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07/31/2005

やっぱり小説講座は、楽しい生徒でいっぱいだぞ

7月30日(土)
本日は、朝から事務所。夕方からは、専攻科&第7期の合同授業。
講師は、青心社社長で編集者の青木先生。作品指導講義。

あいかわらず、仕事が山積み。朝から一人でパニック状態。あっという間に4時半になり、あわてて教室に移動しようと、事務所用の自転車に荷物をくくりつけたものの、どうやらパンクしてるらしい。専攻科の作品で、500枚を越える長編もあるから、ホントめちゃくちゃな量である。とても手に持っていける量ではない。軽オフ印刷をしたのだが、500枚の束がおよそ8束。つまりB4用紙で、およそ4000枚である。ぎっしり段ボール1個半。
そんなもん、電車では持っていけるかあーっ。当然、重くて、とても持っていけません。「せっかく荷物を運ぶために、わざわざ丈夫なママチャリを買ってあるのに、この役立たず!」と怒り狂うワタシ(どうもパンクというよりは、暑さのせいで、空気が抜けているだけみたいだけど)

と、ボヤいている間に、講義時間がせまってくる。仕方なくタクシーを利用して、教室のある天満橋へ。箱ごと運んで、タクシー代が約2000円。これがもったいないし、タクシーより早く着くからいつも自転車なのだが、まあ、毎週2000円ずつ、儲かってると思えばいいのか。ああ、ビンボー暇なし。

本日の講義は、専攻科の短編作品3本と、第7期生の短編1本の作品指導。そのうち2本は、同じ作者なので、生徒は3人。公開指導なのだが、作者が欠席しないかどうかが、いつもヒヤヒヤ。仕事を持っている人も多いので、遅刻される人もたまにいる。

しかも、本日の作品は、Nくん。彼は、いつも遅刻がちで、3月の前期作品指導の時も、なかなか来なかった。前期指導だけは、一日に十数人の作品をいっぺんにやるので、ホントは一人くらい遅刻しても全然かまわないのだが、講義終了の近くになっても来ないので、やっぱり予定がたたない。いくら遅刻といっても、ずっと待っているのもなんなので、やむなくケータイに電話したら、「いま、横浜で〜す。野球の応援で〜す。球場で〜す」というノーテンキな返事を返してくれたという、ちょっとノンキな若者である。

あの時は、「開幕戦かもしらんが、自分の作品指導日に休むなっ! さもなきゃ、欠席連絡くらい入れとかんかいっ!」と怒鳴ろうかと思ったのだが、あいにく球場のせいか、ケータイの向こう側がうるさく、それに負けて怒鳴る元気もなかった。だいたい夕方6時開始の講義なのに、いつも「寝過ごしちゃいました〜」と遅刻する。確か、本人がすごく楽しみにしていたはずの「ファンタジーの書き方」の講義も、ずっと寝ていてすっかり忘れてましたというトボケぶり。

その割には、小説を書く気はすごくて、作品は何度も書き直し、書きあがるたびに「できたよ! 読んで!」と事務所にうれしそうに持ってくるし、長編もバンバン書く。まあ、こうして無邪気で悪気はないのが、彼のいい所なんだろうなあ。そういや、先日も、めずらしく講義開始前にやってきたらしいのだが、教室の前のロビーのソファーでずっと寝てて、講義が始まって1時間たっても教室に入ってこないので、しかたなく起こしたら、「うーん、眠すぎやあ。帰って寝よ」と帰ろうとし、「いやいや、せっかく来たんやから、せめて教室内で寝てれば」と言いきかして、教室に押し込んだら、ぼおーっとした顔で、そのまんまイスに座っていた。目は開いていたが、たぶん、寝てたね、あれは。ま、でも寝てても、少しくらいは聞こえてるだろうし。睡眠学習だよな。

…というようなノンキな若者なので、ついちゃんと寝坊しないで、講義に間に合うかどうかが心配だったのである。心配で心配で、それでつい、もう一人の専攻科のKさんのことをすっかり忘れていたのだった。電話確認をしてなかったんである。というか、専攻科の方は、慣れているはずだし、誰の作品かいちいち連絡しないのである。しかも、今は、Iさんの長編(60代の男性で、長編を年に何本も書く。ミステリ、時代小説、人情モノ、なんでもござれの人)をのぞくと、他に作品も配布していないから、当然、自分の作品指導だとわかっているはずなのだ。だから、事前にいちいち電話確認してなかったのだ。(むろん、Nくんには3日前にも電話確認していた)

で、結局、6時の講義開始時には、作品指導予定の3人の生徒のうち、Nくん、Kさんを除く1人しかいなかったので、正直、かなりビビる。開始後3分過ぎにNくんがやってきてホッとしたが、今度は、専攻科のKさんが来ない。他の作品指導している間に、あわてて教室を抜け出して、念のため、Kさんの自宅に電話してみる。ふつうなら「小説を書いているのは周囲には内緒。講座に通っていることも恥ずかしいから、家族にも内緒」という人も、まれにいるので、たいていは連絡があっても、メールかケータイにするのだが、Kさんは、ケータイも「現在、使われていません」なのである。「でも、まあ、たぶん仕事で自宅にはいないだろうな」と思いながらも電話したら、本人が出た。
で、「ええっ、今日、私の番だったんですか〜」っとノンキな声。
「でも、今からは行けません。もう無理ですう」
そら、そうだろう。Kさんの家は、大阪の南の方で、片道2時間近く。けっこう遠いのである。しかし、なんで、こうノンキな生徒が多いかなあ。作品は、連続殺人がらみのサスペンスで、かなり残酷な事件とか、ほんとにイヤな人物などをうまく描く人なのだが、本人は、もしかしてちょっと天然なのかなあ。しかし、ホント、いろんな生徒がいるよねえ、この講座って。

というわけで、Kさんの作品は、講義中に軽く講評だけしてもらう。Nくんのファンタジー作品は、物語世界の細かい設定や文章を注意される。もう一人の専攻科のNさんはかなりうまいので、文章力、構成力は問題ないが、プロ作品としては、カタルシスに欠けるのを指摘される。この生徒さんは、毎月のように50枚くらいの短編を提出していて、すでに作品としてのレベルは申し分ないのだが、専攻科は「売り」が求められるところもあって、うまいだけではやはりダメなのである。ここからが勝負なのかもしれないなあ。

講義終了後は、例によって、講師の青木先生と飲み会。人数が多かったので、第7期は別テーブル。第7期は、かるく10時頃には解散するが、専攻科の方は、なぜか青木先生を囲んで、めちゃくちゃ盛り上がっており、アホな話で(いや、内容は知りませんが、あの連中のことなので、めちゃくちゃ盛り上がっているなら、アニメだのSFだの、どっちみちアホな話でしょう)、結局、11時半。あわてて、終電で帰る生徒さんたち。

ところで、こうした苦労もあるし、一応、生徒さんの悩みなんかも聞いてあげたりするし、講師のスケジュール調整もあるので、通学講座の運営は、けっこう手間がかかる。だから、たまには、「これが通信講座だったら、運営もラクなんだろうなあ」なんて思うこともある。小説講座も、いろんな通信講座もあるらしい。ただ、通学講座と、通信講座とはまったく別モノだと考えているし、どんなに手間がかかっても、通学講座の方がいいと私は思う。とくにプロ作家をめざすなら、通学の方がいいような気がする。

というのも、私自身、「大阪シナリオ学校」の事務局にスタッフとして入る前は、「演芸台本科」の生徒だった時期があるからだ。私は、最初は「通信」だったのだが、一度、スクーリングに出席して、講師と飲みに行き、1年間テキストで学んだこと以上に、たった一日の講義で色んな話が聞けたのに驚いて、通学部に転籍したのである(注:今は、転籍制度があるかどうか知らない)。ここのコースは、漫才台本やコント台本などを書きたい人や、漫才作家や喜劇作家、バラエティ番組などの放送作家になりたい人にはオススメの講座なのだが、やっぱり本気でプロになりたいなら、たぶん「通信」ではまず無理である。いくら通信のテキストを読んだとしても、やっぱり、そこで得る情報量が全然違う。作品指導も細かい指導が受けられるし、実際、プロの人から業界の話などが色々きけるのだ。

もちろん漫才と違って、小説は別である。小説を書くだけなら、別に「通信」の講座でもいいかもしれない。でも、やっぱり「とにかく早くデビューしたい」とか、「とにかく一度でいいから本を出してみたい」とかいうなら別だが、プロとして小説を書いて、少なくとも何年か、ずっと本を出してプロ作家としてやっていきたいんなら、やっぱり現役のプロ作家の話を直接、色々と聞いておいた方がたぶんいいだろうなあと思う。少なくとも、その方がソンはないんじゃないかと思うんだけどね。

まあ、そんなこと、デビューしてからでも遅くはないのかもしれないけど、デビューはしたものの、2冊目が出せない人とか、2冊め、3冊めがでても、次がないという人もたくさんいる。ということは、デビューするだけでなく、生き残るというのは、また別の才能が必要なのだろう。実は、うちの講座では、今のところ「売り込み」よりは、とりあえず「新人賞」をとろうよ、という方針になっているのも、そのせいである。「とにかくデビューしなくちゃ話にならん」という意見もあるにはあるだろうが、やはりプロ作家として、これからずっと書き続けるなら、新人賞はとっておいた方がいい。そりゃ、新人賞なんか、もちろんなくてもデビューはできると思うので、ゼッタイではないけど、とりあえず、まとまった賞金も入るしね。

やっぱ、「小説」と「演芸台本」とはだいぶ違うと思うけど、「演芸台本科」なんかは全員がプロ志望だから、かなりアセッてデビューしたがる人も多いんだよね。で、放送業界には、ブレーンという仕事もあって、とにかく業界デビューさせるという手もあるんですな。で、ブレーンになる生徒もかなり多いのだが、問題はその後なんだよね。こうしてデビューをする人のうち、かなり多くの人がその後、辞めてしまう。この業界では、まずは5年、生き残るというのが難しいみたいで、だいたい20代前半で業界に入って来るのだが、30才を過ぎた頃にはかなりの人が消えてしまう。

……というのが現状なのだ。といっても、学校としては、「とにかくたくさんデビューさせて、生き残る人に生き残ってもらう」というのが、やっぱりわかりやすい。その方が宣伝効果も高いし、入学者増につながる。でも、デビューしたのはいいが、生き残らなかった人はどうなるんだ。その人たちに挫折感はないんだろうか。そのせいか、講師の中心だった高見先生や大池先生は、「とにかく早く業界デビューさせるよりは、まずは『漫才台本』を書けるようにしてから」という方針だった。とにかくデビューさせるよりは、長く生き残れる能力をまずは身につけさせたい。それは、自分自身がこの講座の第1期生として学んでから作家になって以来、数十年、業界で活躍し続けている先生たちの、きっと親心なんだろうな、と私は思っていた。そりゃ、どっちの方針が正しいかはわからないが、とにかくそういう考え方もあるのだ。

というのも、関西の放送業界では、実は「漫才台本」くらいは書ける放送作家がめちゃくちゃ多いのである。関西ローカルの番組制作では、どうしても「お笑いタレント」が出演する機会が多いので(制作費が安くても、そこそこ面白い番組になるからだ)、その番組を担当する作家にも「お笑い系」の能力が求められるケースが多いから。放送業界も、使いっぱしりができる20代ならともかく、30代になれば、やはり何らかの特殊能力(漫才が書けるとか、コントが書けるとか、あるいは食べ物とかスポーツに詳しいとか、いろんな情報を持っているとか)がないと、仕事が続かない。要領のいい人なら、20代でブレーンやら何やらやりながらそれらを身につけて覚えられるのだが、ブレーンというのも、あれはあれで、かなり忙しい仕事なので、それ以外の勉強をゆっくりやるヒマなんぞ、なかなかとれないのである。とくに関西は、今、放送番組の数も限られているから、能力のない作家に生き残る余地はない。小説家もそうなんだろうが、放送作家だって「自由業」である。たよりになるのは、自分の実力だけ。会社に就職するのとわけが違う。だから、とにかく「なってしまえばなんとかなる」というのは、甘い。めちゃくちゃ甘い。

理想としては、小説家も、数年間、活躍できるプロを育てたいと思っている。まあ、むろん理想だが。そりゃ、とにかくまずデビューさせる方が大事かもしれないし、その方が宣伝効果も高いし、わかりやすいような気もする。だいたい創設30年近い「演芸台本科」と違って、今はまだプロ作家もほとんど出ていないのだが、とにかく理想はそういうことなのだ。

で、私の7年前にたてた計画では、創設5年以内に、一人が新人賞デビューする予定だった。創設10年目に3人デビューする予定で、15年目には、5人以上が数冊以上出している作家になっている予定である。今は7年半たったのだが、今のところ、計画は順調である。ああ、2年半後が楽しみだなあ。

07/28/2005

バタバタしてますが、なんとか

7月27日(水)
午後から事務所。1時半、来客。
急に、木、金曜日は、両方とも事務所に入れなくなったので、8時まで残業。
(大阪にいませんので、たぶん、明日、明後日とブログの更新も遅れます)
小説の山と格闘。生徒作品は、やっぱ、読みにくいよう。たいへんだよう。

ところで、8月4日から8月16日まで、小説講座の事務所は夏休み。
私は、8月5日〜10日は、東京です。神田方面のホテルに宿泊予定。8月4日と11日はどうしようかな、まだ決まってません。
というか、バタバタとしてて、ぜんぜん予定たたず。原稿もたまってるし、どうにもこうにも。

朝、新聞を読んでいると、来年のNHK朝ドラ発表になっていて、大阪の脚本が長川さんになっていた。ちょっとびっくり。そういえば、秋にシナリオライターの小松江里子さんが来阪するらしいけど。会えたらいいなあ。夏休みは、家のこともあったりして、とにかく忙しすぎて、「大阪シナリオ学校」にもなかなか顔が出せず。

先日、『ロボッツ』の試写会、招待券を2枚もらっていて、最初、息子と行こうと思っていたのだが、とにかく忙しかったので、結局、夫に頼んで、連れて行ってもらった。息子に「どうだった?」と聞いたら、「めちゃめちゃ面白かった!」という返事。「あら、よかったねえ」と微笑みつつ、なぜかムッとする母親(わたくし、ココロ、せまいです)。行きたかったんやったら、多少無理しても、一緒に行けばええのにと思いつつ、まあ、私はアホである。

イベントとか、パーティとか、単純に楽しみにして出かけられたらいいんだけど、どういうわけか、行くのもイヤ、行かないのもイヤという気分になることがある。うちみたいに、小さな子供たちがいると、休日、家族で「おでかけ」するってのは、よくあることなんだけど、なんだか、いっつも微妙。一緒に行けずに、みんなが「面白かった!」と言うと「おもしろくない」し、一緒に行ったら行ったで、なんかちょっぴり違和感を感じる瞬間が必ずある。休日のピクニックで、ふと「なんで私こんな所にいるのかなあ〜」なんて、母親が思うのはヘンかもしれないが、みんな、どうなんでしょうね。私だけ、そういう性分なんかなあ。

しかし、一見、他人が見ると楽しそうに見える家族連れが、実際、どんな問題を抱えているかなんて、みんな外からはわからないんだよねえ。ほら、あそこで楽しそうに弁当食べてる家族連れ。お父さんは、去年、会社をリストラされて、そろそろ失業保険が切れそうで、35回目の面接にも落ちていて、お母さんは自分がガンでそろそろヤバくて、はしゃぎまわる子供たちを見て微笑みながら、「この先、どうしたらいいのか」なんて、考えているかもしんないやん。ホンマ、外から見て、誰が「負け犬」やとか、たぶん全然わからんもんとちゃうやろか。

でも、まあ、考えてみれば、仕事中毒なだけで、休日もたぶんなんか仕事したいのである。でも、家事はしたくない。家事は、仕事じゃないもん。ああ、夏休み。子供たちは楽しいかもしれないけど、とにかく早く終わってくれないかなあ。今日、会ったイベント会社の女性は、もうお子さんは大きくなったそうですが、夏休み、子供たちが小さい頃は、とにかくキャンプばかり行かせてたらしいです。ああ、もう、みんな苦労してますな。

07/27/2005

のんびり落ち込むほど、ヒマがあるじゃなし

7月26日(火)
午後から事務所。あいかわらず、作品印刷の山と格闘するKさん。大阪NPOプラザのワークステーション(コピー機、簡易印刷機、製本機などが置いてあるところ)も、順番待ち。
2時半から、媒体広告の打ち合わせ。経理伝票を整理。ここしばらく、伝票を整理していないので、そろそろ片付けないとたまるたまる(うちは入学期以外は、全部、出金伝票ばかりだ)。

今、出ている小説『コバルト』のショートショートのコンテストで、卒業生が2名入選している。奈良在住のあの人とあの人。入学の期は2年違うのだが、二人並んで掲載されていた。
以前は、ショートショートが得意な人が何人もいて、毎月のように「小説現代」のコンテストとか入選したりして、はりあっていたものだが、最近の専攻科には、ショートショートを書く人がほとんどいない。まあ、ショートショートだけを中心に書いている人は、自分の本職を大事にして、小説で稼いでやろうというタイプの人はいなかったので、どうやら「専攻科」もそのうち辞めてしまうのかもしれない。ショートショートだけなら、雑誌のコンテストの講評などもマメに出るし、実際、掲載される機会も多いので、わざわざ「専攻科」に通う必要もないだろうけど。

一方、プロ作家志望が強い人は、今は、やはりデビューしやすい長編を書く傾向がある。こういう人は、専攻科に残る人が多い。一年目のクラスは、レクチャー講義が多いので、とくにプロ志望じゃなくても、作品を書かなくても続けられるのだが、作品指導講義が中心になると、やっぱり「書かない」あるいは「書けない」人は、通学する意味がなくなる。社会人中心だから、どうしても仕事が忙しくなったり、育児やら、転勤なんかで、通学クラスは、2割くらいは脱落する。

とりあえず、前期課題くらいは出せるみたいなので、後期は中編なので、出せない人もいる。小説を書くってことは、今まで一度も書いたことがない人が考えているのより、たぶんかなり面倒臭い。とにかく時間がかかる。だから、このクラスを卒業して「専攻科」に進学する人は、やっぱりある程度、作品を書く気がある人だけである。

いつも思うんだけど、小説は、書きさえすれば必ず書けるし、書かなければ書けない。もちろんウマイヘタもあるんだけど、ともかく、書かなきゃ話にならない。うまくなるかどうかとか、プロになるかどうかというのは、ある程度、書いてからの話なんじゃないかなあ、といつも思う。たとえば「絵」とか「歌」とか「スポーツ」とか、みんな他のジャンルだってそうだから、小説だってそうだろう。あたりまえのことだろうと思うんだけど、どういうわけか、世間では「小説」だとそうは思ってない人が多いみたいだ。ホント、サッカー選手だとか、歌手だとかだったら、「ぜったいプロになる!」という人が、「一度もやったことないけど!」というのはヘンなんだけど、小説だとけっこうそういう人は多い。ホント、なんだか、少し不思議である。

ただ、それ自体、悪いことではないと思う。イチローだって、誰だって、やっぱ、最初は「思い込み」というか「おもしろい!」「ああ、もっとやりたいなあ」「ずっとやれたらなあ」「これでメシが食えたらなあ」というふうに思ったんだろう。とくにスポーツなんかだと、かなり早い時期、子供の頃とかに「プロになりたいなあ」なんて思ってたわけで、それは「実力があったから、なんとなくプロにでもなってみた」んでなく、たぶん、やりだして、すぐに「おもしろいぞ! だからプロになれたらいいな!」と思って、それから練習した結果なんじゃないのかなあ。

つまり、それでいけば、「プロになりたい」と思うのと、その時点での「実力」はまったく関係なくていいんじゃないかと、私は、思っている。小説だって、今までまったく書いてなくても、「プロになりたい!」と思うことはいいけど、「じゃあ、一度、書いてみようかな」と思って、書いてみないと判断はできない。だって「書いていて、ぜんぜん楽しくない」のなら、わざわざ、そんな仕事に就いて、無理に苦痛を続けることもないと思うから。もちろん「一度、書いてみたけど、うまく書けない」のは、あまり心配はない。「最後まで書けなかった」わけでもかまわない。たいていは、最初からうまく書けないもんだから心配はない。ごくまれに、万に一つくらい、最初から書ける人もいますが、まあ、ふつうは「一度書いてみた」って、すぐにうまく書ける人はいない。

そりゃ、たまに「あら、私は、あまり苦労せずに、さっと書けたわ」という人がいますが、その人が、そう考えていられるのは、インターネットとか同人誌で発表するところまで。その勢いで「さっとプロ作家になった」人がいるかというと、まあ、これはほとんどいないみたいである。

なんてことを言うと「あら、でも、サイトやメルマガで小説を発表していて、プロ作家になった主婦や学生がけっこういるでしょう」とか「自費出版で、小説を発表してヒットした人がいるそうだけど」とか、という人が、これまたけっこういるみたいなんですが、これについては、正直、私にはよくわからないので、返事がしようがない。
まず、どの作家がそうなのか、私は具体例を知らないので、まずその方法が詳しくわからない。それに、そういう人がいたとしても、たぶんかなり例外的な存在でしょう。というのは、ネットで小説を発表している人は、かなり何千人もいるらしいけど、そのうち、何人がプロ作家になったかと思えば、そんなにいないはずです。だいたい、現在、インターネット上では、今のところ、収入になかなか結びつきにくい。少なくとも、プロがわんさと儲かって、コンスタントに食える状態になっている様子ではないような気がするのだが。むろんインターネットをうまく使えば、宣伝になることは間違いないし、今後、何か動きがあるかもしれないけど、少なくとも今は「出版」で稼ごうという方が現実的だよね。

とにかく、カラオケで歌うのが好き、というのと、歌手としてプロデビューする、というのには、そこにはある大きな違いがある。何があるかというと、そこに「金」を払ってくれる客がいるか、いないかという、たぶんここが違う。でも、プロになるかならないか、と「決心する」のに、はたしてどこまで「実力」がともなう必要がいるかというと、もしかすると、その時点で、実力はさほど要らないのではないか、と私は思っている。というか、実際、実力の差は、その決心の後からついてくるような気がする。だから、「プロになると決心する」には、根拠となる実力とか才能とかは、とりあえず、何も要らないと思う。

などという話をするのは、まださほど作品を書いてもないうちから、「わたし、作家になれますか」なんていう不安を訴える生徒さんがいるからである。電話問い合せもある。そら、まあ、自信があった公募に落ちてしまうと、誰でもやっぱりそういう気持ちにはなってしまうだろうから、しょうがないとは思うけどね。でも、それでもあえて、「作家になれますか」よりは、ホンマに「作家になりたいか」ということを、まず自分自身に聞いてみたらいいんではないかなあと思ってしまう。「なれるかどうか」なんてことは、あまり悩んでもしょうがない。それよりは、いい小説、おもしろい作品を書くことに神経を集中した方がいいような気がする。

「何年も書き続けてきましたが、ぜんぜんコンテストにひっかかりません」という人がいたら、それは誰かに一度見てもらった方がいいかもしんないが、ぶっちゃけていうと、しかるべき指導を受けていて、それなりに上達していれば、ほんでもって年に千枚くらい書けば、それを数年やればイヤでもデビューしちゃうんではないかなあ、なんて思っている。(まあ、うちは社会人なので、一年で千枚も書ける人がほとんどおらんねんけど)

それはたぶん、ラーメン屋さんとか、パン職人とか、自動車修理工とか、タクシー運転手とか、フリーライターだとか、デザイナーとか、ブティックのオーナーとか、すべての仕事においてもたぶん同じことだから、まずはやってみないと向いているかどうかわからない。あんまり必要以上に「作家だから特別な才能がいるのか」とか「オレに果たして作家になる才能があるのか?」とか、変にアレコレ悩むよりは、とりあえず、まずは書いてみればいいんじゃないかと思う。

だから、公募がダメだったり、作品指導で色々と指摘されても(そろそろ第7期の作品指導がはじまる。専攻科はすでに神経がズブとくなっているけど、はじめての作品指導は人によってはキツイらしい)いつまでもヘコんだりしないで、次の作品書けばいいんじゃないかなあ。ま、そういうことです。

07/26/2005

天神祭、休日出勤、関西に娯楽小説家が多い理由

7月25日(月)
日、月曜日は、事務所はお休みです。
(……のはずですが、本日、出勤してます)

5時過ぎまで事務所。2時からインタビュー(する方ではなく、受ける方)。
某企業のPR誌だそうで、関西にはミステリなどの作家さんが多いのはなぜか、などという内容。なぜ、うちにインタビューに来るのかちょっとよくわからないが、インターネットで検索してたどり着いたそうで、ちょっと私が話すのがふさわしい内容かどうか疑問もあるけど、どうやら非常に短い記事らしいので、気軽に引き受ける。一応、戦前の大阪独自の出版文化とか、赤本とか、お笑い、タカラヅカ…とか真面目に話をして、さらに「SF作家さんはなぜか皆お笑いが好きで…」などという話をし、電気科学館(日本初のプラネタリウム)とか、1970年の大阪万博(月の石!)の話をする。「本格ミステリも、SF小説も、できるだけ、みんな、びっくりさせたろ、という話ですから、アホなことが大好きな関西人にむいてるんちゃいまっか」などと、まあ、アホな話をして、インタビューに来た女性を笑わせる。いやはや、あんなので、記事になるんだろうか。まあ、数百字らしいしな。

でも、正直、ミステリの作家さんが関西に多いかどうかは、ちょっと微妙だと思うけどな。本格ミステリに限っても、人口で対比して極端に多いのかどうか、私にはわからない。まあ、東京圏以外で、これほど作家さんが住んでいる地域がないのかもしれないけど。

でも、少なくとも、SF作家については、関西出身または関西在住がかなり多いのは確かじゃないかなあ。けど、ホンマの理由は私にはわからんけどなあ。個人的には、電気科学館と大阪万博の影響がゼッタイあると思うけどな。あれで、大阪の少年たちは、「ああ、未来はおもろいもんなんや! 宇宙はワクワクするもんなんや!」という体験をしてるハズです。で、その後のSFブームで、そのコーフンがさらに身体全体にどっぷりと染みわたりまして、それが今に至っておるんですな。いや、たぶん。ほんでもって、この町は、もともと、とにかく「おもろいヤツがエライ」という町ですしね。

だから「できるだけ、めちゃくちゃアホなこと考えて、みんな、ビックリさせたろ!」と思うイチビリな作家が多くても不思議じゃない。とくに、最近は、学生時代にSFブームの洗礼を受けていた世代の作家さんたちも多いし、大阪万博とか行ったり、「すげえ、すげえ」とゆうとったアホな少年だったハズです。なにせ月の石ですぜ。あの時点で、すでに月に人類が行っとったわけですから、2000年くらいには火星とか行ってるだろうと思うのは、まあ、当然ですわな。宇宙ステーションも、とっくにできあがってるハズですわ。少なくとも、少年たちはそう信じてますわなあ。

