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06/30/2005

なじかは知らねど、広告は

6月29日(水)
終日、外出。事務所には寄れず。

雑用で終日つぶれて、仕事はかどらず。雑用と行っても、午前中は銀行に行き、午後からプリンターのインクと電子手帳のケースを買っただけ。あまり仕事がはかどらないので、頭がクラクラする。

仕事の件で、デザイナーさんからメール。ちょいと写真の無断使用の件でややこしいことになっているらしい。といっても、こちらのミスではなく、クライアントの担当者のミスである。写真使用の件でモメているらしいのだが、どのみちクライアントにしか使用権がない写真なので、たぶん使用自体は問題がないはずだが、撮影したカメラマンに一言断ってなかったらしいのである。広告の場合は、通常、広告データの使用はほとんどの場合、買い取りに近い契約になるのが普通である。とは言っても、確かに広告は、正式な契約がないことが多いし、事情がわからないので何とも言えない。どっちみち流用する時は、きちんと伝えておけば済んだと思うが、どういうわけか、高額の使用請求がきているそうだ。カメラマンの体質にもよるのかなあ。出版と広告が違うのは、出版の場合は、著作権がそのまま収入につながるから、著作権には慎重だが、広告の場合は、いちいち著作権を請求されるとそれだけで「広告業界」が成り立たない。まあ、広告コピーには著作権がない。クライアントが使い放題。買い取りである。

ま、デザイナーさんもコピーライターの私にとっても、この仕事は、すでに制作が終わっているもので、どっちみち傍観するしかない。しかし、誰でもやりかねないミスなので、ちょっと怖い気はする。著作権は、広告でも、小説を書く場合でも、やっぱり微妙な問題が起きることもある。広告コピーも著作権という考えは似合わないが、勝手に使われると困る時もあるのだ。一番、ムカムカするのは、競合プレゼンに落ちたキャンペーン案を翌年になって勝手に使われることで、これは腹がたつ。競合プレゼンで選ばれなかった広告案は、全くお金になっていないわけだから、これはパクリである。まあ、広告業界も人と人のつながりが大事で、悪質なケースは意外と少ない。でも、たまに「どうみてもパクりやろ、これは」もある。「うーん、パクりとは言い切れないが、これは明らかにあのアイデアの変型やなあ。でも、微妙やなあ」と思うものなら、けっこうある。

この微妙なヤツが一番ややこしい。もちろん、そのままパクるわけじゃないので、たまたま似てしまうこともあるのだが、あきらかにパクっているが、微妙に変型していたりすると、もう何とも言えない。それでも、コピーライターの私なんかは、「ま、どうせ他ではもう使われへんアイデアやし、気に入ってもらったと思えばええわ」と思う。だから「流用」くらいでは、間違いなく怒らないし、請求もしないだろう。そこが、出版関係の仕事と広告が、根本的に違うところだ。私も、雑誌などの原稿や取材の仕事なども、けっこうやるのだが、こっちで似たようなこと(流用)が起きればこれは別。たぶん怒るし、請求書を出すかもしれない。広告は、そのものを売っているわけではないが、出版の仕事は、雑誌でも、それ自体に値段をつけて売っているのである。

広告物の文章と出版物の文章が大きく違うのは、わざわざ説明するまでもなく、みんなよくわかっている。まず、広告の文章は、作者はほとんど匿名である。クライアント名は出るが、書いた人の名前が出るものではない。広告は、ムリヤリ(あるいは気がつかない間に)タダで読ませる(あるいは読んでもらう)ものである。それから、だいたい短いほどよい。それ以上に大きく違うのは、広告には強い「時代性」というか、流行があって、その瞬間をとらえることが多い。だから、小説にくらべると、古くなるのは、とてもとても早い。それゆえの強いインパクトがあって、実際、ほんの小さな広告でも、実際には何万部も印刷されるので、けっこう影響力は強い。

広告コピーのオモシロさは、その影響力が意外と強いというところにある。小説だって、それを読んだことによって、すごく人生における重要な位置を占めることもあるけれども、それでも広告コピーの比ではない。広告コピーのフレーズが、人生における指標になっている人もけっこういる。とくに子供の頃や若い頃にテレビで繰り返し見た広告コピーが、いろいろな人生哲学のようなものを作るのに大きく影響している人は少なくない。しかも、それを自分では気がついてないことが多いのである。

一番効き目がある広告(つまり商品が売れる広告)というのは、気がつかないうちに耳に(あるいは目に)入り込む。そして、「そうそう、自分もそう思っていたんだ」と共感させる。そして、無意識のうちにそれをすっかり自分の考えとして信じこませる作用がある(まあ、悪く言うと、洗脳するのであるが)

ところで、小説は、ふつう一人称か三人称だが、広告の文章は、原則的に「二人称」である。一人称や三人称を使うこともあるが、基本的に二人称。いろんなコピーを見てみればわかる。前にも説明したが、今また思いついたので、ちょっと冷蔵庫をのぞいてみよう。

まず、作り手側の一人称文体というのがある。(「品質にこだわりました(ミソ)」「吟味した材料で一つ一つ手作りしました(漬け物)」)、それから、命令文(「開封後は必ずキャップをきちんと閉めて下さい(おろしわさび)」「冷蔵庫に保存し、お早めにお召し上がりください(マスタード)」)なんてものもある。
だが、どれも実際には、すぐに、その主語を「あなた」に取り替えることはかなり簡単である。基本的には、「お楽しみいただけます」のも、みんな「あなた」なのだ。「味にこだわるおいしいもずく」も、実際に、味にこだわっているのは、そのメーカーではなく、あなた自身である。

ところで、今日の私たちは、食事をするにも、旅行に行くにも、パソコン買うにも、広告がないと何もすることができない。これだけ商品がたくさんあると、ビール一本買うにせよ、パッケージも同じ、情報もまったくない状態では選びようがない。広告は、告知し、説明し、啓蒙し、人々を「教育」する。でもおそらく昔は、今みたいな広告はそれほど多くはなかったのである。そんな時、どんなふうにモノを買ったり、選んだり、自分の欲しいものが何か、知ることができたのだろう。

昨日、ふと思い出した。前の日に、たまたま気になって、歌の本をパラパラとめくったせいで、つい日頃はあまり歌わない「ローレライ」とか「知床旅情」とかを一日中歌ってしまっていたのである。それで、つい「この夏、どっかに行きたいなあ」なんて思ったりしていたのだ。
そういや、先日も『義経』を見ていた娘が「なあなあ、鎌倉って遠いん?」と聞き、『大久保町の決闘』(田中哲弥・作)を読んでいた息子が「なあなあ、大久保町って、ほんまにあるん?」と聞いていた。うん、実在するらしいよ。書いた本人が住んでるって、言ってたよ。うん、ほんと。いや、あるらしいけどね。

ちなみに、私は、真夏は、たぶん今年も10日ほど東京である。
「シネマ見ましょか お茶のみましょか いっそ小田急で逃げましょか 変わる新宿 あの武蔵野の月もデパートの屋根に出る」
ああ、たぶんそこは私が行ってみたい「東京」とは、ちょっとばかし違うのだけど。

けど、なるほど人間の心って、いつのまにか「憧れ」が入り込みやすくできているものだなあ。

06/29/2005

ああ、子育てに幸あれ(子育ての呪文)

6月28日(火)
午後から事務所。先日、話をした映像関係の人が来館していたようだが、入れ違いで、お会いできなかった。入居の説明を受けていたようだ。実際、一緒に仕事できたら、面白くなっていいんだけどな〜。Kさんは、第7期の作品コピーを数編分。

専攻科の人から手紙。男性の人なのだが、第2子誕生のため「育児中」なので、しばらく講義には参加されていない。仕事と育児で大変な毎日らしいのだが、作品も書いているようで、9月には再び復帰できそう。専攻科は、作品指導が中心なので、何年でも在籍できるので、自分のペースで書いていって欲しいなあ。実際、この人の作品は数は少ないんだけど、講師の先生にもかなり絶賛されているので、期待している。

ところで、育児も大変だが、第2子誕生もけっこう大変である。一人目よりは育児には慣れているが、二人になると手間が違う。私の場合、さらに下の子が双子だったので、めちゃくちゃ忙しくて、「ああ、この苦労に比べれば、たった一人の育児なんかは屁でもないな」と思ったものである。もちろん上の子が生まれた時にも、それなりに「育児って大変だあ」と思っていたわけなのだが、双子が生まれた途端、そう思ったのである。今でも、病気とか、それぞれ事情もあるだろうけど、「たった一人の育児くらいなら、気楽なもんじゃないかな」と思ってしまうな。ははは。

双子が生まれると、一人から急に三人になるので、手間も神経も三倍である。4人の子供をもつ友人に言わせると「三人と四人も全然違うわよ」と言うことらしい。さらに、6人兄妹だった友人に聞くと「5人から6人になった時も、えらい違うかった」らしいので、少なくとも6人までは、やっぱり育児は一人増えるごとにどんどんエライことになるらしい。(6人以上は実録データがない)。

よくドラマなんかで、「うちにも子供がいるので、一人くらい増えても同じよ」と他人の子供を引き取る光景を見た覚えがあるのだが、あれはどういうことなのだろうなあ。まあ、思いやりの表現なので、いちいち本気にしてはいけないのかもしれませんが、ただの決まり文句というヤツなのか。でも、実際、8人とか9人だと、一人くらい増えても、もう一緒なのかもしれないけど(誰か経験者いませんか)。

ところで、その人の手紙には、夜間の授乳の話などが書かれていて、そこで、ちょっと思い出したのだが、うちは共働きというヤツなので、夫も昼間は子育てには協力的だったが、あいにく彼は一度寝たら絶対に起きられない体質で、夜の授乳は協力したことがない。まあ、双子なので、ダブルで泣き出すとそれはそれはうるさいのだが、枕元で泣き叫んでいても、彼はゼッタイに起きない。多少は寝苦しいらしいのだが、ぐうぐう寝ている。まあ、ほっといたら、泣き叫ぶ双子のすぐ横で、ぐうぐうと朝まで寝るだろう。ほんま、太い神経である。私もなにせめちゃくちゃ眠いので、「ああ、泣いているなあ。でも目が覚めんわあ」と思いながら、1時間くらい泣かしていることもしばしばで、ご近所もさぞうるさかったことであろう。よく近所の人から「昨夜もすごかったわね」と言われてました(たぶんイヤミだろうけど)。

しかし、前にも言ったが、私は、双子を産んだ頃も、連載の広告の仕事があり、確か産んだ直後の2週間後にも締切があったのだ。一体どうやって書いたのだろうなあ。あまりよく覚えてないが、さすがにフラフラで、あの原稿を書いた時は「これで、もうどんな締切が来ても、何も怖いもんはないな」と思ったものである。

ところで、子供たちが小さいと「寝かしつけ」という作業が発生する。でも、実際には「ほったらかしにしとけば、泣き疲れて寝る」という秘策もある(秘策ってこともないが)。うちの場合、双子はほとんどこれだったりする。実は、双子を産んで、三ヵ月後に早くも腰を痛めてしまい(赤ん坊は風呂に入れたり、ミルクを飲ませたり、けっこう腰に負担がかかるのである)とにかく泣こうがわめこうが、誰になんと言われようが、抱くのは必要最小限にすることにしたのである。母乳は「一人前」しか出なかったので、授乳でも抱くのはどっちか一人である。(一人目は冷凍母乳でもしてがんばったが、双子は面倒で、三ヵ月でミルクに切り替えた)もう一人は、哺乳瓶を口につけて、タオルでささえて、ほったらかしである。

よく育児本では「情緒面を育てるためには、ちゃんと抱いて」なんてことが書いてあるのだが、双子の育児は忙しすぎて、情緒面がどうなろうが、そんな細かいことは知ったことではないのである。早い話が、私はとにかく「生かしておく」ことに集中することにしたのだ。だから、ミルクでもオムツでもなく、ただ泣いてるだけなら(カンの強い赤ん坊には、泣くだけということがけっこうある)そんなものは2時間でも3時間でもほったらかしである。うるさいのはうるさいが、ドアを閉めて別の部屋にいれば大丈夫(おいおい)。泣き声が聞こえているというのは、「まだ生きている証拠」なので、むしろ泣いている方がほったらかしである。

なんだかんだ言っても、やっぱり赤ん坊も生き物であるから、「とりあえず生かしておく」ことが大事なのだ。その方が、育児ノイローゼとかにならなくて済む。情緒面は、まあ、もう少し大きくなって、余力があれば考える。そんなもんでゼッタイなんとかなる。今のとこ何とかなっている。いや、先は知らんけど。うんうん(言い訳?)

というわけで、2歳くらいまでは平気で(というか、諸事情でやむなく)「とにかく生かしておく」というだけの「ほったらかし育児」をしていたので、あまり寝かしつけに苦労したことはないのだが、子供が大きくなると、やっぱり寝かしつけも必要になることになる。ま、うちは朝が早いので、小学生の今でも、たいていは夕食時にはすでに寝かかっていることが多いので、毎晩ということはないが、保育所などでたんまり昼寝をさせられてしまうと、なかなか寝なかったりすることがある。そういう時には、寝かしつけの「秘術」がある。

「秘術」と言っても、それほどたいした技ではないのだが、まず遮光カーテンを用意する。そして、部屋の電灯を全部消す。通常、私は小さな豆電球を灯したまま寝るのだが、寝かしつける場合は、真っ暗にしなくてはいけない。というのも、一人ならともかく、子供が三人もいると、毎日が「修学旅行の夜」みたいなものなのである。寝るどころか、布団の上でころげまわり、はしゃぎまわっている。よく寝る前に本を読んでやるという人もいるし、たまには私もやってやることがあるけど、三人分読むのはヘトヘトになるし、絵本の絵を見たくて、三人が場所の奪いあいを始めるし、とにかく本を読んで寝かせるのはムリである。せいぜいパジャマを着て、布団に入らせるための口実にしかならない。ところが、真っ暗にしてしまえば、暴れようがないわけである。それに、小さな子はやはり暗闇が怖いから、添い寝をしている母親にぴったりひっついて寝ころぶのである。

さて、これからがこの秘術の本番だが、そこで「呪文」を唱えるのである。呪文といっても、歌である。つまり真っ暗だから、やることがない。童謡を歌ってやる。まあ、子守唄なら、呪文の効果も高いのだろうが、子供が好きな童謡でいい。小さい子供は、なぜか「ぞうさん」「おうまのおやこ」「犬のおまわりさん」が大好きである。たぶん、歌詞が短いのと、知っている動物が出てくるからであろう。これは、うちでは「三大どうぶつソング」と呼ばれており、まず最初の呪文である。その次は、たいてい歌詞の短い順とか、子供のリクエストにあわせて、思いついた順に歌う。

私は、小学校の担任がやたら歌わせる先生だったおかげで、童謡や唱歌なら、百曲以上は歌える。1時間や2時間なら次々歌い続けることができる。昨年、洪水でバスの上に取り残された人々が、歌を歌ってがんばった、という話があったが、音楽は、かなり強力な魔法であり、歌は強い呪文なのである。たとえ音痴でも、呪文をたくさん知っていると生きていく力にはなるはずである。この場合、人に聞かせるための歌ではなく、自分が楽しく歌えることが大事なので、うまく歌えるかどうかはもちろん問題ではないのである。

というわけで、2〜3歳の子供にオススメなのは、まずは短い歌。あとは、どうぶつソング。「おさるのかごや」「七つの子」「金魚のひるね」「やぎさん郵便」「子鹿のバンビ」「おすもうくまちゃん」「雨ふりクマの子」「森のくまさん」「うさぎのダンス」「かわいいかくれんぼ」「メリーさんのひつじ」「かもめの水兵さん」「山の音楽家」「すずめの学校」「めだかの学校」「アイアイ」「かっこう」「おつかいアリさん」「かなりや」「あひるの行列」「ブンブンブン」…

また、英語で歌える童謡は、「ロンドン橋」と「マイボニー」しかないのだが、「でんでらりゅう」「アチャパチャノチャ」とか「サラスポンダ」とか、子供は、けっこう歌詞の意味がわからないものもけっこう好きである。遊び歌でもいい。「げんこつ山のたぬきさん」「大きな栗の木の下で」「ずいずいずっころばし」「かごめかごめ」「あんたがたどこさ」「とおりゃんせ」「アルプス一万尺」「てんてんてまり」…あまり他の地域では歌わないらしいが「げたかくし」とか。

あとは、保育所や幼稚園に通っていると「季節の童謡」を習ったりするので、そういうものもけっこうウケる。春から「チューリップ」「ちょうちょ」「春の小川」「どじょっこふなっこ」…今の季節なら「でんでんむし」「雨ふりお月さん」「あめ」「あめふり」「てるてる坊主」「ほたる」…、秋なら「どんぐりころころ」「小さい秋見つけた」「真っ赤な秋」「里の秋」「しょじょ寺」「赤とんぼ」「とんぼのめがね」「夕焼けこやけ」…、冬なら「雪やこんこ」「たきび」「ペチカ」「トロイカ」…

さらに、食べものシリーズなんてのもある。まずは「おなかがへるうた」「赤いりんご」「りんごのひとりごと」「カチューシャ」「みかんの花咲く丘」「サッチャン」(二番の歌詞でバナナが出てくる)…むかし話シリーズなら、「ももたろう」「うらしまたろう」「きんたろう」「はなさかじいさん」「もしもしかめよ」…のりものシリーズなら、「汽車ぽっぽ」「走れ超特急」…他にもいっぱい「おもちゃのチャチャチャ」「おもちゃのマーチ」さらに、童謡だけでなく、「瀬戸の花嫁」「青い山脈」など、いわゆる子供が歌えそうな唱歌も歌えるから、1時間くらいはもつ。でも、こうして簡単な歌から、だんだん複雑な歌、ちょっと静かな歌(「月の砂漠」とか「荒城の月」とか)に変えていくと、たいてい30分もすれば寝てしまう。まあ、夫は、せいぜい十数曲くらいしか覚えてないらしいので、知っている歌を繰り返し歌っているようである。

最近は、子供が音痴になるからと、歌ってやらない親がいるそうだが、専門家によれば、音痴は練習しだいで、後でいくらでも直るそうだ。けど、思うのだが、そりゃプロの歌手になるなら別だが、音痴でも実際、日常生活ではあまり困らない。呪文としてのパワーがあるので、聞く歌と歌う歌は違う。どんな歌でも、自分のために歌える方が人生ではトクである。

ところで、うろ覚えの歌詞がけっこうあって、気になって調べたのだが、童謡の二番や三番の歌詞は本当におもしろい。以前、もず唱平先生の講義の時に「童謡の歌詞は、二番以降に作詞家の思いが出る」という話をお聞きしたことがあった。たしかに童謡の中には、もともと詩として発表されたものが多くあるので、一番よりは二番三番の方が重要だったりする。確かに「しゃぼんだま」は、「とんだ」より「きえた」のが重要なのかもしれない。「背くらべ」も、「一はやっぱり富士の山」である。

私は、「あめあめふれふれ」の少年が、「ぼくならいいんだ かあさんのおおきなジャノメにはいってく」という「傘を貸し出す少年」だということは知っていたんだけど、「みかんの花咲く丘」なんかも、「みかんの花が咲いている」という一番と二番の歌詞しか知らなかったので、「いつか来た丘 母さんと一緒にながめたあの島よ 今日も一人で見ていると やさしい母さん思われる」という三番は知らなかった。これも、どうやら詩が作られた後から曲を作ったものである。うーん、一人で海を見てたんですね、この人は。ってことは、すでに亡くなってるんでしょうか、この母さんは。

また、「里の秋」もちょっと発見だった。「静かな静かな里の秋」で「お背戸に木の実の落ちる夜」に「母さんとただ二人」きりなのだが、私はずっと1番の歌詞しか知らず、「これは母子家庭かな」と思っていたのだが、調べてみると、この栗の実を煮ていた子供の父親は、どうやらヤシの島で従軍していたらしい。これは知らなかったので、ちょっとした驚きだった。
「さよならさよならヤシの島 おふねにゆられて帰られる ああ父さんよ 御無事でと 今夜も母さんと祈ります」

まあ、童謡の歌詞を知ったからといって、どうってこともないが、こんなことも子供がいたからこそ、知ったことである。
そんなこんなで、子育ても面白いことがいっぱいある。子育て中の皆さんに幸あれ。

06/28/2005

手塚治虫も、かつては子供だった

6月27日(月)
小説講座の事務所は、日、月曜はお休みです。

午前中から外出。午後から一度、自宅に戻って資料をとって、某所の非常勤講師。

ところで、非常勤講師をしている専門学校の方は、マンガ専攻コースの生徒たちなのだが、「手塚治虫」については、全然というか、ほとんどの人がまったく知らないものらしい。25人いるクラスのうち、実際にマンガを読んだことがある生徒がたった一人でもいればいい方である。「手塚治虫」と言えば、マンガの神様と呼ばれる人だ。彼らは、マンガ専攻なのだから、手塚治虫のことくらいは、知っていて当然だと思っていたから、これは正直ちょっとビックリだった。

以前も言ったと思うけど、それに気がついたのは去年だった。たまたま「マンガの歴史」みたいな部分を説明するのが面倒で、ちょっと「手塚治虫」のビデオ(「鉄腕アトム」の世界)を使って説明しようとしたら、みんな「へえ、手塚治虫ってこんな人だったんですか」なんてことを言う。講義後にレポートを書いてもらったのだが、実際、「手塚治」とか「手塚オサム」とか書いてあって、最初は、たまたま書き間違えたんだろうなと思っていたが、クラスの3割とか4割とか、忘れたけど、かなりの人数が間違えているのである。これは、もうたまたまではない。

ま、世代の違いと言えばそれまでだけど、普通の若い人が間違えるのはわかるが、彼らは専門学校でわざわざマンガ専攻に通う生徒たちである。いや、マンガにはまったく関心がないという人だって、ある程度以上の年齢の人ならたぶん「治虫」というのは、間違えようがないのではないかと思う。実際、当時小学生5年だった私の息子も「えーっ、手塚治虫って、名前に『虫』がついているのは、一度覚えたらぜったい忘れようがないと思うけどなあ」という。
(ただし「でも、ボクは『塚』って漢字の方が、ちょっと不安やけど」などというところが小学生である)。

彼が一番好きなのは『どろろ』だそうで、なるほど彼は、今のマンガでは『犬夜叉』とか『ガッシュ』などが好きなので、なんとなくちょっと雰囲気が似ている気がする。が、うちの息子が手塚治虫を知っているのは、それが小学校の図書室にあるマンガだからである。

そう言えば、私の頃にも、すでに「手塚マンガ」だけは小学校の図書館に置いてあった。それ以外のマンガと言えば、『はだしのゲン』だけである。たぶん、日本中の小学校で、まっ先に図書室に入るのがこのマンガなのかもしれない。(高校だと『あさきゆめみし』なんかもあるらしい)

おそらく、小学校の図書室まで進出できるのは、もちろんその偉大な実績もあるが、それよりも手塚さんの「学歴」が多少なりと左右している気がする。私が子供の頃は、「マンガなんて読むなんてトンデモない」という学識者がまだまだけっこういっぱいいた。学校の先生も、今でもけっこうそんな感じである。だから、手塚さんの「阪大医学部卒」の学歴は、そんな学識者にもインパクトがあった。それが『はだしのゲン』とともに、全国の図書室へマンガが進出するきっかけになった気がする。でも、そのおかげで私もかなり古い作品まで読むことができた。これは、図書館のおかげである。あいかわらず、今の小学校の図書室にはマンガは置いていないらしいので、(どうも学校図書室そのものが、どこもけっこう貧弱なので、マンガまで買う余裕はないみたいだが)これは偉大な功績である。

が、今の子どもたちが手塚マンガを見て、どんな感想をもつのか、よくわからない。けど、かなり古い時代のものなので、つまらない可能性もあるから、わざわざ読まなくてもいいんじゃないかと思っている。息子も、図書の時間で、それしかマンガがないからたまたま読んでいるだけだろうと思う。まあ、家にあるのは、ブラックジャックとか、アドルフとか、ブッダとか、ちょっと大人向きなものが多いので、家では読まない。彼は、家では『ワンピース』『犬夜叉』『ガッシュ』である。

だいたい今は、本当にマンガがたくさんある。本屋に行けば、本当に何十冊もマンガ雑誌が並んでいる。私が小さい頃は、そんなにたくさん雑誌はなかった。30年ほど前の話だけど、少女マンガ雑誌も少年マンガ雑誌もそれほどなかった。あんまりなかったので、それはそれで、みんな熱心に読んでいた気はする。あんまり繰り返し読むので、そのうち、すっかり暗記してしまうのである。

