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07/10/2005

それでも、未来を信じている

7月9日(土)
午後から、小説講座の事務所へ。夕方は、第7期の講義。講師は、かんべむさし先生。

毎年、かんべ先生は、事前に集めた「質問シート」(こんな内容の話が聞きたい、これが知りたいってことを各自が書いて提出する)を使って、講義を準備してくれる。先生は、今、ラジオ大阪で毎朝(月〜金)二時間もの帯番組を担当しているので、ものすごく忙しいはずなのだけど、今回も、前半はその質問シートを中心に話をされ、後半は、ご自身の作品を使って、実際の創作過程の解説。
(でも、やっぱ、毎朝4時起きだそうで、「毎日くたくた」だとか。忙しい中、ホント感謝! ところで、うちの小説講座の先生たちは専業作家の人が多く、朝6時50分に始まる番組を「あんな時間、殺生や。これから寝る時間やで」と言ってる夜型の人が多い。ちょっと笑える)

後半の作品は、今年の例のアンソロジーにも選ばれたあの短編。ネタバレになるので、詳しく言えないが、アレとアレにあの驚きの接点があるという、あの作品(専攻科は、あの短編集を持っている人も多いので、これでわかる人はわかるだろう)。このアイデアだけでも、「うーん、やられた」って感じの作品なのだが、ただ今年の受講生は、どうも初心者が多くて、アレとアレが、そもそもわからないのではないかという気もしなくもない。それに、テクニックも少し高度な部分もあるので、この短編のコピーを事前に生徒に配布しながら、「うーん、専攻科ならいいけど、1年目の生徒は、読者としてのレベルもかなり低い人が混じっているしなあ。この短編のレベルについてこれる人が、何人いるかなあ」と思わないではなかったけど、レベルを決して落とさないのがこの講義のいいところ。うちの小説講座は、講師が十数人もいて、しかも全部プロ作家、というたいへん恵まれた講座なので、やさしい先生もいれば、こうしてずばり厳しいことを言ってくれる先生もいるのが有り難いところなのだ。(一応、プロ作家養成講座だしね)。

でも、それはそうとして、作者本人に作品の創作過程を具体的に説明してもらえるのは、かなり貴重な機会だと思う。こういうことは滅多にない。ところで、この小説講座も7年目なので、どの先生の講義をどの順番で聞くのがいいかを考えてあるのだが、この講義は、カリキュラムの中では、かなり後の方の講義として設定している。実は、十数人いる講師の中で、この講義は最後から二番目(ラストの講義は、青心社社長の青木先生。ただ、この先生だけは作家じゃなくて編集者)。この講義は、人によってはかなり厳しく聞こえるらしいので、わざと最後の方にお願いしているのである。

だもんで、毎年、この講義は、ちょっと緊張感が漂う講義である。生徒さんたちは、先生が創作過程を説明するにしたがって、おおげさに言うと一瞬、教室が凍りついたみたいになる。今回とりあげた短編もそうだったが、前回は長編だったので、細かいプロット表を見せられて、みんな絶句していた。今回の短編も、まさに「そこまでやるか」という感じだったのだろう。具体的な内容はここで説明しないが、なにせ実際の創作手順を説明されると、「プロは、そこまでやらないといけないのか!」「そうなんですか?」とショックを受ける人が毎年必ず何人かいるのである。

(ところで、私は、「もしそこまで努力さえすれば、ある程度、誰でも書けそうな気がする」から、むしろ「天才にしか書けません!」と言われるより、よっぽどいいような気がするんだけど、どうでしょう。努力だけなら、もって生まれた天性はいらなくて、誰でもやれば済むことだからねえ)

でも、これはこれで、いいことだと思う。もし本気でプロ作家になりたかったら、多少厳しいことも知っておいた方がいいのだ。それぞれ自分のやり方が本当にそれでいいのか、色々悩みもあるでしょうが、どうせ作家なんて、なったとしても、どっちみち一生勉強し続けなければいけない不幸な職業である(いやホント)。だから、がんばってください。(先生も、多少、愛ゆえに厳しいことを言うかもしれないけど、ふつう作家は、もともと「ウソのうまい人種」で自意識も強いから(失礼!)、ここまで正直に自分の手の内を見せてくれる人は少ないのである)

