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08/31/2005

小説の色々を思いながら歩く雨上がり

8月30日(火)
午後から小説講座の事務所で、雑用いろいろ。

9月が年度末になるので、バタバタと忙しい。さらに夕方、頭を痛くなるようなことが数件発生して、ほとんど泣きそうになる。今、講義の方は、作品指導がはじまっており、講師と生徒のスケジュールの調整がまたややこしい。うちの小説講座は、講師が十数人いるので、提出された作品を見て、指導講師を決めている。原則的には、作品にあわせて、講師依頼をするのだが、これが色々やっかいである。実際には、一回の講義で2編以上の作品をとりあげる。多い日は、十数編あるので、講師と生徒の調整が難しい。生徒さんも社会人が多く、仕事の都合で欠席してしまう日も多い。毎回ながら頭が痛い。今日も、その調整を考えて、数件電話しただけで、クタクタである。
秋の生徒募集も、チラシの印刷も時間割制作も終わっていないし、9月末締切の公募「大阪ショートショート大賞」に、すでに作品応募が毎日のように郵送されてくる。でも、昨年の応募者への連絡ハガキも、真っ白いままでまだ送っていない。何もかもせっぱつまってきた。まずい。

ところで、専攻科では一年中、作品指導があって、こういう作業を年中やっているのだが、こちらの方はかなりラクである。というのは、専攻科は、エンターテインメントノベル講座の卒業生を対象にしたクラスなので、すでに本人が何度か作品指導を受けている。作品指導も、何度か受けると、指導する方もされる方も、心構えができているので、指導パターンもわかっており、本人の希望とかもはっきりしているから、スケジュールを決めるのもラクなのである。専攻科は、一応、プロ養成をめざしたクラスなので(ホントは必ずしもそういう人ばかりではないけど)、多少、キツイ指導が入っても、本人も平気である。専攻科の生徒は、皆けっこうしぶとい。ところが、1年目のクラスだとそうはいかない。まだ、小説を書いて1〜2本という人がいるので、キツイことを言われても、耐えられる人と耐えられない人がいる。いくら小説が好きだと言っても、初心者のうちは、まだ自信がない人がほとんどだし、あまり最初にショックを受けると、それでもう書くのを辞めてしまうという人もいる。
プロの作家さんの中には、「それで辞めてしまうくらいなら、小説なんて辞めた方がいい」という人もいて、まあ、確かにそれは専攻科の生徒さんになら言えるかもしれないが、私には1年目のクラスではまだそんなことは言えない。どんなプロの作家さんだって、まったく最初の作品(プロ作家だと子供の頃に書いたという人も多いのだが)を厳しく注意されたら、もしかすると書くのを辞めてしまったかもしれないのだ。小説を書く人は、けっこうデリケートだし、社会人なので社会人ならではのデリケートさがあるのである。社会人の生徒さんは、真面目な人も多いし、学生に比べると「こんなことをする暇があったら、仕事や家庭に時間を使わなければいけないのではないか」と思ったりして、頻繁に弱気になってしまう人もいるである。たまに大学生の人で(うちの講師にはいないが、プロ作家さんの中でも、そういう考えの人はけっこういる)、社会人になっても小説を書いている人のことを、軽くバカにした口調で「いい歳をして、小説なんか書いてもムリだから、早くあきらめればいいのに」みたいなことを平気で言ったりする人がいる。私は、そういう人に対してはムッとしてしまう。そりゃ、確かにそういう一面があるかもしれないが、それはおかしい。でも、それで、つい弱気になってしまう年齢ともある。仕事や家庭があればなおさらである。

結局、厳しく指導されてもいいかどうかは、講師の側の愛情が伝わるどうかなのだが。もちろん、講師の先生たちに「愛」がないわけがないのだが、それがうまく伝わるかどうかなのだ。ここの小説講座は、いろんなタイプの講師が十数名もいるのがいいのだが、反面、一人一人の講師との接点が少なく、生徒と講師の相性もあるので、思惑通りにいかないこともたまにある。講師の作家さんによっては、一行一行きちんと読み込んで、細かく指導してくれる先生もいれば、おおざっぱな指導をする先生もいる。一般的に専攻科になれば、おおざっぱな指導でもいいのだが、1年目のクラスでは文章の書き方とか構成とか、細かい指導の方が有効である。というのは、まだ指導を受ける側のレベルがさほど上がっていないので、抽象的な指導だけでは、どうやっていいのかわからないので、作品に活かせないし、それよりは細かい指摘の方が、その後の創作の役に立つのである。だから一般的に、本科(1年目のクラス)の人は、ほとんどキメ細かい指導を望む場合が多い。先日の田中先生みたいに、短編一本を1時間かけて、原稿用紙一枚ずつめくりながら、文章の書き方や構成などを細かく言ってくれるような先生がけっこう人気がある。まだ初心者なので、具体的に言ってもらえた方がわかりやすいのである。ただ、専攻科になると、そういった文章の問題はほとんどなくなるから、抽象的な指摘が多くなっても理解ができる。このバランスは、もし講師が一人きりで、ずっとその生徒とつきあっていれば、自然とわかるのだろうけど、この講座の場合、それができない。講師は、その作品だけで判断する。プロの作家ならば、作品だけで判断されるのもやむを得ないから、まあ、プロ養成の専攻科ならそれでもいいのだが、1年目のクラスだとこのためにうまくいかないこともある。社会人は社会人なりの問題もあるからで、実は、作品指導は、専門学校で教える方がよっぽどラクだろうなと思う。

それで、ちょうど今日、ある人に「ここの小説講座は、いきなり『大学院』みたいな内容なので、せめて『大学』くらいのレベルの講義を多少しておかないと、初心者の中にはいきなりついてこれない人が出てしまう」と指摘されたのだった。確かに、今年は、めずらしく脱落率が高いので、ちょっと落ち込んでいる。カリキュラムはほとんど毎年同じだし、昨年までは悪くないから、今年のクラスはたまたま高いだけかもしれないが、そういう指摘は何度かされたことがあるのだ。

それもあって、実は、文章講座などでは、かなり手とり足とり教えている。文章の書き方、細かい構成やら、アイデアの見つけ方などを紹介しながら、教室で実際に原稿用紙に書いてもらうようなミニ実習を何度か、補習としてやっていたのである。補習なので、講師ではなく、私が担当しているのだが(ここの小説講座では、原則的に私は講師をしていない)何年かやった経験だと、細かく指導すれば、ほぼ全員がまずまず書けるようになる。まあ、ここの小説講座は、この文章のクラスを卒業したくらいのレベルに合わせているので、ちょっと初心者にはレベルが高すぎるのかもしれない。そりゃ、補習くらいするのはいくらでも可能なんだが、社会人ばかりなので、あんまり講義数が多くても、出席できないのである。

それで、もともと落ち込み気味なところで、作品指導をお願いしていた講師の先生に電話したのだが、さらにちょっとややこしい問題がしまっている。作品指導の講義なのに、ビデオ資料を使いたいと言う。まあ、以前のレクチャー講義の時にも「貴重なビデオだから見せてあげたい」と言われたのだが、ちょっと遠慮してもらったのである。というのは、その講義は、第7期の講義だったが、どっちかというと専攻科に見せてあげたい資料だったからである(まあ、ここの教室は、ビデオ上映のレンタル料金が高くて、教室代の倍もするせいもあるが。今年は、ホント予算がギリギリで、数千円のコピー代を節約するのにかなり必死な状況だから、正直、高くつくビデオ教材はあまり嬉しくはないというのはある)。

しかも、どうしてもその先生に話して欲しいテーマが他にもあり、それは、他の先生も「あの先生が話すだろうから」と言ってわざわざ触れなかったテーマだったので、ビデオを使う時間を割くと、その分が話がとんでしまうだろうからである。それで、改めて、専攻科で時間がとれた時にと思っていたのだが、だいたい4〜9月の後期は、専攻科も作品が集中するので、作品指導の本数もめちゃくちゃ多い。のんびりした時なら、専攻科でも50枚ほどの短編を1時間ずつかけてたっぷり指導するということもあるのだが、今は、ありがたいことに長編が山のように提出されている。今週末の講義でも、合同講義なのに、400枚以上の長編1本、50枚以上の中編2本、あと短編1本、あわせると数百枚の作品を一日で指導するという感じである。専攻科は、作品自体の問題でも文章的な指導が少ないし、生徒も聞く耳が育っているので、一本あたりの指導時間は短くてもいいのだが、本科生はこのスピードで指導すると、たいてい半分以上の人が脱落する。指導を聞くのにも、受け手側の理解力のレベルが必要なのである。

というわけで、おおざっぱに抽象的な指導をするタイプの先生というのは、どちらかというと専攻科向けである。と言っても、指導する本人や教室の雰囲気を見て、うまくそのあたりを調節してしまう先生も多くて、その場で使い分けている場合も多いみたいだが。
とにかく、今回お願いした作品は、本科の作品ばかりで、しかも全員ほぼ初心者なのだった。しかも、構成やアイデアにも問題があって、かなり細かく指導しなくてはまずそうな作品ばかりなのである。ちゃんと指導しようとすると、2時間かけても足りないかもしれないのである。すでに送付してあるので、たぶん先生が見れば、一見すればわかるはずなのだが、どうやらまだご覧になっていないらしい。だが、最近、専攻科の指導が続いたせいで、すっかり一本あたりの指導時間が短くてもいいという感覚になってしまったのではないかと思う。たしかに専攻科なら、ほとんどワンコメントで済む作品もあるにはある。ただ、何本か作品指導があった場合、生徒さんというのは、自分の作品が何分くらいあるか、けっこう覚えているものである。専攻科でも、以前、年配の生徒さんの長編があり、かなりうまい作品だったので、なんとも微妙で、確かに指導が難しかったのは事実なのだが(あたりまえだが、下手な作品の指導の方が、手間はかかるが、簡単なのである)この先生は、作品自体に触れるのは、かなり抽象的な指導だけで、ほとんど5分で済ませてしまって、あとは一般的な小説創作の話をされてしまった。その時は、私も、この生徒さんは、すでに何度も指導されたこともあるし、作品自体に触れるのは5分でもかまわないだろうと思ったのだが、後で生徒さんと話をすると「まあ、あの先生にはそれだけ関心がないような作品だということなんでしょう」なんてことを言う。「いや、そういうことではなくて、ホントにレベルが高いから、あまり細かいことを言って、作品のよさがなくなっても困るという感じだったんだと思いますよ」と言ったのだが(実際、講師からはそう言われていた)、やはり滅多に会わない講師と生徒だから、その辺のニュアンスはうまく伝わらないことも多い。そもそも先生の指導も、絶対的なものではない(先生たちもそういう立場である)。でも、「自分ならこう書くけど」という指導である。だから、自分自身で、それを判断する能力も必要なのである。

今回は、とくにそういう怖さがあるので、ビデオを使うと聞いた時は、真っ青になってしまった。1時間たっぷり指導をしなくちゃいけないような作品なのに、ただでさえ30分しか時間をとってない。ビデオを使えばわかりやすいのはわかっているが、生徒さんは、レクチャーならともかく、作品指導の時は、やはり自分の作品について、言ってくれる時間がどれだけあるかと気にするので、それはとてもまずい。レクチャー講義に、ビデオ上映の時間がとれなかったばっかりに、これは、すっかり私の計画ミスである。本科は、そのまま卒業してしまう人も半分くらいいる。プロ作家に指導してもらえる機会は、人生でもうこれが最後かもしれないのに。

こういうミスは、あってはならないのだろうが、やっぱりたまにはある。数年前になるが、当日ぎりぎり東京出張から帰れるかどうかという生徒さんがいたのだが、まあ、本人の希望もあって、この先生に指導をお願いしたことがあった。だが、先生の方も、運の悪いことに締切直前だったそうで(そうと知っていれば、他の先生に代わってもらうか、日時を変更したのに)、かなりムリをして日程を調整してくださって、しかも丁寧な作品指導の準備もしてくださったらしい。当日、その生徒さん本人が新幹線に間に合わず、結局来れないとわかった時に、すっかり腹を立てられてしまった。そして、いつもなら講義後に飲み会に来られるのだが、すぐに帰られてしまったのである。先生は、締切前なんで、それは仕方ないだが、生徒さんにとっては、一年間最後の講義でもあったので、全員ちょっとショックだったようである。むろん出張から間に合わなくて、電話のむこうで泣いていた若い女性の生徒さんも可哀相だったし、私は数週間どっぷりと落ち込んだ。(その生徒さんは、それで卒業だったから、それきり会ってない。この人も、他の日は都合がついたのだから、最初からムリをせず、他の講師に頼めばよかったのである)。ただのボタンの掛け違いというか、どちらも悪いというわけではないのだが、こうなると、ただの手配ミスでもやはり深刻である。

この先生も遠方に住んでおられるので、わざわざ大阪にまで来るからには、生徒さんに何か話をしてあげようという気持ちなのだと思うが(実は、その分の交通費も、この先生の自腹なのである)、やはり限られた時間では、何かをすると何かができない。世の中には、どちらもできるということもあるが、ある所に住めば、他の所に住むことはできない。ある人と結婚すれば、ある人とは結婚できない。ある時間にどこかに出かけるというのは、その時間にできた何か別のことはできなくなる。何かを選ぶと、もう一方で、何かをあきらめなくてはいけない。新しいものを買ってワクワクする一方で、何か捨てなきゃいけないものができる。小説を書くのもそうで、どうしても「あれもこれもしよう」とするより、何かに集中しなくてはならない場合がある。その時、それを選択するということは、それ以外の可能性をすべて捨てるということである。だから、そういう勇気を持つのは難しい。でも、その都度、選択をしなくてはいけないのである。

電話を切って、あわてて雑用をかたづけると、6時には事務所を出なくてはいけなかったのに、もう7時である。外に出るとすっかり暗くて、雨上がりのアスファルトが街頭に照らされて、黒く光っている。この調子では、家に着くのは8時である。このあいだ、実家の母に呼び出され、「アンタの家は、あまりにも母親(私のことである)の帰りが遅すぎる。子供たちの成績が悪いのは深刻だし、これ以上、毎日遅くなるようなら、もう孫の面倒はみない」と言われたのを思い出し、すっかり暗澹たる気持ちになる。子供たちは腹をすかせているだろうし、もし空腹に耐えられずに近くに住む母の家に子供たちが行ってても、もっとマズイだろうし。

地下鉄の駅まで住宅街をとぼとぼと歩いていると、こんな大雨の後なのに、びしょびしょにぬれた服のまま、なぜかまだグランドを走っている少年がいて、それを見ると、ふと、でもやっぱり何かやれることはあるだろうという気になる。デコボコした人間のやることだから、伝わらないこともたまにはあるだろうけど、みんな、デコボコした人間なのだから、それでも伝わることもあるだろう。人と人が直接顔を会わせるということは、きっと、そういうことなのだろう。まあ、あきらめずにジタバタするしか、いつも方法はないしな。

家に帰ると、めずらしく夫が私より10分ほど早く帰っている。空腹の子供たちにあわてたらしく、息子が炊いたという御飯を使って、焼飯を作っている最中であった。夫の作ってくれた焼飯は、子供たちが言ってた通り、すごいニンニクの臭いがする。本当は、すっかり食欲はないのだけど、不思議にまずくはないのだった。

08/30/2005

作家とライター、不幸な職業をめざす人々

8月29日(月)
小説講座の事務所は、日、月曜日、お休みです。

お休みなのだが、発送がたくさんあるので3時過ぎから出勤。途中、麻生氏の街頭演説の前を通りかかる。専攻科と第7期の欠席者発送。量が多いので、ちょっとイヤになる。安いメール便を使うけど、今は、作品指導ばかりなので、資料も多い。今日の発送費だけでも6千円ほど。

たまに「学費だけ納めて、全然、講義に来ない人がいるんですよ」と言うと、「そりゃ、学校はボロ儲けですねえ」などという人がいるのだが、それは断じて違う。退学届が出ない限り、全部の資料を揃えて、毎回、欠席者には資料を発送している。ボロ儲けどころか、郵送代の分だけソンだし、手間もかかるのだ。社会人ばかりで、仕事や家事が忙しいということもあるだろうけど、欠席が多いのは、どっちも私にもソンなだけ。全員が出席してくれる方がいいに決まっているのだ。まあ、学費も安いし、欠席するのも自由だから、それくらいかまわないけど。

しかし、クラスによっては、仲よくほとんどが「皆勤賞」というクラスもあったりするのだが、なぜだか欠席者が多いクラスもあるなあ。今年は、出席率はかなり悪い。理由はよくわからないが、欠席者が多いクラスは、たいてい講義後の「サイン会」がないのが特徴的だな。

「サイン会」と言っても、正式なものではない。ここの小説講座は、関西在住の作家さんが数十名、毎週交代で担当しているので、毎週いろんな作家に会えるわけだ。だから、講義が終わってから、その作家さんの著書を持って来て、サインをもらったリする生徒さんがけっこう多いのである。まれに「サインをもらうなんて、そんなミーハーなことはとてもできません」などという妙な人もいるけど、まあ、どっちみち本が好きな人ばかりだし、「せっかくの記念だし、サインくらい書いてもらうと面白いよ」と私もよく言ってあるので、皆、楽しくサインをもらっている。講師も、自分の著書を目の前にすれば、サインくらいするし、飲み会でもそれについての会話がはずんだりする。で、出席率のいいクラスは、講義後、サイン待ちの列を作って、ワイワイとにぎやかだったりするのだが、出席率が悪いクラスでは、本にサインをもらうような人はなぜかほとんどいない。今年の第7期のクラスは、かなり少ない。出席率もよかったクラスは、いつも列になってたけどなあ。

うちの講師の先生たちは、忙しい人が多いし、さらに毎月、誰かの本が次々と出版されているという感じだから、すべての著書を全部買っていたら確かにキリがないのだが、まあ、せっかくだから、一人の講師につき、一冊ずつくらいは読んでくる方がいいんじゃないかと思っている。だって、もしプロになるつもりだったら、みんな先輩作家になるわけだし、どんな講師がどんな内容の話をするかも検討がつく。実際、「ミステリなんか読んだことないけど、講師の人の本を読んでみたらおもしろかった」とか「毎週どんな作家に会えるのか楽しみで、講師の本くらい、つい買って読んでしまう」とか「サインをもらいながら、先生とその作品の話ができるのも楽しみ」という人が多いのだが、なぜか欠席率が高くなるクラスは、そういう人が少ない。不思議だな。そら、むろん別に、無理にサインをもらう必要もないのだが(講師の先生も「サインしてもいいけど、本が汚れちゃうけど、いいの?」などと笑ったりするが)、なんとなく不思議である。

実は、「作家になりたい」といって入学してくる人には、大きく分けると2タイプいる(必ずしもみんなが「作家になりたい」わけではなくて、本が好きでヒマだからとか、作家のファンだからとか、という理由の人もいるけど)。
一つは、本が好きで、自分でも小説を書いてみたくなって、ちょっと書いてみたけどうまくいかなくて……という人で、こういう人がたぶん8割以上だけど、もう1タイプは、ちょっと違うタイプである。そういう人は、あまり本を読んだことはなく、小説が本当に好きなのかも、ちょっとよくわからない。ただ「作家になりたい」となぜかそう考えている人である。かなり割合は少ないんだけど、まれにこういう人がいる。

私は、商売気がない方なので、そういう人には入学前から注意をしたりして、あまり実際に入学するケースは少ないとは思っている。が、世の中にはこういう人は多いらしい。かなり多いらしいので、よく「そういう人を対象に講座を開いたら儲かるよ」などと冗談を言われたりするのだが、そういう人の相手をするのもちょっと大変そうなので、気がついたら注意をしてあげることにしている。

何度も言った話だが、数年前に「絶対に小説家になります」と言って入学して来て、結局、一作も書かずに辞めた若い女性には、「どうすれば、作家になれますか」と聞かれたので、「小説を書いて下さい」と言ったら、「作家になるには、どうしても小説を書かないとダメですか」と言われた。そりゃ、まあ、世の中には小説を書かない作家がいるのかもしれないが、そういう場合でも、少なくとも「今は滅多に書かないけど、以前は書いていた人」というのがほとんどで、それも、かなりまれなケースである。最初から最後まで、一度も小説を書いたことがないという人が、どうやって小説家になるんだろう。

こういう人が入学するのは、かなり珍しいことだけど(これまで百人以上の入学者の中で、ほんの3〜4人)、短編くらいなら書けるという人もいて、ほんの2〜3編書けただけで、「私は、なぜ作家になれないんでしょうか」などと真剣に悩む人もいる。こういう人の一番の問題は、「本当はさほど小説が好きじゃない」ことである。だから、たぶん書くのもめちゃくちゃしんどくて、早めに悩むのに違いない。そういう人は、大抵それまでに他の作家の小説をさほど読んだことがない。少しぐらいは読んだりするが、ほとんど読んでいない(ちなみに、こういう人が増えることを「カラオケ化現象」というそうだ。自分が熱唱することだけが大事で、他人にはまったく興味がない。ネットにもそういう人いっぱいいるよね。でも、趣味でやる分には悪いことじゃないと思ってるけど。安上がりな趣味だし)。

それなのに、「最近は、しょうもない小説ばかりが流行っていますね。賞をとった作品を読んでも、なぜボクの作品が落ちたのかまったくわからない。今の小説業界では、いくらいい作品を書いても、どうせダメなんでしょうか」などと言ったりする。

そこまで言うのなら、一体、本人はどんな作品を書いているんだろうと見せてもらうと、「うーむ」なんてモノもあったりする。あまりヒドイ人(たぶん文章技術の問題ではなく、考え方の問題である)は、入学してもメリットがないかもしれないので、私は、問い合わせがあった時に、やんわりと他の学校を勧めたりする(こういうことばかりしているから、商売気がないと言われるのだが)。

以前も言ったと思うけど、私は、専門学校でも非常勤講師をしているのだが、以前、別の学校で教えていた時、「編集出版」のクラスを教えたことがある(そこの学校は、DTPデザインという別のクラスもあったので、このクラスは「ライター」か「編集者」志望の人ばかりだったのだが)。そこで驚いたのは、「先生、やっぱりライターになるには、文章が書かないとダメですか?」という質問があったことだ。

ぶっちゃけて言ってしまえば、ライターは、実は、文章がうまくなくてもなれてしまう面もある。というか、実際には、文章は、けっこう現場に入ってから勉強する部分も大きいので、学生時代に文章がうまいかどうかだけでは、それほど大きな差がつかなかったりする。しかも、雑誌によっては、ライターが書くものはただの一次原稿に過ぎず、取材ネタさえ取ってくれば、あとはほとんど編集者やデスクが文章を仕上げてしまうという極端な雑誌もあるし、そうでなくても、出版社の場合は、編集や校正の人がついているので、多少、文章がヘタでも何とかなる場合もある(広告でも、最初のうちは使いモノにならないので、上司が直してしまう)。ただ、その場合でも、文章を書くことや本を読むことが、「少なくとも、普通の人よりは好き」でないとやっぱり続かない。というのは、ライターの友人たちをみても、やっぱり皆、ものすごい本好きばかりである。そういう人たちをライバルにするわけだから、そうでない人はやはり不利である。