私の弟が幼稚園の頃、『Dr.スランプ』(アラレちゃん)がすごく流行っていた。うちの両親は、もちろんマンガなんか子供には買わないけど、子供がこづかいで買うのはとがめなかったので、弟は少ないおこづかいで「1巻」だけを買い、繰り返し繰り返し、毎日何度も読んでいた。ある日、アイスクリームをもらって、彼と友だちが一緒に、二人で並んでアイスクリームをなめながら、なにやら楽しそうに話をしている。聞こえて来たのは「うんちゃ〜」などというセリフで、よく聞くと二人ともマンガのセリフをお互い言い合っている。弟だけでなく、どうもその友だちも丸暗記しているのである。

で、「あんたたち、もしかして全部おぼえてる?」と聞いたら「うん、全部、言えるよ」と笑いながらいうので、私は興味をもって、試しに「1巻」を取りに行き、「さあ、言ってみて」と冒頭から全部言わせてみたら、本当に最後のページまでセリフなどを全部、一語も間違えることなく、二人とも早口で笑いながら言った。ほんと、子供の暗記力は恐ろしい。

以前、NHKのディレクターのOさんと話をしていた時、同じような子供の頃の体験を聞いたことがある。このディレクターさんは、私と同じ歳なのだが、『中学生日記』などのドラマ制作をされている優秀なディレクターである。この方は、子供の頃、「少年ドラマシリーズ」などが大好きで、ウルトラマンなどのテレビも、本当に集中して、食い入るように見ていたそうだ。だから、一度きりしか見たことない番組でも、鮮やかにきれいに覚えていると言う。

当時は、今のようにビデオなんかない時代で、再放送もあるかないかわからない。テレビ番組は、一回きりの貴重な機会だったのである。もちろん、番組も今みたいにたくさんはなかったから、もしウルトラマンを見逃すなんてことがあったら、それこそ「人生の一大事」だった。それを逃すと、それこそもう一生、二度と見れないかもしれないのである。だから、相当に集中して見ていたらしく、そのせいか一度きりしか見ていないはずの番組でも、かなり暗記している。今、40代なんかはとくにそういう世代なんじゃないかな。

ただウルトラマンなどは再放送がかなりあったから、私も、ストーリーやシーンを全部覚えているのはそのせいかなと思っていたのだが、先日、『妖怪人間ベム』のビデオを見ていたら、滅多にアニメなんか見ない夫がやってきて、たしか第2話とか第3話だが、「うーん、この話は知っているぞ。このシーンも見た覚えがある。全部覚えているぞ」と言っていた。このアニメは、ほとんど地上波での再放送がないので、たぶん彼も子供の頃に一度きり見たのを今でも覚えているに違いない。一応、ホラーアニメなので、よほど印象に残っているのであろう。(子どもは怖い話がなぜかやたらに好きなのだ)。

今は、ソ連アニメの『雪の女王』とか、東映の『長靴をはいた猫』など、古いアニメ作品がビデオやDVDになっている。それらの作品を見て、『ルパン三世カリオストロの城』などを見ると、なんとなく「なるほどなあ」と思うことがある。とくに『長靴をはいた猫』は今見ると、クライマックスの「落ちていくシーン」があまりにも『カリオストロの城』のシーンとかぶってしまう。後半のアクションシーンなんか、類似点をあげるとキリがない。もしかすると「このストーリーをもっとこういうふうに、やり直したかったのかなあ」と思うくらいだけど、たぶんこのあたりのアニメ作品は、おそらく宮崎駿監督にとっても、やはり相当に若い頃に見たはずの作品である(注:「猫」の方は、実際、本人も制作に参加された作品である、念のため)『雪の女王』の少女も、どこかヒロインを連想させる。どうやったって、過去の作品というのは、これから作る作品に多かれ少なかれ影響する。それをどうするかが問題なのであって、影響されている自体はいい。むしろ真剣に過去の作品を乗り越えて、いろんなものを自分のものにしていこうとすれば、そうなるものなのだろうと思う。

NHKディレクターのOさんが制作された『料理少年Kタロー』も、当時の少年ドラマシリーズ風のSFドラマみたいな不思議な感じで、たぶん意識してやっているのだろうが、見ると何だかドキンとする。私は同世代のせいか、あまりにしっくり、わかりすぎるほど意図がわかってしまって、かなりビックリした。感受性の強い子供の頃に真剣に見ていた作品は、強い影響を誰でも持ってしまうものだが、あの頃の少年たちがあのウルトラマンやSFドラマを見て感じていた不思議な感覚、一世代前の人なら「少年探偵団」に対する不思議な少年の感覚だったかもしれないが、これらは子供特有の皮膚感覚である。それを表現していたから、ちょっと驚いた。再現できる技術的な問題はともかく、普通ならそんな少年の感覚など、20年、30年たてば、忘れてしまうものだから。江戸川乱歩といい、少年のもつ不思議な感覚を、大人になっても充分に維持できている大人がいるというのは、なんだか不思議なものである。

とくに『雪の女王』などは、かなり古い作品である。この頃は、もちろんテレビなどで、アニメがふんだんに見れた時代ではないし、それこそレンタルビデオ屋なんかないのである。初期のディズニー作品を真剣に見ていたという手塚治虫も、おそらくそういう時代に育ったはずである。古い作品を見るたびに、当時の子供たちは、この作品をどんなふうに見ていたんだろうと時々思う。それこそ食い入るように見たことだろう。おそらく今のアニメよりはずっとキラキラと輝いて、めくるめく世界に見えたのではないか。たぶん「ああ、すごい。こんな世界があるのか」などと感動していたに違いない。

教室で、たまに古いアニメを上映すると、何人かの生徒が必ず「退屈でたまらず、寝てしまいました」というレポートを出す。それは無理はない。当然だと思う。今の若い人の感覚からすると、古いアニメは画面のカット数も少ないし、アングルも単調、お話のひねりもあまりない。ただ、時々思うのだが、アニメやマンガがこんなにたくさんあって、ふんだんに見れる時代でも、だから誰もが幸福な子供時代を過ごしているのかと言えば、それは一概には言えない気がする。

私は、古いアニメを見るたびに、かつてアニメなんて滅多に見れない、マンガを読むのもけっこう必死だった昔の子どもたちが、なぜだか、ふと、ちょっぴりうらやましい気になるのだった。

06/27/2005

小説とは関係のない休日(今年初のプール編)

6月26日(日)
小説講座の事務所は、日、月曜お休みです。

朝、ちょっと寝坊して、8時半。土曜日の夜は、講義があるので、毎週帰宅するのが12時頃。それから、テレビを見たりしているので、いつも寝るのが遅い。昨夜は、NHKの「知るを楽しむ」(藤沢周平のヤツ)の再放送をしていたので、そのまま3時頃まで起きていた。毎朝5時半に目覚ましが鳴るので、2時や3時まで起きていることはない。

めずらしく子どもたちも9時まで寝たままである。大阪はすっかり熱帯夜だから、寝苦しかったのかなあ。しかし、9時頃に起きては、せっかくの日曜も、どこかへ出かけるには遅すぎる。朝食を食べて支度をしたら10時である。外を見ると、よく晴れていて、いい天気。すっかり暑い。子どもらが「プールに行きたい!」と言い出す。
「プールぅ?」
え〜、まだ6月なのに。

プールはおっくうだ。海やプールは、体が濡れる。どうも私は体がぬれるのが面倒らしく、銭湯も行くのがおっくうである。実は、自宅のお風呂だっておっくうなのである。私は、小さい頃から「早く風呂に入りなさい」と言われても、なかなか風呂に入らない子である。しかし、これがいったん湯舟につかれば「ああ、なんて気持ちがいいんだろう。なんで、あんなにイヤがっていたのかなあ」と思うのであって、なんだか自分でも不思議である。布団もそうで、一度、布団に入るとこんな気持ちいい場所はなく、出たくないんだけど、夜はなかなかすぐに寝たくはない。朝はあんなに愛しいのになあ。まあ、わがままというか、勝手なものである。あ、男に抱かれるのもこんな感じなのかな。ま、少なくとも、反対になってしまうのよりは幸福な性分だろうけど。
私は、だから風呂好きの気持ちも、風呂嫌いの気持ちもわかる。といっても、たいていカラスの行水なんだけど。

というわけで、これからの季節「海だ、プールだ」は、大変である。行けば行ったで、水につかっているのはけっこう好きなのだが、行くまでがおっくうである。でも、子持ちはそうも言ってられないしな。けど、だいたい子どもたちは、先週から学校でもプール開きがあったのだ。彼らは、もともとスイミングにも週3日通っている。学校で、週3回プールがあって、週3日スイミング。あわせて週6回も泳いでいるのに、なんでわざわざ日曜もプールに行きたがるんでえ。

すると、息子が真剣な顔で言う。「ボクたち、アレは遊びじゃないねん」
つまり、どれも泳ぎの練習なので、たとえ週6日水につかっていても、自由に遊べないらしい。だから、遊びに行きたいんだそうだ。まあ、子どももそれはそれで大変らしい。

うちは、家から歩いて10分くらいのところに、屋内プール『鶴見緑地プール』がある。ここには流れるプールとかウォータースライダーなんかがある。だが、けっこう狭いし、大人が泳げるスペースはほとんどなく、水につかるだけという感じになるし、ここはロッカーで制限がかかるので、夏場の休日は10時から3時頃までずっと満員で、入場制限がかかっている。この暑いのに並んで待つのもイヤだなあ。まあ、夜遅くまで開いているから、家の近くだと思えば、昼過ぎに行けばいいのだ。

で、結局、昼過ぎの2時に行ったら、満員で「1時間待ち」であった。ここは、真夏は、いつも「2時間待ち」の看板が出ているので、まだまし。でも、6月である。冬はほとんど人がいないプールだし、係員の人も「今年初めて」だと言っていた。「9年目ですけど、6月に満員になったのは初めてですね」と笑っていた。まあ、ホンマ暑いよな。

そんなわけで、やっとプールに入場できたのが3時頃。やれやれと着替えていたら、すっぱだかになった娘(双子の姉)が突然、「あっ、水着がないっ。忘れちゃった」と言う。おいおい、いいかげんにしてくれよ、と私はまた服を着替えて、外出票をもらって、あわてて走って家まで水着を取りに行く。くすんくすん。だから、子持ちはつらい。

結局、3時半。でも、水深1メートルのプールなので、身長120センチの娘たちもすっかり泳げるし、多少は目が離せるようになったので、プールサイドでだらだら寝たり、流れるプールでぐるぐると浮かんで回ったりする。このプールは、ジャグジーバスとサウナ、打たせ水なんかもあるので、高齢者や私みたいな泳ぐ気がない「だらけた大人」たちの利用にも向いている。(平日はこの流れるプールで、ウオーキングをしている高齢者がいっぱいいる)

プールを出たのが6時半。なんだか、ぐるぐると水に浮いただけの一日である。けど、プールとか海とかに行って帰ると、もう何もする気にならんなぁ。夜、手当たり次第に文庫本を枕元に積んで、だらだら読書しながら眠りにつく。

06/26/2005

小説講座が終わって、京橋を抜けて帰る

6月25日(土)
午前中から事務所。夕方からは、第7期&専攻科の講義。専攻科は、300枚を越える長編1本と短編2本、あわせて3本の作品指導があり、講師は草上仁先生。私は、専攻科のクラスには行けず、第7期の教室へ。今日は、今年最終の教室実習。あとは9月まで、レクチャー講義が3回、作品指導を8回を残すのみ。

修了作品の提出締切だったのだが、作品の提出数はちょっと少ない。50枚以上の作品のみで、30枚以内なら7月でもいいので、全員が提出しないのはわかっていたが、例年、修了課題は8割の人が50枚なので、それを思うと少ないなあ。7期生は、修了作品なのだが、春に入学した8期生は一回目の作品提出。ところが、それで「新しいのが書けなかったので、十年前に書いた作品なんですが」という作品を持ってきた人がいた。さすがに「十年前」は驚いた。「修正したの?」と聞いたら「いえ、そのまま持って来ました」というから、さらに驚いた。まだ若い人なので、十年前だと十代の頃かもしれないぞ。うーむ。そういえば、入学時の創作アンケートで、これまでの創作実績の欄でに「1本だけ」と書いてあったが、その作品かなあ。彼は、春に入学したばかりなので、そのへんはしょうがないかもしれないけど、十年前に書いた作品を修正なしで提出しようとするのは、ちょっと首をかしげる。ふつうならプロの作家さんに見てもらう機会があれば、たぶん自分で推敲なり修正なりしたくなるはずだと思う。

もし、これが第7期生ならそんな作品を持ってきたら、もう厳重注意である。小説は、まだほとんど書いていない人は、ふつう書き始めて1〜2作目で、もう別人みたいにうまくなるのだ。なぜか本人が気がついてないことも多いけど、やっぱり全然、文章力や構成力が違うのである。そりゃ、書いた本人は、十年前でも一年前でも、自分が書いたものは愛しいだろうし、思い入れたっぷりな作品なら、それを見てもらいたいと思ったのかもしれないけど、人にどうしても読んでもらいたいなら、ちゃんと「読んでもらえる」ように書いておかないと他人は読めたものではない。だから、古い作品の書き直しでもいいけど、せめて提出前に自分できちんと修正なり、推敲なりするべきだと思う。

まあ、どっちみち、作品は全部、講師に渡す前に私がチェックするので、あんまりひどいと書き直ししてもらうことにしている。でも、たいてい誤字脱字があまりに多いとか、文字間隔が開き過ぎていて「印刷」が読みにくい場合とか、あまりにも日本語として文章がわかりにくい時だけなので、実際には滅多にない。でも、あんまりひどいと講師や生徒に作品集にして配る前に、こっちでチェックして書き直してもらうこともまれにある。

とりあえずそれは修正をお願いして、その場で返却。あとの作品は、どうやら問題なさそう。ま、これから、これらを指導してもらう講師を決めるのが一苦労だけど。

講義後は、いつものように、中華屋さんで飲み会。専攻科で講義をされていた草上先生は、さわやかなGパン姿で、以前よりもかなりすっきりスマートになっている。もともと年齢よりも若く見える方なのだが、さらに十歳くらい若返った感じである。横のテーブルで飲んでいた第8期の年配の男性が、古くからのSFファンらしくて、「草上先生って、え、あの草上仁先生!?」とびっくりしていた。草上先生は、デビューも早かったので、27年か28年か、たぶんそれくらいの作家キャリアがあるからだろう。それなのに、横のテーブル席から見たら、ほとんど30歳そこそこくらいに見えちゃうもんなあ。

結局、だいぶ遅くまで飲んでいたので、最後のメンバーは11時半近くになる。私は、自転車で来ていたので、そのまま夜道をのんびりと帰宅。天満橋から片町の方向へ、京橋の京阪モールの裏を抜けて帰る。このあたりに詳しい人ならわかるけど、JRと京阪の駅から裏のダイエーへ行く途中にある人通りの多い道路である。私は、自転車に乗るとこの道を走ることが多い。この道ぞいは、京橋周辺の百メートルほどは、夜は客引きの若い男性がウロウロしているディープな場所なのだが、梅田の東通りとかにくらべると、ほんのちょっとの距離なので、自転車で走り抜けるのにはけっこう面白い。もう少し早い時間なら、京橋駅の高架を抜けるとちょっと有名な「まぐろ料理」専門店がある。といっても、ほとんど露店というか、屋台というか、とにかく調理場には屋根があるのだけど、コンクリートがあるだけのところにテーブルが置いてあるだけで、全部屋外で、イスもない店である。だから全員、立ち食い、立ち飲みである。でもマグロが安く食べられるので、この季節は夕方になるといつも大勢のサラリーマンが、道路の脇で立ったままビールを飲んでいる。かなり人気がある店らしくて、いつも列を作って待っている。この暑いのに、大勢がガヤガヤと道ばたで立ち飲み。まあ、屋外の方がビールがうまいのかもしれないけど。ビアガーデンの原理ですね。ま、私は1、2度しか食ったことがないからわかりませんが。(やっぱマグロだから、そんなに安く飲めねえもん)。

とにかく光景としては、パチンコ屋の景品引換所があったり、風俗っぽい店が並んでいたり、少々ディープなところ。地方から大阪に来た人は、大阪の繁華街はどこでも怖いらしいが(たぶん荒っぽい方言が飛びかっているせいでしょう)、私は、京橋は慣れているのでまったく怖いことはない。なにせ京橋と言えば、「京橋はエエとこだっせ。グランシャトーがおまっせ」である。(注:大阪の人しかわからんでしょうが、京橋の駅前では、いつもこの音楽がでっかい音でかかっているのである)

しかも若い頃はともかく、今では夜の新宿でも割と平気なオバハンなので(こんな地味なオバサンを引き止める人は誰もおらん)私は、ここのJRの高架がちょっと好きなのである。というのは、この道から高架を見上げると、20センチくらい隙間があいていて、JR京橋駅の環状線のプラットホームがちょっとのぞける。自転車で走り去るとほんの一瞬だけど、足が並んでいるのが見える。JR京橋駅は、大阪駅、天王寺駅に次ぐ大きな駅なのだが、いかにもJRらしいような感じのちょっとくたびれたよな駅なのである。そんな駅のプラットホームに、酔っぱらったサラリーマンのような足たちが並んで、電車を待っている風景。それが、一瞬、頭上を通り過ぎる。ぼんやりと照らされた夜の駅が、暗闇に浮かび上がって、一瞬そこに、まるで都市の裏側が見えるような気がする。

自動車や徒歩でもそうだけど、夜の町を自転車で走ると、なぜか街がひっくり返ったような感じがする。私のイメージでは、大阪の街は、大阪港の方から生駒山まで、毎日、東西方向に、夜、ゆっくりとひっくり返るのである。大阪は、西に海があって、東は山。だから、夜の闇は東西に移動して、昼間とは違った夜の町へと裏がえらせていく。

そう言えば、15年くらい前、ファミレスの社員だったことがある。生駒の山のふもとにある石切店で半年くらい働いていた。勤務時間は、9時から5時。ファミレスだから、深夜勤務である。ちょうど普通のサラリーマンとは12時間ずれている(実際には長時間勤務が普通で、6時から7時くらいまで店にいるが)。

石切店は、外環状という大きな道路に面しているので、深夜でもけっこう忙しい。とくに夏なんかは深夜の2時頃に満席になることもある。「あいにく満席でございまして」と客に言うと「えっ、こんな深夜なのに?」と聞かれることも多かった。(いえ、なぜ満席なのかはわかりません。夜もお客さまが多いのです。なぜこんなにお客さまが来られるのか、こちらがお聞きしたいくらいなのですが)。

深夜のファミレスは、いろんな人が来る。深夜は、けっこう長居する客が多いので、色んな話をしているのが毎日聞こえてくる。いつも思うのだが、深夜のファミレスは、まるで町の裏側のような場所である。ファミレスは、夜の町に浮かび上がる劇場だ。

ファミレスの店員は、時々、駐車場に行く。混んでいる店なら2時間おきに行く。深夜は昼間よりもゴミが多い。車の灰皿のゴミを落としていく不届き者もけっこういるのだ。毎日、何度もチリトリとホウキを持って、ゴミ拾いをする。石切店の東側には、すぐ生駒山が見える。さほど高い山ではないので、石切から見ると横に長くて、まるでウナギのようにずっと向こうまで山が寝転んでいる。そして、夜も明るい町のはしっこにいつも黒く横たわっている。そこは、大阪の町のはしっこ。東の境界である。山のむこうは奈良である。

夜、12時近くになると、近鉄電車の終電が、その黒い山の中腹を細く長く光を放ちながら、銀河鉄道のようにゆっくりと横に走っていく。まるで夜空にこれから浮かびあがるみたいに。で、それは、まるで、町の闇のはしっこを糸でひっぱりあげているみたいに見える。チリトリとホウキを持って、その電車を見送る。ちなみに、この前の道路では、時々、深夜、黄色いライトをつけた自動車に先導されて、大きな電車の車両が店の真ん前をゆっくりと走る(工場から車両を運んでくるのだ)

まっくらな夜は、昼の町の裏側だ。たんまり「小説」の話をして帰るせいか、私は京橋を通り抜けて生駒の方へ自転車を走らせながら、いつも、ちょっぴりだけ不思議な気分になる。

06/25/2005

やっぱり正解は、ひとつとは限らない

6月24日(金)
午前中、外出。午後から事務所。
Nさんが来て、明日提出の作品の件で、いろいろアドバイス。ちなみに、アドバイスといっても、私自身は、もともと小説の作品指導は一切しない主義、というか、どうせやれないから(うちの小説講座では、作品指導は、全部プロ作家の先生に頼む)、普通に読者として読んで、気がついた誤字とか脱字とかを指摘したり、どうやっても意味がわからないところを質問したり、まあ、その程度である。

夕方、帰宅して夕食後、子供たちの連絡帳などを見る。土曜日は、講義があって、朝から深夜まで外出になるし、日曜日もバタバタする。3人の子供のうち、双子の妹だけは、言われなくても体操服を洗濯物に出し、宿題も済ませるタイプだが、あとの2人は、月曜日の朝になってから「あっ、宿題やろうと思ったけど、ノートの残りが全然ない」とか言って泣き出すようなタイプである。金曜日の夜は、必ず口うるさく言わないと、月曜日の朝に大騒ぎになって面倒なことになる。(まあ、実際、毎週大騒ぎなのだが)

しかし、いつも思うのだが、小学2年生の双子の娘たちは、テストなど持って帰って来ても、あまり面白みがない。低学年の頃だからか、百点が多くて、なんかつまらない。息子の時は、低学年でも百点なんか滅多にないから、ペケ(バツ)を見るのが楽しかった。彼の場合は、ペケの内容が面白いことがあるからである。だから、百点(幸いそんなものは滅多にないが)よりは、ペケがいっぱいある点数、20点とか、40点とかの方が面白みがある。まあ、私の母は、孫の成績の悪いのがものすごく気に入らないらしいので「母親のアンタがノンキすぎるから」と言うのだが、どうせテストの点が悪いからといって、怒鳴ったりしても、あの性格では走って逃げて行くだけだろう。

ところで、『ドラえもん』に出てくるのび太の母は、のび太くんが0点をとるたびにガミガミと怒鳴るのだが、あんなに長い説教をしているヒマがあったら、間違ったところを一緒に考えてやる方が効率がいいはずと言われているのだが、確かにその通りである。

のび太くんが20点とか30点とか、テストの点数が悪いのは、どう考えても「わからないからしょうがない」のであって、怒ったからといって、わかるようになるわけではない。単純に考えて、怒ったからといって、成績がよくなるはずがない。もし、のび太の母が、息子に本当にテストでいい成績をとってほしければ、どこを間違えているのか見てやって、教えてやった方がいい。どうせのび太くんは、まだ小学生なのだから、母親のレベルでもだいたいはわかるはずである。中学や高校になったら、もう勉強を見るのは無理かもしれないけど、小学生ならそんなに難しい問題があるわけがないし、のび太の母も少なくとも、「小学生の落ちこぼれ」よりは、常識程度の学力はありそうだ。だから、いちいち説教なんかしている方が時間がもったいないんじゃないかというのだが、まあ、そうだろうな。

でも、実は、私の母親も、「のび太の母」タイプだった。「勉強をしろ」とガミガミ怒鳴られた覚えはあるが、勉強をあまり見てもらった覚えがない。幸い、私自身は、たまたま小学校の頃は成績はよかったので、あまり怒鳴られた覚えはないが、せっかく百点ばかりをとっていても、たまに98点をとるとけっこうネチネチと言われたものである。こっちはミスをして自分で「しまった」と思っているので、それを母親に注意されるのはうっとおしいだけである。

そんな覚えがあるので、息子のテストが悪くても、私はガミガミと怒る気はあまりない。ま、間違った問題を見て、よほど根本的に理解していないような問題があれば、少し教えてみようかと思うくらいである。実際、息子の場合、間違った問題のほとんどが「うっかりミス」とかなので、「あわてもんやな。アホやなあ」と笑うくらいで、あまりとやかく言ったりはしない。いつも学校でテストを返してもらった時点で、本人は説明してもらっているらしいので、けっこうほったらかしである

しかし、実際、テストのペケでも色々である。たとえば、「ホンマに知らなんだペケ」と「知ってたけど、思い出せんかったペケ」ではちょっと違う。計算問題なら、「うっかりペケ」と「全然わかってないペケ」とはやっぱり違う。ただ、彼の場合、さらに、ちょっとヘンな解答が混じっていて、それが面白い。

たとえば、だいぶ前だけど、確か3年の理科のテストで、「ヘチマは秋になるとどうなるでしょう」という問題があった。この答えは、「秋になると枯れてしまう」である。ところが、息子の解答は、「枯れなかった!」で、これはペケである。ご丁寧に「!」をつけているところがけっこう笑える。というのも、実際、彼が育てていたヘチマは12月上旬まで花を咲かせていたので、この解答になったらしいのである。彼はヘチマが12月まで枯れなかったのがかなり嬉しかったらしい。ちなみに、大阪以外の人はわからないかもしれないが、大阪というのは、けっこう暖かい地域で、(その分、夏は暑い)朝顔なども、ヘタすると12月まで咲いている。うちの朝顔は、毎年、11月下旬までなら確実に毎日咲いている。