ところで、プロットの話。
先週も、作品の締切日があって、ある生徒さんに聞かれたのだが、もちろん「プロット」をどこまで作るかどうかは、作家さんによって違う。でも基本的に、まったくプロットなしで書くというのは考えられないから、頭の中にあるのか、紙に書くかの違いはあるかもしれないが、ホントになしで書く人はあまりいない。細かく決めるか、ぼんやり「こんな感じ」か、それはそれぞれ色々だろうが、まるきりないと何も書きはじめられない。それは、旅に出るのに、目的も目的地も何も決めないようなものだ。せめて、どっちに向かって行くかくらいは決めて出発するはずである。

実際、プロットは、人によっては、作品によっても、作ったり作らなかったりするらしい。以前、うちの講座でも、新井素子先生が、「長編は作らないけど、短編はプロットを作る。プロット作らないと短編はちゃんと終わってくれないから。でも長編はラストシーンさえわかっていれば、たどり着ける」と話されていたことがあったが、その時の対談相手だった高井信先生が「いや、ふつうは逆じゃないの」と笑っていた。まあ、人それぞれなので、やりやすいように書けばいいと思う。プロ作家でも、プロットを作らずに、とにかく大量に書いて、大量に削りながら再構築しながら作るタイプの人もいるので、書き方は人それぞれだ。昨年のかんべ先生も、ただ自分が長年使っていて、やりやすいと思った方法を紹介してくれているだけである。

ただ、これは私個人の意見だけど、実際、どうも「細かいプロット」を作らないで書く方が、やはり技術的には相当難しいような気はする。そりゃ作らなくても別にいいけど、初心者にはやはり技術的にかなり難しいのである。よほど子供の頃から熟練した「文章の使い手」ならば、どんな事態になっても、いろんな技をひねりだして、自由自在、臨機応変にストーリーを進められるのだが、これは、ケタはずれの読書量と相当な体力がないとできない手法で、普通の人ではかなり難しい。とくに初心者の場合、途中でうまく行かなくなったり、書いた作品が訳がわからない、イマイチつまらない、という場合が多く、その原因のほとんどは、いきあたりばったりに書いているのが原因のように見える。

とはいうものの、どういうわけか、初心者の人に限って、まずプロットを作りたがらないし、日頃はアイデアメモさえ作らない。そもそもアイデアも、どれを書こうか選ぶというより、選ぶほどたくさん考えたことがない場合が多い。まあ、最初の頃は、いきおいで思いついたものを書きたいように書くものだし、それはそれでいい。でも、やっぱり書く前にあまり吟味しないで書きはじめるから、結果、うまくいかない場合も多い(というか、ほとんど)。
だから、プロットなしでも書けることは書けるが、私は、やはり生徒にはプロットを書くことをオススメする(まあ、人にもよるけど)。少なくとも、プロットの段階で、どうすれば面白くなるか、もう少し吟味した方が、ムダな時間や手間がかからない。(実際、本格ミステリとか、いくらなんでもトリックがこれでは、何度書き直してもどうしようもないだろうなあ、というような作品もまれにあるのだ)。
ただ、これは書きはじめる前に、いくら説明してもしょうがないことなので、何本か書いて、自分でやっぱりあまりうまくいかない、と思いはじめてから、必要ができてから、作ればいいことだと思う。

しかし、生徒さんを見ていて思うことは、文章力や構成力、発想力などの技術的も低いということもあるけど、プロと比べて一番違うなあ、と思うのは、どういうわけか、なぜかとにかく手を抜きたがることである。あまりうまくない人に限って、何の悩みもなくさらさらと書く。ま、ひどい場合は「一回でいいから、自分で読み返した?」と言いたくなるくらい、誤字が多かったりして、推敲もしてないこともあるが、そういう文章だけでなく、構成やアイデアも吟味されてなくて、どう見ても「思いついたものをただ書いた」感じの作品もある。そういうのは、たぶん読めば、誰にでもわかってしまう。