しかし、不思議なのは、本も滅多に読まないし、文章を書くのもイヤなのに、なぜ「ライターになりたい」などと考えて、わざわざ学校に入学するのか、である。で、理由をよく聞いてみたら、どうも彼らのライターのイメージは、「いろんな有名人に取材ができて、旅行ができて、おいしいものが食べられるカッコイイ職業」である。まるで「2時間サスペンス」によく出てくるライターである。まあ、ドラマに出てくるライターは、のんびり温泉旅行に行ったりして、ホント自由で楽しそうな職業である。滅多に原稿なんか書いていない。まあ、日本で一番有名で、私生活まで誰でもよく知っている唯一の作家は、サザエさんの「イササカ先生」だという話だし、あの人も犬の散歩ばかりしてて、あんまり作品を書いている様子はないけどさ。

確かに、私のような地味なコピーライターでも、有名人に取材をしたり、旅行したり、おいしいものが食べられることはないではないが、正直、かなり少ない。それに取材というのは、忙しい。取材は仕事だから、カメラマンもライターもさほどのんびりしていない。カメラマンは、だいたい機材が重いし、撮ったフィルムは早く現像所に出さないといけないし、出したら出したで、できた写真を早く見ておきたいから、結局、バタバタと取材だけして帰ってしまうのである。ライターはライターで、取材をすれば、その後すぐに原稿を書かないといけないので、ほとんどの場合、そのまま急いで帰ってしまう。かくして、大阪から九州に取材に行っても、日帰りというのが多かったりする。まあ、よくて一泊である。しかも「一泊する」となると、編集から「じゃ、ついでに、あそことあそこの取材もしてきて」などと言われ、結局、のんびり取材ができるというのは、まずない。のんびり行けるのは、結局、自腹で行く取材(金になるかどうかわからない、結局、ただの観光旅行になるかもしれない可能性も高い仕事)だけである。まあ、これは自己負担だから、金と時間があるかぎり行きたい放題だが(作家志望の人だって行きたい放題)。

で、取材に行くたびに、「殺人事件でも起きませんかねえ」と、よくカメラマンと笑っている。が、残念なことに、旅先でナゾの殺人事件が起きたこともなく、あいかわらず、いつもトンボがえりである。パッと聞くとのんびりしているように見えるかもしれないが、朝一番の飛行機で行き、たった15分のインタビューのために片道4時間移動したりして、みやげものも買うわずかな時間もない。カメラマンと二人で「よし、せめて昼食だけは『名物』を食おうぜ!」などと決心していても、結局、昼食そのものを食べる時間がなかったりして、夕方あわてて飛び乗った電車の中で、やっとコンビニ弁当を食っていたりするのである(考えてみたら、そんなんばっかりである。やっぱ、ライターって、不幸な商売だなあ。作家なら、受賞パーティや接待で食い放題もあるみたいだけど)

作家にしても、ライターにしても、私自身は、あんまり特別な職業だとは思っていない。多少、違いがあるにしても、ラーメン屋さんにしても、ケーキ屋さんにしても、町工場の社長にしても、ある意味、仕事は仕事である。仕事だから、その部分はちゃんとやらないといけない。まあ、同じなのである。だから、せっかく職業選択の自由があるのだから、魚がキライで見るのもイヤという人が、魚屋になってしまうのはかなり不幸である。だから、文章を書いたり、読んだりするのが好きなのならともかく、そんなのは苦手という人は、やっぱりやめた方がいいと思う。作家とかライターとか、万一なれてしまったとしても、それはかなり不幸だと思うからだけど、逆に、もしもそれが好きだったら、ある程度なれる条件は満たしている。作家やライターなんて、カッコいいばかりじゃないし、本気でなりたい人はさほど多くない。私は、そういう人たちと小説の話をするのはとても好きである。

08/29/2005

小説とは関係のない休日(京都でルーブル)

8月28日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜日はお休みです。

昨夜、小説講座の後、11時まで飲んでいたうえに、帰宅して『爆笑オンエアバトル』(最近、ちょっとまたおもしろい。しかし、このところ、オンエアするグループとされないグループの点数の差がかなりはっきりしてるが、お笑いブームもなかなかしぶといらしくて、二軍三軍もそれなりに実力がついてきたのか、けっこう強いようだ)なんぞをだらだら見て、寝るのが遅くなる。で、起床は、遅めの9時。午前中に家事をバタバタとかたづけて、仕事も少し。早めの昼食。午後から外出。

地下鉄で京橋に行き、京阪で、京都三条へ。うちから1時間ほどかかって、「京都市美術館」の「ルーブル美術館展」を見に行く。かなりいい作品が揃っていて、さすがに人も多かったが、見に行く価値は大。アングルの『泉』や『スフィンクスの謎を解くオイディプス』は、画集で見ても気に入っていた作品なのだが、実物は、思った以上の迫力でさすがに驚く。うーむ、やっぱり画集とは全然違うなあ。ジェラールの『プシュケとアモル』(翼をもつ美青年アモルが美少女に接吻してるあの絵である)も、さすがに実物はハッとするほど美しい。なんと清楚なエロス。明るい官能美。有名な『トルコ風呂』もある。個人的には、ドラローシュ『若き殉教の娘』が収穫。水に浮かぶ娘の遺骸はほとんどオフィーリアだが、ミレイの『オフィーリア』ほどは饒舌ではなく、静かな雰囲気が趣きがあって気に入った。でも、一番気に入ったのは、レオポール・ロベールという人の『アルコの聖母祭からの帰り道』。この人の作品は、全然知らないけど、この陽気な2メートルを越える大作は、どこまでも古典主義的な技法と構図だけど、ちょっと異国風の美女たちと底抜けに明るい色彩が心地いい。
とにかくいい作品が沢山あり、一緒に行った子供たちも、すぐに退屈するかと思ったのだが、それなりに魅了されたようで、かなり長く見入ってしまった。思わず『プシュケとアモル』のクリアファイルなど買い込んでしまう。

美術館を出るともう4時半すぎ。平安神宮のバカみたいにドでかい鳥居の下で、ちょっと休憩。それから三条の駅までぶらぶら歩いて戻り、子供たちは、赤トンボがぷつぷつと飛ぶ河原にちょっと放し飼い(河原のアベックたちのいい迷惑)。6時の特急で、大阪に戻る。京阪特急は、途中、木津川と淀川を越えて、ぐるっと大きく回り込んで走るあたりが、私は好きである。夕暮れに染まっている光景は、なんだか秋の気配。窓の外の風景は、すっかり晩夏。京橋のイタリア料理店『モビイ・ディック』で夕食。子供たちは、パスタにリゾット、ピザも気にいって何枚もよく食べる(そういや、この店は、なんでイタリア料理店なのに、モビイディックなんだろ。内装は、昔のアメリカ風で、黒人写真などが壁一面に貼られた中に、なぜかすすけたような「ダースベーダ」と「ヨーダ」が混じっているのが子供たちにウケていた)。帰宅後、買ってきた図録を見ながら、夫の本棚からアングルの画集をひっぱリ出して、子供たちとワイワイと見較べたりする。早めに就寝。


人生のおともに、小説はいかが

8月27日(土)
朝から小説講座の事務所で、事務作業。
夕方から、小説講座の講義。作品指導。講師は、田中哲弥先生。講義中、教室にひょっこりと北野勇作先生が遊びに来られた。講義後は、いつもの中華店。

作品は、二編。生徒さんは、若い女性と50代の男性。どちらもユーモア小説として書かれた作品だったので、田中哲弥先生に作品指導をお願いした。(うちの講座では、その生徒作品によって、どの先生に指導してもらうか判断している)。とくに男性の方は、ご本人から「ぜひ田中先生に指導してもらいたい」という強い希望があったのだが、どっちみち希望がなくても、この作品は田中哲弥先生にお願いしただろう。田中先生は、あれだけ大爆笑の小説を書いているが、本人はきっちり真面目な好青年で(ハンサムである。スポーツマンである。独身である。みなさんホレないように)、作品指導もかなり細かく丁寧にしてくださる。笑いの部分に関しても、論理的に説明がされる。

生徒作品は、女性の方は、ミステリコメディみたいな感じの作品。ほとんど初心者の生徒さんなので、細かい問題はいっぱいあるが、楽しそうに書けている。もう一人は、中年男の独白スタイル(というか、独り言スタイル)のもので、かなり情けない中年男の日常を笑いのタッチで描いたもの。まあ、本人から書いた意図を聞いているので、「笑い」を狙ったものだとは知っているのだが、すごくはじけた部分は少ない。まあ、ほとんど笑いには至らない程度の軽いボケで、普通の日常なのである。本人は、大爆笑を狙ったんだろうと思うが、なかなかそうならずに終わったみたいだ。というのは、小説で笑わせるのは、アイデアも必要だし、「仕掛け」とか「仕込み」に加えて、かなり文章力もいる。バカバカしい文章を書くというのは、実は、けっこう難しい技術なのだ。でも、中年男の情けない日常を描いたので、おもしろい具合に哀愁が漂っている。だから、田中先生が言うように、理想を言えば、「ちゃんと笑いがとれるようにして、さらに、あとで哀愁が効いてくるようにする」のがよいんじゃないかと思うが、この「ちゃんと笑いをとる」というのは、かなり難しい。そりゃ、田中哲弥先生(あるいは田中啓文先生とか)なら、軽々とやれるかもしれないが、技術的には相当に難しい。まずは、相当な文章力と表現力がいる。もちろん、がんばってもらいたいけど。

しかし、そう言えば、大阪シナリオ学校の「演芸台本科」の担当をしていた時でも、いろんな生徒さんがいたな。なぜか若い人が書く漫才台本の場合、「笑えない理由」の多くは、そのギャグのオモシロさが誰にも「わからない」ことが多いのだが(つまり本人だけが面白いと思っているネタが多い)、年配の生徒さんが書くホンは、「あまりにも日常的に過ぎる」という場合が多いような気がする。なぜなんだろう。

そう言えば、ある先生は、こういう台本を「ただの酒の席での笑い話」と言っていた。酒が入れば、誰でもバカな話をして大笑いをして盛り上がったことがあると思うが、実は、そういう話は漫才のネタにはならない。そういう話は「酒の席でのたわいもない話」であって、そのままでは、舞台ではネタにも何にもならないのである。でも、演芸台本科の生徒さんも、年配の男性に限って、なぜかそういう話を書いてくることが多い。まあ、こっちも酔っていたら笑えるのかもしれないけど、台本を読んでも全然笑えなくて、「なんか、たわいもない話が続くばかりで、ギャグがどこにもないんだけどなあ」って感じになる。だから、ホンマ、プロの書き手というのは、大変なものだ。ちょっと思いついたものを書いたくらいでは、なかなか人は笑ってくれない。それでも、しっかり笑わせる作家がいるのだが。

でも、中年男の哀愁というのは、作品テーマとしても結構イケるテーマかもしれない。『活字マニアのための500冊』(朝日文庫)という本に「北上次郎が選ぶ中年男小説30冊」というのがあって、この中のいくつかは、すでに私も読んだことがあるのだが、あとは、もう少し年齢を経てから読もうと楽しみに思っている。読書というのは、適齢期というのがあるもので、ぴったりしっくりくる年齢というのもあるのだ。この人の分類では、中年というのは40代以降らしいのだが、ただ、どうも女の方が先に「中年」になるらしく、今、読んでもけっこうしっくり来るような気がする。ちょっと微妙な気持ち。まあ、男が「ああ、もうそろそろ必ずしも若いとは言えないぞ」と物心つくのが30歳くらいだけど、女なら25歳頃。ってことは、女の中年は、30歳からかもしれない。

ところで、今日は、参加者がえらく少ない。だいたい毎年、作品指導が始まる寸前から、講義に出てくる生徒の数が減るので、本日は専攻科も合同参加してもらったが、参加人数がとにかく少ない。1年間の講座で、修了課題の作品指導は最後なのだが、修了課題を提出する人は6〜7割である。毎年、前期の課題は、9割以上ほとんどの人が提出するが、後期にはかなりの人が提出しない。まあ、専門学校でもないし、社会人向けの学校である。卒業したからと言って、何か「資格」だのがもらえるわけでもなし、作品を提出するかどうかは本人次第である。私としては、せっかく学費を払ったんだから、最後まで参加してもらえればいいのだが、まあ、うちは学費もかなり安いせいもあって、辞めるのも平気なのかもしれない。まあ、まれに学費を納めたのに2〜3回しか来ないという人もいる。スポーツセンターと同じで、金だけ払っても活用できなきゃ、どうしようもないだろうけど。

ところで、大阪NPOプラザでよく顔を合わしているある団体さんは、介護関係の講座を運営しているそうだ。こちらの講座では「資格」がもらえるので、若い生徒さんもものすごく多い。スタッフの人たちもいつも忙しそうに働いているのだが、話を聞いたら、講座を卒業して「資格」を得たとしても、実際に仕事を始める人はそれほどはいないらしい。確かに、介護とか、福祉の現場は、けっこうキツイ仕事が多い。むしろ3Kと言ってもいい。もちろん人の役に立つすばらしい仕事ではあるが、そんなに甘い気持ちでは続かない。資格勉強をしている間にそのことを知ってしまうので、資格をとっても、実際に仕事につきたがる人は少ないそうだ。その一方で、「資格」だけとって、安心してしまう。いざという時に資格さえあれば、何かの役に立つだろうと思うんだろうが、まあ、どんな業種だって、責任がある仕事は、それなりの実績がないとまかされたりはしないものだろうが。

「資格をとれば、まず食いっぱぐれがない」と言われている建築士や税理士でも、実績がない新人の頃は、実はかなり長時間労働、低賃金を我慢し続けなくてはならないことも多い。医者なんかも、あれは3Kそのものだしなあ。そりゃ「悪徳弁護士」「悪徳税理士」「悪徳医師」なんていうのは、エンターテインメント小説では、常連の出演者だけど、現実世界では、確率的には滅多に顔をあわさない。長時間労働を耐えながら、がんばって働いている人がいっぱいいる。だから「資格をとれば何とかなる」というのは、かなり甘いのだが、こちらの講座の人たちは、「資格は何の役にも立たないかもしれないけど、少なくとも知識があれば、自分の肉親の介護に自宅で役立つ」のだそうだ。

その点、考えてみれば、うちの小説講座など、はじめから資格も何もないし、そもそも小説の書き方ほど、日常生活では何の役に立たないものもないしなあ。しかし、小説は、人生を過ごすうえでは、なんだかんだと役には立つ。子供なら子供で、若者なら若者で、私のような年齢になればなったで、真の友情やら、せつない恋愛やら、というものにそうそう夢中になれぬ。私なんか、もし小説がなければ、冒険も友情も恋も、すべて忘れてしまうかもしれない。
だから、小説ほどこんな役に立つものはないと思ったりしてるんだけどなあ。

08/27/2005

伊賀帰りの息子を難波宮で待つ

8月25日(金)
終日外出。小説講座の事務所には入れず。

夕方、忍者キャンプから帰宅する息子を迎えに行く。バスが1時間ほど遅れているらしく、しかたないので、すぐ100Mほど先の「難波宮」の史跡公園をぶらぶらする。大阪の人ならみんな知っているだろうが、ここは都会の真ん中にぽつんと、ただっ広いばかりの何もないただの広場のような公園である(史跡はあるが、ただの柱の跡)。私は、この何もないところが好きなのだが、あんまり何もないので、わざわざ地方から来た観光客がいたら、がっかりするのではないかとちょっと心配になる。
ちなみに、すぐ正面のNHKホールの横にある「歴史博物館」には、とてもきれいで、宮殿の想像図とか、難波宮の資料がわかりやすく展示されてますから、もし大阪に観光に来られた方は、そっちに行くように。(博物館は、高いビルの上にあるので、確かあそこから下を見れば、この難波宮跡が見えるはず)

バスを待つ間、ヒマだし、宮殿のド真ん中に立って、古代の妄想でも広げようかと思ったが、ただの柱の跡に標があるだけだから、日差しが強くて、むしむし暑いだけである。真っ昼間のビル街、すぐ真ん前の中央大通りは、かなり渋滞していて、車の音がうるさい。アホらしいから、木影に座り込んでジュースを飲む。高速道路の向こうにちょっと大阪城の天守閣がのぞく。そう言えば、関東地方からの観光客らしい年配の男性が、
「大阪城にも行って来たんだけどさあ。今の大阪城って、徳川の建てたもんなんだよねえ」
と話していたのを聞いて、私は思わず、
「いやいや、今の大阪城は、鉄筋コンクリートでっせ。あれは、市民が建てたモンでっせ」
とツッコミそうになったことがあったが。その関東の人は、「徳川」に建てられたというのがなぜか自慢気だったのだが、もしかして、あの人は、徳川家に何か由来でもあるのだろうか。まあ、豊臣時代の大坂城は、すっかり焼けて埋められたし、今、建っているのは、鉄筋コンクリートのパビリオンみたいなものである。まあ、そりゃ、「姫路城」などは由緒があってよいのだが、この大阪というのは、そもそも遺跡がそのまま残るにはちょっと熱すぎる町なので、そういう鉄筋コンクリートのお城もけっこう似合ってるんじゃないかと思う。このあたりは、上町台地の上になるので、古くからたくさんの史跡が集中している場所である。大阪には、南北に細長い上町台地があるのだが、それこそ難波宮の頃は、すぐ西側は海、東側も大きな池がある低湿地で、細長い半島のようなところだったのだ。でも、今はすっかりビル街だから、なかなか古代を想像するのは難しい。

だいたい私は、実は「歴史」関係はちょっと苦手である。小説講座の生徒さんたちは、ファンタジーやSFなどを書いていても、意外に「でも、幕末はちょっと書いてみたい」などと言い、「いやあ、時代小説なんて書けませんよ。でも平安ファンタジーは書いてみたいなあ」などと言ったりして、けっこう歴史には強い人が多い。きっと想像力が発達している人ばかりなんだろうなあ。いいなあ。私なんか、こうして史跡の真ん中に立っていても、雅な人たちの気配も感じず、ただ暑いばかりである。

やっとバスが着いて、息子と一緒に地下鉄で帰りながら、忍者キャンプ帰りの息子に「伊賀、面白かった?」などと聞く。息子は「忍者屋敷が面白かったわ。甲賀やけどな」などと言う。伊賀や信楽のあたりは、車を持っている両親なんかは、よくドライブに行くみたいだが、私は何回かしか行ったことがないなあ。そういや、生まれて初めてあのあたりに行ったのは、たしか中学校の1年生の時で、あれは剣道部の合宿だったような。いや、ありゃ、柳生だったっけな。思えば、今の息子と1歳違いの頃である。

家の近くの駅について、階段で地上に上がると、もうすっかり夕暮れで、たった3泊4日のキャンプに参加しただけの息子が「うーん。いつも通りの風景や。なんか懐かしいわ」などとエラそうな口をきく。

08/25/2005

台風の夜、大阪の町は静かに妖しい

8月25日(木)
昼から事務所。ごちゃごちゃ雑用。

台風が来るかもと思ったが、エル大阪に教室代を支払いに行くので、自転車で外出。ま、雨が降って来たら、その辺に放置して帰ればいいや。台風だから、やむなく自転車放置しても許されるということで。などと思っていたが、雨は降りそうで降らないし、風は強いが、空気は悪くない。ま、いいかとそのまま事務所がある福島までサイクリング。昼は、人が多すぎるので、ビジネス街は土佐堀通りのひとつ南側の道(史跡「適塾」がある道)をゆっくりと走る。途中、野田の近くのイタリア料理店でランチ。

結局、夜の8時まで仕事をしてから、帰ろうとして事務所を出た。雨もまったく降っていない。台風は、どうやらすっかり東に向かっているようだ。今頃、大騒ぎしているだろう関東の人には、本当に申し訳ないが、外は、すっかり美しい大阪の夜である。どうも大阪という町のイメージは、他の地方の人にとっては全く「美しい町」ではないらしいのだが、こうして土佐堀川ぞいに、夜、自転車を走らせていると、肥後橋、淀屋橋、北浜、天満橋の辺りは、本当にうっとりするほど美しい。ごちゃごちゃとして活気があふれるミナミ、あるいは京橋やら鶴橋やらといった所ももちろん好きなのだが、やっぱり川にキラキラと映る町並みは、大阪ならではの美しさだと思う。とくに福島から深津橋を渡り、そのまま京橋で寝屋川橋を渡る4キロほどの道は、本当にこんな美しい町はどこにもないんじゃないかと思ってしまうほど優美である。

いや、そりゃ、もっと美しい町はあるかもしれないけど、たぶん、こんな妖しい川面は見れないのではないかしら。とくに満潮時の妖しさは、なんとも言えない。実は、大阪の川は、河床勾配がきわめて低いので、潮汐の影響が強く、満潮時には川面の表情がまったく違うのである。また、この町は、川の占める面積がものすごく大きい町で、他の大都市はせいぜい3%〜5%らしいのだが、大阪は10%なのだそうだ。つまりそれだけ川が多いのだが、さらにその川は、ほとんどずっと東の生駒山の麓に至るまで、勾配がほとんどない。だから、どこの川も満潮になると、そのたっぷりとした川面をゆるゆると妖しくふくらませて、ゆっくりと静かに盛り上がってゆく。海ではなく、遠い遠い山に向かって、どの川も、夜は黒々とした肌を光らせながら、ゆらめかせていくのである。

つまり、普通の川は海にむかって流れていくはずなのだが、大阪の川はしょっちゅう逆流したがるのである。いや、勾配が低くて流れも強くないので、いきおいよく逆流するわけではないが、ただ、満潮時には無気味にゆっくりと川面をふくらませるのである。そして、まるで時を止めるようにその流れを留める。

それだけに、ここは古代から水害を繰り返し、多くの人の死や歴史を見つめながら流れ続けた川である。そりゃ、台風なんか来たらそれこそイチコロである。だから、満潮は、悲しいくらいに歴史が積み重なったこの町ならではの不思議な妖しさだ。(だから、私は、満潮時が一番好き)。私は、時々、生駒をめざしながら、自転車を走らせながら、よく空を見上げる。ネオンがまぶしくて、狭い夜空は星もほとんど見えないけど、そこに古代の風景を想像したりする。上町台地から東の方を見れば、広大な湿地がはてしなく広がっている。そして遠く、黒っぽい生駒山が、暗く低く長くのびている。

私の想像力は、くるくると時を越えて、戦国や近代にも遊びに行く。このあたりは、古事記から現代まで、こうして色々と遊べるから楽しいのである。聖徳太子も、河内源氏も、大阪城も、天下の台所も、大大阪も、空襲も、この町では、みんな同じ場所に、まるで川の流れのようにゆっくりと留まっている。
(ちなみに、聖徳太子が十四歳で誓いをたてて造った「四天王寺」は、どうやら今より少し東の方、生国魂神社の方に建っていたという説があるそうだ。生国魂神社の方はもう少し北にあったらしいけど。都は、孝徳天皇と中大兄皇子の頃。あと天武天皇の副都とか、聖武天皇とか。その前も、応神天皇、仁徳天皇、欽明天皇の頃とか、ま、色々あってややこしいんだけど)。

京都方面から淀川、かつては奈良方面から大和川が注ぎ込んでいた広大な湿地の真ん中をめざす(今は、大和川は付け替えられて、まっすぐ西へ向かっている)。そう言えば、東大阪には、国民的な歴史小説家が住んでいたなあ、などと考える。司馬遼太郎の目に見えていた景色が何かはわからないけど、私は、このあたりは、二千年以上の時をこうして切れ目なく、連続してたっぷりと想像して楽しめるところが好きである。そして、昼は、ビジネスとお笑いなどで仮装するこの庶民的な町に、夜にはゆらゆらと不気味な妖しさがたちのぼるのが面白くてたまらない。