というわけで、こういう解答は、学校ではペケであるが、「名誉のペケ」と呼ぶことにしている。学校のテストというのは、期待した解答を書かなければペケになってしまうが、このヘチマは、彼が観察した結果なのであって、テストの正解ではなくても、確かな「事実」である。だから、百点をとるより、こういう答えが書ける方がうちではエライのである。百点じゃなくて、140点か200点である。

国語も「おじいさんは、なぜお地蔵さんにカサをかぶしてあげたと思いますか」なら「カサがジャマだったから」が正解である。息子が言うのには、「笠地蔵のおじいさんだって、どうせ石でできた地蔵なんだから、本当に寒がっているとは思っていなかった」らしいのである。でも、せっかく売ろうと思って売れなかった笠をいくつも持って帰るのは、笠もジャマだし、嫌だったに違いない。どんな貧乏でも、どうやら笠の材料くらいはあるらしく、後でいくらでも作れるみたいなので、無くなっても、どっちみちまた作ればいいのである。それよりも、みじめな気分になったおじいさんが、そのまま売れ残りの笠を持って帰るよりは、その笠をお地蔵さんの頭にかぶせて、すっきりして家に帰った方が気持ちもすっきりするはずである。だから、答えは「カサがジャマだったから」なのである。こういう問題は、学校ではペケだが、私的にはマルである。ママに見せれば丸がもらえるので、息子もあまり気にしている様子はない。「でも、ボクは絶対こう思うねんけどなあ」なんて言ってはいるけど。

でも、彼のテストは、けっこうこんな感じだから、成績は悪い。まあ、こういう子はたぶん高校を卒業するまではずっと苦労するだろうと思う。だいたい学校のテストは、問題を考えるというよりは、「出題者の意図した解答」を当てる問題がほとんどである。国語の問題などは、とくに「主人公は、この時、どんな気持ちだったと思いますか」などという問題があったりするが、こんな問題は「解答すべき解答」が用意されていて、それ以外の解答は書いてもダメである。たとえ質問が「思いますか」なんて問題でも、正直に「はい、ボクはこう思います」なんて解答を書いてもダメである。

しかし、高校を卒業をすれば、世の中のあらゆる問題には、たいてい「意図された解答」なんてないのである。小説を書くんだって、正解なんてもんもないし、実社会でもそうだし、大学の勉強もそんなものである。もちろん意図された解答を当てたり、覚えたりできる能力も大事だし、それができる人は、それだけでかなり社会性が身についている。でも、そうじゃない「個性的な解答」を考えだすタイプの人も世の中にはけっこういて、それはそれで必要だったりするのである。まあ、どっちみち母親の私は今のところ「面白い息子」なので、どっちでもいい。

先日も、たまたま義母の家で、義弟や従兄弟たちとテレビを見ていたら、『平成教育委員会』という番組をやっていた。この番組は、面白い有名中学の入試問題などが出るらしいのだが、なぜか算数だけはかなり簡単である。(たぶんテレビでは計算させるヒマがないからだろう)だから、算数に限れば、クイズとかパズル問題が大好きな人なら、見ればすぐにわかるようなオーソドックスな問題が多い。それで先日、どんな問題だったか忘れたが、とにかく1から10までの数字を足したら55になるのを使えばすぐに解けるような問題がでていて、たまたま通りかかった息子がすぐに解答を言った。息子は、アホだけど、パズルみたいな問題はけっこう得意なのである。

だが、大人である義弟の方がわからなかったようで、そこで息子が解説をしたのだが、その説明を聞いた義弟が「ああ、でもそれならソロバンをしている子やったら、1から10まで足したら55って、すぐわかるけど。ソロバンやってなかったらわからんなあ」と言ったのだった。確かに、ソロバンを習ったことがある人ならわかるだろうけど、指ならしのために「1から10まで」足したりするから、日常的に55だというのは覚えている(義弟は、ソロバン1級らしい)。だが、それを聞いた息子は「でも、ソロバン習ってなくてもわかるやろ。だって11が5個で55やから」と言ったのだが、どうも義弟はその意味がわからなかったようで、「やっぱりソロバン習っている方がいいよな、うんうん」などとつぶやいていた。

あとで、ソロバン2級の夫にも聞いてみたが、どうも同じように意味がわからないらしい。よくわからないが、どうもソロバンを習っていた人は、1から10まで足したら55というのは「あたりまえ」なので、11が5個とは考えないものらしい。とすると、これを読んでいる人の中にも、わからない人がいるかもしれないから一応、説明しておくと、1から10までの数字を足すというのは、1と10、2と9、3と8、4と7、5と6を足しているのと同じだから、この組み合わせは、全部11になるのである。

他にもやり方があって、2つの数字を合わせて、「10」を5個作っていって(10は単独で10)残ったのが5だから足して55という考え方もあるが、息子の場合は、たぶん11にしたのである。この足し算は、どんな数字でも同じだから、たとえば12までの数を足す場合でも、一列目に1から6を書いて、2列目に逆から7から12を書けば、上下の数字を足せば、全部13である。それが全部6個あるわけだから、13かける6で、解答は78になる。この方法なら、どんな数字でもすぐ計算できるので、たとえば、1から128を足した数というのも、いちいち足さなくても、129になる組み合わせが64回あるから、129かける64で、8256だ。

ちなみに、奇数の場合は、一つ小さな数字で解答を足して、あとから足すというやり方と、さっきの1から10までの「5」みたいに、ちょうど真ん中の数字だけがポコンと出ると考える方法があって、私は「奇数」というのは、このポコンと真ん中に「数字が1個がある」ところがなんだか面白いと思っていて、こっちの解き方が好きなのだが、息子はこの方法が面白くないらしく、ポキンとまっぷたつに折り返す方が好きなようである。

どっちにしろ、もしかすると学校では教えないのかもしれないが、これくらいなら、クイズとかパズルが好きな人なら「初歩」の考え方だから、とくに珍しい解き方ではないのだけど、どういうわけか、ソロバンを習っていた義弟などは、なぜかそれが面白いとは思わないらしい。いや、そんなことをせずに真面目に足せばいいだけじゃないか、そんな解き方が何の役にたつのかという感じらしい。やっぱり「いろんな解き方があった方が面白いじゃないか」とは思わないらしい。

でも、世の中というのは、このように真面目にコツコツやれる人の方がけっこううまくいく。けど、ちょっとでも面白い解答を書いてみたいという人も、それはそれで面白いし、世の中には必要なんだろうなと思っているが、たぶん算数も大学になるまでは、学校のテストはおおむね計算が得意な人の方がラクである。こんな感じだから、息子は苦労するだろうが、私自身はあんまり注意する気にはならない。だって、面白ければ、ま、いいじゃないか。

06/24/2005

あなたが見えたもの、見えてないもの

6月24日(木)
終日、外出。事務所には入れず。

ところで、専門学校では、映画などの作品(おもにアニメ)を見せて解説する授業をしているのだが、あたりまえのことなのだが、あらためてえらく違うもんだなあ、と思う。小説講座の方は、社会人向けなので、もっと反応が違うのだけど、同じ学年の人たちが同じ映画を同じように見ても、感想が一人一人違うのだ。同じものを見ても、人によって正反対の受け取り方をしていたりする。

だから、デート中には「恋愛映画」だけは見てはいけない、ってことがあるだな。三角関係なんぞ出てくると恋愛観によって、男女間で、受け取り方がえらく違ったりするから、ヘタな感想をいうと必ずコメントで失敗する。とくに男性は、まだ親しくない間だったら、それぞれの感想を言い合ったりするのは止めて、適当にあいづちくらいにとどめておく方が無難かもしれない。だいたい、男の本音と女の本音は違う。とくに恋愛映画を見たあとの女性は、ロマンチックな夢に浸りたいのだから、男性が正直なことを言うと怒りだす可能性がある。それよりは、よっぽど面白くない映画を見て、二人で文句を言い合ったりして、共通の話題で盛り上がった方がましである。

人によって、見え方が違うと言えば、だいぶ前、実家で、こんなことがあった。まだ、結婚する前で、家族とテレビでトレンディドラマを見ていた時のことである。妹がドラマを見ながら、何かをブツブツ言っている。よく聞いてみると、それは「ブランド名」や「値段」なのだった。
それは、ドラマのヒロインが、自宅で友人たちと料理を食べているシーンで(ヒロインの家は、一人暮らしで、1LDKに住んでいる)妹は、ドラマを見ながら、部屋にある細々とした雑貨、食器やら、クッションやら、ヒロインがつけているエプロンなどを全部チェックして、そのブランドや値段などを言っているのだった。

「だって、あれは『たち吉』の新作やろ」
「え、『たち吉』? 何が?」
「ほら、あのサラダ入れてる食器やん。見えへん?」
「えっと、そう言えば、サラダ食べてるけど……」
「あれ、今年の新しいシリーズやねん。値段も手頃で……」
「そんなん、食器とか映るの、一瞬やん。ようわかるなあ」
「あんなにわかりやすいデザインやで」
「でも、ドラマ見てて、いちいち、食器の種類とかまで見てる?」
「見てるに決まってるやろ!?」
「そんな、ドラマで、食器とか気になる? あんたは特別や」
「まあ、確かに私は、デパートに勤めているからわかるんやけどな」
「ほら、仕事やろ。だから、気になるやろ」
「でも女の人って、雑貨が好きやから、けっこう、みんなチェックしてるで」
「そうなん? みんなドラマって、ストーリーを楽しみに見てるんとちゃうん?」
「でも、雑貨とかファッションとか気になれへん?」
「うーん、あんまりファッションには興味ないからなあ」
「でも私、インテリア雑貨のフロアやから、うちのフロアしか知らんけど、ドラマで女優さんが来てたエプロンとか、わざわざ指定して買いにくる人、けっこうおるで」
「えっ、みんな、ドラマ見てるんちゃうの? ストーリー見てるやろ」
「でも、女優さんのファッションとか見るやんふつう」

確かに私がニブイだけなのか、うちの母も、食器ばかり見ていたらしく、「そうそう、あの食器、いいわねえ。あんなの、欲しいわあ」などと言っている。「エプロンも、あのブランド、けっこう人気あるねんで」「えっと、エプロンなんかしてたっけ」「お姉ちゃん、どこに目をつけてんの?」

しかし、そのドラマのシーンは、ほんのワンシーンでかなり短かったのである。私が関心がないせいか、妹が詳しすぎるのか、彼女に言わせると「あれは、若い女性に人気のブランドで、あの女性は、あのブランドが好きで、スリッパとコーディネートしてた」と言うのである。うーむ、全然気がつかんかった。だって、ストーリーとは直接、関係ないんだもん。

うちの妹は、和食器の専門なのだが、インテリア雑貨一般を扱っているフロアに勤めているので、詳しすぎるくらい詳しい。だが、母までわかるとなると、私がヘンなのかなあ。確かに、私は女性にしてはファッションとか雑貨には興味がない方なのだが。けど、確かに女性にとって、ファッションとか雑貨とかは、「ライフポリシー」と関わる大切な関心事だから、そりゃ、「ヒロインの性格設定」にも関わる重要な問題である。むろん、独身キャリアウーマンと専業主婦とでは、ファッションも雑貨も好みがだいぶ違うのが普通だろう。考えてみれば、当然だ。でも、どう違うのか、私にはわからんけど。

小説でも、ハードボイルドなどで、拳銃の種類とか詳しく書かれていたりする。殺し屋によって、持っている拳銃が違うのである。どんな拳銃を使っていてもいいじゃないか、と思うかもしれないけど、そこがこだわりというか、当然、用途とか、性能とかあるわけで、そこがハードボイルドが好きな人にはたまらないわけである。トレンディドラマを見る女性たちも、ファッションとか一人暮らしのインテリアとか、けっこう関心があるわけで、そこんところが重要だったりするわけだな。たぶん。

しかし、同じドラマを見ていても、人によって、ぜんぜん見ているところが違うのがホント不思議である。ところで、ドラマではなくて、日常で同じものを見ていても、ぜんぜん思いもかけないことを見ている人もいる。ある友人は、一緒に道を歩いていて、急に「だいたい、3年ってとこかな」と言い出した。彼は、高校の時の友人で、今は道路工事の仕事をしている男性である。道路屋のオヤジである。場所は、私の家の近くの舗道。
私は、最初どこかの庭木のことか何かかと思ったのだが、「ここの道や」というので、ちょっとビックリした。
「へ? 道?」「うん、舗装して、3年くらい?」と言う。
「道? そんなん、わからへん」
「ふーん。でも、きっとそうやな。あの下水のとこが半年くらいたってるから」
「あ、確かに、半年くらい前に下水の工事してたけど。なんでわかるん?」
「だって、あそこ、舗装を掘り返して、パッチワークみたいになってるやろ」
「うん」
「あれが半年くらい前。オレ、仕事で、舗装するからわかるねん。これくらいの交通量やったら、3年くらいでこれくらいへこむから。まあ、ちょっと手を抜いとるみたいやけど」
「手を抜いてる?」
「ああ、交通量によって、掘り返す深さとかアスファルトの厚さがちゃうねん。でも、このへんみたいな住宅街やったら、どうせ耐久年数より、下水とかガスで掘り返す可能性があるから、どっちみちパッチワークみたいなってしまう。多少、手を抜いても抜かんでも、どうせ何年も持たんから」
「ふーん」

道路屋のオヤジには、何気なく舗道が見えているらしい。私なんか、自分ちの近くで、毎日通りかかっても、舗道なんか気にもとめたことがない。目に入って来たことがない。

道と言えば、昔、広告の仕事で、土木設計事務所の「業務案内」を作った時、そこの事務所に「月刊 下水道」(業界専門誌だよ)のバックナンバーがずらりと並んでいるのを見て、私が「そう言えば、毎日、下水道の世話になっているのに、日頃、下水道のことなんか、考えたことがありませんでした」という話をしたら、そこの社長が笑って、「でも、町なら、たいていの道に下水道はあるんですけどね」と言っていた。確かに、私たちには見えていなくても、大阪の町なら、どこかしこに、いや、ほとんどの場所に下水道が走っている。道路の下には、下水道。けど、私には、何度通った道でも、マンホールもよく見えてはいないけど。

たとえば、道路屋のオヤジ、ガス屋の兄ちゃん、電気工事屋、住宅建築、外装屋などとあなたが一緒に道を歩いたとする。そうすると、みんな見えているものが違うわけだ。同じように同じ道を歩いていても、みんな、ぜんぜん見えているものが違う。たとえば、道で若い女性にすれ違ったとする。「ああ、きれいな女性やなあ」と思ったとする。でも、靴屋、服屋、カバン屋、美容師。一緒に歩いていれば、たぶん全員がちょっとずつ違う見え方をする。

そう言えば、今年の1月に亡くなった義父は、長年タクシー運転手をしていたせいか、「乗っている車を見れば、その人のことが全部わかる」とよく言っていた。私には、車を見ただけで、その人を見分ける能力はない。ずっと「ほんまかいな」と思っていたが、何を見ていたのか、ちょっと聞いてみたかった気もする。でも、私たちは、他人にどんなふうに見えているのかわからない「風景」を、何気なく毎日一緒に見ているのだった。

06/23/2005

才能と相性、似ても似てない双子たち

6月22日(水)
午前中、仕事。午後から仕事を終えて、小学校の参観日。終了後、PTAの広報委員で夕方6時まで。

うちの娘たちは、双子でいつも一緒にいるのだが、性格はかなり違う。まあ、まだ小さいの性格はけっこう変わる。去年まで、姉の方が元気で活発なタイプだったのだが、今年は妹の方がなぜか元気である。担任の先生とか、クラスメイトとの相性もあるので、それくらいはコロコロ変わるのだろう。姉がさらに元気がないように見えたのは、どうやら算数の参観だったためらしい。最近は「ひっさん」の繰り上がりが苦手らしく、算数が大嫌いなのである。

よく「三つ子の魂百まで」などと言い、これが「三歳児神話」の根拠になることがあるけれども、これはちょっと違うなあ、と思う。そう思うのは、双子の娘を育てたせいだ。三歳児神話は「三歳までの教育」がその後の性格形成に決定的な影響を及ぼすというものだろうと思うのだが、私は、これくらい小さい頃の性格形成というのは、後天的なものよりも「先天的な影響」がかなり強いような気がする。

どうもこれは、多少、近代的な思想だと思うのだが、人間の性格形成というのは、後天的な影響がものすごく強いことは明らかだけども、やっぱり「先天的な性格」というのもある。だから「性格形成」のすべてを「教育」とか「しつけ」のせいにするのは無理がある。知り合いの教師も、幼児期よりはむしろ「小学生の高学年」の頃が、性格形成には一番重要な時期ではないかと言う。8歳から12才頃。一番多感な時期である。私もなんとなくそうではないかと思っている。幼児期の経験が大人になってもトラウマになっている人もいるが、トラウマになるか、あるいは昇華するかというのは、やはりその後のこの時期の影響があるのではないかという気がする。

後天的な環境が、性格形成に影響をするとしても、とくに3歳までの性格形成は、やはり先天的な影響も大きい。まれに、とにかく「先天的な性格」なんてのものを認めたがらない人もいるが、まあ、多くの人が「血液型占い」とか「星座占い」とかが好きらしいだから、たぶん「生まれつきの性格」にもあまり抵抗はないはずである。うちの双子は、赤ん坊の頃から「顔はそっくり」でも性格がかなり違っていた。泣くのも、排便も、なぜかみな同時なのだが、微妙に違うのである。生後3ヵ月から、保育所に預けられていて、あまり似ているので、保育士さんも「ずっと顔では見分けがつかないので、お尻のあざの違いで見分けていた」くらいだから、あまり区別なく、育っているのだが、性格が違う。一番、わかりやすいのが、2歳くらいで絵を描き始めた頃で、姉の方は画用紙いっぱい使って、乱暴にぐちゃぐちゃと落書きをするのだが、妹は、いつも画用紙のすみっこに、ちまちまと小さな円を書き続けるのである。

この二人は、顔がよく似ているので、毎日10時間も預けられていた保育所ですら、半分以上の保育士が見分けられず、友だちも女の子の数人が見分けられる程度で、男の子はほとんど区別がつけられない。私が子供の頃読んだ『愛の一家』という物語では、マリアとアンナという双子が、いつも一緒にいるので、まとめて「マリアンナ」と呼ばれていたという話があったのだが、うちの双子もそれと同じで、いつもまとめて一緒に呼ばれることが多い。うちの「マリアンナ」は、どっちか見分けがつかないので、一人でも二人でも「マリアンナ」である。どっちに対しても「マリアンナ」と呼ぶ。たとえ一人が熱を出して休んでいても、一日中「マリアンナ」と呼ばれる。まあ、周囲の子供たちにしたら、遊ぶのに、どっちがどっちでも別にかまわないらしいので、どっちが来てもまとめて呼ぶ方がラクなのである。

そんなふうだから、親も別にいちいち区別するのも面倒なくらいだが、どうも性格はかなり違う。どうやら妹の方は、赤ん坊の頃から神経質で、やや几帳面な性格らしい。どうも、これは「持って生まれた性格」なような気がする。今でも、2年生ながら、いつもきちんと帰宅してから宿題をして、明日の学校の準備をする。3人子供がいる中で、唯一、筆箱の中の鉛筆をきっちり削っているタイプである。兄や姉は、二人とも宿題なんか、当日の朝あわててやっているのがしょっちゅうで、時間割なんぞ、小学6年生の兄は今でもしているところを一度も見たことがない。「まあ、全部持っていけば、面倒がないやろ」と毎日全部の教科書をランドセルに入れたままである。筆箱なんか、いつもどこにあるかわからない。そんな感じだから、毎朝8時を過ぎても、ぼおーっとしている。姉も、へたすると10分前でもまだパジャマを着たままである。一方、几帳面な妹は、10分前にはランドセルを背負ってすっかり準備をしているので、朝から「何してんのっ! 早くしいやっ!」と口うるさく怒鳴っている。部屋の片づけも、兄や姉が散らかす一方で、妹だけが片づけていてヒステリーを起こしている。3人兄妹で、たまたま一人だけ几帳面だったものだから、いつもイライラしているらしく、かわいそうである。まあ、これが3人のうち2人が几帳面な性格だったら、一人だけ「だらしない」と言われることであろう。それも悲惨だろうが。

几帳面か(あるいは神経質か)、そうでないか(だらしない、とか)というのは、性格の中でも、後天的なものというよりは、何か先天的なもののような気がしている。まあ、でも、とくに「成人」の性格というのは、ほとんど後天的なもので染め上げられており、日頃の「日常習慣」とか「身につけたしつけ」によるものが大きい。それでも、根っこのところには、持って生まれた「先天的な性格」のようなものがあり、それはそれこそ「三つ子の魂百まで」というくらい、死ぬまで治らない、墓場まで持っていく性格だという気がする。

ただし、これは、環境との相性などによって、いろいろな反応を起こして変化するから、一概なことは言えないのである。うちの双子もそうで、妹も、几帳面ゆえか、完璧にできないと、すぐにやる気を失って、わざと忘れたふりなどをしたりする。実は、「私は、どうせ何もかもきっちりできなくて、だらしない性格だ」という人に限って、内心ではかなり神経質で、「完璧主義」だったりするので、どうも本人も自分の性格をわかっていないような人も多いのである。

でも、確かに「持って生まれた性格」みたいなものは誰にでもあるはずである。これは、たぶん細かい性格ではなく、「なんとなくおおざっぱな性格」とか「なんとなく几帳面」とか、あるいは「気が短い」か「気が長い」とか、かなり単純なものだけかもしれないが、遺伝というよりは、むしろ親子や兄妹でも違う。よく似ているようで、それぞれ違う性格が、たぶん一人一人生まれつき備わっているのである。

だが、これは先天的なものだから、「どうしようもない」とは私は思わない。なんとなく「こういう性格だから、それは仕方ないが、でも、こうしておけばいいんじゃないか」と思うくらいがちょうどいい気がする。幸いにして、星占いとか、血液占いは、こうした「性格の違いによる傾向と対策」は豊富に持っている。私は、自分では占いをよく研究したくせに(ちなみに、実は、一番面白かったのは占星術ではなくて、八卦。これは先天的な気質とはまず関係がない)全然信じないことが多いのであるが、どんな『性格占い』でも、そこには色々な傾向と対策が書いてあるわけで、これを読むのは好きである。占いのいいところは、どんな悪運であっても、何らかの逃れる方法は示してくれることであって、どんな悪い性格だって、けっこう色んな対応ができるらしいからである。
だから、自分自身にも「持って生まれた気質」のようなものがあり、それを「あきらめる」というよりは、うまく「自分」とつきあうことにしようと思う。直らないなら、直らないなりに、うまく対応できればいいのである。

しかし、人よりも、向上心があったり、真面目だったりすると、「こんな自分はイヤだ」なんて、深刻に思ったりする人がいるのだが、でも、もうちょっとよく考えてみたらどうだろう。もし、これが完全に「後天的なもの」なら必ず直せるはずである。反対に、もし、後天的なものではなく、先天的なものなら、あきらめてその性格を受容して、つきあっていくしかない。しかし、だましだましながら「死ぬまでそれにつきあう」というのは、何もこの性格という「気質」だけじゃなく、全部の人の「質」の問題である。持って生まれた「体質」で、先天的な病気を抱えている人もいれば、一生それとつきあい続けなくてはいけない人もいっぱいいる。先天的なものであれば、いやとか好きとか、あるいは何故とか言っても(たとえ言いたくても)、ある意味、考えても仕方ない。これを運命といって、受容するしかない。

しかし、やはり、先天的な「性格」がどんなものであっても、後天的な影響力の方が圧倒的に大きい。そして結果、現れてくる状態も、相性とか環境の問題もあって、色々一概に言えないのである。もともとどんな気質を持っているかより、「周囲との相性」とか「本人の持っていきかた」によって、大きく変わってくる。もちろん性格だけではなく、才能などというものも同じだろう。確かに「先天的な才能」というものがあるのかもしれない。でも、後天的な環境や訓練の質や量、本人の意識の方がずっと影響は大きい。実際、どんなものでも「何があるか」よりも「どう使うか」という問題の方がずっとずっと大きい。

気のせいか、なんとなく「才能があるのかないのか」で必要以上に悩んでいる人を見ると、なぜか自分自身の性格を嫌っている人が多かったりする。まあ、真面目なのだろうが、あいにく星座占いでもせいぜい12パターン。血液型なら4パターン。いくら自分の性格が嫌いでも、人間の性格というのは簡単に大きく分けてしまえば、せいぜいその程度である。「いや、私の性格は、そんな単純なもんではない」と言う人もいるだろうが、自分だけは特別だと思いたい気持ちはわかるが、まあ、よほど特異な性格もあるだろうが、大きく分ければ、せいぜい、それくらいの分類である。実は、自分の性格だけをそれほど「特異な存在だ」と考える方がよほど驕っている気はするが。で、もし自分の性格が嫌いというのなら、自分と一緒くたに、同じパターンの人、まあ、だいたい全人類の12分の1を否定しているはずである。何億人か、である。まあ、そんなに大きく否定してもどうしようもないぞ。