まあ、その前の世代を見ても、SFに関しては、なんか、やっぱ、イチビリだったのではないかと思いますね。だから、たぶん本格ミステリ作家も、「へっへっへ。こーんなトリック思いついたぜえっ。ほれほれっ、どないだどないだどないだ!」という方が、相当、混じっているはず。そら、もしかして今は「文化人です、作家です」なーんて顔をして、すましているかもしれませんが、やっぱり、イチビリなんですよ、あれは。大阪では、イチビリはすぐ「おまえ、吉本、行け」といわれますが、それを小説でやろうと思ったら、作家になってしまったという……そういう人が多いハズです。たぶん、いや、ゼッタイ。

……とかいう話をしてたら、そのライターの人が、大阪編集教室に講師に行った時の教え子だったことが判明。いやあ、大阪はせまいな。悪いことはできまへんなあ(たぶんしてないと思うけど)。

夕方から、天神祭に行くため、一度、自宅へ子供たちを迎えにもどる。途中、自転車でばったり「小説講座」の生徒さんとすれ違う。さらに、なぜか弟にもすれ違う。天神祭では、仕事先の人にばったりすれ違う。息子の同級生にもばったりすれ違う。たぶんみんな会社勤めも早退して、ぞろぞろ出歩く祭りの夜。(しかし、あんだけの人込みなのになぜ会うんだろな)。

ここ数年、桜ノ宮に住む妹のマンションの11階、ベランダの真正面に花火が見えるので、ちょっと川沿いの夜店のある所をぶらぶらして、花火が始まる8時まえ、花火のちょうど真下あたりをくぐって、8時からは、マンションの部屋からビールを飲みながら、のんびりと花火を眺めるというスペシャルスケジュール。妹のところには、4歳の男の双子がいて(うちにも双子の娘がいるけど)、友人の子供らと一緒に、ガヤガヤとスイカを食べながら「はなび、きれ〜、きれ〜」と大騒ぎ。帰りは、だらだらと、桜ノ宮のラブホテル街を、ゆかた姿でホテルにはいっていくカップルなどをながめながら、アイス片手に子供たちと京橋まで歩いて帰る。

07/25/2005

小説とは関係ない休日(視点人物は、そこにいる)

7月24日(日)
日、月曜日、小説講座の事務所は、お休みです。

土曜日の講義で、ある生徒さんからこんな質問があった。
「どうして小説では、視点の統一をうるさく言うのですか。映画なんかだとパッと場面が変わったりして、自由に描けるのに、どうして小説は視点が変わるとダメなんですか」
これは、講師の青木先生がうまく説明をされていたのだが、たしかに視点が変わったら絶対ダメか、というと、別に小説でも「視点」が変わってもいいのである。実際、「章」を変えたり、あるいは一行あけを入れたりすれば、そこで視点を変えても、とくに問題はない。というか、実は、小説というのは、「これをやったら絶対ダメ」というのは、本当のところ、ほとんどなくて、「やったらダメか」と聞かれても、たいていの場合、絶対ダメなのではないのである。それは「絶対ダメ」なのではなくて、小説読本とか、書き方の本とか読めば書いてあると思うが、ただ「かなり無理がある」「かなり難しい」というだけである。視点が統一されていないと、読者がわかりにくくて、ほとんどの場合、うまくいかないから、たいていの場合は、視点をコロコロ変更させない方がいい。まあ、そういうことだと思う。

ところで、その「映画」の場合も、あれは別になんの脈絡もなく、コロコロと「場面転換」が行われているのではなくて、それはそれで一定のルールのもとに、場面を変えているのである。映画だって、まったく唐突に、違う場面につなげることはほとんどない。ある人物をずっと追っていて、そのシーンからパッと全くつながらないシーンがいきなり来たら、映画を見ている人だって、やはり混乱する。もし、パッと変わっても、その後、たいていは少なくとも数分以内に、あれとこれが、なぜ「つながっているか」が説明があるハズである。たとえば、ルパン3世が「くそっ、こんな時に次元がいてくれればなあ」なんてつぶやけば、その人物のところにすぐパッととべるのだが、話の途中で何の説明もなく、いきなりパッと場面転換することはできない。この場面がどういう場面か、とにかくすぐに観客にわからせないといけないから、場面転換にも、それなりの工夫がいる。しかも、映像はその瞬間ごとに流れていってしまうものなので、映画は小説よりもストーリー展開には色んな注意が必要で、ある意味、映画を見ている人は、小説を読むみたいに、じっと考えてくれたり、いちいち細かい部分まで覚えていてくれるとは限らないのである。

どうも、芝居の台本、「戯曲」を書いていた人に多いみたいのだが、「小説は、視点を統一しなくちゃいけないから、表現が不自由になりますね」という人は、ごくたまにいる。でも、これを不自由と感じるか、だからラクだと感じるかは、もう少し何作か小説を書いてみれば、きっとすぐにわかると思う。自分で書けばわかると思うが、反対に、小説は「視点が統一されている」おかげで、かなり表現が自由なのである。(もちろん読んでいる人にとっても、書く人にとってもラク)

というのは、人によっては、ちょっとわかりにくいらしいんだけど、ホント、実際、何作か書いてみればわかる(というか、すでに悩まずに書けちゃった人は、そもそも視点を統一しないで書く方が難しいと思うが)

昨日は、思わず「もっといい作品が書けただろ!」とついボヤいてしまった生徒作品があったんだが(だって、彼にはそれだけの能力はあったはずなのに。私はやれそうにない人には、そもそもボヤいたりしないよう)、この作品は、トリックだけじゃなくて、文章でもちょっとひっかかるところが何ケ所もあった。ただ、これも「視点」がわかれば、すぐに自分で書き直せるから、あんまり問題ではない。とにかく2〜3作書けば、たいていの人はすぐ慣れる。なにせミステリなら、視点って、めちゃくちゃ便利なものである。この人は、たぶんまだ初心者なので「日本語になっていない」んだろうが、でも、これは小説特有の文章の書き方に慣れてないだけだから、すぐにできるようになるのである。

(実際、どんなに文章がガタガタでも、たいてい不思議と半年もたてば、皆うまくなる。少なくともエンターテインメントの小説を書く人は、ある程度書けばうまくなる。どうしようもなく、文章レベルでダメという人は見たことがない。だから、あまり問題ではない。基本的に小説なんてものは、実は、書くだけなら、誰でもちょっと練習すればすぐ書けるようになるので、文章がマズイのは、あんまり問題ではないのである。それより、読者を頭からナメてかかって、ちゃんとアイデアとか構成を考えないクセがついてしまっている人の方が、プロ志望としてはかなりマズイ)

純文学とか私小説から、小説を書き始めたという人は、どうやら「一人称」で始めた人が多いみたいなので、「視点の統一」で混乱するという人が少ないみたいなのだが、SFとか、ミステリとか、エンターテインメント小説の場合は、「なぜ視点を統一しなくてはいけないのか」という人はたまにいる。これも、実際、小説を書いてみればすぐわかることだろうから、別に私がいちいち説明しなくてもいいんだけど、カンタンにいうと、こういう初心者の人は、書いてみれば、たいてい「あらすじ」を書いているだけで、「小説」にならないのである。エンターテインメント系の小説を書く人は、たいてい、まず「物語」というか、面白いアイデアやストーリーを思いついて、とにかく、それを書きたいわけだから、最初のうちは、ついつい「あらすじ」だけを書く人もけっこういる。でも、それだと「小説
」にならないのである。

でも、これは2〜3作も書けば、たいてい自分でうまくいかないのが、すぐわかるからすぐ直る。だから、「あらすじ文体になってますねえ」と言われても、さほど悪いことではなくて、最初のうちはよくあることなのである。自信がない人は、一度、自分が書いた作品を人に読んでもらえばわかることだが、あらすじのままだと、当然、読んだ人にオモシロさが「なぜか」ぜんぜん伝わらない。それに気がつけば、たいていすぐ書き直せる。

でも、まあ、具体的な文章をあげないとわかりにくいかもしれないので、ちょっと説明しておくと、たとえば昨日とりあげたその作品では、こういう文章がある。
「…は、僕の隣でハンドルを右に切りながら、黒のセダンを別荘の横へとつけた。僕はシートベルトを外して、真っ先に助手席から降り、車の後ろ側へと回った。トランクから黒のナップザックと濃い水色のクーラーボックスを取り外した。すでに降りて待っていた若津に白い布地のカバンを渡す。夏の日差しは昼の三時近くになっても強いままで、僕の黒い短髪が標的にされて、熱くなっていく」。

まあ、ここだけなら「そういう文体もありそうかな」という感じなんだけど、最後まで全体的にこういう感じでかなり読みにくい。(このナップザックもクーラーボックスも、このあとのストーリーには何の関係もない)
で、作品全体に「大きい」とか「小さい」とか、「黒い」とか「青い」とか「明るい茶の」とか、あるいは「すぐ近くに」とか「右側に」とか、いちいち細かい描写があるのに気がつく。たとえば、主人公がログハウスに入ったとたん、「僕は中と外との温度差に一瞬寒気を覚え、荷物をすぐ近くに置くと、白地の半袖カッターシャツから出た毛深い腕をさすった」りする。

私は、最初、「なんで、こんなに色とか形とかにイチイチこだわるんだろうなあ。これって、何かトリックの伏線なのかなあ」と思っていたのだが、やっぱり違うらしい。どうも作者が、読者に伝えようとして、細かく場面を描写しようとして、こうなったらしいのである。

(もちろん「文体」がくどいとか、そういうのも個性だから、多少、過剰な文体でもいいと思う。私は、「文体」は純文学ならかなり気にするが、エンターテインメントなら、文章なんかちゃんと読めさえすればいいんじゃないかな、くらいに思っている。純文学の読者なら、主人公の心象風景とか、実験的な文体も、ちゃんと理解を示してくれると思うが、エンターテインメント小説の読者だと、そんなことだけを期待しているわけではないので、あまりにもくどい文体は、たいてい敬遠されがちである)

この場合、やっぱり、たぶん書き始めたばかりの人の典型的な「あらすじ文体」なんじゃないかと思う。こういう場合、大きい、小さい、赤い、黒いとか、書く人が多いみたいである。まあ、若干、そういう形容詞が増える。つまり、作者が「自分が描いているシーン」を読んでいる人に何とか伝えようとして、そこで見える(ハズの)ものをそのまま書くから、そうなってしまうらしい。ところで、これは、「視点」が一人称の「僕」にちゃんとなっていないから、こう書いてしまうのであって、もし視点というものがわかっていれば、たぶんこうはならない。

どういうことかというと、もし、この場合、「僕」に「視点」があれば(一人称なので、視点はココにあるのだが)、もう少し違った表現をするはずなのである。たとえば、ただ「黒いナップザック」ではなくて、「意外と重たいナップザック」とか「かなりくたびれたナップザック」だと、ちょっと意味が違ってくる。ただの「濃い水色のクーラーボックス」ではなくて、「驚くほど大きなクーラーボックス」と書いてあれば、そのクーラーボックスの意味が変わってくる。

で、ただの「黒いナップザック」と、「意外と重たいナップザック」とどう違うかというと、「意外と重たい」というのは、主人公の「僕」の考え方が入っていて、それは、彼自身が「意外と重たい」と思ったわけなのである。もちろん「黒い」と書くのが悪いわけではない。「鮮やかな緑の森の中」で、「黒いナップザック」が、なにか視覚的な対比として見えて、それが描写として、読者にもぜひ印象に残してほしいなら、つまり、何かそこに計算があるなら、「黒い」と書くべきだが、そうでなければ、たぶん「黒い」とか、「白い」とかはどうでもいい。というか、この場合、ナップザックとクーラーボックスが「リゾート気分」を盛り上げるための描写として書くなら、それでいいんだけど、単なる動作だけなら、ちょっと「荷物をおろした」と書けば済む。

大きいとか小さいとかいうのも、それは絶対的な大きさの表現なのではなくて、小説の中では「視点人物」が「そう見えた」から、あるいは、それが視点人物に必要なことだから書くわけである。だから、視点人物がいれば、その目や考えたことを通して、世界を伝えることができる。うまく書きさえすれば、読者は、なぜか不思議と視点人物には、うむを言わず、ついてきてくれる(まあ、同調できなければ読めないが)。
だから、「無気味なほど静まり返った湖」とか、「電話のベルが、突然、鳴った」り、「僕らはけっこう酒を飲んでいた」りと書くわけである。そのあと、主人公は、「彼らはしっかりした足どりで去っていった」と思う。その「しっかり」は「それなのに」という意味があって、だから、やっぱり客観的な描写ではなくて、この視点人物が、それをそう感じたという描写なのである。だから、もし「しっかりと」ではなく、「あっさりと去っていった」のなら、その場にいた主人公の感じ方が違う。「あっさり」ってことは、その主人公は何だか違うことを考えていたってことである。だから、そういう描写になるのだ。だから、「しっかりと」と「あっさりと」では、全然違う。これは三人称でも、視点人物がいれば、同じことである。

「無気味なほど」も、「突然」も、「けっこう」も、すべて視点人物の感情とか、モノの見方が含まれている。あるものを描写するというのは、そこに視点人物がいるからである。視点人物がいれば、その視線を通して、その感情や感じ方、考え方もくっつけて書けるわけである。だから、小説の読者は、まったく見えないものを見たり、感じたりして、ホント、まったく一度も見たこともない世界を主人公と同じように考えて、一緒に行動してくれる。視点人物は、読者を「別世界」に導いてくれ、そうやって作者は、読者をコントロールして、別の世界へと連れていける。
だから、小説の視点は、けっして不自由なものではなくて、かなり便利なものではないかと、私は思っている。


07/24/2005

どうせ書くなら、面白がらせて欲しいのに

7月23日(土)
午後から事務所。夕方は、第7期講義。
「出版社が求める作家と新人デビュー」講師は、青木治道先生。

青木先生は、編集者で、出版社「青心社」の社長。ここの小説講座は、十数人いる講師のうち、ほとんどがプロの作家さんなので、編集者なのは青木先生だけ。ほとんどの出版社が東京に集中している中で、青心社は、大阪でエンターテインメント系の出版を続けられているめずらしい存在。編集者として、出版業界全般、事情にも詳しいが、マンガ出版もされていて(『アップルシード』などが有名)、ジュニアノベルやSFにもかなり詳しい。

前半は、現在の出版事情や作家の収入といった出版ビジネスのお話。プロ作家養成のクラスだし、一応、生徒さんもみんなプロ志望の人ばかりだから、さすがにかなり真剣な様子で話を聞いていた。プロの編集者からの話だから、やはり話の内容がリアルである。青木先生は、語り口がすごくソフトで、いつも穏やかな感じの方だが、やっぱり長年、編集者をされていて、しかも社長だけに、内容はちょっとシビア。「商売にならないと困る」という話。プロとして出版したいんだったら、ただ書きたいものを書くんじゃなくて、「読者」のために「おもしろい作品」を書いて下さいね、というような内容。後半の「編集者からみた創作のポイント」も、「読者にとっての願望充足」という話、これがないと「商品価値」がない、という話で、内容はかなり具体的である。

講義後、いつものように飲み会へ。7期の生徒さんの修了作品で、ちょっと気になるところがあったので、にぎやかなテーブルから離れて、2人でいろいろと話をする。私自身は、プロの作家でも編集者でもないので、基本的に作品指導はしない。一応、すべての作品のチェックはするが、よほど文章がおかしいとか、誤字がかなり多いとか、印刷が読みにくいとか、内容があきらかに変、とかいう時だけである。でも、そういう場合は、事前にそこを本人に確認して、その人が指導日までに直せそうだと思えば、やってもらうようにしている。これが精一杯だな、と思って、直せそうでない場合は、とくに言わない。だから、こういうことは、専攻科では滅多にない。というか、専攻科の生徒なら、まずそんな必要もないのだが、入学してまだ一年目のクラスだと、いろんなレベルの生徒さんがいるので、そういう作品がたまにある。やっぱり、あまりにも初歩的なミスは、わざわざプロ作家の講師に作品指導してもらうのはもったいない、と私は考えている。それくらいは、まず先に直しておいてから、それから作品指導をうけてほしい。その方が勉強になる。

で、その作品は、もう他の生徒さんたちに配布した作品なのだが(専攻科には30日に配布予定)、ただ講師に指導を依頼をする前に、どうしても確認しておきたいことがいくつかあったのである。修了作品だから、本人はとても時間をかけて書いた作品だろうと思うのだが、わからない所がけっこうあるのである。できればベストな形で、作品指導を受けた方がいい。

で、これは「本格ミステリ」の作品である。この小説講座は、昨年までミステリ志望者がやや少なくて、毎期せいぜい2名くらいなのだが、今年はミステリ志望がけっこういる。だから、作品が提出されるのをかなり楽しみにしていたのだが、実際、作品が提出されてみると、「ああ、本格ミステリって、やっぱり技術の差が一番ダイレクトに出てしまうスタイルなんだなあ」と思ってしまった。うーん。まあ、初心者なんだから仕方ないよね。で、この人の作品は、その本格ミステリ(早い話が「館もの」)である。で、やっぱり「本格ミステリ」スタイルの小説だと、言い訳がきかないというか、早い話が、トリックにないとどうしようもない……のである。まあ、ヘタでも何でもトリックがあればいいが、最初からないと、いくらなんでも、それはマズイ。たとえ世間は許しても、ミステリの読者は許さない。お天道様も許さないのである。

とにかく、すでに配布した作品だし、生徒さんならそれを読めばわかると思うんだけど、この作品は、犯人のアリバイがそもそも最初から成立していない。だから、警察が捜査すれば、すぐに犯人がつかまってしまうはずなのに、作品の中の警察は、それを何もしないで帰ってしまう。これは、マズイ。少なくとも、現代を舞台にした話なら、作中の警察はちゃんと捜査をするはずである。殺人発覚後、警察がちゃんと事情聴取もしていると書いてあるので、その時点で当然わかってしまうハズの犯人をつかまえないのは変。これは、さすがにマズイぞ。

たぶん、あまりにトリックが弱すぎて、どこにもトリックがないみたいに読めてしまうタイプの作品だと思うんだけど(初心者の書いたミステリだと何度かこういうことがある)、これはやっぱり困ったことで、だって、これだとそもそも「お話にならない」はずなのである。少なくとも本格ミステリにはなりにくい。だって、やっぱりどう考えても、ミステリの読者は「だまし」を期待している。とくにミステリを読むような読者は、ラストまでにいろいろな可能性を検討しながら読んでいる。さほどいい「ミステリ読み」ではない私ですら、「こんなトリックかな、いや、こんなトリックだったら、おもしろいけど……」などと思いながら読んでいる。この作品では、別荘の近くに印象的な池が出て来るから、この池のアレを使って、ここでこういうトリックがあると思わせておいて、実際には違うところに真相があるんだろうな、などと思ったりしながら読んでいる。ところが、この犯人は、もともとアリバイが成立していない人物で、しかも誰でもやりそうなやり方で犯行をしていたという、あたりまえな「真相」だから、これでは、普通のレベルの読者が考えていたトリックよりもツマラナイ結末になってしまう。これでは、どこを面白がっていいかちょっとわからないから、マズイ。

ところで、私は、小説のアイデア(ミステリならトリック)は、たぶん実は「思いつく」よりも「使いこなす」方が難しいのではないかと、いつも思っている。そりゃ、プロの作家さんたち、とくにエンターテインメント系の作家さんたちは、とにかく「新鮮なアイデア」(あるいは目新しい舞台、魅力的なキャラ、展開とか)と言うけれども、それはもともと彼らが、小説的な技術をすでに使いこなせているからこそ言えることで、生徒さんのレベルでは、アイデアを使いこなす技術が未熟だから、習作の段階だとそっちの方がたいてい深刻な問題だったりする。(もちろんありふれたアイデアでも「モノは書きよう」だったりするしね)

ところが、やっぱり読者としての立場から言えば、ただの「習作」というのは、やっぱりつまんない。仕事だから、生徒作品はみな読むんだけど、やっぱりアイデアというのは絞り出さないとダメだなと思う。早い話が、つまんないアイデアは、いくら上手に書けてても、やっぱりつまんないのである。なんといっても、やっぱりエンターテインメント小説は、おもしろくないと意味がない。私小説や純文学なら、また別のところで読ませる価値があるかもしれないが、エンターテインメント小説なのに、どこもおもしろくない話は、せっかく苦労して書いた人には悪いけど、それでは読み手には時間がかかってしんどいだけである。おもしろくするためのアイデアや工夫は、プロだって頭が痛くなるほど考えるわけだから、初心者だって、頭が痛くなるほど考えぬいた方がいい。少なくとも、その方が表現力が同じレベルでも、絶対にいい作品になるんだから、だんぜんトクである。

作品指導が終わってから、生徒さんに「アイデアとか、書き方とか、構成とか、まだまだもっと工夫ができそうなのに、なぜしないの」ということを聞くと、「いや、もう自分では精一杯です、もうコレ以上できません」ってことを、なぜか、いともカンタンに言う。でも、もし、本当に「プロ志望」なんだったら、本来は「もうできません」なんてことはカンタンに言っちゃいけないんじゃないかな、って思うんだけど、どうだろう。だって「仕事」で、もし、そんなこと新人がカンタンに言ったら、普通は怒られる。大工の棟梁なら「ほんなら辞めちまえ!」って怒鳴るかもしんないんである。それは、ホントにホントに、ホンマ死ぬほど努力しない限り、ゆうたらあかんで。だって、まだまだできるはずなんやから。

だいたい、そういう人に「あの作品のアソコは、こういう展開もできるのになぜしないの」と聞くと、なぜか「え?」という顔をする。「あっ!」いう人もいる。どうやら「考えてなかった」みたいである。ちょっと書き慣れた書き手なら、そういう展開にならない理由は(すでに一度は検討していて、それがダメな理由ははっきりわかっているから)、ちゃんと説明できるのだが、初心者は、どうも自分の作品をよく検討したことがないらしいので、ちょっと指摘されると驚く。でも、それくらい、どうして考えてみないのか、と、いつも、ちょっと不思議である。「それくらい、誰でも思いつくだろ?」ってことで、「あ、そうか」というからである。ってことは、その人は、ただちょっと思いついたものを、さほど検討しないで、いつも軽く書いているのだろうか。で、ほんの軽く書いたくらいで、なんとかなるだろうと思うくらい「読者はみんなバカだ」と思っているのだろうか。ほんまに気がつかへんならしょうがないけど、ほんまによく考えて書いたんだろうか。

やっぱ、「自分がただ思いついたもの」をカンタンに小説に書いちゃダメなんじゃないかと思う。読者だって、そんなこと書かれても、読むのが面倒なだけである。ちょっと思いついただけのものを、とくに「しかけ」とか工夫とかもせずに、ただダラダラ書いたらたいていダメである。まあ、初心者は、思いついたものを書きたい勢いで書いちゃうもんだし、まあ、教室なら、他の人も、タダだし勉強だから、仕方なく読むだろうけど、でも、見知らぬ他人なら、少なくとも、金を出してまで読もうとは思わない。

やっぱり小説というのは、ただの思いつきじゃない。だって、ただ思いつくだけなら、誰でもカンタンにいくらでもできる。例えば、朝なにげなく新聞を読んで、記事を見て、「ああ、でも、もしコレがああなっていたら」「もしコレが私のことだったら」「コレは実は違っていて、本当の真相は別にあるんじゃないか」なんてことを、ほんの数分、ちょっと考えるだけで、お話なんて、一日に何個も考えつく。ただの思いつきというのは、たぶんその程度のものである。でも、実際に、小説を書くのは時間がかかる。読む人も時間がかかる。だから、それくらいのものをカンタンに書いちゃダメである。エンターテインメント小説は、やっぱり読者のために書くものなんだから、自分が書きたいものをただ書いてもダメ。おもろいモノを書いてもらわないと困る。

でも、それは工夫さえすれば、絶対、たぶん誰にでもできるはずだと思う。ヘタでも何でもいいから、もう少し、いやもう少し、やれば、きっと、もっと面白くなるはずだ。そのもう少しが「絶対できません、もう無理です」というのは、たぶんおかしい。だって、まだまだできるはずだし、もっと面白くなるはずだから。だから、それをやらないのはヘンなのである。

ドキドキ、ワクワク、泣いたり、苦しんだり、驚いたり、じんとしたり…。竜に乗って大空を滑空し、世界の危機を救い、地獄から抜け出して、運命の恋人と出会うのである。ああ、なんでもいいから、多少むちゃくちゃでもいいから、とにかく面白いやつ。生徒の皆さん、お願いっ、そういうの、待ってます。

07/23/2005

まだまだ、小説提出のお願いっ(続編)

7月22日(金)
午後から事務所。生徒作品、チェック。
作品が山積み、まだまだいっぱいあるぞ。ひー。

昨日の続き。
考えてみれば、まだまだもっと大事な「お願いっ」があったので、ついでに「続き」書いておきます。

12 締切は守ってくれ〜(コレ重要!)