ところで、毎週、教室で使っているエル大阪は、天満橋の駅から10分ほど歩くのだが、その途中に「ここから熊野街道」と書かれた史跡案内が置かれている。ここは、熊野につながる起点らしいのだが、熊野と言えば、遠く彼方のあの熊野である。まあ、京都の方にも「大阪街道」があるし、あっちこっちにも「京街道」がある(滋賀の方にも確か「朝鮮人街道」がある)のだから、そりゃ大阪のド真ん中に「熊野街道」があったっていいのだが。
(ちなみに、大阪ミナミの近鉄の駅や京都で、なぜか「伊勢の名物、赤福もち」を売っているのは、そこが「お伊勢さんの玄関口」だからだそうだ。いや、伊勢って、かなりはるか彼方だと思うんですけども)。

でも、熊野という文字を見ると、なぜか私は「小栗判官」を連想する。私は、この絵巻物で描かれた物語が好きなのだけど、この古い物語は、なぜかせっかくのヒーローがさっさと殺され埋められて、腐った餓鬼になって蘇るという、実に、とんでもないお話である。腐った身体で歩けない会話もできない餓鬼は、粗末な板車に乗せられて、見知らぬ人にリレーされるみたいに街道を引かれていき、遠く熊野の霊湯に浸かって復活する。途中、恋人だった照手姫が(逃れて遊女屋で下女をしているのだ)それとは知らずに餓鬼の綱を引く。

夜、たぷたぷと流れる暗い川肌を見ながら、静かな町に自転車を走らせ(このあたりは完全なビジネス街だから夜はとても静かなのだ)、この道の前を通りかかると、いつもの中華屋がそこだけポツンと明るく光っていて、ふいにオヤジが顔をのぞかせて、あいかわらずの異国風の発音で、「ナニ、シテンノ、ハヤクカエルネ」などと言う。(この年配の男性は、なぜかやたら筋肉が発達してる体型を持っていて、場末っぽい中華店の店先に立っているのを少し離れて見てみると、ホントに「ここは香港映画にでも出てるんじゃないかしらん」などと思ってしまう)。

ふと、その先の坂の上を見上げると、遠く熊野までつながるという道がとっぷりと暗く続いている。
ああ、なんて静かな夜かしら。
そうか、台風は、きっとあの生駒山のはるか、すっかり東の方に行ったんだろうな。

文章で感動させるための面倒なテクニック

8月24日(水)
終日外出。小説講座の事務所には、入れず。

朝から自宅で、ずっとパソコン作業。あまり作業量が多い時は、事務所まで行かない方が効率はいい。なにせ通勤時間、片道1時間である。市内なのだが、東のはしっこから西のはしっこなのである。電話は実は、転送にできるのだが、今の時期は、どっちみちかかってこない。しかし、結局、7時までかかっても作業が終わらない。

まあ、自分でもわかっているのだが、凝り過ぎである。もともとワーカホリックなところがあり、何時間でも仕事を続けても平気なタイプなのだが、反面、いつまでもやりつづけてしまうところがある。自宅作業だと、いつまでもやってしまうから、余計に終わらない。主婦だから、どんなに忙しくても、夕食の支度などからは逃れられないが、それがなければ、たぶん延々と仕事しているタイプなのだ。

ところで、広告コピーを書く時は、上半身は「芸術家」、下半身は「レジ」でないといけない、という。「芸術家」というのは、詩人とか文学者なんぞを表しているのかもしれないが、「レジ」というのは、スーパーにあるあのレジである。まあ、つまり「お金の計算機」ですな。これは、数十年も前のコピーライターが言った話なので、当時のことだから、たぶん、がちゃがちゃチーンとなる、あのレジである。

まあ、広告コピーは、どっちみち、商品を売るためのもの。だから、経済的な「計算」が半分はあり、それを忘れてはいけないということなのだろうが、残り半分は、やっぱり「芸術」であって、人を感動させなければならないという要素もあるのだった。

さて、「計算」なら、誰でもできる、少なくとも訓練次第では、誰でもできそうなものである。でも、「芸術」はどうすればいいんだろう。人を感動させるには、一体どうしたらいいのだろうか。芸術家? はて、そんなものになれるのだろうか。十数年前、交通事故で体を壊して、ひょんなことから、外食産業からコピーライターに何気なく転身した私は、最初、そのことで悩んで、すごく頭が痛くなった。

ところで、後でわかったのだが、コピーライターになる人は、どちらかというと「計算」の方が苦手で、「芸術」の方が得意な人の方が多いらしい(幸い、私の場合、経済とか経営にはずっと興味があって、「計算」の方は大好きだった)。たぶん、表面的にみれば、コピーは「芸術」的な要素が大きくて、この「計算」が見えないからではないかと思う。これは、あたりまえで、広告にはそういう計算が出ないようにしてあるからだけど、実際、仕事をしている立場から言うと、「企画書」なんかある意味、ずっと「計算づくし」みたいなもんである。広告戦略は、マーケティングの一環だし、「マーケティング」は、お客さんをどう「ひっかけるか」ということにつきる。その点では、少なくとも「自己表現」だとか、そういう意味あいはほとんどない。

しかし、半分は、そういう「計算」なのだが、半分はやっぱり「芸術」なのだった。というのは、実は、人はそうしなければ、モノを買わないのだ。マーケティングだと、これを「アイドマ」という用語で説明されることが多い。AIDMAとは、A=「注意」、I=「興味」、D=「欲望」、M=「記憶」、A=「行動」。それぞれの頭文字である。つまり、注意を向けさせ、興味を持たせ、欲しがらせ、さらに記憶させることができて、それからはじめて、実際に「買う」という行動をとらせることができるというわけである。

これを「広告コピー」だと、たとえば「キャッチコピー」で注意をひき、「リードコピー」でさらに興味をもたせ、「ボディコピー」で理解を深めて、欲しがらせてしっかり記憶させなくてはいけない。そうしてはじめて、広告は「効き目」があるのである。

さて、そういうわけで、広告コピーは、共感させて、感動させることを目指さざるを得ない。だから、コピーライターは、ターゲットとなる人物(高齢者向けの商品とか、独身女性向けとか、ファミリー向けとか、商品はだいたいターゲットが決まっている)が、毎日、どんな生活をし、どんなことを考え、何を望んでいるかを真剣に考えるわけである。しかし、ターゲットとなる層が、自分とあまり違わない年齢、性別などならいいのだが、実際には、そうじゃない場合も多い。というか、むしろ、そうじゃない場合ばっかりである。

私の場合も、コピーライター事務所に入社して、最初の方に書かされたコピーに「億ション」(もはや死語?)の広告があった。当時はバブルで、そういう数億円するマンションが平気で売られていたのである。なにせ初めの頃なので、何度書いても採用してもらえなかったのだが、その時に言われたのが、
「君なら、何億円もするマンションを買う時は、どんな気持ちで選ぶと思うか」
でだった。

しかし、当然だが、そんな金額の買い物なんぞ、私はそれまで一度もしたことがない(たぶん一生ないが)。私は、困り果てて、当時の社長(コピーライター)に言った。
「全然、想像つきません、そんな高額な金額は見たこともないし、どんな人が買うか、想像もつかないんです」
「うーん。じゃあ、君が今までに買ったことがある一番、高額だったものは?」
「ええっと、もう手放してしまいましたが、レストランに勤めていた時に通勤で使っていた自動車です。百数十万くらいしましたから」
「自動車なら、もっと高い数百万もするのもあるよ。だったら、せめて、その高級車を選ぶような人はどんな気持ちか考えてみたら?」
「はあ、ちょっと考えてみます」

結局、その広告コピーは、社長が書いてしまったので、私の書いたものは採用にならなかったのだが、なるほど買う人の気持ちになって、本気で考えなければ、コピーなんぞ書けるものではないというのが、つくづくわかったのだった。本気になって考える。真剣に考える。実は、コピーというのは、それが一番重要なテクニックなのである。文章の技術なども大事だが、人の心を動かし、感動させるには、とにかくそこを真剣に考える。コピーは、恋文(ラブレター)に似ていて、本気で書くとターゲットに伝わる。ラブレターだって、テクニックではない。テクニックもあるかもしれないが、本気がなければ、「なんや、いいことばっかり書いて。そんなんウソや」と気づかれて、ポイっと捨てられるだけである。だから、本気じゃないとダメなのである。

広告コピーは、なにせ短いから、何ならクライアントでも書こうと思えば書けるのだ。でも、実は、「普通の人」は、頭が痛くなるほど、真剣に考え続けることはしない。ちょっと考えただけで、あきらめてしまうのである。でも、それはあきらめるからである。とにかく考え続ける能力があれば、それは「金がとれる」だけのアイデアが思いつく。才能とかではなくて、考え続ける持久力というか、根性というか、まあ、そういうものがあればいいのである。

人が思いつかないことが思いつくということも、人を感動させるということも、文章でお金をもらうということも、たぶん、この「本気で考える」のが一番のテクニックである。それだけできれば、ある程度は何とかなる。それに気がついたので、ちょっとラクになった。

ちなみに「真剣に考え続けるなんて、とてもできそうにないわ」という人がいるかもしれないが、これには単純なコツがあって、5分真剣に考えたら、10分休み、また5分真剣に考えたら、10分休む。つまり、ずっとただ考え続けるのは無理なので、適当に休むのである。できれば、これを一日何回かやり、さらにできる限り、何日でも何週間でも繰り返すのである。休んでいる間は、テレビを見たり、雑誌を見たり、散歩したりしてもいいが、この時、頭の片隅だけはちょっとだけ開けておいて(ぼんやり覚えているくらいでいい)、すっかり忘れるのではなくて、ちょっと待機させておくのがコツである。パソコンで言うと「ファイルは立ち上げておくが、ウィンドウは閉じた状態」である。こうしておけば、必ずいいアイデアとか、最適な方法とか、そういうのが向こうからやってくるのである。

しかし、ターゲットがどんな生活をし、何を考えているか、なんてことは、結局、わからない。消費者アンケートなんか見ても、やっぱりわからない。でも、想像して、できるだけ「なりきって」、自分がその立場ならどうするか、などと考えるしかない。もしも私がその立場なら、どんな生活をしているだろうか、どんな欲望があるだろうか。
「もし、自分だったら」
もちろんそれは想像である。結局、他人のことはわからない。だから、自分という要素をそこに入れて、考え続けるしかない。しかし、人間というのは便利なもので、どんな他人にも、けっこう感情移入することができる。そりゃ、そこに見るのは、あくまでも「自分自身」だったりするのだが。

ところで、もし私が小説を書くとすれば、おそらくターゲットというよりは、「登場人物(とくに視点人物)になりきる」のに、たぶん相当エネルギーを使うだろうなあ、と思う。だって、小説は、視点人物の目を通して、世界を見る。まあ、うちの講座では、エンターテインメント系の小説が中心なので、ストーリー展開がかなり重要なのだが、感動させるとか、共感させるとか、そういうことは「頭の先っぽ」だけで考えていても、なかなかうまくいかないだろうし、そうなれば、全身を使うしかないだろう。ホントは頭だけで考える方がラクで、全身を使うととても疲れる。面倒くさいし、かなりしんどい。もしかすると、とてもツライ。だって、それは、自分自身が安全なところに立っていられないから。

でも、頭の先っぽで考えただけの文章は、とても冷めている。全身を使って考えた文章は、体温の分だけ暖かい。暖かい文章は、ヘタでも何か伝わる。人間というのは、そういう便利で素敵な生き物だ。言葉というのは、祈りだ。だから、本気で書いた文章なら、きっと伝わる。私は、それを信じている。

08/24/2005

小説は書け、貧乏神は祓え

8月23日(火)
朝から小説講座の事務所。夕方まで仕事。

今日から長男のキャンプなので、地下鉄に乗って、朝9時に集合場所の森ノ宮まで送っていく。3泊4日「忍者キャンプ」に参加。小学1年から6年まで参加する人気のキャンプなので、バスも5〜6台並んでいる。彼は、昨日の夜は11時まで何度も何度も荷物をチェックし、朝も5時から起きて、大騒ぎ。小さな体にパンパンにふくらみきったリュックを背負い、ずっとニヤニヤしながら、地下鉄の中でもピヨンピヨンはねている。集合場所は、大きな荷物をもった小さな子供たちと見送りの親たちで大混雑。台風が来ているらしいから、ちょっと心配だけど。

地下鉄で、事務所まで移動。午前中、雑用いろいろ。午後からKさんが来て、作品集の作成。長編である。夕方、事務所を出て、電車に乗り、第7期の生徒さん数名と待ち合わせて、飲みに行く。先日、同じメンバーは梅田で羊の串焼きを食べたそうだが、私は食べそこねたので、ジンギスカン。

第7期の何人かは、こうしてよく飲みに行っているようだ。去年の6期生も、何人か一緒に旅行したりしていたみたいだ。小説講座の生徒さんたちは、仲が悪い人もいれば、けっこう仲がよいグループもいる。もちろん色んな人がいるのだが、たとえば、ミステリ志望者が一緒に「裁判所見学」に行ったりして、SFとかファンタジーとかは、ほとんどオタク集団化しているよな人もいるので、つかず離れずという感じではあるけど、ほどほどにやっていたりする。

ところで、生徒さんたちが仲良くなることは確かにいいことでもあるが、でも、必要以上に仲良くする必要もとくにないので、私はどっちでもよい。以前、大阪シナリオ学校のクリエイトルームを担当していた時も、生徒さんたちが仲良くなって、一緒に旅行に行ったり、合評会をしたりしていた。まあ、社会人向けの小説講座や文章講座は、カルチャーセンター系などもそうだが、とくに年配の生徒さんたちには、「生涯教育」という側面がある。書くのはほどほどで、どっちかという、一緒に飲みに行ったり、旅行に行ったりするのが楽しみという人もいたりする。

でも、私は、生徒さんたちが仲良くするのが全面的に「いいことだ」と必ずしも思っていない。生徒さんたちの「合評会」とか「旅行」とか「飲み会」などは、確かに面白そうだから、たまにはこうして一緒に行くこともあるのだが、それを奨励しているわけでもない。まあ、たまに集まって飲むくらいなら何も思わないだけである。ただ、本当は、生徒だけの「合評会」については、正直、かなり警戒している。うちの講座の生徒さんは、みんな小説を書く人間ばかりだから、よく作品を持ち寄って、合評会ヲ開く人がいる。合評会というほどではなくて、お互い作品を批評したりする人も多いのだが、このあたりも警戒する。というのは、生徒同士の合評会は、実は、両刃の剣なのである。

だいぶ前、あれは、たぶん芦辺拓先生だったと思うが、「同好会化すると、構成メンバーの能力がなぜか平均化する」という説を聞いたことがある。「へたな人はうまくなるが、なぜかうまいはずの人の作品がつまらなくなっていく。そして、全体がほどほどのレベルになる」のだそうだ。実際、私自身も、そういう例を何度か見たことがある。私は、大阪シナリオ学校で、脚本や演芸のクラスを見ていた時にも、そういうふうになっていくグループを何組も見た。不思議である。まあ、講師が顧問になっていたりすれば、また別なのだが、生徒だけの勉強会などを始めると、プロになれそうだった人の作品が、なぜか、どんどんつまらなくなっていく。

この原因のひとつは、おそらく全員が必ずしもプロ志望ではないからである。実は、「ぜったいプロになりたい人」と「別にプロになれなくてもいいやと思っている人」は、別の人種なのである。いわゆる「価値観の違い」なのだが、かなり決定的なものなんじゃないかと私は思っている。まあ、せめて「プロは無理だろうな、でもなりたいな、あきらめたくないな」と思ってるくらいならいいのだが、「どうせプロにはなられへんわ、ムリムリ」と思うような人が一人でも混じっていると、そのグループ全員がそっちの価値観に引きづられるのである。

というのは、確かに、小説家でもシナリオライターでも、プロというのは、そうカンタンになれるものではなく、新人賞をとるのだって、かなり大変である。それに、小説を書くというのは、もともと孤独な作業なので、どんなに強い意思があっても、どんな人でも、けっこう不安に陥ったりするのである。だから、「そんなにがんばったって、どうせ新人賞なんか絶対ムリ。作家なんか、きっと特別な才能がないと絶対なられへん」というような考え方をする人がいると、だんだんそっちの考え方に影響されてしまい、そのうち「そんなジタバタと、みっともなく努力をするよりは、適当に気楽に書いたらええやん」というふうに皆なってしまうみたいなのである。

でも、作品なんてものは、かなりジタバタして、苦労しないと、やっぱ、いいものは書けない。プロの作家の中には「さらさらと思いついて、パッと書きました」などとインタビューに答える人がいるかもしれないが、だいたい小説というのは「ウソ」の固まりで、小説家はウソがつくのがおそろしく上手い人、つまり「ウソつきのプロ」なのだから「ラクラク書けた」などということはそのまんま信用しては行けない。それは、アイドルタレントが「友達の応募で仕方なくコンテストに出たら」というデビュー伝説よりもよほど信用ができない。プロだって、影では、どんなにジタバタ苦労をしているかわからない。実際、プロの作家さんは、ほとんどおそろしいほどの労力をかけている。ということは、まだ、現場経験の浅いシロウトなら、もっとジタバタするのがあたりまえである。でも、考えてみれば、もともと小説が好きで書いてみたいと思ったのだから、努力とか苦労とかしても、本当は楽しいはずなのである。プラモデルを作るのだって、考えてみれば面倒くさいものである。

ところが、どういうわけか、「どうせ無理」というネガティブ思考の人が混じっていると、そのグループはみなそっちの価値観に引きづられていく。どんな商売でもそうだが、こういう「どうせ無理」という人と一緒に仕事してはいけない。こういう人は、「やりがいを持って、仕事を楽しんでやり、努力する人」の意欲を削ぐ「マイナス人間」である。おそらく、こういう人間は、本音では自分だけとり残されるのをとても恐れていて、周囲も一緒に引き落とそうと考えているのである。こういう人間のことを私は「貧乏神」と呼んで、仕事では絶対に近寄らない。まあ、友だちなら、そういうネガティブ思考をしてしまうのも許せることも多いのだが、仕事でこういう人とつきあうと、こっちのエネルギーが消耗して、仕事もいい結果にならず、運が悪いとこっちにまで「貧乏神」が伝染してしまう。

世の中には、「たぶん死ぬまで、どうやってもネガティブ思考しかできないのではないか」というような人もいて、こういう人は価値観が決まってしまっているから、もう私にはどうしようもないが、ただ、弱気になったり、伝染したりして、一時的に「貧乏神」がひっついているくらいなら、叩き落としてやれることもある。「作家に絶対になれる」というのは確かにかなり怪しいが、「絶対になれない」というのも同じくらい怪しい。確率的に見れば、作家になれる確率が低いのは確かかもしれないが、反対に「絶対になれない」という可能性もかなり低い。ならば、なぜ無理だからと言って、やってみる前からあきらめなければならないのか。私は、他人にはネガティブなことばかりを言って、自分自身の夢も持たない人間が信用できない。こういう人は、たとえ作家になれなくて、他のどんな職業に就いたとしても、たぶん自分に言い訳ばかりしているだろう。

だから、どんなに不安になっても「どうせ」なんて言うことはよくない。もし考えてしまっても(そりゃ、たまには考えちゃうだろうが)、決して口に出すものではない。自分自身に「貧乏神」を呼び込むだけだし、それを聞いた周囲も不安になってハタ迷惑である。小説を書いていると、不安に陥ることが何度かあるだろうが、その不安ってのは、気の毒だが、おそらくプロ作家になっても、たぶんずっと存在する。それがない作家なんて、たぶんどこにもいない。だから、そういう不安はあってあたりまえだから、そのしんどいのはどっちみち仕方がない。だから、アキラメて、それなりにつきあっていくしかないのである。ただ、そんな不安も、デビューしたり、プロとして書いていれば、必ず読んでくれる人がいて、そういう時にきっと報われるはずなのである。

たとえプロになれなくたって、小説を真剣に書くことは馬鹿げた行為なんかじゃないし、私なんか、だいたいおもちゃのプラモデルでさえ、真剣に作らないヤツは大嫌いである。一応、うちの小説講座は、プロ養成というコンセプトだが、仮にプロ志望でなくても、小説は、真面目に、楽しく、真剣に書くべきである。たとえ遊びだって、ホンキでやらなきゃ面白くない。

ところで、こういうことをインターネット上で書くのは、もしかすると危険なのかもしれないが、ネット上で小説を発表するのも、うちの小説講座の生徒には正直あまり奨励はしていない。止めはしないけど、勧めはしない。プロの作家さんが、読者サービスとしてネットでも小説を発表するのはいいけども、まだプロデビューしていない生徒さんが自分のサイトで小説を発表するのは、かなり危険な行為だと考えている。もちろん私自身は、いわゆるネット小説を趣味にする人がいるのは、とてもいいことだと思っている。どんどんやるべきである。自分史なんかも、今はネットを使えば、印刷物で出すよりも、もっと色んな人にみてもらえるんじゃないかと思っているし、ネット小説もいいことだと思っている。でも、小説講座の生徒さんたちは別である。わざわざ学費を払って、真剣にプロになりたいと考えている生徒さんは、「自分の書いた作品を人に見てもらいたい!」という、どうしようもないほどのエネルギーをネット小説なんかで消化してはいけないのである。その意味では、「同人誌」も同様である。プロ志望者なら、そのエネルギーは、商業出版で消化されればいいのである。その方がお金も入るし、読者数の絶対量もたいてい多い。ネットアクセス数は、必ずしも読んだ人の数ではないのだが、本なら、少なくとも「金を払ってでも読みたいと思った人」がどこにもいなければ、出版もしないのである。

そこで「どうせ商業出版なんか無理だし」という人には、すでに貧乏神がひっついている。貧乏神が好きならそれでもいいが(でも、そういう人は私は嫌いである)、もしそれがイヤで、しかも、あなたが周囲に影響されやすい性格なら、できるだけ強い「福の神」を探すべきである。それは、成功経験があって、強いエネルギーを持っている人物である。小説講座で言えば、それは毎週来ている講師の作家さんたちだ。あの十数人の作家さんたちは、すでに本を何十冊も出しているのである。ほとんどが専業作家。兼業でも、年間何冊も本を出している人ばかりである。

それなのに、小説講座でも、すでに多少「貧乏神」がついている人は、その反対はまぶしいのか、飲み会に行っても、できるだけ講師と離れた席につきたがる。そして、不安を隠すようにして、仲間たちだけで話を盛り上げる。確かに、人見知りが激しくて、本当は講師に話しかけたいけど恥ずかしいという人もけっこういるのだけど、そういう人は、とても隣には座れないけど、せめて声が聞こえるあたりには座わるものなので、だいたい見分けがつく。生徒数が少ないと言っても、それなりに多いので、毎週、講師が飲み会に来てくれても、誰もが近くに座れるとは限らないが、小説は、文章技術や構成も大事だが、気力が8割。キツイようだが、少しくらいの情熱もないと、それこそプロなんかなれないし、たとえプロデビューしてもたぶん続かない。

そりゃ、誰にでも貧乏神が宿ることがあるけど、それは自分で追い払わなければならない。自分で追い払えない時は、だれか運気の強い人の近くに行き、その人の話を聞き、その人のエネルギーを借りて、貧乏神を祓わなくてはならない。小説だけじゃなくて、どんな仕事でもたぶんそうである。仕事が好きで、面白くてたまらない人と話してみればいい。そういう人なら、きっと答えてくれるだろう。夢を追いかけること、そのために少しくらい苦労することが、本当にムダなことか、くだらないことかどうか。だいたい、それ以上に何か面白いことが、はたして、この世にあるのだろうか。どんなちっぽけな生き物でさえ、希望だけは死ぬまで一緒にいてくれるというのに。