いや、それは納得できんという人には、星座占いと血液型なら48パターン。さらにうまれ年を組み合わせれば、12通り、4通り、12通りで、はい、これだけで576パターン。しかし、一人の性格の違いよりも、相性の問題を加えるといきなりややこしくなる。12パターンに分類するだけの星座占いだけでも、たった二人の相性だけで144通りパターンがある。血液型を加えて、一人48パターンの性格分類をすると、48かける48、で、2304パターンである。576かける576だと、331776である(電卓計算しました)。相性問題を考えると、あっという間に問題が複雑化する。でも、これはただ相手を変えることだけであっという間に変化する「可能性の幅」なのである。

(念のため言うと、これは星座占いを例にしているけど、占いが当たっているとか、アテになるとかではなくて、性格のおおざっぱなパターンの数だけを問題として考えている。うちの双子でも、星座占い、血液占い、うまれ年なら全部同じだけど、それぞれ性格は違うから)。

ところで、小説を書く場合でも、才能を気にするよりは、よほど相性に気をつけた方がいい気がするんだけど。まずは、作品との相性(それから賞を狙っている人は、賞との相性なんかもあるね)もし、煮詰まっている人は、たまには違う作品を書いてみるとか、ゼッタイに書かなかったようなものを書いてみるとか、一度、相性を変えてみてはどうだろうなあ。そして、ここぞという相性を探してみるのである(ただし、見つけてから迷ってはいけない。小説は書くのにけっこう時間がかかるので、迷いすぎると時間がムダになることもある。どうしても見つからない時に探してみる)

さて、うちの双子も、将来、どんな恋人を見つけることやら。

06/22/2005

こりないカメラ少年、そのニ十年後

6月21日(火)
午後から事務所。Kさんは、資料請求者の名簿入力。第7期の講義資料、専攻科作品の印刷。私は、おもに経理処理。

帰宅後、実家の近くを通りかかると、弟の自動車が見えた。弟は、30分ほど離れた所に住んでいる。今、実家は改築中なのだが、隣家の女性が連日何かしら言ってくるので、母はちょっとノイローゼ気味になっており、心配になって、のぞきに来てたらしい。日曜に来れなかったらしいので、父の日のプレゼントもあったかもしれない。この弟は、母の日、父の日、誕生日に敬老の日、クリスマス、中元、歳暮。まあ、こういうことはゼッタイに欠かさないタイプである。末っ子のせいか、自分勝手な姉に較べると、子供の頃から驚くほど親孝行なヤツである。

ところで、うちの息子は、トボけた性格である。夫もかなりトボけたところがある。が、方向がまったく違うので、実は、うちの息子のアホな性格は、親戚内では、私の弟に似たのだと思われているのだった。そう言われてみれば、息子と夫は何かと雰囲気が違う。

私の弟は、息子と似たタイプである。確かに、彼が子供の頃は、こんな感じであった。毎日、ニコニコと給食と体育を楽しみに学校へ通い、授業も誰よりも真面目に受けているのに、成績はさっぱり。テストも本人は真面目にやっているつもりらしいのだが、どれも解答がずっこけている。背が低くて、クラスで前から1〜2番目というところも似ている気がするし、高学年になってもおねしょを心配してるとか、よく寝ぼけるとか、なんか似ているといえば、似ている。(でも、息子の方がちょっとひどい気もするけど)

弟も、小学生だった頃はかなり成績が悪かった。だが、彼は「工作少年」で工作だけは得意であった。低学年で作ったとは思えないほど「電動紙ずもうマシン」などを作り、高学年でも「発明」にも凝っていた。10才を過ぎるとパソコンに夢中になり、すぐに「パソコン少年」に変身。当時はあまりゲームソフトも高価で買えないので、すぐにプログラムを自分で作り始めた。もちろん保存媒体は、オーディオテープを使う時代である。そのまま行けば、今頃はプログラマになって、すっかりIT長者になっていたかもしれないが、彼は、ただの凝り性なのではなく、だんだんズレていくタイプのである。そして、ある日、何万円もする高額の電話代の請求書が届いて、怒り狂った母親にパソコンをとりあげられたのだった。なにせ25年くらい前の話なので、パソコン通信と言っても、「音響カプラ」を使う時代である。いわゆる「草の根ネット」しかなかったので、ものすごい高額になったのだ(もちろん、ニフティとか、朝日ネットとかができる前の話である)

こうしてパソコンをとりあがられた彼は、突然「カメラ少年」に変身した。最初は、自分の部屋を暗室にして、現像などをしていたが、それを聞いた田舎のおじさんが「古いカメラ道具」を箱ごと贈ってくれた。その中には、昔のストロボ(電球をねじこむヤツとか)やら、さらに柄のついた妙な道具が混じっていた。すっかりさびてしまっていたが、まだ火花が出る。それは、マグネシウムをたく道具なのであった。弟は、すっかりそれに夢中になり、ぜったい一度、これを使って写真を撮ろうと思ったらしい。それで、マグネシウムを取り寄せようとしたのだが、カメラ屋に「そんなもんはもう手に入らない。薬屋に頼め」と言われ、実験道具を買う薬店で取り寄せたのだが、あいにく粉末が手に入らず顆粒しかなかったので、うまく発火せず、仕方なく他の薬品を加えたり、あれこれ調合を試しているうちに、爆発を起こしてしまい(少し畳がこげただけだったのだが)これもまた母に取り上げられてしまった。

ところで、母は自分の息子に大学に進学させたがったのだが、弟は進学には興味がなかった。しかし、人一倍親孝行な弟は、「頼むから受けるだけ受けてくれ」という母の頼みが断れなかったようで、とにかく受けるだけは受ける、ということで、模擬テストをうけて、自分のかなり悪い偏差値とまったく同じくらいのラインの大学を10校だけ受けることにしたのである。実際、本人は行くつもりがないので、どっちみち学部も何もない。法学部、経済学部、社会学部、とにかく低い偏差値だけで選んだので、本当にランダムである。(彼の場合は、偏差値が低かったので、その方法で大学を選んだのだが、知り合いの京大生は、偏差値だけで選んで、まったく興味のない理系の某学部に進学したらしい。どっちもどっちである)その中に、たまたま某大学の芸術学部が含まれていた。その学校の入試には、学科だけではなく、演劇の実技テストがあるのだった。

そこで、弟は「受験勉強」のために、急に演劇の稽古を始めたのだった。でも、独学で「演技」をいきなり身につけるのは難しかったようで、そのうち「どう見ても手品?」の稽古をしていた。実際、凝り性の彼は、手品だけはかなりの腕前になっていったが、やはりどう見ても「受験勉強」をしているようには見えなかった。手品は相当うまかったが、演技の方は当然ダメだった。もちろん受験は10校とも全部、失敗した。ここまで来て、母はようやくあきらめた。「どんなアホでも、親孝行ないい息子や」……大学受験料10校分の出費をムダにして、やっと納得したらしい。(ちなみに、予備校の学費も数十万ほど払い込んでいたらしい。弟は一度しか行かなかったらしいが、えらい高い授業料についたな)

その後、彼は、映画に凝り始め、専門学校へ進学して「特撮忍者モノ」の映像作品を作ったりしていた。卒業後は、商業劇団の地方巡業の仕事をし、劇団員の女性と2年前に結婚。今は、兵庫で舞台関係の仕事をしている。

あのボケた弟も、こうして結婚したり、仕事を続けているところを見ると、やっぱ、うちの息子も何とかなるのかな。まあ、何とかなったらいいなあ。

06/21/2005

歳をとれば、みんな濃くなる

6月20日(月)
日、月曜日は、事務所はお休みです。

午前中からあちこち外出。大阪の地下鉄は、金曜と毎月20日は「ノーマイカーデー」。600円で乗り放題。専門学校で非常勤講師。作品解説は、1969年の東映の長編アニメ『長靴をはいた猫』など。

ところで、私の実家は、現在、改築中である。父も母も高齢になり、住みにくい築40年になる住宅を改築することになったのだ。ところが、工事が始まってから、お隣りに住む70歳前半の女性が、数カ月間ずっと、毎日、苦情を言ってくるそうで、どうもかなり大変な様子らしい。昨夜も二回も電話があったそうだ。改装する前は、ほどほどに仲がよかったはずなのだが、改築工事が始まった途端、「工事の音がうるさい」とか「家が傾いた」「揺れる」とか毎日何か言ってくるそうで、母はすっかり参っているらしい。まあ、改築工事がうるさいのは事実だろうから、とにかく謝るしかないのである。

ややこしいことに、もともとお隣りは(母が言うには)15センチ境界を越えて塀をたてているのだが、自分の土地だと思っているらしいのである。この塀は、この人が建てた塀ではなく、以前住んでいた人が建てた塀だそうで、塀が立ってから購入して住んでいるらしい。図面を見せてもらったら、ま、確かに、母の言うことの方が正しいみたいな感じである。でも、この人はこの人で、法務局まで行って、図面を近所の人たち一人一人に見せて回っているそうだ。そんなことをしているということは、その地図を見せられた近所のおばさんに聞いたのである。その人も「その地図、見たけど、やっぱりはみだしているのはお隣りじゃないかしらと思ったんだけど」と言っていたそうだが、どっちみち、こういうことはかなり正確な測量でもしない限り、わからないのである。けど、わずか15センチの話で、いちいち測量を頼むのも、という感じで、なんだかぐちぐちしているのである。なんだか、そのままマンガにでもなりそうな境界争いである。

そんなこともあって、かなり細かいことまで、毎日文句を言ってくる。連日なので、母は大変らしい。そりゃ、隣家で改築があれば、確かに誰でもイライラするだろうが、「振動で壁にヒビが入った」と壁の修理をさせられたり(母が言うには、もともとボロボロなので、新しくヒビが入ってもどこがそうなのか全くわからないのに、毎日電話してくるので仕方なかったそうだ)、その修理の後の「塗装が汚い」とか(でも、築40年の壁なので、どっちみちどこが汚いかはわからないのだが)はたまた「工事の人たちのタバコの灰が飛んでくる。火事になったらどうする」とか、「埃がとんでくる」とか、かなりむちゃくちゃなくらい細かいことを言ってくるそうだが、工事の人たちは結構こまめに対応しているようだ。もしかすると、こういうのには慣れているのかもしれない。でも、毎日、「何かあるかもしれないから」と何時間も工事をじっと見ているそうだ。ほとんど現場監督みたいである。そして、引っ越し中の実家の方にも、もちろん毎日、電話をかけてきたり、訪ねてきたりする。毎日、通りかかった近所の人をつかまえて、誰彼なく延々と愚痴を聞かせているそうで、母にしたら、気が休まるヒマがないらしい。確かに先日、たまたま通りかかった私も、1時間ほど愚痴を聞かされた。この人は、日頃あまり近所づきあいをしない人なので、親しい友だちもいないらしく、たぶん話し相手がいないんじゃないかと思う。格好の話のネタができたようなものである。まあ、確かに悪い人ではないのだろうが、もともと愚痴しか話さないタイプの人だったし、そう言えば、私が子供の頃からずっと愛想がいい人ではなかったから、どっちかというと、うっとおしいタイプの人である。話していてあまり面白い人ではない。

だいたい近所でも、つきあいがあるのも、うちの母と父くらいだったんじゃないだろうかと思う。この人は、一人暮らしである。確か、娘さんと息子さんが一人ずついるはずで、両方ともさほど遠くない所に住んでいるそうだが、今は孫も大きくなってしまっているのか、あまり訪ねてきている気配がない。ってことは、寂しいのかもしれない。でも、困り果てている母も「もはや友だちづきあいなんて、できるわけがない。できるだけ顔も合わしたくない」そうで、この人は、だいたい、ご近所の「ばあちゃん連合軍」にもどうもウケが悪い。この前の町内会の運動会にも来ていなかった。一日中、家に一人っきりで、近所の友だちもいないとなれば、隣の家の工事はさぞウルサイことだろう。工事に文句をつけるくらいしか、毎日話をする相手もいないだろうなあ。

しかし、優しそうなダンナさんが数年前に亡くなるまでは、まだもう少し感じのいい人だったらしいのに、どうしたんだろうなあ。うまく歳をとるのは難しいのかもしれないなあ。歳をとれば、連れ合いもなくしたりするものだけど、一人暮らしはかなり難しいものなのかもしれない。そう言えば、今年の1月に義父を亡くした義母も、まだ精神的に安定しないようだ。歳をとって、伴侶を失ってからの一人暮らしは本当に大変である。いくら子供がいても、世代が違ったり、忙しかったりして、話し相手にはならなかったりする。年齢を重ねても、たくさん友達がいたり、趣味があったり、社交的にできる人もいるが、なかなかできない人もいる。が、夫婦が同時に亡くなるなんてことはあんまりないわけで、この女性のように、とくにずっと働いていて、定年してから地域にもどってきた人は、なかなか近所づきあいも難しいようである。

「今どきの若者は」なんて言われているうちはいいが、どうせあっという間である。私も近所づきあいがいい方ではないので、連日、電話がかかってきて困っている母も可哀相だが、なんか、この人も不憫な気もする。

私の友人のライターさんは、一般の高齢者ばかりを対象に何十人も聞き取りやらインタビューをやったそうだが、彼女が言うには「歳をとると、人間の性格は、まるで鍋を煮詰めるみたいに濃くなっていく」のだそうだ。煮詰めて、やたら濃くなっただけなので、中身は若い時と同じなのだが、ほとんどの高齢者は、もはや新しい水分や材料が加わらないので、ただ煮詰まるだけなのだそうだ。頑固な人は、歳をとれば丸くなる……というのは、必ずしもそうとは言えないものだそうで、彼女に言わせると、「やさしい人は歳をとれば、ますますやさしく。丸い人はますます丸く。とんがった人はますますとんがる」つまり、とにかく性格というのは、ただ「濃く」なるらしい。

とすれば、うまく歳をとるのも大変である。もし本当に「煮詰まる」だけなのなら、今のうちに色んな材料や水分をたんまりほおり込んでおかないとならない。周囲の友人は、「そんな早いうちから、歳をとることなんて、わざわざ考えたくもない」と言うが、何も考えずに歳をとると不様なことになるかもしれず、とはいっても、わざわざ早死にする予定を立てるのもヘンだしなあ。まあ、できるだけうまく歳をとれるように、何かしら考えるだけは考えておこう。でも、何をしたらいいのかな。ま、ほおり込めるものは、今のうちに取り込んでおこうかな。                                                     

06/20/2005

小説とは関係のない休日(不安なお風呂編)

6月19日(日)
日曜、月曜は、事務所はお休みです。

朝、6時に起床。いつも5時半に目覚ましが鳴る。講義がある土曜の夜は、寝るのが遅いのに、日曜日はゆっくり眠れるんだけど、習慣で目が覚めてしまう。子どもたちは、夫といっしょに義母の家に泊まっていたので、久しぶりに一人でのんびり朝食。

日曜ぐらいしか音楽を聞く暇がない我が家。今日は、ムーンライダースとマライア・キャリー。小学校のプールが始まるので、水着を出したり、布団をしまったり、なんやかんや家事。夕方、ちょっとだけイッセー尾形のビデオ。

夕食を食べながら、小学2年の双子の娘たちが質問をしてくる。
「ママ、ふあんって何?」「ふあん?」「ほら、ふあんになるって……」「ああ、不安? 不安のことかいな」「えーっ、おまえら、不安も知らんの!?」「うるさい、兄ちゃんには聞いてへん!」「へええ、不安も知らんの?」「兄ちゃん、うるさい!」妹たちに対して、何かといばる小学6年のお兄ちゃんなのだった。

「まあまあ。なあ、例えば、お兄ちゃんは「不安」とかなったことある?」「ある!」「どんな時に不安になるか、妹たちに教えてあげて」「パンツない時」「パンツ?」「うん。修学旅行ン時な、ボク、パンツ全部、忘れてん」「このあいだの?」「うん。あれは不安やったでぇ」「えー、修学旅行って、ママが朝、持っていくもん、チェックしてあげた時には、たしかパンツも入ってたで」「うん、あれからまた出してしもてん」「なんで出すねん」「いや、名前書いてるかなって思って、出して」「しかも、アンタ、あの日、わざわざいきなり引き返してきて、玄関で泣いていたやろ。『忘れ物したーっ』ってゆうて」「あ、そうやったっけ」「で、『何、忘れたん』って聞いたら、『なんかわからん! でも、ぜったい忘れてる。どうしようどうしよう』って、なんでか知らんけど、ぐるぐる回って飛び跳ねながら、泣いてたやろ」「ああ、あれは、何かあわてとってん」「『とにかく早く行き! 遅刻したら置いてかれるで!』ってどなって、やっと泣きながら走っていったやろ」「うん、でもボクより遅い人も何人かおったから間にあったわ」「で、パンツ忘れたんかいな」

「うん。でも、パンツなくても大丈夫やったけどな。けっこうみんな着替えてへんかったし」「修学旅行ってゆうても、たったの一泊やったからなあ」「はきっぱなしでも大丈夫やったわ。でも、ほんま『どうしようか』と思ってた。これって、不安やろ」「うーん。でも、こんな説明でわかる?」

「大丈夫、わかった! だって、昨日、私もうんこ出たもん」「うんこ?」「昨日、おばあちゃんちのお風呂でおならしたら、ちょびっとだけ、うんこ出ちゃってん」「げげげ」「あれは、ちょっと『不安』やった!」

……食事中に、ホンマ、下ネタ好きの子供たちである。けど、なるほど、謎が解けた。それでさっきから、パパが「昨日、オレだけ風呂に入れなかったから、今日はゼッタイ早めに入りたい」と言っていたのか。

06/19/2005

カラオケ高得点なんていらない

6月18日(土)
午前中から事務所。先日、パソコンがつぶれてしまったので、データを移行。かなり面倒である。

夕方からは、専攻科の授業。本日の講義は、堀晃先生。ショートショートと短編18編の作品指導。専攻科の生徒さんはみな熱心で、講義は1時間近くも延長。休憩なしで、たっぷり3時間。先生も本当にご苦労さまです。

作品も色々。堀先生の指摘は、いつも的確でわかりやすい。(そして「愛」に満ちている。作品そのものに、作者自身に、小説というものができるすべての奇跡と可能性に)。

個人的には、ブラックなオチがある作品を書いたHさんが、先生に「このアイデアはどこから考えたのですか」と言われて、「今、私、ホネ系の仕事をしてますので」と言ったのが今日のツボ。ひどく可笑しかった。「ホネ系」……そんな仕事があるんでしょうか。このクラスは社会人ばかりだから、ホンマ、色んな職業の人がいるんですわ。しかし、「ホネ系の仕事」と言われて、堀先生は何を想像したのでしょうか。彼女は実際、毎日「納骨堂」で働いているのです。まさに、ホネ系。

しかし、専攻科の作品だから、みんなかなりうまい。あまり作品数は多くない Oさんもすごくうまい。あとは、数本出していたTさんとか、Kさんとか、Nさんとか。確かに、ここまでうまいと雑誌に載っていても不思議じゃない気もする。が、「うまいけど、どこかで見たような作品」と言えば確かにそう。どこか物足りないと言えば、物足りない……。どこが、と言われても、どこかはわからない。いくら上手くても、何か足りない気がする。プロの作品とは、何かが違う。絵でも、歌でも、「プロみたいな上手いアマチュア」はいる。プロでもヘタな人はいる。でも、何かが違う。何だろう。
講師のプロ作家さんたちが作品指導のたびに、よく言う「もっと、何か」「もう少し、何か」「もうちょっとやれるんじゃないか」という言葉に、何かが現れているような気もする。

アマチュアとプロの作品とどう違うのか、私にはわからないけど、先生たちを見ていると、生徒さんたちに比べると「もっと何かできるんじゃないか」という貪欲なところがあるような気がする。「いい作品を書いてやるぞ」という気迫というか、エネルギーが全然違う。上手い下手というよりは、心構えとか気持ちとか。何か違う気がする。

講義後、十数人ほど残り、飲みながら11時頃まで話す。なぜか「イチかバチか」のアイデアがあったら、どうするか……という話になり、私は新人賞とかコンテストなら、「イチかバチか」なら、やっぱり書くしかないんじゃないかなと言ったのだが、「それは怖いですね。外した時のことを考えちゃうから」という話をした人がいて、ちょっと考え込んでしまった。そりゃ、怖い。「すごく面白いアイデアを見つけたんだけど、書くのが難しいぞ」なんてことがあるから。でも、やっぱり怖くても、それは仕方ないような気がするな。小説はそういうもんじゃないのかなあ。とくに新人賞のコンテストとか。

これは単純に、確率の問題じゃないかと思う。
たとえばコンテストではなくて、これが大学受験とか、スポーツ大会とか、ミスコンとか、何でもいいから、ある応募があって、その中から何人か選ばれるとする。もし、大学受験なら、倍率は5倍とか10倍とか20倍とか、そんな数字があったとしても、100人の枠があれば、受かる人が100人、落ちる人が900人だとして、これは「間違えなかった人」が勝ちである。大学受験のテストなら、間違えないようにすればいい。ところが、小説の新人賞というのは、100人でも1000人でも応募があって、残るのは一人。最終選考に残るためには上位3〜5位に入らなければいけない。確率が10%以上あるのと、1%以下しかないのとでは、全然、とるべき戦略が違う。たった一人しか受からない競争の場合は、「ただ落ちないようにする」だけじゃ、たぶんダメなんである。タレントのオーディションでも、数千人の応募から一人を選ぶとか、そういう時は、きっと「かわいいだけなら山ほどいるが、その中で、キラリと光る人材を探している」とか言うだろう。

もしも、応募作のレベルをランクづけして、並べてみたとしたら、たぶん「正規分布」のではないかと思う。まあ、本当はどうかわからないけど。
うちの講座では、毎年小さな小説のコンテストをしていて、その「ショートショート」のコンテストでは、そんな感じである。基本的にABCの三段階の分類に+−を組み合わせて評価しているのだが、圧倒的に8割が「B」なのである。「C」というのは、誰が見ても悪い作品だから、「B」は、一応、小説の形になっているものから、まあまあ面白いものまで。それが、すべて「B」である。でも、「B」では賞はとれない。新人賞というのは、やっぱり賞をとらないと意味がない。とすれば、ほどほどで「B」をとってしまうよりは、「イチかバチか」の方がまだ可能性があるような気がする。

とくに、ここのコンテストの場合は、たった原稿用紙5枚以内なので、とくにそうなのかもしれない。たった一本を選ぶだけなので、「そこそこ上手い」「まあまあ面白い」というくらいなら、いっぱいありすぎてダメなのである。マアマアくらいでは、全然目立たない。というか、下読みをして気がついたのだが、大量に読むのは疲れるので、「まあまあ」くらいでは、あんまり嬉しくないのである。下読みは、本当に何本も読むので、似たようなアイデアで似たような話もいっぱい知っている。下読みなんぞをすると、イヤでも目が肥えてしまう。だから、そういう人たちを「これは面白いぞ!」と言わせるのには、「面白いアイデアだ!」とか「あっ、こういうやり方があったのか!」というような、やっぱり強い「何か」がないと難しい気がする。百本とか、数百本の中から、たった一本、選ぶわけだから、やっぱりそうなってしまう。

「イチかバチか」というのは、確かに怖いけれど、技術的にうまい人は世の中にいっぱいいる。でも、そのうまい人たちと戦わなくてはいけないんだったら、捨て身でも何でも、「イチかバチか」しか仕方ないじゃないか。それに、うまく書けるようになるのをのんびり待っていたら、ただ歳をとっていくだけだ。うまく書けないかもしれなくても、やっぱり面白いと思ったら、書きたいことを書いた方がいいんじゃないだろうか。失敗したっていい。コンテストなんか落ちても、また書き直せばいいんだし。どうせデビューもしていない新人である。失敗しても誰も気にしない。

だいたいエンターテインメント小説なんだから、面白がらせるためには手段も選ばなくていいはずである。何をやってもいい。でも「うまく書きたい」というのが、つまらなくなってしまうのは、たぶん作者が、読者よりも自分自身を可愛がっているからじゃないかな、と思うことがある。そういう人は、必要もないのに、知識をひけらかしたりしてしまう。「うまいでしょ。うまく書けているでしょ。ほめてほめて」というような作品だけは書かないように気をつけてほしい。(プロの作品でも、こういう作品は「うまいね」と言われても「あれはいいね」とは言われない)面白くてたまらない、人々の心に残るような作品。それを書きたいと思っていたら、自然とうまくなるだろうけど。

そう言えば、バラエティ番組を見ていると、たまにカラオケとかやっていて、それで知ったのだが、どうもプロの歌手は必ずしもカラオケで高得点にならないものらしい。でも確かに、カラオケで高得点を出しても、プロの歌手になれるとは限らない。アマチュアとプロの違いは何なのだろう。人の心に印象の残るには、何が必要なんだろう。

「もっと何かあるんじゃないか」……その「もっと何か」を一つ一つの作品に込めていけたらいいのになあ。


06/18/2005

ブタも飛んでいく我が家

6月17日(金)
午後から事務所。2時に二人来客があり、6時頃まで話し込む。映像関係者だけど、一緒に何かできれば面白いな。大阪の未来は明るいぞ。6時半まで事務。

そろそろ秋の生徒募集の準備にとりかかる。「ショートショート大賞」もそろそろ募集チラシを作らないと。あと、法人申請書類などの準備とか、色々やることが多いなあ。今月で、入居半年、ここの事務所の契約は3年だから、6分の1が過ぎたわけである。あれよあれよという間に半年。けっこう忙しかった気もするが、わたしゃ一体、何をやってたんだろうな(のんびりしすぎ?)