 締切日は、守りましょう。これも、お願いよっ。プロ作家になった時も困るわよっ! この小説講座の場合、毎週土曜日なので、土曜の締切が多いんですが、実際には次の火曜、つまり2日くらいは余裕をみてます。だから火曜日の正午に手元にあれば、問題はありません。でも、火曜を過ぎちゃうと、予定が全部くるっちゃう〜。少なくとも他の人の作品よりは、後回しになるよ。公募に送るとしても、締切日にそんなに遅れるのはちょっと問題だと思うぜえ。

13 「実話」だからと、そのまま書かないで〜

 もちろん「実話」を書いちゃダメってことはないっすよ。ネタになりそうな実話はおおいに書いてほしいのよ。でも、小説形式に書く場合は、ノンフィクションの形式で書くのと違うと思うのよ。もし、実話をそのまんま書きたいなら、ノンフィクションとして書いた方がいい場合もあるってことも覚えておいて欲しい(まあ、うちは小説講座だから、ノンフィクションの作品指導はできへんけどなあ)。
 恋人が難病で亡くなったり、幽霊を見たり、すごい事故にあったり、そりゃ、人生の出来事で、「実話」としてはものすごい体験でも、それをそのまま書くだけでは、ひょっとすると「ありふれたこと」になりかねないのです。(小説だと、たとえ『一家惨殺』ですら、よくあることになっちゃう場合もある)。とにかく「エンターテインメント小説」として書くなら、「だって、本当にあったことですから」とそのまま書かないで、おもしろく、読んでいる人が興味がもてるように書いてください。

14 パロディ小説、同人誌小説は、提出しないで〜

 できるだけパロディ小説は、提出しないでください。楽屋落ちのような作品も、提出作品としては困るんです(まあ、これは誰もおらんけど)。もちろん好きで書くのはいいけど、一応、プロ作家養成を目的とした講座なので、教室で提出される作品は、公募に提出する予定の作品や、商業雑誌に掲載したり、出版できるような作品の方が好ましいです。パロディ小説などは、どっちみち出版できなかったり、問題があったりするので、別のところで発表してください。教室では、別の作品を提出してください。プロ作家やプロの編集者に、わざわざ作品指導してもらう作品としては、ちょっともったいないです。

15 ネット小説をそのまま提出しないで〜

 最近、書いた作品をインターネットで発表される人も多いのですが、ネット小説はそのまま提出しないでください。「書いた作品をネットでも発表してみる」のは別にいいのですが、「ネットで書いている小説」をそのまま修正せずに提出するのは基本的に避けてください。大抵の場合、そういう作品は、印刷された小説としてはおそろしく読みにくいからです。今年も、二人ほど提出された人がいましたが、(1本はやっぱり書き直してもらってます。もう一本は、短いので作品指導に回しました。このあいだ配布したやつです。みんな読んだアレ)、そういう場合は、できるだけ「小説」として書き直してくださいね〜。
 まあ、専攻科の人は、言われなくてもわかっているでしょうが、ネットで発表した小説を提出する場合は、とくに下記の点に注意してほしいです。

(1)まずヨコ書きは、タテ書きにして。
 過去に数回、ヨコ書きのまま、提出された人がいましたが、基本的にタテ書きに直してください。ただ、印刷をタテにするだけでなく、ちゃんとタテ書きの文章になっているか確かめて欲しいです。一度、必ず印刷して、読みやすいかどうか、変なところがないか、自分でチェックしてみてください。

(2)「改行」「一行あけ」が多すぎないようにして。
 ネット小説は、やたらと改行、一行あけが多いらしくて、タテ書きにした時、目がクラクラするくらい「一行あけ」が多い場合があります。ネット上で見るにはいいけど、印刷物として読むには、かなり読みにくいので、ちょっと注意してください。改行はまだ多くてもいいのですが、とくに「一行あけ」を多用されると、読む方は、ホンマ、めちゃくちゃ読むのが大変ですぜえ。

(3)漢字とひらがな、カタカナの量を調整し、統一して。
 ネット小説には限らないけど、どのくらい漢字にするか、ひらがなにするか、あるいはカタカナをどれくらい使うかは、小説の種類や文体によっても違うので、一概に言えないんだけど(一般にジュニアノベルだと、ひらがなや改行が多いので、ページが白っぽく見えるように、大人向きの重めの小説だと漢字が増えて、文面が黒っぽくなります)、ネット上で見るのと、縦書き印刷した時とでは、どうしても見た目が違うので、調整した方がいいです。普通の小説にくらべて、やたらカタカナを多用されている場合も、気をつけた方がいいです。あと、なぜか作品の最初の方と最後とでは、漢字の使い方が違っているものがあるみたいですが、これは各自で修正しておいてほしいなあ。

15 「商業出版をまったく前提としない作品」は、できれば提出しないで〜

 まあ、一応、プロ作家養成コースなんです。だから、そういうわけなのです。まあ、生徒作品なので、「まだ習作なんです」という人が多いと思うんだけど、最初から、商業出版をまったく前提としてない作品は、できれば教室では提出しないでほしいっす。私も扱いに困るし、たぶん講師も作品指導しにくいと思うから。もちろん、その作品がすぐに商業出版できる作品だとは限りませんが、どうせならやっぱり「できれば商業雑誌に載せて欲しい」「商業出版をしてほしい」くらいの作品を提出してほしいんですよね。だって「これはすでに自費出版をする予定なので」とか「いや、どうせ人に見てもらうつもりはなかったんだけど」とか「どっちみちネットで発表するから」という作品なら、「うまく書けてなくてもいい」場合もあるんですよね。それだと、教室で作品指導する理由もとくにないですよね。とにかく、ここの小説講座自体は、あまり私小説を中心とした同人誌、自費出版などもこの講座では扱ってないので、そういうのは教室では提出しないでほしいです。
 
……まあ、いろいろ「お願いっ」がありますけど、たぶん基本的にそんなに難しいことではないと思うので、よろしくお願いします。

 さらに、おまけ(とくに専攻科の生徒さんへ)。
 専攻科の人なら、作品指導の時に、「この作品は、どこの出版社での出版をイメージしてますか?」なんてことをすでに講師に聞かれた人も多いと思いますが、もし、長編などで、具体的な目標としている公募名、あるいは「どこどこ出版社のあのノベルズ」とか、何か自分でイメージしていることがあったら、よければ「作品提出表」のすみっこにでもちょっと記入しておいてください。(だって、ミステリなら、『乱歩賞』狙いか、『鮎川賞』狙いかで、だいぶ違う気がするやろ)一応、ちょっとは作品指導の参考にしますんで。


07/22/2005

私からあなたへ、小説提出のお願いっ

7月21日(木)
午後から事務所。小説講座の作品指導、講師依頼。公募ガイド社、「大阪ショートショート大賞」の掲載確認。あとは、生徒作品を読む。

現在、第7期の修了課題、専攻科の長編作品の最終締切が重なっているので、大変である。連日、頭がクラクラする。こりゃ、暑さのせいばかりではない。

ホンマ、生徒作品を読むのは大変だ。専攻科は、作品としてはすでにかなり上達しているので、読むこと自体は苦痛とか、そうでもないのだが、ただ専攻科の作品はやたら長い。ほとんど、500枚を越える長編である。ううう〜。

さらに第7期生の作品。こっちは50枚以下の作品なのだが、短いから読みやすいかというと、ううう。あれだけそれまでに注意したのに、あああ〜。くらくら。まあ、このクラスも、あと数ヶ月たって、専攻科に進学する頃には、不思議とかなり書けるようにはなるんですけどねえ。
(といっても、専攻科へは、毎年だいたい半数しか進学しないので、あとの半数の人はどうなるか知らない)

ここの小説講座、10月の開講後は、6月までは、十数人の講師が順番にやってきてレクチャー講義をするのだが(その間、短編指導なんかもするが)、そのあと、7月から9月は、ずっと連続で作品指導なのだ。他の小説講座では、たった一人の先生が全部の作品を見てくれるというスタイルが多いのだが、ここの講座は、せっかくプロで活躍する現役の作家の講師が、十数人もいる(おお、ぜいたく!)ので、なるべくなら、自分の作品にあった講師に指導してもらえるようにしている。

だが、そのためのスケジュール調整が毎年大変。そのため、提出された生徒作品は、すべて一度、私がチェックすることにしている。一応、作品を指導する担当講師を決めるのに責任をもつことにしているのだ。

というわけで、とにかく生徒作品はすべて読んで、どんな作品で、どんな内容で、どれくらいのレベルかチェックしなくてはいけない。専攻科のクラスでは、もうどんな作品を書くタイプか、こっちも慣れているので、「今度は、どんな内容かな」とチェックすればいいだけなのだが、まだ専攻科になっていない一年目のクラス(第7期)は、実は、読むのもけっこう大変な作品もあるんですな。これが。

というわけで、今、読んでいる生徒作品の中から、いろいろ私の希望と忠告。
専攻科の人には、あたりまえすぎて、笑うかもしれないけど。
まあ、わかってます。ええ、「やっちゃうんですよね〜」。

ってことですが、でも、やっぱ、私からのお願い!

1 ノンブル(ページ数)、作者名は、必ず書いてくれ〜

 あれほど注意したのに、やっぱり忘れているヤツがいる〜。この人は、事前に3度も書き直し、ギリギリまで修正しつづけた真面目な人なので、たぶん最後の最後に直した時に書き忘れたのだろうが、やっぱり書かないとダメだよ。反省しなさい。

2 枚数オーバーしないで〜

 まあ、気持ちはわかります。うんうん。そりゃ、短くならなかったんだろうし、提出しないよりはいい。そりゃ、なんとか指導できるようにするけどね。規定枚数の10%とか20%とかなら、まだしょうがないな、って思うけど。でも、30%とかオーバーしていると、さすがに、どうよ。どんなにいい作品でも、公募ならやっぱり枚数オーバーだと入選させられないだろうし、ここの講座でも、他の人は枚数をちゃんと守ってくれているわけで。だから、やっぱ、規定枚数は守ってほしいなあ。

3 登場人物をやたら多くしないでくれ〜

 50枚の短編なのに、読むのに何時間もかかる。「これ誰だったっけ?」とやたら登場人物が多いと、何度読み返しても、なかなか理解できないんですよう。そんなに覚えられないし。必要以上に登場人物を増やさないで。

4 誰が誰か、わかるように書いてくれ〜

 それから、どの人がどの人かわかるように書いてほしいです。性格や容貌なども、覚えやすいように、なるべく早くわかるように書いておいてね。たとえば名前を書く時は、まず「姓名」が覚えられるようにしてもらわないと、困るんですよね。最初に「姓」があって(たとえば「渡辺…」)、そのあといきなり「名」(真紀…)が出てきても、読んでいる人は、あいにく同一人物かどうかわからんのです。そりゃ、作者は、渡辺真紀、というフルネームを知っているかもしれませんが、こっちにはわからないので、「え、誰、これ?」ってことになるんですう。

5 余計なシーン、エピソードをやたらと入れないで〜

 読むのに苦労する作品ほど、それぞれのエピソードが、そもそも何のために書かれているのかわかんないことが多いのです。読んでいる途中で、「なんで、こんなことやってんだろう?」と何度も思ってしまうので、ストーリーにあまり関係のないエピソードをやたらとたくさん入れないで。ホンマ、何やってんだか、訳わからんようになるので。

6 何を書きたいのか、自分でもわからない文章をいっぱい入れないで〜

 たぶん書いている途中で、わからなくなったり、迷ったりしたんだと思うんですが……。でも、書いている途中はいいけど、書き終わった後に整理するとか、推敲するとかしてほしいです。たぶん「自分でもなんで書いたのかわからない」ような文章は、読んでいる私も、やっぱ、わからんです。

7 やっぱ、できるだけ、視点人物は一人にして〜

 短編なのに、視点人物がころころ変わると、やっぱ、読んでてツライっす。三人称の作品で、視点が変わりまくる作品がけっこうあるんですよう。一人称でも、誰がやっているのかわからない動作が書かれていたりして、「これ、だれ?」と迷うことがけっこうあります。読むのが大変なので、なんとかして。

8 一つの主語に、動作や修飾語を何回もかぶせるのはやめて〜

 実は、私、あたま悪いっす。ものすごい理解力ないっす。だから、あんまり複雑な動作は、どっちみち想像できないっす。やっぱ、エンターテインメント小説なので、あまり余計な頭のエネルギーを使わせるのはどうかと思いますです。

9 もう少し面白いアイデアを見つけてくれ〜

 いや、絶対、もっと面白いアイデアがあったはずやで。なんでそれを書けへんねん。
 たぶん、もう少し考えてみれば、ぜぇったい、もちょっと面白いアイデアを思いついているハズや。「いや、がんばったけど、ホンマにこれしか思いつきません」ってのは、たいていウソですう。たいてい、あとで聞いたら、もっと面白いこと考えてたやんっ、ってことあります。皆さん、アイデアは、出し惜しみしちゃいけません。ほんでもって、わざと作品を退屈にしないように。

10 推敲してくれ〜

 誤字が多いよう。誤変換が多いよう。頼むから、推敲してくれ。
 推敲できないなら、締切ギリギリに書いちゃダメよん。

11 ちゃんと読めるように印字してくれ〜

 ワープロの出力は、読みやすいように印字してください。お願いお願い。
 字間はつめて、行間をあけた方が読みやすいです。あんまり読みにくいと、目が痛い。あたま痛いです。

ってことで。
で、来週から作品集、配ります。人のフリ見て、我がフリ直せ。その方が勉強になりますよ。では、皆様、乞うご期待。 

07/21/2005

恐竜と怪獣、夏のはじまり、漢字ドリル

7月20日(水)
終日、外出。事務所には入れず。
午前中、事務作業など。小説講座以外の仕事いろいろ。

ところで、世の中には「恐竜」と「怪獣」の違いがさっぱりわからない、というオバサンは、一体どのくらいの数いるのだろうか。少なくとも、うちの母は、何度説明しても「恐竜」と「怪獣」の違いがわからない。おそらく「そもそも、なぜそんなものに区別がいるのか。そんなん一緒でええんちゃう」と思っていることは間違いない。まして、それぞれの怪獣や恐竜にイチイチ「名前」がついていることも「なんか不思議」「そんなん意味がない」「みんなヒマやな」と思っていることは間違いない。このような人種に、『スターウォーズ』と『バットマン』と『ウルトラマン』の違いを説明することは、イタリア料理とスペイン料理の違いを説明するより、ずっとずっと難しい。そんなことは知らなくても、世の中、生きていけるのである。

なーんて話をしていたら、息子が「そやけど、むこうのおばあちゃん(夫の母)は、『ドラえもん』のこと『しんちゃん』っていうねん。『ドラえもん』と『クレヨンしんちゃん』の見分けつけへんらしいで」と言う。なるほど、この2つは、金曜日の7時からと7時半から始まるアニメなので、義母が両方とも同じアニメ「しんちゃん」だと思ったのかもしれない。「そやけど、もしホンマに、ドラえもんがしんちゃんの家に来てたら、えらいことになるかもしれへんやろ、ママ」と、ちょっとばかり真剣な顔して息子が言う。

で、想像してみたが、たしかにノビ太くんではなくて、しんちゃんだとエライことになりそうである。のび太が道具を使っても、たかがしれている。たまに道具をとりあげて悪用してしまうジャイアンにしろ、スネ夫にしろ、道具を悪用するとは言っても、それなりの目的はある。でも、しんちゃんなら、ただの愉快犯である。殺人犯でも、凶悪強盗殺人犯より、愉快犯の方が何をするかわからないので、むしろ恐ろしい。とりあえず、地球が何回か破壊されることは間違いない。良識ある大人(?)のはずの『こち亀』の両さんですら、たまに首都圏大爆発くらいはよくやってしまうらしいので、やはり危険である。しんちゃん宅には、できればドラえもんは絶対に近寄らないで欲しいものである。

……などということを考えて、二人でしばらくニヤニヤしていた。やっぱり、他からみたら、少しけったいな親子なのかもしれない。

ところで今日は、小学校の終業式。3人とも成績が下がり、なんだか静かな我が家。息子の成績が悪いのは、いつものことだし、あんまり心配はしていないのだが、双子の娘たちのうち、姉の方は、どっちかというと、見かけは優等生タイプで、クラスでもいつも活発なタイプらしいのだが、実は小学2年生で、たし算、ひき算のくりあがり、漢字のほとんどがダメなので、さすがにマズイらしい。懇談でも、担任の先生に言われているので、とりあえず、夏休みはちょっと勉強しなくてはいけない。妹の方は、さほど悪くはないのだが、担任が病欠で一学期の間ずっとおらず、非常勤がいたが、授業はほとんどできなかったらしいので、双子の姉に比べるとほとんど習っていない。明日から、当分、教頭先生が毎日補習をしてくれるのだそうだ。まあ、あまり勉強は厳しく言わない方だが、小学2年生くらいの勉強がまったくわからないと、義務教育が最後まで楽しくできないだろうし、さすがにヤバイ。私は、いい大学に行けとは決して思わないが、中学校修了までは楽しく通えるくらいの「学力」はあった方がいいと考えるタイプである。

とはいうものの、働く母親は、夏休みだからと言って、のんびり勉強をみてやるわけにもいかないし、かと言って、他の家庭のように、塾やら習い事にも通わせたくないし(まあ、金もないし)。まあ、どうやるかというと、私の場合、やっぱり早朝と夜しかないのである。それにしても、子供が3人いるというのは大変である。夏休みは給食がないので、毎日、弁当は3ツ用意しなくてはいけないし、勉強チェックも3人分である。はああ〜。ただでさえ、少ない睡眠時間がぁあ〜。明日から長いお休み。早くも「早く夏休み、終わらないかなあ」という気分。世の中の働くお母さんたち、がんばりませう。ま、でも、私は8月4日〜10日一人で東京へ行く予定だから(脱出!)バリバリです。

しかし、息子の成績がいくら悪くてもビビらないのに、娘の成績が悪いとあわてるのは、一見するとちょっとヘンなのかもしれないけど、それには理由がある。息子も、成績はずっと悪いのだが、彼の場合は、どうも考え方がちょっとユニークなだけで、まるきりわかっていないわけではないらしい。もともとパズルとか、びっくりするくらい早く解答を出すようなところもあり、妙にカンのいいところがあるみたいなのである。たぶん小学校の男子としても、やや読書量も多いし、読むスピードも早い。新聞もけっこう読んでいて、歴史やら理科やら、とりあえず成績は悪いが、何かと好奇心も豊富なので、アホは、アホだが、ほっといても、なんとかやっていけるだろうという感じなのである。しかも、下に双子がいるせいか、子供の頃からほったらかしだったのだが、知らない大人に混じっていても、平気なタイプである。

ところが、双子の娘たちは、それぞれ性格は違うが、どっちも概ね「真面目なタイプ」である。こういうタイプはやれと言われたことを真面目にこなす一方、息子のように柔軟な発想をして、自由にやりたいことをやる、というのは苦手らしい。まだ小さいので、性格などはコロコロ変わる時期なのだが、こういうタイプは、きちんとやるべきことはやっておくようにしないとやはりダメらしい。

考えてみれば、女の子にはこういうタイプが多いように思う。学生の頃、ノートなんか、ぴっちり、きちんと書くのはほとんど女子だった。だいたい男子なんか、ノートをとったとしても、やっぱ、いいかげんで、それよりは教科書の「聖徳太子」に「どんな眼鏡をかけさせるか」の方がよほど重要だったりする。まあ、うちの息子なんぞは、典型的にそういうタイプで、そもそもノートをしょっちゅう忘れていくらしく、理科のノートに歴史が書いてあったり、算数のノートで漢字を書いていたりして、何のノートなんだかもわからない。彼が人より熱心に書いているのは、間違いなく教科書のすみのパラパラマンガだけである。

そう言えば、私が高校の時、おもしろい物理の先生がいた。4月、最初の授業の時、「物理という教科は、きちんとノートをとっている女の子の方が、なぜかテストの成績が悪いことが多いので、授業中ノートはとってもとらなくてもいい」と言うのである。私は、子供の頃から理科だけは大好きな女の子だったから、ちょっとムッとして聞いたのだが、どっちみち確かにノートをとるのは面倒だし、とにかく、そんなことを言っている先生の授業では、ぜったいにノートはとらないでおこうといきなり決心した。で、ホントにノートなしで、ずっと一度もメモもとらなかったのだが、これが不思議となぜかものすごくテストの成績はよかったのである。というか、実際、教室内でも、みんなノートをとったりとらなかったりしていたのだが、やはりノートをとらないグループの方が、なぜか成績はよかったのだった。先生の話は、ホンマだったのである。なんだか、不思議であった。

今から思うに、これはやはり「物理」という教科の特性で、ノートをとらない方が「なんでそうなるのかな」とか色々考えたりする時間もあるので、どうやら人によっては、その方がいいらしいのである。しかし、これはちょっと珍しいケースである。普通は、人から聞いた話は、ノートをとらなければほとんどが流れて消え去って行き、忘れてしまう。インタビューなんかでも、次の日になったら、ノートを見なければ何を話していたか、ほとんど忘れてしまっている。たいていの場合、人の話はたとえメモだけでも書いた方がいい。経験上、本当にこれは事実である。

ただノートをとると、それを書くことで、聞くことにも集中できるのだが、ただ、手を動かしていると、聞いたことを自分なりに考えて、発展させて考えを深めるところまでやるヒマはない。まあ、だから、とにかく覚える内容量とか、知識、情報量がたくさん必要な場合はノートをとらないといけないし、自分で考えてみるような内容の場合はノートをとらないでもできる。「物理」は、やたら公式を暗記するという人もいるが、実は、公式なんぞ覚えなくても、考え方さえわかっていれば導き出せるものなので、ノートをとらなくても何とかなるんだろう。ま、今、公式なんか見ても、どっちみち覚えていないしな。

だが、とにかくノートをとり、教えられたことを着実にこなしていれば、高校生までなら多少の成績を出せるものらしい。(大学や社会人になると、それしかできないとかえって不幸なこともあるが)。とりあえず、娘たちの「夏休みの課題」は、計算ドリル、漢字の書き取りノート一冊分、である。

07/20/2005

親孝行、子育て、ありふれた家族の風景

7月19日(火)
午前中、銀行など、午後から事務所。
SF大会に参加してたKさんの話では、3年後のSF大会が大阪でやるかもしれない、ちょっと可能性あるかも〜という話。うんうん、そこまで、無事、この小説講座が生徒数も減らずに続いていたら(なぜか、いつになく弱気)、「うわーい、SF大会、大参加じゃあああ!」ってことで、どう?

ちなみに、小説講座の生徒募集は、8月開始。10月開講予定。すでに入学者が4名確定しているので、今年の秋の開講は、決まっているのだが、さすがに来年の開講は決まっていない。独立したばかりなんで、資金のメドがたってないのだ。NPO法人化をめざしているのだが、それだけに堅実な運営だから、その分、無理を重ねて借金運営をする予定も全くない。というわけで、今年の秋募集で生徒数が少なければ、今年はやるが、来年の生徒募集はない。いやあ、3年後に会えるといいですな。

ところで、なぜか小説講座というのは、入学するまでに何年もかかる人が多い。「一昨年に資料請求をしたんですが」なんて、問い合わせがあったりすることもある。今、入学した人の中にも、「4年前の公開講座に参加して…」という人もいる。というわけで、毎年、「来年、ぜひ入学しますから!」という人もいるし、このあいだは「今は、子育てで忙しいんですが、子供たちの手が離れたら、絶対に行きます!」という人に会ったのだが、「それ、何年後やねん!」と内心ツッコまないではいられなかった。期待してくださるのは嬉しいのだが、そろそろ誰がデビューでもして、宣伝効果あげてもらわないと困るんだけどな。いや、それと同時に、講師のプロ作家の先生方に「大ヒット」をとばしまくってもらうという手もあるな。

「講師はヒット作、生徒はデビュー作!」
で、私は、それまで、なんとか事務所でがんばります。あまり派手な宣伝もしない「小さな小説講座」なので、知る人ぞ知るという感じになってて、今は、ぜんぜん知名度もないけど、予定では、数十年後には「日本の娯楽小説の『トキワ荘』」と呼ばれるハズです。たぶん。いや、間違いなく。

夕方、第7期のNくんが来て、マンガ原作コンクールの件で相談。

帰宅後、夕食。
さて、小学6年の息子は、毎週、金曜の夜、義母の家に泊まりに行っているのだが、その件で、夫が、義弟と電話で少しばかりモメている。義母は心臓がかなり悪いのだが、今年の1月に義父が亡くなってからは一人暮らしである。といっても、うちからは2キロほど離れた所に住んでいるので、いつでも行ける距離なのだが、毎日、ニトロを持ち歩いている状態なので、どうも「一人の時に倒れたら心配」だそうだ。とくに夜、一人で寝るのが不安らしい。そこで、せめて週末、金曜の夜からは誰かが泊まりに行こうということになったのだが、うちの夫も義弟も仕事が忙しく、ここ数カ月、ずっと小6の息子が毎週行っているのである。

ところが、やはり毎週、金曜から日曜まで必ず泊まり込むというのも、やはり遊びたいさかりの息子には少し負担である。義母も発作がなければ、日頃の家事などもすべてできるので、とくに何か手伝うというほどのこともない。だから毎週、金曜から日曜まで、ずっと一人でテレビかゲームをしているだけで、ヒマをもてあまして、かなり退屈らしいのである。それで、さすがに毎週はキツイので、せめて月1回、できれば隔週くらいは、二人の息子(夫と義弟)のどちらかが代わりに泊まって欲しいと頼んでいたのだ。義母も心配なのは夜だけらしいので、夜だけ泊まってくれればいい。義弟は、大阪府の南の方に住んでいるが、車で30分ほどなので、たまの週末くらいなら来れるだろうと思ったのである。

だが、それが大変だった。早い話が、夫も義弟も、二人ともそんなことはできるだけしたくないらしい。仕事が忙しいというのもあるが、どちらも面倒くさいらしいのである。「夜、本当に不安で眠れない…」という義母のことも、「どうせおおげさに言ってるだけだろうが」などと話している。実際には、義母は、昨年は4回も発作を起こして、緊急入院しているし、毎週のように何度もニトロを飲んでいる状態なので、おおげさでも何でもないのだが、この兄弟は、義父が肺ガンで入院しても「今日か明日」という危篤状態になる日まで、「大丈夫、大丈夫」と言っていたようなタイプなのである。

そういえば、この義父が9年前に胃ガンになった時も、そうだった。大量に血を吐いても、「どうせ本人が行きたがらないから仕方がない」と病院に連れて行かなくても、ぜんぜん平気だった。やっと医者に行ってもらい、手術で胃を全摘しても、義父は、毎日タバコ2箱、日本酒は二日で一升瓶一本という生活を続けていたのだが、それでも「どうせ本人がやりたがるんだから」と止めはしなかった。

昨年の夏には、義父が「ずっと風邪が治らない、咳が続く、腰が痛い」というのを聞いて、正直、私は「ヤバイ、それは絶対ヤバイ」と思っていたのだが、この時も「大丈夫、大丈夫」と決して医者に連れて行ってくれなかった。結局、義父は年末に入院してわずか十日ほどで亡くなった。やはり肺ガンがすでに全身に転移していて、腰も大きなガンに冒されていたのである。まあ、この義父は、頑固で、義母の言うことにも、医者の言うことにも絶対に耳をかさない人だったから、(胃ガンの手術後も医者にほとんど行かず、薬だけはかろうじて義母が取りに行っていたらしい)、どっちみち誰が何を言っても、早めに病院に連れて行くのは、ほとんど難しかっただろうし、ご本人は、やりたい放題の人生だったみたいだから、義父の場合はそれはそれでもよかったんだろうと思うが、いやはや「息子が二人もいてもなあ」とつくづく思ってしまった。どこかには、いつも母君の介護のために遠方を往復しているエライ作家さんもいるのに、ほんの少しくらい見習ってほしいものである。

しかし、こういうのを聞くと「ホンマ男って頼りにならんなあ」「やっぱ息子なんか産むもんじゃねえな」と思ったりする。が、嫁に行った「娘」なら、それはそれで、月に一度、実家に泊まりに行くのは、色々と大変かもしれないし、どっちもどっちかもしれないなあ。義母も、自分の息子より、なぜか小学生の孫の方が頼りになるのか、毎週、ちょっとでも遅くなると電話がかかってくるし、そんな状態だから、息子もなかなか大変である。彼は「ボク、おばあちゃんのこと、すごく心配やのに、パパたちはなんで心配じゃないんかなあ」と心を痛めているが、たぶん、そういう彼も大人になれば、そのうち頼りにならんのかもしらへんしな。

