをもらうことがある。まあ、日頃、私は、生徒さんとの雑談のつもりで書いている場合がほとんどなので、あんまり一般の人に読まれるのを意識して書いているわけではない。だから、アクセス数が増えると逆にビビる。あんまりたいしたこと書いてないし、特定の生徒さんだと「ははん、あの話のことだな」とかわかると思うんだけど、一般の人が読んで面白いのかな、と思ってるんだけど。

一年くらい前に、まったく他のところで、ある名前で育児ネタのブログ(イラストエッセイ風)を書いていたのだが、あっという間にアクセス数が増えてしまったので、ちょっと面倒になって、やめてしまったことがある。適当にイラストがあって、文章がほどほどだと、一般の人には読みやすいらしい。というわけで、このブログには画像もなく、文章量のアホみたいに長いままで、行あきも少ないが、たぶん当分そのままです。そういう意味で、読む人を選ぶブログなのかもしんないが。

ところで、前の日記で、「貧乏神」の話をしたのだが(「小説は書け、貧乏神は祓え」)、その日は、一般の人から一気に数件もメールで感想をもらったのだった。たまたまその日に重なっただけなのかもしれないが、そうは言っても、日頃、毎日、メールを山ほどもらっているわけではないので、ちょっと目立つ。で、その中に、南の方に住む人から来たメールに、ちょっと気になる内容のものがあった。内容は、その他のメールみたいに「よくぞ言ってくれた」みたいな内容だったのだが、「でも、所詮、小説家をめざす人は、本来、孤独であるべきですよね」という意見が書いてあったのである。うーん、さすがに、それは、ちょっと誤解である。

ちょっと考えてみればわかると思うけど、これは、私の意見とは逆である。あたりまえだが、私自身は「小説講座」の運営をやっているくらいなんだから、「孤独に耐えながら研鑽すべきだ」などという意見は持ってない。というか、そもそも、そう考えるなら、「小説講座」なんてやっていない(実は、ぜんぜん儲かる商売ではない)。ちなみに、誤解のないように言えば、うちの小説講座の生徒さんの中には、常時「貧乏神」にとりつかれているような人は、実はほとんどいない。
(まあ、いないのはわかっていて、「風邪気味」という程度はあるかもしれないよ、ということを書いたつもりだったのである。どっちみち、うちの講座だと「貧乏神」の方がよっぽど居心地が相当悪いはずだしな)。

というか、本当は、そういうことが言いたかったのではなくて、お互い足をひっぱるような悪い交友じゃなくて、「いい友だち関係」は、ぜひとも、あった方がいいと思っているのだ。それも、単なるネット上の知り合いや、メールや電話なんかじゃなくて、むしろ、時たま顔をつきあわせて、だらだら、本の感想だとか、アイデアだとか、そういう色んな話ができるような相手がいたほうがいい。

そう言えば、プロの作家さんたちも、同業者なのに、みんな、うらやましいほど仲がいい。そういう関係をうまく持っているのかもしれない。高井信先生や草上仁先生、あるいは田中啓文先生、牧野修先生、北野勇作先生、田中哲弥先生など、たくさんの先生がいつも集まって仲よく飲みながら、業界話やアホ話(?)をしているのを見ると、なんだか、いいなと思ってしまう。

堀晃先生とかんべむさし先生も、ホントにとても仲がよく、そういう関係を長年続けられるのが、私にはうらやましくて仕方ない。「ライバル」で、「友だち」。ホント、うらやましい。いい関係である。