ところで、うちの息子は毎日アホをやらかしたり、わけのわからないことを言ったりしているが、それが我が家でさほど問題になっていない。あんまりアホなことばかりやらかすので、実母などは「母親のアンタがちゃんと注意しないからや」と言うのだが、あれは注意しても直りそうにない。まあ、開き直ってみれば、アホな少年を見るのはけっこう面白い。小学生になった途端、すっかりマセた娘たちはもはや友だち感覚なので、それはそれでいいが、面白みはない。来年には中学生なのだが、できればしばらく「賞味期限」が過ぎないで欲しいと思っているくらいである。まあ、友人たちに言わせれば、「男の子は、高校生までアホ」だそうなので、しばらく賞味期限が切れる心配はないみたいだが。

本人は、どうも「どんなにアホでも、パパよりマシ」だと考えているみたいである。まあ、私から見れば、どっちもどっち。この二人は、どっちもヘンなのだが、ズレ方が違うみたいである。しかもお互いマイペースなので、会話がいつもズレている。

たとえばこんな感じである。以前あったことだが、息子が「ママ、図鑑にコウモリが載ってへんねんけど」というので、「ああ、それなら『鳥』じゃなくて、『どうぶつ』の巻を探してみたら?」と言ったことがあった。「ああ、そうか。コウモリは鳥じゃなくて、ほ乳類やったな」と納得したらしいのだが、ふと父親が驚いて口をはさむ。「えっ、なんでや」

「だって、パパ、コウモリはほ乳類やねんで」「えっ、鳥やないんか?」(どうやらホンマに知らなかったらしい)「だって、ボク学校で習ったもん。コウモリはほ乳類やで」「でも、飛ぶで」「でもパパ、クジラかて、魚みたいに泳ぐけど、ほ乳類やで」「クジラはええねん。海やから」「でもパパ、ムササビもちょっと飛ぶで」「あれはええねん。木に住んでるやろ」「でも、ほら、コウモリって、よく見たら、ブタみたいな顔しているし」「でも、ブタは飛ばん」「でもパパ、ブタかて飛ぶかも知れへんやろ」「いや、ブタは飛ばん」「でも、もし飛んだら」「ブタは飛んだらあかん。でも、コウモリは飛んでもええねん」「でも、ブタかて飛んだってええやろ」「何がええねん。そんなん許さへん。あかんあかん、絶対あかん」

…と、ほっとくと、そのうち「ブタが飛んでもいいのか悪いのか」で喧嘩になるのは決まっているので、助け舟を出さないといけないのである。
「まあ、悪いけど、コウモリはほ乳類やと思うよ」「えっ、そうなん?(どうもホンマに知らなかったらしい)だまされた!(誰にだまされたのか不明)そんな、ひどい!(何がひどいのか不明)まったく今の教育は間違ってる(意味は不明)。コウモリはぜったい鳥や(根拠は不明)」。なぜかよく見ると少し涙ぐんでいる(何が悲しいのかも不明)

まあ、息子の「賞味期限」が切れる心配は、当分、なさそうである。

06/17/2005

踊る舞台の夢、作家の夢

6月16日(木)
本日は、事務所へは入らずに、終日、外出。

うちには、ダンス関係のビデオが数十本あるのだが、その中に「ローザンヌ国際コンクール」のビデオがいくつかある。これは、バレエに関心がある人なら知らぬ人はないという有名なコンクール。年1回行われる新人コンクールで、日本人も必ず何人か出場している。テレビでも毎年、放送されていて、今年は日本人の受賞が十数年ぶりに一人もなかったので、ちょっと低調だといわれバレエなんぞにはまったく興味がないという人でも、一度見れば、きっと面白いと思う。若い新人ダンサーの卵たちの真剣な演技。舞台の袖で出番を待つ表情や演技のあとの様子もすごくいい。だが、一番面白いのは、解説だ。

最初、このコンクールをテレビで見た時、私はけっこう驚いた。とにかく解説がスゴイ。同時通訳のせいかもしれないが、本当にズバッと言う。今は、通訳者が変わってしまっているみたいなので、ちょっと雰囲気が伝わらないかもしれないけど、漫才台本の大池ゼミの中にいたWさんが「私もバレエには全然関心はないけど、あれは毎年楽しみにしてるねん」と言って、同時通訳の物マネをしていたくらいなので、あの「解説」のファンもけっこういるみたいである。

たとえばこんな感じ。
「とても残念です。ホント今の演技は、まったくなっていませんね。まったくダメです。おそらく彼女は自分自身をまったくわかっていないのではないでしょうか。個性がまったく生かされていません……これでは踊りがまったくだいなしですね。何も伝わってきません。ぜんぜんダメです……」
(同時通訳調)。あまりにズバッと言い切るので、日本的な「無難な言いまわし」に慣れている私たちはかなりビビる。ズバッと的確である。でも、この解説を聞くと、このコンクールでは「きちんと踊る」だけではダメだということはよくわかる。これは、未来のプロ、それもスターになりそうな新人を選びだすコンクールだから、レベルはめちゃくちゃ高いから、むろん高い技術や表現力も重要だが、どちらかというと、ユニークな個性があるかどうか。完成度より、これから成長しそうな個性。これから才能が伸びそうな新人を選ぶものらしいのである。きっちり踊れるかではなく、自分の「個性」を理解して、踊りで発揮することができるか。そして、その「個性」で魅せることができるかどうかなのだ。むろん、そのためには高い技術と表現力が大事になるのだが。

それぞれのダンサーは、技術や表現力の特性もあるし、スタイルや顔など外見的な印象もある。見るからに繊細な上品な子もいれば、ジャンプ力があって、力強い感じの子もいる。王子様役をやるにも、いろんな王子様がいていいのである。重要なのは、個性。自分の個性に知って、それを生かした演技ができないといけないらしいのである。

このコンクールは、世界最高レベルの新人コンクールだ。まだ十代の若い新人たちの中から、トップレベルのダンサーとして成長していける人材を探すのが目的。だから、規定通りにきちんと踊れるのはあたりまえで、それ以上に大事なのは、自分らしい表現力、豊かな感性である。それが問われる世界なのだ。
人を感動させるには、自らの存在をかけて演技をする。そして、観客を感動させてお金を得る。もちろん技術は難しいが、観客は見ればわかる。感動させる。表現する。そのこと自体は、とってもシンプル。わかりやすい。

それは、小説も同じだ。
だから時々、「どうすればプロになれるんだろうか」ってことばかりを気にして、「どうすれば人を感動させることができるんだろうか」ってことを忘れているみたいな作品があると、少し残念になる。自分の個性を信じて、生かした作品を書いているんだろうかと、ちょっと不思議に思う。でも、どんな方法だっていい、人を感動させてくれる作品なら、たぶん喜んでお金を払う人はゼッタイにいる。小説には「こうすれば正解」という方法はどこにもないが、逆に、いろんな個性、やり方があっていい。技術は必要だけど、技術だけでは感動はしない。でも、いい作品はきっと書ける。もっともっと。そして、書いた作品は、他人を別世界に連れていく。

そのバレエコンクールの舞台を見るたびに、ふと考えてしまう。全身全霊をかけて踊るダンサーたちのいろんな個性。
なるほど、うまく踊れるからプロじゃなくて、プロは感動させるために踊るのだ。

06/16/2005

作品はもっと面白くなる

6月15日(水)
午後から、事務局。Nさんが来て、昨日チェックした短編の書き直しをもってくる。早い。
小説の内容を見ているわけではないので、誤字と不自然なところだけを直しているだけなのだが、昨日のよりは面白くなっている気がする。
夕方まで、同じクラスのHさんの作品を読む。Nさんの作品は、とにかく話はむちゃくちゃだが、面白い作品。ところが、このHさんの作品は何といっていいのか…。確かに、「うまい」のだが、「よくできている」のだが。どうしたもんだろうなあ。まあ、このレベルだと私の手には負えない。講師に相談するしかない。だが、日本語も文章も構成も、正直なかりむちゃくちゃなNさんの作品の方が、よほど面白く読めてしまう。

たとえば、絵だとわかりやすいのだが、「うまい絵」というのは、それでは価値がない。そりゃ、昔のように「写真」がない時代なら、肖像画家としては存在価値があったのかもしれないが。「うまい絵」が「いい絵」とは限らない。

これはピアニストでも、たぶん同じことで、譜面通りに弾けるだけでは、プロとはいえない。楽器の演奏をしたことがある人はわかるだろうけど、うまく弾くだけでは「演奏」ではない。たとえば、コンピュータで譜面を打ち込んで演奏させたことがあればわかるだろうけど、コンピュータならどんな演奏でもできるのだが、「いい演奏」ではない。人間が弾くとずれてしまう。でも、そこがいいのだ。だから、楽器の練習をするときは、まず譜面どおりに弾けるようになり、それから自分のものにアレンジしていく。

歌手でも、プロの歌い方というのは、どう考えても、譜面どおりではない。というか、プロの歌手はかなりへんな歌い方である。でも、それがあるからこそ、印象にも残るし、心を打つ。

小説で、何が読者を面白がらせるのか、私にはわからない。どうすればいいかもわからない。でも、自分が書きたいのが何か、ちゃんとわかっていれば、それはむちゃくちゃでも伝わるのではないかと思う。文章もコミュニケーションだから、こちらのエネルギーが大きければ、ちゃんと「共振」を起こす。もちろんへたでもいいとは言わないが、へたでも書きたい伝わることもある。

もしかすると、「うまいけど、つまらない」といわれるような作品を書いてしまう人がいるとすれば、それはその人自身が自分の作品の力を信じてないのかもしれない。たぶん作者が真面目な人だからこそ、おもいきったことが書けないんだろう。もしかすると「うまく見られたい」という自分を大事にしてしまい、他人を面白がらせようということに集中できないのかもしれない。

でも、「あと一息」なのだ。たぶん、自分らしさ、自分を出す、というのは、難しいことなのだけど、それは自分を信じることだ。あなたの作品は、もっともっと面白くなるはずだ。だから、決して「これ以上無理だ」なんて軽々と言わないことだ。そして、他人を受け止めてくれる人がきっといると信じるべきだと思う。

06/15/2005

ギンペン、かさな、えつんぴ

6月14日(火)
午後から事務局。Kさんは、たまっていた資料請求のデータ入力。第7期のNさんが来て、終了課題作品にアドバイス。若いけど、とても面白い発想をするので、がんばってほしいなあ。

帰宅後、夕食をとって、双子の娘たちの学校のプリント類を見る。算数テストなど、小学6年の息子のテストはそろそろ難しいが、小学2年の問題はまだまだ簡単である。その中に、国語の問題なのだろうか、クイズ形式のプリントがあり、文字を並び変えて、言葉をつくる問題があった。「らすか→〜からす」「ろんめ→〜めろん」「ンバンリタ→〜タンバリン」という具合である。えらく簡単な問題だ。娘も全部マルがついている。全問、正解である。

それを息子が横から見て、「あれっ、でも、ギンペンは、ギンペンでもええやんなあ。別に、ペンギンじゃなくても」と言う。まあ、確かに銀色のペンなら、確かに「銀ペン」である。ギンペンのままでも間違いとは言い切れないが。「それに、この『ちごい』って、『いちご』が正解になってるけど、『ちごい』って、ほんまにおらへんのかなあ」「えっ、ちごい? じゃ、鯉の一種?」「うん。それから、この『かさな』の答は『さかな』らしいけど、『かさな』ってのも、あるかもしれへんし」と言い出すのだった。

「えっ、かさな?」「うん。『かさな』ってのは、ボクたぶん植物やと思うねん」「うーん……植物かあ……じゃあ、もしかして「かさ菜」とかって字を書く?」「そう。ほら、たぶん花か葉っぱが、笠みたいな形してんねんで」とわざわざ絵に書いてくれた。
 うーん、そう言われてみれば、そんな気もするし。なぜか、言われてみれば、そんな植物はあっても不思議ではないような気もしてくる。で、そうやって見ると、なぜか急に、全部そんなものがありそうに見えてきた。
「じゃあ、じゃあ、この『ろんめ』は何?」「ボクは、馬の種類やと思うな」「まあ、駿馬とかあるしな」「ほんで、この『えつんぴ』は、ボクはゼッタイ魚やと思うよ」「え、『えつんぴ』が魚?」「うん。ほんで、たぶん『あーあ、また、えつんぴが釣れちゃったよ。今日はついてないなあ』とか言うねんで、きっと」「ふーん。じゃあ、『えつんぴ』って、あんまり、いい魚やなさそうやなあ」「たぶん、フグみたいに毒があるか、まずくて食べられへん」「ああ、そうなん?」「ほんで、この『しきたじ』は、たぶん料理の名前やな」「え、食べ物?」「うん。たぶん食べられるもんと思うわ」「じゃあ、『ましまう』は?」「これは、おやつ」「それって、マショマロやろ」「それに似てるけど、たぶん、まんじゅうみたいな和菓子やねん」「そ、そう言われてみれば、なんだかそんなお菓子があっても不思議じゃないなあ。じゃ、この『きそじう』は?」「これは地名」「あ、そ」

というわけで、「ンバンリタ」は、息子によると、どうやら「人名」らしいのだが、さて、これは一体、どこの国の人なんだろうな。


06/14/2005

小説とは関係のない休日(くつろぎのお風呂編)

6月13日(月)
日曜、月曜は、事務局は、お休みです。

事務局はお休みだけど、私は仕事。
夜、のんびりと風呂に入る。今日は、ちょっと熱め。ああ、いい気持ち。なにせ、先日は、入った気がせんかったからなあ。

先日は、息子に、風呂の用意をしてもらった。うちは給湯式なので、前日の残り水を捨てて、お湯を入れるのである。夜は、ちょっと目を離すと、遊び疲れている彼はすぐうたた寝をしてしまうので、「お湯入ったら、早く入っとき」と言ったら、風呂場で「ぎゃああ」と叫び声がする。
「なに? どうしたん?」「冷たい!」「ああ」「めっちゃ、冷たいっ!」「ああ、水、やったんか」「ボク、お湯のスイッチ入れるの、忘れとった!」「またかいな。アホやなあ。まあ、自業自得やから水は半分、洗濯機に移して、お湯を足せばいいよ。とりあえず寒いから、あがって、服来て待っとき」と言ったのだが、「ううん、ボク、中で待っとく」と言って、なぜかそのまま水につかろうとする。で、「ママ、めっちゃさぶい、めっちゃさぶい」と湯舟に座っている。「だから、お湯が入るまで、あがって待っとき、ってゆうてるやろ」「ママ、めっちゃさぶい!」「だから、待っときって!」「ええねん」「風邪ひくで」「ええねん。でも寒い」「あたりまえや」「くちびる寒い、手ぇ冷たい」「あたりまえやろ」「熱湯入れてるのに、めっちゃ寒い」「だから、まだ水や」「すごい寒いで。ほら、手がむらさき色なってきたわ」とブルブル震えながらも、全くあがろうとしない。

「全然、ぬくくなれへんっ。寒い、冷たい、寒い、ブルブルするぅうう」
「だから、あがって待ってろ、ってゆうてるやろ」
「ほらっ、手も凍ってるうう」
「風邪ひくで」
「寒い、ブルブルするうう」
「はいはい、もう好きにしとき。ほんま、風邪ひいてもしらんからな」

何を考えているのかわからないが、「水って、めっちゃ冷たい」とか「どれくらいお湯入れたら、ぬくくなるんかな」とか、なんかそういうことを体感したかったみたいである。案の定、翌日、鼻をぐずぐずいわせていた。

やっぱ、うちの息子は、アホである。

06/13/2005

野次馬一匹、飼ってます

6月12日(日)
日、月曜日は、事務局はお休みです。

昨日は雨だったけど、日曜日はお天気。
買い物など色々。図書館に寄り、息子が手伝って、妹たちのために予約を十冊も入れていた。大阪市の図書館は、オムリスという検索・予約システムがあり、図書館にあるタッチパネルなら、図書カードを差し込むだけでいいので、子供でもカンタンに予約ができるのだ。もっとも書籍データは、漢字なので、最初は手伝ってもらわないとちょっとわかりにくいけど。

私は地元の図書館では、用件を済ませたあと、10〜20分ほど必ず絵本コーナーか児童書のコーナーへ寄るようにしている。そこで「本日のベスト絵本」を選ぶのである。なんのことはない、適当に手当りしだい目についた本を手にとって、「これはおもしろい」という本が見つかったら、それで満足するのである。これには、とくに意味はない。どういうわけか、私は図書館では、あるコーナーに寄ったら、バランスをとるみたいに、その反対側とか、必ず他のコーナーに行く習慣があるのだった。

地元の図書館では8冊借りれるので、私は、いつも8冊借りている状態なのだが、1冊くらいは「もしかすると読まないかもしれないけど、なんか興味をもった本」を借りて帰ることが多い。例えば、適当に「今日は3番目の2段目」とか、適当に目がついた本を借りる。だから、昨日返した本の中にも「地下鉄の歴史」とか「ハーブ園芸」とか混じっている。

図書館の本は無料だから、金額に関係なく、おもしろくない本かもしれないと思ってもチャレンジできる。小説も、お金を出して買う場合は、金額の分だけ元がとれないとイヤだし、やっぱりハズレたくないんだけど、図書館の本なら少々ハズレても腹が立たない。だから、好奇心のおもむくままに、いろんな本を読むことができる。時々、いつもと気分を変えて、全然、興味がなかったジャンルの本にも手を出してみたりする。

私は、子供の頃から、「野次馬」を一匹ずっと飼っている。
この馬のおかげで、たまに面倒にまきこまれることもあるけど、この馬はたいていは私を楽しませてくれる。大学生の時も、社会人になってからも、この馬のおかげでけっこう助かっている。

そう言えば、大学の時、はじめて読んだ社会学の本は、P.L.バーガー『社会学への招待』だったが、それによると、社会学は人間を観察することが好きな者にとって、個人的な娯楽なのだそうだ。「社会学者とは、ゴシップに熱中してしまうに違いない人物であり、鍵穴をのぞき、他人の手紙を読み、引き出しを開けようと心をそそらせてしまう人物」だそうだ。実際、私のゼミの先生だったM先生は、まさにそういう先生だった。定年間際の年齢だったが、まるで子供のような好奇心で、学生よりも若々しいくらいだった。ある時、「昨夜、近くで火事が起こったみたいで…」という生徒に「君はサイレンが鳴ったのに、どうしてとんでいかないのか」とビックリした様子で、「そんな近くで火事があったらチャンスじゃないか」という。「だって、火事は色々なことがわかるチャンスだろう。もし夜に火事が起きたら、近所の人もいっぱい出て来る。みんな普段、寝ている時に、どんな姿で寝ているのか、他人の室内着がどんなのか、見れるチャンスじゃないか」と言い、自分の近所でないのがよほど残念なのか、心底くやしがっていた。そんな先生だったから、卒論を書くまでとても楽しかった。

社会人になっても、馬を飼っていると役に立つ。コピーライターというのは、次々と商品知識を身につけなくてはいけないので、元気な「野次馬」を一匹飼っているだけで、どんな仕事でもけっこう楽しくなるのだった。

だが、この馬も、時々エサをやる必要がある。好奇心を満足させるような「エサ」を与えないと、この馬は死んでしまうのである。
というわけで、私はこうして、たまに図書館でちょっと面白そうな本を借りたりしているのだった。

06/12/2005

プロ作家の目、読者の目

6月11日(土)
午前中から、事務所。夕方からは、第7期の講義がある。講師は、SF作家の堀晃先生。

本日は、めずらしく中学2年生の見学者が来る。そう言えば、私が、大阪シナリオ学校の演芸台本科にいた頃に、中学2年生の生徒がいたが、うちの小説講座は十代はめずらしい。「エンターテインメントノベル講座」とカタカナ名なので、「若い人ばかりですか」と聞かれることもあるのだが、実際、年齢はバラバラだ。やはり20代、30代が多いが、40代、50代、60代もいる。たぶん平均すると30代半ばくらいで、けっこう高い方だろう。

まあ、彼女は住所も考えると、やっぱり通学はほとんど無理ではないかと思うが、母親に連れられて見学していた。講義が始まるまで、ずっと「英検4級の問題集」を見ていたのがなんだかほほえましかった。そういや、日曜日に英検試験である。本日の講義は、後半の講義だし、かなりレベルの高い内容になってしまったので、どれくらい理解したか疑問だったけど。授業も30分くらい延長。教室の外で待っていたお母さん、ご苦労さまです。まあ、見学は1回は無料できますので、お気軽に申込んで下さいね。

今回の講義は、作品指導が中心。「逃げる」をテーマに各自が書いた2枚ほどの原稿(完結した作品ではなく、逃げているシーンだけ)を堀先生がゼミ形式で指導するもの。この方法だと「描写」に注目できるので、けっこう面白い。この講座は、1年目のクラスは、レクチャー講義がほとんどだし、専攻科になると作品指導ばかりだが、やっぱり構成とかアイデアの新鮮さとかを指導されることが多く、細かい描写を見てもらう機会は案外少ない。まあ、エンターテインメント系の小説だと、アイデアとか設定の目新しさの方が重要な場合が多いから仕方ないのだが、だから、堀先生の講義に出てくる作品は興味深い。今年は比較的おとなしい作品が多く、SF設定とか、妖怪とか、妙な設定が全然なくて、どれも日常的な感じだった。それでも、犬の一人称的な視点だったり、ミステリタッチだったり、ホラーっぽいものだったり色々な作品を提出していた。

ところで、うちの小説講座はプロ作家の講師が十数人いるので、作品指導では、提出された生徒作品を見て「たぶんこの作品ならこの先生だろう」と思う先生に出講依頼をして、スケジュールを調節する。世間では、こういう形式をとっている小説講座はどうも少ないらしいが、一人の講師に教わるのも個人の好みの違いや時間的な限界(プロ作家は、自分の原稿があるからけっこう忙しい)もあるので、いい方法ではないかと思っている。ただ、この方法だと事務担当が事前に読んで、「この作品を誰に指導してもらうか」を判断しないといけない。これがちょっと大変で、読む手間はいいとして、これがけっこう判断が難しいのである(さらに、スケジュール調整の問題もあるけど)

私は、基本的に講師の作品は、全部読むことにしている。もともと経費では買えなかったので、ほとんど個人的に購入して手元に置いている。絶版は、古本屋で探す。ただ、現役のプロ作家が十数人もいるとけっこう大変で、単行本だけで数百冊になってしまう。しかも毎月、誰かの本が出版されていく。だから、雑誌に掲載されている短編になるとほとんどお手上げである。私は、講師もプロ作家だから創作で忙しくて、年1回くらいしか出講できなくても仕方ないと思っている。講師はそれが仕事だ。こっちとしても「講師はヒット作、生徒はデビュー作」というのがいいのである。(講師は直木賞、生徒は新人賞という言い方もあるが)

だが講師のうち、眉村卓先生とかんべむさし先生の著書に関しては、実は、めちゃくちゃ多いうえに絶版が多いから、手元にないヤツも多い。図書館にあるものは読んではいるのだが、古本を手に入れるのは難しく、もっとマメに通えば見つかるかもしれないが、忙しいので、古本屋に行くのは週1回あればいい方である。「まあ、そのうち手に入るだろう」と運にまかせている。