ところで、義弟との電話で、しばしば「おまえは長男やろ」というセリフが出てくるらしいのだが、これがちょっと興味深い。義弟は、たとえ月に一度でも、週末に泊まりに行くのはイヤらしく、「長男のおまえ(うちの夫)が同居すれば」と言っているらしい。ま、確かにそういう考え方もある。ただこれは、あいにく義母も私も、まったく同居する気はないのでダメである。義母は、自分自身が嫁姑関係で相当に苦労したらしいので、当分、同居する気はないと言っている。まあ、最近は、他の親戚のオバサンたちも、よほど経済的に困窮していたり、寝たきりにならない限り、みんな自分からはヨメと同居したがらない。そりゃ3人も子供がいるので、実はホントは同居してもらった方が何かと安心なのだが、めちゃくちゃに騒がしいうちより、一人の方がやはり気楽だろうから、私も、同居には賛成じゃないのである。それでも義弟は納得しないだろうが、このあたりも、なかなか難しいところである。

それにしても、私よりも年下のはずの義弟が「おまえは長男だろ」などと言っているのが面白い。義父自身が相続を断ったらしいので、とくに家やら家業も何もない「家」なので、今さら長男も何もないと思うのだが、やはり長男とか、次男とか何か関係あるのだろうか。彼は、私にも「母親が働いているなんて、子供たちが可哀相じゃないのか」などと言ったりするし(義弟の妻はもちろん専業主婦)、なかなか今どき珍しいくらいの封建主義というか、「男らしいタイプ」の人である。まあ、若い人の中にも、そういう考え方の人がかなりいるのだが、私の周囲ではちょっと珍しいタイプではある。

以前にも、彼が、私の目の前で、自分の子供(6歳の甥)をふっとばすくらいに殴り、「なぜ、おまえの所は殴らないんだ。だからダメなんだ」などと言うので、少しモメたこともある。あいにく私も夫も「しつけ」で子供をなぐったりはしない方針だし、他人がまだ幼い子供を殴っている姿も絶対に見たくないタイプである。私自身はそういう考えなのだが、どうやら、そのためにうちの息子はノンビリした「気の弱そうなアホ」になっているらしいのだ。義弟いわく、男の子というのは、ガツンガツンと殴らないとマトモには育たないらしいのである。ところが、私の見たところ、彼自身の息子は、いつもどこかビクビクしていて母親が近くにいないとダメなタイプである。いやはや、しつけというのは、ホンマなかなか難しいものだなあ。

ちなみに、いろいろな意識調査を調べてみると、世の中の親の6〜7割が「しつけなら、殴るのは当然」と考えているらしい。私にはちょっと驚いた結果だったが、どうやら、世間では義弟の考え方の方がどうやら「普通」らしい。子供を殴ってしつける親はたくさんいる。それなら、たまたま打ちどころが悪くて死ぬ子供が、毎日けっこういるのはあたりまえなんだろうなとも思う。幼児虐待とか、そんなこと言われたって、本人たちは「しつけ」だと思っているかもしれないし、確率的にも、「事故」はごくたまに発生するものだ。交通事故と同じで、たまたま運が悪かっただけなのかもしれない。義弟も、「殺すなんてヘマは絶対にしない。そんなことをするヤツは特別や」と言っていた。まあ、それはそうなんだろう。たぶん殺すなんて親は特別なんだろう。それはそうだ。それはそうだとは思うけどね。

そういうわけで、いつも私は、世の中の子供たち、すべての幸運を祈っている。

07/19/2005

小説と教育論、当事者の目、第三者の目

7月18日(月)
日曜、月曜は、小説講座の事務所はお休みです。

のんびりと休日。朝から子供たちは、大騒ぎをしながら、網を持って虫とりに。午前中、あれこれ家事。休日と言っても、朝は5時半起きだし、ラジオもいつも通り。夕方は、娘たちもスイミングがあるし、夫は休日出勤。あまり遠出もできない休日である。

彼はしばらく公演などがないので、少しは家にいるのかと思ったら、なんだかめちゃくちゃ忙しいようで、7月に入っても、やっぱり家にはほとんどいない。趣味にしろ、仕事にしろ、何かと一年中忙しい人である。今日は、わざわざ休日なのにネクタイを絞めて、仕事。こんな時期、この三連休というのに、それも、なぜか「家庭訪問」というのだから、こちらもそんな仕事のことは、少しも詳しく聞きたくないのである。ま、何かあったのだろう。彼は、高校の美術教員だが、この十数年間ずっと非常勤で、定職に就いているわけではなかったので、正規の職員になったのは昨年。で、初めてクラス担任をもったのが今年の4月である。ほんの3カ月、しかも、この時期に家庭訪問というのは、この学校ではかなり珍しいらしくて、ちょっと気の毒。

とはいうものの、新任教員とは言っても、彼は、産休、育休、代休、期限付……と、教員生活は十数年ある。ふつうなら、大学を出たての若い人がコレをやっているわけで、そう考えてみれば、教員というのは、けっこう大変な職業だなと思う。彼は、日頃は美術の教師なので、陶芸をやったり、シルバーリングを作ったり、ガラス工芸をやったり、どうみても私には、毎日、女子高生と一緒に「ただ遊んでいる」ように見えるのだが(専門は油絵だが、工芸の免許もある)、それなりに苦労はあるのだろうか。まあ、なぜか同じ学校に勤めている喜多さんが「ぼやいたるねん」で、もう「ぼやく体力」も残っていないくらい消耗しているのを見れば、それくらいの苦労はしてるんだろう。たぶん。

そう言えば、先週、講義後、飲んでいた時、テーブルの向こうの方で、なぜか「元教師」の生徒さんがめずらしく大きな声で話をしていた。いつもはびっくりするくらい温和な方なので、「一体なんだろうな」と思ったら、どうも「教育」についての議論になったらしいのであった。少し気になったが、私が座っている場所からは、全然、内容がわからなかったので、近くに座っていた女性の生徒さんに「あそこ、どんな話してるの?」と聞いたら、「うーん」と苦笑いをしている。どうやら「今の教育はこういうところがダメだ」という話をしていたらしいが、元教師は、教育現場のことをあれこれ知っているので「そうは言っても、こういう事情があるんですよ」という強く反論をしたらしい。でも、その女性は「お互い、話している前提が全然違うみたいだから、どうなんでしょうね」と笑っている。彼女は、自分自身にも年頃の子供がいるせいか、どうやら「元教員」の意見の方に共感しているものらしい。どっちみち、酒を飲みながらの話だから、すぐに別の話題に移ってしまったが、なんだか印象に残ってしまった。

教育というのは、みんな関心があることらしく、それぞれ色々思うところがあるものなのだろう。しかし、男性というのは、「政治」とか「教育」とか、「日頃、どれくらい関心があるねん」と思うのに、酒が入ると「こうあるべきだ」なんて、いきなり言いたがる傾向があるなあ。「今の教育はダメだ」なんて、百人いれば百人とも、当事者でなければ、おそらく平気で言える話である。面白いことに、男性というのは、「教育」って、なぜか自分には全く関係がないと思っているものらしい。たとえ自分自身の子供がいたとしても、それはそれで、「教育」にはかなり無責任なことが平気で言える人が多いのである。私は、広告業界に長くいたせいで、仕事上では、オッサンと一緒に飲むことが多いのだが、こういう男性の心理はいつも面白いと思う。やはり、どこか男性というのは、教育にしろ、子育てにしろ、多少は「協力」はするけれども、やはり「責任」はすべて母親にあって、自分自身は関係ないとどこか思い込んでいるものらしい。たぶん日頃、自分自身は「しつけ」に全然参加したこともない、自分の子供の誕生日、年齢すら忘れている、みたいなオヤジさんたちが、「最近の教育も、親も、全然なっていないぞ」なんてことを言いながら飲んでいる。自分自身のことは、まったく気がついていない。私は、なかなか面白いことだなと思いながら、飲んでいることがよくある。

「恋愛」などが話題になれば、まったくの他人事では言えないものだが、どうも「教育」なら(教育関係者を除けば)、男性は、誰でも好き勝手に「今の教育はダメだ」と言えるものらしい。もちろん、現場を知っている人は、なかなかシャレにならない話題を含んでいるので、たまには反論もしたくなるのかもしれないが。

結局、当事者ではない人は、無責任に気軽に発言がいくらでもできるのだが、教育関係者や年頃の子供を抱えた保護者だと、そうはいかない。酒の席だとわかっていても、ちょっと違うレベルで、ついつい話をしてしまう。とくに義務教育は、今、ややこしい話がいっぱいある。たとえば中学校でも、最近、高校の変革も進んでいて、進学問題だけでもかなりややこしくなっているらしい。でも、あんまりややこしすぎて、当事者以外には訳がわからない。私は、家族が教育関係者で、しかも年頃の子供がいて、それでもよくわからない。教育は、誰でも身近なのに、外からわからなくなっている世界である。でも、外からわからない世界ほど、当事者じゃない人は好き勝手に言える。テレビで話題になっている相撲関係の話なんか、どうせ、外からはわからない世界である。誰でも、いくらでも好きなことが言える。まあ、そういう話題の方が、やってて楽しいんだけど。

そういや、作家や編集者が集まって小説について話すのと、ファンが集まって話すのとでも、話のレベルは全然違うだろうな。ただのファンじゃなくて、小説家になりたい人も、ちょっと考え方が違う。ところで、私は、読者が作品について「とやかく言う」のは当然の権利であり、金をもらっている以上、どんな作品にだって「おもんない」「つまんない」という発言をする権利くらいはあると思っている。それが、ある程度「無責任」な態度でも、それが読者なんだから、しょうがない。だいたい「消費者」は、金を払っているだけにワガママである。小説家も、プロになれば、商品で金をもらっているわけで、「おもしろい!」と賛辞をもらうこともあれば、「つまんない」と言われることもある。「いや、何もわかっていないシロウトに『つまんない』と言われるのはプライドが許さない、絶対イヤだ」というのなら、それは書店で売らずに自分だけで持っていればいい。そういう意味では、プロになってしまえば、わかってくれない読者の目に触れてしまうのは、仕方のないことなのだ。でも、そういう読者がいるからこそ、誉めてくれる人もいるわけだ。むろん「そういう商品なんだから、それぐらい納得してから購入してよね」と言いたくなる消費者もいるにはいるけど、これは仕方がないと思う。メーカー側の論理と、消費者側の論理は、やはり違うものらしいからである。

ところで、女性というのは、たとえ子供がいない若い独身であっても、あるいは「もう産む気もないわ」なんて言っている年配のキャリアウーマンであっても、「教育」とか「子育て」の話をする時には、必ず「他人事」ではなく、「自分自身」に置き換えて考えるところが面白い。なんだか女性は、男性と違って、自分にはホントに関係のない話題には、全く関心がないものなのかもしれないな。なんだか、こういうところが少し不思議である。

07/18/2005

小説とは関係のない休日(幽霊、UFOのいる夏空)

7月17日(日)
日曜、月曜は、小説講座の事務所は、お休みです。

朝、帰宅が遅くなったので、4時間ほど仮眠。家族は、義母の家の近くの神社で「お祭り」があるので、全員泊まりに行っており、10時に起きて、一人で優雅な朝食。前日のブログをアップするのをすっかり忘れていて、2日分まとめてアップ。その日の気分で、アップするホンマ適当な時間を設定したり(アップする時間は、いちいち毎回打ち込まないといけないのだが、現在時刻から「時」と「分」を変更するスタイルなので、「分」まできっちり合わせるのが面倒。ついつい適当な時刻に設定してしまう。他のやり方もあるんだろうが、それも面倒)、書きかけの下書きのまま、ほったらかしたり、ええかげんなブログである。一応、毎日更新(のつもり)だが、たいてい最初の一行だけが重要で、それが業務連絡。あとは専攻科の生徒さんのために書いているよな雑談。むろん一般の人が見てもいいんだけど、あんまりたいした内容がないはずなので、たまにアクセス数が増えると、かえってビビる。誰が読んでるのか知りませんが、見逃してくれよ〜。

昼、子供たちをつれて、新築された実家に行く。父の妹二人が来ていて、挨拶をする。私にとっては、叔母さんになるのだが、一人は大阪の高槻市、一人は父の故郷である岡山の津山市に住んでいるので、「高槻のオバサン」と「津山のオバサン」と呼ばれている。たしか三歳違いのはずだが、たいへんよく似ていて、とても早口でよくしゃべる。明るいオバサンたちである。

私の母は、広島の三原出身(瀬戸内海の島育ち)、父が岡山の津山出身(山育ち)なので、小さい頃は、毎年、夏は、どちらかの田舎に1週間くらい滞在していた。滞在中は、イトコたちと遊ぶのが楽しみで、父の故郷だと、川に金網を張って泳ぎ、母の故郷だと家の前がすぐ海だから、毎日、泳いでいた。当時、田舎の少年たちは、女の子と一緒の時にしか、水着を着なかった。学校の帰りに泳いでいるので、真っ黒で、いつもは素っ裸で泳いでいるらしい。毎年、盆休みに行くわけだから、私のイメージする田舎は、いつも幽霊(御先祖様)がうろうろしている場所である。

都会では、墓がある場所も限られているし、事故でも見かけない限り、死は病院の中にしかない。でも、田舎は年寄りが多くて、墓はすぐ近くにある。父の故郷では、どの家も、自分トコの小さな山に自分たちの家だけの墓場がある(このあたりの農家は、どの家も「自分トコの里山」がひとつずつあるのである)。父の実家は、分家なのだが、本家が絶えているので、本家の墓もみてるらしく、2ケ所に墓がある。家の前の小道を20〜30分ほど登ったところにあるので、墓参りは、さほど面倒ではない。草が茂っているので、線香をぶんぶん振り回しながら、草をかき分けて行く。同じ歳のイトコは、「オレの墓は、ここらへんのハズ」と嬉しそうに予定地で飛び跳ねていた。

祖父が亡くなったのは、もう十数年前だが、92才の大往生だったので、たいへん明るい葬式であった。このあたりでは最後の「土葬」であった。土葬は、このあたりの風習だから、ずっと続けたかったみたいなのだが、年寄りは、寒い冬に亡くなることが多い。津山では、最近はあまり積もらなくなったが、冬は雪が積もる。細い山道だから、車なんか通れないし、土葬だとかなり深く掘り下げないといけないので、若い人が少なくなった田舎だと、墓穴を掘るのが大変なのである。田舎の人は、信心深いせいか、若死でないなら、死ぬのはあまりタブーじゃなかったので、年寄りもまるで外国に行くみたいに「もうすぐ行くから」なんてことを本人も周囲も平気でしょっちゅう言うが、いくらなんでも、前もって墓穴を掘っておくことはできないし、亡くなったら、翌日にはでっかい墓穴を掘らないといけないのだから、土葬はホント大変である。まして、冬、雪をかきわけて、凍りついた地面を掘り返すのは相当に大変らしい。祖父の時は、冬で、親戚(田舎だから、どうせ村中の人が親戚だが)の男の人が交代で、夜、ずっとたき火をして、酒を飲みながら、掘ったそうで、葬式が始まる直前まで、ぐうぐう寝ているオジサンたちがたくさんいた。

万博公園に「国立民族学博物館」があって、そこに行くと、ビデオブースというのがある。そこでは、色々な世界の民族の風習などを映像で見ることができる。それで見ると、日本の葬式と朝鮮半島の葬式は、なかなかよく似ている。祖父の葬式は、村の人が総出で行う、このあたりでは、おそらく最後の田舎の葬式だったから、ホントにそのビデオで見るような「日本の伝統的な葬式」であった。村の女性たちは、みな、かっぽう着を着て、うようよと集まって、ぐちゃぐちゃしゃべりながら精進料理を作り、村の男性は、なんだか色々、葬式に必要なものを作る。竹を何本も切って来て、紙でできた飾りを作ったり、棺桶の上に飾る紙の「みこし」のようなものを作ったり、わらぞうりを作ったり。わらぞうりは、葬式が終わってから、墓場へ行く時、白い三角を頭につけて棺桶をかついだ親族がはくのである。葬式の準備には、どうみても百人以上の親戚がうじゃうじゃ手伝っていた。まあ、親戚といっても「祖父のイトコの娘婿」だとか、「祖父の妹の孫の嫁」とか、いちいち説明されても、何だかよくわからない。あまり遠縁すぎてわからない人とかいっぱいいる。

そして、葬式が終わってから、ぞろぞろと墓場まで、棺桶やら、竹やらを持って大行進である。山道を歩いて、行列する。その時は、冬だったから、雪が積もっており、つるつる滑るし、棺桶をかついでいる孫たちは、いわく「都会の軟弱な若者」ばかりだから、雪の小道をわらぞうりで登るのには慣れてなく、棺桶をおっことしそうになり、途中で何度も交代してもらい、「土葬は、これが最後やけ」と言われていた。だが、それだけに墓に納めてからの「達成感」があるのか、その後は、精進落としというより、すごい大宴会であった。まあ、祖父は大往生だったそうなので、お通夜も「寝たらいけんので、夜通しカラオケ大会」やったらしいけど。

そんな父の故郷も、母の故郷も、幽霊が普通にうろうろしているらしい。田舎の人は、死んでいる人も、たまたまちょっと外国に住んでいるような感じで話をする。盆にはホントに帰って来ているみたいにふるまっていた。まあ、そんな感じだから、幽霊を見たとしても「ああ、帰って来たんやろ」と別に大人たちは誰も驚かない。みんな幽霊くらい、よく見るらしいのである。でも、イトコが「UFOを見た!」と言ったら、なぜか「どこやどこや! 写真、撮らな!」と大騒ぎしていた。

というわけで、夏が来るたびに、私はぼんやりと夏の空を見上げて、「ちょっとUFOでも通りかからないかな」と探してしまうことがある。

07/17/2005

梅田、野田、天満橋、小説と関係が深い長い一日

7月16日(土)
朝、エル大阪に寄って、教室代支払い。事務所で事務作業。昼、梅田へ移動。夕方は、小説講座の専攻科合同授業。長編と短編の作品指導で、講師は高井信先生。

昼は、梅田で、専攻科のFさんと一緒に、東京創元社の編集者のお二人にお会いする。専攻科のFさんの原稿を、芦辺先生が知り合いの編集者に渡してくださったそうなのだが、「これは本人に直接、お話をした方がいいでしょう」ということを言っていただいたそうで、わざわざ大阪出張のついでに、ご連絡いただいたのである。私が同席したのは、芦辺先生が「本当はボクが一緒に言ってあげないといけないのに、SF大会があるので、代わりに立ち会ってほしい」というからである。でも、Fさんも、別段、編集者と直接会って、変な受け止め方をしたり、ということはないし、お勤めをされているとてもしっかりした女性なので、本来、別に私が立ち会わなくてもぜんぜん心配はないと思うのだが、Fさんはやはり女性なので、芦辺先生は妙に心配されたのではないかと思う。先生は、面白いことにかなりの心配症で、フェミニストなのである。

編集者の方は、たぶんお二人とも、一度、芦辺先生の母上様の告別式で受付をした時に会っているはずだが、とりあえず食事をしながら、三時間ほど話す。Fさんには色々作品上の注意を丁寧に話してくれる。お二人とも若いけど、さすがに、頭の切れる編集者である。私はオブザーバーなので(むしろ邪魔モノ?)、正直、多少ヒマをもてあましていたのだが、けっこう楽しくいろいろ話をする。ネタは、やっぱり小説、または芦辺先生のウワサ話(犬の話)など。いや、悪口はしてません。ホント(ってわざわざ言うとわざとらしいけどホント)。

12時半から4時過ぎまでじっくりお話を聞き(私はメシ食ってただけ。しかも、おごってもらった。お邪魔しました)、それからFさんと一緒にJR野田へ移動。少し印刷などを手伝ってもらって、教室のある天満橋へ。私は自転車があるので、Fさんは地下鉄。

本日の講義は、高井信先生。お会いすると、「ひえええ、どうしたんですかっ!」というような別人ぶり。いや、びっくりです。草上先生も「別人ですわ」というくらいスマートになっていたのですが、高井先生も、別人かと思うくらいスマートに。確実に10キロ以上は違うと思うんですが、お引っ越しで、夜、「一人宴会」をやめて、早寝早起きを実行し、健康的な生活をした途端、何もせずにやせたそうです。どんな暴飲暴食してはったんですか。ひええ。でも、やせるとやっぱ、男性はカッコいいですね。やっぱ筋肉、いいですな。

作品指導は、長編一編と短編一編。メインは、数百枚の長編。高井先生は、作品指導はベテランなので、すらすらと作品指導。講義終了後、例によって、例の中華店へ。店には、牧野修先生が来て下さっていて(高井先生の急に呼び出されたらしいけど)、飲みながら、いろんな質問にも丁寧に答えてくれたそうである。第7期との合同クラスだが、飲み会に残ったのは、全員、専攻科ばかり。先生方が10時半頃に先に帰られてから、生徒さんと話していたら、「今日は、高井先生の講義もよかったし、牧野先生からも色んな話が聞けて、すごくよかった!」とえらく感動していた。「ほんま、ええ人やなあ」って、はい、牧野先生は、ええ人なんです。たぶんご本人は「ええ人やって思われたら困る。ホンマはええ人ちゃうねんから」と言うでしょうし、「ホンマは、悪い人なんです」とかいいそうな気もするけど、それくらいええ人なんですよ。あんな作品書くけど、すごい作品書くけど、めちゃくちゃスゴイけど、げちゃげちゃエグイことも書くけど、ごっついええ人なんです。ま、感謝するなら、皆さん、とにかく作品書いて下さいね。ほんでデビューして、みんなとりあえず本十冊ずつ出しなさい。ほんなら許す(意味不明)。

そのあと、専攻科の人と朝5時まで近くのファミレスで、ごちゃごちゃとアホな話など。まあ、小説の話もしてた(ハズだ)けど、9割は、アホな話でしたな。Sくんのスランプ(?)脱出作戦など。これは重要なプロジェクトだな。まあ、あまりデビューをアセリすぎても、たまにそれだけでごちゃごちゃと悩んでしまうし、かといって、専攻科であまりノンキにかまえていてもそれはそれで困るので、そこが難しいところである。結局、5時半帰宅。ちょうど目覚まし時計が鳴っている。毎朝5時半起きなのである。

こだわらないように、こだわってインタビュー

7月15日(金)
午前中、原稿制作。午後、事務所を出たり入ったり。バタバタ外出。

夕方4時から、チケットをもらっていた「ゴッホ展」を見に行く。ホンマ美術館に行くのも、大変だ。うわさ通り、かなり人が多い。土日はもっとすごいだろうな。なんだか平日のせいか高齢者が多い。いつも思うけど、日本人がとくにゴッホを好きなのはなぜかしら。わかりやすいせいかなあ。美術館が便利な場所に移転したというのもあるし、人が集まりやすい企画をしているし、とても人気がある展覧会だ。国立国際美術館が千里に会った頃は、現代美術が中心だったせいか、いつもひっそりとしていた気がするけどなあ。それもなんだか懐かしいなあ。

昼、仕事の修正。クロスワードパズルの仕事。提出後、いつもあまり修正はないのだけど「いじめっこ」が使えないということである。差別用語でははないと思うのだが、クライアントがある仕事なので、政治的なキーワードも使わないし、ヒントの出し方もかなり気をつけているつもりなのだが、たまにこうして修正がある。クロスワードパズルでも、専門誌ではなくて、普通の雑誌のコーナーに掲載されるものは、多少、制限はある。難易度が難しいほど、パズルを作るのがカンタンそうに見えるが、実は、簡単なヤツほど、けっこう難しい。以前、子供たちのために簡単なパズルとか作ってみたのだが、子供向けは使える言葉がめちゃくちゃ限られているので、タテヨコ、ヒントを作るのもけっこう面倒で大変だった。

帰宅後、夕食。サンマ、サラダ、枝豆、冷ややっこ、ビール。すっかり夏である。自宅の仕事場を少し片づける。古い企画書、インタビューテープを整理する。企画書は、古くなってしまえば別に重要でもなんでもないのだが、インタビューテープは個人情報だから、一応、確実に廃棄しなくてはいけない。私は、概ねインタビューに使ったテープは、1年くらいで廃棄する。雑誌や印刷物だと、出版されるまでに数カ月かかるし、出てからしばらくも、何か問題があるとまずいので、そのまま数カ月置いておくのである。のだが、この数カ月ほとんどインタビューの仕事をしていないので、そのままになっている。

ところで、小説を書く場合も色々取材をする人もいるだろうけど、ライターの仕事をすると、取材そのものが仕事みたいなものだから、人を相手にインタビューをすることも多い。私はもともとコピーライターだけど、フリーになってから雑誌の仕事もするので、これまでに千回はしてないと思うが、少なくとも数百回はインタビューをしてきたのだろうと思う。今年は、小説講座の事務所の仕事が忙しいので、ほとんど仕事をしていないのだが、それでも今年に入ってからも二十件くらいはしているみたいだし、広告でもインタビューをすることは多い。会社案内、新製品のキャンペーンなどで聞き取り調査をする場合もあるし、PR誌だと「得意先訪問」なんてコーナーもあったりする。ひとくちにインタビューといっても、目的も色々である。インタビュー記事を書く他にも、いわゆる「情報」を得るための聞き取りもある。会社案内だったら、社長に「企業理念」とか「今後の事業計画」について語ってもらったりするわけで、新製品だったら開発者インタビュー、営業部長やトップセールスマンの聞き取りなんてのもある。

ところで、インタビューの方法は、人によってけっこう違う。ホント、それぞれ違っていて、面白い。ライターの友人と話をしてみると、それぞれメモ帳とか筆記用具とか、テープレコーダーとか、色んなこだわりがあったりする。先日、小説講座の講師としてお会いした堺三保先生は、USB付ICレコーダーを使っていて、そのままパソコンにつないで、とりこんでいるそうだ。キーボードから手を離さずに聞けるのが便利なのだそうで、「さすがだなあ。かっこいいな、すごいな」と思ったのだが、私はそれほど仕事でバリバリ使う機会もないだろうから、買うのは贅沢だろうなあ。私は、あいかわらずテープレコーダーを使っている。SONYの一番シンプルなヤツで、オートリバースもついていないやつ。通常は、120分テープを使っている。あらかじめ、時間制限が決まっているものだと90分とか使い分けている。120分でも60分たったら、ひっくり返さないといけないのだが、普通のインタビューだと30分か60分のどっちかを目安に考えているので、これがこれで時間の目安になっていいのである。インタビュー中は、相手からほとんど目を離さないので、時計が見れない。案外、時間がわからないのである。

