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07/25/2005

小説とは関係ない休日(視点人物は、そこにいる)

7月24日(日)
日、月曜日、小説講座の事務所は、お休みです。

土曜日の講義で、ある生徒さんからこんな質問があった。
「どうして小説では、視点の統一をうるさく言うのですか。映画なんかだとパッと場面が変わったりして、自由に描けるのに、どうして小説は視点が変わるとダメなんですか」
これは、講師の青木先生がうまく説明をされていたのだが、たしかに視点が変わったら絶対ダメか、というと、別に小説でも「視点」が変わってもいいのである。実際、「章」を変えたり、あるいは一行あけを入れたりすれば、そこで視点を変えても、とくに問題はない。というか、実は、小説というのは、「これをやったら絶対ダメ」というのは、本当のところ、ほとんどなくて、「やったらダメか」と聞かれても、たいていの場合、絶対ダメなのではないのである。それは「絶対ダメ」なのではなくて、小説読本とか、書き方の本とか読めば書いてあると思うが、ただ「かなり無理がある」「かなり難しい」というだけである。視点が統一されていないと、読者がわかりにくくて、ほとんどの場合、うまくいかないから、たいていの場合は、視点をコロコロ変更させない方がいい。まあ、そういうことだと思う。

ところで、その「映画」の場合も、あれは別になんの脈絡もなく、コロコロと「場面転換」が行われているのではなくて、それはそれで一定のルールのもとに、場面を変えているのである。映画だって、まったく唐突に、違う場面につなげることはほとんどない。ある人物をずっと追っていて、そのシーンからパッと全くつながらないシーンがいきなり来たら、映画を見ている人だって、やはり混乱する。もし、パッと変わっても、その後、たいていは少なくとも数分以内に、あれとこれが、なぜ「つながっているか」が説明があるハズである。たとえば、ルパン3世が「くそっ、こんな時に次元がいてくれればなあ」なんてつぶやけば、その人物のところにすぐパッととべるのだが、話の途中で何の説明もなく、いきなりパッと場面転換することはできない。この場面がどういう場面か、とにかくすぐに観客にわからせないといけないから、場面転換にも、それなりの工夫がいる。しかも、映像はその瞬間ごとに流れていってしまうものなので、映画は小説よりもストーリー展開には色んな注意が必要で、ある意味、映画を見ている人は、小説を読むみたいに、じっと考えてくれたり、いちいち細かい部分まで覚えていてくれるとは限らないのである。

どうも、芝居の台本、「戯曲」を書いていた人に多いみたいのだが、「小説は、視点を統一しなくちゃいけないから、表現が不自由になりますね」という人は、ごくたまにいる。でも、これを不自由と感じるか、だからラクだと感じるかは、もう少し何作か小説を書いてみれば、きっとすぐにわかると思う。自分で書けばわかると思うが、反対に、小説は「視点が統一されている」おかげで、かなり表現が自由なのである。(もちろん読んでいる人にとっても、書く人にとってもラク)

というのは、人によっては、ちょっとわかりにくいらしいんだけど、ホント、実際、何作か書いてみればわかる(というか、すでに悩まずに書けちゃった人は、そもそも視点を統一しないで書く方が難しいと思うが)

昨日は、思わず「もっといい作品が書けただろ!」とついボヤいてしまった生徒作品があったんだが(だって、彼にはそれだけの能力はあったはずなのに。私はやれそうにない人には、そもそもボヤいたりしないよう)、この作品は、トリックだけじゃなくて、文章でもちょっとひっかかるところが何ケ所もあった。ただ、これも「視点」がわかれば、すぐに自分で書き直せるから、あんまり問題ではない。とにかく2〜3作書けば、たいていの人はすぐ慣れる。なにせミステリなら、視点って、めちゃくちゃ便利なものである。この人は、たぶんまだ初心者なので「日本語になっていない」んだろうが、でも、これは小説特有の文章の書き方に慣れてないだけだから、すぐにできるようになるのである。