講師の著書を読むのは、半分以上は個人的な趣味だが、仕事の部分もある。とくに作品指導のための講師を決定するのには、やっぱり著書を基準に決めるからである。ジャンルだけで決めるなら、読まなくても、ある程度、内容だけ分かればいい気もするのだが、どっちかというと、書かれた作品の内容やじジャンルというよりも、テクニックの部分で指導するわけだから、そっちの経験があった方がいいんじゃないかと思うわけである。小説には色んな書き方があって、例えば、黒崎緑先生の「しゃべくり探偵」シリーズなんかは、まったく地の文がなくて、会話文だけで構成されている作品があったりする。あるいはSFなどでは、人間自体がほとんど出てこない、出てきても一人、みたいな短編もだってある。よく小説の書き方の本などでは、「短編だと主要な登場人物は2〜3人」とか書かれているが、これは比較的よく使う書きやすい方法というだけで、作品によっては、必ずしもそうとは限らない。短編なのに何人も登場することもあるし、結局面白ければ、どう書こうとかまわないわけで、だから小説の書き方にも色んなテクニックがあるのである。一つ一つのテクニックには、実際やってみた人にしかわからない難しさやコツのようなものがあるはずだから、できればその経験がある講師に作品指導を頼んでみたいと思っている。こういうことを考えると、講師の著書は全部読んでおいた方がいいわけだ。

ところが、実際にどの講師に作品指導をお願いしようかと考えるとなると、別の要素も考えに入れないとダメである。ひとつには、講師と生徒の相性というか、性格的なもの。生徒の中には「細かく指導してほしい」という生徒とか「あまりキツイことを言われるとメゲてしまうので」という人とかいるし、講師もプロだから頼めば、相手が誰でもちゃんと作品指導はしてくれるのだが、いざ教室に入れば、やっぱり目の前に生身の人間がいるわけだから、「自分より年上の人には、ちょっと苦手」とか「異性にはあまりキツイ話は言えない」とかあるし、また指導のクセのようなものもある(細かく構成をチェックする人とか、アイデアのひねり方に時間を割く人とか)

そうして講師の作品指導をしているのだが、数年やってみて、気がついたのは、プロの作家さんというのは、「書かれている本」と「読んでいる本」が必ずしも同じではないということである。まあ、考えてみればあたりまえなのかもしれないけど、例えば仕事では「高級フランス料理」が専門のコックさんでも、「自分でお金を出して食べるのは『懐石料理』か『ラーメン』だね」みたいな人もけっこういる。こういう場合は、意外と「ラーメン」とかの方が詳しかったりする。あまり自分の扱っている商品とダイレクトに同じじゃない方が、指導にはうまく行く時がある気がする。もちろん高レベルになると別なのだが、とくに初心者の場合は、講師の専門ジャンル以外の方が、案外うまくいくような気がする。作家さんも、自分の専門ジャンルだと、そのジャンルへの「愛」があふれているので、ついつい高いレベルを要求してしまう。プロの一歩手前の人ならいいが、初心者のうちはまだ繊細なので、作品を批評されるよりはホメる量が多くないと、メゲたりしてダメである。

というわけで、今は「講師の著書」だけでなく、「講師の守備範囲(読書傾向)」にも関心をもつようにしている。けど、どの講師も書くのに忙しく、出講回数が年1回から、多い人でも5回くらいしかないので、直接聞くわけにいかないので、ちょっと難しい。まあ、講義の内容を聞くとか、エッセイで判断するとか難しいのだが、それでわかったのは、意外なことだと思うのだが、うちの講師で「守備範囲」が一番広いのは、あきらかに堀先生なのである。堀晃先生と言えば、ハードSFで有名だし、どちらかというとご自分で書かれている範囲は比較的限られたタイプの作家さんである。ちょっと意外な感じかもしれない。でも、「読み手」としては、かなり範囲で読まれており、それだけにどんなジャンルの作品指導も的確なのである。

たまに「プロの作家とアマチュアとどこか違うんだろう」と思う生徒さんがいる。まあ、それを考えるのは一人一人の問題だろうから、私はその答を知らないのだが、ただ、私から見るとプロの作家さんたちと生徒さんはかなり違って見える。どこが違うかというと、作品のレベルだけではなく、本の読み方が違うのである。まず、読書量がすごく違う。生徒でよく読んでいる方の人でも、プロ作家と比べたらやっぱりあまり読んでいない方である。読み方も深い。普通に読んでも、構成や展開、文章表現まで読めるからだろう。うちの講座は、エンターテインメント系なので、映画やマンガなんかの話もよくするのだが、プロ作家たちはたいてい粘着的というか、かなり凝る体質で(早い話がオタク)、細かい部分まで全部覚えている人が多い。

プロの「書き手」というのは、どうやら「読み方」がかなり違うらしい。もちろんプロの作家さんも、最初はアマチュアだったはずだけど、なんだかどこか読み方が違う。批評家とも違うし、編集者とも違う気がする。じゃあ、その目を持てたら、プロになるのだろうか。それは私にはちょいとわからんのだけど。

06/11/2005

ストーリーの文法、愛と誠のマジシャン

6月10日(金)
事務所にて、事務作業いろいろ。今週は、雑誌広告もないので、問い合わせもほとんどなし。
パソコンで、別のソフトで制作した書類のうち、そのまま使えないものをいくつかテキストにして移動。QuarkXpressのファイルはほとんどあきらめることにした。かなり膨大な量になるので、全部は無理。どっちみち99%は要らないしね。

帰宅後、双子の娘たちが「晩ごはんを作ってあげる!」というので、ありがたくおまかせして、自宅の仕事部屋で仕事。小2の娘たちは、まだたいしたことはできないが、朝の残りの洗い物やら、焼き魚とサラダを作ってくれる。魚のミソ焼きが用意してあったので、焼くだけだし、あとはサラダと納豆だけだが、息子も義母の家に泊まりに行っており、公演中の夫もいないので、娘たちが作る料理で充分。サラダは、赤と黄色の2色トマトとレタス、きゅうり。味つけは、マヨネーズと塩コショウ、かつおぶし、白ゴマでした。

ところで、小説講座の生徒さんは社会人ばかりだし、優秀な人も多いから、あまり気にしたことがなかったのだが、世の中には、映画を見たり、小説を読んでも、「ストーリー」が理解できない人がどうやらいるらしい。これに気がついたのは、専門学校で非常勤講師をするようになってからで、短い映画の感想を書いてもらったりすると「ずっこける」ようなレポートが出てくることがあったからである。もちろん映画には、解釈の違いというのはある。でも、「いや、そんなストーリーじゃないだろう」と思うようなレポートがあったり、一週間後に「どんなストーリーだったか」と聞かれても、全然、何も覚えてないという人がごくまれにいる。映画を見た記憶はあるのだが、ストーリーが思い出せない。何年も前に見たというのならわかるが、たった一週間でケロッと忘れる。いくら考えても思い出せないらしいのである。

最初のうち「寝ていて、見てないんだろうな」と思っていたのだが、どうも「ストーリーを忘れる」のではなく、最初からストーリーがちゃんとわかってないらしい……ということに気がついた。こういう人は、普通の人なら、ちゃんと読み取れるようなストーリーがどうやら理解できてないらしい。まあ、映画も好き好みがあるので、作品によっては、興味がもてないものもあるだろうが、だいたいどれもダメという人は、そういうことらしい。映画などは「あるシーン」だけとかは記憶しているらしいのだが、どうも「断片」として覚えているらしい。かろうじてメインストーリーくらいは覚えているが、前後関係がかなり微妙である。

エンターテインメント系の作品のストーリーって、いくら個性的なキャラクター、目新しい舞台、アイデアなどがあっても、メインの骨格だけは、けっこう単純な形をしていたりする。「物語の核」とか「物語の芯」のようなところは、かなり共通したものがあるのだ。純文学系の作品を好む人はそこがキライらしいのだが、エンターテインメントのストーリーというのは、とても便利なものだ。おそらく人間の欲求として、この「お話を聞く楽しみ」は、かなり原始的な欲求だと思う。たとえば原始時代から「怖い話」はあったろうと思うし(なにせ生きていくうえで有効だから)、有史以前から「伝説」とか「伝承」なんかもあったはずだ。そのせいか「ストーリー」を理解する能力は、かなり幼児の頃からあって、人間の能力としては「言語能力」と同時くらいに身についている。子供に絵本を読んだことがある人ならわかると思うが、子供は「おもしろい話」が本当に大好きである。もちろん「落ちつきのない子供」はいるけれど、ほとんどの子供が「おはなし」を好む。かなり小さい子、たとえ3〜4才であっても、お話をはじめるとシーンと熱中して聞く。まあ、まれに「うちの子はどんな絵本を読んでも興味を示さなくて」という母親がいるが、実際に子供に会ってみると、「ああ、絵本の選択ミスじゃないのかな」ということも多くて、(読んであげるのがおそろしくマズイ人もいるけど)「どうして子供って、こんなに『おはなし』が好きなのだろう」と不思議なくらいだ。

前にも話したと思うが、うちの子供たちが小さい頃、面白かったのは、テレビで「水戸黄門」などの「時代劇」をよく見ていたことである。私が働いているせいで、祖父母の家に預けられることが多かったせいもあるが、面白いことにたった2歳の子供でもおとなしく「時代劇」を一緒に見ている。「なんで、こんな小さい子が?」と思ったのだが、子供の視線で時代劇を見ると、これくらいわかりやすいドラマはないのだった。もちろん子供だから、細かい設定などはわからない。もちろん御隠居がどこの村を旅しているかはわからない。でも「悪いやつ」と「いいやつ」は一目で見分けがつく。時代劇はコスチュームプレイだし、子供はそれが大好きである。よく見ると、悪代官は「悪いやつ」らしく、目に青い化粧などしているし、悪巧みしているシーンでは「ドドーン」と背後にどんよりした効果音がなる。もちろん祖父は、細かい設定(お家騒動とか)や人情話の部分を見ているのだが、子供でも「助けて、おとっさん」と泣かされている娘を助けてくれるヒーローはちゃんと見分けがつく。まだ、満足に話もできない2歳の子供でも、やっぱり「暴れん坊将軍」や「水戸黄門」が現れると大喜び。ま、ウルトラマンとか、同じパターンだからなあ。

でも、これくらい原始的な能力だから、たぶん「言語能力」のように、ストーリーというのは「幼児期に『文法』が自然と身につく」のではないかと思う。どうやら物語は、いろいろな文法や単語でできた「文脈」だったりするから、かなり小さい頃に身につけるものらしい。だから、おはなしを次々思いつく人は、まるで「ネイティブスピーカー」みたいに「体が覚えている」んだろうと思う。だから、どうもストーリーをすぐに理解できないとか、どうしても思いつかないというのは、もしかすると「物語言語」(文法とか文脈とか)の習得が弱いのかもしれない。つまり、幼い頃に、映像を見たり、絵本などでかなりたくさん物語に接していた人は、ネイティブスピーカーみたいに自然と文法やボキャブラリーを自然と習得しており、物語言語能力が発達している。一方、子供の頃、あまり接していない人は、ストーリーの理解度が低い。まあ、一般の人なら、別にそれでもあまり不自由はないが、小説を書こうという人なら、ちょっと不自由だろう。

これを一言で言えば、「あまり作品を読んでいないから書けない」となるのかもしれない。確かに子供の頃、あるいは、せめて10代のうちに、ある程度はこの能力が身についていないと大変だと思う。が、たとえば英語でも、ネイティブではなくても、かなりペラペラに話す人はいくらでもいるわけで、努力次第という気もしている。ただ、やみくも大量に読むのもいいが、たまに「文法」に注目して、効率よく読むのもいいんじゃないかと思う。読んだあとに「パターン」を整理して、パターン認識するわけである。いつも生徒さんとかにも話すんだけど、絵本などは図書館に行けば、かなり大量に読めるので、パターン認識には、てっとり早い方法だ。ビジュアルセンスもつく(でも、これ実際にやってみる人はほとんどおらんが)。で、絵本のコーナーに行って、そこらにいる子供たちを集めて、読んであげるのも楽しい。紙芝居があればベスト。子供というのは、反応が正直なので、おはなしのどこで、ハラハラしたり、面白がったりするのか、わかりやすいからだ。落語や漫才も「笑い声」が起こるところで、ふと「なんでここで笑うんだろう」と考えてみたりすると、けっこう勉強になったりする。純文学系の話だと人間の心理とか苦悩とか葛藤とかを描くことが多いので、「だから純文学の方が高尚なものだ」と思うかもしれないが、エンターテインメント系のお話だと、びっくりしたり、悲しんだり、笑ったり、喜んだり。でも、喜怒哀楽は、原始的な人間の感情かもしれないが、生きていくためにはすごく重要なものだ。小説だと、ストーリーで「ウソ」をうまくついて、これをコントロールするわけだから、かなり高等な魔術なのである。どんな魔法使いも、テクニックを学ばなくてはならない。(ってことは、うちの小説講座も魔法学校…)

すごい作品を書く人はスゴイ技術がある。ただ、それよりも私は、いつももっとスゴイなと思っていることがある。それがけっこう駄作でも、しかも「ただのウソ」だとわかっていても、泣いたり笑ったり、まるでその世界に生きていたかのように感情移入できてしまう人間の能力。これって、かなりスゴイことなんじゃないか、って思うんだけどなあ。

06/10/2005

楽しい書き言葉、話し言葉

6月9日(木)
午後から事務所。昨日できなかった欠席者への書類発送。パソコンにソフトのインストール。ああ、これでやっと作業が進む。ついにiBookが使えなくなって、新しい方のMacにシステムを移動させないといけないのだが、OS9からOS Xというのは、非常にややこしいのだった。結局、システム上の問題があって、古いファイルが使えても、印刷はできないらしいことがわかり(OS X上で、OS9のファイルを見ようとすると「クラシック環境」というのになるのだが、これだとプリンタが動かせないのである)結局、ソフトをバージョンアップすればいいという結論に達したのだが、エクセルなんぞ、ずーっとバージョンアップしてまへんから、もう大変ですわ。

もともと私はライターだから、事務は苦手なんですな。エクセルなんぞ、簡単な表計算くらいしか使わないので、よく考えたら10年もバージョンアップしとらんのだった。ああ、もう別人です。もともと「よくできた天才少女」だったのが、ふと気がつくと「絶世の美人キャリアウーマン」になっていて、十年ぶりに再会したという感じでしょうか。もともと優秀だったけど、ますますエラなっとりますな。けど、これに慣れるのが大変だあ。

ところで、先日、「雑誌によって、使える言葉が違う」という話をしたのだが、これはプロのライターにとってはほとんど常識だから、あまり問題になったことがない。小説を書く人なら漢字の使い方にもこだわるかもしれないが、ライターなら雑誌によって使える言葉が違うことは、あまり気にならない。どうせ書き直せば済むことである。ライターは、芸術家というよりは、「文字職人」だから、たとえば文字数の指定が、「一行あたり15文字で、ちょうど10行です」と言われれば、これはすでにレイアウトが決められているから、もう行数が一行減っても増えても困るわけで、つまり150字以内で136文字以上で書かないといけないわけである。

とくに、写真点数が多いビジュアル中心の雑誌、あるいは、広告の仕事などをしていると、「レイアウト優先」という仕事がけっこうある。すでにデザインができあがっていて、そのデザイナーの指示にしたがって、ライターは文字をうめていく。たとえば、写真のキャプション(説明文)も「この写真は、16文字2行」とか、「こっちは16文字で4行」とか。まあ、こっちは、文章職人だから、文字数をあわせたりして、指定通りに書くくらい別に慣れれば誰でもできるのだが、取材で色々聞いた内容があって、色々書きたいことがあるのに、ほとんど書けないというのはツライ。たぶん、新聞記者でもライターでも、こんなジレンマは誰でもある。小説だと「じゃあ、短編じゃなくて、長編にしよう」なんてこともできるのだが、雑誌や新聞では書ききれないことがいっぱいある。というか、取材した中で、×ことはほんの一部なのである。

ところで、文章によって、「書き言葉」にも違いがいっぱいあるのだが、もっと違うのが「書き言葉」と「話し言葉」。こっちの方はものすごく違うのである。


ところで、うちの小説講座にも、色んな生徒さんが入学してくるのだが、「元マンガ家志望」とか「元シナリオライター志望」という人が入ってくることもかなり多い。もともとファンタジーとかミステリとか、ジャンルごとのファンだったりするから、媒体や表現方法が変わっても、興味対象は変わってなかったりするのだが、このシナリオやマンガと小説は「使う言葉」が全然違う。もちろん「視点」の問題とかが一番大きな問題だと思うのだが、たまに「言葉」の問題もある。マンガは絵があるし、シナリオは映像などがあるから、当然と言えば当然なのだが、シナリオと小説では、使える「言葉の幅」が違うのである。

ところで、現在、うちの講師でもある作家のかんべむさし先生が、平日の月〜金、ラジオ大阪で「朝はミラクル」という2時間の番組を担当されている。私は、この番組にほとんど毎朝、投稿をしているのだが、番組中にその投稿を読まれる時、ちょっと失敗したなあ、と思うことがよくあった。まあ、投稿の内容はたわいもない話だから、内容自体はいいのだが、カンタンな「書き間違い」がけっこうよくあるのである。言葉のつなぎ方とか、選び方が「書き言葉」的なのである。これは、ラジオで読まれてから気がつく。

私は、コピーライターといっても、テレビの仕事はほとんどやらないし、ラジオ広告も少ない方なので、ほとんど印刷媒体である。で、こういう仕事をしていると、やっぱり書き言葉の方に慣れている。だから、たまにラジオコピーを書く時でも、つい話し言葉で書くべき言葉を『書き言葉』で書いてしまうことがある。話し言葉と書き言葉は、かなり違う。小説を書いている人の中には、「そりゃ、違うだろうけど、会話文なんかは同じじゃないか」と思っている人もいるかもしれないが、たとえば、落語なども、「会話」だけでもちょっと変なのである。かんべ先生など関西のSF作家は、なぜか皆、落語が大好きで、そのせいか、書き言葉と話し言葉の違いは「もはや体がわかっている」みたいだけど、私なんかは慣れていないので、やはり意識しないと間違ってしまう。まあ、ラジオの投稿は、朝の忙しい時にほんの10分くらいで書くので、あいかわらず間違えてしまうが、ま、先生がうまく読んでくれるだろう(投稿は、仕事じゃないので無責任なものだ)。

ラジオの投稿が読まれた時、最初に「あ、しまった」と思ったのが、番組がはじまって3日目くらいの頃の原稿で、内容は「中学校の時の音楽の先生が、ピアノの伴奏つきで、『怪談』を語ってくれた」というものだった。かんべ先生の声は、落語が好きなだけに、まるで落語家みたいなところがあるから、余計、気がついたと思うのだけど、これは「怪談」がヘンなのである。書き言葉では、怪談でもいいのだが、実は、これは「怪談ばなし」というのが普通なのである。最初の頃だし、先生は、できるだけ原稿通りに読んでくれたのだろうが、いきなり「あっ、しまった」と思ったのだった。(先生は、すぐさま「おばけの話やね」とフォローしていた。すぐ気がついたのだと思う)

『怪談』は、もちろん「怪しい話」だろうから、「怪談ばなし」というと「怪しい話ばなし」になってしまうので、日本語の用法としては、たぶん間違いである。もちろん書き言葉だと重複になるから、まず使わないが、落語家さんは、「怪談ばなし」とわざと言う。これは、お客さんに耳でわかってもらうためには「カイダン」という音だけではちょっとピンと来ないので、わざと「怪談ばなし」というのである。カイダンというのは、日常的には「怪談」ではなく、普通は「階段」である。また、「会談」なんて言葉もある。こうした言葉でも、前後の関係があればわかるのだが、放送台本などでは、こうした間違いやすいような言葉、すぐにピンと来ないような言葉はなるべく使わない。だから、書き言葉ではありふれていても「台本」ではまず滅多に使わないという言葉がけっこうあるのである。ニュースが一番違いがわかると思うが、ナレーション文章などでは、ありふれた言葉でも使わない言葉がけっこうある。とくに音読みの熟語などは「同音異義語」がかなりあるので、放送では使わない言葉も多い。

書き言葉の場合なら、漢字を使うので、怪談と階段と戒壇を間違えることは滅多にない。ただ、話し言葉なら、まったく同じでも、書き言葉なら、「僕」と「ボク」と「ぼく」はちょっと違う。小説なら、そこにこだわる。「僕は君が好きだ」と「ボクは君がスキダ」だと同じ意味でも何だかちょっと違う。「僕は君が好きだ」だと気持ちがなぜか真剣みたいだけど、「ぼくはキミが好きだ」だとちょっぴりだけ軽く感じる。むろん「ボクは紀美が好きだ」「ぼくは黄味が好きだ」は、全然違う。

たぶん小説を書いている人なら、漢字にはこだわるだろう。「君」と「キミ」、「僕」と「ボク」。一人称なんかは、文中によく出てくる単語だから、「僕」か「ボク」かだけでも、けっこう印象がかわるのだ。が、これは同じ意味である。書いた文章で「黄身」と「紀美」を間違えることはない。でも、話し言葉なら「たまごの黄味」と言わないと間違えるかもしれないのである。間違えることがなくても、すぐにピンとこない。漫才番組などは、ヘタな新人だと、ごくまれに言葉の選び方を間違えていることがある。すぐにピンと来ないと笑ってもらえない。だから、小説と台本では、日本語の使い方が違うのである。まず「目で見て読む」か「耳で聞くか」…。
広告コピーでも、「句読点」をつけるかどうかで、すごく悩んだりするのは、ポスターや雑誌広告のキャッチコピーが「見る日本語」だからである。

どうも私は、書き言葉のクセがついているらしく、以前、漫才作家の大池先生に「漫才台本」を見てもらった時も、「話し言葉になってないところがあるなあ」とよく言われた。まあ、自分自身で何度か声に出して読んでみれば気がつくことなのだが、やっぱりクセが出る。ナレーション原稿とかも、つい同じクセが出てくる。とくに漫才なんかは、一見、だらだらとムダ話をしているように見えるかもしれないが、意外と「余計なこと」は一言も言わないようにしないといけないものだから、けっこうロコツに影響がしてしまう。

そんなわけで、私は、今でも「話し言葉」と「書き言葉」で混乱してしまう。雑誌の原稿と小説は、同じ文章でも全然違うのだが、同じ日本語でも、話し言葉と書き言葉は、もっともっと違う。もちろん普段どちらも日常でも使っているはずだから、頭ではわかっているつもりでも、「商売で書く」となると、これがなかなか難しい。ナレーション文章などは、かなり慣れもあるそうだから、たまにビデオを見たりして練習してみないとなあ。(これは、放送作家の先生に聞いた練習法なのだが、うまいナレーションの番組をビデオで録画して……映像だけで内容が予想つくような旅行番組やバラエティなどは聞かなくてもだいたいわかるので、都合がよろしいらしい……これに自分でナレーションを作ってみる練習をするそうである。ニュースなんかも、新聞を見ながら、音を消してナレーションをつけるのもいいかも)。

小説家志望の人も、一度でいいから、お笑い番組をビデオにとって、自分が笑った部分を「書き取り」をやってみると面白いことがわかるかもしれない。お客さんを笑わせるためには、その内容ではなく(もちろんそれも重要ではあるが)「どう話されるか」が大事だったりする。話される順番や言葉の選び方……。小説の文章にも、何か参考になるところがあるかもしれないよ。

06/09/2005

微熱の娘とサッカーの試合

6月8日(水)
朝、事務所へ向かう途中、電話あり。
朝から体調が悪かった娘(双子の妹)が発熱のため、担任の先生より連絡。やむなく引き返し、小学校へ。

最近の小学校は、全部の校門が施錠されているので、カメラつきインターフォンがある正門へまわる。参観日でもないのに、平日の授業中に学校へ入るのは久しぶり。娘を連れて帰宅。熱は、さほど高くなく、微熱で元気そうなのだが頭痛がひどいらしく、そのままパジャマに着替えてバタンと寝てしまった。寝ている最中に抜け出して仕事に行くこともできず、実家の母とも連絡がとれず。結局、なんとかスケジュールを調整し、あきらめて自宅で仕事をすることにする。どうやら夏風邪らしい。まあ、今日は、取材や打合せのアポはなかったからかまわないけど……大阪NPOプラザに提出する書類を届けて、パソコンのソフトをインストールしたかったんだが……。社会保険もない、金もない、何もないという仕事だが、おかげで、有給休暇の数を心配する必要はないな。(もともと有給なんてええもんがないわ〜)

小説講座の生徒作品を読み、クロスワードパズル制作の仕事のファイルデータ送信。書類整理。終わってから、カステラ、プリン、ジュースなどを買いに行き、煮込みうどんなどを作る。夕方、早めに夕食。今日は、北朝鮮戦のサッカーの試合がゴールデンタイムに放送される。考えた末、仕事もあるので、後半だけ見ることにする。たぶん、こんなことをいうと見ていた人はイヤがるだろうが、個人的には、この試合だけは北朝鮮が勝ってくれればいいんだが、と思っていた。そりゃ、もちろん予選は勝った方がいいけど、色んな意味で。冷戦時代にも、オリンピックが戦争の代理戦だったりして、「スポーツが政治の道具になっている」と言われたりしてたけど、いや、実際の戦争をせんですむんやったら、それくらいやってくれていい、という気がするんだけど。まあ、そんな余計なこと考えないで、サッカーは単純に応援できた方が楽しいんだろうがなあ。