メモ帳は、上着のポケットに突っ込んでいて、どっちかというと可能な限り、大学ノートを使っている。というのは、一日に何人もインタビューする場合もあるし、連続して十数人にインタビューをしたりすると、あとでまとめて原稿を書く時に、メモ帳だと小さすぎて、何冊にもなったりするから、整理しにくいのである。それから大学ノートだと、インタビューが連続して何件もある時に、例えば服装だとか、いろんな自分の覚え書きだとか印象だとか、色々と書き込みをしたりできるので、ラクである。ただ、難を言えば、大学ノートを使ってインタビューをすると、ノートをのぞき込まれないようにするのにちょっとコツがいる。まあ、のぞかれてマズイことはないのだが、インタビュー中にそっちに気にとられると困るのだ。あとは、インタビュー事項をだいたい12〜15個くらいにまとめて、ワープロで小さな字で出力し、ノートの裏にぺったりと貼っておく。こうすれば、話が途切れた時にすぐに別の質問に入れるし、聞きもらしをする心配もない。気のせいか、新聞記者出身のライターは、メモ帳が小さい傾向があるみたいである。雑誌ライターはいろいろである。メモ帳も、これがいいとか、あれがいいとか、けっこうこだわりがあって、面白い。

あとは、右側のポケットに必ずもう一本「乾電池」「テープ」「水性ボールペン」を入れておく。重要なインタビューだと、はじめからテープレコーダの乾電池を新しいのに変えてしまうのだけど、途中で乾電池を交換できそうだと、ランプが消えて、止まってから交換するので、すごく取りだせるように、2本まとめて、紙でつつんでおく(ビニールのままだと手間取るかもしれないから)。筆記具は、たいて水性ボールペンか、細字のマジック。私は、デザイン用のドローペンを使うことも多い。インタビューだと走り書きなので、とにかく滑りがいいのがいいのである。

インタビューそのものは、その場その場で、考えるので、あまりこだわりのようなものはない。コツといっても、経験上、こう聞いた方が聞き出しやすいみたいなものは少しある。たとえばちょっと思考レベルの高い事を聞きたい場合(その人の人生観を語ってもらうような場合とか)、いきなり「あなたの人生観は何ですか」と聞かれても答えられないので、インタビューはできるだけ「具体的」なところ、確実に答えられるものから始めるのがいい。挨拶とか、インタビュー主旨とか説明したあとは、たとえばその人の「名前」(意外と名前の確認もれがあったりするのだ。読み方まで確認しておくといい)とか必要なら住所、年齢。仕事観を尋ねるなら、「この仕事を選んだきっかけ」など、とにかく相手が悩まなくてもすぐに答えられることから、より高度なレベルに、順番に聞いていくのがコツである。

ところで、インタビューは事前に調べられることはできるだけ調べておいた方がいいのだが、調べたことを一度忘れるくらいのつもりで聞いた方がうまく行くような気がする。たとえば、有名人にインタビューする場合は、とくにそうで、事前にあまり調べ過ぎるとインタビューをする前から、すでに自分で原稿を作り上げてしまうことがあるからである。こういうライターは、インタビューでも、自分の書きたい原稿のためにそこだけの確認だけをして、本当に聞くべき内容、すばらしい内容を聞きもらしてしまう。でも、こういうインタビューは、ホントはもったいないのである。だから、どんなに調べておいても、それは全部一度捨てて、また本人の口から一から聞くぐらいのつもりの方がうまくいく。その方が、その人ならではの格言というか、その人にしか言えないような考え方、表現が拾うことができる。インタビューのオモシロさというのは、その「宝さがし」みたいなところがあり、けっこう、その人にしか言えないセリフ、その考え方をパッとわかるような、まるで「宝石」のように輝く言葉が見つかるものである。きちんと話を聞いていれば、文字にした時に、そこだけ輝いてるような言葉が、絶対に見つかるのである。ところが、事前に調べたことにあまりに頼り過ぎると、本来、見つけなければいけない「お宝」が見つけられないことがあるのだ。だから、謙虚に耳をすませる。耳がにごっていたらダメである。それには「信頼関係」が必要である。インタビューは、どこかデートのようなものだ。こちらが好意を向けて、愛をもって、謙虚に話を聞けば、必ず実りがあるものだと思っている。

もしかすると、小説を書く人が、作品を書く上で、取材の必要性を感じて、人に話を聞く場合もあるかもしれない。事前にインターネットや図書館などで、調べるだけは調べておかないといけないけど、本当は、人に話を聞く場合は、たいていの人は有り難いことに、自分の知っていることで、それが人の役に立つなら、話をするのは多少面倒でも、それほど嫌がらずにやってくれる。数百件してインタビューをして思うのは、人間というのはホント色んな人がいて、色んな考え方をしていて、しかも皆けっこうインタビューには喜んで応じてくれる「いい人」なのである。(まあ、インタビューは一期一会になることがほとんどなのだけど)

やっぱり人間というのは、自分のことを認めてくれる人に、自分の知っていることを話すのは嫌じゃないのではないかと思う。たぶん「本能的に」そうなっているんじゃないだろうか。だから、よほど失礼なことをしない限り、それはテクニックなんかではなく、思いやりとか謙虚さ、熱心さとかがあれば、必ず話を聞かせてくれるし、話してくれる人は見つかる。こんなこと調べられるのだろうか、なんて思っていても、どういうわけか、必ず話をしてくれる人は見つかる。不思議なことに、会いたいと思っている人にはちゃんと会えるようになっているのである。「こんな情報を聞きたい。だからこんな人に会いたい」というのは、必ず実現するものなのである。いや、これは無理じゃないかと思っても、ひょんなところから出会いができたりするのである。

全神経を使うから、けっこう消耗するけど、インタビューはおもしろい。ああ、最近、小説講座の仕事も楽しいけど、また取材の仕事がしたいな。

07/15/2005

ひょうたんから美女

7月15日(木)
終日、外出。読むべき作品が、山のようにたまっている。

夕方、体調悪くなり、かなり早めに帰宅。頭痛と吐き気がある。どうも軽い夏風邪のようだ。熱中症かも。とにかく頭痛がひどいので、自宅で薬を飲んで、少し横になる。ところが、短縮授業のため、子供たちがうるさく、休んでいるどころではない。頭痛薬が少し効いて来たので、近くの図書館に避難。椎名誠やら夢枕獏などのエッセイやマンガ(諸星大二郎と西原理恵子)など、できるだけ軽い読み物とビデオを借りる。ホントに体力がない時に読むのは、小説じゃない方がラクである。面白い小説は、体力のない時にジェットコースターに乗るようなもので、けっこうツライのである。

家に帰ると、玄関の前のコンクリートのところに黒い小さな固まりがあった。よく見ると小さな魚の形をしていて、どうやら昨日死んだグッピーの一匹にたくさんのアリがたかっているのである。先週、買って来たばかりで、立て続けに数匹死んでしまった。それを子供たちが、どうやら埋めずにほっておいたらしい。たぶん墓でも作ろうとして地面を掘り返しているうちに、友だちがきてしまい、そのまま忘れて遊びに行ったのだろう。アリが行列を作っていて、小さな魚は真っ黒におおわれている。なかなか見モノである。面白いから、そのままにしておく。家の中にいるのでなければ(古い家だから、まれに家の中に大量発生するので)、アリをずっと見ているのは、けっこう好きなのである。

夕食は、体調が悪いので、あっさりしたもの。私以外の家族の体調が悪いわけではないのだが、作るのは私だから仕方ないのである。冬瓜と豚肉の味噌だれ、冷ややっこ、アジの煮物。夜、臨時のクロスワードの制作の仕事があったので、ちょっとだけやるが、やっぱり頭痛がかなりするので、9時には横になる。西原理恵子の『できるかな』というマンガを見る。しかし、このタイという国は面白そうだ。旅行で行くよりも、せめて1ヵ月ぐらいいれたら面白いかもしれない。そういえば、タイに住んでいるというSクンは、今、どうしてるんだろう。

Sクンは、中3の時、クラスが同じだった男の子である。たしか当時は、めちゃくちゃチビだった。ちょっぴりワルで、万引きで何度かつかまったりしていたが、愛嬌があり、クラスでけっこう人気モノだった。今はどうか知らないが、当時、本当の「ワル」は、カツアゲをすることが多くて、あんまり万引きなどしない。万引きでつかまるのは、「おまえ、ちょっと『勇気』見せて来い」などと言われた下っ端か、ただの「いちびり」または「お調子もの」だけだったし、まして、Sクンがつかまったのは、たしか1回目は「アイスクリーム」だったから、そうワルでもないかもしれない。
(ただし、アイスクリームは1個だけじゃなくて、箱ごと数箱ぬすんで、1個10円でみんなに売り飛ばしていた、と記憶しているが)

それでも、Sクンは悪びれないタイプで、2度目につかまって(たぶん他にも余罪があったと思うが)、とうとう家裁送りになった時も、教室で元気よく手をあげて「センセ、オレ、明日、家裁やから、宿題でけへんで!」と大きな声で言い、先生が「そんなん、大声でゆわんでええわ。どっちみち、いっつも宿題してけえへんやろ」と言って、教室中でみんなにゲラゲラ笑われていた。ほんま、明るいワルガキである。他にも、体育を終えて教室に戻って来たら、女子が着替えていた教室の窓を、全部をひっこぬいて隠していたり、友達のカバンにカエルを入れたり、まあ、アホなことばかりしていた。大阪ではこういうヤツは、ワルというより、むしろイチビリという。

そう言えば、エロ本事件というのもあった。ある朝、私が教室で一人でいると(私は、中学から3分くらいの所に家があったので、毎朝、一番に教室に入っていたのである)、いつも遅刻してくるはずのSくんが2番目にやってきて、「もう来てたんか。頼むから、おまえ、だまってろよ」と、いきなり机の上にイスを重ねて、教室の天井裏に隠してあったエロ本の束を取り出して来た。「いつのまに、そんなとこにそんなたくさん隠しとったんや?」と思ったが、彼は「遅刻指導、エロ本作戦や」と言って、それらを男子の机の中に一冊ずつ入れて行った。ちなみに当時、うちの中学は、都会にしては少し校区が広く(自転車通学も禁止されていた)、朝ギリギリで登校してくる人が多かった。それで「遅刻指導」というのがあったのである。毎朝、登校指導の先生が校門の前に立っており、始業時間より遅く登校したら、門のところで生徒手帳をとりあげられるのである。あとで生活指導室にとりに行くのだが、ハンコが押してあり、たしかハンコが5個たまると、親が呼び出されるという仕組みになっていた。

もちろんSくんは、遅刻指導の常連である。その彼が(おそらく生まれてはじめて)8時5分に登校して来て、何をやるかと思えば、エロ本作戦である。で、後から次々と登校してくる男子は、自分の机にあったエロ本をみて、「誰やこれ! あ、おまえやな!」と笑っていたのだが(いつも遅刻しているはずのSくんが珍しくもういるのだから、すぐ犯人がわかるのである)、やっぱりチャイムが鳴ってから入ってくるようなギリギリに来る生徒もいて、それがいつ気がつくか、みんなでクスクス笑いながら、見ているのである。もちろん、先生が来るのとほとんど同時にやってくる生徒もいて、授業がはじまってしまってから、自分の机の中にあるエロ本を発見して、「え!?」という顔して、めちゃくちゃあせっている子もいる。それを見て、クラス全員がクスクス笑っている。

で、とうとう先生が気がつき、「何、机に入れてるんや。出しなさい!」と言われ、しぶしぶ「これ、ボクの机に入ってたんですけど……」「だれや、こんなん、持って来たのは!? 誰が、彼の机に入れたんや!」と怒る先生に、「先生、それだけやないで」と男子全員が教室の後ろを指さすと、エロ本が山になって、掃除用具入れの横に積んであった。ここまで来れば、やはり誰のしわざか、すぐにわかってしまう。「おまえか…。今日は、遅刻せんと来てるなと思ったら、わざわざコレやりに来たんかい。こんな、ようさん、どこから持って来たんや?」「全部、知らんオッサンにもろてん」とゲラゲラ笑っていた(これはどうもほんまらしい)。やっぱりイチビリはイチビリである。

ところで、このSくんには、中学卒業後、二度と会うこともなかったのだが、15年ほどたって、実家に行った時、母が「あんた、中学で一緒やったSくんって、覚えてる?」と言い出したので、びっくりした。「覚えてるよ」と言ったら、今は、どうも母の会社で一緒に働いているらしいのである。「へえ、今、何やってるん?」「工場の主任やで」「そら、エライえらなってんなあ」「うん。会社でもけっこう人気あるで」「そら、中学校の時も、あれでけっこう人気あったしなあ」「ほんで、嫁さんももろて、子供も2人おって、家も買ったらしいねんけど」「家も買ったんか、そら、すごいなあ」「でも、このあいだ、嫁さんが子供連れて逃げたらしくて」「そら、あかんなあ」「ほんでもって、離婚してもて」「ますます、あかんな。でも、なんかSくんらしいなあ」「ほんで、養育費で月十万ほどかかるってゆうて、エライ大変やねんて」「そら、気の毒やなあ」「で、結局、買った家も、嫁さんと子供にゆずって、そのまま、タイ工場へ転勤してな」「タイ工場?」「タイやったら、生活費かからんから、給料そのまま残るからええらしいわ」「へえ、そんなもんなんか」「ほんで、現地でまた再婚したらしくて、会社は大喜びや」「なんで?」「今ドキ、タイ工場に行きたがる若い社員はなかなかおらんし、現地で結婚したら、たぶん永住してくれるやろ」「ふーん」「それで、正式にタイ工場に移転になってもて、このあいだ、お別れ会をして話してたら、どうもアンタと中学校が同じで年齢も一緒やってゆうねん。同級生やったらしいで」「てことは、Sくんも私のこと覚えてくれとったんやなあ。でも、残念やなあ。もう少し早くわかっとったら、引っ越しをする前に一度会っとったのになあ」

母が言うには、今、彼はタイで大きな家に住んで、すごい美女と優雅に暮らしているらしい。あのSくんがねえ、ほんまかいな、と思うけど、彼ならやるかも、という気はする。今でもタイに行ったら、一度、会ってみたい気がしている。

07/14/2005

出る杭も出ない杭も、もうすぐ夏休み

7月13日(水)
午前中、仕事。午後からお休みして、小学校の懇談会。

3人の子持ちなので、小学校の懇談会も3つ。13:40、2:00、2:15である。仕事を持っていると休みをとるのは大変だから、それぞれの担任が兄妹の懇談時間を調整してくれているのである。参観は走り回らなくてはいけないが、懇談は一人ずつ時間が決まっているのでラクである。ただし、3人連続でやると、一人ずつの話がごっちゃになってしまい、それぞれ、どうでもよくなるのが問題である。まあ、毎日、機嫌よく学校へ行っているらしいので、私自身は、とくに懇談で聞きたいこともないし、ホントはどうでもいいのだが。

しかし、3人とも、あいかわらず成績はやや悪い(ほとんどB)、忘れ物もかなり多い(これは母親が怒られる)、給食はよく食べる、特技は工作というところも共通である。ちなみに息子は、このところ毎日「歴史」の研究に燃えていたらしいが、担任によると、どうもクラスの男子全員が「歴史」に夢中になっているらしい。土器、埴輪づくりとか、古代新聞づくりとか、ちょっと「社会」だか「工作」だかよくわからないが(体験学習というヤツである)、なんだかクラス中で盛り上がってすごく夢中になっているらしい。
「そう言えば、この前、珍しく2時間も夢中になって「勉強」をしていたので、何してるのかなと思ったら、秀吉の『金の茶室』を夢中になって、細かく写してましたけど」
と言ったら、
「そうなんですよ。このクラス、女子はどうでもないんですけど、男子はみな『金』ってのがコーフンするみたいでねえ。金印とか、この前も「金閣寺」で大騒ぎしてましたねえ。茶室も、『茶室にある道具は、金じゃないのか?』と、必死で図書館とか行って、いろいろ調べてたみたいですよ」
と笑っていた。
どうやら、11才や12才の男の子は、「金」にロマンを感じるらしい。
まあ、今は、6年生でも驚くほど教科書は薄いし、学校間の学力差も広くなってるみたいだし、ゆとり学習とか、学力の低下とか、色々あるらしいが、なんだか、楽しそうでうらやましいぞ。

小学2年の双子の娘たちも、まあまあ楽しい学校生活を送っているみたいである。妹のクラスは、4月からいきなり担任が1学期間すべて病欠となったし、代わりの非常勤の講師もいなくて、2ヵ月間、教務主任が担任をし、そのあと来た非常勤の先生は「20数年ぶりの小学校の先生になったんで、ホンマ、ぜんぜんわからなくて。2年生って、こんな幼かったかなあ、って感じでねえ」と、ノンキで、気も弱そうな感じの年配の男性。娘の話では、「授業中も男子たちが立ち歩いている」そうで、「先生が怒ってもきかへん。ケンカばっかりで、あんまり勉強できへん。女子たちでいっつも注意してるねん」なのだそうだ。担任の話でも、どうやらあまり授業ができない状態に近いのは事実らしい。

ところで、よく「学級崩壊」というと、「近ごろの子供は、先生の言うことをきかなくなったから」と、子供の方に責任があるみたいに言う人がいるが、先生の力量の問題はあるよな。持ち上がりのクラスなので、変わったのは担任だけなので、生徒はすべて去年と同じクラスである。急に学級崩壊するのはおかしい。でも、教員も経験がモノをいう職業で、誰だって、いきなり「2年生のクラス担任になってみて」と言われても、すぐにはできないのである。ちなみに大阪市は現在、極端な今日不足だから、非常勤が足りないのかもしれない。でも、そのおかげで、去年までは、気が弱くて答がわかっていても手をあげられなかった内弁慶の妹が、今年はすっかり学校でも「静かにしなさい!」とどなりまくっているそうだ。「だって、先生がかわいそうやろ!」だそうで、活発になって、他の子のケンカもよく仲裁しているらしい。

「それも、あんたが余計なことを言うからやろって、びっくりするくらい、よく観察して公平な判断をくだしてましたねえ」と、その非常勤の先生が笑っていた。たぶん、それはうちが3人兄妹なので、毎日ケンカをしている様子をよく見ているせいでしょう。ケンカの仲裁も慣れてます。だいたい、うちでは小学6年の兄とケンカするのは、たいてい双子の姉の方である。姉は、とても気が強く、さらにガンコなタイプで、言い出したら絶対に変えないところがある。妹は、人の顔色を見て、自分の主張を無理に通したりはしないタイプである。だから、ずっと家でも調整役である。うちはみんなマイペースなのだが、親にもあまり逆らわないし、扱いやすい「よい子」なのかもしれない。だから、言い出したらきかない姉よりは、祖父母にもウケもいいし、本来、要領はいいタイプなのかもしれない。

ところで、先日、「子供の頃、人より目立ったことをすると、たとえ、それがいいことでも怒られてた」という話を人に聞いた。それは、かなり極端な例だと思うのだが、私も小さい頃は、「人と同じようにしておきなさい」と言われていたようである。でも、人と同じようにしなければいけないというのは、その子の性格によっては大変である。私の場合、小学5年の時に、女子のグループがあって、放課後も集まって毎日遊んでいたり、同じハンカチを買ったりして、仲のよい状態だった。それはそれで最初は楽しかったのだが、そのうち、人に合わせるのがとても面倒になり、6年でクラス替えをした時、無理に女子のグループに合わせるのは止めてしまった。それ以来、高校を卒業するまで、仲のよい女子グループというのに属したことはない。まあ、女性ならわかると思うが、女の子はなぜか集団行動をしないといけない種族である。男子なら、教室で弁当を一人で食べるのは普通だが、女子だとたった一人で弁当を食べるのは、それだけで変人扱いである。中高生はトイレも集団で行く。一人でトイレに行くのも変人である。というわけで、中高生の間は、女子はそういう単独行動をするだけで「変人」扱いである。男子なら一人ですることが普通でも、女子では一人でやると異常なのだ。ただ、中高生の時は、そういう子が女子でもクラスに2〜3人くらいはいるので、なんとかなる。もちろん今も、公園で集結している「母親グループ」はかなり苦手である。保育所だったので、公園デビューもせずに済んだけど。

実家の母は、「たった一人でレストランに入ったことなんか、一度もない」と言い、平気で牛丼屋にでも行ける私を「怖いもの知らず」だと言う。確かに、動物学的に見れば、女性は集団行動ができる方が危険が避けられていいかもしれない。私は子供の頃、ずいぶん変質者に襲われたり、危ない目にもあったが、それは単独行動をして、一人で町をうろうろするからである。女性の単独行動は、確かにあぶない。ただ、どちらかというと一人でいた方が落ち着くというタイプは、ずっと他人に合わせて行動するのはかなり難しい。もちろん、人と一緒にいるのがイヤなわけではないのだが、やはりどこか一人の方がラクだし、人に合わせるのは面倒なのである。損な性格だが、どうしようもない。

ただ、あんまり「村八分」とか、イジメられた覚えがない。もしかすると、ボンヤリしていてイジメられているのに気がつかなかった、という可能性もあるけど、「出る杭は打たれる」ということわざの向こうに「出過ぎた杭は打ちにくい」ということわざもあるのだ。変人も定着すると、親もようやくあきらめたし、クラスでも「ま、あの子、変わってるから」で、済むようになる。まあ、それまでが大変だったけど、出る杭も出過ぎてしまえば打たれない。でも、ありがたいことに高校、大学、社会人になると、もっと変わった人はいくらでもいるので、子供の頃よりずっとラクである。よく子供にかえりたいとか、若い頃に戻りたいという人がいるが、私は、これがあるので、やっぱりあまりなりたいとは思わない。面白そうだが、大人の方がラクである。

とにかく人と違ったことをするのは、大人になったらそんなに難しいことじゃないけど、子供には難しい。うちの子供たちは、少々変わった子ばかりだが、もうすぐ夏休み、楽しい子供時代を過ごしてほしいものだ。

07/13/2005

気になる広告、そうめん、ミシン

7月12日(火)
朝から外出。午後から事務所。

朝、かんべ先生のラジオ番組で、いきなり先週の講義の話が出て、ちょっとビックリ。もっと驚いたのは、どうやらブログを見ておられるらしくて、「どうも厳しく聞こえるらしいんですけどね」という話をされたこと。ちょっとアセる。

午後から事務所で、小説講座の事務。印刷しなければいけない第7期の短編、専攻科の長編がたまっているが、ワークステーションの印刷機が他の団体に使用されていて、ずっと順番待ち。「ショートショート大賞」の作品募集のチラシも印刷。今年も、Kさんは、今週末の『SF大会』の創作講座に参加予定なので、チラシ100枚ほどお願いする。南湖さんとイベントに参加される芦辺先生にも、チラシ配布をお願いして、50枚メール便で送付。私も、今年は『SF大会』に日帰りで行く予定だったのだが、どうもお目当てのイベントがだいたい土曜日に集中しているらしいので、あきらめることにする。(土曜日は毎週仕事)

夕方、帰宅すると、炊飯器のスイッチを入れるのを忘れていて、夕食はソーメンにする。レタスや長イモなどの細切りを合わせて、今年はじめてのソーメン。それからスイカ。なんだか「夏が来た!」という感じだな。そういや、玄関も、さっそくセミの抜け殻だらけだしな。(家に帰った途端、玄関でふんづけてしまい、ぐちゃぐちゃになったので、ほったらかして食べていたのである)夕食後は、息子が「家庭科」の宿題で、ミシンを使いたがったので、上糸のかけ方とボビンケースの使い方(息子の小学校のミシンはボビンケースがないタイプ)を教えて、仕事部屋で読書。私のミシンは、なぜか最初の30分間は必ず機嫌が悪いという使いにくいヤツなので、2回ヘルプがかかる。が、あとはうまく使っていた。どうも彼は、手先だけはかなり器用なのである。

ところで、かんべ先生のラジオ番組「朝はミラクル」は、毎朝7時前に始まる。8時くらいまでは私はほとんどキッチンにいるので、ほとんど聞いているのだが、8時に子供達を学校へ見送ったあとは、あわてて洗濯物を干したり、出かける準備をしていることが多く、全部聞いているわけではない。そのせいか、他の人たちが気になってしまうらしい「武田さんのコーナー」は、ぜんぜん気にならない。というか、そもそもあまり聞いてないのだが(ちょうど洗濯物を干す時間なのである)。が、それよりも、私がどうしても気になってしかたないのが、ラジオCMである。(もともとコピーライターなので、職業病なんだろうけど)。

番組の途中で、いくつかラジオCMがかかる。で、「私は100円あったら『世界』を買うわ」なんてのは、よくできた広告だと思うのだが、「セーフティキャンペーンを応援しています」というコピーが毎朝、気になってしようがない。というのは、これはストーリー仕立てで、毎週変わるのだが、「そういう展開をしたいなら、こう書くべきちゃうか」と毎回、ついつい突っ込んでしまうようなコピーなのである。私は、出版媒体や印刷物の仕事が多かったから、ラジオコピーはあまり書かない方なのだが、それでも毎回「そうやないやろ」とツッコミを入れたくなってしまうよな広告である。かなり気になるので、なんとかならないのかなあ。ねらっている意図はわからなくもないのだが、コピーがかなり甘い。番組とは関係ないのだが、先週も、最初聞いた時、「何がしたいんや」と、ちょっと目が点になってしまった。今週のコピーも、どうかなと思ってしまう。毎朝、気になって困っているのである。

しかし、最近のラジオコピーも「あ、いいな」と思うものがたくさんあるのにな。広告は、クライアントの意向もあったりして、色々あるので、どこまでコピーライターの書いたものかわからんけど。

とにかく広告は、無理矢理、人に見せたり、聞かせたりするものなので、その点が一番、小説とは違うところである(いや、ま、全然違うもんだけど)。私も、生徒作品を読んだり、公募の下読みをしたりすると、正直読みにくい作品がかなりいっぱいあるのだが、普通は、そういう読みたくない小説をわざわざ読む人はあまりいない。だからこそ大変な部分もあるが、だからこそラクな部分もある。
でも、どっちにしても、とにかく読んでくれる人がいれば、ってことだろうから、お互い読んでくれる人は大事にしなくちゃね。

07/12/2005

小説と関係のない休日(アホが好む食べ物)

7月11日(月)
日、月曜は、小説講座の事務所はお休みです。

朝から天気悪く、ぐずぐず。夕方から、専門学校の非常勤講師。
子供たちを8時に見送り、朝からビデオで、教材用の映画を3本見る。本なら、電車に乗った時とか、寝る前にちょっと読むとかができるが、ビデオはせめて2時間くらいまとまった時間がないと見ることができない。わざわざレンタルで金を払ったビデオもたまに見れないくらいなので、けっこう大変である。最近は、テレビ番組も最初から録画するのをあきらめてしまう。だから、世間では「新聞はテレビ欄しか見ない」人も多いそうだが、私は「新聞はテレビ欄は見ない」ってことが多い。だって、どうせ見る時間がないので、「これ見たい」と思っても録画しても見れないかもしれない。ってことは、イライラするだけだからテレビ欄を見るだけムダである。ま、最近は、母親の趣味志向を息子が把握してくれており、テレビ欄を代わりにチェックしてくれているから、私は見なくてもいいのである。