(実際、どんなに文章がガタガタでも、たいてい不思議と半年もたてば、皆うまくなる。少なくともエンターテインメントの小説を書く人は、ある程度書けばうまくなる。どうしようもなく、文章レベルでダメという人は見たことがない。だから、あまり問題ではない。基本的に小説なんてものは、実は、書くだけなら、誰でもちょっと練習すればすぐ書けるようになるので、文章がマズイのは、あんまり問題ではないのである。それより、読者を頭からナメてかかって、ちゃんとアイデアとか構成を考えないクセがついてしまっている人の方が、プロ志望としてはかなりマズイ)

純文学とか私小説から、小説を書き始めたという人は、どうやら「一人称」で始めた人が多いみたいなので、「視点の統一」で混乱するという人が少ないみたいなのだが、SFとか、ミステリとか、エンターテインメント小説の場合は、「なぜ視点を統一しなくてはいけないのか」という人はたまにいる。これも、実際、小説を書いてみればすぐわかることだろうから、別に私がいちいち説明しなくてもいいんだけど、カンタンにいうと、こういう初心者の人は、書いてみれば、たいてい「あらすじ」を書いているだけで、「小説」にならないのである。エンターテインメント系の小説を書く人は、たいてい、まず「物語」というか、面白いアイデアやストーリーを思いついて、とにかく、それを書きたいわけだから、最初のうちは、ついつい「あらすじ」だけを書く人もけっこういる。でも、それだと「小説
」にならないのである。

でも、これは2〜3作も書けば、たいてい自分でうまくいかないのが、すぐわかるからすぐ直る。だから、「あらすじ文体になってますねえ」と言われても、さほど悪いことではなくて、最初のうちはよくあることなのである。自信がない人は、一度、自分が書いた作品を人に読んでもらえばわかることだが、あらすじのままだと、当然、読んだ人にオモシロさが「なぜか」ぜんぜん伝わらない。それに気がつけば、たいていすぐ書き直せる。

でも、まあ、具体的な文章をあげないとわかりにくいかもしれないので、ちょっと説明しておくと、たとえば昨日とりあげたその作品では、こういう文章がある。
「…は、僕の隣でハンドルを右に切りながら、黒のセダンを別荘の横へとつけた。僕はシートベルトを外して、真っ先に助手席から降り、車の後ろ側へと回った。トランクから黒のナップザックと濃い水色のクーラーボックスを取り外した。すでに降りて待っていた若津に白い布地のカバンを渡す。夏の日差しは昼の三時近くになっても強いままで、僕の黒い短髪が標的にされて、熱くなっていく」。

まあ、ここだけなら「そういう文体もありそうかな」という感じなんだけど、最後まで全体的にこういう感じでかなり読みにくい。(このナップザックもクーラーボックスも、このあとのストーリーには何の関係もない)
で、作品全体に「大きい」とか「小さい」とか、「黒い」とか「青い」とか「明るい茶の」とか、あるいは「すぐ近くに」とか「右側に」とか、いちいち細かい描写があるのに気がつく。たとえば、主人公がログハウスに入ったとたん、「僕は中と外との温度差に一瞬寒気を覚え、荷物をすぐ近くに置くと、白地の半袖カッターシャツから出た毛深い腕をさすった」りする。

私は、最初、「なんで、こんなに色とか形とかにイチイチこだわるんだろうなあ。これって、何かトリックの伏線なのかなあ」と思っていたのだが、やっぱり違うらしい。どうも作者が、読者に伝えようとして、細かく場面を描写しようとして、こうなったらしいのである。

(もちろん「文体」がくどいとか、そういうのも個性だから、多少、過剰な文体でもいいと思う。私は、「文体」は純文学ならかなり気にするが、エンターテインメントなら、文章なんかちゃんと読めさえすればいいんじゃないかな、くらいに思っている。純文学の読者なら、主人公の心象風景とか、実験的な文体も、ちゃんと理解を示してくれると思うが、エンターテインメント小説の読者だと、そんなことだけを期待しているわけではないので、あまりにもくどい文体は、たいてい敬遠されがちである)