どうやら、それなりに年齢も近くて、同じくらいの知識レベルや志向があって、気楽にいろんな雑談ができるような関係が一番いいのかもしれない(エンターテインメント系の作家さんは、大抵みんなオタク同士だから、単に趣味があうだけなのかもしれないが)。
で、お互い刺激しあっているような関係があるのがベスト。もちろん、同業者ならいいが、必ずしも同業者じゃなくてもいい。それよりも「対等な関係」がないとダメで、もしあなたが「小説家志望者」なのだったら、むしろプロの編集者とかプロの作家さんだと難しいかもしれない。そういう人が相手だと、先輩後輩の関係になってしまうからで、なかなか対等に話せないわけだから。直接の利害関係がない方がいい。だから、同じ小説家志望者か、あるいは全然違う業種の人の方がいい。小説を書くのは、かなり孤独な作業なので、そういう直接、利害関係がないような「理解ある友だち」がいた方がいいのだ。たぶん、プロになったとしても、直接、利害関係がない交友関係がたくさんあった方がきっといい。
(医者と作家と学者と弁護士は、同じように「先生」と呼ばれる職業だが、そういう人は、自分のことを「先生」とは呼ばない人たちと、時たま、会っておいた方がいいのである)。

だから、「どうせがんばったってダメ」などと言い出すような「貧乏神」に近づいてはいけないが、「友だち」はいた方がいい。対等な関係で、自分の理解者。同業者でなくても、他のジャンルでもいいから、「ライバル」で「友だち」という関係。そんな人間関係をもっていれば、自然とやる気が出るんじゃないかな。まあ、メールとか電話でもできなくはないだろうけど、できれば、直接会って、色んな雑談をできる友だち。もちろん、自分の配偶者でもいいんだけど、そういう友人を持っていれば、自然とそれが「小説講座」になる。

だから、小説講座のあと、飲み会で、ぐだぐだ面白かった映画の話をしたりするのも、あれはあれで、非常に意味のあることなのだ。そういう友だち同士でバカ話をしてるのは、全くムダではない。

事務所があるここ大阪NPO プラザでは、周囲に、難病支援とか、医療ミスの電話相談なんかを受付けているところが多いので、事務所でそういう話をしたら「うるさい」と、にらまれちゃうかもしれませんけど(幸い、周囲のブースの人たちは、「おかしな団体だ」と思って、それなりに理解してくださっているようですが)、でも、教室内やそのあとの飲み会では、吸血鬼がどうのこうのとか、人の殺し方とか、魔法の設定とか、火星の都市人口とか、そんな「夢のようなバカげた話」をいくらやってもいいんですぜ。ええ、なんぼでもやってください。そういう孤独にずっと耐える必要なんて、どこにもないですよ、いや、ホント。

09/01/2005

実習で楽しく、ストーリー作り

9月1日(木)
終日外出。小説講座の事務所には入れず。

9月である。新学期である。何か新しいことがはじまりそうな予感のある季節である(そうでもないか?)。しかも、春とは違って、秋は、落ち着いて、やりたかったことに取り組むという感じ。今日は、小説講座の事務所はお休みして、専門学校にて非常勤講師。マンガ&小説コース合同クラス。

今日は「構成表」の作り方。といっても、夏休み明けで、頭が働かないので、ビデオで映画を見て、構成表を自由に作ってみるというカンタンな実習。難しくはないのだが、これは、かなりできる人とできない人の差がつくみたいだ。ちゃんとストーリー把握ができている生徒さんは、構成表を自由に作るという課題だとそれなりに楽しそうに作るのだけど、中には、ストーリーがほとんど理解できない人もいる。映画などを見せても、理解度にすごく差があるのだが、これは「構成表」を書いてもらって、その書き方を見れば、理解度がけっこうよくわかる。

「構成表」の作り方は、色々なやり方がある。生徒さんは「やり方がわからない」とか「どう書いていいかわからない」というけど、最初の授業では、あえて細かく指示していない。一番簡単なのは、映画の場合は、時間軸を横線か縦線に書いて、進行にしたがって、場面や人物の動きをメモする方法だけど。でも、どう書いたらいいかわからないって、それを自分で考えてみるのが実習なのだ。こういうのは、最初からお手軽なマニュアルを教えるとダメで、一回、自分でとにかくやってみるのが大事。映画ならともかく、マンガや小説の場合は、構成表は自分のために作るだけのものだし、最初からうまくできる必要なんかないんだから。