そりゃ、小説以外の夢を見つけたなら、それはそれでいいけれど、貧乏神のせいであきらめるのは残念である。幸い、今の小説講座にはあんまりいないのだが、それでもやっぱりたまに小さな貧乏神がやってくることがある。そんなわけで、私は、時々、ぷちぷち発生する貧乏神を、ゴキブリみたいに叩いて、お祓いしている。

08/23/2005

薄化粧、女の目、男の目

8月22日(月)
小説講座の事務所は、日、月曜日お休みです。

今日は「夏バテ」ということにして(実は、元気なのだが、そういう言い訳がないと、なかなかゆっくり休めないソンな体質)、終日、だらだらと本を読む。仕事はてんこもりなのだが、今週は日曜日も仕事だし、一日くらい休日らしく過ごすことにした。

とは言うものの、家にいたらいたで、多少仕事もするし、家事もある。レポートのための資料をコピーしたり、なんだかんだで忙しい。なぜか仕事をしているより、あっという間に時間がたつ。本も4冊しか読めなかった(5冊読むつもりだったのだ)。夕食は、カツオのたたきがあったので、キュウリのサラダ、冷ややっこ、ナスともやしのみそ汁など。昨日も、イワシの梅煮で似たようなあっさりしたメニューなのだが、子供たちが「ママが作るご飯は臭くないから、ホッとするねえ。ニンニク、全然入ってないし」という。私が家にいると基本的に私が料理をして、夫はご飯を作らないので、私自身は滅多に食べたことがないのだが、私が仕事の時は、彼が料理をしているのである。彼の作るおかずは、ニンニク入りの炒め物とみそ汁というパターンらしい。しかも、毎回、かなり使っているらしい。臭いが深夜までキッチンに残ってるもんなあ。

ところで、私は日頃、あまり化粧というものをしない(だから、あんまり匂いがするものを持っていない)。今は、ホントに口紅一本とアイペンシルが、洗面台の前の小さな箱(牛乳パックの底の部分を切り取って、可愛い布を貼った手作りケース)にポツンと入っているだけである。去年までは、もう少し何か入っていた気もするんだけど、日頃、化粧水も乳液も使わないうえに、洗顔料も使わず、普通の石けんを使っている。ちなみに、髪も基本的に自分で切っているので、ホント、金のかからん女である。

一方、夫は、ひげ剃りクリーム、化粧水なども持っており、汗とりパウダースプレーくらいは「最低限の身だしなみ」なんだそうで、さらに舞台に出ることもあるので、おしろい(ドーラン)、クレンジングクリーム、スポンジだのなんだの色々化粧道具も持っている。たぶん世間の夫婦とは、すっかり逆転したパターンなんだろうなあ。

そういうわけで、今の私は、化粧あっさり系(あっさりしすぎだが)のオバサンだし、化粧直しというものをしないので、化粧ポーチも持ち歩いていない。だが、そんな私も、まさか若い頃からずっとそうだったというわけではなくて、19歳〜22歳の3年間は、化粧ポーチはけっこう膨らんでいた。なんでかというと、当時の恋人が、どっちかというと化粧を好む男だったからで(むろん今の夫ではない)、それに合わせて、ビューラーやらマスカラやらも一応、持っていたのだ。

ところで、男の好みを大きく分けてしまうと、『ルパン3世カリオストロの城』の「不二子ちゃん」か「クラリス」のどっちかになってしまうという説がある(オタクな分類だけど)。これは、まあ、言い換えてみれば、娼婦タイプと処女タイプ(あるいは、悪女と少女)なのかもしれない。そういうわけで、「化粧」に対する好みも、大きく分けると「女性ならばっちり化粧はしてほしい。できれば素顔なんか見せて欲しくない」というタイプと「あんまり厚化粧は苦手だから、できれば素顔が一番」というタイプの2つに分かれるような気がする。

実際には「どっちのタイプも好き」ということがあるのだが(というか、たいていの男性はそうでしょ?)、ただ面白いことに、男の目から見た「薄化粧」と女の目からみた「薄化粧」は、微妙に違うらしい。

若い頃、Kくんという友だちがいた。彼は、学校の成績もよくて、一流企業に就職した優秀な男で、しかも、ガリ勉というよりは、ガキ大将タイプのいわゆる男気のあるいい男であった。友人も大事にするし、約束もきっちり守るいいヤツである。ただし、ちょっと複雑なことなどが生じると「ややこしいのはかなわん」と思考停止をするクセがあり、周囲には、やや単細胞な「わかりやすい男」と思われていた。まあ、男友だちとしては、さっぱりしたいいヤツなのだが、女友だち連中には、「まあ、学歴もいいし、ハンサムだし、結婚相手としては文句はないんだけど、恋人としてはねえ」と言われてしまうタイプである。

まあ、女性なら「ウワサとか、人間関係だけを楽しみに生きているタイプ」などという人もいるのだが、男性の中には、「男はなぐる、女はくどく」というわかりやすい人間関係を好み、それ以外は、「ややこしいのはかなわん」で済ます人がけっこういたりする。彼は、同性の友達ばかりが多く、ずっと恋人がいなかったのだが、ちょっと単純なところがあるので、周囲の悪友連中は、「変な女にダマされんなよ」とよくからかっていた。

ところが、そのKくんが、就職してまだ1年もたたぬうちに「オレ、今度、結婚するねん」と言い出したのであった。当然、「どんなヤツや、いつのまに!?」と悪友連中は大騒ぎになったのだが、聞いてみるとどうやら「バツイチで、年上の女性」らしい。「やっぱ、オマエ、ひっかかったやろ」と騒ぐ悪友たちにKくんは、
「いや、全然、そんな女性じゃないよ。すっごくおとなしくて、純粋な女やねん。なんていうか、清楚って感じやねんけど」
と言う。それを聞いたオトコ連中は、さらに大騒ぎ。なにしろ「元人妻で、しかも、清楚な女性!」。そりゃ、もう「会わせろ、会わせろ」と大合唱で、婚約者を連れてくるように言ったのである。

さて、後日、Kくんが連れて来た女性を見て、オトコ連中はさらに大騒ぎ。ロングヘアで髪先にゆるくウエーブがかかった髪型、白いブラウスにプリーツの入ったひざ丈のスカート。ホントに清楚な感じのお嬢様タイプの女性である。なるほど、どうみても「清楚」というイメージにぴったりである。

Kくんは、嬉しそうに自分の婚約者を悪友連中に紹介し、「でも、彼女、たくさんの人としゃべるの苦手らしいから」とほんの20〜30分ほどで一緒に帰って行った。彼らが帰ってしまってから、十数人いたオトコ連中は、「アイツもやるなあ。化粧も薄めで、ホンマに清楚な感じの人やったなあ」「そやなあ。でも、アイツ、ちょっと単純なヤツやからなあ。ああいうおとなしいタイプの女性が似合っているんとちゃう」などと口々に感想を言い合っていた。

だが、それを聞きながら、その影で、私たち数人の「女友だち連中」は、かなり違った感想を言い合っていた。私は、その時、「女の目と男の目は、全然違うところを見るのだなあ」とつくづく思ったのだが、そもそもその女性は、女連中には、決して「薄化粧」には見えなかったのである。

女の立場から「薄化粧」と言えば、普通は、せいぜいルージュとか、ファンデーションもちょっとはじくくらいとか、まあ、実際に「うすい」ことを言うのであって、「しっかりメイク」の逆のパターンである。だから、ばっちりマスカラが入っており、ファンデーションもあきらかにリキッドを使っていて、アイシャドウもグラデーションばっちり……という場合は、あまり「薄化粧」とは言わない。もちろん「ナチュラルメイク」とは言えなくもないけど、だいたい「ナチュラルメイク」というのは、ふつうは、実際に素肌に近い状態のことを指すのではなくて、「素顔風に見せかけるためのメイク」のことである。しかし、どういうわけか、男性は、たとえばアイシャドウでも、青色とかパールとかわかりやすいものじゃなくて(そういうのは、女に言わせると、夜向きのメイクである)オレンジとかブラウン系だと、とたんに塗っているかどうかが見分けがつかないものらしい。その女性は、あきらかに首のあたりまでファンデーションが入っており、全体的に「しっかりメイク」である。もちろん、あくまでも清楚な感じだが。

私たち女性は、一目で、「こりゃ、どうみても化粧に関しては、相当なテクニックがあるな」と見た。
けど、相手の女性の立場から考えてみればわかると思うが、そもそもそんな状況に何も考えずに来るアホな女はいない。普通は、婚約者の友達連中に紹介されるとなれば、普通はしっかり「おしゃれ」して来るものである。さらに、その時は、ほんの二〜三言しか会話をしなかったのだが、あとで女性陣はみな「こりゃ、相当したたかな女だな」という共通した感想を持ったのである。Kくんは、自慢げに「なれそめ」を話したのだが、それも女の目から「そりゃ、ひっかけたんじゃなくて、声をかけるようにしむけられたんだわ」とはっきりとわかるようなエピソードだったし、色々と推測するに、たぶん恋愛経験もそこそこ豊富らしい女性のようである。

しかし、そういう女性と婚約したということは、めでたいことである。だいたいKくんは、ちょっと単純なところがある。だから、ある意味、女のしたたかさなんぞは、想像もつかない男なのである。しかし、こういう男は、これくらいしたたかな女にひっかけられた方が幸せなのである。そもそも一度、離婚経験もあって、それでもホンマに清楚な女がいたら、それは悪いがたぶんただのアホである。だが、これくらいしたたかに演じられる女性なら、この単純なKくんを任せても、たぶん安心である。彼女は、真剣に結婚したがっている様子だったから、たぶん年上の奥さんとして、しっかり幸福な家庭を築いてくれることは間違いない。
というわけで、私ら女性陣も、Kくんのこの婚約を心から祝福したのであった。

まあ、男性は、すっかりダマされてくれるくらいがいいのである。世の中の女性が、いつも熱心に化粧をする理由のひとつは、男性がこういうふうにすっかりダマされてくれるからで、そうでなければ、わざわざ苦労してバケても面白くないもんな。(ところで、胸の大きさなんかも、男性は外見から判断がつかないらしい。不思議だなあ)

そういや、小説でも、たまにハードボイルドなどで、「清楚なお嬢様」なのに、皮スカートにハイヒールとか(お嬢様でも皮のスカートをはくだろうが、こういう場合は、ブーツ等をはくと思うよ。たぶん)、あるいは、はじめて会った男にすぐついて行ったりとか、「えっ、なんで、これが」というような女性が出てきますけどね。でも、女の目から見ると「そんなヤツおらんわ」というのでも、ああいうのは、男性の願望だからいいんだろうなあ、きっと。


08/22/2005

下手でもベタでも、一応、作品

8月21日(日)
小説講座の事務所は、日曜、月曜お休みです。

朝、妙な夢を見て、目が覚める。あまりにリアルな夢なので、目が覚めてから、夢だったのか、本当だったのか、しばらく呆然と考えてしまう。どっちなんだろう、と悩むほどの現実感があったので、それがどうやら夢だったのかと思うと、ショックでなかなか起きられない。さわやかな朝なのに、べっとりと背中の汗が冷たい。
そんなふうで起きあがれなかったのだが、キッチンからは、子供たちのにぎやかな声が聞こえる。ここ当分、朝寝坊だったのに、めずらしく3人とも早くから起きて、朝ごはんを食べているようだ。早めに朝食をすませて、すぐ近くの草むらに父親と虫とりに行くつもりらしい。床の中でぐずぐずしていたら、ワイワイと出かけていってしまった。

それにしても、あの夢は一体どういうことかと考えてしまう。あれは、自分の願望なんだろうか。どっちにしても、日頃、考えないようにしてきて、実際、ほとんど気にしてないはずのことなのに、こうして夢になって現れたというのは、どういうことなのか。寝ている間に、まさか「生き霊」になったのではあるまいな、というような恐ろしくリアルな夢である。自分自身のことでも、ちょっとゾッとする。冷汗ものである。しかし、目の前の心配事や問題には立ち向かう元気はあるつもりなんだけど、深層心理ではしっかり忘れ得ないようで、突然に、こうした切ないような夢を見るものらしい。

あ、もしかすると、昨日、「人間は面白いよ」なんてことを無責任に書いた罰があたったのかもしれない。というわけで、昨日の話は、訂正します。人間は(自分も含めてだけど)、どうやら複雑すぎるものらしく、やっぱり、面白いもんじゃないです。こわいです。

昼前に、子供たちが帰宅して、一緒に昼食を食べてから外出。昼から、専門学校。いわゆる学校見学会で、高校生向けの体験授業。「生徒」さん相手に、簡単な講義を2時間ほどする。

ところで、小説講座の生徒さんは、みな社会人ばかりだし、年齢も20代〜60代と幅広いので、作品がなかなか作れないと言っても、あんまり根本的にむちゃくちゃというのは少ないのだが、専門学校で非常勤講師を頼まれて、教え始めて驚いたのは、ここの生徒さんはけっこう「むちゃくちゃな作品」を平気で提出することである。専門学校は、マンガ科コースだし、絵はうまくなりたい(こっちの方がわかりやすいのである)という気があっても、ストーリーはびっくりするくらいレベルは低い。ここの学校は、全体的にはめちゃくちゃレベルは高いと思うし、絵の能力はすごい人が多いのだが、まあ、18才から20才の年齢だし、それぞれの能力の差もかなり激しい。でも、進級単位の問題もあるので、作品提出はしなくちゃいけないのである。

だから、むちゃくちゃでも何でも、作品提出できればいいのだが、それができない生徒がいる方が問題である。まあ、私はマンガ家でもないので、私の講義も、1年生の「教養」みたいな扱いになっていて、作品指導を受け持っていないからその点は気楽なのだが、ほかの先生たちは大変そうである。3年生になると、プロ志望とそうでない人はクラスが分かれてしまうのだが、1年生は結構大変らしい。

だから、実際の作品指導をしてないのだが、作品が提出できない原因は割と想像がつく。授業中に実習をさせても気がつくのだが、若い生徒さんというのは、どういうわけか、思いつくのはほぼ8割が広い意味での「ファンタジー」である。考えてみればあたりまえなのだが、少年少女はファンタジーがお好きなのである。で、小説講座の生徒さんでもありがちなのだが、ファンタジー系の作品というのは、作品が完結しないのがものすごく多い。どうも設定とかにハマって、やたらと長くなりがちだからである。まあ、男の子に多いパターンである。

そうは言っても、小説ならなんとか完結した作品にできるようだが、マンガは小説よりも作るのにずっと体力がいる。マンガは、小説よりももっとずっと「長いものを飽きずに最後まで書き通す」には労力がかかる媒体である。小説なら、短編なら、人によっては1〜2日、ま、数日で書ける人も多いのだが、マンガは、たった一ページ描くのにも、早い人でも3時間、あるいは4〜5時間かかる。24ページや36ページのマンガなんて、読む人はパラパラと数分で読んでしまうが、描く方は、何十時間もかかるのだ。

だから、マンガ科の生徒さんには、「できれば短い作品で、まずは完結した作品を1本でも2本でも描き上がるように」と繰り返し言うことにしている。だって、完結しない作品ばかりを数多く書いていても、コンテストにだって応募しようがないし、誰にも見せようがない。どうしようもないのだから「ヘタでも何でもいいから、とにかく完走しようぜ」といつも言う。「途中までしか書けなかった」「この先、どうしようもなくなった」という作品を見せてもらうこともあって(ちなみに、こういう人は、たいてい結末を考えずに、いきなり書き始めて、どうして最後まで書けばいいかわからないというパターンである。小説ならともかく、ふつうの短編マンガでは、結末を考えずに書き始めると、相当無理しないと、話がうまく終わらない)、「じゃあ、こうしたらムリヤリでもなんとか終わるんじゃないの」とアドバイスしたりするのだが、こうして最後まで書かない人に限って、「いやあ、ボクは、そんなベタなストーリーを書きたかったんじゃないんですよね」などと言う。(ほんなら、自分で、もうちょっと頭をひねって考えんかいっ)

小説でもマンガでも「下手でもベタでも、何でもいいから、とにかく最後まで書こうぜえ」というのが、私の考え方である。そら「下手でもベタでも、ホンマにええんか」と聞かれたら、そら、やっぱりプロになるには、それだけではホンマはあかんのだけど、でも、例えば、水泳大会で「100M自由形」に出場したいのに、そもそも100Mを一度も泳いだことがないという、そういうことなのである。それくらいどうしようもないものはないのであって、フォームとか、スピードとか、そういうことよりは、まずは100M泳げるようになろう、それがダメなら、まずは25Mたどりつけるようになろう、と言いたいのである。しかし、なぜ皆、最初からフォームとか、細かいことばかり気にするのだろうなあ。考えてみれば、何とか前に進みさえするなら、腕のふり上げ方とか、最初はあまり細かいことを気にしすぎることはないのであって、とにかく「最後まで泳ごう」という意思があるかないの方が大事である。マラソンでも、最後まで完走することがまず第一で、ゴールインもしなければ、順位もへったくれもないだろうに。

しかし、マンガは、とくに最初の頃は、目に見えて上達もするし、わかりやすい部分があるのだけど、小説は、自分自身でなかなかわかりにくいものらしいからなあ。ちなみに、小説の場合は、ワープロを使うせいもあって、やたらと長くなってしまう人も多く、「ああ、コレくらいの内容なんだったら、100枚も書かずに、30枚せめて50枚くらいにしてくれれば面白かっただろうになあ」という作品もある。長ければよいという問題でもないのである。で、そういう人は「余計な描写」とか「余計なエピソード」がどこかさっぱりわからないという人も多い。まあ、本人は書くくらいだから、全部、必要なシーンだと主張するのだが、読者としては、「だから何?」というような内容だったりする。

個人的な感覚だと、活字は読むのが面倒だから、長さが倍になると、読者が期待するオモシロさは4倍くらいないとマズイ。3倍だと9倍である。とにかく、2乗は面白いだろうと期待する。ってことは、同じ内容なら、少なくとも、読者にはちょっとでも短いにこしたことがないぞ。それが親切ってもんである。

しかし、ホント、ベタでもヘタでも、とにかく作品を作るってことは、まるきり何もしない人や途中であきらめる人よりは、ずっとずっとエライことなのである。自分がプロになれるかどうか、とか、はたして才能があるかどうかなんて、そんな些細なことよりは、とにかく作品を一つ書くってこと。それが、たぶん、きっと、ずっと大事なことなのである。


08/21/2005

小説講座、ファミレス、様々な人々

8月20日(土)
朝から事務所。夕方から、小説講座の講義。作品指導。講師は、五代ゆう先生。
作品は、2編。一本は、専攻科の長編。もう一本は、70枚ほどの短編。

もう作品指導が終わったので、正直、今やっと言えるのだが、どちらもいつもの二人の作品のレベルから考えると、ちょっと首をかしげるような作品だった。狙いはわかるのだが、どうも上手く行ってない。講師に作品指導をお願いする時は、その先生によって、生徒さんの情報をつけて送る時と、意識的に作者本人の情報をほとんどつけて送らないことがあるのだが、今回は、五代先生だし、まったく事前の予備知識なしで読んでもらったのだけど、評価もちょっと厳しめ。

しかし、二人とも、ホントはもう少しウマいはずなんだけどなあ。短編がある程度うまくても、ちょっと長くなると、途端にダメという人がいて、仕方ないことではあるが不思議。まあ、構成ができてないってことなんだろうが、あかんなあという時は、最初の十枚であかんのがわかる、という感じ。短編がそこそこ書けるんだから、そりゃ、長編の構成が苦手でも、最初の数枚くらいは短編と同じく面白く読めそうなものなのに、そうはならないのはなぜなのかな。ホント、どうしてなんだろう。

講義中、年配の生徒さんが二人、ずっと私語をしていたので、ちょっとキレかけ。うちの小説講座は、社会人向けだし、少人数なので、教室内での私語はめずらしい。五代先生は、あまり気にしてなかったのだが、私は、他の学校の講義でも私語はダメ。専門学校の非常勤講師でも、私語はまわりのジャマになるので、ちょっと厳しく注意する方である。眠っちゃうなら仕方がないし、周囲に迷惑もかからないけど、私語はダメ。しかし、「よく最近の若いモンは……」などというけど、電車でも行儀悪いのは、結構オッサンオバハンだったりするよな。注意しようかなと思ったけど、まあ、今度。

でも、この講座のいいところは、なんだかんだと言っても、いろんな生徒さんがいるところだと思っている。正直、小説を書こうというような人は、ちょっと変わっている人が多い気がするし、ちょっとというより、かなり変わった人もいる。一年間、席を並べていても、結局、一度も口もきかなかった……という人も結構いるのだが(だいたい、それほど社交的な人ばかりではない)、でも、年齢も20代から60代までいてて、職業も立場も色々で、それこそ色んな人がいるのが面白いところだと思う。たまに仲の悪い人もいるけど、たいてい仲もいい。私は、もともと変わった人間が好きだ。気があう人間ばっかりでつきあうのもいいが、どうせ講義は、週1回、たったの二時間だけだし、もし小説を書くんなら、いろんな人間を観察ができた方が面白いと思うんだが。まあ、無理に仲良くしろとは言わんけど。

ま、プロ養成講座だし、さっさとデビューしてもらえば、さらによし。とは言うものの、社会人クラスのせいか、生徒同士で問題が起きたことはほとんどないけど。たいてい仲はいいしな。あ、でも、そういや、こんだけ社会人の男女が混じっているクラスで、独身の人も多いのに、カップルができたという話も聞かないなあ。ははは。どういうわけなんだろ。

ところで、生徒さんの作品を読んでいて「うーん、なんかモノ足りないなあ」って時がけっこうあるのだが、そのうち何割かは、登場人物の描き方の問題かなあ、という作品だったりする。「人間が描けてない」という表現は、いろいろ誤解が生じる可能性があるけど、もしかすると「人間への観察力」がちょっと足りないのかなあ、と思うことが結構ある。まあ、エンターテインメントノベルだから、人間ドラマとか人間心理だけを中心にするよな小説ではないかもしれないけど、それでも、やっぱり類型化されたような人間ばっかりだと、いくらなんでも、ペラペラな感じがして、面白くも何ともないわけで、もうちょっと面白そうな人間を書いて欲しいなと思うことがある。「生きているような人間」を書いてくれれば、感情移入もしやすいし、リアリティも出るのになあ、もったいないなあ、なんて思うことがよくあるのである。

実は、プロ作家の講師の人たちや生徒さんたちと話をしていて「やっぱ、プロは違うなあ」と思うところは、このあたりだったりする。どういうわけか、プロの作家さんたちは、人間観察力がおそろしいほど優れているところがある。一緒に飲んでいても、洞察力というか、それだけ人に対する観察力も鋭いし、好奇心も旺盛なのである。私は、大阪シナリオ学校の事務局で、シナリオとか演芸のコースも担当したことがあるので、たぶん百人以上の脚本家、映画監督、漫才作家、放送作家の話を聞いたことがあるが、「人間に対する好奇心だけは、人並み以上に持っている」人がかなり多いのは確かである。たぶん、職業柄、そういう習慣というか、体質になってしまったんだろうけど。作家体質とでも言うんだろうか。で、生徒さんは、このあたりの関心がちょっと低い人もいる。その差は、作品を見ると明らかに出てくるので、これから小説を書こうという人は、意識的にちょっと色んなタイプの人間を観察して、どんな行動をするのか、生活パターンや思考、趣味なんかをよく見ておいた方がいいんじゃないかと思う。電車の中で、ちょっと隣の人たちの会話を聞いてみるとか、そういうことも習慣化しておくと、何かの役にたつかもしれない。文章とか構成の技術ではないけど、こういうことも結構大切なのである。