まあ、時間もないし、プロ意識もないし、だから、いろんな意味で怖さが全くないし、しょうがない部分はある。それはそれで幸福な時期でもある気もするから、最初はいいんだけど、やっぱり「アマチュアの文章だなあ」という感じはするのだ。作品が、なんだか、全体的に「甘い」感じがするのである。一方、プロの場合「もっと面白くするにはどうすればいいか」という思いが、かなり強烈にあり、「もっと何とかなる」「こうすればもっといいんじゃないか」という気持ちが強いみたいで、一つのアイデアでも「どんな構成がいいか」と、よく考えられている。ちなみに、生徒さんの場合には、どういうわけか、そのアイデアそのものも弱い場合が多い。(だいたいアイデアがすごくよければ、文章がちょっとくらいむちゃくちゃでも直せば済むかもしれないが)

私自身は、作家というわけでも、編集者でもないが、できるだけ単純に考えることにしているので、「料理を作る」のと同じだと考えてみることにしている(たぶん外食産業で働いていたせい)。

だから、料理と同じように、小説も、誰でもたいてい多少練習すれば作れるようになる。多くの主婦も、最初はヘタクソでも、何年かすれば、たいていは家族が楽しく食べられるくらいに料理はうまくなる。文章も同じで、書くだけなら、たいていは訓練しだいで、誰でもできる。書くこと自体は、それほど難しくない。問題は、プロとして、商売になるかならないかである。その場合、単に「親子丼」をほどほどにうまく作れればいいというわけではなくて、ものすごくうまくないと商売にならない。または、かなり個性的、他では食べられないような変わった「どんぶり」とかじゃないと、金はとれない。どんなレストランが流行っているかを考えてみれば、とにかく雰囲気がいいとか、サービスが気持ちいいとか、何かがあるはずだ。例えば、よく吟味した新鮮な季節の食材、素材を活かしたコース料理、タイミングよく気持ちのいい接客、清潔な店鋪……。それは、その店が「サービスとは何か」と真剣に考えて、考え抜いた結論なのである(むろんいつも変化するから、それは通過地点なのだが)

ちなみに、私がレストランに勤めていた頃、先輩にこんなことを言われたことがある。サービスの基本は、「なんだ」じゃなくて「そうか」なのだそうだ。そのために「お客さまの『期待』よりも少しでも上まわったことまでやることが大事」だそうだ。そうすれば、お客さまは「感動」してくれる。お客さまは感動すれば、必ずまた来店する。(ちなみに、マーケティング的にも、広く新規顧客を開拓し続けるよりは、獲得した顧客を維持できる方が効率がよい)

だから、やるべきことをやらないのは論外で、さらにその上をやるのがプロだという。確かに、ある種のサラリーマンや公務員なら、やるべきことをやっておけば、余計なことはやらなくてもいいかもしれないけど、ふつうは、やるべきことよりも、期待を上まわったところまで、やってみせるのがプロである。かんべ先生の言い方なら、それは「そこまでやるか」かもしれないけど。

だから、私はコピーライターになっても、やっぱり「そうか!」は、サービスの基本だと思っているし、小説でも、どこかに「そうか!」があるだろうと期待して読む。でも、どうやれば「そうか!」ができるかは色々で、それは各自いろいろ努力するしかないのだ。だから「やるべきことはやっているのに、なぜデビューできないの?」と悩んでいる人がいたとして、それは、自分で答えを見つけるしかなく、それには、より一層、苦しんで、努力するしか道はない。でも、プロも真剣に悩むくらいだから、初心者が悩むのはあたりまえである。ま、どんな職業でもホントに「できる人」になるためは、避けられないことなので、あいにく避けられない努力なのだ。
でも、それだからこそ、飽きないことなのかもしれないことかもしれないが。

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