今日も「うまれてはじめて構成表を書いてみた」という生徒さんばっかりだったけど、チャートを使ったり、表を作ったり、イラストを入れたりして、いろんな工夫をしてる人がいた。細かい人、おおざっぱな人。みんなオリジナルの『構成表』を作っている。一方で「ぜんぜんムリ。わかんない」といって全然やりたがらない人もいる。まあ、構成表なんか見たこともないだろうから、別にちゃんとできなくてもいいんだけど、「ま、一度やってみようかなあ」なんて気軽にやってくれればいいんだけどねえ。

ただ今日は、夏休み明けの最初の講義だし、サボりたがる生徒さんもかなりチラホラ。座わる席は自由なので、よくあることだが、前の方に座るグループと、後ろの方に座っているグループは、まったく学習意欲も違う。人数の割に大きな教室なので、個人実習になったら、後ろのグループが多少私語をしてても、どうしようもない。まあ、かまわない。レクチャーだと私語はうるさいので注意するが、実習はいくら私語をしてもさほど気にならないし、やらない人はほったらかしにしてる。実習は、席をまわって一人一人いちいち指導しているので、まあ、やりたがらない人は指導もしなくて済むのである。本人のことを考えれば、もう少し厳しく「やりなさい」と言えばいいのかもしれないけど、そこは大人扱いである。まあ、当然、成績もそれなりにつけるけどね。専門学校でも、1割程度はどうしても脱落するなあ。

私の講義は、レクチャー時間は短くしているので、実習が多い。「アイデアテクニック」だから、どうしても話さないといけない内容はあまりないし、実際に頭を使って、手を動かした方が、「あっ、そうなのか」とわかりやすいと思うから。実習をすると「いろいろ考えたりするのが好き、おもしろい」という人と「面倒くさい」という人にわかれちゃうけどね。ただ、実習をすると、課題を全部集めて持って帰って、いちいちチェックしなくちゃいけないので、本当は、実習の方が教える方は面倒なんだけどなあ。ホントは、知識だけをその場でしゃべちゃった方がラクだけど。とくに今日は、けっこう長い映画を上映したので、90分2コマの講義で、レクチャーしたのはほんの20分ほど。あとは、実際の実習を見て、個人的に細かいアドバイス。

ところで、けっこう驚いたことに、若い生徒さんの中にはホントに「どこが本筋だかわかんない」という人もいる。非常勤講師を引き受けた最初の頃、この感覚がわかんなかったんだけど、どうやら、ところどころの印象的なシーンとか、ある部分しか覚えてないみたい。ちょっと驚いた。まあ、一般の観客なら普通なんだろうけど、全員プロになろうという人だからなあ。でも、どのクラスでも、3割くらいの生徒さんは、ストーリーをなんとなく把握しているだけで、それぞれの関係などはわからないようだ。で、話の本線がどこかわからない。だから、もちろん伏線なんかもわかるわけがないんだけど、それだと自分で話を作る時、困るんだよねえ。まあ、それでもカンでやれれば済むんだけど(そういう人もまれにいるが、ほとんどいない。普通は、きちんと意図的でないとできない)

そんなわけで、専門学校では、いつも初歩的な訓練を繰り返している。既存の作品を見て、ストーリーを書き出してもらったり、構成を書き出すというのもその一つ。「小説講座」の生徒さんなら、社会人ばかりなので、こういうことはやらなくていいんだけどねえ。小説講座だと、ストーリーがわからないとか、アイデアの出し方が全然わからない、なんていう人はまず少ない。みんな社会人だし、平均年齢も高いしね。でも、専門学校生は、まだ十代だし、今までに見た作品数も、ものすごく少ない人もいるし(でも、もちろんスゴク優秀な子もいるんだけど)、かなり簡単で、初歩的のことをやって、ちょっとずつ勉強するのがわかりやすいみたいだ。

例えば、7分くらいのアニメを使って(ディズニーの古典の短編アニメ)ストーリーを書き出し、その構成を使って別の設定で別の話にするとか、そういうことをやっている。いろんなことをやってもらっているが、カンタンなストーリーでも、案外、肝心な「仕掛け」の部分が見えてなかったりするから、かなり丁寧に解説しないとわかんないようだ。既存の作品がおおざっぱでもいいから、もう少しちゃんと理解できてないと、自分の作品の構成もやっぱりできないだろうしなあ。