ところで、昨日、レストランで働いていたことを思い出したのだが、こういう所で働いていると、けっこう面白いことが観察できる。ファミレスってのは、かなり幅広い人種がやってくる空間で、時間帯によっても、色々なシーンを見かけることがある。ファミレスやコンビニで働いた経験がある人の中には、私と同じような経験をしたことがあるかもしれないが、実は、レストランなどで働いていて、それなりに人間を観察するクセがある人なら、だいたい二回来た客はたいてい顔を覚えているものである。よく高級ホテルの従業員が数千人の顔と名前を覚えているというが、実際、レストランで働いていても、けっこう一人一人の客の顔を覚えているものである(レストランだと名前は知らないことも多いけど)。一回限りの客ならすぐ忘れるが、2回目には「あれ、また来たな」とすぐわかるし、ちょっとばかり印象的な客なら、連れの客とか、オーダー(何を食べたか)とか、いつ頃来たか、くらいはだいたい覚えている。アルバイトの中にも、客の顔をすぐ覚えられる人となかなか覚えない人がいるけど、たいていの人は、けっこう覚えられるものである。

だから、妙な組み合わせのグループが来店したりすると、すぐに「あれっ」とか気がつくものだし、店員というのは、他のテーブルに料理を運びながらも、あちこちのテーブルに視線をとばしているものである。その頃、こんなことがあった。ある日、夜の11時頃、若い男女とヤクザ風のオッサンの3人組が、一緒に店に入って来た時も、すぐに「なんか、ちょっと妙な組み合わせだな」と気がつくのである。カップルが一緒に来店するのはわかるが、あきらかにヤクザ風のオッサンである。オーダーを聞きに行くと、メニューも見ないでオッサンが「コーヒー3つや」と言い、これはただごとじゃないな、と思ったので、店員どうしで、目を離さないようにして、時々、周囲を歩いて、お冷やサービスなどしていたのだが、それによるとどうも、このカップルの乗っていた車がオッサンの車と接触事故を起こしたらしい。それで、オッサンが金をまきあげようとして、若い男女をおどしているのである。若い男性は、困った顔を浮かべ、ひたすら謝っている様子。

「うーん、一体、どうするのかなあ」と思って、それとなく見ていたら、ふと女性の方が立ち上がって、公衆電話から電話をした。「うーん、親でも呼び出して、お金でも持って来てもらうのかな」と思っていたら、わずか30分後くらいにドアをあけて入って来たのは、ちょっとハデな年配の女性で、いわゆる新地のママといった感じの化粧をした女性であった。彼女は、店に入るなり、席に着くと同時に「ねえ、ここ、アルコール置いてあるの?」と店員に言い、「ええっと、生ビールか瓶ビール。ウイスキーならミニボトルになりますけど」と言ったら、「じゃ、それ、とりあえず2〜3本持って来てちょうだい。早くね」と言ったのだった。それから、そのヤクザ風のオッサンにむかって「あっら〜、うちの娘がなんかご迷惑かけたみたいで、ホント、ごめんなさ〜い」と言い、それからアッという間にそのオッサンをベロベロに酔わせ、最後には「絶対、お店、来てちょうだいね〜。サービスするわ〜」と名刺を渡して、ニヤニヤ笑顔になってしまったオッサンを駐車場まで送り、若い2人を連れて帰って行ったのである。うーむ、やはり新地のママさんだったようだ。おそるべし、プロの技。

ランチは、サラリーマンや工事中の労働者。あるいは、テニススクール帰りのおばさまたち。女子高生たち、ファミリー客。あるいは、深夜は、別れ話をしているカップルがいるかと思うと、夜中の3時にタクシーでホステスを何人も連れて来て、ステーキを何枚も頼んで、売店でぬいぐるみ買い占める客がいたり、ホント、いろいろである。人間いろいろな人がいるから面白い。こんなふうに世の中にも色んな人がいるのだから、小説の中にもいろんな人がいると面白い。人間ってのは、こんなにバラエティがあって、ホント興味深い生き物なのである。

08/20/2005

いごごちのいい店、完璧な接客、おいしい小説

8月19日(金)
午前中、外出。昼は、北浜のイタリア料理店(ライオン橋の横)でパスタランチ。スープ、サラダ、生ハムとパプリカの冷パスタ、エスプレッソ付きで900円。なかなか美味。
午後から、小説講座の事務所で、事務作業。
夕方、来客。7時半に事務所を出て帰宅。すっかり直ったパソコンを使い、知り合いの人のブログで、「京橋ゴキパニック」というのを見て、家族でキャアキャア盛り上がる。
(町中でゴキブリが大発生した模様が、日記に「ビデオ動画」で掲載されていた。ちょっと面白い。リンクは張らないので、興味ある人は、わざわざ検索してたどり着いてみてね。でも責任は持たないけど)

ところで、私は若い頃、外食産業で正社員として働いていたことがある。今日、昼食を食べたレストランにいた年配の給仕係が、その時の店長によく似ていたので、ふとそれを思い出した。

私は、小説も、「サービス業なんやなあ」と思うことがよくある。お客を喜ばせる、常連客をもつ、常に新鮮なサービスを心がける、お客の期待を裏切らない……そんなことは、出版も外食産業もとてもよく似ているように思う。こうして時々、小説と外食を較べてしまうのは、過去にレストランで働いた経験があるからである。

私が勤めていたのは、ファミレスチェーン(最大手のS社)だったのだが、この店長の接客サービスは、ファミレスにはふさわしくないほど完璧なのだった。私は、大卒の新入社員(この会社の正社員は、全員、店長候補として、店舗に配属される)として入社して、この店長が直接トレーナーになった。普通は、店長が直接、新人トレーナーになることはないはずだったが、うわさによると、この店長の接客は「完璧」として有名だったので、「近畿でたった一人の女性社員」にわざわざトレーナーとしてつけたらしい。

私が入社した年、全国の正社員3000人ほどの中で、女性社員はまだ少なく、前の年に大卒ではたった一人だけ女性が入社し、私の同期も、300人いる中で、女性はたしか9人だった。当時は、深夜労働のあるファミレスは、女性が正社員として働くのは、まだ珍しかったのである。当時、近畿にも百数店舗あったのだが、たった一人の女性社員だった。だから、このたった一人の大卒の女性正社員は、アルバイトを養成するための「フロアトレーナー」として、さっさとモノにしたかったらしい(事実、1年後には、新店のオープンメンバーとして、アルバイトを数十人、養成することなった)。

そういうわけで、私は、半年間、この店長について、接客サービスを徹底的に叩き込まれたのだが、この人は、なかなか面白い人だった。背が高く、190センチ以上はあったと思うが、髪型はオールバックできちんとなでつけられており、黒い細ぶちの眼鏡をかけた細身で、しゃきしゃきとフロアを歩き、完璧な角度のお辞儀をする。どう見ても、ファミレスというより、高級ホテルという感じの男性であった。話し方は、ややハスキーなやわらかい声で、お客様に話しかける時も完璧な流暢な敬語である。だから、お客様の前では、一人称は、もちろん「わたくし」なのだが、控え室では、自分のことを『アタシ』という。

それまで私は、男性で自分のことを「アタシ」と言う人は、大学の近くにあったお好み屋のオッサンだけしか見たことがなかったので、最初は、「なんで、オネエ言葉なんだ?」と思ったのだが、よく話してみると、この人は、控え室でも絶対にくずれた話し方をするのがイヤなだけなのだった。この人は、店員しかいないバックヤードでも、「お客さま」は絶対に「お客さま」であって、たとえば「お客」とか「お客さん」と言うのでさえ、すごく怒る。レストランの店員というのは、けっこう常連客の情報を交換したりするものだが、そういう話をすること自体はサービスにも有益だったりするので止めはしないけど、悪口やうわさ話になると、とても強く叱っていた。

むろんフロアにいても、全部の席に目を光らせており、どのテーブルのグラスは水が減っているとか、料理の出るのが少し遅いとか、とにかくフロアサービスにかけて、あれほど熱心で、完璧にこなす人を見たことがない。どんなに料理をたくさん持っていても歩くスピードも早く、しかも上品だし、テーブルの皿をさげた後も美しく、テーブルに置いてある「つまようじ」が入っている紙ぶくろのしわまで、きちんと直してあるという具合である。苦情処理も大変うまかった。

モーニングから深夜5時まで、かなり売上げも高い店だったから、アルバイトの高校生が料理をすべらして落としたり、急にオーダーが重なって、料理ができるのが遅れたり(いくらなんでも、ハンバーグをいっぺんに30個も焼けないのである。でも実際に、少年野球チームがやってきて、そういうオーダーをしたことがある。どうも監督が「試合に勝ったら、おごってやる」と言ったらしい)、なんてことはけっこうあるのだが、この店長のすごいところは、そういう「苦情客」を、必ず「常連客」に変えてしまうというところである。実際、そういう例を何度も見たし、店長自身も「苦情は、チャンス」と言っていた。店長が言うには、「本当にどうしようもないという客は、苦情も言わずに去って行って、二度と来ないだけ」なのだそうで、「苦情を言う客は、ちゃんと対応さえすれば、必ずあとで『常連客』になる客」なんだそうだ。それが本当か、どうかわからないが、実際、かなりひどい苦情を言ったことがある客が、なぜか、その後も何度も来店するのを見たことがある。そういう人が何人もいたので、たぶん本当なのだろう。

ただ、この店長は、フロアばかりやってキッチンに入りたがらない人だったので、会社からはやや冷遇されていたのもあったようで、このあと辞めて、別の会社に移ってしまった。ファミレスは、会社によっては、「店長・チーフ制」といって、フロアの接客とキッチンの調理が、まったく分担になっているところもあるのだが、私が勤めていた会社では、正社員はどちらも統括すべきとされていた。ファミレスの正社員は、自らが直接サービスをするというよりは、アルバイトを使って、現場の指揮をするのが仕事である。

むろん現場を指揮するには、接客も調理もできないとダメである(むろん日に4時間とかしか働かないバイトに較べれば、正社員は、とんでもないほどの長時間労働だから、半年もすれば、アルバイトよりはうまくなる)。ファミレスは、一つの店で、多い店だと百人くらいのアルバイトやパートを常時抱えているし、高校生や大学生が多いので、「やっぱり社員は違うな」という実力を見せつけておかないと、なめられてしまうのである。ファミレスは、土日のディナータイムなどは、フロア、キッチンに総勢20名近くいる店員のうち、正社員はせいぜい1〜2名しかいないのだから、アルバイトにきちんと働いてもらえないとまずい。アルバイトは、正社員と違って、ダメなら辞めれば済むと思っているし、油断するとやっぱりサボる。だから、ちゃんと真面目に働いてもらうのには、動機づけなど色んな工夫が必要なのである。

ところで、この店長は、フロアのトレーナーとしても、なかなか優秀な人であった。のちに新店に転勤になった時に会ったHさんという店長も、かなり優秀な人だったが(この人は、今は管理職になっている)、ファミレスの「店長」として優秀かどうかは、ひとえに人材管理というか、このアルバイト教育の能力が重要なのである。私の場合、「1年後にフロアトレーナーになる」ということが決められていたので、最初からフロアサービスだけでなく、新人アルバイトの教育ができるようにトレーニングされたのだが、この接客サービスの教え方はちょっと面白くて、今もよく覚えている。

高校生の女の子がアルバイトとして入ってくると、まず制服に着替えさせて、鏡の前に立たせて、お辞儀の練習をさせる。実は、フロアの接客係の第一印象は、まず「お辞儀がきれいかどうか」なのである。ちょっとしたコツがあって、背筋をのばして、足を揃える。それから角度と笑顔である。で、それを鏡を見ながら、練習させるのだが、この店長は、まずここで、すごくうまくほめちぎる。
「フロアは舞台、あなたは女優。お客さまは、あなたの笑顔を待っているよ」
と、すっかりノセてしまうのである。女子高生だから、16歳とかそこらの子だが、だいたい普通の子というのは、日頃から、そんなにほめちぎられているわけではない。だから、親でもない大人から「ああ、かわいいね」「すごくいい笑顔だね」とノセられたら、これに抵抗できる女の子はまずほとんどいないのであった。

パートの主婦だって同じで、日頃、亭主が「キレイだ」などと言ってくれるわけではないから、すっかりノセられてその気になり、1週間もすれば、お客さまにとびきりの笑顔をふりまきながら、フロアを走り回るようになる。ファミレスは、あんまり店員に「客がつく」なんてことは少ないのだが、フロアの雰囲気がいいと確実に売上げはあがる。ファミレスの売上げは、どのみちメニューも同じので、ほとんど「立地」による差が大きいのだが、それでも優秀な店長がやってきただけで、フロアの雰囲気ががらっと変わって、売上げが2割あがるということもあったりする。

思うのだが、接客サービスが上達するためには、「人を喜ばせるのって、面白い」という体験ができるかどうか、なのかもしれない。うまい接客をすれば、お客は喜ぶし、それが実感できれば、やりがいも出る。そして、そのための苦労も惜しまなくなる。喜んで努力する。

だから、もしかすると、小説も、「人を面白がらせる」という体験を、ほんの少しずつでも重ねていければいいのかもしれないなあ。そしたら、どんな苦労をしても、面白いことを書いてみたくなる。自分が整えたお店(小説世界)にお客を招待し、おいしい料理(作品)で、人を面白がらせる。この面白さに味をしめたら、書くことがやめられなくなるのかもしれないな。

ま、私は、食べることも、読むことも好きなので、すてきなお店が増えることは、とっても楽しみである。

08/19/2005

小説を書くなら、体調コントロールも大事

8月18日(木)
終日、小説講座の事務所には入れず。

朝、6時頃、目が覚めるとクラクラめまいがする。頭がズキズキ。どうも夏バテらしい(昨夜はビールをコップ一杯飲んだだけ。断じて、二日酔いではないっ)。食欲もないので、朝食はバナナをやっと一本食べるのみ。吐き気と頭痛があんまりひどいので、ちょっと横になって頭痛薬を飲んで2時間ほど休む。

横になると、かなりましなので、どうも血圧が少し下がっているんじゃないかと思う。寝冷えなのかなあ。もともと極端な低血圧なので(なぜか家系的にみな血圧が低いのだ)、いつもより血圧が少し下がっただけで、けっこうめまいがする。でも、昼から、某専門学校の仕事があるので、無理矢理に出かけて、2時間ほど講義をする。でも、やや血圧が低かっただけのようで、夕方にはなんとか回復する。

ところで、小説を書くような人は、どういうわけか、「低血圧で、なかなか朝が起きられなくて……」と『夜型』の生徒さんがけっこういる。まあ、高血圧だと、なにかと健康上支障があるので血圧を下げる治療をする場合も多いが、低血圧は、よっぽどでないかぎり、治療もしてもらえないという不便な体質である。(まあ、治療法もほとんどないが)

しかし、世間の人に、血圧を聞いてみると、意外と、本当の意味での「低血圧」の人は少なかったりする。血圧を測定すると、上下の値が出ると思うが、低血圧というのは、下の値とかは低くても高くても関係なくて、上の値が80以下くらいの人を指す。だから、下の値だけがいくら低くてもそれは関係ないし、もし、上の値が100を越えていたりすると、低血圧ではない。血圧は、けっこう変動が激しいし、低血圧症かどうか調べるには、何度か測定する必要がある。そんなわけで、「私は、朝が弱いから低血圧かも」なんて言う人がいても、実際には、低血圧じゃない場合がけっこうある。なんとなく、イメージで「朝起きられない」と思い込んでいるらしいのである。
(血圧なんかは、今時、ちょっとした機械でも測定できるし、最近は、ちょっと大きな病院に行くと、待合室に自動の血圧測定器なんかが置いてあったりする。まあ、看護婦さんが測るよりは、器械だとややデータがばらつくけど、気になる人は、何度か計っておくといいかもしれない)

実際、「低血圧で、朝が起きられない」というのは、朝、たまたま体温が低下していたりして、血圧が何らかの事情でひどく低くなっているからで、低血圧かどうかは、ベッドの中で、目が覚めているか、ベッドの中でも眠いかの違いでもたぶんわかる。低血圧で起きられない場合は、ちゃんとはっきり目が覚めていても、立ちあがるとめまいがするのである。つまり、起き上がると血圧が足りないから、頭の方まで血がうまく運ばれて行かなくて、くらくらするのだ。だから、寝転んでいれば、心臓と同じ高さに頭があるので、ぜんぜん平気である。だから、低血圧の場合、ベッドの中ならはっきりと目が覚めているし、全然、眠くはないのである。ただ、立ち上がって、起き上がられないだけである。

だから、「ベッドの中で、眠くて、ぐずぐず起きられない」というのは、それは、たぶん低血圧のせいではなくて、単なる睡眠不足ではないかと思う。ちなみに、貧血と低血圧も、混同する人が多いようだが、これは、基本的には、全然違う症状である。貧血の場合は、たいていは、きちんと治療を受けた方がよいので、さっさと病院へ行くように。たぶん薬をもらえる。でも、貧血がなくて、ただの低血圧の場合は、たぶん医者に行っても、せいぜい「運動しなさい」と言われる場合が多い。この場合、激しい運動よりはウォーキングなどがよいらしい。低血圧症の治療というのは、あんまりないのである。まあ、冷え性だったりすると漢方があったりするけど。

でも、やっぱり、小説なんぞを書いている人は夜型の人が多いから、朝がなかなか起きられないという人も多いと思うので、長年にわたって、ひどい低血圧と「なかなか起きられない朝」と戦ってきた私から少しアドバイス。

まず、朝、すっきり起きるためには、一番大事なのは、その前の夜である。まず、頭が興奮した状態ではなかなか寝付けないから、頭を使う執筆活動なんかは、就寝前せめて1時間前(できれば2時間前)には止めた方がいい。ぎりぎりまで書くと、精神的に興奮したまま寝ることになるので、あんまりよくない。夜、風呂にはいってから寝るとか、酒を軽く飲んでから寝るとか、本をゆっくり読むとか、ちょっと照明を暗めにして、せめて1時間くらい、別のことをした方がよく眠れるのである。その間、できるだけ照明を暗めにするのがコツで、人間の身体は、けっこう照明の明るさで昼夜を判断しているらしく、ちゃんと眠るためには、できれば寝る前の1〜2時間は、部屋を暗くしておく。本を読む場合にも、手元だけ明るくして、あんまり興奮するような本は読まないようにする。さらに、できれば、その前に、体操とか少し軽い運動をするとより効果的に睡眠がとれる。

それから、朝は、できるかぎり早めに起きる。人よりも早めに起きる。私なんか、朝がめちゃくちゃ弱いので、いつも5時半に目覚ましをかけている。だって、もし「朝が弱いタイプ」なら、なおさら人より遅く起きてはいけないのである。もちろん、無理に起きても、なかなか目は覚めない。でも、これは仕方ない。だが、人間は、頭が起きてから、身体が目覚めるのではなくて、実際には、身体が先に目が覚めてから、頭が起きるものである。だから、とにかく身体を起こして、顔を洗うとか、何か飲み物を飲んだりして、とにかく胃に何か入れて、身体に「今は、目が覚めた状態」だという信号を送っておく。頭よりも、身体を目覚めさせるのがコツである。私のように低血圧がひどい人は、そんなことをすると、もしかすると、ものすごく吐き気がすると思うが、でも、とにかく身体を動かして、無理矢理でも体温を上げてしまわないと、いつまでたっても身体が起きてくれないのである。身体が目が覚めないと、頭も目が覚めない。だから、「朝食は、たとえ吐いても食え」。吐き気がしたり、食欲がなくても、たとえビスケット1枚、バナナ一本、カステラ1個(「朝からお菓子?」と思うだろうが、胃もなかなか動かないので、消化が良くて糖分があるものを食べておく方がいいのだ。糖分だけは確保しないと、ちゃんと頭が回転しない)

だから、低血圧なら、朝食を抜くなんてのは、余計にとんでもないのである。そんなことをすると、ただでさえ脳内の血流が悪いのに、すっかり脳ミソに必要な糖分が不足して、午前中、ずっとぼおーっとするハメになってしまう。そうなると、午前中の作業は、全部、ことごとく能率が悪くなる。しかし、実際には、朝型だろうが、夜型だろうが、人間というのは、目が覚めてから、だいたい3〜7時間くらいが能率のピークらしいのである。あとは、かなり能率が下がる。これは、いくら頭脳労働でも同じで、人間も所詮は動物の体を持っているのだから、仕方がない。だから、低血圧で、朝、無理矢理にでも身体を動かしておかないと、もし、そのまま目が覚めない状態で数時間過ごしてしまうと、夕方からようやく目が覚めた状態になる。しかし、夜になると、気温も下がるし、本来のピークは過ぎているので、結局、ほんの1〜2時間、長くもっても3〜4時間くらいしか使い物にならない。身体の方は、それでも動かせるのだが、(ふつう頭が多少眠っていても、身体は動かせる)頭脳労働というのは、けっこう一日で使えるピークが短い。まあ、私のやり方以外にも、いろんな方法があるとは思うけど、うちの小説講座の生徒さんたちのように、仕事や家庭を持ちながら、小説も書き続けるという目的があるなら、やっぱり色んな工夫は重要だよ、きっと。

もちろん、生徒さんの中にも「定年後だから時間はたっぷりあるよ」なんて人もいるし、「フリーターだから時間的な都合がつく」って人もいると思うけど、やっぱり長編を書きつづけるなんてのは、かなり重労働なので、自分で体調をコントロールすることはけっこう大事である。よく「作品を書き始めたけど、なかなか気力が続かないという人」もいるけれど、マラソンと同じで、「気力」や「根性」だけでは最後までもたない。書き続けるのも、けっこう体力がいるのである。頭脳労働で長時間にわたるのがわかっているのだから、できるだけ体調を整えて、ベストコンディションを保ち続けるというのも大事である。私の経験でも、コピーライターとして、いくらウンウン考えても、その脳ミソのコンディションが悪いと、後から見るとやっぱりダメなコピーだったりする。人間というのは、脳ミソだけで考えるわけではなくて、どうやら身体も使って考えるものらしい。「気力」も、「体力」があってこそである。

そりゃ、よほどの天才なら、多少、むちゃくちゃな生活をしていても書けるかもしれないが、スポーツ選手でも、イチローなんかは、天才だけど、自分のコンディションを保つための努力はむしろよほどしているはずだと思う。やっぱり同じ能力があっても、コンディションが悪ければ、能力を発揮できないのだから、できれば最後までバランスを保ちながら書けるように気をつけてほしいなあ。とくに「長編を書こう」と思っている人は、時間的にも体力的にも、割と無理をしがちなのだけど、最後まで書けるように、やっぱ、体調にも気をつけようね。

そうそう、みなさん、健康診断も、定期的に受けようね。なんだか、小説講座の生徒さんは、どうも健康診断を受けてない人の率が高いような気がするのだが、気のせいかなあ。そういや、あの先生も、あの先生も、何年も健康診断を受けてないと言ってたなあ。そんなに、自分の体力を過信しちゃダメよ。体調には気をつけて、みんな100歳まで書き続けてちょうだい。