ところで、うちでは、夕食後にデザートとして、果物かヨーグルトを食べることが多いのだが、ごくまれにプリンかゼリーになることがある。日頃、3個120円のプリンを「まだ高いな」というくらいなので(3個98円なら「たまには買ってみるか」)、ま、月に一度あるかないかなのだが、ただ、うちの子供たちは、なぜか市販のプリンは、高いものよりは、安い商品の方を好む傾向があるようだ。ちょっと高めの『焼きプリン』は、あまり誰も好きじゃないし(食い意地は張っているから、それはそれで皆、食べるけど)、せっかく有名なお店で買って来た人気のプリンも「まあ、たいしたことないな。やっぱ、安いヤツの方が、おいしいで」などと言う。

そもそも、うちはお菓子も滅多に買わないので、毎日のおやつは、バナナか、パンか、おにぎりである。というのも、うちの悪ガキたちは、いつも飢えているので、少々のお菓子ぐらいでは腹いっぱいにならない。知り合いの主婦には、「まあ、えらいわ。健康に気をつけて、スナック菓子なんか食べさせていないのね?」と言われたのだが、いやいや、そんな高尚なものではなく、年々エンゲル係数があがる一方なので、腹もちの悪いスナック菓子なんぞ、子供3人分も、毎日、買ってられないだけである。

だいたい、彼らは毎日「ただいま!」と帰宅した途端、ランドセル背負ったまま、まずバナナを食べてお茶をがぶがぶ飲み、「いってきまあす!」と外に走り出し、遊びから帰って来ては、また「腹減った! 夕食まで待てない!」と口々に叫び、でっかいオニギリをうぐうぐと食べ、さらに夕食もバクバク食べるのである(まさに餓鬼!)。学校では、給食もすべて残さず「全部おいしい」とバクバク毎日オカワリして食べるらしいし、どの子の担任にも「ホントよく食べますね」と言われる。

その割には、デブ化が進んだこの母親ではなく、父親に似たのか、子供たちは皆「やや、やせぎみ」である。息子にいたっては、身長はクラスで下から2番目、体重はクラス最低というかなり小柄なタイプなのに、「クラスで給食を一番食べる」らしい。毎日、あれだけ大量に食べてるのに、よほど効率の悪い体なのだな。それとも一日中、じっとしてないから、エネルギーの消費量が特別多いのだろうか。
つい先日、本人も、真面目な顔をして、
「ボクって、やっぱ、おかしいんかなあ。毎日一日2回、びっくりするくらいに、大量にウンコ出るねん。自分でも『すげえ、どんだけでるねん』って、思うくらいやで。ほんま。ボク大丈夫かなあ、心配や」
と言っていた。ま、少なくとも、あれだけ食えば相当な量は出ると思うぞ。
娘の友人のお母さんなどは、「うちの子は、全然、食事を食べてくれなくて困っているの」というが、その子は驚くほど少食で、いつもおっとりしている。うちなんか、黙ってじっとしているのはホント食べてる最中だけ、というのに比べると、とても優雅なお子様である。なんだかうらやましい。こんだけ飢えた子供たちがいると、毎日、戦闘体制である。

そんなこんなで、母や妹には「あんたン所のガキは飢えてるだけや。それに、子供たちにエエモン食べさせてないから、味覚もおかしなってるんとちゃう?」と言う。そう言われてみれば、彼らは、ジャムも高いブランドよりも、安い商品の方を好む。ある時、いただきもので「超有名な手作りジャム」をもらったのだが、それも「手作りって、つまんないわ」と言ってあまり評判はよくなかった。「ふりかけ」なども同じで、高いものほどなぜか有り難がらない。どうも安い商品の方が好きらしい。「漬け物」もそうである。「ラーメン」も、せっかくいただいた「本格ラーメン」より、「インスタントラーメン」の方がいいらしい。ゼリーも、果物が丸ごと、果汁たっぷりよりは、チープな着色で、ぷよぷよなのが好きなのである。安上がりなヤツラである。

思うに、どうも市販品というのは、高ければ高いほど、「素材の味そのもの」に近づくみたいである。だから高いものほど、結局、家に作るものと変わらなくなるのかもしれない。ジャムなどは安売りの果物があれば、砂糖を加えて、電子レンジでちょっとチンとすればすぐ作れるが、この方がどんな高級ジャムより、なんだかうまい気がする。高級品は、どうせ滅多に食べないから別にそれでいいのだが、いくら厳選された素材、新鮮な材料でも、加工品と比べりゃ、家で作った方が新鮮さが違う。

ウソだと思ったら、ジャムくらいは誰でもできるので、一度スーパーで安売りシールが貼っているような果物で作ってみるといい。うちでよく作るジャムは、バナナをつぶし、ミカン、りんごなどを細かくして、同じくらいの量の砂糖、ほんの少しの水を加えて、電子レンジにかけるものである。途中、ちょっとかきまわせた方がいいかもしれないけど、これですぐにジャムができる。鍋でもできるけど、レンジなら誰でも数分。カンタンである(ちなみに、レンジの方がビタミン類の損失も少ない)。どんな果物でもできるし、バナナだけでもいい。ただ、酸味が少ないとジャムっぽく固まらないので、ミカンがなければ、レモン果汁などを加えた方がいい。色がきれいじゃなくても(バナナだけだと色は悪い)、どろどろになっても(砂糖を控えめにすると固まりにくい)、間違いなく味はおいしいので、気にしないように。

うちは、加工品はたいていあまり買わないので、手作りしてしまう場合が多い。ジャムやドレッシングや焼肉のたれ、漬け物もたいてい手作り、冷凍食品はまず滅多に買わない。実際、私は仕事でも忙しいし、手作り信仰なんぞ、これっぽちもないのだが、理由は単純で、うちみたいに飢えた餓鬼が毎日、大量に消費してくれるとなると、量が少ない市販品は、めちゃくちゃ高くつくのである。(先週も、おにぎりを食べて、まだお腹がすいていたらしく、きゅうりを一本ずつガリガリそのままかじっていた。彼らには、食材そのままが一番、安上がりである)。
そのせいかもしれないが、加工品の場合、安い商品の方が、家で作った「手作り」とはまったく違うものに感じるらしく、その方が嬉しいらしい。市販のプリンは、ぷよぷよ、ぐちゅぐちゅなのが快感らしい。素材にこだわった本格プディングは、つまらないらしい。インスタントラーメンも、滅多に食べられない貴重な食べ物である(うちでは、インスタントラーメンは、ほとんど非常食のために買っているので、数カ月に一度くらいしか食べる機会がないから)。

なぜか子供は、いかにもマズそうな駄菓子とか、チープなものがわざわざ好きである。(気持ちはわかるが)、アホである。。

ところで、私は、日頃あまり高級レストランのディナーに行くことはないのだが、ランチは安いので、けっこう色んな店に行く。そういう店も、本当においしいところは限られているが、やはり料理は、「センス」や「技術」も大事だが、やっぱり「素材」の力も大きいなと思う。もちろん素材がイマイチでも、それを組み合わせるセンスや技術などが優れていれば、かなりうまい料理は作れるだろうけど、いくらカバーしようと思ってもそれにはやはり限界はある。反対に、素材さえよければ、ある意味、それだけでうまい。勝ちである。だから、やっぱり素材がいいか悪いかが、かなり重要な問題なのである。

さて、小説を書く場合に、素材とは何かと考えると、一つには「ネタ」とか「アイデア」とかの問題があると思われる。でも、実際、一番重要な「素材」は何かと言われたら、(あるいは土台というべきなのかもしれないが)、それは、作者自身だという気がする。本人である。

でも、考えてみたら、これはかなり恐ろしいことである。というのは、小説には登場人物がいて、彼らはいろんな性格を持ち、いろんな行動をする。小説を書こうという人が、ちょっと複合的、立体的な人物を書こうとすると(類型化されたキャラだけならあまり深く描く必要はないのだけど)、その人物だったら、どんな行動をするだろうか、と深く考えざるをえない。となると、その人物の立場にいたら、自分だったらどうするかと考えたりする。

となると、小説を書くと、この複数の登場人物を通して、作者自身のいろんな部分が見えるわけで、もしかすると、普通なら人に見せたくない醜い部分、イヤな部分とかも噴出していくこともあるのである。さすがにエンターテインメント系のストーリーは、すっかり心のきれいな人物だけ、すっかりハッピーなシーンだけで物語を展開させるのは、当然かなり無理がある。恐怖を描く、苦悩を描く、孤独を描く、殺意を描く、憎悪を描く、身を切り裂くような悲しみ、絶望、失意、あきらめ、傲慢、エゴ……。むろん、同時にたくさんの希望も描くかもしれないが、その前に、あれやこれや、自分自身の心の中のそれらに向き合わないといけないわけである。けっこう大変である。

それらは、人によるけど、たいてい自分の中にあるものを取り出して、増幅させて描く人が多い。ものすごい悪人も、具体的なモデルがいればいいが、だが、観察できるほど、よほど身近にモデルがいたとしても、やっぱり小説内でその人物だったらどう考えてどう行動するか、というのは考えざるをえない。だいたい人間というのは、相手を理解するためには「その人の中に自分自身を入れて考える」ものなので、結局、小説の最大の素材というのは、やっぱり作者自身になるのではないかと思う。

さて、お笑い芸人の世界では、「ケツも出せない芸人は、ロクな芸人になれない」と言われたりするが、これは勘違いするといけないのだが、これは実際にケツを出すとか出さないとか、あるいは、そういう芸がいいとか悪いとかの問題なのではなくて、「それぐらい、たとえ自分の恥ずかしい部分も全部さらけだしてもいいぞという覚悟があるかないか」あるいは「とにかく笑わせるためには、どんなことでもやってやろうという覚悟があるかどうか」という意味なんだろうと私は思う。

私は、お笑いでも、小説でも、そういう恐ろしい覚悟がとてもできないタイプなので(もっとも広告コピーでもパズル制作でも、そういう部分がないわけではないのだが)、そういう覚悟ができているはずのプロと、そのプロをめざす人たちは、とにかく尊敬している。つまり芸人として、自分のイヤなところ、キライなところまで自分で笑い飛ばせる、あるいは、小説家として、自分自身の傲慢さも他人のイヤな部分も含めて、すべてを冷静に観察して、きちんと受け止められるようなタフさがある人は、少なくとも、それだけでエライと私は思う。

でも、もしかすると、それは誰にでもできることなのかもしれない。それはたぶん「まあ、しゃーないな」みたいな感情で、どんなツマラナイように見える人生でも、「でも、ええやん、それも」っていう愛のようなものなのかもしれないな、って思う。となると、チープな食べ物を好む人間も、やっぱ、それはそれで、かわいらしい存在なのかもしれない。
でも、やっぱ、うちのは、ただのアホ餓鬼だけどな。

07/11/2005

小説とは関係のない休日(たまごっち)

7月10日(日)
日、月曜日は、小説講座の事務所はお休みです。

朝から天気が悪く、ダラダラした一日。
三人の子供たちは、義母にもらった「たまごっち」を首からブラブラ、一日中ぶらさげていて、とってもアホっぽく見える。「たまごっち」がキライなわけではないが、あの相手をしているのは、周囲から見ると、けっこうバカっぽく見える。とはいっても、最近、枕元にガイコツを飾ったりしている母親もやっぱりアホじゃないとも言えないから、それは黙っている。趣味は色々である。(ガイコツは、息子の『6年の科学』のおまけ「光るガイコツ」。夜、よく光るのでちょっと嬉しい)。

どうも義母は、イトコたちの「たまごっち」をうらやましがる子供たちを不憫に思って、あちこち探し回って買ったらしい。さらに、孫全員を平等に扱わないといけないと思ったらしく、すでに持っていたそのイトコたちにも同じものを買ったらしい。おかげで、彼らは2匹ずつ世話をしているそうだ。うちは、もう要らんぞ。

というわけで、「たまごっち」の世話で忙しい子供たちだが、夕方、今度はグッピーとコリドラスを買って来た。グッピーというか、ただのメダカ。コリドラスは、ちっちゃな黒いナマズである。最近、グッピーが三匹だけになっていたので、水槽がすっきりしていたのだが、また増えた。ま、コリドラスは、泳ぎ方もヘナヘナしていて、いつも水槽の下の方にいる。なんとなく面白い。

夜、スターウォーズ。ところで、うちの夫は第一作だけは、当時映画館に何度も通ったらしいのだが、あとはダメ。とくにエピソード1、2は、「あれはスターウォーズじゃない」そうだ。「なんで?」と聞いたら、「だって、ハリソン・フォードがおらんやろ」だとか。

「そだって、エピソード1や2はあの話の過去なんだよ。出れるわけないじゃん」と思ったが、こうして見ると、たしかに「このキャラ」がいるといないとでは、だいぶ違うのかもしれないなあ。エピソード1や2は、革命家とか戦士とかばかりで、なんか真面目な人ばかり。こういう人間味があふれるようなキャラがどこにもいない気もする。『帝国の逆襲』も、いきなり喧嘩ばっかりしてるしなあ。CGで、とってもリアルなヨーダよりも、このちゃちなヨーダの方がなんだか生きている感じがするのはなぜ。変な家に住んで、まずそうな料理とか作ってるし。

夜、子供たちが寝た後は、お下劣で有名な下ネタアニメ『サウスパーク』(映画版)。某講師に「おもろいで」と教えてもらったのだが、うわさにたがわぬ下品に洗練された大人のアニメ。(この先生は、私が「専門学校の教材に使えそうな面白いアニメありますか」と聞いたら、これを教えてくれたのである。いや、もしかしたら、ちょっとマジだったのかも)放送禁止用語、差別用語が満載。明るい楽しい超下品アニメ。表現の自由と戦争のむなしさを描いた真面目なストーリー。豊富なボキャブラリーの素晴らしさ。ぜひ、未来を担う子供たちにも見せたい推薦アニメ(ウソ)。
うーん、アホが見るブタのケツ……。(でも確かにけっこう好きかも)

『怪傑ハリマオ』のビデオもなぜかじっくり見てしまう。昭和30年代のヒーロー「ハリマオ」。わざとらしい芝居、なんともいえないちゃっちな異国ムード。ダドン小僧、ドンゴロスの松、ピストルの名手の少年・太郎……。「マレーの虎」ハリマオ、かっこいいぞ。毎回、楽しみにしていた鼻たれ餓鬼だったオジサマたちが、なんだかうらやましいな。
ああ、最近、趣味がかたよってきたよな気がするなあ。

07/10/2005

それでも、未来を信じている

7月9日(土)
午後から、小説講座の事務所へ。夕方は、第7期の講義。講師は、かんべむさし先生。

毎年、かんべ先生は、事前に集めた「質問シート」(こんな内容の話が聞きたい、これが知りたいってことを各自が書いて提出する)を使って、講義を準備してくれる。先生は、今、ラジオ大阪で毎朝(月〜金)二時間もの帯番組を担当しているので、ものすごく忙しいはずなのだけど、今回も、前半はその質問シートを中心に話をされ、後半は、ご自身の作品を使って、実際の創作過程の解説。
(でも、やっぱ、毎朝4時起きだそうで、「毎日くたくた」だとか。忙しい中、ホント感謝! ところで、うちの小説講座の先生たちは専業作家の人が多く、朝6時50分に始まる番組を「あんな時間、殺生や。これから寝る時間やで」と言ってる夜型の人が多い。ちょっと笑える)

後半の作品は、今年の例のアンソロジーにも選ばれたあの短編。ネタバレになるので、詳しく言えないが、アレとアレにあの驚きの接点があるという、あの作品(専攻科は、あの短編集を持っている人も多いので、これでわかる人はわかるだろう)。このアイデアだけでも、「うーん、やられた」って感じの作品なのだが、ただ今年の受講生は、どうも初心者が多くて、アレとアレが、そもそもわからないのではないかという気もしなくもない。それに、テクニックも少し高度な部分もあるので、この短編のコピーを事前に生徒に配布しながら、「うーん、専攻科ならいいけど、1年目の生徒は、読者としてのレベルもかなり低い人が混じっているしなあ。この短編のレベルについてこれる人が、何人いるかなあ」と思わないではなかったけど、レベルを決して落とさないのがこの講義のいいところ。うちの小説講座は、講師が十数人もいて、しかも全部プロ作家、というたいへん恵まれた講座なので、やさしい先生もいれば、こうしてずばり厳しいことを言ってくれる先生もいるのが有り難いところなのだ。(一応、プロ作家養成講座だしね)。

でも、それはそうとして、作者本人に作品の創作過程を具体的に説明してもらえるのは、かなり貴重な機会だと思う。こういうことは滅多にない。ところで、この小説講座も7年目なので、どの先生の講義をどの順番で聞くのがいいかを考えてあるのだが、この講義は、カリキュラムの中では、かなり後の方の講義として設定している。実は、十数人いる講師の中で、この講義は最後から二番目(ラストの講義は、青心社社長の青木先生。ただ、この先生だけは作家じゃなくて編集者)。この講義は、人によってはかなり厳しく聞こえるらしいので、わざと最後の方にお願いしているのである。

だもんで、毎年、この講義は、ちょっと緊張感が漂う講義である。生徒さんたちは、先生が創作過程を説明するにしたがって、おおげさに言うと一瞬、教室が凍りついたみたいになる。今回とりあげた短編もそうだったが、前回は長編だったので、細かいプロット表を見せられて、みんな絶句していた。今回の短編も、まさに「そこまでやるか」という感じだったのだろう。具体的な内容はここで説明しないが、なにせ実際の創作手順を説明されると、「プロは、そこまでやらないといけないのか!」「そうなんですか?」とショックを受ける人が毎年必ず何人かいるのである。

(ところで、私は、「もしそこまで努力さえすれば、ある程度、誰でも書けそうな気がする」から、むしろ「天才にしか書けません!」と言われるより、よっぽどいいような気がするんだけど、どうでしょう。努力だけなら、もって生まれた天性はいらなくて、誰でもやれば済むことだからねえ)

でも、これはこれで、いいことだと思う。もし本気でプロ作家になりたかったら、多少厳しいことも知っておいた方がいいのだ。それぞれ自分のやり方が本当にそれでいいのか、色々悩みもあるでしょうが、どうせ作家なんて、なったとしても、どっちみち一生勉強し続けなければいけない不幸な職業である(いやホント)。だから、がんばってください。(先生も、多少、愛ゆえに厳しいことを言うかもしれないけど、ふつう作家は、もともと「ウソのうまい人種」で自意識も強いから(失礼!)、ここまで正直に自分の手の内を見せてくれる人は少ないのである)

ところで、プロットの話。
先週も、作品の締切日があって、ある生徒さんに聞かれたのだが、もちろん「プロット」をどこまで作るかどうかは、作家さんによって違う。でも基本的に、まったくプロットなしで書くというのは考えられないから、頭の中にあるのか、紙に書くかの違いはあるかもしれないが、ホントになしで書く人はあまりいない。細かく決めるか、ぼんやり「こんな感じ」か、それはそれぞれ色々だろうが、まるきりないと何も書きはじめられない。それは、旅に出るのに、目的も目的地も何も決めないようなものだ。せめて、どっちに向かって行くかくらいは決めて出発するはずである。

実際、プロットは、人によっては、作品によっても、作ったり作らなかったりするらしい。以前、うちの講座でも、新井素子先生が、「長編は作らないけど、短編はプロットを作る。プロット作らないと短編はちゃんと終わってくれないから。でも長編はラストシーンさえわかっていれば、たどり着ける」と話されていたことがあったが、その時の対談相手だった高井信先生が「いや、ふつうは逆じゃないの」と笑っていた。まあ、人それぞれなので、やりやすいように書けばいいと思う。プロ作家でも、プロットを作らずに、とにかく大量に書いて、大量に削りながら再構築しながら作るタイプの人もいるので、書き方は人それぞれだ。昨年のかんべ先生も、ただ自分が長年使っていて、やりやすいと思った方法を紹介してくれているだけである。

ただ、これは私個人の意見だけど、実際、どうも「細かいプロット」を作らないで書く方が、やはり技術的には相当難しいような気はする。そりゃ作らなくても別にいいけど、初心者にはやはり技術的にかなり難しいのである。よほど子供の頃から熟練した「文章の使い手」ならば、どんな事態になっても、いろんな技をひねりだして、自由自在、臨機応変にストーリーを進められるのだが、これは、ケタはずれの読書量と相当な体力がないとできない手法で、普通の人ではかなり難しい。とくに初心者の場合、途中でうまく行かなくなったり、書いた作品が訳がわからない、イマイチつまらない、という場合が多く、その原因のほとんどは、いきあたりばったりに書いているのが原因のように見える。

とはいうものの、どういうわけか、初心者の人に限って、まずプロットを作りたがらないし、日頃はアイデアメモさえ作らない。そもそもアイデアも、どれを書こうか選ぶというより、選ぶほどたくさん考えたことがない場合が多い。まあ、最初の頃は、いきおいで思いついたものを書きたいように書くものだし、それはそれでいい。でも、やっぱり書く前にあまり吟味しないで書きはじめるから、結果、うまくいかない場合も多い(というか、ほとんど)。
だから、プロットなしでも書けることは書けるが、私は、やはり生徒にはプロットを書くことをオススメする(まあ、人にもよるけど)。少なくとも、プロットの段階で、どうすれば面白くなるか、もう少し吟味した方が、ムダな時間や手間がかからない。(実際、本格ミステリとか、いくらなんでもトリックがこれでは、何度書き直してもどうしようもないだろうなあ、というような作品もまれにあるのだ)。
ただ、これは書きはじめる前に、いくら説明してもしょうがないことなので、何本か書いて、自分でやっぱりあまりうまくいかない、と思いはじめてから、必要ができてから、作ればいいことだと思う。

しかし、生徒さんを見ていて思うことは、文章力や構成力、発想力などの技術的も低いということもあるけど、プロと比べて一番違うなあ、と思うのは、どういうわけか、なぜかとにかく手を抜きたがることである。あまりうまくない人に限って、何の悩みもなくさらさらと書く。ま、ひどい場合は「一回でいいから、自分で読み返した?」と言いたくなるくらい、誤字が多かったりして、推敲もしてないこともあるが、そういう文章だけでなく、構成やアイデアも吟味されてなくて、どう見ても「思いついたものをただ書いた」感じの作品もある。そういうのは、たぶん読めば、誰にでもわかってしまう。

まあ、時間もないし、プロ意識もないし、だから、いろんな意味で怖さが全くないし、しょうがない部分はある。それはそれで幸福な時期でもある気もするから、最初はいいんだけど、やっぱり「アマチュアの文章だなあ」という感じはするのだ。作品が、なんだか、全体的に「甘い」感じがするのである。一方、プロの場合「もっと面白くするにはどうすればいいか」という思いが、かなり強烈にあり、「もっと何とかなる」「こうすればもっといいんじゃないか」という気持ちが強いみたいで、一つのアイデアでも「どんな構成がいいか」と、よく考えられている。ちなみに、生徒さんの場合には、どういうわけか、そのアイデアそのものも弱い場合が多い。(だいたいアイデアがすごくよければ、文章がちょっとくらいむちゃくちゃでも直せば済むかもしれないが)

私自身は、作家というわけでも、編集者でもないが、できるだけ単純に考えることにしているので、「料理を作る」のと同じだと考えてみることにしている(たぶん外食産業で働いていたせい)。

だから、料理と同じように、小説も、誰でもたいてい多少練習すれば作れるようになる。多くの主婦も、最初はヘタクソでも、何年かすれば、たいていは家族が楽しく食べられるくらいに料理はうまくなる。文章も同じで、書くだけなら、たいていは訓練しだいで、誰でもできる。書くこと自体は、それほど難しくない。問題は、プロとして、商売になるかならないかである。その場合、単に「親子丼」をほどほどにうまく作れればいいというわけではなくて、ものすごくうまくないと商売にならない。または、かなり個性的、他では食べられないような変わった「どんぶり」とかじゃないと、金はとれない。どんなレストランが流行っているかを考えてみれば、とにかく雰囲気がいいとか、サービスが気持ちいいとか、何かがあるはずだ。例えば、よく吟味した新鮮な季節の食材、素材を活かしたコース料理、タイミングよく気持ちのいい接客、清潔な店鋪……。それは、その店が「サービスとは何か」と真剣に考えて、考え抜いた結論なのである(むろんいつも変化するから、それは通過地点なのだが)

ちなみに、私がレストランに勤めていた頃、先輩にこんなことを言われたことがある。サービスの基本は、「なんだ」じゃなくて「そうか」なのだそうだ。そのために「お客さまの『期待』よりも少しでも上まわったことまでやることが大事」だそうだ。そうすれば、お客さまは「感動」してくれる。お客さまは感動すれば、必ずまた来店する。(ちなみに、マーケティング的にも、広く新規顧客を開拓し続けるよりは、獲得した顧客を維持できる方が効率がよい)

だから、やるべきことをやらないのは論外で、さらにその上をやるのがプロだという。確かに、ある種のサラリーマンや公務員なら、やるべきことをやっておけば、余計なことはやらなくてもいいかもしれないけど、ふつうは、やるべきことよりも、期待を上まわったところまで、やってみせるのがプロである。かんべ先生の言い方なら、それは「そこまでやるか」かもしれないけど。

だから、私はコピーライターになっても、やっぱり「そうか!」は、サービスの基本だと思っているし、小説でも、どこかに「そうか!」があるだろうと期待して読む。でも、どうやれば「そうか!」ができるかは色々で、それは各自いろいろ努力するしかないのだ。だから「やるべきことはやっているのに、なぜデビューできないの?」と悩んでいる人がいたとして、それは、自分で答えを見つけるしかなく、それには、より一層、苦しんで、努力するしか道はない。でも、プロも真剣に悩むくらいだから、初心者が悩むのはあたりまえである。ま、どんな職業でもホントに「できる人」になるためは、避けられないことなので、あいにく避けられない努力なのだ。
でも、それだからこそ、飽きないことなのかもしれないことかもしれないが。

07/09/2005

なんばで、妖精とランチを食べる

7月8日(金)
午前中、外出。昼からナンバに寄ってから、事務所へ。
生徒作品を読みまくる……つもりだったが、なかなか頭に入らない。なんだか集中力なし。Fさんスケジュール確認、東京の出版社の方などに何件か電話。メールも数件。

昼、食事をしようとして、ナンバの某イタリア家庭料理店に入る。(わかる人はわかってしまうが、金龍ラーメンの裏)。ごくたまにしか行かないけど、ここのランチは、サラダ、メイン料理(5種類から選べる)、デザート、コーヒーに、おかわり自由の3種類のパンもついていて1050円。デザートもしっかりおいしく、4種類のケーキが選べて、ちょっとお得である。

ところで、こういう店に、一人でランチに行くと面白い。というのは、こういう店は女性客が多いので、いろんな話があちこちから聞こえてくるのである。久しぶりにあった友だちとランチに来たという主婦も多いから、かなりアレコレおしゃべりする。そういう話が聞こえてくるのが面白い。おじさんが中心のビジネス街のランチだとこうはいかない。
私の場合は、野次馬根性だけだが、「小説を書いてみよう」と思う生徒さんなんかは、ぜひやってみることをオススメする。こういう会話を聞いて、想像力を膨らませるのも面白いよ。離婚話や個人的な悩みなど、けっこう色々な話が聞ける。昼過ぎのファミレスもオススメ。のぞき見趣味も、いつどんな役に立つかもしれない。