ただ、私の講義は、同じ講義を他の先生と2人で担当しているので、半期分だけ。全部で、講義は14回。去年は、3人で分担していたので、その時作ったカリキュラムが9回分だけだった。一年間、この同じ内容で、いくつかのクラスをまわるのである。でも、今年は5回分、長くなった。私は、映像も見せないといけないし、しかも実習中心だから、その分、ゆっくり話ができない。だから、その分、資料をかなり大量に作って、毎回コピーして山ほど作っている。14回分で、本が一冊分くらい作れちゃいそうなほどになってしまった。毎回、配布プリントがいっぱいで、印刷するのも大変だから、一度、まとめて教科書みたいにしておこうかなあ。まあ、時間がないからどうなるかわかんないけど。

でも、他の講師は、みなマンガ家さんで、デッサンとかマンガ背景効果とか、そういう授業が多いので、いわゆる「基礎教養」みたいな講義は、この講義しかないらしい。だから、できるだけたくさんの資料を配ってあげたいんだよねえ。しかも、実習用のシートなども、毎回オリジナルで作っているので、けっこう準備に時間がかかる。

実習は、30分から60分くらいのカンタンなもので、内容もかなり基本的なこと。「小説講座」では、プロ作家に講師をお願いしているので、私が教えることはないのだけど、講師がいない日に、たまにみんなでワイワイとお遊びの教室実習をしたりすることがある。でも、こちらと共通なのは、そのうち2つだけ(キャラクターを作ってから、3人で「出会い」を作るという「グループワーク」の実習があるのだが、それのためのシート「キャラクター設定表B」。もう一つは、グリム&アンデルセン童話やおとぎ話などのあらすじや見せ場、アイテムなどを書く「おはなし一覧表」)。「小説講座」の生徒さんは、だいたいレベルが高い人が多いので、あんまり実習はしていない。

これらの実習が、実際、どれだけ役に立つかはわかんないんだけど、「わかりやすい」「参考になる」と、これで一応、けっこう人気があったりするらしいから、まあ、ちょっとは役に立ってるのかなあ。でも、これは十代の若い生徒さんばかりだから、やれるんだよねえ。つまり、料理なら、まだまったく作ったこともないような人ばかりって感じだ。とくに1年生は、みんな一斉に「包丁の持ち方」から始めるようなものだから、教える方はすごく教えやすい。自己流でやってた人よりは、一斉にできるから教えやすいのね。まあ、自己流がすでに身についていれば(ホントはその方がいいんだけど)、それだと教える方と教えられる方がやり方が必ずしも一致しないし、それがうまくあえばいいけど、ちょっとタイプがちがうなと思うとダメって人もいるし。それが、まったくの初心者だと、マニュアル的な講義をしても、上達が目に見えてわかりやすいし、上達するスピードも早い。

まあ、私は、料理も、小説も、マンガも似たようなものじゃないかと思っているヒトなので(ええ、料理だって、実は、芸術なんです。人は、生きるためだけに食べるのではないのだ)、ホントは、基礎の技術くらいは、効率よく人に教えてもらった方がてっとり早いんじゃないかなと思っている。美術をかじった人ならわかるだろうけど、「木炭デッサン」なんかは、人に教えてもらうか、もらわないかで、上達のスピードには雲泥の差があるんだよねえ。芸大受験とかしたことがあるなら、身にしみてわかっているだろうけど。料理でも、実は、細かい基本的な技術は人に習った方が早い。料理でもオリジナルを創作をするレベルになると別だけど。そりゃ、独学もできなくはないが、たぶん数十倍も時間がかかってしまう。上手な指導者に教えてもらるなら、その方が結果がいい場合も多い。もちろん、天才は別だろうし、人によっては教えられなくてもできる人はいるかもしんないけどね。そうそう、安藤忠雄も、武満徹も、独学だけどさ。