08/18/2005

小説講座の事務所は、夏休み明けです

8月17日(水)
小説講座の事務所は、夏休み明けです。(でも、まだまだ休みボケ)

午前中、エル大阪にて教室代支払い。昼前から事務所にて、雑用。
郵便物が数件、メールなども数件。電話なども数件。細々とした雑用が多すぎるので、作品集制作などは手がつけられず。資料請求分の送付も数件。10月生の募集要項ができあがってないから、古い資料だけ。やることが多すぎて、休みボケの頭ではたいしてはかどらず。自宅にあった学校関係のデータも、かなりなくなってしまったから、色々とやることが多いんだけどなあ。結局、6時半に事務所を出て帰宅。

帰宅途中、強い夕立ちに会う。びしょびしょになってしまったけど、帰宅すると、めでたくパソコン(マック)が復活していた。わあーい。夫のおかげである。まあ、このもともとこのマシン(G4)は夫の所有物なのだが、先日、認識しなかった内蔵ハードディスクを店で交換して、なんとか復活できたらしい。ああ、たすかった。今、どうせOS9を使おうとすると、どっちみち中古になってしまうし、なんにせよ五千円ちょっとで復活してよかった。失われたデータはおしいけど、6割くらいはバックアップがあるし、まあ、どうせ使わないデータばかりである。メールやら、アドレスなんかも全部なくなってしまったけど、3月にアドレスだけはテキストデータで残してあったので、なんとかなるだろうし。どっちみち、私のノートパソコンも修理しなくてはいけないが、完全にウィンドウズだけでは、使えないファイルが多くなってしまうからなあ。まあ、うちは、まだLC630という古い機種も(子供たちがキッドピクスとシムシティをやるためだけに)まだ残っているんで、古いデータを見るだけならなんとかなるけど。

夕食は、庭でとれた野菜とチキンのカレー。小学2年生は、自分の好きな野菜を植えて、一学期の終わりにその植木鉢を親が懇談の時に持って帰ることになっていて、(双子なので2つも持って帰るのが大変)、うちの二人は、ナスと枝豆なのだったのだが、ナスはこれで何度も収穫していて、今日のカレーにも2個入れたが、枝豆は難しいなあ。実がやせていて、まだ一粒も食べられるものが収穫できてない。私も、枝豆を育てるのは、はじめてなので、ちょっとうまくアドバイスができない。たぶん栄養不足なんだろうなあ。同じマメでも、南京豆なんかはわりと簡単だったけどなあ。(南京豆は、枝が土にもぐっていって実をつけるんだよ。ちょっと面白いよ)。

今年はひまわりは何本も植えたけど、めずらしく朝顔を植えなかったので(毎年、めちゃくちゃいっぱい植えるんだけど)、毎朝、しげしげと庭をのぞく習慣がなくなったみたいで、さびしい気もするな。うちは、庭土の部分がほとんどないのだが(わずかな土の部分には、ひいらぎともみじが一本ずつ)、プランターはけっこう並んでいる(部屋の中も、窓側は観葉植物の鉢が50個くらいあるけど、これは全部、夫の所有物)。夏は、野菜がたくさんとれて嬉しい。子供の頃は、ぜんそくがあったので、ペットを飼えなかったせいか(金魚は飼ってたけど)、小学生の頃から、こづかいをはたいて、よく花の種とか、野菜の種とか買ってたなあ。そういや、生まれて初めて自分のこづかいで買って、植えて、食べたのは二十日大根(ラディッシュ)だったなあ。日ごろ、食べなれないものだったから、うまくできたかどうか、さっぱりわからんかったけど、確かサラダにしたんだった。あれから、数十年、毎年、何かしら植えているんだけど、あいかわらず、自分で作った野菜を食べるととっても嬉しい。今年は、忙しいので、夏野菜は、トマトとナスとキュウリくらい。単純なヤツばかりだけど、けっこう嬉しい。もう少し郊外に住んでれば、いろいろ植えられるんだろうけどね。

うちは、最寄り駅が「鶴見緑地駅」なので、駅前にも、花の寄せ植えとかがいっぱいあって、近所の家も、けっこう植木がすばらしかったりする家が割と多い気がする。庭がぜんぜんないような都会の3階建て住宅でも、うまく工夫していて、花で飾っている家などをよく見かける。それに比べると、うちは子供達がめちゃくちゃ好き勝手に植えるし、私も好きなものを突然買って来てしまうタイプなので、見栄えは悪いんだけど。でも、やっぱり色々な植木鉢が並んでいる家を見るのは大好き。でも、よく年配の人が世話をしていることが多くて、そういう人が入院してしまったりすると、いくら家の人が水だけやっていても、その人がいなくなったのがすぐわかる。植木がいっせいに枯れてきてしまったりするから。以前、うちの近くにも、とっても働き者の明るいおばあさんが住んでいて、それはそれはすばらしい庭があった。その人が入院した時、近所のばあちゃん連合が交代で、水をやったりしていたのだが、やはり限界があって、その人がとうとう亡くなってしまった頃、庭に植えられていた植木がたくさん枯れてしまって、とってもせつなかったものである。

年配の人の中には、ペットとか庭木とか、自分が亡くなったらかわいそうだから、と言って、なるべく飼わないという人もいるそうだ。そういう考え方も確かにあるだろうけど、でも、もし残り少ない命なんだとしたら、それなりに一緒に生きていく命があった方がいいような気もするな。

そのおばあさんの庭の木も、あれから十年くらい、ほとんど家の人が世話をしないみたいで、今では大部分は枯れてしまったけど、それでも、どういうわけか、ボロボロになりながらも、今でもけっこう何本も生き残っていて、毎年、バラもあじさいも花をつけ、みかんも小さい実だけど毎年、しっかり実をつけている。それは、たぶん、あの人がそれくらい愛情をこめて、きちんとしっかり植え付けたせいじゃないか、と私は思っているのだが。

そういうわけで、四季折々、花が咲くたびに、私は、あのおばあさんの笑顔をちゃんと思い出せるんだから、たぶんその花はきっとそういう意味があるんだろう。というわけで、私は、あいかわらず、いろんな植物を買って来ては、しょっちゅう枯らしてしまっているのだが、それも、ま、何かの意味があるってことで……(言い訳)。

ところで、夜、ある人の自伝(自費出版の本)を読んでいたら、子供の頃の思い出として、70年前の寝屋川の描写がいきいきと描かれていて、非常に参考になった。すでに亡くなった人の原稿を遺族が出版されたようだが、年寄りの話は、聞ける間に聞いておいた方がよいぞ。

08/17/2005

小説とは関係のない休日(ロープウェーは、箱根か六甲か)

8月16日(火)
小説講座の事務所は、16日までお休みです。

盆休み、最後の休日。
つぶれたままのパソコン2台をほったらかして、子供たちを連れて、六甲山へ。
なぜ六甲かというと、ケーブルカーとロープウェイに乗るためなのだった。実は、東京に一週間ほど滞在していた間、日に何回か、写真つきケータイメールを家で待つ子供たちに送っていたのだが、途中、日曜日だけ(つまり8月7日)丸一日、アポもなく、とくに何も用事がなかった日があったので、箱根にぶらぶらと一人で行ったのである。

で、箱根での写真を送ったら、子供たちは生まれてから一度も、ケーブルカーもロープウェーも見たことがなかったのである。帰宅してから、
「ケーブルカーは、中が階段みたいになってるナナメの電車で、ロープウェーは、遊園地の観覧車みたいなヤツが、山にひっかかってるロープの間を行ったり来たりするねん」
と説明したのだが、どうも説明がヘタなのか、子供たちの発想が豊かすぎるのか、とんもない想像ばかりするので、実物を見せるべく六甲へ向かったのである。大阪生まれ、大阪育ちの私は、どちらも「やっぱ、六甲山でしょう」と考えたのであった。

ところで、なぜブラブラ一人で「箱根」なんかに行ったのかというと、本当は、遠出する予定があったのだが、その朝、ホテルで目が覚めたら、すでに9時で(ホントは7時には出発しなくてはいけなかったのだ)、なんかくやしいから、手頃な観光地に日帰りで行っただけである。まあ、日光やら鎌倉やら横浜やらは、つい最近も行ったけど、箱根は20年前に一度行ったきりだったのである。

たぶん東京圏の人なら、箱根なんか行き飽きてるんだろうが、私には箱根はめずらしいのである。よく新幹線で東京へ行く時なんかも、半日ほど時間があれば、小田原で降りて、箱根に寄って行こうかなという気もあったりするのだが、面倒くさいし、なかなか機会がないのである。しかし、箱根は、10時に新宿から電車に乗っても、小田急と登山鉄道、ロープウェーを乗り継げば、ほとんど山を歩かずに2時間半もあれば、湯気が立つ山の上で「黒玉子」が食えるというお手軽な場所であった。ホント近いなあ。なんてお手軽な観光地。お手頃な火山。なぜか、外国人が多かったが。みんな、もくもくと黒玉子のカラをむいて食べているのが笑える。新宿から箱根フリー切符を使えば、湖で遊覧船にも乗れて便利(私は、なにせ10時に出発したので、箱根街道まで歩く元気はなかったが)。

近畿圏は、火山らしい火山がほとんどないので、ちょっとうらやましい気もするな。しかし、一人で6個入りの黒玉子を買ったら(バラでは売ってないのである)、翌日まで食べないといけないので、けっこう大変だったけど(でも、しっかり食った)。

というわけで、本日は、六甲山である。阪急六甲駅まで行き、バスに乗ってケーブル下の駅へ。
むろんケーブルカーも初めてだった子供たちは、レトロデザインにも大喜び。ところが、問題発生。ロープウェーがないのである。本日は、ハイキングではなくて、ただロープウェーを乗り継いで、有馬温泉の方まで出ようと思っていたのだが、その表六甲から六甲山頂までのロープウェイは運転休止になっていたのである。ええーっ。山頂から有馬温泉まではまだ運転しているらしいが、そこまではバスで行かないといけないらしい。うーむ、いつから? 駅にあったパンフレットを見たら、平成16年12月に休止になってしまったらしい。がっくし。

しかし、持って行った地図には、しっかりロープウェイが載ってるのになあ。まだ新しい地図なのになあ。そういや、地図学者の清水先生が、「地図というのは、生鮮食品と同じ。どんなに新しい地図でも、作った途端にどんどん古くなる」とおっしゃってましたが、まさにその通り。ちなみに、先生が言うには「決して古くならない地図は、『古地図』だけ」なんだそうです。いや、普通の人は、たぶん古地図なんか買いませんが。

しかし、このあたりの山にもよく来てたような気がしてたのだが、よく考えたら、福知山とか三田とか芦屋とか、そういや、六甲山は数十年ぶりかも。いや、車では来たかなあ。やっぱ、みんな車で来るから、ケーブルカーとかロープウエーとか、乗る人が減ってるのかなあ。六甲って、ホント、町に近すぎるからなあ。車で来る人が多いよな。しかし、箱根じゃあ、山頂から湖までのロープウェーには、40分待ちの長い列があったんだけどな。

しかたないので、山頂までバスで行くか、歩くかしようと思ったのだが、双子の娘のうち、姉はバス酔いするからバスに乗るのはイヤと言い出し、妹の方は、虫が嫌いで服が汚れるのも嫌いだから、山なんか歩くのはイヤと言う。一卵性のはずなのに性格の違いすぎる二人。六甲山は、標高800Mくらいだが、ケーブルカーで上まで上がってしまえば、登りもほとんどなくて、お子様向きのハイキング道なんだけどなあ。

で、話し合った結果、結局、六甲山牧場に行くことにして、有馬温泉に行くのはあきらめる。まあ、ハイキングもしないで、温泉にだけ入るってのもどうかと思うし。で、牧場の帰りに摩耶のケーブルカーとロープウェーを使うことにする。牧場までは、バスを使わず、バス道路を歩くことに。途中、六甲山自然保護センターのところで、早めの昼食。しかし、たった4キロ歩くだけなのに、娘たちは、「しんどい。足が痛い」とブツブツ。一方、山登りがしたくてたまらない長男は、「ああ、山道が歩きたい」とブツブツ。ややこしい子供たちである。

そんなガキどもは、牧場で、放し飼いの羊たちの間に放し飼い。「六甲山牧場と言えば、やっぱ、ソフトクリームだわね」と、1個350円もするソフトクリーム(チーズ味で、一応、名物なのである)を3人の子供たちにも奮発して買ってやったのだが、双子は「まずい」とお口にあわなかったようで、私は両手で、溶けかけのソフトを2個食べるはめに。おいしいので私は好きなのだが、たいした運動もしてないのに、しっかり700円分、身についた。とくにお腹のあたりに。

そういうわけで、5時頃、摩耶のケーブルカーとロープウェーに乗り、バスに乗りついで三宮へ。しかし、子供連れでは、おしゃれな神戸ステーキも食えず、三宮のマクドナルドのハッピーセット「おじゃる丸」のおもちゃで我慢(ツッキーが光って走るのよ)。阪急電車と大阪市バスを乗り継いで、9時頃に帰宅。大阪駅のイカリで買ったビール(最近、ビールにはまっている。東京では多摩ビールを飲んでみたけど)とお寿司が夜食。

盆休み最後の日は、こうして終わったのであった。

08/16/2005

小説とは関係のない休日(パソコン修理中)

8月15日(月)
小説講座の事務所は、8月16日(火)までお休みです。

お仕事は、すっかりお休み。
盆休みだから、すっかり主婦モードの私。午前中は、家事いろいろ。カメとキリギリスとグッピーは、朝から食欲もりもり。キリギリスは、7月に鶴見緑地でとってきたオスだが、毎日、いい声で鳴くのである。さて、子供たちは、義母にお泊り。午前中は、雑用をしてから、少しお勉強。某レポートのため、大阪周辺の古墳の分布図を作成。大阪市内にも、生野区に前方後円墳があるらしいけど、みなさん行った事ある?(御勝山古墳。ま、半分壊されているらしいが)、あのあたりは、何度も通りかかったはずなのに、まだ一度も行った事がないなあ。

長年、大阪に住みながら、けっこう行ったことがないところもいっぱいあるなあ。いつも時間があったら、いろいろ行きたいなとは思っているんだけども。そういえば、大阪にある遺跡といえば、小説講座の教室として、いつも使っているエル大阪の南館にも、豊臣時代の大阪城の石垣が残っているらしいけど、これも見たいなと思いつつ、まだ見たことがないわ。しかし、大阪って、やっぱ、遺跡がいっぱいあるのに、ホントあんまり残らん町だなあ。大阪城も、石山本願寺も、難波京も、古墳も、縄文遺跡も、全部、積み重なってだいたい同じあたりにあるから、しょうがないよなあ。長い年月、戦争も水害もいっぱいあったわけだし。本当は、日本書紀の時代から、古いものもいっぱいあって、ホントに古い古い町なのだが、いつも新しくなっていくのだなあ。生駒山麓も、日本の新興宗教の八割くらいは、関わりがあるといわれているようなヘンな山らしいんですがね。まあ、そこが面白いところでもあるけど。

昼からハードディスクを購入して、パソコン修理。しかし、せっかく日本橋まで行って買ってきた内蔵ハードディスク(5500円)を取り付けても、認識せず。うーん。しかも、さらに外付けのハードディスクまで認識しなくなったよ~ん。外付けから立ち上げたら動作していたのに、そっちも動かなくなりましたわ。どうしたらいいのだあ。うう、もうあかん。めげた。

08/15/2005

小説とは関係のない休日(お盆、田舎の青春、都会の青春)

8月14日(日)
小説講座の事務所は、16日までお休みです。

休日中。朝から義母の家へ。今年1月に亡くなった義父のお経をあげにいく。道路や近所のスーパーも、なんだか静か。日頃の日曜日にくらべると、どこか人が少ないような感じ。ここは市内だから、帰省している人も多いのだろうなあ。

義母の家に、未整理の写真がたくさんあり、お坊さんが帰った後、どうせ暇なお盆だからと少し整理してみる。義母は、大阪の生まれで、小学校入学までは此花区にいたらしいが、戦争中に福井に移転して、中学卒業後、また大阪で看護学校へ通ったらしい。未整理の写真の山は、福井の実家をとりつぶして、整理する時にもらってきたものらしい。義母の実家だから、うちの子供たちから見ると、ひいばあちゃんの家である。義母は3人兄妹だったそうだが、それぞれの親戚から送られて来た写真が無造作に封筒につっこんである。昭和初期の写真がたくさん。裏書きがない写真が多く、ほとんど未整理である。まあ、ほとんど人物写真だから、なんとなく推定はできるので、それなりに整理はつく。義母の小さい頃の写真は、やはり此花区らしく、材木置き場らしい写真や渡し船でわたった淀川の堤防らしい写真がある。義母のおじは、大阪鉄道学校に通っていたらしい。(現在の大阪産業大学だそうだ)当時の卒業アルバムが残っていた。戦時中なので、鉄道学校というより、軍事色バリバリの士官学校みたいな卒業アルバムである。修学旅行は、日光、鎌倉、靖国神社。食堂風景とか、けっこう豪華である。この人は戦時中も陸軍で下士官だったそうだが、「戦争に行ったのに、ぶっとり太って帰って来た」人らしい。他の親戚は、皆げっそりやせて帰って来たのだから、そりゃ目立つだろう。戦後も、大阪で公務員のエライさんとして、ぶいぶい言わしてたらしい。老後もワンマンで有名だったそうだ。といっても、その人も20年ほど前に亡くなっているはずだが、成績表まではさんであった。それを見たら、昭和10年の成績表の席次は、43人中5位であった。卒業アルバムに載っている写真は、けっこうやさしそうな若者だったが。

しかし、この頃は、都会と田舎の生活の差はホント激しい。うちの父は、岡山の津山出身で田舎育ちだったが、亡くなった義父は大阪出身で、疎開先でえらく苦労した人である。たったの1歳違いだが、当時の都会と田舎の格差を見るようで、なかなか興味深い。たしか結婚する前に、お互いの実家が近いので、一度食事でも一緒に、ということになり、京橋のあたりで食事をしたのだが、その時、義父が学童疎開中の話をし、「毎日、イモばかり食わされて」という苦労話をしたのだが、その帰りしな、父が「でも、あの頃は、あんなもんやったけどなあ」と言っていた覚えがある。

つまり、都会育ちの義父は、戦争中、美しい町が破壊されて、疎開先でイモ汁を食べさせられたのがよほど衝撃的だったらしいのだが、田舎育ちの父は、そういう体験は全然ないらしい。とくに「食べ物」に関しては、どうも格差が大きく、共感もできないらしい。というか、田舎というのは爆撃もないが、もともと、さほどいいものも食ってなかったせいもある。田舎では、戦争中も粗食だが、実は、戦後も戦前もかなり粗食である。だから、戦争中だからといって、さほど飢えた覚えもない。田舎だから、確かに食べものには根本的な苦労はないと思うが、これは、たぶんずっと粗食だっただけじゃないだろうか。確かに白い米は食べてなかったらしいが、どっちみち戦前も食べてなかったらしいし、どっちみちイモばかり。まあ、山でスズメか、ウサギをとってきて食ってたらしいから、まだ都会よりは豊かかもしれないが。
(戦後だと思うが、ウサギは太らせてから、山を越えてわざわざ売りに行ったりしてたそうだ。現金収入がないから、こづかい稼ぎである)

うちの母の田舎でも、戦争中は「あの時だけは、日頃、いつも偉そうにしていた都会モンが、戦争中だけは頭を下げて、食べ物を交換に来た」と、近所の人たちが喜んでいたらしい。「おかげで、見たこともないようなきれいな反物が手に入った」と見せられたそうで、まあ、それくらい田舎と都会の格差はけっこう激しかったみたいである。まあ、こうなると、それはそのまま「金持ち」と「貧乏人」の違いかもしれないけどなあ。

そんなわけで、「疎開先では、粗末な、臭いもんばかり食べさせられて」という都会育ちの義父の話にでてくる食事は、田舎育ちの実父にしたら、「それくらいなら、まあまあ、いい食事なのに」という思ったのである。ちなみに、私が小さい頃でも、両親の田舎に行くと、最初の日は豪華な食事だが、2日目からはかなり粗食だったな。さすがに、御飯は白い米なのだが、毎日、同じ食事であった。今はともかく、田舎では晩御飯のメニューに悩む主婦はあまりいない。父の実家から最寄りの店までは、何キロも離れている。たしか、母の実家でも、夏は、ごはんとナスの冷やし汁、コロッケまたは煮物(コロッケは、わざわざ船で町から買って来たものなので、けっこうごちそうなのである)。自分の畑でとれたものを食べるわけだから、作物はとれる時にとると、毎日同じものがとれる。農作業で主婦もみんな忙しいから、食事は毎日同じメニューが続くのが普通である。ちなみに、父は、中学になるまでワラぞうりしか履いたことがなく、その兄も、15才で生まれてはじめて機関車を見て、おしっこをちびったという田舎者である(その後、この叔父は、国鉄職員になったのだが)。父の村には、一台のテレビもなかったので、父がテレビを見たのは、大阪に出て来てからである。

今でも、母は、瀬戸内海の島育ちだから、コロッケ、からあげがごちそうだと思っているらしく、父は山奥の育ちだから、魚、とくに刺身がごちそうだと信じている。まあ、うちの両親は、結婚前のデートで、せっかくなので「コーラ」というものを買ってみたそうなのだが(当時、住み込みで給料が1万円もなかったらしいので、80円かそこらのコーラは、たいへん高価である。今でいうと「千円」くらいか)「あんまり薬くさくてマズイから、もったいないけど飲めなかったから捨てた」というほどの田舎者である。その頃、義父は、ダンスホールでブイブイ言わしていたシティボーイ。そんな彼らの孫は、「お盆だからね」と義母が揃えたごちそうを腹いっぱい食って、たまごっちに夢中である。

ま、明日は戦後60年。それぞれの年月が重なって、命はつながってる。


08/14/2005

小説とは関係のない休日(お盆の準備編)

8月13日(土)
小説講座の事務所は、8月16日までお休みです。

目がさめたら、パソコンが直ってたらいいなあ、と思いつつ、やっぱりクラッシュしたままのパソコンをかかえた朝である。
ああ、「天災は忘れた時にやってくる」。みなさん慰めてくれてありがとう。

とりあえず、ラップトップ(マックのG4)の方は、内蔵ハードディスクを買って来て、取り替えることにするが、お盆真っ最中に子供達をほったらかして、買いに行くわけにもいかず。

さて、母親が東京に一週間も出かけていて、子供達は何をやっていたのだろうか。おそろしくて、まだ見ていなかったのだが、本日、子供達を集めて提出させる。やっぱり、絵日記は、まったくの白紙……。宿題も……。うーん、予想はしていたが、母親がいない間、ちょっとでも宿題をしていたのは、双子のうちの一人だけ。(妹の方)。しかも、その一人の宿題をパラパラとめくったら、全問不正解であることがわかった……。たとえば、このページ、32問、全部、間違ってるんですけど……。ほんまに全部。
はああ、どうやら彼女は、繰り下がりのある3桁の引き算ができないらしい。うーん。

私自身は、小学校の頃から算数だけは得意だったのだが、なぜわからないのかが、さっぱりわからないぞ。とりあえず、長男も成績は悪いが、双子の妹たちも成績はかなり悪い。夏休みに入る前の懇談でびっしり怒られたのは母親の私なのである。
「お母さん、夏休み中になんとかしてくださいね! 漢字と計算がわからないとこの先も大変ですよ!」
うわあ。また先生に怒られるわ。長男の時も、毎回、懇談のたびに
「忘れものも多すぎます。お母さんがちゃんと確認して、みてやってくれないと困りますよ」と、がみがみ怒られて、懇談に行くのがいやでいやで、
「ああ、ママ、懇談に行くのいややなあ。また先生に怒られるもん。あの先生、怖いもんなあ」と息子にいやみを言ったら、
「あ、ほんなら、ぼく、教室の外で待っとったろか。ぼく、毎日怒られてるから、あの先生、もう全然怖くないねん。ママもがんばりや」
などと励まされたものであった。ほんま、誰のせいやと思っとんねん。

しかし、息子の時は、一人だったからいいけど、3人分の懇談で、3回も怒られるのは、さすがに気が重いもんなあ。

ってわけで、とりあえず、怒鳴り散らして、宿題だけは泣きながらやり直させる。娘たちの算数は、ほとんど全滅だった。姉のほうは、漢字も半分も覚えてないらしい。しかし、こんな簡単な問題もわからないとは……。息子もあほだが、あれでも、まだましだったんだなあ。でも、無理矢理、勉強させても、1時間しかもたない。遊びなら何時間でも遊べるくせになあ。小学6年にもなって、公園の砂場で3時間も遊べる集中力を、ちょっとは勉強にも使わんかい!
夕方には、子供たちは宿題をほったらかして、義母の家に泊まりに行く。
夏休みは、親にとってはけっこう長い。まだまだ続くのである。

08/13/2005

ピンチ! パソコンも夏バテ!?