この場合、やっぱり、たぶん書き始めたばかりの人の典型的な「あらすじ文体」なんじゃないかと思う。こういう場合、大きい、小さい、赤い、黒いとか、書く人が多いみたいである。まあ、若干、そういう形容詞が増える。つまり、作者が「自分が描いているシーン」を読んでいる人に何とか伝えようとして、そこで見える(ハズの)ものをそのまま書くから、そうなってしまうらしい。ところで、これは、「視点」が一人称の「僕」にちゃんとなっていないから、こう書いてしまうのであって、もし視点というものがわかっていれば、たぶんこうはならない。

どういうことかというと、もし、この場合、「僕」に「視点」があれば(一人称なので、視点はココにあるのだが)、もう少し違った表現をするはずなのである。たとえば、ただ「黒いナップザック」ではなくて、「意外と重たいナップザック」とか「かなりくたびれたナップザック」だと、ちょっと意味が違ってくる。ただの「濃い水色のクーラーボックス」ではなくて、「驚くほど大きなクーラーボックス」と書いてあれば、そのクーラーボックスの意味が変わってくる。

で、ただの「黒いナップザック」と、「意外と重たいナップザック」とどう違うかというと、「意外と重たい」というのは、主人公の「僕」の考え方が入っていて、それは、彼自身が「意外と重たい」と思ったわけなのである。もちろん「黒い」と書くのが悪いわけではない。「鮮やかな緑の森の中」で、「黒いナップザック」が、なにか視覚的な対比として見えて、それが描写として、読者にもぜひ印象に残してほしいなら、つまり、何かそこに計算があるなら、「黒い」と書くべきだが、そうでなければ、たぶん「黒い」とか、「白い」とかはどうでもいい。というか、この場合、ナップザックとクーラーボックスが「リゾート気分」を盛り上げるための描写として書くなら、それでいいんだけど、単なる動作だけなら、ちょっと「荷物をおろした」と書けば済む。

大きいとか小さいとかいうのも、それは絶対的な大きさの表現なのではなくて、小説の中では「視点人物」が「そう見えた」から、あるいは、それが視点人物に必要なことだから書くわけである。だから、視点人物がいれば、その目や考えたことを通して、世界を伝えることができる。うまく書きさえすれば、読者は、なぜか不思議と視点人物には、うむを言わず、ついてきてくれる(まあ、同調できなければ読めないが)。
だから、「無気味なほど静まり返った湖」とか、「電話のベルが、突然、鳴った」り、「僕らはけっこう酒を飲んでいた」りと書くわけである。そのあと、主人公は、「彼らはしっかりした足どりで去っていった」と思う。その「しっかり」は「それなのに」という意味があって、だから、やっぱり客観的な描写ではなくて、この視点人物が、それをそう感じたという描写なのである。だから、もし「しっかりと」ではなく、「あっさりと去っていった」のなら、その場にいた主人公の感じ方が違う。「あっさり」ってことは、その主人公は何だか違うことを考えていたってことである。だから、そういう描写になるのだ。だから、「しっかりと」と「あっさりと」では、全然違う。これは三人称でも、視点人物がいれば、同じことである。

「無気味なほど」も、「突然」も、「けっこう」も、すべて視点人物の感情とか、モノの見方が含まれている。あるものを描写するというのは、そこに視点人物がいるからである。視点人物がいれば、その視線を通して、その感情や感じ方、考え方もくっつけて書けるわけである。だから、小説の読者は、まったく見えないものを見たり、感じたりして、ホント、まったく一度も見たこともない世界を主人公と同じように考えて、一緒に行動してくれる。視点人物は、読者を「別世界」に導いてくれ、そうやって作者は、読者をコントロールして、別の世界へと連れていける。
だから、小説の視点は、けっして不自由なものではなくて、かなり便利なものではないかと、私は思っている。


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