もちろん、小説なんか、教えられなくても独学でも書けるじゃないか、と思うし、今のプロ作家はほとんど独学なんだろうから、まあ、その通りなんだけど。でも、私はなんとなく、20年もしたら、小説家もスクール出身者がほとんどになるんじゃないかなあという気もしている。シナリオライターなんかは、今はほとんどスクール出身者だ。そうでない人は、演劇関係者くらい。まあ、劇団も、ある意味スクールみたいなところだし(もちろん舞台が教室。実戦訓練方式だけど)。

小説でも、たとえば大学のミステリー研究会なんて、ある種、この「劇団経験者」みたいなところがあるんじゃないかなあ。そりゃ、創作の細かい指導なんか誰にもしてもらわないだろうけど、「ミス研」の部室で、だらだら好きなミステリーについて雑談してるだけでも、ちょっとず勉強にはなっているはずだもの。アメリカなんかだと大学の創作教室がたくさんあるらしいから、案外、そうなる時代が来るような気もするな。

で、またまた学生さんの実習課題の束をかかえて帰宅。家には、まだ夏休みの宿題が残ったままの子供たちが待っていて、ホント大変なのだった。

夏休みは終わっても、地球は終わらない

8月31日(水)
午後から小説講座の事務所。

朝から気分回復、すっかりご機嫌である。実は、昨夜、焼飯と一緒に、松茸を大量に食べたのだった。私のようなビンボー人が松茸なんかを大量に買うわけがないから、もちろんもらいものだ。ところが、家族は全員、松茸が嫌いなのだ。
うほほ、しめしめ、独り占め。
そういや、うちの子供たちは、カニもウニも牡蠣も嫌い。うわあ、やっぱりビンボ人のガキである。まあ、大人の味だから、いいのいいの。こういう好き嫌いなら大歓迎。ま、大人になってから食べなさい。自分で働いた金でね。

私はどんなに落ち込んでいても、メシ食って、ビール一杯飲んで寝たら、ダメージ回復。なんか安物のゲームキャラ並みの精神力と体力ですな。いや、守るべき愛するべき対象があるものは、落ち込んでなんていられないのである。戦わなくては。そうだ、立て立つんだジョー。

ところで、よく「自分が傷づきやすい人は、人の痛みもわかるから、けっして人を傷つけない」というが、ありゃ、詭弁じゃないかなあ。どうも気のせいか、自分も含めてだけど、「傷つきやすいタイプほど、他人を傷つけてもあんまり気がつかない」ような気がするな。周囲を見ても、自分が傷つきやすいくせに、なぜか周囲を傷つけていることにはゼーンゼン気がつかない人がけっこう多いし。

どうも傷つきやすい人って、自分が可愛い。結局、自分だけが可哀相。だから、自分への愛だけで、何もわからなくなっていて、他人を傷つけても、全然気がつかないことが多いんじゃないかなあ。そりゃ、同情ってのもあるが、落ち込んでいるヤツほど、自分に対するあわれみに比べれば、周囲への配慮には欠ける行動や言動をしてしまうような気がする。それでまた問題を起こして、悪循環つくったりして。そうなりゃ、ただのハタ迷惑なヤツだな。どうも「他人に優しい」ってことと「自分が傷つきやすい」ってことは別問題なんだな。他人にやさしいってのは、周囲にも基本的な関心があるかどうかだけの問題なんだ、きっと。むしろちょっとやそっとでは、なかなか傷つきもしなさそうなタフな人の方が、他人にはやさしいってことはあるもんなあ。

だから、腹一杯メシ食って、忘れることにした方がいいな。ま、エラそうにしてても、所詮は人間もただの動物。命があって、腹一杯食えたら、それだけで9割は幸福なはず(あとの1割は知らんけど)。