8月12日(金)
夏期休業中の出勤日。
明日13日~16日まで、小説講座の事務所はお休みです。

午後から出勤。郵便物整理、資料発送、メール処理など雑用いろいろ。
15日までの支払いなど。

8時ごろまでごちゃごちゃと事務作業。明日から、事務所のある大阪NPOプラザ全体が完全休館なので、ご近所のブースもあんまり人がいない。あいかわらず、「あすなろ」のメンバーさんたちだけは忙しそうだけど。医療系は、盆休みとか関係ないのかなあ。

うちは、夫の実家も自転車で10分という近さなので、盆休みの帰省とかの苦労はないから、盆休みはいつものんびりしてる。わざわざ混んでる観光地に行く気力も金もないし、大阪の市内も、静かだしね。

ところが、帰宅後、大事件発生。
自宅のパソコンが壊れた~。スイッチを入れても、システムを読みにいかない。どうも、内蔵のハードディスクがやられたようだ。外付けのハードディスクからなら、なんとか立ち上がるのだが、内蔵のハードディスクが全然読めない。どうやら本体はたぶん大丈夫なんだろうけど、内蔵のハードディスクはやられたらしい。うええ、バックアップしてないデータもけっこうあったのだ~。ここ数ヶ月分の写真も入れたばっかりで、まだCDに落としてないのに~。どええ。まあ、3月に全面的なバックアップとってあるので、そこまでのデータは問題ないのだが、それにしてもひどいぞ。たてつづけじゃないか。

だいたい、7月にノートパソコンがダメになったばかりで、まだ代替機を買ってないのだぞ。CD-ROMからソフトを読み込んだので、一応、外付けのハードディスクを使えば、なんとかメールくらいは確認できるようにはなったのだが、なんという不自由な状態。

しかし、7月につぶれたノートパソコン(iBook)も、6月に3年間保障が切れたばっかりだったし、今回やられたマシン(G4)も、7月にちょうど5年間保障が切れたところ。どういうこっちゃ~。まあ、どっちみち性能の問題もあるから、保障期間が切れるまでトラブルなしで使えれたんならまだよし、という人もいるけど、こんなにダブルでやられるとは思ってなかったから困るんだよなあ。それに、今はもうOSXしか使えないマシンばっかりだから、当分は買い換えたいという気が全然なかったのになあ。

そりゃ、iPodとかあれば別だろうけどねえ。もうマックはやめようかなあ。ウィンドウズなら、カシミールとか使えるから便利だしなあ。でも、事務所のマシンは、マックにしちゃったしねえ。やっぱ、あれもウィンドウズにしとけばよかったなあ。

ま、どっちみち、しばらくは、近くの実家のマシンを借りて、ウィンドウズユーザーとなるしかないのだった。しかし、私の大事なデータが全部ボツ。数ヶ月分。一応、半分くらいはなんだかんだで保存もしてあるけど、あとはダメ……。そら、ちゃんとバックアップとってない私が悪いのだけど、まさか2台ともやられるとは思わなかったよ~。くすんくすん。

というわけで、せっせと書いた小説が一夜にしてなくなってしまうこともあるのだから、皆さん、バックアップはくれぐれもマメにとろうね。

08/11/2005

小説とは関係のない休日(やっと大阪に帰りましたよ~)

8月11日(木)
小説講座の事務所は、8月16日まで夏期休暇です。

本日、大阪に戻りました。いきなり仕事の山が目の前に……。でも、今日はさすがに疲れているのと、家事の山もあるので、仕事はお休みして、そのまま帰宅。

自宅でいろいろ。
夕方から、近くの図書館へ。東京の図書館には、大阪の資料はほとんどなかったんで。近所の図書館には山ほどあるけどね。あ、これは仕事じゃなくて、色々と研究なんですけど、まあ、東京にはほんとに資料ありませんでしたわ。あたりまえやけど。

あ、ついでに、この一週間、毎晩、図書館でごちゃごちゃやってたことなんですが、それは「寝屋川」についてなんですよね。まあ、どっちかというと、私は地形(地質とかプレートテクトニクスとか)の方が好きなんですが、最近、水文学(みずぶんがく、ではなくて、すいもんがく)も、けっこう楽しいなあ、なんて思ってしまいまして。

その寝屋川水系、一昨日、水文学の先生と話をしてたんですが、今日、あらためて資料をごそごそ見ていたら、ほんと、変わった川なんですよ。
あ、大阪に詳しくない人も多いかもしれませんが、寝屋川水系というのは、淀川と大和川にはさまれたところです。だいたい大阪の東側(淀川と大和川の間)の寝屋川、第二寝屋川とか、古川とかのあたりでして。寝屋川は、淀川から分かれて、生駒のふもとを走って、京橋で大川に合流します。第二寝屋川は、むかしの大和川だったところを走っている川です。まあ、このへんは、大阪の中でももっとも水質の悪い川です。大阪の川というと、大和川の水質が悪いのがとっても有名ですが、あれは一級河川で全国1,2を争っているわけでして、ほんとは、寝屋川に比べればずっときれい。寝屋川ってのは、とっても可愛そうな川でして、城北運河とか、大川なんかは、なるべく寝屋川の汚い水が入らないように水門で調節して、水が多いときにしか水門を開けないんですよね。でも、なぜか、大阪の水質浄化計画では、ランクがかなり低い(つまり予算がついてないってことです)
で、べっとりどす黒くにごっていて、ほんとに臭い。

で、両岸がものすごいコンクリート堤防になってまして、全国の河川といわず、世界中の河川を見てきたこの先生でさえも、「あの風景はすごいからなあ」といってたくらい、悲惨な川なんですね。

ところが、この寝屋川も江戸時代は、もちろん船が通ってまして、「野崎まいり」というのが大坂商人の間で流行ってたんですよ。で、私は、「現代の野崎まいりは、はたして可能かどうか」というテーマで、ごちゃごちゃ調べてみまして、水質の変動とか、河岸とか、排水の問題とか、親水空間とか。大阪の川の資料は、かなりいっぱいそろってまして、(たとえば「大阪の川」って本なら、堤防の土木データまでまとめて記載されてて便利)、ただ今は、まだ文献収集とかデータ分析だけなんですが、そのうち、フィールドもやらないとなあ。ただ、用水路の分布図とか、けっこう寝屋川水系って、意外と範囲広くて大変だろうなあ。淀川から大和川、生駒をはさむ全部の地域だから、大阪市でも生野とか、東住吉とか、守口市、四条畷市、門真市、東大阪市…。

とくに、このあたりは、まだけっこう用水路とか残しながら宅地化が進んでいるので、たぶん実際、何度も歩かないとダメだろうなあ。ってことで、たぶんあと数年くらいは当然かかりそうなテーマだよなあ。あ、大阪東部にお住まいの人で、河川調査をたまには手伝ってもいいよって人は、ご協力ください。ちょっとメジャーの端っこを持っててくれるくらいでいいです。ま、たぶん秋頃に、ちょっぴっと調査やりますんで。

……って、まだ仕事モードではなく、お勉強モードのままの私。
(小説に関係のない話ですみません~)

あ、明日12日のみ、小説講座の事務所でお仕事の予定です。(13日~16日は、建物全体が閉まってますので、仕事はできません)。なにか連絡があれば、明日の午後のみ、事務所にいます。

東京での最後の夜は、韓国風冷麺

8月10日(水)
小説講座の事務所は、8月16日までお休みです。

8月11日までは、東京です。ホテル暮らしも、一週間。
まあ、朝、7時に出かけて、夜の11時頃に戻る生活なので、ホテルの部屋にはほとんどおりませんけども。

今回は、飲みにも行かず、ほぼ毎日、夕方6時から10時まで図書館におりましたので、東京の夜を楽しんでいたんじゃないよん。
ところで、ホテル暮らしだと肩が凝るとか、枕が変わって寝れないという人も多いようですが、私は平気。というか、主婦ですからねえ。家事をしなくていい、うるさい子供達に起こされなくてもいい、ってのが一番らくですわ。いや、体力的にはホテルの方がホント楽ですな。掃除も、炊事もせんでええしねえ。今回は、神田のホテルでしたが、駅前に深夜まで開いているところもたくさんありますし。夏、東京に来ると、私は食事は、けっこうそば屋とかになることが多いですなあ。でも、東京は、やっぱりそば屋の偏差値が高い気がするんですけど。安いお店でも、そばはけっこういけます。まあ、私の場合、そばは夏に限りますけどね。

しかし、今回は、あまりにも忙しくて飲みに行かなかったので、外食費はほとんどかかりませんでした。実際、それどころではなかったんだけど。

あ、そういえば、先週の金曜日、ぶろぐを見てメールくれたSさんとランチをしましたが。あれが唯一の楽しい食事だったわ。小説を書いてる双子のママさんでしたよ。かっこいいワーキングウーマンです。飯田橋の近くおしゃれなお店でしたね。お堀に浮かんだレストラン。バタバタしてたので、ゆっくり話せませんでしたけど、忙しい毎日なのに、がんばって小説書いてるそうですよ。待ち合わせに遅れてしまったのですが、その間にもノートにペンを走らせてました。すごいね。ランチもおいしかったですよ。サラダ、ドリンクフリーで、グリーンカレーのランチが千円。おしゃれなお店だし、かなりお得かも。Sさんありがとう~。

さて、そういうわけで、明日には帰宅します。

08/10/2005

書くにもほどがある…

8月9日(火)
小説講座の事務所は、8月4日(木)〜8月16日(火)の間、お休みです。

またまた、夏休み特別企画シリーズだよ〜っ。
……といいたいところだけど、さすがにそろそろネタがつきてきたわ。
(このブログは、諸事情により、本日の分までは一週間前に打ち込んで、毎日自動更新されています)

というわけで、本日は、夏休み企画はお休み。また、明日。

08/09/2005

言葉では言いつくせない美人を言いつくせ

8月8日(月)
小説講座の事務所は、8月4日(木)〜8月16日(火)の間、お休みです。

夏休み特別企画シリーズ〜っ
今日は、文章をちょっと書き換えしてみよう。文章表現で悩んでいる人も、ちょっと楽しみながら、考えてみてね。
で、文章ってのは、色々、書き直しができるんだよね〜。広告コピーなんかだと、短い言葉をどうすれば効果的になるか、色々書き換えたりするんだよね。
では、せっかくだから「美女」を考えてみよう。とにかくすごい美女を思い浮かべてみてね。
娯楽小説だから、美男美女が出てきた方が楽しいかもよ。

もとの文章は、コレ。
「彼女は、とても美人だ」
これを書き換えてみようかな。まずは単純な書き換えから。

<とっても美人>
彼女は、かなり美人だ。
彼女は、すごく美人だ。
彼女は、すばらしい美人だ。
彼女は、めちゃくちゃ美人だ。
彼女は、ごっつ、美人だ。
彼女は、極めて美人だ。

<さらに美女だ>
彼女は、驚くほど美女だ。
彼女は、素敵な美女だ。
彼女は、一番の美女だ。
彼女は、おそろしいほどの美女だ。
彼女は、まぶしいほどの美女だ。
彼女は、輝くほどの美女だ。
彼女は、魅惑的な美女だ。
彼女は、夢のような美女だ。
彼女は、なまめかしい美女だ。
彼女は、気品ある美女だ。
彼女は、楚々とした美女だ。
彼女は、小粋な美女だ。
彼女は、あかぬけた美女だ。
彼女は、優雅な美女だ。
彼女は、絶世の美女だ。

<やっぱり美女だ>
彼女は、水もしたたるいい女だ。
彼女は、注目を集めるほどの美女だ。
彼女は、どきっとするほどの美女だ。
彼女は、うっとりするような美女だ。
彼女は、皆があこがれるほどの美女だ。
彼女は、思わず息をのむほどの美女だ。
彼女は、誰もが立ち止まるほどの美女だ。
彼女は、みながふりかえるほどの美女だ。
彼女は、一目で魅了されるほどの美女だ。
彼女は、引き込まれそうな美女だ。
彼女は、ういういしい美少女だ。

<女の視線>
あのコ、けっこうキレイね。
あの人、美しい顔をしてるわね。
あの人は、みんなふりかえるような女性ね。
あの女は、一目で男を迷わせる女よ。
あのヒト、ちょっと嫉妬するわね。

<男の視線>
あのコ、かなりイケてるよ。
カノジョ、けっこうイイ線いってるね。
あのスケ、えらい上玉ですぜ。
あの子、ほとんど、やばいぜ。
あのコ、かなりすごいね。
アイツ、クールだ。

<やはり美しい>
彼女は、豪華な女だった。
彼女は、ゴージャスだった。
彼女は、華やかな女性だった。
彼女は、絵からぬけだしたような女性だった。
彼女は、華麗なる美貌の持ち主だった。
彼女は、妖艶な女性だった。
彼女は、きらびやかな女性だった。
彼女は、うるわしい女性だった。
彼女は、清楚な女性だった。
彼女は、端正な容姿を持っていた。
彼女は、しなやかな肢体をもっていた。
彼女は、チャーミングだ。
彼女は、可愛い女性だ。
彼女は、セクシーだ。
彼女は、官能的だ。
彼女は、色っぽい。
彼女は、可憐だ。
彼女は、キュートだ。

<方言>
あの子、ごっつい別嬪やな。
あの方、きれいなおなごはんでしたなあ。
あの人、えらいキレイな人やったわ。
あのお嬢さん、ものすごい美人でんな。
あの姐さん、小股が切れ上がった美人ですなあ。

<ぼくも夢中>
彼女の美しさをしっかりと目に焼きつけた。
その美しさに思わず胸がせつなくなった。
あの人の謎めいた美しい笑顔を忘れることができない。
彼女を見たとたん、心臓が激しく鼓動を打った。
あの女の美しさは、狂気のようだった。
彼女の美しさについ我を忘れてしまった。
すばらしい艶姿だった。
思わず目がくぎづけになった。
彼女の美しさに気が遠くなるほどだった。
その美しさは、電撃のようにぼくの全身をかけめぐった。
そこにいるだけで、周囲の空気が変わるほどだった。

<さらに、ものすごい>
彼女は、美の化身であった。
あの女は、けっして忘れられないほどの美貌の持ち主だった。
その人は、男ならふりかえらずにいられないほどの美人だった。
彼女は、まさに美神に愛された容姿を持っていた。
あの人は、おそろしいほどの美しさを体にまとっていた。
その人は、かぐわしく匂うほどの美人であった。
天使も微笑むような美貌をもつ女、それが彼女だった。
彼女は、誰もが思わず息をのむほどの美しさを持っていた。
彼女の美しさは、誰にもけっして表現することができないほどであった。

<やっぱり瞳が魅力>
しっとりと濡れた瞳はすいこまれそうだった。
夜の星を集めたように、魅力的に輝いていた。
その黒く大きな瞳に、輝くばかりの知性をたたえていた。

<キレイにもほどがある>
この世のすべての美がそこにあった。
その全身に、美の女神を降臨させていた。
その人は、ビーナスも嫉妬するほどの美しさであった。
彼女は、楊貴妃もクレオパトラもかくやという美女であった。
彼女は、この世にあらわれた美しい奇跡であった。
彼女は、人類の最高傑作ともいうべき美貌の持ち主であった。

……と、まあ、いくらでも書き換えはできるから、ちょっとキリがないですね。
なんか、ほとんど描写をしなくても、美人って、いいもんだねえ。
ホント、美女って、いいね〜。
皆さんも、楽しい表現がみつかったら、コメントでも書いてみてね。

08/08/2005

漫才のツッコミで、お笑いシーンを学ぼう

8月7日(日)
小説講座の事務所は、8月4日(木)〜8月16日(火)の間、お休みです。

さらにさらに、夏休み特別企画だよ。
昨日、マジに小説の構成を勉強しちゃったアナタ。ちょっと疲れたでしょう。
じゃあ、今日は、漫才のツッコミから、お笑いシーンを考えてみよう。

さて、漫才作家の先生に教えてもらったんだけど、いくら面白いことをして笑わせようとしても、やたらとボケるだけじゃダメらしい。漫才では、ツッコミ役がつっこむタイミングで、お客さんは笑うんだって。だから、ツッコミのセリフを見て、その前に、どんなボケがあれば面白いか、逆向きに考えてみると、面白いシーンが思いつくかもしれないよ。

たとえば、「おまえは、アホか!」というツッコミ。このセリフの前にはどんなボケがあると思う?
たぶん、何かアホなことをやったに違いないよね。もしかすると、何か、思い違いをしてるのかも。それとも常識的なことなのに、全然、知らないのかなあ。あるいは、やたらとマジメすぎるのかな。とにかく「アホか!」というツッコミの前には、何かボケがあったはず。それを考えてみることで、いろんな面白いシーンが思い浮かぶかもよ。

では、大阪の「標準的なツッコミ」を「あいうえお」順に。
(方言がわからない人は、関西弁のわかる誰かに、方言指導を受けてちょ)

●あ
あほちゃうか、アホなことゆうな、あきれたヤツやな、あかんやろ、甘いわ、遊ぶな
●い
いいかげんにせえ、いつまでやっとんねん、言わんでもええねん、イヤなことゆうな
●う
うるさいわ、ウソつくな、うっとおしいわ、うまいことすな、浮かれとんのか、動くな
●え
えげつないわ、えづくな、ええっちゅーねん、エライことすな、偉そうにすな
●お
遅すぎるわ、おそろしいわ、
●か
かっこつけんな、勝手にせえ、かなわんわ、かめへんゆうてるやろ、がめついわ、我慢せえよ
●き
聞いてんのか、気色悪いわ、気ぃつけんかい、切れとんのか、気が合わんわ、気張りすぎじゃ
●く
くだらんわ、食い過ぎやろ、食う気なくすわ、腐ってるわ、臭いわ、ぐずぐず言うな
●け
けとばしたろか、ケガさせたろか、ケンカ売っとんのか、けったいなヤツやな、けしからんわ
●こ
こかしたろか、声が大きいわ、懲りろや、こそばいんじゃ、こそこそすんな、こざかしいんじゃ、
●さ
さわがしいわ、さっさとせえや、さびしがりやろ、さっぱりやわ、最後までゆえ、
●し
しょうもないことゆうな、しっかりせえや、信じられへんわ、始末におえんわ、冗談やろ、じっとせえ
●す
すごすぎるわ、少なすぎるわ、すぐせえ、好き勝手ゆうな、済んでへんわ、少しは気ぃ使え、ずるいわ
●せ
せこいわ、せわしいんじゃ、狭すぎるわ、せえへんってゆうてるやろ、絶対おかしいわ
●そ
そんなわけないやろ、そんなはずないわ、そんだけかい、そないなことゆうな、そんだけにしとけ
●た
たまらんわ、タダかいな、高すぎるわ、黙っとれ、ダメゆうとるやろ、誰のせいやねん
●ち
違うやろ、ちょっと待て、ちまちますな、血迷うな、小さすぎるやろ、ちゃんとせえ
●つ
つまらんことすな、つべこべゆうな、潰れとるがな、強すぎや、疲れるわ、
●て
適当なことゆうな、適当すぎるわ、手間かかりすぎや、手に余るわ、出直して来いよ
●と
とろとろすな、とろいんじゃ、友達おらんのか、どつくぞ、どうしようもないわ
●な
何ゆうとんねん、何ぬかしとんねん、なさけないやっちゃ、涙ぐましいわ、泣かんでもええわ、
●に
似合わんのじゃ、憎たらしいんじゃ、にぎやか過ぎるわ、ニコニコすな、逃げんな
●ぬ
ぬかすな、ぬけぬけ言うな、盗むな、脱ぐな
●ね
寝ぼけるな、寝てんのか、寝とけ、ねたむな、願い下げじゃ、
●の
のぼせんな、のんびりしすぎや、のろすぎや、
●は
はっきりせえや、恥ずかしいわ、はよせえ、バカバカしいわ、
●ひ
暇なんか、ひどすぎるわ、ひょうきんなヤツやな、悲惨やな、びっくりするわ、人でなしか
●ふ
ふざけんな、吹くな、深すぎるわ、普通すぎるわ、雰囲気悪いわ、ぶうぶうゆうな、侮辱すな
●へ
変なやっちゃ、変なことゆうな、変なことすな、へらへらすな、勉強しろ
●ほ
ほっとけ、ほったらかしにすな、ぼけとんのか、ぼやぼやすな、ほんまか
●ま
待たんかい、負けとるがな、真面目にやれ、
●み
みっともないことすな、みじめやな、妙なことゆうな、見とったんかい、
●む
無茶ゆうな、無茶すな、難しすぎるわ、むちゃくちゃすな、
●め
目を覚まさんかい、珍しすぎるわ、めんどくさいわ、めちゃくちゃやないか
●も
もうええわ、もどかしいんじゃ、もう少しやれや、儲かってないやろ
●や
やかましいわ、ややこしいわ、やっぱりかい、やめろや、
●ゆ
ゆわんでええねん、勇気ださんかい、優柔不断か、優越感にひたらんでええねん
●よ
余計なことすな、酔っぱらってんのか、よけろよ、ようせんわ、よう言わんわ、
●ら、り、る
来年の話すな、落第生か、乱暴者やな、乱暴すんなや理解でけへんわ、理解したないわ、
●れ、ろ
礼ぐらいゆわんかい、連絡したれよ、練習せえ、ロクでもないな、ロクなことやらんな、ろくでなしやな、
●ん
んなわけないやろ!