さて、席に座ると、私の右側には、30歳前後くらいの二人の女性が座っており、反対側のテーブルには、女性2人、男性1人の3人が食事をしている。一見して、右側の二人組は、パート勤めか何か仕事をもっている若い主婦らしかった。そのうち聞こえて来た話によると、一人は5歳の男の子、もう一人には3歳の娘がいるらしい。二人とも、日頃は仕事があるので、幼稚園の延長に預けている。趣味はテニスで週2回。今日は、数ヶ月ぶりに会って、ランチを一緒に食べている。

でも、こっちの3人組がわからない。どうも職場の同僚という感じではない。男性はスーツで、女性は会社勤めにしては、ややラフすぎる服装である。しかも、3人とも、一瞬どっかのタレントかコンパニオンか、と思うほど、妙に話し方がはっきりしているのである。彼らは一体、どういう組み合わせなんだろうなと、私は不思議に思った。女性は、二人とも40代くらい、男性も同じくらいの年齢である。しかし、服装はとくに派手というわけでもない。

私は一人、文庫本を読むふりをして、前菜のサラダをつつきながら、「うーん、どういう関係なのかなあ」と考えていた。が、この3人組はものすごい勢いで話をしているので、5分たたないうちに、どうやら、3人は「某ネットワークビジネス」の仲間で、3人ともその団体だけでなく、これまでに、色んなネットワークビジネスをはしごしているらしいことがわかった。
「水をやっていた時」とか「あそこの新しい洗剤はいいらしい」とか「…さんは、今はインターネット関係の仕事して儲けているらしいわ。辞める時の在庫、全部買い取ったらしいし」などと話をしている。よくわからないが、たぶん商品なのだろう。

普通の人は、よほど人前で話をする職業でもなければ、あまり滑舌がしっかりしているものではないのが、こういうビジネスをする人たちは、なぜか、たいへん流暢な話し方をする。どうも3人ともけっこうやり手らしいのだが、「収入が問題じゃなくて、目標をもって自分を磨けるかが大事だから」とか「自分らしい生き方をしたいから」とか、私なら歯が浮くからとてもシラフでは言えないようなキーワードをはさみながら、いろんな情報交換をやっている。どうも反対側の主婦たちよりも、こっちのテーブルの方がよほどおもしろそうだ。私は、本を熱心に読むふりをしながら、そっと左側のテーブルに耳を立てていた。

そこへ遅れて、一人の若い女性がやって来て、その3人のテーブルに急ぎ足で歩いてきた。そして、ちょうど私の横の方のイスに座った。見ると、20歳そこそこの若い女性である。
「遅れてすみません」
「いいのよ。でも、私たち、もうランチ食べ終わっちゃったけど」
そう言って、向かい側に座っていた黒い服を来た女性が、その女性をあとの2人に紹介した。「彼女は、会員ナンバーXXXの、XXXさん。24歳よ」。
すると、その紹介を受けたもう一人の女性が、いきなりこう言ったのである。

「あら、あなた、妖精じゃない?」
「え?」
「私、わかるのよ。あなた、人間の形してるけど、本当は妖精だと思うわ」
「そ、そうなんですか」
若い女性の方も、さすがにとまどった表情を浮かべて、知り合いの方の女性の顔を見た。
すると、その人も笑いながら、
「驚いたでしょ。でも、その人、わかるらしいの」と言う。

「え、私、妖精なんですか?」
「そう。あなたは、人間の形をしてるけど、魂というか、本当の存在は、たぶん妖精なの」
「え、そ、そうなんですか」
「あなたって、純粋な人。純粋な魂の持ち主。だから、人間の世界がこんな汚れてて、びっくりしてるんじゃない」
「あ、そんな……」
「私にはわかるの。だから、色々、悩みとかあるのよね、あなた」
「は、はい……」
「あなたは純粋だから人間の醜い気持ちがわからないのね。それは、妖精だからなのよ」
「そ、そうなんですか」
「そうなのよ。で、注文、どれにする?」

どえええ。あー、びっくりした。いきなり「妖精」だよお。
でも、本人は、真剣な顔をして聞いている。どうやら、ちょっぴり疑いながらも、かなり嬉しそうである。なんだか信用しているふうである。何がびっくりしたかと言って、いきなり初対面の人に「あなたは、ほんとうは妖精よ」と言われて、それを信じる女性がいるってことが驚きである。しかも、よりによって、こんなうさんくさい人に。

世の中には、「私は霊感がある」という人がけっこういる。もしかしたら、「ホンモノ」の人もいるかもしれないし、霊感そのものを否定はしないが、少なくともこれまで私が会った人のうち、9割はかなりうさんくさい人であった(1割は未検証ということにしておく)。でも、どういうわけか女性は、占いも好きだし、「あなたの前世は、カメ(あるいは犬、猫)だった」なんてことを言われても、「あ、やっぱり。そう言われてみればそうかも」なんて、喜ぶようなところがある。この若い女性も、「あなたは妖精」と言われて、たぶんよほど嬉しかったに違いない。ケーキを食べながら、目を輝かせて、熱心に話を聞いている。なにしろ妖精である。でも、ふつう、信じるか? 
信じさせる方もすごいが、信じる方もすごい。まるで、魔術を見ているようだ。やっぱりたまには、仲間とぺちゃくちゃ話をしないで、本を片手に一人でランチを食べてみるもんだ。世の中いろんな人がいるものである。

しかし、私は、聞いているうちに「あんたら、ファンタジーとか、子供の頃もっとちゃんと読んでおけよ」と言いたくなった。たぶん彼女たちは小説なんか読まないんだろうなあ。ちゃんとたくさんバカな小説も読んで、もう少し、いろんなウソにも慣れておいた方がいいぞ。

私は、その妖精の横顔を見ながら、ふと思いついた。「私、知ってるの。これ、ホントは実話なのよ」と、『星の王子さま』を手渡してみたらどうだろう。
「だって、それを書いた人は、そのあと、彼の星に行ったらしいの。本当にあったことなのよ」と真剣な顔をしながら言ったら、きっと彼女なら信じてくれる。
なにしろ、これは、ホントのコトなのである。いや、信じてくれなくてもいい。もし誰も信じてくれなくても、たぶん、あの妖精なら、ぜったい信じてくれるだろうから。

あー、でも、やっぱ、『ピーターパン』でもいいかな。

07/08/2005

小説(生徒作品)も読まなきゃ、ビデオも見なきゃ

7月7日(木)
終日、外出。最近、木曜には、事務所にたどりつけないことが多いです。
夕方、専攻科Fさんの件で、芦辺先生から電話。

帰宅後、夕食。イカとエビ、ムール貝が安かったので、庭でとれたナスとピーマン、少しのモロヘイヤにトマトを5個ほどつぶして、ご飯を入れ、トマトリゾットにする。イカの皮をむかなかったせいか、色がイマイチ。でも、味は好評。まあ、うちの家族は、オリーブ油にガーリック、トマトに粉チーズがたんまり入っていれば、何でもおいしいという人たちなのだけど。ところで、うちは、いつも府立中央図書館に行くたびに、「カルフール」でオリーブオイルとマスタードを買うのだが(安いから)、たしかカルフールのオリジナル商品である。カルフール日本撤退で、経営が変わったけど、オリジナル商品はそのまま続けて売って欲しいなあ。

夕食後、子供たちは『スチームボーイ』のビデオ鑑賞。『スチームボーイ』は、ラスト15分がかなり好き。でも、私は、資料の『ディカプリオのロミオとジュリエット』を少しチェックしなければならなかったので、別室でビデオ鑑賞。このビデオはレンタルではなくて、英語のシナリオも持っているのだが、シェークスピアは大変である。この映画で、いくつか気になる表現があるのだが、なにせ英語が苦手なので、どういう解釈をしたらいいのか、よくわからない。う−ん、独学では限界があるなあ。しかし、英語が苦手っていう弱点は、いつまでも人生にまとわりつくなあ。

でも、シェークスピアなら、大学時代に英文科で専攻したという人も誰か一人くらい周囲にいそうなものだが、なぜだか、うちの小説講座の生徒さんは、文学部出身者がほとんどいない。理系が多いし、あとは法学部とか経済学部とか。文学部、とくに国文科出身者など、一度も会ったことがない気がするんだけど、うーん、誰かいますか? 英文科の方、いたら教えてくれ、シェークスピア。

とりあえず、この映画も十数回見ているはずだが、たいへんよくできた映画である。まあ、ディカプリオ様が美しいというのもあるが、いろいろ面白いシーンが満載である。どうせアイドル映画だろうと思って、見ていない人はぜひレンタルで借りてみて。なにせ舞台が中世イタリアじゃなくて、現代アメリカの大都市。ドラッグをやるよな現代的なロミオ。黒人のマキューシオ。入れ墨をいれたタフな神父さま。イヤミなほどイケメンのパリス。どのキャラも濃くて、画面が美しい。それでいて、シェークスピア的な長ゼリフもたっぷり。なかなかイカしてる。物語のはじめに、銃撃シーンがあるのだけど、もともとは剣で戦うシーンだから、「剣をぬけ」と言うんだけど、アップになったピストルを見るとそこに「剣」って書いているのだな。つまり、ピストルの名前が「剣」なのだ。水を使った凝った演出や仮装パーティなど、何度見てもオモシロイ演出。おもしろすぎるシェークスピア。そりゃ、好き嫌いはあるだろうけど、最初の30分だけでもぜひ。私はこの30分が好きなのだ。

映画は、吹替えで見るのが好きな私だけど、こればっかりは英語で見るしかない(でも、ほとんど聞き取れないです。英文シナリオを持ってても、えらく難解。手に負えんわ)そういや、シェークスピアと言えば、有名な舞台演出家が、今度は歌舞伎「十二夜」を手がけているらしい。あ、狂言もあったっけ。見てみたいなあ。といっても、金もヒマもないけど。そういや、『十二夜』も、双子モノと言えば、双子モノですな。

11時半頃まで、クロスワードパズル制作などをする。図書館で借りた『「数」の日本史』をぱらぱらと読みつつ、就寝。この本、小説じゃありませんが、おもしろい。太閤検地や伊能忠敬などの話を読んだ時に、よくわからなかった日本独特の計算方法や数の表記なども、なんとなくわかったような気がする(そんな気がするだけだが)。

07/07/2005

ビワ、さくらんぼ、くいしんぼ

7月6日(水)
午後から事務所。生徒作品をいくつか読む。夕方、5時から「大阪NPOプラザ」の事業進捗報告の面談。大阪府の担当者、大阪NPOセンターなど6人の方々を前に、あれこれ事業報告など。

帰宅後、夕食。カツオのたたき、オクラあえ、冷ややっこ、長イモ短冊……。デザートは、義母にもらったつるんと可愛らしいサクランボである。

さて、そろそろ、夏の予定を立てる時期である。色々やりたいことはあるのだが、どこまでやれるか不明。ヒマも金もないしねえ。息子は、小学校最後の夏休み、8月後半の大阪市青少年活動協会「忍者キャンプ」(忍者ごっことかするらしい)に、かけるらしい。忍者キャンプは、小学生限定なので、行くなら今年最後のチャンス。これは、中学生になったらできない。

ところで、私の記憶違いでなければ、今年、私の夏は、「白」の夏である。たしか『たのしいムーミン一家』という本に、そんな話があったのだ。ムーミントロールが冬眠から目覚めてから、桟橋かどこかで、そんな話をする。冬が明けて、その春一番最初に見たチョウチョの色が白だったら「ふつう」。黄色だったら、「すてきな夏」。黒色だったら、あまりよくない、という、占いのような話である。子供の頃に読んだから、うろ覚えなんだけど、印象に残っていて、毎年、春になると最初に見た蝶々の色を気にしている。今年は、白である。ふつうの夏ってことね。

実際、春、このあたりで最初に蝶々を見かけるのは三月頃で、だいたいはモンシロチョウである。まれに黄色の蝶を見かけることもあるけど、たいていは白だ。一方、アゲハが飛びはじめるのは4月下旬なので、モンシロチョウよりはかなり遅い。だから、最初にいきなり黒色にお目にかかる確率はおそらくかなり低い。つまり白、黄、黒の順番に見かける確率が高いわけである。吉、大吉、凶の順に、当たる確率が高いというのは、「占い」としては、なかなかいい線をついているかもしれない。
さて、あなたが今年はじめて見た蝶の色は、何色ですか。

ま、「まあまあ」の夏でも、おそらく夏は、それだけで何だか楽しい。
ホントに待ち遠しい季節だ。ムーミンの話では、夏は特別な季節である。どうもムーミントロールは、長い冬のあいだ冬眠するらしいので、短い夏を本当にとても楽しみにしている。ムーミンの話を夢中になって読んでいたのは、小学生の頃だったけど、ムーミンママの作るお料理がいちいちおいしそうだった。ムーミンたちは、けっこうよく食べる。パンケーキ、ジャム、スープ、サンドイッチ、魚料理、ピクルス、果物のジュース、コーヒー……。孤独を愛するスナフキンも(みんなで一緒に食べるのが必ずしも好きというわけではないが)やっぱり食べている。

そう言えば、私はどの小説を読んでも、なぜか食い物のシーンばかり覚えている。子供の頃に読んだ「赤毛のアン」でも、なぜか食い物のことばかり覚えていたりする。子供の頃に読んだ小説でも、最近読む本でも、なぜか食べるシーンばかりが記憶に残る。ってことは、私って、相当な食いしん坊なのかなあ。
先日も、雨宿りしながら、そこでもらったビワを食べながら、映画ライターの友人と向田邦子さんの話をしていたら、そういや、その向田さんのエッセイに、うまそうなビワの話があったなあ、と思い出して、そしたら気になって仕方がないほどだった。でも、確かそんな話があったよなあと、家に帰って本棚を調べてみたら(食べることとなると、どうしてこう行動的なんでしょうな)、あいにく、それはビワではなくて、どうもイチジクの話らしいのだった。

それによると、向田さんがそれを知ったのは「十年前に読んだ吉川英治のエッセイ」なのだそうで、イチジクをブランデーか何かでことこと煮るのだそうだ。料亭で食べたというイチジクの胡麻味噌かけもかなり美味しそうである。しかし、この人も、どこかのエッセイで読んだ料理をしっかり覚えていて、自分で作ってみたりするところを見ると、相当な食いしん坊なのだなあ。

向田さんのドラマは、とにかく食べるシーンが印象的で、私なんかは、そればっかり見ているところがある。「人間の描き方が素晴らしいのに、なんで食べ物ばかり見てるんだ」とか、言われそうだけど、思うにやっぱり食い物を大事にする人だからこそ、人間の細やかな心理とかを描けるのではないか。何をどう食べるか、ということは、やっぱりそれは、一人一人の暮らし、あるいは生活、その人の生き方そのものに関わる問題なのである。

私は、小説は、ほんの少しでもいいから、「食い気」または「色気」が感じられるものが好きである。それは、ほんのちょっとでもいいのだ。ほんの少し、何か食べたり、飲んだり、あるいはふと誰かを好きになってしまったり、そんなくらいでいい。ほんの少しでいいし、ま、どっちかだけでもいいのである。性欲、食欲とか、いや、そんな大層なものでなくてもいいから、何か感じられるシーンがちょっとあれば、それだけでなぜか「たしかに生きている」と感じられる気がする。どんな「ありえねえ」ような悪人でも、ほんの一瞬、コーヒーを一杯、砂糖ひとさじ入れて飲んでるとか、何かスープをすすってくれるとか、ほんの少し何かあれば、なんだかちゃんと生きている人間みたいな気がするのである。なんだか単純だけど。

子供の頃、なんだか不思議だったのは、大人の好きな流行歌は、ほとんどが恋の歌だということだ。童謡くらい、あるいはアニメで覚えた歌しか知らなかった子供の頃は、大人の歌が「なぜ恋の歌ばかり」なのか、とても不思議に思っていた。実際、流行歌のほとんど、たぶん8割、9割、あるいはそれ以上が恋の歌である。世の中の人は、ほとんどが恋を歌うのが好きである。恋こそ、人生である。そりゃ、まあ、恋を知らずに死ぬ人も、ごくまれにいるかもしれない。でも、食わずに生きていくことは不可能である。
そういうわけで、性欲も食欲もない登場人物しか出てこない小説を読んだりすると、(まあ、それでも面白ければ気にならないのだが)なんだかちょっとソンをしたような気がする。ほんの一切れでもいいから、どんぶりを食べるんなら、タクワンとか紅しょうがとか、欲しいタイプである。そりゃなくてもいいけど、全くないと、それはそれで、なんだか、いつもちょっと落ち着かない気がする。

ところで、さっきのムーミンのお話で、ムーミントロールたちが見た最初の蝶の色は、白でも黄色でも黒でもなくて、「金色」なのである。金色の夏! すごいぞ、ゴールデンサマー。
ああ、でも金色じゃなくて、ふつうの夏でいいから、それなりに輝く夏だといいな。

07/06/2005

映画は、吹替、字幕、どっちで見るか

7月5日(火)
午後から事務所。Kさん、作品の印刷で大忙し。
あいかわらず生徒作品に埋もれている。第7期の修了課題に、専攻科の長編の山。とにかく読まないと講師依頼ができないので(うちの小説講座は、講師数が多いので、作品の内容によって作品指導の講師を決めている)早く読まねばならないんだけど、明日、大阪NPOプラザの面談があるので、資料も作らないと。

夕方、雨の中、あわてて帰宅。早くも夏バテ気味なので、夕食は、あったかいもの。冷蔵庫にあった野菜を手当たり次第にほり込んで、豚汁風のミソ汁を作る。ほうれんそう、なめこ、三ッ葉、人参、ごぼう、カマボコ、豆腐、豚肉、トリ肉…。ミソ仕立てだけど、コンソメでだしをとる。好みで、キムチか七味を入れれば、けっこう汗をかく。汗をかくとお茶を飲む。うちでは、ついこの間まで麦茶を一日6リットル沸かしていたのだが、先週からは毎日10リットルである。まだ学校があって、子供たちも半日は家にいないはずなのに、この麦茶の消費量はどうでしょう。ああ、もうすぐやってくる夏休みが怖い。最近、スーパーでは緑茶のペットボトルなど売っているが、あんなもの、いちいち買っていたら、お茶代だけでなんぼかかるねん。うちでは、ぜいたく品だぞ。

夕食後、子供たちは『少林サッカー』のビデオ鑑賞。これは、私が仕事の資料のためにレンタルビデオ屋で借りたもの。『イノセンス』『フィフス・エレメント』『ほしのこえ』『アップルシード』などのSFと一緒に、『ロミオとジュリエット』『スタンドバイミー』などをまとめて、借りているのだ。それにしても子供たちは、『少林サッカー』はたぶん三度目のはずなのに、また最後までキャアキャア笑いながら見ていた。これは、日本語吹替えである。

ところで、映画館で海外の映画を見ようとしたら、字幕か、吹替えか、の選択をしなくてはいけない。ところが、実際には「字幕」がほとんどで、日本語吹替版はあまりない。吹替えがあるのは、せいぜい子供向けの映画だけで、ほとんどが字幕である。確かに字幕版も便利だけど、吹替えがあまりないと、困ることがたくさんある。まず字幕が読めない子供たちが困る。私も、必ずしも字幕が好きなわけではない。だいたい字幕は、画面のジャマである。もちろん字幕なしで見れるほど、私は英語が達者なわけではないので、字幕はあっち見たりこっち見たりで忙しいのだ。これは、せっかく映画館で大きな画面を楽しもうと思っても、これは、ちと不利である。(しかも私は近眼)
それに、映画を作っている人は、字幕が入ることを想定して作っているわけではない(たぶん)。だから字幕で映画を見ると、視線の移動がむちゃくちゃになる。かなりしんどい。

だから、まず吹替えで見てから、それから字幕なしで見る方が私はラクである。だいたい私は、映画は気にいれば、たいてい三回以上見るから、その方が効率がいいのである。残念ながら英語の聞き取りはさっぱりダメなので、字幕があれば気をとられて、そっちをやっぱり見てしまう。英語で聞き取ろうと思ったら、いっそ字幕がない方がラクである。でも、どういうわけか、映画通と呼ばれる人は「吹替えなんて邪道よ。やっぱ、洋画は字幕で見ないとね」という人が多い気がするのだが、あれはどういうことなんだろうなあ。みんな字幕がジャマじゃないのだろうか。それとも映画通の人は、大量に映画を見るものなので、字幕の方が効率がいいのかな。同じ映画を二回見ないのかも。

でも、英語がわかる人なら、あの字幕は要らないだろうし、聞き取れない人なら、ずっと字幕の方ばかり頻繁に見ることになる。それに字幕というのは、話し言葉と書き言葉の違いもあるが、情報量がすごく少ないのだ。だから、ストーリーの筋だけ理解するのなら、字幕でもいいんだけど、やっぱりうまい声優さんに吹き替えてもらった方が、画面に集中できるし、細かいニュアンスとか雰囲気とかわかりやすいと私は思う。それよりも字幕に気をとられて、画面を見るのがワンテンポ遅れることの方がものすごく気になる。私は、どうも「ストーリー読み体質」らしくて、かなりストーリー重視ではあるけど、やっぱ、映画は「映像」だと思っているので、「ストーリーはどうも」という作品でも、好きな映画もいっぱいあるのである。(どうも物語至上主義というわけではないらしい)。ストーリーはともかく「画面がきれいだから許す」なんていう作品もけっこうある。

その点、DVDは、カンタンに切り替えられるので、ジャマな字幕がなくて、見るのがラクである。でも、昔の名作などは、やっぱり日本語吹替がついていないものが多い。「テレビで見たあの声優さんの声が、けっこうよかったのになあ」なんて思うんだけど、DVDにはついてない。残念。ああ、日本語版、増やして欲しいなあ。

ところで、夫は小説もほとんど純文学。映画も、エンターテインメント系はほとんどダメな人で、一番好きな映画は、グリーナウェイの『ZOO』である。これもストーリーよりは画面である。この映画は、色々なものが腐食していくシーンが軽快な音楽とともに早送りで挿入されており(最初はリンゴ、それからだんだん…)、それがとても美しいので有名な(?)奇妙な映画だが、実際には、そのシーンよりは、絵画的な画面構成、名画からの引用とか、徹底した「左右対称性」を徹底しているところが(映画のテーマがそこなんだけど)美しく面白い映画だと思う。(でも、なんであのシーンのことばっかり言うのかなあ)。

あと、私は、同じ監督の『数に溺れて』がかなり好きである。これも、ストーリーというよりは、1から順番にたくさんの数字が画面のどこかに隠れているというヘンな映画である。ラストの数字が出てくるところが、めちゃくちゃバカバカしくて、アホっぽくて、とてもいい。この人の作品は、『コックと泥棒とその妻と愛人』などで、ねっとりとしたイメージがあるが、やっぱり『ZOO』『数に溺れて』あたりが一番おもしろい。ま、エンターテインメント好みの人は「なんじゃこの訳わからん映画は!」と思うかもしれませんが、ヘンな映画もたまには面白いよ。あ、『不思議の国のアリス』的な世界が好きな人なら、ナンセンスとして見ると、おもしろいかも。

ちなみに、『ZOO』も双子が出てくる「双子モノ」映画(世の中には、双子をテーマにした小説や映画、マンガなどの作品がたくさんあるのだ)。ところで、私は双子を産んで以来、密かに「双子本」を集めている。もしオススメの「双子本」があったら教えてくださいまし。

07/05/2005

小説とは関係のない休日(趣味の地球学)

7月4日(月)
日曜、月曜は、小説講座の事務所はお休みです。

ところで、このブログには、コメントいただいても、返事のコメントが打てませんのでゴメンしてね。なぜかわからないけど、文字化けするんだよ〜。ごくたまに、入力できることもあるけど、最近はダメみたい。なんか、Macと相性悪いかな。

朝、いつもの通り、5時半起床。5時40分に息子を起こし、コーヒーを入れる。6時からの基礎英語をラジオでだらだら聞きながら、家事いろいろ。6時45分に英会話入門が終わったら、ラジオ大阪にチャンネルを変えて、双子の娘たちを起こす。かんべ先生のラジオ番組「朝ミラ」もすっかり日常風景になったなあ。

8時に子供たちが学校へ、私は、たいてい9時には出かけることにしている。バタバタと洗濯モノを干したり忙しい。それに月曜日は帰宅が遅いので、子供たちのために夕食の準備もしないといけない。冬なら暖め直せるみたいなシチューとかを用意するのだが、今の季節は、3つの弁当箱に夕食をつめて、冷蔵庫に入れておく。子供たちは、これを私の実家に持っていって、彼らの祖父母と一緒に食べるのである。

さて、出かけようとして、雨がひどいのに気づき、ふと「休もうか」という気になる。仕事がすごくたまっている。月曜日の午前中は、「趣味」の時間である。実は、私は毎週、午前中、仕事の都合をつけて、某大学の講義を受けているのである。地質図の書き方を習うためである。ここ数年、私は土砂災害関係の広告の仕事をしたせいで、地理とか、地球学にハマっている。「地質図」の勉強も、独学でやってたのだが、やはり限界を感じて、この大学の理学部、地球学の講義がいくつか科目履修できると知り、週1コマずつ聴講して、もう数年目になる。これは正式な科目履修だから、ちゃんと科目履修生の学籍はあるのである。趣味の「大学聴講」である。

ただし、前期の講義は7月で終わり。もし休んでしまえば、最後である。かなり悩んだが、結局、休むことにする。まだ心残りはあるのだけど、そろそろ仕方がない。だいたいテストが始まる頃になると単位が欲しいわけではないので、講義に出なくなるのである。科目履修なので、テストを受ければ単位ももらえるのだが、あまりテストを受けたことがない。もっともテストに出ないと先生の方がなんだか気をつかったりするみたいなんで、本当はテストもできるだけ受けたいのだが、1コマの講義でも、毎週、半日つぶれる。テストでは、新しいことを学ぶわけではないので、むりやり仕事をやりくりしてまで参加する気がないのである。でも、それなら、講義そのものもわざわざお金を出して、受けなくてもいいじゃないか、と思うかもしれない。でも、理系の知識というのは、けっこう独学でやれない部分もあるので、実は、この方が手っ取り早い。とくに、地球学関係は、天文とか化石、鉱物(とくに宝石)だとファンも多いようで、けっこう入門書から専門書まで揃っている。だから、知識の方も自然にステップアップできるのだが、「地質」になると、地震と火山などの分野をのぞくと、入門書から、いきなり専門書になるので、ちょっと知りたいと思っても、入門書を読んだら、いきなり専門書しかなく、いきなり難しくなるのである。