というわけで、試合は、後半だけ見る。日頃は忙しいので、できるだけテレビは見ないようにしていて、まあ、当然サッカーの試合も見ないが、ワールドカップだけは滅多にないわけだから、解禁、まあまあ見ている。実は、私は中学生の時は、なぜかサッカーファンだったのである。でも、私の世代は「キャプテン翼」以前の世代だから、とくに私の中学は、ラグビー部が強くて、サッカー部なんかなかった。もちろんテレビでもサッカー中継なんて滅多にない時代である。なにせマイナーなスポーツだったので、Jリーグができた時は嬉しかった。3大会連続でW杯に出場なんて、中学生の頃の私が知ったら、うらやましがるかも。おーい、未来はこんなふうになってんだぞ。ほら、今は未来だぞ。あ、そうか。生きてさえいれば、誰でも未来が見えるのか。それだけでもSF好きなら、生きている甲斐はあるな(おいおい)

そう言えば、私は数年前、仕事で、宮本選手にインタビューをしたことがある。あれは、前のワールドカップの代表に決まる直前だった。あれから本当に色々あったせいだろうか、テレビで見ても、すっかり別人のように見える。いろんな経験を経たためだろうが、数年たてば、プレーも違うし、今はキャプテンで、試合後に話している様子を見てもぜんぜん違う。すっかり落ち着いていて、ずいぶん磨かれた雰囲気だ。不思議なくらいに変身するもんだなあ。

後半を見ていたら、早めに休んでいた娘たちが起きてきた。1点入っていたので、ほんの1分ほど席をはずして、お茶を入れてやったら、ギリギリの2点目が入る。娘たちは大喜び。運のいい娘たちである。まあ、サッカーの試合中継は始まったら、何があっても席をはずしてはいけないもんだわね。ちなみに、サッカー好きの息子の方は、7時半から倒れてしまっていた(彼は、夕食後はよくバタンと寝てしまうのだ)。うちは、何があっても深夜には子供にテレビを見せない主義なので、こういう時しかサッカー中継が見れないはずなのだが。

06/08/2005

開けば、それぞれの文章表記

6月7日(火)
午後、生徒募集がらみの打合せ。2時から、Kさんにお願いして、梅田から阪急「曽根」へ。翻訳者で、作家で、アニメのシナリオライターの堺三保さんと打合せ。7月2日の特別講義を了解してもらう。専攻科&第7期の合同講義になる予定。結局、2時間ほど話を聞くが、かなり面白い話がいっぱい。(実は、私はずっと笑いっぱなし。業界のウラ話はめちゃくちゃ面白い)皆さん、お楽しみにね。

自宅のパソコンの調子が悪く、あいかわらず、メール確認がやりにくい。
仕事のメールあり。年末年始の仕事だった広告の入金が決定。ああ、やっと終わったなあ……やっぱり、広告の仕事は、企画から入金まで長いなあ。私はコピーライターだけど、フリーランスになってから、いわゆるライターの仕事もやるんだが、出版の仕事は、雑誌が出版された翌月には入金されることも多い。(編集プロダクションの都合によっては、数カ月後ということも多いけど)。でも、広告の場合は、翌月ということは少なくて、早くて2ヵ月後、遅いと6ヵ月後とかが多いのである。私は、企画から入る場合がほとんどだし、そもそも制作期間が長いことが多いのだが、とにかく入金されるまでが長い。

ところで、雑誌の仕事は、使える漢字とか使える言葉など、文章表記の基準が、雑誌ごとに決められている。小説を書くひとなら、漢字とか文章にはこだわりがあるだろうし、それぞれの文体もあるだろう。が、雑誌のインタビュー文などは、ほとんど文体などのフォーマットも決められている場合が多い。だいたい字数も限られているし、女性誌なら、若い人向けなら「体言止め」とか多い文体にする場合が多いし、高齢者向けなら大きい文字で印刷されることが多く、文体も「ですます体」だったりする。情報誌などでは、とくに食品の表記が決められていることが多くて、野菜はカタカナ表記が標準だったり、「しょうゆ」は「醤油」だけど、「味噌」は「ミソ」だったり。「10メートル」なのか「10m」なのか「十メートル」なのか、という単位なども雑誌によって、それぞれ決められていて、たとえば、コンピューター系の専門雑誌ならば「コンピュータ」でも、新聞なら「コンピューター」と最後に「ー」がつく。また、こうした雑誌は、文章はヨコ書きになる。ヨコ書きの文体とタテ書きの文体はちょっと違う。また雑誌は、一行あたりの文字数によっても、読みやすい文体が変わる。

あとは、細かいことは「うちは『毎日新聞』準拠です」とか「岩波(辞典)を参考」とか、決められていることも多い。それぞれの新聞社によって、漢字表記とか、外来語の表記が決められていて、その表記の方法はまとめて書店でも売られているので、それに従ってくれという所も多い。ちょっと興味がある人は、手元にある雑誌を見て比べてみればわかる。特集記事やコーナー記事などは、ライターが変わっても、たいてい書き方は変わらない。そうでないと、読者が読みにくいからだ。むろん文体もだいたい同じである。ライターは「決められたフォーマットに合わせて書く」のである。

しかし、連載とかあれば別だが、雑誌ごとに細かい書き方が別々なので、フリーのライターはいちいち覚えられないことが多い。でも、普通は「デスク」とか「編集者」がチェックしてくれる。広告なら、なんでもアリの世界なので、そんな表記基準なんかなくて、コピーライターが自由に決められるが(クライアントも文章のチェックはしてくれない)出版なら雑誌側が決める。小説ならば、作家の意向をくんでくれるだろうけど、雑誌はライターがこう書きたいと言っても、その通りにならないことが多い。小説家なら、編集者は「先生」と読んでくれるだろうけど、ライターはよほど有名な人ではない限り、とくに「先生」じゃない。編集者の方がエライのである。ま、名もないフリーライターは、その身分はかなり低いが。

広告の仕事は、企画から参加できるし、やりがいはある。ただ、新製品キャンペーンなどは、総制作費などの金額も大きいし、「この新製品に、我が社の運命がかかってますから!」などというクライアントにつきあわないといけないので、コピーを書くことにはかなり責任を感じる。というわけで、いつもかなり頭が痛い。毎回、めちゃくちゃ難産みたいに苦しい思いをしている気がする。もちろん広告は「効き目」があればやりがいもあるし、楽しいんだけど、企画の段階から、アイデアを山のように何案も出したり、修正も何度もしているので、書くこと自体にはほとんど快感はない。

一方、雑誌の仕事は、たしかに文章表現や文体には不自由だが、重たい責任がない分だけ、気楽である。なにせ雑誌の仕事は、私が書いた原稿は全体から見れば、ほんの一部で、それだけで売上げを大きく決定するものではない。しかも、編集者がいて、いちいち文章をチェックしてくれる。これは嬉しい。そもそも私は、文字校正というのが苦手だ。広告の場合は、コピーライターは文章には最後まで責任を持つのが普通なので、誰も校正をしてくれないのである。クライアントは内容には文句をつけてくるが、文章のチェックはしないのだ。だから、私はコピーを作るのはかなり遅いが、雑誌のインタビュー記事などを書くのは早い。インタビューもかなり好きだし、長文の原稿はさらさら書ける。(なにしろ早書きシバチャンと呼ばれている)。それに、出版の仕事は広告に較べるとムダが少ない。雑誌の原稿もたまにボツになるるが、広告のプレゼン落ちに比べれば、まだ少ない。私にとって、広告の仕事はしんどい面があるが、収入的にはよく、出版の仕事は、かなり気楽だがあまり収入にはならない。それぞれの面白みがあって、どちらも好きだけど。
ま、どっちみち小説講座の運営では、ほとんど食えそうにないからなあ。

その点、小説は自由に書ける。うるさいクライアントもいないし、この情報を伝えなければいけないとか、こう書かねばならないという決まりもほとんどない。ただ、自由に書けるだけに「つまらない作品」が生まれることもある。だからこそ、いつも思わず、考えずにはいられない。小説なんて、自由に書いてもいいんだけど、それはつまらなくてもいい、ってことじゃない。そこんところにやっぱり責任がある。なにしろ、広告や雑誌に較べて、ずっと大量の文章を読ませるんだから。

けど、思うんだけど、ホント読み手にとって、面白くない小説って、一体どんな意味があるんだろうなあ。


06/07/2005

長編小説の書き方に光りあれ

6月6日(月)
日、月曜日は、事務所はお休みです。

午前中から外出。夕方、専門学校で非常勤講師。
昨日からパソコンの調子がまた悪い。iBookは、完全に電源が入らず、イカれている可能性がある。バックアップはあるが、2週間前のデータだ。G4も文字化けがひどい。しばらく使うとダメになる。新しく入れたOSが古いからだなあ。このブログも途中になる可能性があるけど、あしからず(笑)

さて、この前、飲み会で専攻科の生徒さんが「ホラーの長編を書き始めたら、ヘンな現象が周囲で起きるようになって、なんだが怖い」という話をした。今までになかった、妙な現象が起きるらしい。
私は、小説講座の運営をして7年半になるが、実は、この話を聞くのは始めてではない。生徒さんがホラーを書き始めると、日頃、なぜか霊感なんか全然ない人のだが(ホラー小説とか書く人って、怖がりだが、たいてい本人には霊感なんかはないし、幽霊も妖怪も自分ではほとんど信じていない人が多い。完全に信じている人が書くとうまく小説にならない)ヘンな現象が起こるらしい。不思議だが、よくあることらしく、この話を聞くのは、これで4〜5度目である。

これには、二通りの解釈があって、そういう話を書いているから、そういうモノが見える気がするような精神状態になっているという説、もう一つは、そういう話を書くと、本当に、そういうモノたちを呼び寄せてしまう、つまり、そういうモノたちが「どんな話になるのかな」と思って、わざわざ見に来るのだという説がある。

私自身は、小説は書かないし、霊とか怪異なるものがホントに存在するかどうかには、あまり関心がないので、どっちでも全然かまわないのだが、やはり書いている人はちょっと気になるものらしい。ただ、長編を何本も書いているようなプロの作家さんなんかは、「ああ、よくあるね。でも、書き終わったら、出て来なくなるから気にせんでいいよ」などという人もいる。実際、生徒さんたちも書き終わった途端、「あれ、そんなことも言いましたっけね」などと、なんか忘れているくらいの人が多いので、「まあ、途中で止めずに、最後まで書いたら」と言っておく。事実、そういうものらしい。

ところで、ホラーに限らず、長編小説なんぞを集中して書いているのは、ある意味で、連日「修行」をしているようなものだから、何かしら、日頃起こらない現象が起きたり、見えなかったものが急に見えたり、出会いたいと思った人とすごい偶然で出会えたり、そんなことが起きるものらしい。プロの作家さんたちは、みんな、毎度のことらしく、すっかり慣れているからあまり気にしないみたいである。どうやら、作家さんには、そういうことは不思議でも何でもなく、「そんなもんだ」と考えているようである。

思うに、たぶん何かに強く集中している状態を続けて、その間に、日常の作業(ちょっと道を歩いたり)をすると、急に意識が広く解放されるから、いつもとは焦点のコントロールがちょっと違うんだろうと思う。人は、普段なら風景を見る時、自分の関心のある所だけに焦点を当てて見て、あとは目に入らないものである。目には見えていても、頭の中で情報処理のデータとしては処理されない。そうでないと、どんな風景も光の洪水にしか見えないからである。で、無意識にコントロールして、ちょうどいいくらいに窓を開けたり閉めたりして、自分に必要なデータだけを取り入れているらしいのだが、あまり集中して長編を書いたりしていると、どうもそのコントロールが通常の状態ではないレベルになってしまうみたいである。ちょっとした異常な状態というか、修行僧というか、一種の神憑かり、あるいは超能力、ニュータイプ……何でもいいが、たぶん一時的にそういうスイッチでも入るんだろう。

だから、もし初めての長編を書いていて、何かしら不思議なことがあったり、見えてたりとしても、あまり驚くことではないかもしれない。そして、その自分が見えたものが、見えなかった「真実」が見えただけなのか、それともただの「気のせい」だったか、は、書き終わった後の自分自身が判断することなので、書いている間は気にしなくてもいいんじゃないかと思う。

ただ、それを途中で止めるのはよくない(それだけ集中している間は、たいてい途中で書くのを止めようとしても、たぶん止まらないだろうけど)。たぶん、最後まで書いた方がいい。それについては、まずは作品を書き終わってから考えればいい。
でも、ま、たいていが「そんなこともあったっけ」ってケロっとして言うんだけどねえ。

06/06/2005

小説と関係のない休日(町内会の大運動会)

6月5日(日)
日、月曜は、事務所はお休みです。

朝8時に近くの中学校に集合して、今日は、町内会(町会連合)の「大運動会」
この地区は、ずっと運動会というのがなかったので、たぶん二十年ぶりか、三十年ぶりか。だから、私も参加するのは初めて。今回、全体の参加者が少なく、とくに小学生が少なくて競技が成立しない競技もあったとか。

うちも、最初のうちは、参加しないことにしていたのだが「子供たちだけでもぜひ参加してほしい」と言われたのである。町団ごとの対抗なのだが、うちだけはなぜか高齢者ばっかり。他の町団は、大きなマンションだったりして、若い家族が多いのだが、ここの町団は、20〜30年前に建てられた建売り住宅が多いために高齢者が多いらしい。しかし、住民のほとんどが参加していない運動会なのに、およそ千数百人。なかなか、すごい人数である。ここの町団だけでも数十世帯あるし、全部で16町団ある。1キロ平方あるかないかの広さに、この地区だけで一万人ほどが暮らしているそうだ。ここらは、十階建て以上の高層住宅が何棟もあるからなあ。ちなみに、鶴見区全体では10万人ほど。さらに今でもマンションがあちこち造られているし、この区は、大阪市内で最も人口増加が進んでいる地域なのである。

しかし、確かに、こうした行事をしておくのは「災害訓練」になりそうな気もする。というか、いざという時のためにはすごく重要なんじゃないだろうか。参加したのは全体の2割もいないだろうけど、こうして、なんとなく顔も覚えるわけだし、こうして地区ごとの実行委員が連携をするから、いざという時には役立ちそうである。とくに地震災害は広い範囲で起こるものだから、地区連携が重要だろう。これから先、この日本列島に住んでいる限り、どこでも地震災害の可能性はあるわけだし、都会の一人暮らしの人などは、周囲に親戚も何も住んでいないわけだから、いざという時、頼りになるのは、実は、町内会だったりするわけである。震災の時も、一人暮らしの友人の中にはこのコミュニケーション不足でひどく苦労した人もいたから、そこは教訓とすべきだな。小説講座の生徒さんたちも、一人暮らしの社会人が多いが、いくら面倒でも、町内会のお祭りや運動会にはなるべく参加すべし。せめて顔だけでも出しておくべし。とくに、近くに親しい親戚や友人がいない人は、「これは防災訓練だ」と思って、時間をつくって参加しておくべきなのである。人生、何が起こるかわからぬ。一人暮らしならば若くても、高齢でも、地震、水害、台風、盗難……災害にあう確率はまあ同じである。ヨメさんや母親まかせにしている人もいるだろうが、彼女たちが倒れた家屋の下敷きになってしまったら、どうすんの。

一人暮らしとか、高齢者だけの世帯も多いが、日頃、けっこう時間がある高齢者はもともとつながりがある。ご近所の情報は、たいていこの「ばあちゃんネットワーク」で流れている。うちは、娘たちが双子のおかげで、けっこう顔は知られている。こういう時には、何か目立つ「双子」は便利である。もっとも近所を一緒に歩くと、全然知らないオバサンとかが「まあ、大きくなったわね」とか話しかけて来るので、「はあ(誰だっけ)」とアセってしまうことも多い。中学生と高校生はほとんど参加なし。

しかし、私も日頃、それほど近所づきあいに熱心な方ではないので、よく知らない人が多い。でも、なんとなく顔を見たような気がする人ではあるので、同じテントに入って、町団対抗の競技を色々。双子の娘たちは、パン食い競争にスプーンレース、玉入れ、息子は障害物競争など。シルバーの多い町団だが、それなりに元気な人ばかりである。しかし、初めての運動会というのは、きっと運営も大変だろうなあ。なにせ学校の運動会と違って、予行演習なんかもないわけだし。

でも、かなり面白かった。太陽も暑すぎず、ちょうどいい天気。昼は、町内ごとに弁当をもらった。こうした町内会の運動会は、人間観察にもいい。かなり絶景。はりきってアメ食い競争をする若いママたち。なぜかガクトみたいなサングラスかけてカッコつけてるジイサン(アタマは白髪)、なぜか周囲に実況中継、競技解説をしてるオジサンとか、応援するオバサンたちのかけ声もなかなかソゴイ。(さすがベタベタの大阪のオバチャンたち!)子供たちの借り物競争には、「誰か、ボールペン持ってへんのかっ!?」「今度は、ピンクの口紅やでっ!」「今度は、ドコモのケータイやっ!」といちいち大人たちが大騒ぎしてるのが笑える。

まるで、いつか読んだ「サザエさん」のマンガのようだ。
玉入れも、綱引きも、いざ始まると、ダンゼン本気なのがホントに可笑しい。リレーでも、お父さん連中がころびながら走っている。こうしてみると、知らない人ばかりだが、近所にもホントおもしろい人物がけっこういる。

06/05/2005

そうさ、花ずきんちゃんも笑ってる

6月4日(土)
午後から事務局。夕方は、天満橋の教室にて、第7期の講義。本日は、教室実習&創作個人面談。
しばらくお休みされていたOさんが久しぶりに講義に参加。どうもUさんがわざわざ職場まで誘いに行ったらしい。このクラスは、50才代はこの二人だけなのだが(あとは20〜30代多し)Uさんは、田中哲弥先生と沖縄料理ツアーも行ったそうで、後期課題作品もすでに提出済み。パワー全開だなあ。個人面談は、意外と時間がかかってしまって、8時過ぎに終了。あとは、のんびりと中華料理店。

面談は、後期課題についてだけど、何人かには創作の悩みなども聞く。けど、これは私が解決してあげることはできない内容ばかり。多くの人は、自分で何とかするしかないレベルの悩みだから、しょうがない。

うちの小説講座は、一応、プロ養成というカリキュラムなのだが、実際、どのくらいプロ志望なのかどうかはまちまちだ。まあ、プロ志望の方が悩みは深刻な場合が多いけど、小説を書く人はいろいろだ。プロ志望じゃなくても、色々悩みはあるのである。皆、けっこう「小説を書くのはただの趣味だ」とどこか言い切れないところがある。たぶん、そこらが手芸とか、卓球とか、水泳とか、他の趣味とは何か違うところなのかもしれない。

夜、帰宅すると、妙な郵便物を見つける。数日前に届いた娘あての封筒だが、「国際花と緑の博覧会記念協会」からである。中身は「花ずきんちゃん」のマウスパッドとストラップ。以前、鶴見緑地で「はならんまん」というイベントで、「花の万博クイズ」をやっていた。10問、問題を解くと、参加賞で花の種がもらえるので、家族みんなで挑戦したのだった。そう言えば、高得点の中から抽選でオリジナルグッズが送ってくると書いてあったが、けっこう難しかったのである。私はそれなりに真面目に考えたが、漢字が読めない娘たちは問題すら読めず、適当に数字を書いていた(三択)。なのに、なぜ娘だけが高得点なんだろう。なんか納得できないが、とにかく適当に書いた答えが当たったらしいのである。

ほら、「やってみなくては当たらない」というか、「無理だと思っていても、やってみたら当たるかも」というのは本当だぞ。やっぱ、こんなふうに、何かいいことがあるかもしれないから、何でも応募というのはしてみるものだぞ。こうして「まぐれ」というのもあるものだ。というわけで、皆さん、やっぱ、新人賞の公募もしてみるのもいいかもよ。

06/03/2005

ラーメンが降ってくる街角

6月3日(金)
あれこれ、事務作業。某作家さんに電話し、打合せのアポ。まだ講師依頼中なので、誰かは内緒。来週お会いする予定。ご出講のご承知いただければ、今期の追加講義も検討するよ。

今日は、息子が修学旅行から帰宅。伊勢志摩パルケエスパーニャ。おみやげは赤福もち。冷蔵庫で冷やして食べるとうまいよね。兄が帰宅して、双子の妹たちは大喜び。日頃ケンカばかりのくせに、「電車の窓から落ちるかも」とか「クジラに食べられるかも」とか、少し変な心配をしてたらしい。
最近、子供たちには不安がいっぱいである。連日、学校からプリントなどをいっぱい持って帰る。「アレに気をつけろ、コレに気をつけろ」と連日、注意されるらしい。「でも、いっぱいありすぎて、全然わからんねん」というくらいである。

変質者、誘拐、不審なセールス、刃物男……。ホント、子供って、けっこう大変である。最近は、ありがたいことにすぐに情報公開されるようになったらしく、そのせいか、近所で「いきなり男に殴られた」だの、毎月のように色んなプリントをもらって帰る。私自身も、子供の頃、変質者に触られたり、連れ込まれそうになったり、そういう目には何度もあっている。かなり小さな頃から、公園で知らないオジサンに抱きつかれてパンツに手をいれられたり、キスされたりした記憶はあったので、確かに、小さな女の子は一人歩きをするのは考えものだと思う。(私は、一人の行動が多かったので、被害率が高かった)。うちの娘たちは双子なので、いつも二人一緒なのだが、その点ちょっとだけましかもしれない。

テレビでは、「最近、世の中、おかしくなっているんじゃないか」とコメントしたりしているけど、たぶん最近増えたのではなく、昔から変質者はかなりいるはずである。子供を殺したり、さらったりするほどではない変質者なら、もっとたくさんいる。ただ抱きつかれたりするだけなら、記事になってないだけである。

しかし、確率的に一番危険なものといえば、間違いなく「自動車事故」だろう。死者の数から考えれば、自動車ほど危険なものはない。列車事故は衝撃的だけど、確率から言うと、車の方が圧倒的に危険だ。しかも、どっちみち、飛行機事故とか、列車事故は、こっちは気をつけようがないわけだし。で、日頃ぼんやりしているボンクラ息子には「車に気をつけなあかんで」ととくに注意しておく。
「え、何を?」「だから自動車」「ああ、自動車」「ぼやぼや歩いていると危ないねんで」「せやなあ。ラーメンとか、危ないもんな」「は、ラーメン?」

おいおい、また変なことを言い出したな、と思っていたら、どうやら、これはホントにあったことらしい。友だちと近所を歩いていたら、いきなりラーメンが上から落ちて来て「もうちょっとで、ぶつかるところやった。危なかったでえ」……だそうである。マンションの横を歩いていたら、上からお湯の入ったカップラーメンがまるごと落ちて来たらしい。
「フタが半分開いてて、しかも、ハシつきやで。急にバッシャーンってゆうて、ラーメンやで。めっちゃビックリしたわ。ほんまボヤボヤ歩いとったら、危ないで。なあ」

……そりゃ熱湯だし、当たってたら、危ないだろうなあ。しかし、ベランダかどこかで、3分間を待っているうちに落ちたのかなあ。割り箸まで用意していたのに……ちょっと可哀相な気もするけど、ベランダでカップラーメン食べるなら、3分待つ間も手を離さんでもらいたい。注意一秒、ケガ一生。3分間、じっと待つべし。

語る小説、知らせる新聞

6月2日(木)
体調悪く、仕事をお休みして自宅療養。というか、自宅で仕事。
書類がたまっているのが気になる。が、自宅にいた方が往復の通勤時間(往復2時間)の分だけ、まだはかどる。結局、頭痛がひどくて、半日ぼんやり。なんだか花粉症みたいなんだけどなあ。
今、たまっているのは、集中して頭を使わなければならない仕事ばかりなので、まったく作業がはかどらない。このブログの文章なら頭を使うような内容じゃないのでいくらでも書けるんだけど、やっぱり事業計画とか、集中できないと無理だ。困った。

頭が働かないので、久しぶりにゆっくりと新聞を読んでみた。私の周囲にも「どうせテレビ欄しか読まないから、とってない」という家が増えているが、うちでは新聞がないと朝が迎えられない。小学生の子供たちでさえ、「小学生新聞」を取り合って読んでいる。まあ、これはマンガ『落第忍者 乱太郎』だけど。夫はテレビをほとんど見ないので、すべての情報を新聞とインターネットに依存している。だから、朝は新聞を手放さない。だが最近、小学6年の息子が興味のある事件が起きると新聞を読みたがるので(しかも記事を切り取る)、毎朝、あっちやこっちで新聞の取り合いをしている。
だから、新聞をとらない家があると聞くと、ちょっとうらやましい。そんな家なら、私も毎朝ゆっくり読めるだろうなあ。