というわけで、ンなわけないかもしれない、ロクでもない「ツッコミあいうえお」でした。


08/07/2005

もしかして役に立つかもしんない勉強法

8月6日(土)
小説講座の事務所は、8月4日(木)〜8月16日(火)の間、お休みです。

またまた、夏休み特別企画だよ。
小説の構成とか、どう組み立てていいかが、ぜんぜーん、わかんないって人に。
もしかすると役にたつかもしれない、お役立ち勉強法。
(役にたたなかったらゴメンよ)

1 とりあえず、まずは、3つに分けてみる。
 書き出し、展開、結末。あるいは、ツカミ、本ネタ、オチ。
 なんでもいいから、とにかくまず3つに分けて考えてみよう。とにかく3つに分けてみるだけなら、たぶん、けっこう簡単だよ。もっと細かく分けられないか、またまた、それぞれの部分を3つに分けてみよう。それぞれが3つに分けられないか、ちょっと考えてみよう。
(長い作品の場合は、前や後ろより、真ん中部分がやたらと長くなると思うよ)

2 大好きな「映画」を使って、ストーリーの流れや構成を分析してみよう。
 ハリウッド映画などのエンターテインメント系の作品を一度、分析してみるのもいい勉強法。できるだけ自分が好きな映画で、何度か見たことがある映画のビデオ(DVD)をご用意ください。それから、ビデオのリモコンを用意。さらにシートを用意して、10分おき、あるいは15分おきに何が起こっているか、それぞれのシーンごとに書き出してみよう。それぞれの場面で、どの登場人物が何をやっているのか考えたり、シーンのつながりがどうなっているか調べてみよう。必要なら、地図や見取り図、人物表を作ってみるのもいいかもよ。

3 昔話、童話、伝説などを分析してみよう。
 有名な昔話や童話、伝説などには、たいてい、「物語のスジ」「(広義の)しかけ」「見せ場」などが含まれているよ。「物語のスジ」は、ストーリーのこと。「しかけ」は、読者がなるほどと思うような部分で、言い方を変えれば、広義のトリックとも言えるところ(白雪姫なら「老婆に化けて毒殺」とか)。読者が「あっ、そういう方法もあるのか」と思ったり、ユニークな発想だったり。それから、「見せ場」というのは、たとえば、絵本なら必ず描かれるような「名場面」「名シーン」のこと。
 有名な昔話、童話など、どんな話にどんな要素が含まれているか、また、面白く効果的にみせるために、どんな工夫がされているか調べてみると面白いよ。また、よかったら、まったく同じ話で違う絵本になっている作品を見つけてみて、いくつか読みくらべてみて、どの話がおもしろいか考えてみよう。

4 好きな小説を分析してみよう。
 「この話、とっても泣けるなあ」とか「この話、すごく怖かった」という小説があれば、どの部分で泣けたり、怖かったりするのか、ちょっと冷静に考えてみるのもいいよ。テーマだけじゃなくて、あっと驚いた時、泣いた時、思わず笑った時など、どの部分のどの「言葉」、どの「文字」が目に入った段階で、自分が反応したのか考えてみよう。自分自身をモニターとして、詳しく分析してみると面白い。それから、その作品がどういう構造になっているのか、メモをとってみて考えてみよう。ページ単位でまとめて、表を作ったり、時間経過や登場人物がどう行動しているのか、分析すると面白いよ。

5 では、組み合わせ方、編み方を考えて、各部分をほぐして考えてみよう。
 長編小説や映画の場合は、それぞれの話がパーツとなって、組み立てられたり、編み上げられていることが多い。細かいパーツに分けてみて、それぞれがどう組み合わせているかを考えてみると面白いよ。カードや表にしてみるのも、わかりやすい。どんな組み立てになっているか、いろんなパターンがあると思うよ。たとえば、2つのストーリーが交互に現れてくるとか、どちらか一方に、より小さい方を組み込んだりして作られてることもある。それぞれのキャラクターに注目してみて、それぞれの人物の立場からみると、違う流れやテーマになっていることもあるよ(ヒーローからみると、自分探し物語。恋人から見たら、シンデレラ物語。悪役なら、宝さがし物語)、それぞれの部分をとりだして、全体の組み立て方がどうなっているか、ちょっと考えてみよう。

6 どこが骨格か、考えてみよう。
 ここまでやったら、なんとなく構造が見えてきたかもしれない。長編小説や映画などは、骨格となるメインストーリーとサブストーリーがあったりする。一番、大事な部分はどこかな。どこがメインストーリーなのか考えてみよう。

(おまけ)
自分の作品で、順番を変えたり、いろいろ組み合わせを変えてみよう。
 さあ、次は、自分の作品を客観的に見てみよう。書く前に、あまり構成をぐちゃぐちゃいじりすぎるとわからなくなったりする人もいるから、まだ、全然、書いてない作品よりは、一度書いてみた作品とか、書いたけどうまくいかなかった作品をやってみるといいかも。自分の作品をもう一度、眺めてみて、不必要なシーンはないか、書く順番を変えてみたり、組み合わせを変えたりしてみよう。一番、わかりやすく、効果的で、面白い構成はどれか、いろいろ工夫すると楽しいよ。それぞれのシーンをカードに記載して、並べ替えたり、実際の文章をワープロでいろいろ組み替えたりするのも面白い。ただし、ワープロの場合は、もとの文章を残しておくのもお忘れなく(あんまりいじりすぎると、自分でも訳がわかんなくなる時があるので)
 
小説を書く人のタイプには、大きく分けて2パターンあって、とにかく最初からどんどん書き続けるタイプと、最初に細かいプロットを決めてから書きはじめる人があるみたい。
(本格ミステリなんか、ちゃんと解決編ができてなきゃ、書き始められないもんね)
どっちの書き方でもいいけど、自分自身で構成がわかんなきゃ、読者に対する「しかけ」もできないから、まずは自分の小説の構成がうまくいっているか、書く前か、あるいは、とにかく書いてから修正する時か、どっちかのタイミングで考えてみるといいかもしれない。

08/06/2005

書きつづけるための知恵

8月5日(金)
小説講座の事務所は、8月4日(木)〜8月16日(火)の間、お休みです。

またまた、夏休み特別企画だよ。
「小説講座」の生徒のみなさんから聞いた実録体験集。
書きつづけるための知恵編。
〜忙しい毎日、私は、こうして書き続けています〜
(いっぱしの社会人になったけど、小説や文章を書き続けたい人の参考に)

1 一日のうち、書くための時間をどこかに確保する。
 仕事や家事で忙しい毎日。書くための時間を確保するのが大変だったり。でも、「時間ができたら書こう」なんて思っていると、いつまでたっても、時間ができない。だから、毎日の習慣として、ほんの少しの時間でも、きっちり時間を確保してしまう方がラクな場合もあるよ。人によっては、寝る前のほんの30分とか、あるいは、早朝の1時間とか。

2 一週間のうち、書くための日を作ってしまう。
 週休2日がとれる人は、たとえば土日の午前中の3時間とか、あるいは金曜日の夜とか、曜日を決めて、書くための日を作ってしまおう。その日は、よっぽどのことがないかぎり、飲みに行ったり、遊びの予定を入れてしまったりせずに、書くための時間にする。

3 自宅から脱出して、喫茶店、ファミレスなどに行く。
 自宅では、ついビデオを見たり、本を読んだりしてしまって、なかなか書けない。……なんて人は、家を脱出して、どこかの喫茶店やファミレスにでかけてみよう。ついつい家事が気になってしまう主婦も、たまにはコーヒー代くらい自分に投資。公募で賞金とって、コーヒー代の元をとればいいだけよ。

4 自分専用の机、パソコンを確保する。
 パソコンは、家族と共有だから、なかなか使いたい時に使えない〜。なんて人もいるけど、思い切って、購入してみるといいかもよ。文章を書くだけなら、中古でも十分使えるから、誰か要らないマシンをもらうという手もあるし。

5 身近に、読んでくれる人を見つける。
 書く作業は、孤独な作業。でも、できた作品を読んでくれる人がいれば、はりあいになるよね。もし身近にしっかり作品を読んでくれて、できれば的確なコメントをくれる人がいたら、どんどん作品を読んでもらおう。

6 自分で、締切を作る。
 プロなら締切があるけど、そうじゃない人は、自分で締切を作るしかない。いつまでに作品を仕上げるのか、たとえば、公募にぜったい応募することに決めたり、周囲に宣言したりして、自分自身で、作品完成の締切を作ることも大事だよね。

7 楽しみをつくっておく。
 「とりあえず、原稿用紙4枚を書いたらビール一杯」「短編が完成したら、ケーキを食べる」などと自分で自分にご褒美を用意するのもいいかも。

8 賞金が手に入ったら、どう使うか、考えておく。
 小説コンテストに応募する時は、賞金が手に入ったら、具体的にどうやって使うか。いろいろと夢をふくらませておこう。長編を書いていて、ちょっと面倒くさくなってきたら、賞金の使い方をアレコレ考えておくと楽しいよ。

……ヒマがあるから書く人もいれば、ヒマがないのに書く人もいる。
「面倒なこと、始めちゃったよなあ」なんて思いながらも、止められない人もいる。
それが、ウワサの楽しい小説講座。


08/05/2005

初心者向け、文章レベルのチェック方法

8月4日(木)
小説講座の事務所は、8月4日(木)〜8月16日(火)の間、お休みです。

休み中ですが、一応、ブログはアップ。
夏休み特別企画「文章をどう直す〜?」
文章レベルで、どうやって推敲したらいいか全然わかんない人に(もう書き慣れた人は関係ないよ)。
ちょっとアドバイス。もちろん「文章」によっては、あてはまらないことも多いから、あんまり深刻に考えないでね。超初心者レベルだから、専攻科は関係なし。

1 まずは、一度、印刷してみよう(ワープロ(パソコン)の場合)
 画面上でチェックするには、やっぱり限界があるぞ。文章ができたら、とりあえず、印刷してみよう。タテ書きで、ちゃんと読めるように印刷されてるかな。印刷ができたら、改行や漢字のバランスなどをみてみよう。改行がなかったり、漢字が多すぎると、字面が黒っぽくなってしまうぞ。どれくらいのバランスがいいか、プロの小説などを見ながら、調節してみよう。

2 重なり言葉、同じ言葉の繰り返しがないか、をチェック!
 文章の中で、何度も同じ言葉が繰り返されると、違和感がある文章になってしまいます。同じ言葉が何度も使われているところがないかチェックして、他の言葉に言い換えができないかどうか、考えてみよう。

3 接続詞を多く使っていないか、をチェック!
 「そして」「それから」「ところが」「だが」など、接続詞をたくさん使うと、文章がモタモタしてしまい、ダサくなってしまうことも。接続詞を削っても、文章がつながるところは、削ってみよう。

4 形容詞を多用していないか、をチェック!
 「美しい」「やさしい」「強い」「大きい」……こんな形容詞をたくさん使っている時は、削ってしまうか、もっと他に言い換えられないか、考えてみよう。

5 「その」や「それらの」など、指示語(こそあど)をたくさん使ってないか、をチェック!
 それ、その、あの、あれ……などの言葉を何度も使ってないかな。「その」「そっちの」などが、削れないか、ちょっと考えてみよう。

6 語尾が単調になってないか、をチェック!
 「……と言った」「……だった」など同じ語尾が何度も出てくると、文章が単調になってしまうことがあるよ。とくに「会話文」の「…と言った」は、削れることも多い。あまり語尾が単調にならないように気をつけよう。過去形にこだわらず、たまに現在形を混ぜてみる手もあるよ。

7 読点「、」もうまく使っているか、をチェック!
 あまり長い文章は、2つの文章に分ける方がいい場合もあるけど、「、」もうまく使えば、いろんな効果が出るよ。どこに「、」を使ったらいいか、ちょっと工夫してみよう。

8 主語が何度も繰り返されてないか、をチェック!
 日本語の文章は、意味がつながれば「主語」を削っても大丈夫。とくに同じ人物が続けて動作をする場合などは、何度も主語を書かなくてもわかることが多いのだ。主語が削れないか、考えてみよう。

9 慣用表現を使ってないか、をチェック!
 使い古された慣用表現をたくさん使ってしまうと、文章がダサクなってしまうよ。文章もやたらとモタモタして、伝えたいことがうまく伝わらなくなってしまうかも。慣用表現を安易に使うのはやめて、必要なら自分なりの比喩表現を考えて、うまく表現するようにしよう。

10 文章の表記を統一しているか、をチェック!
 ・漢字の使い分け(どれを漢字で書くか、ひらがなにするか)
 ・数字の表記(漢数字になっているかな)
 ・外国語や用語の表記

(おまけ1) 不安な時は、辞書を引こう!
 今は、便利な「電子辞書」がお手頃価格で売ってるよ。漢字に自信がなかったり、使い分けがわからなかったりした時には、まずは辞書を使おう。「辞書を使うのはおっくう」なんて言ってたら、逆に恥をかくことになるよ。ワープロの誤変換にも注意。

(おまけ2)
念のため、よくある初歩的なミスはこのあたり。 〜初心者は、ここに気をつけよう〜
(1)感嘆符「!」疑問符「?」の後ろは、必ず1マスあける。
(2)改行のあとは、かならず1マスあける。
(3)「…」は、必ず、1マスに三つ点がある「…」を原則的に「……」と2マス使う。小説の効果として、「……………」と長くしたい場合は使ってもいいが、1マスだけにはしない。まだ、「…」の代わりに「・」(中グロ)などを使わない。

とにかく読みやすいキレイな原稿を心がけようね。

08/04/2005

小説講座の事務所は、明日から夏休みです

8月3日(水)
朝から事務所。途中、チケット購入。
今日から東京行きなので、夕方までにやるべきことは全部やっとかないと。

「休業のお知らせ」をハガキに印刷して、関係者に郵送。
なんだかんだで、あっという間に夕方。

というわけで、明日から小説講座の事務所は、夏休み。
ちなみに、このブログは、8月4日の分(8月5日更新)から一週間、自動更新になります。
(たぶん午前11時のはずです)

08/03/2005

美少年とハンサムを拉致して、小説印刷

8月2日(火)
小説講座の事務所は、朝から大忙し。バタバタと郵便局、図書館、銀行……。
中華屋に預けたままの作品集の箱を取りにいって、事務所に行く。スタッフKさんは、久しぶりに美少年同伴出勤。途中、さらに第7期のハンサムな生徒さんが作品提出に来たので、2人ともそのまま作業室に拉致監禁。ひたすら奴隷のように、作品集の帳合作業を手伝ってもらう。ボランティア協力ありがとうございます。感謝感謝。すごく助かりました。ありがとう〜ありがとう〜。

支払い処理多数、作業いっぱい、発送物も山ほど。
まずは、第7期と専攻科の欠席者発送。欠席されると作品集をどっさり郵送しなくちゃいけないので、費用も手間もかかるし、欠席しないでほしいなあ。学費もムダじゃないのかなあ。しっかり元とって卒業して欲しいんだけどなあ。こんなに欠席者が多いと発送するのが面倒だなあ、私は悲しいなあ。どっちにしても、お金ももったいないよね。

まあ、専攻科は、休んでも仕方ないんだけど、第7期がこんなに出席率悪いとなあ。ほんと年によっては、過半数が皆勤賞というクラスもあるんだけどなあ。小説を書く人って、ちょっとマイペースだったり、けっこう人見知りだったりする人もいるけど、割とクラスの雰囲気の影響もあるのかなあ。とはいうものの、今日の夕方は、第7期生の人たちは、梅田で待ち合わせて、みんなで羊の串刺し(あ、間違えた、串焼きだったっけ)を食べに行くらしい。まあ、修了課題も書き上げて、今は8月からの作品指導待ちだもんね。そういや、去年の第6期も、みんなで旅行に行ったりして、けっこう仲はよかったみたいだけどね。
うーん、ヒツジかあ。せっかく誘われてて、ぜひ一緒に行きたかったのだけど、明日から東京に行くためには、かたづけておかなくてはならない仕事の山が……。うえ〜ん。

そしたら、5時に、第7期のNくんから電話。
「今日、梅田、5時に待ち合わせでしたよねえ。誰もいてないんですけどお〜」
「あれ、6時とちゃうの?」
「えーっ、遅れそうやったから、あわてて来たのにぃ」
うーん、さすがNくんである。
講義はしょっちゅう遅刻してくるのに、飲み会には、遅刻せずに、1時間も前に来るとはのう。

6時頃、再度、第7期の生徒さん(素敵なオジサマ。髪の毛うすいけど)から「やっぱ、来られへんの?」と電話。ふえーん、仕事が終わってないんだよう。結局、8時半過ぎまで一人がんばって仕事。

ところで、このインキュベータースペース内では、ほとんど在籍していないブースが多い。となりのブースの人なんか、半年間、一度も見たことがない。そんな中、いつも朝から晩まで仕事しているのが「あすなろ」のスタッフさんたち。今日も朝から3人が、昼食もそこそこにバタバタと大忙し。3人とも男性である。実は、このスペースは、けっこう愛想が悪いといってもいいような人が多いのだが(どうも気のせいか、ボランティアをする人はおとなしい人が多いのか、それともシャイなのか、向かいのブースの人と後ろの人以外は、ほとんどの人は挨拶くらいしかしない)、この「あすなろ」の人たちは、けっこう声をかけてくれる。
「お、今日は、遅いですねえ」
「まあ、そちらは、いつも遅くまで大変ですね」
「いやあ、うちは、9時が定時ですからねえ」
この人たちは、毎日、朝の9時に来て、夜も9時までいる。いやはや、商売繁昌ですなあ。

家に帰ってからも、ホンマに忙しい。夜の1時まで仕事。それなのに、そのあと、3時頃まで、来週分までのブログを何本も書いて「公開待ち」にしておく。まあ、東京へはパソコンを持っていかないので、その間、ブログもなしでもいいんだけど、せっかくなので、明日から毎日、午前11時に順番に自動的にアップされるように一週間分、適当な文章を書いておいたよん。お楽しみに。すでに登録したので、いつもと違って、たぶん毎日確実にアップされると思うよ。ただし、急いで打ち込んだので、誤字があったり、変な内容があるかもしれないけど、ま、つっこまないようにね。

ちなみに、メールは転送されているのでイチイチ確認してはいますが、ケータイメールでは、ややこしい内容の返信をする体力がないので、なんだかんだは、4〜11日までの分は、まとめて12日に処理しますので、ヨロシク。掲示板は、たぶんスタッフKさんが管理してくれる予定。では。

08/02/2005

娯楽小説なら、なんぼでも

8月1日(月)
日、月曜は、小説講座の事務所、お休みです。
(8/4〜8/16は、夏期休暇です)

月曜は、お休みのハズですが、またまた朝から出勤。終日、事務作業。
事務所で、ごちゃごちゃと雑用いろいろ。6時を過ぎて、大阪NPOプラザの閉館時間ギリギリ。(大阪NPOプラザは、土日月は、6時閉館なのです)

でも、もうすぐ事務所は夏休みなので、いろいろと片付けないと。
ちなみに、私は、3日の夕方から11日まで東京です。
(緊急連絡は、ケータイ(PHS)まで直接どうぞ)

うちの小説講座は、「エンターテインメントノベル講座」という講座名だから、当然だけど、エンターテインメント系の小説を書く人が多い。だけど、純文学系の小説を書く人がまったくいないかと言われると、別にそんなことはなくて、何人かは、そういう作品を書いている。

だいたい小説を見て、ばっちり「エンターテインメント系」とか「純文学系」に分けるというのも、ちょっと無理があって、そもそも今は、「中間小説」というのがたぶん「死語」である。まあ、一部ではまだ使うのかもしれないけど、あまり一般的な単語ではなくなってきているようだ。

だからといって、中間小説が全くなくなったわけではないだろう。まあ、私は評論家ではないので、そのへんは、ホントよくわかんないんだけど、たぶん市販されている小説の多くがむしろ中間小説化してしまったせいなんじゃないかな、と思う。それで、純文学か大衆小説か、ばっちし分けるのが難しくなってしまい、つまりは中間がどこかわかんなくなったんじゃないかなあ。

そんなわけで、「エンタ−テインメントノベル講座」という講座名をわざわざつけているのに、実際には、どこからどこまでかわかんないというのが本音のところ。一応、「娯楽小説」で「商業小説」と分類しているだけ。せいぜい「あまりにも個人的な『私小説』で、出版希望どころか、他の誰にも見せるつもりもないような作品」はちょっと違うよなあと区別するくらいである。

だから、とくに内容とかテーマでは、区別してはいない。というか、区別しようがない。だって、小説だと、どんな深刻な人生ドラマでも、それが読む人の娯楽になるってことはあるんですよねえ。もちろん、小説のネタがすごく私的な体験が元だとしても、それも全然ヘンじゃない。だから、純文学かエンターテインメントかどうか、あんまり悩む必要はないと思う。要するに「娯楽小説」なんだから。

でも、ただ、時々「だから、娯楽小説なんだってば!」と思うことはある。生徒作品では、まあ、滅多にないんですが、コンテストの応募作なんかを下読みすると、時々、そう思うような作品を見かけることがありますね。たぶん、そういう作品は、「娯楽」の方向を間違っているんじゃないかなあ。つまり、書く人だけが気持ちよくて、読む人を面白がらせたり、うっとりさせたり、びっくりさせたり、まあ、とにかく全然、楽しませてくれないんです。書く人にとっては、小説を書くのが「娯楽」なのかもしれないけど、読む人にとっては「娯楽」にならないんですな。で、読むのがツライ。でも、そういうのは「娯楽小説」とは言わんよなあ。

でも、コレ、技術の問題じゃないですよ。そら、小説的な技術がヘタだったら、読みにくいことは確かだけど。ほら、生徒作品でも、けっこう読みにくいでしょう。でも、それは技術の問題で、気持ちの問題ではないわけで、ヘタでも生徒さんの作品なんかだとけっこう読めるわけ。でも、そうじゃなくて、「読ませることを全然考えてない」とか、あるいは「ほとんど拒否しているよな作品」ってのもあってね。そういう人もけっこういるみたいで、色んなコンテストに応募してるみたい。しかし、それもしょうがないかもしれない。だって、周囲には誰も読んでくれる人がいないんだろうから。でも、下読みの人も、たぶん長い作品だと全部は読めないだろうけど。

というわけで、「これは娯楽小説」という小説を書く人(あるいは、書いているつもりの人)は、できれば、どこが「娯楽」なのか、ちゃんとわかるように書いて欲しいなあ。「この作品は、読んでも楽しい作品だよ」って、なるべく早くわかるように書いておいてね。お願い。私は、娯楽小説が好きなのだ。

とくに生徒作品なら、どんなに忙しくても、なんぼでも読みますぜ。夏休み明けは、短編作品の最終締切。はい、楽しみにしてます。

08/01/2005

小説とは関係のない休日(ほんま、何もない休日)

7月31日(日)
日、月曜日は、事務所はお休みです。

朝から子どもたちは、虫とり。よく飽きないなあ。本日の収穫は、キリギリス。私は、朝からパソコンに向かい、インタビュー原稿4本。日曜、祝日など、カレンダーが赤い日は、仕事をしない方針だけど、木、金曜日にできなかった分があるので仕方ない。ところが、パソコンの調子が悪くて、全然進まない。困ったなあ。iBookは、壊れたままだし。昼過ぎまで、パソコンと格闘してから、ちょっと休憩して、買い物にでかける。夕方からまたまた仕事。結局、他に何もせず、ずっとキーボードを打ち続ける一日。ホンマに一週間も、東京へ行けるのだろうか。不安。

本棚の奥に隠していた『毎日かあさん2』(西原理恵子)を息子に見つけられる。「トイレが我慢できたら、忍者になれるんだよねえ、ママ」……って、ホンマにいちいち信じるな! あれはネタなの! ああ、小6なのに、やっぱり影響されとる。だから、隠しとったのに……。
どうしよ。ただでさえアホなのに、さらにしっかりアホが伝染しとる。

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