ところで、先日の新潟地震でも、大きな地震があるとテレビの特別番組とかで、地震学者が色々解説するのだが、テレビを見ている人は皆、どの程度、あの人たちの話を理解しているのだろう。あの時にも、たとえば「逆断層」など、けっこう平気で専門知識がポンポンと飛び出していたのだが、その逆断層がどういうものか、みんなわかっているのだろうか。私は、「正断層」と「逆断層」があって、応力場があって…、なんて解説している本を読んでも、さっぱり意味がわからなかった。

それにしても、ここ数年、ずっと金を払って、面倒な大学の聴講などをしているので、たまに学生さんたちにも「なんのために?」と聞かれることも多い。まあ、「趣味です」と言うのが一番ホントなのだが、それだと将来に備えて真面目に学んでいる学生さんたちに悪い気がするので、「勉強のため」とか「好奇心で」とか答えることにしている。これもウソではないが、自分の感覚としては、「ある日、地面って、動くんだな。なんだか面白いなと思った」というのが一番しっくりした答だ。

私が今、この分野に興味を持ったのは、たぶん阪神大震災だろう。でも、直接的なきっかけは、某地方自治体の土砂防災PRの資料を見ていて、「すごく地盤の悪い所にも家がいっぱい建ってるんだなあ」と思ったせいでもある。震災の時にも、地すべりが起こり、住宅地がくずれた。地すべり危険地区。そのマップをよく見ると、そこは新しい住宅開発地なのだった。危険地区に、新しい住宅地がどんどん増えているのである。私の年齢になると、周囲でも住宅を買う友達が増えているのだが、住宅ローンや間取りには詳しいけど、なぜかその地盤に気をつかったという話は聞かない。ほとんどの人は、立地条件というのは、交通の便や公共施設、商業施設までの距離などを示しており、そこが山の斜面を削って作った「地すべり危険地区」だとか、地震で液状化する可能性があるような地域だとかには、ほとんど関心がないものらしい。どうも、このあたりが、私の中で切実な好奇心となって、大学の聴講へ向かわせているものらしいのである。

しかし、先日、JRの脱線事故で気がついたのだが、どうもそれとは違うことが原因になっているのかもしれない。なぜだか、私は「ペッタンコになって人が死ぬ」というのが、ものすごく怖いことらしいのである。それで一番、ニュースを見ていて、すごく怖かったのが、某トンネルの落盤事故である。巨大な岩盤にバスが押しつぶされて、たくさんの人が亡くなった。死の瞬間、脱線事故なら電車の中の人たちは、何らかの電車事故だということは想像がついていたのではないかと思うが、あのトンネルの事故で、あのバスに乗っていた人たちが、はたして何が起こったのか少しでも気がついただろうか。たぶん、というか、絶対にわからないうちに亡くなっただろう。それは、間違いないだろう。私の好奇心は、どうやら、このへんに原因があるらしい。ペッタンコ恐怖症。

でも、地質学なんぞの本を見てると、プレートテクトニクスとか、途方もなく、長い長い時間があたりまえみたいに書いてある。その一方で、地震は、ほんの数秒、数分。ほんのちょっと地球が揺れるだけで、一瞬にして、私たちの生活を変えてしまう。

まあ、もともと恐竜好きの私には、古生物も幼馴染みのような気がしてるけど。とにかく、単位が必要な「学業」でも、まして「仕事」でもなく、ただの「趣味」としての学問は、まったく好奇心のおもむくままに、誰にも文句も言われず、のーんびりと勉強できるのがいいところだなあ。


07/04/2005

小説と関係のない休日(スーパーマーケット)

7月3日(日)
日、月曜は、小説講座の事務所はお休みです。

朝、7時半に起床。どうせ雨である。終日、家事に追われる。
日頃、家に帰るのは夕方の7時頃だ。それから大急ぎで夕食を作る生活をしているので、休日にしかできない家事もかなりある。だいたい毎日、夕方に帰って来た時点で、まず玄関を開けた途端に、ショッキングな風景が見える。フタのあいたままランドセルが三個ころがっており、玄関のくつの間にはドロドロの靴下、廊下には制服がころがっており、キッチンの床に汚れたパンツが落ちている。まあ、双子の娘たちは、女の子なので少しはマシ。さすがにパンツはころがさないが、上の息子がオバカサンなので、妹たちもつられてダブルでオバカサンである。一人ならともかく、三人で散らかす。いくらなんでも追いつかない。だから、家の中はいつもむちゃくちゃである。

そこで、いつも「こらあーっ、かたづけんかーい!」とわめきながら、15〜20分で夕食を作るという生活を続けており、毎日、戦争である。しかし、どうして、こう、アホ餓鬼ばかりなのかなあ。ま、これでもマシといえばマシ。双子がもっと小さくて、保育所にお迎えに行っていた頃に比べれば、よっぽどラクになった。が、あいかわらず、子供部屋の状態は、どんどん悲惨である。

とにかく休日には、できるだけ家事をやっておかないと、あとの一週間がエライことになる。休日は、買い物もスーパーを2軒以上は行く。だいたい、うちの近くは、1キロ以内にスーパーが6軒ある。さらに4キロ圏内なら小さい店まで入れると十数店ある。たぶん全国的に見ても、有数の激戦地である。ちなみに、うちから4キロ離れたイズミヤ今福店は、この数十年間、常に全国上位の売上げがあり、ダイエー京橋店も全国上位クラスである。そんだけ住宅地の多い地域である。このあたりにスーパーが多いのはわかるが、それにしても、歩いて10分程度にスーパーが6店もあるのは珍しいのではないだろうか。地方の人から見たら、驚異的な数である(十年前は4店だったのだが、この数年でまた2店増えた)。おかげで、それぞれの店の個性を比較して、うまく利用できるのだから、ありがたいことだが。

私は、イギリス旅行中でもスーパーマーケットに何時間もいたくらいだから、むろんどの店もチェック済み。だけど、6店もあると、さすがによく行くのは限られており、ふつうはそのうち4店だけである。そのうち2店鋪は、一方は「米」だけ、もう一方は「雑貨類」しか買わないことが多く、日頃、大量に買う食品類は、残りの二店で買うことにしている。その片方の店は、全国チェーン展開している店で、もうひとつは、地域展開している店である。

よく見ると、この二つの店は対照的で、全国展開の店は、野菜もどうも契約購入しているらしく、価格は安値安定している。野菜や魚などの生鮮食品は、ふつう毎日、価格が上下するものなのだが、この店は特売時以外は、さほど上がったり下がったりしない。もう一方は、地域展開している特売店で、問屋や卸売市場などで大量購入してるのではないかと思うのだが、市場価格と思われる価格変動にかなり敏感である。日によって価格も違うし、品ぞろえもかなり変化がある。期限ギリギリの缶詰めやら、虫つきの野菜やら、傷みかけのものなども安売りしている。日毎に内容が違うし、品数も桁違いに多い。だから、どんなものでもパッと買えずに、いちいち店頭で吟味しながら買わないといけないのである。となると、いつも安値安定している全国チェーンの方が、あまり悩まずにパッと買えてラクである。でも、私はこの地域展開している店の方が好きである。おそらく市場でマメに買い付けてくるらしいので、あまり大量に出回らない季節限定の野菜(アケビとか、人参菜とか)なども手に入ることもあるし、同じ野菜でも、輸入品と国産などの選択肢がある。キュウリも規格外だったり、汚れ野菜があったり、色んなものがあるので、アタリハズレがある。でも、その方がおもしろい。

ほとんど買い物をしない男性の方や、コンビニにしか行かない人だと、あまり日頃そういう選択をしないので、気にしないかもしれないが、たいていの主婦というのは、毎日「国際問題」について悩んでいるものなのである。ま、牛肉の輸入問題もあるけど、うちの場合、牛肉は焼肉かスキヤキか、特別な時以外は滅多に買わない。だいたいうちは、肉はもっぱらトリかせいぜいブタで、魚料理が多い。それも、サバ、アジ、イワシが、毎週ウロウロ食卓を色んな形でしているだけである。だから、日頃の関心は、もっぱら野菜だ。私は、基本的には生鮮食品は、肉も魚も野菜も国産を買うことにしているのだが、輸入野菜を見るのもかなり面白い。最近のカボチャはニュージーランド産、長ネギ、レンコン、ゴボウは中国産、オクラはタイ産だ。トマト、タマネギ、シイタケ、ニンジン、長イモ……。多少、輸入か国産か見分けがつくものもあるが、もともと日本向けに作られた野菜だから見分けはつかない。輸入野菜は、国産の6〜7割の価格で売っている。どう見ても、遠くから運ばれて来ているのに。

サバずしを作るのは、生のサバより塩サバの方が作りやすい。昔、サバ寿司専門店にインタビューをした時、教えてもらった。生サバは、脂の量や大きさの違いがあって、シロウトには難しい。うちの両親は、鯖ずしを作らない地方出身だから、私のは自己流である。先日、ノルウェー産の塩サバを買ってみた。できたのは、福井産の塩サバとなんら変わらない味である。韓国産のシジミ、モロッコ産のタコ……。タコは、あちらではとれなくなっているらしいが、まだ数年分くらいはあるのだろうか。

こういうことを言うと不快になる人もいるだろうけど、スーパーの食料品売場は死体置場だ。植物やら、動物やら。日本のスーパーマーケットは、世界中から無数の死体を集めている。そして、私は、自分のバカな子供らを食べさせるために、毎日たくさんの死体を金で買う。

だから、私は時々、食事を作るってことは、お祈りなんじゃないかと思うことがある。たくさんの主婦たちは、毎日、まるで巫女のように、それぞれのお祈りをささげている。

07/03/2005

堺三保先生の初講義!

7月2日(土)
午後から事務所。夕方から天満橋の教室で、第7期&専攻科の合同講義。
講師は、堺三保先生。初のご出講なので、専攻科の皆さんも出席率が高い。講義は、アニメのシナリオと小説の違い、キャラクターの立て方、ジュニアノベルの公募について。田中啓文先生も見学に来られ、教室の後ろの方のイスに座って参加。後半の質疑応答には、田中先生からも色々とご助言いただく。

堺先生と言えば、アニメのシナリオライター、小説も何冊か出されているが、むしろSFの翻訳とか書評ですごく有名で、個人的には、そっちのSF話の方が聞きたかったのだけど、このクラスは、めずらしくミステリ志望者がかなり多くて、眉村卓先生、堀晃先生の講義などの反応を見ても、どうしてもSFには興味が持てないタイプの人が三割ほどいる。ま、今年はあの山本弘先生の講義もあったし、SFの話はコレ以上無理と思ったので、今回の講義内容は、私のリクエストによって、わざわざ用意していただいたもの。案の定、ジュニアノベルのコンテストの選考について、質問が集中していた。(みんなコンテストで勝ってデビューしようね〜)。

堺先生は、書評家らしい明晰さでわかりやすく説明。ジュニアノベルのコンテストの下読みを多数されているので、「最も読みたくない原稿」の話にはつい爆笑。うちも「ショートショート大賞」という小さな小説のコンテストをしているのだが、確かに「読みたくない原稿」「むちゃくちゃな原稿」というのは毎年1割くらい混じっている。このコンテストは6年もやっているので、今はもう慣れてしまったけど、最初見た時は、かなりびっくりした。「なんだこれは、嫌がらせか?」と思ったくらいだ。なんでわざわざ、こんなヘンな原稿を送ってくるんだろうといつも思うよな原稿は、確かに必ずあるのだ。

講義終了後、またまた例の店に移り、専攻科も合わせて20人ほど。堺先生、田中先生を囲んで、ビールを飲みながら、ざっくばらんに色々な話を聞く。お二人は、年齢も一つ違い。出版社ごとの違いとか、編集者との打ち合わせのこととか、ウラ話なども少し。けっこう厳しい内容も混じっているのだけど、二人ともやさしく、生徒さんの細々とした質問にも丁寧に答えてくれていた。本当にありがたい。堺先生は、うちの小説講座ではこれが初めての講義だったのだが、評論も多くされているだけに、説明がとてもわかりやすい。いつも思うのだが、シナリオライターをされていた人の方が、作家的な執念深さは少し低いが、システマチックで知的で論理的である。職人的で、バランス感覚も高い気がする。

田中先生にも、生徒さんから質問が集中。田中先生はたまに少し突き放したような感じの話し方をされることもあるのだけど、それは生徒さんのことを考えてのことで、その言い方になぜか驚くくらい暖かいものがある。うーむ、やっぱ、ウワサ通り、「むちゃくちゃ男前」だなあ、と思ってしまう。とくにむちゃくちゃ二枚目というわけではないのに不思議(いや、失礼ですが…でも、パッと見、ボウズ頭にヒゲ面だし…)
うまく言えないのだが、どっか、ちらっと何かサムライぽいというか(と言っても、たとえば五右衛門というよりルパン三世みたいな)、ずいぶんバカな話をしてても(例の「まんがカルテット」が誰もいないので、今回はバカ話はあんまり炸裂してませんでした)、なぜだかどっかカッコいいのが時々ふわりと一瞬だけ匂うのである。うーん、不思議だなあ。うまく説明しにくいが、たぶん、どっかずっと底の方がセクシーな体質なのだろう(フェロモン体質ともいう)。ちょっと地獄も見て来ました的な男っぽさを(むろん実際はどうか知らんけど)、こういうふうにたまにチラっと見せられるのは、たぶん天性の才能というか、なんか作家としても、男性としても、ちょいとおトクな体質だという気がする。(……なんてことを、本人に直接言ったとしたら、笑いとばすか、反対にイヤがるかもしんない)。ただ、この先生は、日頃は「相方」がおられると、ほとんど漫才状態なんだけど。

ちなみに、私は、田中先生の作品は7年前に「デビュー作」を読んで以来、夢枕先生か菊池先生か、とにかく今にゼッタイにすごい流行作家になるだろうと固く信じているので、(アクションもエロもグロもギャグも絶品で、流麗でスピーディな文章、ファンタジーもホラーも伝奇もミステリも書いて、キャラも面白く、しかも量産がきくから)早く何かすごいヒット作が出れば嬉しいんだけど。

ああ、でも、堺先生のSFの話、聞きたかったなあ……。(くすん)
先生のHPに、某大学の教室で講義されたという内容が載っていた。どうも進化論とSF小説についての話らしく、それを見たら、思わずジタバタ、くやしがってしまった。つい先日、月曜に発表されたようだが、あいにくその日、私は専門学校の非常勤の仕事がある日で、どうしても出席できなかったのだ。(ああ、休講にして、あとで補講にすればよかった)飲み会でも、生徒があまり多く、取り囲まれていて、近寄ることもできなかったしなあ。いつか機会があるんだろうか。堺先生は、ずっと大阪にいていただけるわけではないらしいので、急いで機会を作らないと〜。

ところで、先生が発表された資料を見たら、どうやら、SF小説と進化論、それから進化論学者のグールドと社会生物学者のドーキンスにも触れられているらしい。実は、私が大学生の時にも、周囲でドーキンスなどがちょっと流行ったのである(社会学部なのだが)。SFの話にも興味があったし、ああ、話を聞きたかったなあ。

ちなみに、このスティーブン・J・グールドは、科学エッセイも有名で、たくさん翻訳もされているので、ぜひご一読ください。この人のエッセイは、とにかくすごく上手い。野球好きで、生物の進化を野球の打率に例えたり、なかなか巧妙である。私は、こうしたエッセイも好きだし、『時間の矢、時間の環』などの著書も好きである。この人の書く本は、科学書というよりは、広く社会的なものが多い。『時間の矢、時間の環』も、時間概念に関する話である。どれも、すごくドラマチックで面白く、たいへん面白い。『個体発生と系統発生』も、タイトルだけなら古生物学バリバリの本みたいだが、実際には、人種差別とか偏見に関する、かなり社会的な内容の本である。けど、この人の本は、さっくり大胆で、ちょいとしつこいくらいの書き方が、なぜか、どっかスティーブン・キングのホラーに似ている気がするんだけど、どうっすか(たぶん誰も共感してくれないだろうけど)。

ちなみにグールドおじさんは、日本にも来たことがあって、私は京都での講演会を聞きに言ったことがある。想像通りの「野球好きのヤンキーおじさん」のイメージそのままだったのでちょっと面白かった。たしかこの時は『ワンダフルライフ』の本が出た頃で、「アロマロカリス」とか「ピカイア」(両方とも小学生にも人気のある古生物)とかの絵を、スライドで見せながら話をされていた。この本は、有名なカンブリア大爆発に関するもの(バージェス生物群と呼ばれるユニークな古生物と進化に関する話)である。今では、批判本も出てるが(このあたりは、生物学的な「門」とか「属」の分類の考え方による批判だったりするので、ちょっとややこしい)やっぱり、この人の軽やかな、スピーディな論理展開の文章は何とも言えない。でも、亡くなってしまったから、もう科学エッセイの新しいものは読めない。すごく残念。

結局、11時半まで飲みながら話し込み、深夜、本屋に寄ってから帰宅。

07/02/2005

死ぬまでバカやってるかも

7月1日(金)
午前中、外出。午後から事務所。

昼過ぎ、大学時代のS先輩から電話。「現役の後輩たちの学内展が今日までで、夜遅くまでやっているらしいので、夕方、一緒に行かないか」と言う。
そう言えば、ハガキが届いていた気もするが、どうせ平日だし、忙しいので行く気がなく、すぐにポイとゴミ箱に捨ててしまっていた。大学時代、私は油絵など描いていたのだが、後輩の展覧会には滅多に出たことがない。ところが、このS先輩は、卒業後も、同窓会などにも顔を出しているらしい。マメな方である。後輩の学内展など、正直ちょっと面倒くさいだけなのだが、卒業後して二十年近くたっても、なぜか先輩には逆らえないものなので、早めに事務所を出て、いったん自宅に帰り、夕食の準備をして、子供たちを実家に預けてから、母校の某大学へ。建て直しをしている実家は、本日、引っ越しなので、ちょっとイヤイヤだったが、お刺身などを差し入れして、なんとか預かってもらう。

7時半に待ち合わせて、夜の大学へ。学内展を見てから、近くの居酒屋へ。後輩は6人。私の分も含めて合わせて8人分、S先輩、ごちそうさまでした。

ところで、この先輩は男性の方なのだが、芸大を3浪してあきらめて法学部に入学してきた人なので、学年は私より1年上だが、年齢は4歳年上である。で、今ではすっかり「キャリア官僚」で、どう見てもエリートっぽい。のだが、大学の時は、絵ばかり描いていた人である。今では、すっかり仕事が忙しくて、絵なんか全然描いていない、描く時間がない、休日出勤が多く、今日も仕事の都合を無理矢理つけて来たのだそうだ。

「あの頃が懐かしいなあ、なんか色々楽しかった」と言う。そんな話を聞くたびに、私は、なぜだか少し申し訳ないような気がする。私は案外、やっていることがあんまりかわらない気がする。なんというか、まあ、大学時代だけが楽しくやっていたという感じではないので、この先輩みたいに「学生時代だけバカをやっていて、社会人になってからはすっかり真面目に暮らしている人」を見ると、なんだか、自分だけが今でもバカやってるみたいで、なんだか申し訳ないような気がするのである。

といっても、むしろ私の周囲は、日頃は「いくつになっても、たぶん死ぬまでバカ」な人が多いので、私だけバカやってるとは全然思ってないんだけど。まあ、私の場合、学生の時と同じなのは、あいかわらず金がないことと、仕事が忙しいといっても、どうせフリーなので、時間の都合がけっこうつくことだけである。

そういや、うちの小説講座の講師の先生たちなんかは、なんというか、プロ作家といっても、いつまでもどこか「学生のノリ」みたいなものがどこかあるような気がする。大学時代とか、高校時代とか「若い頃はむちゃやったよな」という人とはほんの少しだけ違う感じがする。小説だけでなく、映画関係者や漫画家さんとか、演芸関係の人も、なんだかそんな感じである。

そう言えば、大学の時にお世話になった植島啓司先生から(私は社会学部なので、ゼミの担当教授ではない)、こんな話を聞いた覚えがある(記憶違いだったらスミマセン)。
この先生が、高校生だか、大学生だかの時に、友だちと夜通し話し込んでいて、「こんなことやれるのは今だけだよな」と言っていたそうである。その時は、今だけだと思っていたそうなのだが「でも、あれから二十年たっても、あいかわらず『こんなこと』をやっているよなあ」としみじみ話されていた。けっこうテレビに出たり、雑誌の連載を何本も抱えていたり、色んな人と色んなことをされていた頃みたいなので、「こんなこと」が正確に何を指すのかわからないけど、その時は、朝までずっと皆で飲んでいたので、たぶんまだ「朝まで飲んで、色んな話をしている」という「バカ」をやってることじゃないかと思った。

それにしても、当時は、この先生も、今の私と同じくらいの年齢だったはずで、よくまあ、あの忙しい状態で、毎週、学生たちにつきあってくれたものだと今さら感心する。たしかに毎週ではないが、たいてい12時とか2時とか、あるいは、しばしば朝まで飲んでいた。私は、現役の時だけでなく、卒業後も数年にわたって、たまに講義に顔を出してもらっていたのだが(もぐり学生というのだろうけど、この先生のクラスには色んな人がかなりいた)ずっと何年もそんな感じであった。おかげで、私は色んなことも知れたし、かなり色んな話も聞けたわけで、本当に有り難いことだったが、つきあってくれる先生は大変である。

しかし、ということは、世の中の大人には、「あいかわらずバカな大人」と「昔はバカだが、今はちゃんとした大人」の2種類がいるのだろうか。あるいは、もしかすると「バカなんか一度もやったことはない大人」の3種類かもしれないけど。でも、そう考えてみれば、小説講座は、生徒さんも講師の先生も、なんだか「今でもあいかわらずバカ」みたいなところがあるなあ。やっぱり「昔はバカだが、今はちゃんとした大人」の方がたぶん世の中には貢献するし、必要な存在だよな。けど、あいかわらずバカをやれている大人たちも、けっこう面白い。そして、たぶんやろうと思えば、ずっと一生バカでいられる。一生バカやれる人も、たぶん世の中にはいっぱいいる。どっちの人生も、本人次第だから、どっちがいいか、何とも言えないけど、とりあえず、小説なんぞを書こうという人はたぶんバカには間違いないと思っている。

07/01/2005

一度、とりつかれたらおしまい

6月30日(木)
終日、小説講座以外の仕事。銀行振込など。
第7期の修了作品を数編、読む。

ペプシがやばい。『スターウォーズ』がついている。夕方、買い物に行ったら、近所のディスカウント・スーパーに並んでいた。安い。でも、子供たちの手前もあるので、一応、「食玩」は買わない主義なのだ。『エピソード1』も、お話はあんまり好きじゃないのに。買わないぞと思うんだけど、いきなり買ってしまう。いや、昨日は無防備だったので、やられてしまった。ペットボトルのお茶を買おうとして、店に入ったら、ペプシが並んでいたのだ〜。うーん、普段、コーラなんか飲まないのに。年に1度か2度くらいなのに。やばいやばい。でも、ヨーダが! R2-D2も! 当分、スーパー、コンビニは危険だなあ。油断できんぞ。

そういえば、タバコや酒だけでなく、コーヒーにも常習性があるのだが、コーラにもあるので、実際、コーラをよく飲む人はほんとによく飲む。若い頃、某外資系企業の研究所でバイトしていたことがあって、よく本国(アメリカ)から社員が出張してくるのだが、ある時、やたらコーラを飲む米国人が2週間ほどやってきた。いつ見てもコーラを片手に持っていて、なんだか一日中飲んでいるなあ、と思っていた。それまで1階にあった自動販売機でコーラを買う人はほとんどいなかったので、飲みながらあちこちウロウロすると目立つのである。一体、一日に何本飲むんだろうと思っていたら、他のバイト仲間もそう思っていたらしく、終業時間が来て、みんなでフロア中のゴミ箱を集めてカウントしたら、なんと8本あった。その日、彼は3時から外出してしまっていたので、「平均、一日10本だな」と推測されたのである。以来、なんだか、アメリカ人と言えば、やたらコーラばっかり飲んでいるイメージがある。いや、彼以外のアメリカ人の社員がコーラを飲んでいたわけではないのだが。というか、そんなにコーラばかり飲むのは彼だけだったが。

しかし、コーラは日頃飲まないが、コーヒーは一日に最低でも3杯は飲む。まあ、7〜8杯くらい平気で飲む。仕事で打ち合わせなどすると、10杯くらい飲むこともある。実際、カフェインは軽い中毒性がある。常習するとあまり効き目がないので、カフェイン中毒になっていても気がつかない。以前、妊娠中にカフェイン断ちをしたのだが、半年間、飲まないでいると、コーヒーは効く。心臓がバクバクして、頭がくらくらする。滅多に飲まないとこんなに効くんだなあ、とつくづく思った。昔、コーヒーは薬だったというが、けっこう効き目があったはずである。緑茶も効く。ものすごい効き目である。でも、3日もたたないうちに体が慣れてしまった。5〜6杯飲んでも平気である。

ま、皆さんもぜひお試し下さい。日頃、飲み慣れているものでも、全然、違う感覚になること間違いなし。でも、コーヒーも緑茶も紅茶も、全部飲まないようにして、せめて2週間くらいやらないと効果がないが。

しかし、たまには、そんなふうに「日常感覚」をわざとズラしてみるのも面白いのではないかと思う。以前、引っ越しした時にもそう思った。前の家は、バス道路に面していたので、やたらに騒がしく、夜中もトラックの振動が絶えることがない。ところが、引っ越した今の家は、住宅街で、家の前の道路はこの一角に住んでいる人しか通らない。自動車も、一日にせいぜい4〜5台通るくらいである。引っ越しして来て最初の4〜5日は、静かすぎてなんだか眠れない。静かすぎて、気持ち悪い。静かすぎて、眠れないというのはヘンだと思うかもしれないが、ホントに眠れない。前は、ガンガンうるさい道路の前でも寝れたのに。でも、一週間たったら慣れてしまった。人間って、ホンマ、何にでも慣れるものだな。

ところで、小説を書くことも常習性というか、けっこう「中毒」になるのかもしれない。一度、小説を書く体質になってしまったら、書かないではいられないものらしい(私自身は小説を書かないのでわからないが)。小説を書くって、必ずしも楽しいだけではなくて、かなりしんどい行為である。それなのに書いてしまう。そんな大変なことをやる生徒の皆さんは、もうすっかり中毒にかかっている。快楽(?)に溺れて、時間のたつのも忘れて、寝不足になり、ずっと書けないとイライラする。副作用も心配だ。

まあ、ギャンブルやドラッグに較べれば、かわいいもの。多少ぼおーっとしてるみたいに見えるかもしれないけど、お金もかからず、健康被害も少ない。友達が少なくなったり、家族に見放されたりもしない。(あ、でも、いや、そうでもないのかな)

とにかくペプシが危ない。当分、気をつけなければ。ああ。


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