ま、今はテレビもネットもあるので、新聞は必ずしも必要じゃない時代なのだろう。でも、これからモノを書きたいという人なら、新聞を毎日読んでおいた方がいい気がする。すでにモノ書きになったプロの人や専攻科の生徒さんたちなどは、今さらこんな訓練をする必要はないだろうが、これから文字を書こうと思う初心者の人にはオススメである。

たまに「どうすれば文章がうまくなりますか」という相談をされるのだが、書きたい文章によって「うまい文章」はまったく違う。だから、どんな文章を書きたいのか、自分でわかっていないとアドバイスにも困る。「文章がうまくなりたい」といっても、その目的は色々である。以前、自治体の主婦向けの講座の講師をした時、百人くらいの受講者がいたのだが、通信制大学のリポートをうまく書きたいという人、お友達に出す手紙やお礼状がうまく書きたいという人、小説を書きたい人、コピーライターになりたい人、インターネットで通販ネットをしているので商品紹介をうまく書きたい人……という、むちゃくちゃ幅広い層が集まってきていた。これは、1時間の単発の講座だから、ほんの初歩の話だけしかできないので、別にかまわなかったのだが、もしこういう人たちの文章を何時間も指導してくれと言われても困るだろうなあ。手紙、小説、論文、雑誌、新聞…。全部、求められるものが違うのである。

うちの小説講座にも、プロのライターの人が入学して来ることもあるが、小説の文章とライターの書く文章、新聞記者の書く文章はかなり違う。もちろんライターの人は、多少、文章を書くことのは慣れているので、小説を書くことにも抵抗感もないし、文章の間違いも少ない。でも、全く書いたことがない人でも、実は、短編を数編も書けばだいたい追いついてしまう。どうもプロのライターの書く文章と小説にはあんまり関係はないらしいのである。
あと「ネットや雑誌で、ショートショートなどをよく発表している」というアマチュア作家もいるが、書き慣れている点では同じなので、小説講座の中でも、最初の頃は有利である。まあ、原稿用紙に抵抗がないとか、ワープロ慣れしてるとか、小説も文章なので、「読み慣れている」とか「書き慣れている」のがダンゼン有利なのである。ほとんど本を読んだことがないとか、書いたことがない、という人は、活字に慣れていないので、慣れるまでが難しい。

でも、ほとんど「慣れ」だけの問題だから、小説講座の生徒なら、1年もしないうちに追いついてしまう場合がほとんどである。けど、そうなると、むしろプロのライターの人の方が上達は遅いようである。なぜか知らないけど、どうしても短文のくせが出てくるらしい。それで、イライラしはじめる。たぶん100メートルのベテラン短距離選手が、今度はマラソンに挑戦するみたいなものなのかもしれないな、と私は思っている。ライターから見れば、10枚程度がせいぜいなので、とくに長編は書いても書いても、なかなか最後までいかない。それに、短距離のクセが出て走りにくいんだろう。たぶん息切れしたり、ペース配分がわからなくなったりするのだろうと思う。以前、フリーライターとプロ作家は、同じ自動車を運転する職業といっても、バイク便と長距離トラックくらい違う……なんて話をしたような気がするが、そんな感じである。いや、大学病院の優秀な脳外科医が、離島の医者になったようなものかな。まあ、いくら優秀でもその技術が使えないことが多いだけで、どっちみち慣れれば済む問題だろう。むろんどっちもすぐにうまくできる人もいるけどね。

あと、これは個人的な問題なのかもしれないが、フリーライターの人は「そろそろ小説でも書かなければ」という感じで、本当に「小説が好き」で書いているのかちょっとわからない人もいる。確かに、それほど好きじゃなくても書ける人もまれにいるので、これも、あまり心配することでもないかもしれないが、SFやらミステリやらファンタジーやらホラー、時代小説などは、読者もかなりマニアな人が多いので、テクニックだけ磨いてもやっぱり限界があって、いつか無理が来る。でも、書いているうちに面白くて好きになると思うから、やっぱりイヤにならずに、気長に書いて欲しいんだけどね。

さて、小説講座や文章講座なんぞに通わなくても、小説の書き方なら、本屋にいけば山ほど売っている。私は、講座で重要なのは、そこには書いていない部分だと思っているので、文章読本を読めば済む内容なら「講座を聴く前に、買って読んでおいてほしい」と言っている。ところで、本屋に行って、いわゆる「文章読本」、文章の書き方の本を読む場合は、必ず書き手がどの立場の人か、確認してから読むべきだと思う。本当に初心者の人は間違いやすいのだが、「文章読本」の類は、必ず著者のプロフィールを確認すべきだ。「小説家」「新聞記者」「文学者」…。私は、職業柄か、文章読本の類が好きで、百冊近く持っているけど、立場によって、言うことが全然違うのである。私のように「どんな本でも読み物として楽しむからいいや」と言うなら別だけど、もしそれを読んで上達したいというなら、一応、どういう立場のどんな人が書いているのか確認しておいた方がいい。でないと、文章読本などを読んだばっかりに、逆に「迷う」ことになるかもしれない。

もし火事があった時、私たちが目にするのは、燃え上がる火だったり、黒い大きな煙だったり、パチパチ、ごうごうという音だったり、鼻をつく異様な匂いだったり、あるいは泣き叫ぶ家族の姿だったりするわけである。ところが、新聞記事なら、「いつ、どこで、誰が、なぜ、どのように」が重要となるわけで、そうなると、「何月何日、何時何分、何市何々町の木造(あるいは鉄骨)2階建て。半焼(あるいは全焼)、焼け跡からこの住宅に住む女性と見られる(身元の確認できたかできないのか)遺体が発見され、出火原因はアレコレ…」と書かれている。

客観的に書かなければいけない新聞記事と「私」がいるエッセイ、「視点人物」がいる小説などは全然、書き方が違う。ライターだと、雑誌によってもターゲットが違うので、どうしても文体が違う。しかし、まずは、そこがわからないと困った事になる。

しかし、毎日、文字に触れている方が上達が早い。だから、新聞を読むだけでも読む訓練になる。それにテレビの情報と新聞の情報は全然違う。テレビで知ったニュースと新聞で読んでいたニュースでは、受けとり方が違う。テレビは、やはりニュースでも感情的に受け止められる。画像だし、こちらの考える時間を与えずに次々に紹介するからである。テレビは1分刻みの視聴率があったりして、表現の方法が工夫されているから、考える余裕がない。

今はネットもあるし、情報だけなら、必ずしも読まなければいけないということはないが、新聞は「三面記事」やら「生活」やら「経済」やら「政治」やら、ごちゃまぜの情報がまんべんなく混じっているのがいいのである。新聞は、中学生くらいなら読めるようになっている。ごくたまに、学歴がちょっとあるからといって、一般の人のレベルをついバカにしてしまう人がいる。小説を書く人の中にも「これくらいでいいだろう」と読む人のレベルをつい甘くみる人がまれにいる。でも、新聞を読んでいるくらいだと考えれば、けっこうバカにはできないはずである。というか、読み手はたとえ子供でも、けっこうバカにならないものである。ボキャブラリーがわからなかったり、理屈が理解できなかったりするけど、映画や漫画、小説のストーリーを理解するのはかなり小さな子でも得意だったりする。だから、たとえ小学生でも、かなり政治や経済の知識があったり、矛盾にはけっこう気がついたりする。ファンタジーだから、適当でいいだろうと思ってたら、貨幣価値とか政治体制とかがむちゃくちゃだったりして、案外、つまらないところで「これ、なんかヘン」と子供にバカにされてしまうことだってある。これは恥ずかしい。小説を書く人の中には、「リアルな話が書けないけど、ファンタジーとか奇想天外な話なら、リアリティが要らないからカンタン」と思う人もいるみたいだけど、ある奇想天外なことを入れると、余計バレないように精巧に作る必要がいったりして、けっこう大変なのである。ギャグも、常識を知らないと書けない。漫才作家さんたちも、どうやってネタを作るのかと聞くと「毎日、新聞を読む」という人がほとんどだ。(漫才は時事ネタもいるし)

新聞がいいのは、テレビと違って、読みながら考える時間があることだ。小さな火事の記事を読みながら、その状況を想像する余地がある。小説を書くのに必要なのは、文章力だけではなくて、推理力というか、空想力というか、妄想力というか、なんかそういうものだったりするから。世の中には、自分とは違う世界があって、色んな人たちがいる。それだけわかるだけでも、新聞は読む価値がある。

ところで、疑問なのだが、どういうわけか、実際の新聞記者さんの中には(とくに年配の人の中には)、まれに他人に対する想像力とか、思いやりに欠けるような人がいるのはなぜだろう。広告の仕事をしていると、たまに「社史」とか作ることがあるのだが、そこで「元新聞記者」のライターに会ったりすると(「社史」を作るためには、だいたいは高齢の会社役員のインタビューがつきものなので、これには年配の元新聞記者のライターが好まれるのである)、なぜか共通した雰囲気がある。何と言うか「自分だけが何もかも知っている」とか「自分の言うことが常識」みたいな、まあ、ちょっと人の上に立ってモノを見るような、何だかちょっとエラそうな人がいるのだ。ここの事務所の近くのブースにも、(ひょっとすると悪口になるかもしれないから、詳しいことは言えないが……別に、悪気はないんだけど)、どうやら元新聞記者らしい人がいて、最初、会った瞬間に、どことなくエラそうな感じがして「まさか元新聞記者じゃないだろうな」と思ったら、どうやらそうらしいのだった。

そう言えば、JR西日本の記者会見で、エラそうな発言をしていた新聞記者がいたそうだが、もしかすると新聞記者という職業は、政治やら、企業批判やら、サツ番やら、スクープ合戦やら、何やらかんやらしなくてはいけないので、どこか性格がゆがむ傾向でもあるのだろうか。もし「職業病」なら、何だか可哀想なのだが。もちろん新聞記者にも普通にいい人がいっぱいいるのだけど、どういうわけか、そういうタイプに何度か会ったことがあるので、ちょっと不思議な気がしている。

06/02/2005

続101わんちゃんは、SF小説

6月1日(水)
午後から事務所。あちこち電話やメールなど雑用。書類がたまる…。
大阪シナリオ学校に電話して、「関西演芸作家協会編・漫才台本集」の件を確認。やり残した仕事だけにずっと気になっていたのだが、まだ完成していないらしい。もう1年たってしまったのだが、どうしたものだろう。

花粉症なのか、頭痛がするので、なかなか仕事に集中できない。帰宅途中、自転車で町を走っていると、吉本の谷さんが目の前に立っていた。タクシーを探しているのか、ちょうどたまたま目の前にいて、ひょいと目があってしまったので、つい声をかけてしまった。大阪シナリオ学校時代に演芸台本科の講師として、何度か来てもらっていた。でも、滅多に会わなかったのに、こちらの顔だけは覚えてくれていたようである。けっこう頭が切れるので有名だそうだ。なぜか、つい「山崎さんとまた一緒に飲みに行きたいです」などと挨拶のように言ってしまう。条件反射かなあ。業界人たちがよく言う「そのうち飲みに行きましょう」というのは、ほとんど本当に実行される約束ではない。挨拶のようなものである。私は、このセリフは嫌いで、本気で飲みに行きたい時は別だが、あまり日頃使わない。なのだが、なぜかつい口に出る。ちょっと本気か、条件反射か。まあ、最近、小説講座のある日以外は、飲みに誘ってくれる人もおらんしな。

夜、専門学校の講義のために『101わんちゃん』と『101』のビデオをチェック。毎年、教材として、詳しく研究しているが、よくできたディズニー映画である。ちなみに、アニメの方は、私が幼い頃に生まれて初めて映画館で見た映画。1960年代である。(劇場公開時のタイトルは『101匹わんちゃん大行進』)
この2本を比較して、リメイクぶりを細かく調べるのが面白い。ストーリーは同じなのだが、アニメと実写。作られた年代が違うので、細かい人物設定とか、うまく変えてあって、30年を経た時代性とか感じる。登場人物の職業も、作曲家からゲームデザイナーになっていたり。面白いのは、女性の職業で、30年前のアニメでは、女性には二人とも職業がないのだが、90年代の実写では、ヒロインはファッションデザイナー、悪役のクルエラは女社長。この悪役の描き方は、なかなかすごい。最初の登場のシーンもイカしている。もちろん俳優の演技力もあるが、シナリオも演出も細かく見るとすごく色々と工夫されていて面白い。リメイク映画は、時代性とか、人物描写とか、細かく比較するのが好きで、いつも続けて見てしまう。教材としては、『ロミオとジュリエット』も作品比較したりするんだけど、シェークスピアよりもこっちの方が、アイデアも分かりやすいし、キャラクターとか、ストーリー展開もシンプルでよくできており、初心者向けの教材としては説明しやすい。もとの着想は「もし犬が誘拐されるとしたら」だろうな、たぶん。

ところで、この映画には原作「ダルメシアン」があって、児童文学として日本語版も出版されている。(まあ、劇団四季みたいに、ディズニーのオリジナルはなぜかヒットしないというウワサもあるらしいけど…ホント?)ドディ・スミスという百年前に生まれたイギリス女性で、私も教材研究をするまで原作を読んでなくて、リメイク研究のために読んだのだが、こっちは作曲家でもなくて、また違う職業である。ストーリーがほとんど同じなのだが、ナニーが二人いたり、アニメと比較するとまた面白い。あと「なぜ101匹なのか」という子供の頃からの「謎」は、原作を読んでから納得がいった。アニメでも、実写でも、「子犬99匹、成犬2匹」が登場するのだが、原作では、誘拐〜脱走にかかわっているのはちょうど100匹。でも、原作には、事件後の後日談がついていて、そこで1匹だけ後から登場するのである。それから、犬の夫婦に15匹もの子犬が生まれるシーンがあるのだが、子供の頃から「犬って15匹も子犬を産めるのか」という疑問があった。専攻科の生徒で、獣医さんをしているMさんに尋ねたら、「産めることは産めるだろうが、犬の母乳では足りないから、人間が育てないと無理だろう」と言っていた。この点、実は、原作には「乳母」になる犬も登場する。原作には、成犬は4匹登場する。おそらくアニメのシナリオにする時に、もう一人のナニーとともに、ストーリー上で整理されてしまい、いなくなったのだろう。

しかし、一番面白かったのは続編! 『続・ダルメシアン』!
どうもあまり読んだ人がいないらしく、私もこの講義をしなければ読まなかったかもしれないが、この原作には「続編」があるのだ。これが、なんとSF。古きよき時代のSF。どういうストーリーかというと、101匹の犬たちが仲良く暮らしていると、ある日、宇宙のかなたから、宇宙人ならぬ「宇宙犬」がやってきて、犬たちを人間から「解放」してくれようとするのだ。そして、人間たちをスリープさせて、犬たちにテレパシーや空間移動の能力を与える。そして、他の星に移住するか、しないか。さらに政府関係に飼われていた子犬がいて、犬の会議が行われたりして、全編ほとんど人間は登場せず(人間はみんな眠らされているのだ)、最初から最後まで、ずっと犬だけ。地球の犬たちと宇宙犬との話である。

うーん、宇宙犬に、エスパー犬!

……まさかあの「101わんちゃん」たちの原作の続編が、こんな風変わりな「SF小説」だったとは知らなかった(知ってた?)。だって、どんなSF小説の紹介でも、絶対に出てこない題名だもん。小説の専攻科にも、SFが好きな生徒もいっぱいいるけど、誰も教えてくれへんかったし。ああ、残念。SF大好き少女の頃にこれを読んでみたかった。もしあの頃、これを読んでいたら、どんな感想を持ったんだろう。なんか変な話なのである。

しかし、SF、流行ってたんだろうなあ……。ほんと、タイムマシンでもあれば、子供の頃の私にちょっと会いに行って、この本を読ませてあげられるんだけどねえ。

06/01/2005

Macと古女房。ずっとトキメキを忘れない

5月31日(火)
夕方まで事務所。火曜だけど、Kさんはお休み。夕方から、エル大阪に6月分の教室代を支払いに行く。9階の教室が6月から使えなくなるので、予約変更など。ここの9階は、もともと結婚式場だったせいで、廊下の奥にある905教室とか、けっこうヘンな教室だったが、二度と使えなくなると思うとちょっと寂しい気も。よく教師だった友人が「手のかかった生徒ほど懐かしい」といっていたが、そんな感じでしょうかな。

ここ数日、自宅のパソコン(MacG4)の調子が悪く、インターネットとメールが受信しにくい。私は事務所のパソコンを使えばいいので、さほど不自由してないが、夫は機嫌が悪い。ダンスの練習の予定やら、スケジュールやら、すっかりメールとネットに依存した生活をしているので、不便きわまりないらしい。まさに「ライフライン」である。やっと復旧して、機嫌がなおった。

私は、ずっとMacユーザーである。このブログを読んでいる人なら当然パソコンは使えるだろうが、Macは少数派なので、Macの話なんかされてもしょうがないだろうけど、私の自宅にはMacが3台ある(iBook、G4、LC630、すべて現役)。だから、事務所にもMacである。私も、一時ワープロはMS-DOS機で「新松」を使っていたこともあるが(いつの時代やねん、十数年前)、ここ十数年は出版とか広告業界はMacユーザーが多いので、ずっとMacである。(ただMacは、OSがOS9からOSXになって、まだ混在して使っているので面倒なんだが)。実家の母もパソコンを使っているので、たまにウインドウズを使う機会もあるのだが、最近は、メールやUSBメモリを使えばデータのやりとりも簡単にできるし、ワード、エクセルなどのソフトはファイルの互換性もきわめて高く、ソフトの操作もほとんど同じである。

私はコピーライターなのだが、もともと少しイラストも描くし、コンピュータ業界の取引先が多かったので、システム図とか線画とか、デザインの仕事もたまにしていた。広告や印刷の仕事は、多忙な時期があるせいか、印刷会社の営業マンでも、日頃はやらなくても、忙しい時期はコピーも書く、カンタンな版下くらい作れるという人がけっこういる。で、私はデザインではMacを使用する。最初、使ったのは、確かMacのci、cxという機種。最初の頃は、使える文字の種類(フォント)も少なく、ベテランのデザイナーさんたちは、あまり使いたがらなかったので、会社にあったMacは、若いデザイナーや私みたいなデザイナーじゃない人が使うことが多かったのである。普通、グラフィックデザインをしようとすると、まず細くまっすぐな線が書けないといけないのだが、DTPならそういう職人技ができなくてもデザインができたからである。ノリでべたべたになりながら、写植文字を貼らなくても済む。ただ、当時はMacでDTPをする人は少なかったから、けっこう手探りで勉強するしかない。一番苦労したのはQuarkXpress。周囲はまったく誰も使えないので、全部マニュアルを見てやらなくてはいけないのだが、なぜか最初のマニュアルというのが全然アテにならなかったのである(どうもバグも多かったようだ)。だいたい私はライターなので、デザインなら楽しいけど、いちいち細かい設定を全部入力して、もとの版下フォーマットに合わせていくだけの作業は面倒くさいのである。他人のデザインを入力するだけというのは忍耐がいる。(私は「DTPオペレータ」はゼッタイ無理)。ちなみに、今でも自宅の子供用になっているLC630には、メモリ容量の関係でフォトショップが今もバージョン1.5。(それなりにけっこう使える)

印刷では、「活字」(グーテンベルグ)が最も大きな発明だが、それから「写植」になり、それからDTPになっていった。そのたびに業界は大きく変わる。儲かる会社、つぶれる会社、辞めていく老職人…。技術の進歩は、業界そのものを変えてしまう。まあ、音楽がレコードからCDに変わり、今、ビデオテープがDVDに変わろうとしているようなものだが、腕のいい職人がいなくなるのは寂しいのである。

世の中にあふれている印刷物だが、版下、製版、印刷もほとんど人の手がかかったものである。新聞やチラシ、雑誌、出版物もそうだが、キッチンをのぞいても、あらゆる商品にラベルが貼っている。それも皆、誰かがデザインして、誰かが印刷したはずである。(まあ、商品自体も誰かが作ったわけだけど)でも、最近は名刺くらいなら、パソコンが使えればさっと自分で作れてしまう。ただ似たようなものなら何でもパソコンで作れるのだが、パソコンが使えるからと言って、いいデザインができるとは限らない。あたりまえだが、ワープロが使えるからと言って、いい文章がサクサク書けるとは限らない。デザインソフトが使えても、デザインができないデザイナーというのもたくさんいる。(業界ではあまりデザインができないと、DTPオペレーターと呼ぶことが多いが)
プロが見れば、一目瞭然で技術の差はある。広告デザインの場合、一番差がつくのは「文字」である。文字の配置とかバランス感覚。出版物によっては、あらかじめ版型が決まっているものもあるが、広告は全部たいてい自由なので、デザイナーの技術の差がかなり出る。とくに、文字のバランスは一目で違いがわかる。デザインソフトの基本的な文字間隔は機械的なので、広告ではベタ打ちそのままでは使えない。センスのよしあしとか、技術の差は、一見一番目立たない「文字」に出るのである。

チラシや小さな仕事ではあまり手もかけられないので、デザインの差にはあまり気がつかないかもしれないが、印刷物で一番高いのが新聞広告、とくに全国紙のキャンペーン広告などはデザイン料も高いので、ちょっと注意して見てみるとよくわかる。コピーには、キャッチコピー、リードコピー、ボディコピーがあるのだが、とくにボディコピーの部分(文章が細かく集まって見える部分)の文字を注意して見るとわかる。上手なデザイナーなら、文字間隔や文字の大きさ、文字種などがうまくまとめられて、実にキレイで読みやすくなっている。生徒さんの作品も、今は自分でワープロ印刷してくるが、たまに印刷が読みにくい人がいる。内容が同じでも、印刷が悪くて読みにくい。これはソンである。

そういえば、以前、一緒に仕事をしていた高齢の「写植職人」は、まるで「匂いたつ」というような、きれいな文字を打つ人だった。本当に、微妙な調節をするのだが、ただ文章を文字として打つのではなく、不思議に「浮き立たせるみたいに」表現するのである。かなり高齢だったので、Macになじめず、仕事を辞めてしまったが、本当にキレイに並んだ文章を見ると、なんか内容までうまく書けたみたいで嬉しかった思い出がある。

ところで、私がMacと出会ったのは、1987年。まだ日本語が使えず、一台百数十万という時代だった。Macがあったのは、当時にバイトをしていた外資系企業の研究所。商品開発のテストをしていたのだが、データ入力に使った。外資系なので、日本語は使えなくてもいいのである。使ったソフトは、表計算のエクセル。もちろん「マウス」とか「ウインドウ」がすごく珍しくて、本当にびっくりした。

若い人は知らないだろうが、今あたりまえになっている「マウス」は当時、パソコンにはまったく使われていなかったのである。当時は、PC98、PC88とか、MS-DOS機で、いちいち文字を打って作業をするコマンド打ちが普通だったから、Macで「マウス」とか「GUI」(ウインドウとか、プルダウンメニューとか、アイコンなど、画像を使った操作システム)と出会ったのはすごい新鮮なことだった。Macの前のアップルIIのことも知っていたのだが、それでも実際に使った時には、トキメキのようなものを感じた。機械にトキメクなんて、ヘンだと思うかもしれないが、高級車に乗っただけでトキメク人はいる。自動車だって、機械である。パソコン、とくにMacは当時、確か二百万近くもしていた珍しいパソコンだったので、充分に高級車並みである。ときめくのは当然なのである。

「インターネット」には、こうしてトキメク機会がなくて、何もびっくりしなかったのだが、この「マウス」と「GUI」との出会いではすごくトキメイたのだった。まあ、パソコン通信もニフティとかなくて、音響カプラとか、草の根ネットというものしかなかった時からしていたので、直接、電話接続をせずに済むという便利さしか感じず、そのままインターネットへずるずると移行してしまったので、とくにビックリする機会がなかったのだ。思えば、二十数年前、大学では、端末使って、フォートランちまちまブログラミング…だったのに(古い話ですみませんねえ)「小学生」の弟が安い「MSX」とか(MSX、ああ、そういうのがありましたな、遠い目…)買ってきた時には、ちょっとワクワクした。(だって小学生がパソコンを買えるなんて!)
でも、やっぱりマウスである。GUIである。すごくワクワクして、驚いたのである。

私が、最初Macに会った時にトキメイタのは、たぶんそこに、新しい「未来」を見たからである。「これから、きっとこういうパソコンが使える時代が来るに違いない!」(実際、その通りになったが)

今は、マウスもあたりまえになったから、当時の私が「一体、何をトキメイタのか」きっと、ほとんどの人にはちょっとわからないだろう。確かに、私自身も、今はこうして毎日Macを使っていても、「かつてはドキドキした頃もあったが、今ではただのくされ縁。すっかり古女房」みたいな気分なのだが、ま、新しい技術、新しい作品、新しい未来…。
技術だろうが、小説だろうが、人物だろうが、何か新しいものに出会ってトキメキたい…ってことは、いつも変わらず思い続けている。(あ、だから生徒さんの作品も待ってますよん)

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