さて、ところで、私は今日、何と戦わなくてはならないのか。そう、今日は、8月31日。夏休み最後の日なのである。
「そうかあ、夏休みかあ。楽しかったよなあ、あの頃は」
なんて、甘いノスタルジーにふける人がいるかもしれないが、そんなことは私には許されないのだ。そう、わが家には、アホガキが3匹も生息してる。まあ、日頃は勉強についてはほとんど怒鳴らないが(1、勉強のことで怒鳴ってもムダ。2、それ以外で怒鳴るのに忙しい、3、勉強教えてと言われたら大変)、こんな私でも、夏休み最後の日となれば、別。地球最後の日ではないが、最後の日。もし今日、母親たる私が怒鳴らなかったら、一年間で怒鳴るべき日がないでしょうが。

というわけで、怒濤の夏休み最後の日。はたして、うちのアホたちが宿題を全部してると思うか。
「とにかく宿題を見せなさーい」と朝から気合いを入れて怒鳴る。

6年生の長男。
「えっ、貯金箱、まだ全然つくっていないの? たしか7月に白浜旅行に行く前から、設計図まで作っていたやろ。粘土も絵具も7月に用意してたんとちゃうのん!?」
2年生の双子の娘たち。
「この夏休みの読書十冊って、『ドラえもん』と『ガッシュ』ばっかり。これ、マンガやろ。『片足だちょうのエルフ』かて、絵本やろ。しかも、これは、去年1年生の時の夏休みに読んだ本やろ。まともな本ないやん」
ああ、やっぱり、うちのガキどもはアホウであった。とほほ。ということで、紙粘土でベタベタと適当な貯金箱を作り(うーん、明日までに乾くのかなあ)、朝から、娘たちは読書十冊。息子も「読書感想文」のために(彼のクラスでは任意提出ではなく、必須らしい)図書館に出かけたものの、月末休館日で、あわてて本屋に本を買いに行く。近所の本屋のオジサンも、8月31日にお金をにぎりしめて、必死でできるだけ薄い本を探す息子の姿を見て、きっと微笑んでくれたことでしょう。

子供たちに昼食を食べさせてから、「しっかり本を読んどきや」と言い聞かせ、雨の中、仕事のために外出。事務所で発送作業をしていたら、「あ、芝ちゃん、今日バーベキュー行く?」と向かいのブースの人に声をかけられる。うげげ。大阪NPOプラザでは、入居団体の懇親会が4ヵ月おきくらいにあり、今日は駐車場でバーベキューだったのである。千円で飲み放題食い放題。うう、楽しみにしてたのに、仕事の山。絶対ムリ。7時までバタバタと事務を片づけ、8時ににぎやかな駐車場の明かりを横目に見ながら、事務所を出る。しくしく。

家に帰ると、子供たちは、遊び呆けていて、むろん本を読み終わってはいなかった。でも、朝寝坊させてもマズイので、十時半に布団に押し込む。布団の中の子供たち。

「なあ、明日、楽しみやなあ。私、友だちの名前、みんな忘れてたらどうしよ」
「えーっ、ボクなんか、もともと友だちの名前、ほとんど知らんで」
「ああ、早く学校行って、ウンテイしたいわ。手の平のマメ、なくなってもうたやんか」
「なあなあ、赤ずきんって、アホやなあ」
「あ、それ、絵本やろ。絵本はあかんで」
「なあなあ、給食、すぐある? こんだて表、いつくれるん」
「ボク、制服の着かた、忘れてもたなあ。明日、着れるかなあ」
「でも、お兄ちゃんの制服って、ズボンとシャツだけやんか」
「学校も、どの道から行ったらええんやったかなあ」
「ウラ道行ったらあかんしなあ。あ、でも大丈夫。集団登校やもん」
「あ、そうか」
「しっかりしいや。だって、お兄ちゃん、班長やろ」
「えっ、そやったっけ」

ワイワイと無邪気に笑っている子供たちは、どうやらホンマに新学期が楽しみらしい。
しかし、なんで、そんなに学校好きなん? 友だちおるから? 給食あるから? ウンテイあるから?
それより、おい、宿題はどうした宿題は。
ああ、明日は、新学期。

« August 2005 | Main | October 2005 »

無料ブログはココログ
July 2017
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31